
イチョウの黄色がきれいだなと毎年思うので、毎年似たような写真をアップしてるかも。
今回は、この場をお借りしてブッダとアーナンダ君に迫ってみたいと思います。
『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)を使います。
ぎんたさまがこんな疑問を出している。
お釈迦様のイミフな問いかけに対して、???となる阿難くん。
阿難くんが気づくまでイミフな問いかけがエンドレスで、、、、、。
ちょっとやだな、、、、普通に説明してくれよ。。。
これは、お釈迦様が悪魔と対話して、涅槃の入れと勧める悪魔に三ヶ月後に涅槃に入ると約束してしまうのです。
それを知ったアーナンダ比丘は、こう言うのです。
「貴い方よ。尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな方(=ブッダ)ある限りこの世に留まってください」と懇願するのです。
が、ブッダは「アーナンダよお前は修行完成者の達成した<さとり>を信じますか?」
聞かれて「はい」答えるアーナンダです。
「それでは、アーナンダよ、お前はなぜ、三度までも、修行完成者を悩ませたのですか?」ととがめるお釈迦様。アーナンダは一度や二度ではなく三度もお釈迦様に「長生きしてください」と頼んだのね。
つまり、こんな風です。
尊師によって四神足を成し遂げた人は寿命を自由に操れる、とお聞きしました」とアーナンダが言うと、
ブッダは「そうならお前の罪である、お前の過失である」ととがめるのです。なぜなら、かつてわたし(ブッダ)はあちこちで「○○は楽しい」とほのめかしたけど、洞察の足りないお前アーナンダは気づかず何も言わなかった、だから、アーナンダよ、これはお前の罪である。お前の過失である」というのです。
「○○は楽しい」って、お釈迦様によるほのめかしだったの? これを聞いて「長生きしてください」ってでてくるかな?? アーナンダと同じで気づかない!と思ったあなた。そう、あなたです。こりゃ、わたしも気づけない。。
「お前の罪は。。」、「ま、まさか死にあたる??そ。そんなわけないだろ?」
そんな訳ありません。アーナンダよ、君の罪は死などではありません。何の罪にも問われないのです。
そのかわり、お釈迦様が死ぬ(涅槃に入る)だけですから。。
え?!
アーナンダ君、そりゃあ、ないだろ?
ふつうの場合と話しが逆じゃん。
お釈迦様は、悪魔との約束で涅槃に入る。アーナンダには何も起こらない。で、お釈迦様は、(お釈迦様に)長生きしてもらいたいアーナンダに「アーナンダよ、お前の罪だ」という。
命が惜しいか惜しくないかで、罪や罰は入れ替わる。
死んで欲しくないなら、悪魔と約束する前に気づいて、頼まなきゃダメじゃん、アーナンダ。だから、頼まなかったお前が悪いんだからお前の罪だよ、ってか。
命が惜しい場合、死んだら罰だと思うだろう。だけど、お釈迦様は命は惜しくないので、『長生きしてください」と頼まんかったアーナンダが悪い、というのです。アーナンダはやるせない気分です。
しかし、お釈迦様が涅槃に入ってから、ここからアーナンダの頑張りがきいてくるのです。さぁ、たいへん!ここからアーナンダは渾身の覚り修行を実践するのです。
まあ、それは良いとして、ブッダは性格悪いんとちゃう??
おしゃかさまにしてみれば、アーナンダのいうこときいて「はいはい」って言ってたら、悪魔が怒るんじゃない?
「わたしの約束破って長生きしたぞい」って!
アーナンダが頼んだことは、最初に悪魔と約束したからだめだで、アーナンダの頼みを突っぱねてしまうのです。
「あんなにほのめかしたのに、なんで気づかないんだよ」と、お釈迦様はアーナンダにちょっと文句を言ったってことで、納得してえぇぇ。
ここからわかることは何か?
お釈迦様は、無我だ!ってことです。命は惜しくない、長生きしたいとも思わない、だけど、早くに頼めば長生きしてくれる、他人のために。
ふつうの発想じゃ、なかなかわからんよね。お釈迦様の発想じゃないと理解できんです。
ってことで、終わります。
。


コメント
mani先生
サーリプッタ長老もこう言ってますね。
Ramaṇīyaṃ, āvuso ānanda, gosiṅgasālavanaṃ, dosinā ratti, sabbaphāliphullā [sabbapāliphullā (sī.)] sālā, dibbā, maññe, gandhā sampavanti;
「具寿アーナンダよ、ゴーシンガサーラ林は楽しいところです。月明かりの夜、すべてのサーラ樹が満開となり、あたかも天界の香が薫るかのようです。
kathaṃrūpena, āvuso ānanda, bhikkhunā gosiṅgasālavanaṃ sobheyyā’’ti?
具寿アーナンダよ、如何なる比丘によって、ゴーシンガ沙羅林は輝くでありましょうか」
聖者の比丘たちはあそこは楽しい、こなたは楽しいと言いながら遊行していたようです。
やっぱりお釈迦様は理不尽?
こういう秘密の(guyhaka)言葉、口訣、拈華微笑が密教(mantayaana)の萌芽なのでしょうね
Pocket さま こんばんは。
>やっぱりお釈迦様は理不尽?
お釈迦様が理不尽かどうかわからんですが、声聞乗の聖者たちも楽の方が苦よりもすきだったようですよね。
四禅も楽から入ってますものね。菩薩は歓喜地だし。
凡夫の苦が聖者の楽だとも語っています。
♦ 761(『スッタニパータ』)
自己の身体(有身見)を破壊することが、「楽である」と、聖者たちが見ています。
(このように)見ている者たちのこの(見方)は、一切世界とは異なって正反対であります。
♦ 762.
他の人々が「楽である」というものを、聖者たちは「苦である」といいます。
他の人々が「苦である」といういうものを、聖者たちは「楽である」と知っています。
了知しがたい法を見なさい。無智な人たちはここで混乱しています。
ブッダは煩悩に関わるような「楽」の方から入ることをおしえて、徐々に「苦」に気づかせていく、という手法をとっているのかな、とも思います。
mani先生、
真言乗も結局は四諦現観に至るのでしょうね。楽を得て一座に一切智性の菩提資糧を積み、一切皆苦を頓悟するのかな。
Pocketさま 『縁由(ウパニサー)』を読むと、軽安や喜びなどがよく出てきます。https://manikana.net/canon/upanisa.html
菩薩の初地も歓喜地です。取っつきはなんでも「楽」なんだなあと知ります。そして、その根っこに「苦」もあることを知るのです。
易行道もほんとですね。
『日本霊異記』のなかに、実際大阪から広島に瀬戸内海を通っていく道と陸路で行く道が描かれていて、こりゃ、海路が楽だなと思いました。
>真言乗も結局は四諦現観に至るのでしょうね。
苦の滅は、あらゆるいきものにとって、永遠のテーマですね
*
>>悪魔は、お釈迦様の心の中にいるもう一人の自分ですよね?
>わたしは違うと思ってます。なんか、そんな風に言う人がいたんだと思います。
善悪 とは 「 縁起 」 におきる
しかし エンギ とは
演ずる者 に 起されている 演技 ではない
起こし 起こされている 誤りの 起き方
を 指し示し
なぜ 正誤 が 起されるか の仕組み を 知る理
起こし 起されている 「 理 」 とは
起きている 仏陀 に のみ 起きていること
寝転んでいて は ねぼとけ ではなく ねぼけ に すぎない
起きて 「 坐 」 しなさい
( 「 行住坐臥 」 に 起きる 「 定 」 を 観ずる )
「 悪 」 をみて それが 「 苦 」 を 生む としる
悪とは我が身に起きている苦の思い
♦ 762.
