元旦

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ツルツルの路面で凍り付いています。歩きにくいことこの上ないです。ようやく昨日撮った写真です。むりやりアップします。

さてさて、2026年元旦のご挨拶です。今年は「龍樹年」とすることに、わたしの中で勝手に決めました。本を出しますぞ。。とここで宣言してしまおう。

いよいよ『中論頌』の解説本をなんとかします。ここに書いておけば、なんとかせざるを得なくなって自分でなんとかするんじゃないかと、淡い期待をだいているのです。

『中論頌』は、ほんとに難しいです。だいぶわかったんだけど、すぐにわからなくなります。

『方便心論』と深く関わっているのはわかるんだけど、どういう風に説明して善いのかわからない、のです。『大智度論』を読んで参考にしてるけど、この書は龍樹作ではないことになってるし。。なぁ。

多少、わたしの解釈と違うところはあるかもしれないけど、『中論頌』が龍樹作なら、『大智度論』は龍樹作だし『廻諍論』も龍樹作だし、『方便心論』も龍樹作です。全部、龍樹が書いたものとして見ていくと話が通じてくるのです。

わかってる人もこの世にはいるんだよね。日本にも、外国にも、龍樹が書いたことを疑わない人が必ずいるのです。今年1年の抱負です。『中論頌』の独自解説です。

中道でがんばります。「中道で」っていうのは、自分もこの道を行きながら、ってことです。

戯論寂滅に向かうように精進、消尽、あれ、ま、消尽なら小人だね。小人にならぬよう精進しなくちゃな。.やっと、元の精進に戻ってきた。今年もよろしく、お願いします。

コメント

  1. ぎんた より:

    先生ーー!!本の執筆頑張ってください~~~~~!!

    新年は、大倉集古館に行きました。空いていました。
    地下のミュージアムショップで「仏下(ぶつした)」という靴下を買いました。
    足裏部分に不動明王がいて、正座したときだけ見えるなんておしゃれ~~と
    思ったからです。でも、、、、実は違ったんです、、、、
    隣に置いてあった邪鬼ソックスは足裏に邪鬼の模様で、最初邪鬼が可愛くて
    そっちを買おうとしたのに、家族に「不動明王にしろよ!!」と強く言われて
    「そ、そんなに??(強く言う???)」と気圧されて不動明王にしたら、
    そっちはなんと足裏でなくて、ちゃんと見えるとこに(かかとの上部分)模様が
    あって、今ショックを受けている最中です。
    今これを書きながら、HPに行ってみてそれを知り、買ってきたのを開けてみて
    あああ、、となっています。

    よく確認しろ!!自分!!!
    家族の言うことを信じるな!!!!!!!自分ーーーーーー!!ねこなんだから!!

    と、強く思いました。

    あ、地下の怖畏金剛像も、足が蛸よりいっぱいで面白かったです。カバっぽい
    お顔も愛嬌ある。(牛みたいですが)

    今年もよろしくお願いします。

    • ぎんたさま 明けましておめでとう。

      仏下!?

      にゃんとお、不動明王ってのが良いですね。邪鬼の靴下もあるのかあ。。
      邪鬼を踏み敷いて、邪鬼を払うっていう意味だろうねえ。。

      不動明王を踏み敷いちゃったらまずいので、足の見えるところにあるんだろうねえ。

      今年1年は、ぎんたさまは良いこと一杯ありそうね。
      わたしも、あやかりたい。。

      • ぎんた より:

        先生、、、、それが!

        靴下、昨日の晩に、
        「これさ、なんと、足裏じゃなくって、ふくらはぎのとこで全然見える位置
        だったんだよ!!間違えちゃったの。邪鬼だけが足裏だったのに。不動明王も
        一緒だと思って。お勧めされたから、不動明王にして、色どうしよう?って、
        色だけに注目してたら見過ごしたの」

        「はぁ??俺のせいにしてんじゃねーーーーよ!!!!お前がどれがいいとか
        言うから、言っただけだろーが!!疲れて座ってたのにわざわざ呼ばれて行って
        答えてんだよ、巫山戯んなよ!!!」

        ってなりました。まあ、通常運転に過ぎませんが。

        「ごごめんなさい」と言いました。

      • ぎんた より:

        ぎんたにとって良いことって、真如苑が潰れることですけど。。。

        2018年からの活動として、「石の上にも三年を三回」(←こんなこと言ってた、
        あの団体で)だとすると、一年早い。でも、立教90年で開祖120歳の本年との
        ことなんで(メルマガで送ってきた)是非ともなんとかなれば!!!!!!!

        法藏館からなんか本でるらしいですが、、、金でも貰ってんのか?あ?
        もう潰れるんで!あ、だから出すのか??

        と、ぎんた通常運転~~

  2. tanza より:

    >いよいよ『中論頌』の解説本をなんとかします。

    世の中には注釈・解説が様々あるが、上記意欲を応援しています。

    関連記事:【全文公開】謎解き『中論』(2012年)
    https://note.com/konchogyeshe/n/nfd5695d402a0

    • tanzaさま 必死になんとかしてるところです!

