
赤いですね。すっかり紅葉してます。が、もう散っていき始めてます。これから白いものが降ってきますね。
さてさて、「心にしみる原始仏典」に「十力」という経典を入れました。わたしが、ブッダをブッダと認める大事な経典です。これは簡単に書いてあるけど、めっちゃむずい経典です。
気まぐれに解説してみようかな。
十力をそなえ、如来は、四つの無所畏をそなえて、牛王の位にいると公言するのであります。会衆において獅子吼して、梵輪を転ずるのです。
「如来」とあるのは、お釈迦様が、悟った身だってことを示す自分を指す言葉だね。
四つの無所畏というのは、四つの畏れない心のことだと言ってます。「自信」という訳をつけているものもある。
「一切智無所畏:あらゆる智慧を成就しているという自信」「漏尽無所畏:煩悩がすべて尽きているという自信」「説障道無所畏:修行の妨げとなるものを説くことに対する自信」「説尽苦道無所畏:苦を離れる道を説くことに対する自信」
と、調べたら載っていました。「自信」って言葉が合ってないと思うけど、「自分に信がある」ということで、揺らぐことがないと受けとめてください。ほんとに、こうなんだなと思えばよいのです。
「十力」は十の智慧の力だって。五蘊から来ているんだと思いますね。輪廻と覚りで5×2。
「牛王」、ってのは牛の王さま、そのまんまじゃな。庶民に説いてる感じが現れている。牛はインドでは聖なるものだかんね。
「会衆」は集まった人々。一般庶民のことです。「獅子吼」はガオーって吼えること。感極まったウダーナ(感興の言葉)ですね。ほんとに感極まってる感を感じないとダメよ。
「梵輪を転ずる」ってのは、「梵天界の輪廻から解脱まで語るよ」ってことだと思うな。
梵天界は、わたしたちと同じように、身体のある世界だからね。身体があるかないかで、全然違うんだよ。身体がある世界は、色界といわれ、身体がないと無色界といわれるんだよ。ちなみに、わたしたちが住むのは欲の世界、欲界だよ。
ちなみに、西洋の思想では、無色界が中心だと思う。だけど、大半の人が忘れている身体に左右されている。科学は、物質界がメインになっています。科学界は、精神的なものであっても、物質で処方する世界です。
以上が色である、以上が色の集起である、以上が色の滅である。
以上が受である、以上が受の集起である、以上が受の滅である。
以上が想である、以上が想の集起である、以上が想の滅である。
以上が行である、以上が行の集起である、以上が行の滅である。
以上が識である、以上が識の集起である、以上が識の滅である。
ここは四聖諦の五蘊ヴァージョン。すでに縁起的に知られてくる世界だね。
その<縁起>が公式として語られる。<これ>に各自「これだ」と思う言葉を入れて、縁起を理解するんだよ。これを苦しみ一つに絞って作ったのが「四聖諦」なんだよ。
なぜかって??
決まってるだろ。誰にでも当てはまるからさ。お釈迦様は「一切智者」なんだぜ。凡ての生き物を救うのがお釈迦様なんだ。
キリスト教の神様はブタ君は救わないだろ。(じまんすんな!)
<これ>があるとき <これ>がある、
<これ>が生ずるから <これ>が生ずる
<これ>がないとき <これ>がない、
<これ>が滅するから <これ>が滅する
これは、わたしが毎日考えていたもので、ものすごく使い勝手がある公式なのです。
これ以上は言わないでおこう。自分で使って考えてみて。
そして、お釈迦様が現実世界に応用したのが十二支縁起です。
3 無明によって行がある、行によって識がある、… このように、この一切の苦の集まりの集起がある。
4 無明が残りなく離れ滅するから、行の滅がある。行の滅から、識の滅がある。… このように、この一切の苦の集まりの滅がある。
こういう構造になっているのです。お釈迦様の理論が、体系化されているのがわかるでしょう。演繹でもいける、帰納でも行ける体系。
お釈迦様の言葉では四記答という言い方も出来るんだよ。一向・分別・詰論・止論。
お釈迦様の発明した四句分別の完成体 と見ることも出来るね。
とつぜんですが、終わります!朝の栄養の時間です。


コメント
mani先生
お釈迦様が悟ったときに「何を悟ったのか?」と問題になることがありますが、
縁起でも四諦でも良いような気がします。
四諦も縁起の理法だから……
ぎんたは、お釈迦様はもしや、自分「神だ!!」と思ったと思います。
ヒンドゥー教の。だから、ヒンドゥー教が居心地悪い感じがしたんだと。
で、その後、ヒンドゥー教で、「神様の一人」にしてくださったから、
偶然にしても良かったねって!?神のこと質問されるの苦手だったでしょうね。