他の人々が「楽である」というものを、聖者たちは「苦である」といいます。
他の人々が「苦である」といういうものを、聖者たちは「楽である」と知っています。
了知しがたい法を見なさい。無智な人たちはここで混乱しています。
混乱 は 混乱している 思い に 秩序たてられて 存在する
( 混乱 は 秩序だった認識 に のみ 起されて 苦を生む )
あなた が 混乱している
のではなく
此方( 此処に起きている“わたし” )が 乱 を 冠じる( かんむる )
混乱 とは 「 観 」 に過ぎず ( 「体」 ではない 冠を 外す )
> ブッダは煩悩に関わるような「楽」の方から入ることをおしえて、徐々に「苦」に気づかせていく、という手法をとっているのかな、とも思います。
みずから を ブッダ と 知ること なくして
とる 手法
なくて 七曲 真っ直ぐな道 を 真っ直ぐに曲がる
曲 の せいだと くせで探す はち しょうどう
分 ブン 「 分 」 蜂 は 刺す ♪♪
・
え、え、?なんかさっぱりわからない、、、、。
悪魔は、お釈迦様の心の中にいるもう一人の自分ですよね?それとお話して
(ここいらへんが、タイミングでしょうね)という「判断」が起きたと。
ブッダと別れがたい人々にとっては「悪魔」だけども。お釈迦様本人だし。
頼まれたって寿命伸びねーし。もし、何かで延命するにしたって、
延命された後の「この日」は決まっていたわけだし。。。
ぎんたさま
>悪魔は、お釈迦様の心の中にいるもう一人の自分ですよね?
わたしは違うと思ってます。なんか、そんな風に言う人がいたんだと思います。
「もう、涅槃に入ってもいいんじゃない?いつでも入れるんでしょ?
弟子たちも立派に育っているんだし、な~んも心配いらんじゃん。いつまでも老害まき散らしてないでさっさと涅槃に行きなよ」って、いわれてたんじゃないかな?
で、お釈迦様もそろそろ寿命でもあったし、うっかりもののアーナンダは気づかんし、断り切れなくなって、とうとう3ヶ月後に涅槃に入ると言っちゃった、ってところかな。
で、その後、アーナンダが気づいて頼んだけど、「なんで、もっと早く言わないんだよ」って感じで、お釈迦様はおシャカになる決意は揺らがなかった、ってことかなと。
大乗仏教に『法華経』って言う経典があるんだけど、おシャカはおシャカに見えるかもしれないけどおシャカにならずにずっと法を説いているんだよ。。って、内容だと思ってます。
『法華経』には、如来寿量品(仏の寿命はなが~いんだ品)という章もあります。
先生ーーーーーー!!!!わかったよーーーーーーーーーーーーーーーーーぅ!!
昨日、布団に入って考え始めて(今夜は熟睡できなくてもいいや、と思って)、
1時20分にわかったんだけど(時間関係ないかー)
純陀きゅんは、架空の人物で、誰か大乗の人の狙いによって、仏教に登場した
ことになってる、「キャラ」なんじゃないですかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?
やーーーびっくりびっくりーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!
ぎんたん ! 難しすぎてわからんよおおおーーーーーーー。
>純陀きゅんは、架空の人物で、誰か大乗の人の狙いによって、仏教に登場したことになってる、「キャラ」なんじゃないですかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?
ぎんたんについてけなくて完全に五里霧中なんだけど、じつはじつは、仏教全体が「キャラ」みたいなもんだと思っちょる。。
わたしには、この世の出来事はみんなキャラの作り出す出来事みたいな感じがしてる。
原始仏典は、嘘は書いてないんだけど、仏弟子の目🔎で書かれてるのでお釈迦様が美化されてるような気がする。
純陀きゅんは、「なんでお釈迦様に豚キムチ(又はキノコ)なんか出したんだよ」ってとがめられるんじゃないか、って、あらかじめ思われてるよね。
そんなこと、思わないかもしれないじゃない?
だから、お釈迦様は、そう思われないように「スジャータのお布施と純陀のお布施は最高のお布施だ」って言ったことになってるけど、仏弟子🔎目線からすると、ってことかも。
アーナンダががんばって仏典結集前夜に覚りを開いた話しも、『大智度論』という大乗論書には載ってるけど、原始仏典には載ってない、と思う。
自分たちの関心のあることは残すけど、関心のないことは経典には残ってないと思うので、大乗では「空」はメインになるけど、部派仏教では「縁起」がメインに説かれる。。ようにみえるんだとおもうなあ。
ぎんたん、続きなんだけど、そういう意味で、部派と大乗と密教に分かれるんだけど、どれを主体にお釈迦様は説いたの?という疑問に対しては、「お釈迦様は全部説いた。。全部、あってるよ」でいいんだと思ってます。
え?え??マニカナのみなさんで一生懸命、ぎんた一人だけがわかってない
事実を、
【ぎんたが自力で(ああ、めんどくさい、ここは世間一般の自力で)】
思いつくように、そしてそれをあんまり気落ちせず又はびっくりしすぎない
ようにと配慮して会話を進めて下さったのかと思ったのですが。
あ、もしかして純陀きゅんは、お釈迦様にげんなりしちゃった次世代の
お弟子が、(こんな態度、お釈迦様が生きてる間にとれたら良かったよな)
という願望を背負って経典に紛れ込ませたの?阿難くんから生まれたの?
と思った時に、フッと純陀きゅん心から消えちゃって、ほんとに一瞬で、、
もーしーかー、、これが「空」だねーーーーーーーーーーー!!!!!!!
ってなって、ほおぅ、、空ってすごいね~~と時計を見たら、01:20でしたと。
で、その時の心境をを分かり易く説明すると、またアニメになっちゃうの
ですが、「しかのこのこのここしたんたん」のどこかで、根子ちゃんが
通販の「しかつの印鑑ケース、しかつのぬいぐるみ、しかつの美容液、
今なら、にっきゅっぱ。1セットお買い上げの方にもう1セットプレゼント」
を授業中もおやつ食べながらも寝てからも考え続けて、ついに布団の中で、
「お得!!でわ??」てパッと顔が輝いたときと大体同じ!!
です。
あ、実は根子ちゃんはすぐ思い出せなくて、なんだったっけあの表情が
ぴかってなった瞬間が印象的なキャラとその出演作、、、、と朝から
考え続け、9:30位になってやっとわかったのでした~
こんな時、オタクのみなさま(←神でほとけ)なら一瞬なんでしょうが、
ねこな一般人はなかなか厳しい。。。
あ、あと、ですね、、
お釈迦様は仏教を興したから仏教やってるんですが、
お弟子の方々(←神でほとけ)の「中身」は前回人間だった時の習慣で
生きているので(春間さん曰く死んでないから?)違う宗教なんだと
思います。ほんの片手位は仏教の人もいたのだと思います。(それが、
世界のどの宗教にも起きている)
イエスを磔にした人は、「中身」は肉体とは別の部族で、生け贄の儀式
とかする習慣を持つのではないでしょうか?