      吉村均先生のブログですね。なんとか、しようとしてる人が、ここにも一人。。。

      何とかなると思ってます!なんとかするぞ!

  3. 春間 則廣 より:

      
    > 『中論頌』は、ほんとに難しいです。

       簡単なこと なら 簡単に わかるのかな ?

    > だいぶわかったんだけど、すぐにわからなくなります。

       だいぶわかろうと  分かっていないところがあるから
       分からないのです
       分かっていること なら 分かる必要もない

      分からないこと  とは  分からないと決まっていること
      分かること は 分かると決まっている

     どっちに 決めていますか ? ( どこを歩んでいますか ? )

      分かる道 に あれば   分かるのです
      分かる道 に なければ  そこには 分かることはない

       分かっていることの上に(下に・中に) 分かることは 存在する

         それがないとき 何がないかを 知ることはできない

          *******

       大中小 は 思い込みの 量りに乗って 目盛りを読み取ること
        ちっちゃな  分からないこと が 全部にかぶさっている と
        分かるとき  小っちゃくはない  大事に触れるるとき

      量りには 自分が乗って   分からないこと を 握っている
       分からないこと とは   いくら大きくとも  重さは同じ

      重さがないもの を “量って” 分かるかな(重さを決められるかな)

      ちっちゃなこと を 見逃している  と  知ることはできるかな ?

       それを知るとき  それは  大きくなる
             ( 大きなもの は 見逃しがたい ) 
       ゆえに  そこに 認知不能 ということは 起きない

    • 春間 則廣 より:

      >   分かる道 に あれば   分かるのです
      >   分かる道 に なければ  そこには 分かることはない

         これって 「 中論頌 」 に 述べられていること ですよ

             「 不去 不来 」 と 同じ 内容 です

      • 春間さま おめでとう。。というほどでもないかな。

        >   分かる道 に あれば   分かるのです

        賛成です。いつも正しいコメントをありがとうございます。

        >   分かる道 に なければ  そこには 分かることはない

        そうだよね。わかる道にいるかどうかだけが問題になるところ。。

        わかる道にいるかどうか、だけが、神の道であるかにつながるところなのかな。
        今年もよろしく。

        •  春間 則廣  より:

               ***********

          > わかる道にいるかどうか、

              わるかな ?
                道は いつでも 誰にでも 「 足 下 」 にある
            「足下」 を よむと   アシタ と  ヨメル(ヨミウル・黄泉とする)
             「 あさっておいで 」 と “アス” のこと を言う

             そこら中 アサリマワッテ(アッサッテマワッテ) ケフ に 辿り就く

              ケフ とは   非のキ(ケ) の  フ(キョフライ)
            ( ヒ とは    フィ であり  佛 であり フト である  ) 
                      図らず トモ  不図 である 故を知る

             足下 とは 誰の道にもあり   どこにでもある   けれど
                    歩かぬところ には  ないかな ?
           ( どこにでもある と 龍樹は 易しき 教え  を 解く・説きほぐす )
                         「 不去 不来 」 である

             そういうところ を  『 法華経 』 では
           「乃至童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道」
              と 「 方便 」 する ( 放言 する  便ずる言 )
               けれども 童子 は 集(衆)めた 砂 を ギ(偽) とし
                      “ 義 としているわけではない ”
               「 悪 」 までも 「 たわむれ 」 であり 戯 聚(就・集) です
                  聚沙 とは  多くの砂の集まり という意味であり
              「 そんなこと すな ! 」  という意味である

             なぜ 義 ではなく “放便” だとするかは  「 方便 」 である
             ( 便 が立ち 便を モヨオス と  カワヤ へと 向かう ) 
                臭い  は 無し    は    聞く耳のない 放し言

          > だけが、神の道であるかにつながるところなのかな。

              そういうわけでもない     そこにわけがある
              つながらないわけ とは   つながないわけ です

             つないでいる  のに つながらない のは
               つなげない なにもの か  が  おわす  から
              「 何事のおわしますをばしらねども 」
                   「 おわす 」  の  (怖)す  を 知る 「 か・K ナ ? 」

               ( 格好 の いみは 後に述べる )

              いくら カッコ( 「 」 ) を  着ても
                       裸の負う は  無  である   「 か・K ナ ? 」

            
            ヨマズ とも カンジタ こと  が 楯を突き通す ム・矛 である
               
               ブツブツ 文句 を    イフ

          「 ばいこく ど  たて をもちいいて ほこ さきをにげ

              あとさき   しらず    ぶつこく  ど 
                 
             むだを  カサネて “石”仏  を ・ お カム  」
            

  4. 赤い実 より:

    先生、こんにちは。

    新しい年になった途端にというか、これまでからの続きなのだけど、世界がまたまた複雑になってきていて、知るとどうしてもざわつきたくなります。

    ここを、知ってもそれに執着しない、必要以上にざわつかないようにしないとなと思ったりします。

    先生の中論を読みたいと思い、その前に中論の順番通りの解説書を読んでみようかと少しずつ読んでました。
    難しいし、繰り返し同じことを言ってるようにも感じるしで難儀してます。
    取り付くところがなくつかめないものを語ってるようにも感じます。

    先生の本を楽しみにしてます。

    • 赤い実さま わたしも努力中です。ほんとに『中論』難しいですね。

      『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』
      わたしもだいぶ前に読みました。忘れちゃってますが、ヴィトゲンシュタインは、ヴァイシェーシカだなあと思った記憶があります。『論理哲学論考』の思想を見て、そう思いました。

      『哲学探究』の方は、龍樹に近いのかもしれない、とも思いますが、わたしもわかってないかも、です。

      • 赤い実 より:

        先生、こんにちは。

        『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』黒崎宏 著 先生も読まれてたのですね。
        私にはほんと難しくて、邪道ですがAIに教えてもらいながら読んでいます。

        その、はじめに、の部分から引用します。
        ……
        ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち、言語を離れたもの─言語以前に実体としてあるもの─なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在であり、意味的存在なのである。
        この世界像が「五蘊皆空」(一切は空である─実体は存在しない─)を唱える般若の─そして『中論』の世界像と直結しうることは、容易に見て取れるであろう。
        ……

        先生の本を拝読する前に予備知識として読んでいます。

        世界は繋がり合いながら留まらず変化しているのだから、言語以前に実体としてあるものは本来ないのだ、ということなのだと考えています。
        共有のために言語化され、実体かのようになってるのですね。

        説一切有部への反論として書かれたとされる『中論』を、そうした学術的なこととしてではなく(それはわからなすぎだからももちろんあります)、おもしろそうとか生き方への反映があるならいいなという観点から読みたいと思っています。

  5. 赤い実 より:

    その本は。
    ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』黒崎宏 著です。
    読まれた方も多いのかもです。

  6. tanza より:

    今やAI導入が、多分野で進んでいるが宗教ではどうか。
    キリスト教では、AIアプリ「Jesus Christ」が人気で、仏教では下記動画が一例を紹介している。

    動画:日本製の「AIブッダ」、ブータン僧侶が活用 国民80万人に広がるか
    https://www.youtube.com/watch?v=2Cpjjzi5_fU

  7. tanza より:

    図書館の新刊にあった『インド不二一元論哲学・原点へのいざない』(宮元啓一・著)を読み始めた。最初から、龍樹が出てきて理解するのに時間が掛かりそうそうだ。

    龍樹の論法(関数としての相関関係)、同時因果論信奉者への指摘・・

    • mani(管理人) より:

      tanzaさま こんばんは。

      >龍樹の論法(関数としての相関関係)、同時因果論信奉者への指摘・・

      一つの見解ですね。
      龍樹が何を述べているのかは理解されていない、とわたしは思います。
      それは、ブッダが何を述べているのかも理解されていないということなんだけど、
      そういう意見の人は少ないです。

      •  春間 則廣  より:

           
        > 龍樹が何を述べているのかは理解されていない、とわたしは思います。

          思う人  は
          思うこと を “ 理解している ”
                   ということは
          理解の前の “ 信仰 ” に  過ぎない
                 イワシ  て  もらうと
             イワシの  頭 は  思い込み で 膨らんでいる
          膨らみ を いくら膨らましても  「中」 は 空虚

         そうであっても 膨らませる という 「行」 は 
               どこへでも 移す(行く) ことができる
           そういうことを「マッリカー経」(SN3-8)で 説いてている
         「 心でどこを探してみても、自分より愛しい者を見いだせない 」
             どこででも 探せる = どこへでも行ける 前提

         あなたが わたし の ところに 来れば 
              あなた は わたし と なる
            ( わたし は わたし で  あふれている )
            ( あなたが押し出す のは  わたし である )
         ( 押し出されたわたし が あなたへと行くと あなたとなる )
           押し出されたわたし は  自分を 一番 大切にしている
         (わたしのなかのあなた は  自分が 一番 大切である)

         わたしは どこへでも行けるが 行くと   そこには
              わたし  しか   存在できない

         自分をおろそかにすると 行を起こす ところが 疎かになる
         ( 一つの塊 を 一つ以上存在できる処 に 入れると
                    そこは スカスカ  である   ) 
          そのようなさま を さして 「空虚」 と 呼ぶ
         「空」 という 思いへ 行こうと 空は空虚をさまよっている
         ( すべての “行” は   自己という 認識 が とらえる )
           行を起こすところ は  わたしの中以外には 存在しない
           そこにおいて     わたし は 空虚 を 認識するが
           空虚中 において   「空」 以外は 空虚である