ぎんたさま ブッダは、ヒンドゥー教では嫌われ者の神やってます。ヴィシュヌ神の化身の中に数えられてて、九番目に位置づけられてます。悪魔たちに邪悪な教えを教えて惑わしたことになってます。
ヒンドゥー教では、みんなアートマン(自己、我)を説くけど、仏教じゃ、無我(アナートマン)だから、ここでヒンドゥー教とあわないんです。でも仏教に影響受けてるのでヒンドゥー教では無視も出来なくて、こんなことになったと想う。
そうなんですね。ぎんたはねこの我ですけれど。
*
> そうなんですね。ぎんたはねこの我ですけれど。
ぎんた サン( ドーター ) の 母 はいずこ
ねこ は あたかも( あたまも ) ボ オカン と
しているがごとき で 傍観 視 してはいない
いつも 耳をそばだてている ぎんた
虎 は 虎視眈々 の ネコ科 である
こち トラ は ??コチ に 固まりかける
虎 の 意 を 狩る
かり うど は ネライ の 眼を固める
( ニョライ に 眼をつけられて 意を決する )
虎 の 我 は 気が付くのが 遅い
( 遅い と イオウ と
イオウ にも 我 は あり
そこ(底)に 「 平等 」 が 起きている )
医王 の 我 を 有王 の 我 が 云々する
( 我 が 平等に起きる とは 猫我 は 知らず )
われこそ 一番 とは 認識が起きる 順番のプレジュン
プレ(前)準備 を して 順番が起きてくる
一番先に (起こしているという識も起こさず) 起きる我
トラワレ が 寝込んでいる眼 で コシ を 起こす
( ネテイル用 で 起きている酔う に 眼 を つける )
思わず ( おもわずとも ) 起き上がって
廻り( 廻る輪 ) に 眼を光らせる者 は いずこに 、、、、
ここんところ “ 悪寒 ” の 起きるところ
( 慈母 ) が 起きて走り出す(歩み始める)
ソウフ とは 送る符号 であり
走・歩 は その見方の起きる 「 処 」 での 遅速
猫我 と 虎我 ( 「 我 」 には 大きさの違いはない )
大きい を 言い換えると “ 強い ” と も 言える
優しいよう で 強い自我 で
虎 を 衝立から追い出す
( たてつく 無視 も すきずき )
「 自我 」 とは 起きているようで
寝かされた 「 意 」
寝ているモノ を 横 に ナガメル( なだめる )
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Pocketさま わたしは、おシャカかさまの覚りに関しては、すごすぎて、何と言ってよいやら分かりません。
一つや二つじゃなくて体系全体だから、なんでも言えるような気がしてきます。全部の哲学体系に対抗する一つの体系を打ち立てたと言えるかもしれません。
とりあえず諸行無常と見て、形而上学を排除し、生き物の暮らしを一切皆苦として、苦を見つめ、見解においては戯論寂滅で空を説いた。縁起を説き、四句分別とも行き来し、中道を説いて、現代論理学とも関連付けています。だから、現代科学と相性がよいし、現代科学よりも広範に語ることが出来ます。
物質世界も語れるけど、心の世界もおおいに語れます。また、どんな展開にも理路を拡げることが可能です。
いやあ、ほんとにすごいす。神仏を拝むと言うけど、神様を超えてるような気がする。ちゃんと死んでるところもすばらしいす。
春間則廣様の投稿文は、単語をポンポンと離散的に打ち込んでいるようである。
これを見ていて感じるは、紅葉の証城寺で狸囃子を楽しむが如し。
『Sho-jo-ji – Eartha Kitt 1955 – 証城寺』
https://www.youtube.com/watch?v=kWqN3grN96Q
*
> 単語をポンポンと離散的に打ち込んでいるようである。
密教 の 曼荼羅 って 見たことがありますか ?
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いたるところ に いたりかた が ある
けれども
一つの世界 を ひとつの“梵語”で あらわし
それを用いて ちょうやくする
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「 瞑想 」 とは 其処に至る道 であり
「 道 」 とは いくつもあるように見える
( けれど 道はすべて 繋がっている )
「 一つの道 」 を 歩む
という意味 、、、、
モノの見方 には 見方という 道 が ある
色々な見方がある という 「 一つの道 」 の
一つの 停留 するところ
そこに “一つの世界” の 一つの景色 が “ ある ?”
“ ひとつのけしき ” ではない ??
色々 な 色に見える 一つの光
プリズム を 目にあてる
・