そういえば、お釈迦様って、食事に招待した遊女に毒を盛られて亡くなった
のじゃないかな?でも、毒入ってるのは知ってて食べたと思います。
遊女は口封じにその後殺されたかと思います。(だって、神でほとけに
やられたら受け入れないといけないから)なので、その因縁は切れてなくて
イエス早死にしたんかな、と。
で、摂受心院も、関西本部で継主が用意した昼食食べた後、夕方に
亡くなっているんですが、これも継主の知らないところで何か仕込まれて
いたのかなと思います。もし、そこの部分が何も無かったとしても、
側に合った仏像で殴られているので、死体損壊はあったと思います。
ぎんたは、1番古い疑問に、摂受心院は「私はもうダメです」と死期を
悟っていたようなのに、なんで全部ご飯食べたの?絶食しろよ、かなり
潔癖なのになんで胃にものを入れるんだよと思ったのがあるので、そこから
色々考え出して、「真如苑の人達、全員ものすごくいい動きしてて神過ぎる」
と思っていて、でも、継主は「教主様が摂受心院様を心配して一口でも
とお勧めされて、それに答えた」と言っていたが。まあ、それもあるか
うーん、、、
開祖は教徒に「純陀になれ」っていってて、継主は「ほとけになれ」って
いうけど、実際教徒はチューラパンタカのが親近感沸く~~みたいに
なってて、ぎんたは「もうヤバすぎだから解散しちゃえよ、最初から
神でほとけってことにしろよ」と言います。
とにかく、すべてが学者さん待ちです。色々考えておくと答え合わせが
楽しみすぎる。
ぎんたさま 難しい話しだね。
>お釈迦様は仏教を興したから仏教やってるんですが、
>お弟子の方々(←神でほとけ)の「中身」は前回人間だった時の習慣で
>生きているので(春間さん曰く死んでないから?)違う宗教なんだと
>思います。ほんの片手位は仏教の人もいたのだと思います。
たぶん、あのぉ、イエスの場合、一神教だから輪廻しない、って考えるんじゃないかな。
輪廻があるのは、インドなどヒンドゥー教や仏教のあるとこだと思います。
「神で仏」って、ぎんたさまが言うように、生き物たちが平等でないと成り立たない教えのような気がします。
つまり、ヨーガがないと成り立たないんじゃないかな、って思ってます。
ヨーガや禅定(ディヤーナ)によって、アートマン(我、われ)に行くからね。
これは逆かな、アートマン(我)があるからヨーガ・禅定が必要になるんだった。
エム先生こんにちは。
>アーナンダががんばって仏典結集前夜に覚りを開いた話しも、『大智度論』という大乗論書には載ってるけど、原始仏典には載ってない、と思う。<
パーリ仏典の律蔵の『犍度
』(けんど)の「小品」の「五百(結集)犍度」にも関連記述があるみたいです。
//suttacentral.net/pli-tv-kd21/pli/ms?lang=en&layout=plain&reference=none¬es=asterisk&highlight=false&script=latin
英訳では、
「Venerable Ānanda thought, “It wouldn’t be proper for me to go to the assembly tomorrow if I’m still a trainee.” After spending most of the night with mindfulness directed to the body, early in the morning he bent over to lie down. In the interval between his feet coming off the ground and his head hitting the pillow, his mind was freed from the corruptions through letting go. And Venerable Ānanda went to the assembly as a perfected one. 」
という部分があり、
パーリ語ほとんどわからないけど、アーナンダ尊者が結集に参加するためにと悟りを開く場面はこの辺かなぁという部分を抜き出してみました 。↓
Atha kho āyasmā ānando—“sve sannipāto na kho metaṁ patirūpaṁ, yohaṁ sekkho samāno sannipātaṁ gaccheyyan”ti—Variant: sannipāto → sannipātoti (mr) bahudeva rattiṁ kāyagatāya satiyā vītināmetvā rattiyā paccūsasamayaṁ “nipajjissāmī”ti kāyaṁ āvajjesi. Appattañca sīsaṁ bibbohanaṁ, bhūmito ca pādā muttā. Etasmiṁ antare anupādāya āsavehi cittaṁ vimucci. Atha kho āyasmā ānando arahā samāno sannipātaṁ agamāsi.
律蔵にもエピソードが入ってるのかぁと知った時に少し驚きました。
😳
pipitさま ありがとうございます。
>パーリ仏典の律蔵の『犍度
』(けんど)の「小品」の「五百(結集)犍度」にも関連記述があるみたいです。
詳しくあげてもらってすみません。
わたしがあげなきゃならないのに、pipitさまにお手数をおかけしてしまってすみませんです。
アーナンダががんばるところ、けっこう好きなんだけど、「覚りの時機」ってあるんだなあと思ってがんばればいいってもんじゃあないなと学んでいます。
あと、ぎんたさまへの、純陀きゅんをめぐる疑問について、わたしも同じように思いました。
開祖の方が「純陀になれ」って言ってるところ、詳しく知りたいです。
ぎんたさんへ
こんにちは!
>開祖は教徒に「純陀になれ」っていってて、継主は「ほとけになれ」って
いうけど、実際教徒はチューラパンタカのが親近感沸く~~みたいに
なってて、ぎんたは「もうヤバすぎだから解散しちゃえよ、最初から
神でほとけってことにしろよ」と言います。<
もしよかったら、ぎんたさんの中での「純陀」さんの情報を教えてもらってもいいですか?
私は大乗仏教の涅槃教は読んだことがなくて、ぎんたさんの中での「純陀」さんがイメージできなくています。
(・・?)
pipitさん、ご質問ありがとうございまーす。
今日の夜に、真如苑の該当箇所を書きますね!
えーーーっと、『「真如」に生きる』より。P303~
純陀は青年で(パーリ語の涅槃経で「若き人チュンダカ」となっていて、
名前に「カ」という接尾語がつくと、小さい者を意味し、「若き人」のパーリ語は
「アーヤシュマー」でこれから先の生きる年数が沢山ある)鍛冶工の息子です。彼は
文殊菩薩、文殊師利法王子(智慧の権化ともいえる頭脳明晰な菩薩)と討論します。
ちなみに、大乗涅槃経で一番多く登場する菩薩は、迦葉菩薩ですが、彼も青年です。
長寿品に「摩訶迦葉と同じ姓を持つ年若きバラモン」と書かれているからです。
摩訶迦葉とは、世尊から直接法衣を譲られ、ご入滅後にご説法が散逸しないように
皆を集めて第一結集を主宰した長老の指導者です。
大乗涅槃経では、本来年老いた迦葉が若者の菩薩に変身して、法の継承を
誓っていくということになります。
(今日のぎんた:何ーーー?変身?そうなん??フィクション。。。)
若ければよいというわけではありませんが、ここには上座部(テーラヴァーダ)に
対する大乗側の意識があるようです。テーラとは長老という意味で、長老とは
対照的な若者達が活躍することで、社会に息づく大乗のフレッシュさが際立ちます。
それは、世尊の菩薩(在家)時代(三十五歳まで)を継承することでもあります。
純陀は梵語で「よく理解する」という意味の名前です。日本語なら「さとる」君、
一方、ジュナミトラによるチベット訳の大乗涅槃経は、固有名詞を漢訳のように
音写でなく、(つまり、サンスクリットの音をそのままとらず)チベット語としての
「意味」で翻訳していますが、純陀はskul byed、直訳で「促すことを為す」、
蔵漢辞典では「能化」とあるそうなので、よく教化する人、でしょうか。
漢訳とチベット語訳を合わせて「よく理解するとはよく教化する」なのだと思うと
純陀の名にはとても深い示唆がこめられています。
途中ですが、続きは明日です。
ぎんたさん、こんばんは。
お手数おかけしてすみません m(_ _)m
純陀さんについて教えてもらってありがとうございます!
続きです。
純陀と文殊の討論は、仏身の常住についての高度な議論です。
文殊が仏身も含めてすべては無常であると説くのに対して、純陀は様々な譬えを
使い、「如来は無常・無我ではない」ことを力説。「仏とは食身ではなく、
法身(さとりの法を身体としている、常住なのだ」と明らかにし、文殊を
圧倒してしまいます。文殊の「たしかに君の言うとおりだ。私だって
わかってなかったわけではないが、ちょっと君を試してみたのだ…….」
という最期のセリフも言い訳がましく聞えるほど、純陀の仏への帰依心、
教えへの理解、説法は素晴らしいものでした。
純陀は十五人の仲間をお救けし、~略~六波羅蜜をすべて成就したのでしょう。
真如青年に慈しみを注がれた摂受心院様は、
「苑の青年達が自らの進むべき目標をしっかりと定め、み仏の喜ばれる行いを、
力強く歩んでいることは本当に嬉しいことです。
青年達が同じ世代の人々を導く利他行が、そのまま社会の浄化につながる
ものとなり、それは世の円満な指導者として将来かけて仕合わせの礎を、
今、築いていることなのです。
(2017年にこれを読んだぎんた:いや、浄化どころか段々酷くなってるよ?