            「 空」 を   領知するとき 他に虚があろうと
           領知するところ は 「空」の 領地である

          問題 は あなたが どこの領地にいるか で 決まる

         “ >それは、ブッダが何を述べているのか ”
            という 領地 に 起きること

          諸仏  とは   仏と仏 が 存在する ということ
            そして  「 唯仏与仏 乃能究尽 」  なのである

           「空」 は あらゆる自己 の 空中に漂っている

            それを掴むことを 世間においては 空を掴む という
          つかんでも 中身 が 「空」 である ところが 味噌

           味噌 と 糞 とを かき混ざす と もう分離でできなくなる

           その未分離(の頭) で 「空」 を掴むが
             働かせるところ は  糞にまみれる

           糞 は 決して 悪者ではない けれど
            臭いを嗅ぐと  “臭い” のである

           その糞 とは もともとは(本当は) 自分以外ではない

           「 糞 」 を あなたの認識へ そっと 落とす

             ( 一つの見解 が 落っこちる )

      • tanza より:

        >一つの見解ですね。

        これは、著者・宮元啓一氏の見解だが、縁起的内容だと思いました。

        •  春間 則廣  より:

             
          > 縁起的内容だと思いました

             思うこと とは 自由(気まま)に 起きるものです

             「 縁起 」 とは 「 真理 」 であり 「法」 です

            真理的 な 内容  など “ない”
             真理 か 否か  という 分類 しかありませんが
             そもそも あなたに  「真理」  はない
           ( あっても 知ろうとはしない  ゆえに ない )

          ただし、 一見正しそうに見える  ということを
                真理低内容 と 表現しているのであれば
            それは( どれが ?? ) 正しいともいえる

               正しそうに見える 誤りでしかない

                法のようだ 真理みたいだ  というとき

               ○○的 という “くくり が 起きます” が
               それは 単なる  情緒的解釈にすぎません

            これこれ このような 「理」 で 真理である
            ( そうか そうではないか の 二つに一つ )

           思う ということ は 自由(気まま)に 起きます

           ただし きまま とは 「不自由」 を 生みます

              仏教 は 決して  気ままに起きない

  8. mani(管理人) より:

    春間さま 明けましたね。

    もう18日だ、今年ももう終わった感がしますね。

    イワシてもらえば、イワシはイワシ。

    一つの見解が落っこちてくるところに、戯論寂滅はないと思います。

  9.  春間 則廣  より:

    〉戯論寂滅はないと思います

    ないところにはない というのが 世間の約束事

    ないとするところ に ある と知るのが智慧です

    戯論 が 寂滅

    その寂滅 は あるのかな ?

    • ぎんた より:

      春間さん、「長期主義」って知ってますか?ぎんた、こないだ朝日新聞の夕刊読んで
      初めて知ったんですが、、、、、

      未来の人に「なんであの時止めとかなかったんだ!!」と言われないようにする、
      みたいなヤツなんですけど、未来の人って、中身は現代の人だから、そんな問題ない
      気がするんですが、「地球温暖化」がちょっと分が悪くなってきたから、
      新しい表現で仕切り直ししているのですか?

    • mani より:

      春間さま

      > 戯論 が 寂滅
      >その寂滅 は あるのかな ?

      あるとかないとかではなく、生じたものが滅するのが、寂滅なのね。

      •  春間 則廣  より:

          
        > 生じたものが滅するのが、寂滅なのね

          生じたもの    滅する(もの) とは

         
              アル ノ カナ 

          分かるかな ?

              アル  ということ

          あるもの を あるという

          あるもの  とは   どんなもの  ?
         (生じたもの)   (いかに生じるか)

         
          ( ある があれば 滅 がある )

           ないもの  は ない  という  約束事

             約束 が あるのかな  ?

              ワカルカナ      ? 
          

          分かるかな ?

              アル  ということ

          あるもの を あるという

          あるもの  とは  どんなもの ?

         
          ( ある があれば 滅 がある )

              ワカルカナ   ?

        • Pocket より:

          春間さま

          >  ( ある があれば 滅 がある )
          >
          >   ないもの  は ない  という  約束事
          >
          >     約束 が あるのかな  ?

          おやつのプリンの滅はありますが、”「おやつのプリンの滅」の滅”は存在しません。
          「おやつのプリンの滅」が滅してプリンが戻るというなら撥無因果です。
          「おやつのプリンの滅」という想いすら滅するのだという人はあるがままに見る人ではありません。

          >  あるもの を あるという
          >
          >  あるもの  とは  どんなもの ?

          あるものをあるというのは、あるがままに見るものです。
          「この心に慢がある」と。

          • ぎんた より:

            プリン!!なんてわかりやすい!!さっそく手帳に書きます!!!!!

            >「この心に慢がある」

            ぎんた今、怠慢しかないが、きっとこれも一個前の地球から決まっていた♪

          •  春間 則廣  より:

              
            > あるものをあるというのは、あるがままに見るものです。
            「この心に慢がある」と。

              この心 とは   どの心 ですか

              誰の どこに   「慢」 は ありますか ?
                       「慢」 は ないですか ?