なんか間違ってるんじゃないの?失われた30年だよ?政治に負けてるとか?)
純陀は後の一切大衆所問品において、最後の供養を実際に捧げます。
大乗涅槃経では、うるち米*を捧げたと書かれています。教苑でも毎日
お仏飯を炊いてお捧げしています。朝に炊いたご飯を仏壇に上げるのは、
純陀から始まった、大切な宗教儀礼なのです。欧州では、パンをお上げする
依処もあります。主食を捧げているのです。
*非大乗系の涅槃経では、世尊への最後の供養は、甘く煮た豚肉、あるいは
キノコ料理だったとしています。
この本は、立教80周年を記念して出版された、継主のインタビュー、スピーチ
を集めた講義集なんですが、330ページ、、値段入ってない!、、、、
サイトで調べました1,020円 (電子ブック 810円)でした。
で、全米ボランティア会議とか、台湾大学・青年フォーラムとか国際会議で
スピーチしてますが、神でほとけのネットの反・真如苑の方々は
「その会議のスポンサーとして、すごくお金出してるから」ということです。
神でほとけの言葉だから本当だと思います!!!あと、苑で理趣経をお唱え
(智流院生以上?)しているから、そこから潰せるのでは?というのを見かけて
そうなん?そっち方面からどなたかご尽力を!!と思います。
もしかして、グローバリズムせいりょくにとりこまれて、資金洗浄とかに
使われているか、各国のスパイの隠れ蓑施設として利用されているかも
しれない!!なので、1回試しに潰れてみよっかーとしています。
あ、それと、ぎんたは純陀が「真面目な在家仏教徒」というカテゴリーに
なってるのが気にくわなくて、全然仏教のぶの字も通らずに生きてる人は
どうすんのじゃーい、と思い、日本の現在の感じだと、純陀きゅんは、
ストイックな職人というより、ニッカボッカな昔ちょっとヤンチャしてました
な人では?と思いました。で、
文殊と討論つったって、多分話がかみ合わないだろうと思いますし。
春間さんと家族で話して、「そんなのヘリクツ」ってなりましたが、そんな
もんだと思います。
ぎんたが思うに、、、、
教団内の文殊(青年)が、同世代で教団外の純陀の要望を虚心坦懐な気持ちで
聞き取り、文殊の智慧を発揮して出したアイデアをお釈迦様に
「これからはこうして参ります」と承諾ではなく、宣言すれば良かったのにね、
と思います。(家族からは甘いと言われます)でも、話聞いて貰って、
文殊頼れるぅ、てなったほうが、教団の存在意義も保てるのにね(あ、保つ
欲がないのか?)と思いした。
でも、こないだ純陀きゅんは消えてしまった。成仏したとか?(あ、これは
世間のフツーの言い方のほうですよ)
ごめんなさい、、、なんだか大好きなマニカナを汚してしまった気がする。
ので、おわびです。これ真如苑だけのじゃないと思うから置いておくね。
光明咒
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはん
どま じんばら はらばりたや うん
ぎんたさん、こんにちは(^○^)
いろいろ教えてくれてありがとう!
私は知識がなかったので純陀さんのイメージ全然わかなかったんだけど、今回いろいろ教えてくれて私の中でポヤポヤとイメージが生まれました。
ぎんたさんのなかでは消えて、、、またぎゅんと産まれてくるのかな?
菩薩さまなんだね😊🍀✨
ぎんたさん、こんにちは(^○^)
いろいろ教えてくれてありがとう!
私は知識がなかったので純陀さんのイメージ全然わかなかったんだけど、今回いろいろ教えてくれて私の中でほんわかとイメージが生まれました。
菩薩さまなんだね😊🍀✨
ぎんたさん、こんにちは(^○^)
いろいろ教えてくれてありがとう!
私は知識がなかったので純陀さんのイメージがわからなかったんだけど、今回いろいろ教えてくれて私の中でふんわりイメージわきました。
ぼさつさまなんだね😊🍀
こちらこそ、質問して下さって本当にありがとう!!
久しぶりに本を読み返し、迦葉が若返らされていたのに驚きました~
(読んだ当時はすっ飛ばしてました)
真如苑の開祖が造った涅槃像は、悟りを開いた青年時の姿をしている
のですが、この辺に倣ったのかも知れないと思いました。
(ちなみに、パンチパーマじゃないやつなのでそれは前から良かったな
と思っていました、もしかして性別がない感じも狙ったか?)
あ、ちなみにその涅槃像は、摂受心院が亡くなった時に、腰の上に置かれた
ほうの手(左手)を、女性っぽくふっくらした感じの手に造り替えたの
ですが、すごい大胆なことするなーと思いました。
その涅槃像の模型?の手に触れるコーナーあるんですが、実は、、
あんま、、よく、、わからない。ピンとこない感じです。
初転宝輪の帝釈天との会話
般涅槃の麻呂・波旬との会話
まあ枝葉だし保留ぞなもし
結局は智慧に到達しないとわからないっすね
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」
カエルさま
>初転宝輪の帝釈天との会話
>般涅槃の麻呂・波旬との会話
でも、逆に、こういうところに目が行ってしまうと、仏教って、ふつうに日常的に起こっているんだなあと思ってしまう。
ブッダは覚りを開いたんだけど、人間として生まれて死んだんだなあと思います。
「イチョウの並木」は世界中で見られる。
モーツァルトの「トルコ行進曲」は、イチョウ並木を行進するイメージだという話もある。
この「トルコ行進曲」を日本音階で弾くと次のようになる。
https://www.youtube.com/watch?v=PzHMqpxNCfQ
tanzaさま 元気のよい「さくらさくら」のようにきこえますね。
そういえば、日本の国歌も「ラ~ソミレ~♪」で終わりますが、
外国の人は「ラ~ソミレ~ド」と「ド】の音をつけたくなるんだとか、聞いたことがあります。
友人からの質問で、「仏教では一切皆苦なのに、無常に関しては一切無常でなく、諸行無常なのは何故か」と。
返答できず検索して、以下の記事(行=サンカーラ)が妥当と思うが。
「人生はなぜ苦しいのか 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ その先へ』」
https://book.asahi.com/jinbun/article/14451106
tanzaさま 誰でも一度考えたことがある問題かも。
一切皆苦は、全体を俯瞰する演繹的な見方だが、諸行無常は帰納的な見方だから、構造的にそのようには書けない。。というところかもしれません。
ブッダは、こういうところ、非常に厳密です。彼は「まだ此の世に生まれていない論理学」の体系をすでにもっていたと考えています。
ブッダは、完璧で間違うことがない。。
「間違わない」ということがいかにすごいことかわかりますか?
八正道に、なぜ「正しい」とついているのか?
「正しい」と「間違う」、「正しい」と「正しくない」、彼は間違うことなく使い分ける。
すごいなと思ってます。
*
> 「間違わない」ということがいかにすごいことかわかりますか?
“ 間違った 分かり方 ” で 分かる
間違わない 故に 間違いはない
↓
正しさ とは 正しくない 故に 間違い となる
正しさ とは 誤りである 故に 正しさ となる
↓
どのように 間違っているか を 間違えて 知る
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
八正道に、なぜ「正しい」とついているのか?