               あるがままに  「慢」 を 「慢」 で
              見てはいませんか  ?     ?

             見る ということは  自らの中に “ 実存している ”
                          ↓
            “ アルモノ ”に   あてはめて 知る  ということです

             その“ アルモノ ” には 「 実存 」 が ないのです
            ( 見る主体  も  見られる客体も
                 “自己が認識” する処 に 起きます ) 
             “実在する処“ は   実在しますか ?
               主客  とは   「 テンドウ 」 の上に 起き
                客体視 する “ 主観・客観 上 ” に 起きています

             「人」(仏陀以外)  には ( これを読む自他には )

              「私」 という ところ は  存在しません
            ( 「 自他不二 」と知るところに 「私」は 虚・居を構える )

             私にあろうと   あなたになければ 
             あなた は  いかなる道において それを拾いますか ?

              私が知ろうと   あなたが知らなければ 
            (私が知る私の客体)あなたが知らないことは
                      存在しますか? 
             わたしのどこに  あなたが知らないことが
              ありますか?

             知っている事 を 知らないものに
             伝える事は不能 
             知っている事 を   既知の者に既知として
             知らせるのみです

              ないものを ないとしるには
              あるもの を 知らなければなりません

              知っているあなた に あなたがわかるように伝える
             そうすれば あなたは 伝える事を 正しいと判断する

             知っているあなたは 知っている範囲で 正しさを知る  

             どの心 に どのように  「慢」   は
                        “ 実存 ” していますか ?
              
              
              

          • ぎんた より:

            手帳に書いた。今年初。

            で、春間さんの言ってることが、まったくわからないのだが、
            なぜ、「人」(仏陀以外)っていう表現になんの?
            仏陀も人でしょうに。。。

          •  春間 則廣  より:

               
            > 「人」(仏陀以外)っていう表現になんの?
            仏陀も人でしょうに。。。

             よく読みなさい
             
             あなたも 仏陀と同じ

                   頭 を   持っているのだから

          •  春間 則廣  より:

              
            > おやつのプリンの滅はありますが、”「おやつのプリンの滅」の滅”は存在しません。

             ”「おやつのプリンの滅」の滅” が 存在しなければ
              “ 存在しません ” ということが 存在できません(成立しません)

               存在しているモノ に 対して だけに   
                その存在 が   “存在していません”  と 言及可能

              ただし あなたがが使う 存在 が
                  あなたの勝手に 存在するなら
                  あなたの勝手 に 私の勝手 は 及ぶ術を持たない

              再度 繰り返します

            > あるものをあるというのは、あるがままに見るものです。
            > 「この心に慢がある」と。

                対応して 起きることです

             あなたの心 に 「悪」や「慢」 が なければ

                いくらそれ(等)を  供応 しようと
                あなたは  それを  受け取る術を持ちません

               「この心に慢がある」 とは どの心 ?

                立脚地 に 拠り所がなければ (縁起しなくては)
              
                  対応地 に それを起こすことは適いません

               「 みうしなう こころにすむは むにのしんじつ 」

                しんり とは 苦 と かいじゅうにおきる 

  10. tanza より:

    先日紹介した、『インド不二一元論哲学・原点へのいざない』(宮元啓一・著)を読み進めている。

    12頁〜 龍樹の論法はこうである。
    例えば、眼が花を捉えたとする。眼は「捉えるもの」であり、花は「捉えられるもの」である。両者は「捉えるもの」と「捉えられるもの」との関係にあるが、この関係は相互依存の関係である。「捉えるもの」無くして「捉えられるもの」は無く、「捉えられるもの」無くして「捉えるもの」は無い。ゆえに、両者は中身が空っぽのものである。ゆえにあらゆる事象は中身が空っぽである。以上。
     これほど乱暴な話はないのである。「捉えるもの」と「捉えられるもの」とは、関数の関係にある。「関数」は英語のfunctionの訳であるが、昔は「函数」と訳された。これは絶妙の訳で「捉えるもの」と「捉えられるもの」とは、それぞれ函なのであり、当たり前であるが、函は容れものであって、中身は空っぽである。その空っぽの函に、そのときごとに、いろいろな物が入るのである。
     龍樹は、函は中身が空っぽのものである。ゆえにそこに入る物すべてもひっくるめて、中身が空っぽなのだと、得意げに結論づけるのである。これが、龍樹がよく用いることば遊びの詭弁なのである。
    ・・・・・・

    • mani より:

      tanzaさま まあねぇ。。

      龍樹の『中論頌』より、第4章第8偈と第9偈は書いてあることの意味がわかっていないのです。

      論争の中で反駁(parihāra)のために、空性を持ちだして語る人には、「一切」は反駁されないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。(4.8)

      論証の中で非難(upālambha) のために、空性をもちだして語る人は、「一切」は非難できていないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。(4.9)

      クルト・ゲーデルの不完全性の定理と同様のことが書いてある、と思うんだけど、誰も気づいていないです。第一定理と第二定理がありますが、お釈迦さんも気づいたこの論理は未だ解明されていません。

      • Pocket より:

        mani先生
        >論争の中で反駁(parihāra)のために、空性を持ちだして語る人には、「一切」は反駁されないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。

        『無畏論』、『青目註』、『プラサンナパダー』の三つは「……kṛte [a]śūnyatayā vadet」とアヴァグラハを補って読んでいますね。「空性を持ちだして語るならば……ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけ」なら『中論』を書く意味もないように思います。

      • tanza より:

        >クルト・ゲーデルの不完全性の定理と同様のことが書いてある、と思う

        『中論頌』は不完全だと?

        • mani より:

          tanzaさま 時代は変わったなあ。。

          泣く子も黙る「不完全性定理」だったのにぃ。。

          知ってるんだよ、ブッダはね。だから、あらそわない、って言うのさ。

          >『中論頌』は不完全だと?

          そうだよ、だから、龍樹も争わないの。
          彼は菩薩の初地歓喜地の菩薩だよ。

          • mani より:

            独り言です。

            ブッダが気づいて800年。
            龍樹が感激してから800年。

            何で龍樹は知られてるんだろ?

        •  春間 則廣  より:

            
          独り コト を 運ぶ

            同行・同情・道場 には  不要
               そもそもここに 「 道場 」 は ある ?

             情に訴える が それはあくまで 「情」に 起きる

          > 独り言です。

            人 一人  だけしか  聞いてはいないかな ?
              言っている人 と 聞いている人 で 一人 ?

            聞いている人 は 必ず 二人( 「 同行二人 」 )
          (  同行しかし あなたは その内の 一人しか 知らない )

             聞いていない人  には 語ることはできない
             語ることができない人・聞いていない人
               は   存在がない
            そもそも 「存在」とは 語るところにしか起きない

             領知されない言葉は その“領” を 失っている 
            では  “その領” は どこにあるのだろうか ?

              あなたの“量” が 起こされるところに起きる

           コレガ リョウ シヨウト モナイコト だとは
              “ヒヲミルヨウニ“   はっきりしている
           ( 見ていること・非    とは
               どのように  はっきりしているのかな ? )

          ( イエス は 慈雨と日差し は 平等に起きるという )
              領知されない言葉 とは 慈雨 である

          > ブッダが気づいて800年。
          > 龍樹が感激してから800年。

            地球 は 一回りして “おおよそ” 同じ位置に戻る
             けれど 同じ と認める “料簡” の上に起きる

             仏陀 は「 平等 」を説き
              同じ・優れている・劣っている という 料簡 を
                いましめている

           Su.799 ( 中村元 訳 岩波文庫「 ブッダのことば 」180p. )
           『 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 』

          > 何で龍樹は知られてるんだろ?

           龍樹 は どのようにして
               “ 今ここに ”  生きているのだろうか ?
           あなたが 生きている  ということは いかなることか ?
                 知る  ということは  いかなることか ?
            生まれ変わらない「生」  とは  どのようなことか ?

             あなたが “知っていること”  とは どこに
               どのような 領知 に 起きているのだろうか ?

             それがわかるならば 仏陀 は「 二人 」いる
          「 同行 」 とは  かならず二人に起きる

             だれが どこにいようと
            あなたが どこにいるのか ?
            という 問題を 聞く・開く

            わたしが “聞く”  と ( 同所 同行 で )
             耳を  “閉ざす” あなた

             聞くわたし と    聞かないあなた
           ( 聞かないあなた には 聞くわたしが 存在できない )

          • mani より:

            春間さま

            >聞くわたし と    聞かないあなた

            ばれてますね。
            春間さまには「『いつも同じ』という(欠)点がある」と思っています。

            わたしにもある?

  11.  春間 則廣  より:

     
    > わたしにもある?

      聞くわたし   ですか ?

      聞かないわたし  かな ?

       ある かな ( ない かな )

      かな で じゅつする  き  かな

    >   「『いつも同じ』という(欠)点がある」 

      ある・ない  ということは
      あるでもなく ないでもない( あるようでない いんど )

        大事なこと は  (欠)  に あるけれど
        ないものはない  という  約束事に縛られる

      その “呪”縛 に 絡めとられて  執る 自己に住む

      こういうこと は   あなたの関心事 ではない
      と いうこと が   わたしの関心事 なのです 

      ただし  このように きじゅつ するとき 
         奇術 が  記述 に   期されること として 
      ( “わたし” に 明示される )

     管理人M様 宛て であろうと
     それは  わたしに宛てられている
       ( あらゆるわたし に 宛ててはいるけれど 、、、、 )