「正しい」と「間違う」、「正しい」と「正しくない」、彼は間違うことなく使い分ける。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正しく 知る( 「 智 」 を 既に得て 行ないに表している )
者 ( そのような者 “達” ) が “諸” 「 仏 」 です
「 諸仏 」 とは 「 仏 」 が
「 今 」 此処に 在す 故に 「 (諸)仏 」 として 今におわす
正しく しり 正しく 行いを為す者
を 「 仏 」 と呼びます
( 知る ということは 必ず 行ないの後を追う )
みほとけ の あとをふみつつ らいはい す
あと とは まえ の ふれし 智のあと
ふれあいし
ふれし気 が する 正しさ に
まえ を 向き つつ あとずさり
きがふれし たわ ごと くち のは くれる ことなし
・
>ブッダは、完璧で間違うことがない。。
「間違わない」ということがいかにすごいことかわかりますか?
そう、ここでコメントしている人は、自分は「間違わない」と思っていないでしょう?
*
あなたが見ている面 を おもて と 呼ぶ
面を上げなさい ( 上っ面 を 見せる )
*
> ・・・・・ 自分は「間違わない」と思っていないでしょう?
= 自分は「間違う」と 思っている
( 思いは 正しいかな ? まちがってはいないかな ? )
間違えて “ 間違うと思っている ”
作り出す (構)文 は 「 分 」 に 拠っている
( 「 分 」 というモノは いつも 正しく 起きるのです )
わたしの 作る“「 分 」” は 正否を 超えることが出来ている
何故 かが 分かりますか ?
( あなた に 分かりようがある と 知るからです )
あなたは あなたが分かるように しか 分からない
あなたは あなたが分かるように だけ 分かる
わたしの指し示す 意味 が 一つしかわからない
( 二つ並べて も 一つの意味しか 分からない )
・
tanzaさま
>「間違わない」ということがいかにすごいことかわかりますか?
っていう、ことばは、わたしが言ったのですね。
>そう、ここでコメントしている人は、自分は「間違わない」と思っていないでしょう?
この言葉は、tanzaさまが語る言葉ですね。
わたしが述べた意味は、tanzaさまが述べた意味とは少し違っています。。と思います。
たくみに変化を説くのが仏教だ、という意味です。
パラドックスを生まない考え方です。
*
> この言葉は、tanzaさまが語る言葉ですね。
> わたしが述べた意味は、tanzaさまが述べた意味とは少し違っています。。
違っている というより
>tanzaさまが述べた意味< には “ 意味がない ”
意味があると “思っている” ところ に ある
思っていること・思うこと とは ウツロウ ( 虚ろ う )
虚ろ なこと の 意味を確定できない
「 識 」 に “うつろう” → (諸)「行」 「 無常 」
> と思います。
確定 に ウツル( 「 理 」 に 基く ) ことがある
その場合 (でも) “思うこと” は 「 理 」 へと 遷る(X 虚る )
( 「 理 」 に 基かぬこと・虚ろうこと は “ うつろ ” である )
あなたが “ 思う こと ” は 「 理 」 に 乗っている
( 「思う」 というとき
移ろうことである とは “ 思いもよらない ” 在ること )
“在る・無い こと” とは 「 理 」 には ないこと
「 理 」 とは 「 法 」 である
「 法 」 に ないこと は
“ 無理 ” を 生む ( 「 無明 」 に 起きる事 )
問題 が 「 識 」 に 起きる
( “あるがまま” ・ タタター を
多々 勘違いする 勘 とは カンジョウ・感情・勘情 )
「 あらゆることをかんじょうにいれず 」
「 よく 見聞き して 」 も
それ が 感情の“生み” に 起きれば・生れ出れば
( 逸れているけれど も ) ソレ を 感情 は 見聞きしない
感情 というものは 移ろって キョ・居・虚 を 決められない
勘定 の 仕方 とは
恣意・計算 の 用い方 で いくらでも単位を 変える
( 一 を 千分した 一 とは イチナノデス・その位置にある一 )
↓
あなたが 位置 を 変えれば “ その一” は 姿/位置 を 変える
“あなた” とは わたしをふくめて 位置を変えない時に
( 変らぬ一 ) 位置 を 決める
分かる 位置に住む 分からぬ 屋「識」 に 住む
( 「 火宅 」 とは 此処を指す )
> たくみに変化を説くのが仏教だ、という意味です。
わたし は 匠 ではな い 故
に 在って ( その故 の 上下 で )
「 たくみに変化 」 を 説かない
( わたしが 「 仏 」 ではない こと に
わたし以外は 疑問を持たない )
わたしに 疑問がある とは “あなた” が “ 思うこと ”
・・・・・・・・・・・・・
“あなた” とは わたしをふくめて 位置を変えない時に
( 変らぬ一 ) 位置 を 決める
・・・・・・・・・・・・
( いかに変わろうと 変らぬ と 思うこと は 変らない ? )
変る と 思おうと
思うこと( 「行」 ) は 必ず変わる( 「 無常 」 )
・
tanza さま、
これは単に「一切皆苦」が本来「一切行苦」なだけです。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1%8C%E8%8B%A6&mode=search&uop=1
なんで「一切皆苦」と訳され、日本で主流になったかは分かりません。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265979/1/7
上の図を見ると簡明でしょう。デジタルコレクションに登録すれば見れます。
多分ですが、「行」が全員に必要なわけではないからだと思います。
前世、医療の為に実験動物として人間に尽くしたという徳を積んだご褒美で
人間になったのだから、目一杯楽しい人生を送る権利があると思います。
今世、人間になって、自分達が犠牲になって開発された薬を有り難がって
使う必要ない!!でも、「知らないと」そっちに行っちゃう。
「行」はもう終えてんだよ!!!!人間に騙されんな!!!!みんな!!
のろしをあげるにょだ!!!ワクチンを疑え!!!!!
と、言っても、その「人間」だって、飼育してる爬虫類のご飯として、生まれた
昆虫類なんだから、全員が楽しく生きないといけない!!!!!!
あ、oさんすみません、oさんを責めてる訳ではありません。つい、です。
ここで言う行は潜在力、カルマ、業のような意味の行です。
もっと文脈に合わせて読まないと何も分かりませんよ。
というか、ぎんたさんに合ってるのは仏教ならアミダの誓願だと思います。
oさん!!!素晴らしいです!!!!
「勇気を出して発言してみないと、自分の間違いに気づけませんよ」と、
接心で何度も言われていたのですが、真如苑の誰かになにか言ってみても
返ってくる答えにまったく納得いかなかったのに、今oさんの言うこと
(行とは潜在力、カルマ、業である)超理解しました。
ぎんた仏教素人なので(ねこだから)、正しい文脈はわかりませんが、
わからずに進んでも、多分未来はガッチガチに決まっているので大丈夫
っていうのに賭けています。で、アミダの誓願ではなく、
ニャントロ星人の欲です。
あ、開祖が説いた教えの現代に使うとヤバそうな設定を、継主が変えて
いっているのですが、数年前にたしか、「みなさんは何にだってなれます」
とか、「(死んだら)みなさんが好きなところへ行けます」みたいなことを
ほざきだしました。
だって、ずっと死んだら真如霊界に行くってことになってたのに、そこを
すら~っと変えてきたんですよーーー!!で、みんなびっくりしたはず
だと思ったら、そんなびっくりしてないし。(金返せ!っていうタイプの
人とか、もうこんな苑は辛すぎる!無理!タイプの人はとっくに辞めてるし、周りにいる事務局員なんかは、継主様がそう仰るなら~~~みたいな感じ
なのか?でも事務局員もいろんなタイプに分かれてると思います。)
で、ですね、、、「何にだってなれます」言われた時、ぎんた激怒しました。
は?私がこれからアスリートになって金メダルとかあるわけないだろ?って。
でも、ちょっと考えて、ああ、たいしてなりたくないものとか、なる
因果にないものは、まず自分の心が排除するよな、、、あと、身体の制約を
外して、脳内だけならたしかに【なんにだってなれる】か、、、
そんなこんなで、「ねこ」ですよ。あと、のこたんとか、こしたんとか
ゴジラ(シン・ゴジラのほう)とか、ゼットンとかタローマンとかノンとか
とかとか、、、、になっている現在です。
本当は、アインシュタインとかがいいんですが、菅原道真とかコペルニクス
もいいんですが、専門分野をもってないので無理なんです。
一切皆苦は、sabbe saṅkhārā dukkhā であり
諸行無常は、sabbe saṅkhārā aniccā です。
sabbe saṅkhārā(一切の形成されたもの)が苦である
sabbe saṅkhārā(一切の形成されたもの)が無常である
ということで、主語は全く同じです。
漢訳したときに違った漢字を当てはめただけです。
仏陀は、チュンダの供養した豚肉料理によって出血性腸炎で亡くなりました。
仏陀が言った『スジャーターの供養とチュンダの供養が最高の供養だった』という言葉は、仏教の本質を表した凄い言葉です。
これは、仏陀を死に至らしめたチュンダを慰めるための言葉ではなく、仏陀の本心からの言葉、究極の言葉だと思っています。
そうかなー?豚肉かなー?死にそうな老人に、、、、、?