      “わたし” には 届かない 宛名のない きじゅつ

       はっきりしているのは
         このようなこと( 奇術 )は 
        “あなた” の 関心事ではない ということ

      「 世間 」 に 身を置く  ( 身をいづる 事なき )
      「 世間 」 の 約束事    ( ないよう で ある )
    ( あるようでない ヨウである  ようがないこと  )

     このような世界 に 身を置こうと
       見られる    身(五蘊) は  「 見 」 に 起きる

      見るとき は  見られるとき   であるにもかかわらず
       見るとき に  縛られる 、、、、 

    これが  “わたし” の (欠) であるならば
          “あなた” の (充) は 如何にあるのか

    誰の為  でもなく   “わたし” の為 に 
      記述 を 「奇」として 「期」するのである

        読んでも    分からぬこと を  読ませる愚

       そこに あなたは (欠) を 見出す 

      ( いつも同じ  な の は  誰かな ? )

      同じ処 を ドウドウ巡り( どうして 巡る ? )

     その理由 を 期せずして記している のではなく
       正しく 記す ( けれども )
           いつも  読むのは  わたし独り 
     
      ( 読み難い のではなく  読む気がない あなた )
     

       「 唯我独尊 」  を 知る

      あなただって それを知って それを行使している

     ( あるようでなく  しているようでしていない )

       なんの変哲もない ? 「 哲学 」 です

      “ nothing out of the ordinary ” なのである

    • Pocket より:

      春間さま

      >「 唯我独尊 」  を 知る

      「是我最後生身天上天下唯我獨尊」(『根本説一切有部毘奈耶雜事』)

      「これが私の最後の生まれである。天上天下に私のみこそが最も尊い。」と知っていますか?

      •  春間 則廣  より:

        > 「是我最後生身天上天下唯我獨尊」(『根本説一切有部毘奈耶雜事』)

          どこにどうあるか  ではなく

          あなたにどうあるか です

        > 「これが私の最後の生まれである。天上天下に私のみこそが最も尊い。」と知っていますか?

          意味を知っていますか ?

          知って 行いにしていますか ?
          
              

          

        • Pocket より:

          >意味を知っていますか ?
          >知って 行いにしていますか ?

          春間さまは「これが私の最後の生まれである。天上天下に私のみこそが最も尊い。」と知っていないのですね。

          それなら春間さまは悟っていないし、唯我独尊でもない凡夫です……

          •  春間 則廣  より:

                
              あなたが知る こと に対して
              知っている という 判断が起きる

               春間が知っているか ではなく
               あなた知っている ということが 問われるべきです

               一つの世界 に 知っている人 は 独りしか起きない

                 これは 仏世界 の 「 法 」 です 

              あなたが 知って 行いとなせば それでよし

                 それが 唯一 意味のあることです

            > それなら春間さまは悟っていないし、唯我独尊でもない凡夫です……

            「 凡夫が凡夫に呼びかける唯識 」  という 本があります

              凡夫 が どのように 凡夫を知るか
                 そこに起きている   凡夫 の “知恵” 
             ( どのようにして )
                 凡夫であるか  を 知らぬもの が 凡夫 です

             ( それを知ること を 「 智慧 」 と 呼びます )

            > 「これが私の最後の生まれである。天上天下に私のみこそが最も尊い。」

               わたし以外(以上)に尊いものは いません
                 誰にとっても  “わたし” が 一番大切なのです

               知ろうと 知るまいと それは 「法」 なのです

                「 マッリカー経 」 を 読みなさい

                 誰であろうと 最後の生 を 生きています

                 あなたも いつか それを知る

                   ということが 幼児の砂の戯れに例えて

                    「 方便品 」 に あります
              
                       これも  読んでみなさい
              
              

  12.  春間 則廣  より:

    聖人の薬を投ぐること機の深浅に随い
    賢者の説黙は時を待ち人を待つ
          吾れ未だ知らず
       蓋し言うべきを言わざるか
       言うまじければ言わざるか
       言うまじきを之れを言えらん
            失    智人断りたまえ而已

    • ぎんた より:

      Gemini3さんに言って、「マリッカー経」も「方便品」も400字程度に要約
      してもらったyo!

      でも、要約だと「だからどーした」みたいになって特になんの感慨も湧かない。。。

      新年、ちょっとやる気を出そうかと、真如苑の「親苑時報1月号」を見に行ったの。
      したら、まだまだものすごーーーーーーい、元気みたいでげんなりしてしまった。
      今年はブラジル精舎が落慶するんだと。

      うううう、、、、この「喜びになれない方や、独自の見方をする方もいらっしゃいます」
      これ、俺のこと??「そうした方々に自らが足を運び、いかに真如の温かさを伝えて
      いくことができるかが問われてくる、、、」って。
      あのさ、あなたが足を運んだ時には、他からの情報ですでに激ヤバ団体に認定
      されてんだよ。もう「危険ホルダー」に分類済なわけ。それを覆そうってのは、
      双親様でも無理なわけ。(←逆に、監督不行き届きだとお叱りを受けると思う。
      教団の代表が行ったとしたら)

      いかに「危険な団体」かをこちらがどんなに言っても通じないなら、それと同じに
      「真如苑の温かさ」なんか通じるわけないよね?どうしたって、お互い
      「あなたから見たらそうなんでしょうね~」で終わるよね?

      あと、Web集会のコメ欄、いつも15日にコメントしている「九州さん」が、
      15日じゃない日にコメントしてたけど、、、なぜだろう??実はぎんた、ずっと
      この方、継主の妹さんじゃないかと思っているのだが??
      継主本人も考えたが、それだと継主のことものすごい褒めてくるから、流石に自分を
      ここまで褒めれないだろうしな、と思ったり、いや、でも、「二人で一人」とか、
      表裏一体で「継主」とかなら、(もう一方の継主として、妹を褒めることも可能か?)
      とずっと思っていて。。。うーーーん、、、早く潰れてすっきりさせてくれ~~~~

      • ぎんた より:

        いくら言っても通じないのは、ぎんたも同じだと家族はよく言っている。
        だから京極夏彦を与えたと。、、、家族のが何枚も上手だと思いました。
        で、その家族が
        「とにかく仏教のことを調べろよ!!!!!」と言うのだけど、
        2018年頃から、ネットで仏教調べたけど、全然多すぎ、みんなの見解違いすぎ
        ですぐやめました。ぎんたには無理だから。(無理なことはしない主義)
        でも、いちおーやってみたことはみたので。
        で、家族は開祖が醍醐寺に修行に行ったのも嘘だと言っていて、伝法灌頂は金で
        買ったというのだが、かなり強めに言い張るから、それを仮に採用してます。
        まだ、戦争中はお金なかったからそんなに渡せなかったと思うんだけど、自信ある
        みたいだから、出世払いにしたのかな?と。で、ぎんたが近頃一番よく考えてるのは
        「真如三昧耶流」ちゅうのは、いったいどんな内容なのか、ということ。
        特に内容の説明はされてない気がするのです。警戒が必要だ、と思って。

        「私な仏教」が負ける気がしないけど。神で仏じゃない人いないから。
        もちろん勝ち負けではないですが。
        ただ、家族はいつも「真如苑は伊藤教なのに仏教とか言って、仏教の知名度を
        利用している!!」とか言うのですが、ぎんたも同じことになっててどうしよう
        かな~って。名前をどうしようってずーーーーーっと考えてるけど、ちっとも
        思いつかなくて、早数年。

        • mani(管理人) より:

          ぎんたさま 久しぶりに こんばんは。

          >「私な仏教」が負ける気がしないけど。

          ここを読んで、仏教っていい宗教だなあ、ってしみじみしちゃいました。。
          仏教の知名度利用しても、気にしないし、バンバン利用できるし、利用してない人いないし、でも、空だ、って言ってくれるし、最高じゃ、ね?
          お釈迦さんは、たたえてもたたえられなくても気にしないし、ね?

          • ぎんた より:

            気にしない~気にしない~気にしない~♪ってなかったでしたっけ?

            たぶん一休さん。

        • Pocket より:

          ぎんた様

          ぎんた様は真如苑の方だったんですね。開祖だけ本物と信じていて、今の教団のあり方に不満を持っている感じなのかな。

          私も母の本棚にあった『ジョセフ・マーフイーの引き寄せの法則』に小学生の頃からハマってて今だに引きづってます(笑)
          ネットで「ジョセフ・マーフィーはニューソートの牧師で学位も宗教系の大学で貰ったもの。日本人の関係者は催眠商法のパイオニアで詐欺師」と知った時も、でもまあ良いこといってるし……と思って中々抜けられなかったです。

          でも、大人になって「引き寄せの法則」って矛盾だらけやん……と思って若干、引き気味です。でも捨てられない。

          「伝法灌頂は金で買った」のも私なら「そっかー四度加行の修行とかしんどいし、お金で買えるなら買うかもなー」と思ってしまいます。

          ぎんた様は私こそ真の開祖よりも偉い「ぎんた真如苑仏教だ!」って開き直ってみるはわどーでしょーか?

          でわでわ

          • ぎんた より:

            >ぎんた様は真如苑の方だったんですね。開祖だけ本物と信じていて、今の教団のあり方に不満を持っている感じなのかな。

            元真如教徒、です。開祖と霊祖が本物だと思っていましたが、途中から、
            いやいや、そもそも教団とか始めちゃダメだったんじゃないか?と思い始め、
            霊祖のほうが開祖より物事正しく見れてたんじゃ、、と思い、そのうちに、
            いやいや、霊祖の発言も結構人の心をえぐっていたのでは?となり、今は
            みんな早く泥船から降りてーーー!!と思っています。

            >私こそ真の開祖よりも偉い「ぎんた真如苑仏教だ!」って開き直ってみる

            これは、すでに開き直ってはいるのですが、ねこが人より偉いわけない
            のです。ねこの存続は人間次第なのです。