あと、引っかかるのは涅槃図とかで、ご母堂様が天上から薬を投げてよこしてる
じゃないですか?で、ねこがはたき落しちゃったんですよね?それは、やはり
毒殺を暗示していると思うんですが、、、(犯人が誰かを突き止めたいのでは
なくて、何が起こったのかだけを知りたいのです)ねこは別に、単純に動くモノに
反応しただけだと思います。
鍛冶師チュンダ(Cunda)が供養した料理は、
スーカラ・マッダヴァ(Sūkaramaddava)です。
スーカラ(sūkara)=豚
マッダヴァ(maddava)=柔らかい
料理名であることからすると、
『豚肉の柔らか煮』というようなものであったでしょう。
鍛冶師チュンダにとって、考えられる最高の料理だったと思います。
チュンダは決して裕福ではなかったと思います。
自分が食べた中で一番美味しい、是非大切な人に食べてもらいたいという
精一杯の御馳走だったと思いますね。
涅槃図で摩耶夫人が天から薬を投げて与えようとしたのは、
中国で創作された寓話です。
猫が落としたのは、日本で創作された寓話です。
猫は、経典をかじるネズミを退治することから仏教にとっていいイメージもありますが
ネガティブなイメージで描かれてることもあります。
中国では、猫が薬を落とすストーリーはなかったと思います。
日本で勝手に作られた話でしょうね。
えーーー、そうなんですね!!
「日本で勝手に」ですかぁ、、、でも、神でほとけのどなたかが意図をもって
付け足してくれたと思うので、ぎんたとしては「採用~~~~~~」です。
猫はネガティブは当然ですね。
猫は時代によって、かなりイメージが違います。
平安時代は、猫は中国から来た稀少な愛玩動物だったので、貴族のペットとしてとても貴重なものとされました。
ところが、鎌倉時代や室町時代になると、怠けものや罪障の象徴みたいになっていき、化け猫などの物語が作られていきます。
何故かはわかりませんが、日本で繁殖していって、稀少価値がなくなり、野良猫も増え人間の食べ物を取ってしまうことが増えたからかもしれません。
非常に悪いイメージです。
お寺でも、猫は経典をかじるネズミを殺すことから、ありがたい反面、殺生をする存在として忌み嫌われるようにもなります。
涅槃図で猫が薬を落とすというのは、この時代に作られたものでしょう。
江戸時代以降は、庶民のペットというような無難なイメージが多いと思います。
そして、現代は空前の猫ブームですね。
*
思うこと とは 表現の自由 の 別の名
> 仏陀が言った『スジャーターの供養とチュンダの供養が最高の供養だった』という言葉は、仏教の本質を表した凄い言葉です。
仏陀の言葉 は “すべて” 本質 ではなく 「 真理 」 です
( 本質 ? )
「 真理 」 を 知る者 を 仏陀 と 呼びます
( その 諸々のブッダ に 出会う度に 習い(重ね)ます )
本質を表した と 本質を知る者 ? が 表す
みずから を 凄い者 と知り すごい言葉で 記す
( すごいことです )
すごいこと ではあるが 「 仏教 」 には “ 本質 ” は ない
( “ 本質 ” とは “本質” を 知った者 が
知らぬ者に対して 使う 意味不明なる 言葉 )
(意味を)知らぬ者 は その意味(本質) を
( 言葉の意味 の 上 では ) 知ることがない
この意味 が “ 本質 である ” と 言ったところで
その意味 は “ 本質ではない ”
ということ を 本質的には 否定できない
ただし あなたが 「 仏教 」 を説く 仏陀 であるならば
話し( 「 正語 」 ) は 別の階梯に起きる
あなたは どのような根拠をもって 本質を知った
ということを 知ったのですか ?
( 内なる心 に ) 照らし合わせて 事実を知る 、、、、
事実 を 知る者 を 仏陀 と 呼ぶのです
( あなたが知る 事実 とは
事実 に 基かない あなたの 解釈 の 解釈 )
・
私が『仏教の本質』と書くと決まって
あなたが『仏教に本質はありません』と書いてくるのはわかっていました。
いい加減、言葉のひとつに決まりきった反応をするワンパターンから脱皮したら?
あまりにあなたは言葉について回っている。
あなたには『仏陀が言った『スジャーターの供養とチュンダの供養が最高の供養だった』という言葉は、仏教の本質を表した凄い言葉です。』の深い意味は絶対にわかりません。
あなたと話すことが時間の無駄です。
他人に何か言う前に、自分の足元を見たら?
現実の日常生活で、あなたは慕われていますか?
あなたの一番身近な存在、奥さんはあなたの仏教の話を尊敬の念で聞いていますか?
あなたに人生相談する人は多いですか?
まずは、あなたの奥さんがあなたの仏教の話を聞くのが大好きかどうか、です。
どうですか?
> あまりにあなたは言葉について回っている。
言葉 は クギョウ という 「行」ですよ
「行」について ただしているだけです
> 他人に何か言う前に、自分の足元を見たら?
あなたの 足元の見方 とは 違う だけです
あなたには ( 見たい ) 足元 は 見えても
( 見たくない ) 足・脚 下 を 見ようとはしない
> あなたの一番身近な存在
わたしの 一番身近な存在 とは
「 自己 」 を みつめる 自省心 という 存在です
わたしの 奥さん の話より
あなたが 大好きな
奥さん の 話しをしたらどうですか ?
やはり、そうですね。
急におどおどしてきましたね。
他人に何やかやと言う前に自分の生き方が、現実の日常生活でどのような結果をもたらせているか、見るべきです。
もし、あなたが現実生活で、周囲から煙ったがれているようであれば、あなたは道の人ではない。
特に、自分の奥さんの尊敬も得られてないのであれば、ニセモノです。
『ネット弁慶』という言葉があります。
現実社会だと何も言えない人がネットでは急に偉そうになる人です。
あなたは、ネット限定の『ネット導師』『ネット師家』だと思っています。
ネットでだけイキっているのは恥ずかしいことです。
あなたの奥さんさえ聞かない話をネットで無理矢理押し付けてくるのはやめた方がいいですよ。
*
> あなたは、ネット限定の『ネット導師』『ネット師家』だと思っています。
あなたに 語っている と 思っているのです
あなたに 語っている と 思い違っているのです
“あなた” に 語っています
語る相手 と 聞く 組み手
わかるかな ? 管理人エム 様
他人事 ではないのです
あなたが 思いつくように 工夫しているのです
***********
> ネットでだけイキっているのは恥ずかしいことです。
イキっている のは だれですか ?
恥ずかしくないから 恥ずかしい と
知ることはできるかな
***********
( これくらい の 記述 は 読み取れなければ 、、、、 )
ちゃんと 読めてますか ?
“あなた” に 聞いているのです
( いつ読んで いつ分かろうと それは 問題ではない )
問題を出しているのではないのです
わかるように 工夫して
「 時 」( 分かる場所 )を 待っているのです
分かっても 分からなくても
「 時 」 に 起きる
・
あなたは本名で投稿していて、あれだけ誰にも『マニカナに来なさい』と言っているのに、あなたの現実社会の知人がひとりもあなたに挨拶にも来ないのは何故かをずっと不思議に思っていました。
現実生活の中で、あなたに人生の相談をしてきたり、あなたの仏教の話を聞きたいと言ってくる人はいますか?
あなたの家族であなたの仏教の話を聞きたいと言ってくる人はいますか?
ネット空間でだけ、それも、ここの管理人エムさんだけが認めてくれたので
それを葵の御紋としてここでだけイキり散らかしているように見えます。
何かあると
> わかるかな ? 管理人エム 様
と管理人を呼び出して自分を認めさせるというわけです。
そんな、自我のゲームに何の意味があるんだろう。
ショーシャンクさま こんばんは。
>と管理人を呼び出して自分を認めさせるというわけです。
>そんな、自我のゲームに何の意味があるんだろう。
わたしは、過去に登場した「ネット荒らしの方々」4名の中に春間さまも入っているとは思わなかったので、最初はびっくりしました。
でも、ショーシャンクさまの気持ちもわかります。
春間さまには、もっと違う言い方を考えても良いのではと思うときが、何度もあります。
春間さまは自我の強い方だと思っていますが、ご本人はご自分の自我に気づいていません。
まあ、わたしも同じようなので、しようがないかなと思っています。
ただ時に仏教の心髄に触れるときがある(と思う)ので、わたしは春間さまの言うことをお聞きするのです。
最近では
>首狩り族 の 住む 札幌で 心を病む人もいる
> 支える人 が 首狩りの 手伝い に 翻弄する
とあったので、
数年前にあったススキノの殺人事件のことだなとおもって、犯人のお母さんかお父さんも協力した話しだったなあと思ったのでそこに反応しました。
それと同時に「まったく余裕のないこのわたしのこと」に「支える人」として触れていると思ったので、そこをお返事しました。
仏教要語を使わないとき、核心に触れることがあるな、と思います。
強い自我が出るときもあれば出ないときもあるので、そこが面白いと思っています。
ショーシャンクさまの見方も、そうだなあと思うことが多くありますが、ご本人は違う意図だなと思うこともあって、その意図が意図として見えることがまずいんとちゃうかと思ったりしています。
ショーシャンクさまは、その意図を「(おまえの)意図だぞ」と指摘しているような気がするのです。仏教では、意図は見えないときが多いと思います。
自己の意図だけではなく、縁起するところによっても、物事は変化していくと思います。。そこを知ることが仏教かなと思っています。
ショーシャンクさまの書き込みに感謝しています。
*
( 作文中に 上部を 消去してしまった )
> 春間さまは自我の強い方だと思っていますが、ご本人はご自分の自我に気づいていません。
あなたが 気づくようには 築いていません
その築き方 が 消去 ↓ 丈夫 ↑ を 構成している 、、、、
ま それは “ ひとりよがり ” だと されても
いたしかた は な し( ハンシテニギル )
ま そのまま 残っているところ を キジュツ と する
************** *
その 財 は “ 主に 所有者 が 使用する ”
( その故 を 持つのではあるが )
“あなた” が 使うことを 想定している
つかう 「 主体 」 は
“ わたしにある と 同 時(場所) に あなたにある ”
あなたが ( 天然で )する “どく” ( わたしに聞く毒 )
“ わたくし ” 事 を 記述できていることに
おどろき あとずさりしながら まえへ と “ すすめる ”
( いつも 「 縁起 」 に 起きること と 知り
「 よくみききしそしてわかり 」 と 「行」 とする )
わたしの工夫 とは 断て いと 横 意図 を 組み込まなければ
クフ という 布 は 織られない ということ
( オレナイ のではなく そこに オノレがイナイということ )
克己 する には オレ の 存在 を 観なければ 、、、
オレの存在 は 鏡に映る “ 見たい自分 ”
みたくない オノレ は そこには “乗って” は いない
工夫が足りない のであれば 工夫 ( して 観 ) せよ
( その工夫 を “人に冠する” あなたの お凸の向く方向 )
> 強い自我が出るときもあれば出ないときもあるので、そこが面白い
面白事 だと して “ こと を 澄ます ? ” 思い
> わたしも同じようなので、しようがないかな
しょうがないかな と 思わされる ? ( 意図を 量る )
> と思っています。
思うこと から “ もの こと が 始まる ” と
思って 思うこと の 中から でることはできるかな ?
( そこのところ を 強調して
鳩摩羅 は 「 遠離一切 」 と “ あえて” 重ねる )
クマラ( ラジュウ ) 君 は “ 論理学 ” の 熟練者
( 重ねることにより おきる 混乱 を 知らぬわけではない )
よく検討せず ラジュウ 等住 と ソコラジュウ を うろつく
そこに クマール は 居なく
居ないところに あなたが ジュウ する
( 影響している 習性 から 終生 離れることが “ 大事” )
ま 引っ越し した ↓ という 前 提 ↑ で
これ “等”(羅) を シタ ためる ↑
クマラ が いなくとも クマラナイ( 軽い引掛 )
工夫 は いつも カラマワリ ?
・
ここに返信すると、ショーシャンクさまに「管理人!危うい!」って言われるかもしれませんが、
面白いのでついつい書いてしまいます。
「仏教はだじゃれだ」という側面があるのを『スッタニパータ』に見つけました。
526 両面ある諸々の白いもの(パンダラ)を考察して、内にも外にも清らかな智慧をもち、黒(悪)と白(善)を超え出た者、このような者が、真実に<賢者(パンディタ)>と言われます。
だじゃれを語る春間さまは、実は仏教の人だった、と知った次第です。
まあ、言ってみれば、言葉はご大層なものではないから、だじゃれでいいのかも。言葉に拠らない、言葉を超えるところが出てくる。。
> よく検討せず ラジュウ 等住 と ソコラジュウ を うろつく
> そこに クマール は 居なく
> 居ないところに あなたが ジュウ する
> ( 影響している 習性 から 終生 離れることが “ 大事” )
まあ、こういう文章を書ける人は春間さましかいないだろうと思うので、だじゃれの中に仏教を見てます。
ブッダの偉大な業績として、「此縁性」という因果推論がある。
現実の世界で、これで事象の原因確定・実験・評価をやるには、工夫を要する。
それで、現代では「反実仮想」の概念を適用している。
参考:『【因果推論】因果推論とは』
https://natorastats.com/causal-inference/
tanzaさま こんばんは。
>参考:『【因果推論】因果推論とは』
>https://natorastats.com/causal-inference/
仏教を知るためによい経典があると思ってご紹介しようと思ったら、「心にしみる原始仏典」に訳していませんでした。
一つは、訳しています。「縁」という経典です。
https://manikana.net/canon/paccaya.html
もう一つは「十力」という経典です。
「サンユッタニカーヤ」12.21
これは、わたしが毎日考えていた経典です。短いですが、ものすごく味わいがあります。「論理」はこの二つで十分な気がする位重要だと思っています。
tanzaさま すったもんだのすえ「心にしみる原始仏典」に「十力」という経典を入れました。
https://manikana.net/canon/dasabala.html
<これ>があるとき <これ>がある、
<これ>が生ずるから <これ>が生ずる
<これ>がないとき <これ>がない、
<これ>が滅するから <これ>が滅する
これらは、めちゃくちゃ大事な公式です。<ブッダの公式>と名付けました。
これさえあれば、何もいらない、というくらい大事な公式だと思います。
ここには半分煩悩が入ってます。ブッダの煩悩だったものなのかなあ。。
ブッダは菩薩時代も、相当輪廻して覚りを開いたんだなあと思います。
石飛先生、こんにちは。
>最近では
>> 首狩り族 の 住む 札幌で 心を病む人もいる
>> 支える人 が 首狩りの 手伝い に 翻弄する
>とあったので、数年前にあったススキノの殺人事件のことだなとおもって、犯人のお母さんかお父さんも協力した話しだったなあと思ったのでそこに反応しました。
>それと同時に「まったく余裕のないこのわたしのこと」に「支える人」として触れていると思ったので、そこをお返事しました。
この書き込みは私は見ていないので、どういう意図かはわかりませんが、
>> 首狩り族 の 住む 札幌で 心を病む人もいる
>> 支える人 が 首狩りの 手伝い に 翻弄する
という文章だけで、この人は物事の本質が見えない人なんだなと思ってしまいます。
札幌の頭部切断殺人事件のことを言っているのでしょうが、地域性は関係ない事件で犯人がたまたま札幌に住んでいたということなのに、
『首狩り族の住む札幌』という言葉を使う精神性が私には稚拙に感じます。
事実をありのままに見ると、頭部を切断した事件がたまたま札幌で起きたのであって、札幌に首狩り族なる一族が住んでいるわけではない。
それよりも、『支える人が首狩りの手伝いに翻弄する』という文章で、やはりこの人の見方は表面的だと感じます。
『翻弄する』は『奔走する』の間違いでしょう。翻弄なら主語は『支える人』にならない。
この事件の本質は、『精神の支配関係』です。
父親の精神科医が、元々病的な自我の娘を極度に甘やかして育てたので、娘の自我がとんでもなく膨張していき、父親と母親を支配する関係になってしまったということです。
娘が父親を奴隷のように支配していたのです。
もちろん、これは殺人が絡んでいますので極めて特異な事件ですが、この本質的な部分は日常頻繁に起こっていることです。
私には、春間さんの自我が膨張していっている様とこの娘の自我の膨張具合が重なります。
石飛先生が、この精神科医のお父さんのような対処を取らなければいいのにと思ってはいます。
> わかるかな ? 管理人エム 様
と呼び出されたら、『はいはい、春間さま、わかっております』というのは、
危うさを感じます。
春間さんの自我が膨張していくのは、掲示板にも本人にも良くないとは思っています。
パワハラ気味の禅の老師、っていうお釈迦様の一面を体現している人、ていうのが
春間さんなのかなぁ。今回の匂わせ?文章もちっともわからにゃい。
でもいいの、ありのままで。
いやいや、さすがにお釈迦様には『パワハラ気味の禅の老師』という一面はないでしょう(笑)
そうですかー。ぎんた、最大限にネガティブに考える認知のクセみたいなのが
あるので、「違ったらラッキー」って感じで最悪を考えます。
あのー、チューラパンタカでしたっけ?「箒を渡されてチリを清めよ~」て
唱えるように言われた彼。彼は今で言うところの精神疾患だったのでは?とか
ついつい考えてしまうんですよー。
うちの家族が、「俺けっこー【無】得意だよ」とか度々言うんです。
ぎんた別に「無」は嫌いだから、どうでもいいんですが、
(だって、無で自分の身体に拘らないなら、それを逆手にとって暴力されるじゃ
ないですか←推測ですが)
で、一度「えー、どうやんの?」て言ってみたら、おもむろにフローリングに
膝を付いて、拭き掃除をするようにゆ~~~~っくり手を左右に動かして、
「こうやって、拭いてることに集中すると、完全に自分が無くなるんだよ」
と言ったんです。ええ、ちょっと得意げに。(ポジティブ野郎か!)
その時、急に恐怖から内臓が全部ぎゅ~~~って縮こまるように感じて、
家族が生き物じゃなくなったような不気味さが半端なく。。。
チューラパンタカは、お釈迦様に「悟れ~」「悟れ~」とやられて、
頑張っても到達しなくて、あーやれば、こーやれば、、とアドバイス責めで
辛くて(出来た人だけが「あなたならできるとか言う」)その内、
心が身体から離脱してしまったのでは?と思ったのです。
(あ、これ前も書いたか?)
ぎんたも、ギリギリ心(魂?)が、心臓から木の皮が幹からゆっくりと
剥がれていくように取れていくと感じた瞬間があって、
((これが全部剥がれたらもう返って来れない))と思いつつ何も出来ないみたいに
なったことがあって。(そりゃあ、心臓に手を入れて心を貼付けるとか無理)
これね、その後どうなったのかというとですね、、、、
最後の最後、剥がれ落ちる~~~瞬間に、何かの弁が、ばふ~と開いて
事なきを得たのでした~。漫画的なイメージとしては、髪の毛がちょっと
持ち上がって?寝癖みたいにはねて?空気が抜けた、みたいな。
その時って、なにかもの凄く理不尽だというご霊言頂いて、怒りに怒り
まくって、もう怒りでパンパンみたいになって、剥がれそうまでいきました。
戻れたのは、記憶をばーーー探って、なんとか最適なモノを見つけれたから。
それは、教書『一如の道』P178 引用
…..私は昨日、向上接心で霊界から大変強いご霊言をいただきまして、
私の胸の中は煮えかえるようになってしまいました。ご霊言をそのような心で
受け取るのは非律不証であることはわかっていながら、
「何も、あんなにまで仰言(おっしゃ)らなくてもいいじゃないか」という
気持ちが、どうしてもとれません。その日は家へ帰っても主人と口も
ききませんでした。寝(やす)んでからも、寝付かれないままにいろいろと
考えた末、ようやく、
「霊界から駆遣訶責してくださったことが有り難いのだ」と思えるように
なりました。
それでも今日、大歓喜修行にまいりますのに、どうしても足が重く、主人に、
「今日は休みます」と言いますと、主人が大きな声で
「何を言うのか。そんな非律不証な心でよいか悪いか、わからないのか。
子供は僕がみているから、早く行ってお詫びしてきなさい」と怒りました。
今夜、祈っておりますうちに、
「私共夫婦が今日あるのは、真如教え、双親様、両童子様のお陰である。
そのみ教えに対して、ご霊言に対して不満を持ったことは本当に
間違っていた……」と、叱ってくださったご霊言の意味も、心からのみこめて
有り難くなりました。同時に叱ってくれた主人にも心から感謝が持てた時、
大歓喜の霊位を相承させていただきました……..。
(註:その次の修行でNさん夫妻は揃って霊能を開きました。)
ぎんたは、(歓喜の人でもご霊言に煮えくり返るなら、大乗会出てない私なんか
フツーよねー)と、この時咄嗟に思えたので、今日があると。N婦人ありがと。
や~~~~~、「お教書」読んでて良かった~~~~~っwww
こんな苦労はもう若い人にさせたくないーーーーーーーーーーーー!!
早く潰さないと。
で、ですね上の文章は、『内外時報』122号・昭和36年てなってるのですが、この昭和文章、今の若い人に読めっていったって、厭でしょう。
読みづらい、つまんない、内容もなに言ってんのって感じで。もはや
古文に近い。
前にWeb集会で「み心」ってなんですか?て質問あって、
みんな「仏様が私達に幸せになってほしいと願って下さっているという心」
て感じで回答してたけど、ぎんた、(これはもう、「み」がだめなんじゃ?)
この若い人と、ぎんたの若い頃で大体一緒の学力だとしても、平成生まれには
「お教書」苦痛だと思います。まあ、中には「日頃お教書読んでたから昭和の
小説違和感ないです、受験の時助かりました」って人もいる可能性は
ありますが。
あ、でもね、さっきWeb集会見てたら、「青年だからもっと頑張れが
プレッシャーに感じて苦しい。何をどうすれば?「青年」で括るの
ラベリングでは?」みたいなのがあり、、、、。うん、、、、
双親様、終了ーーーーーーーーーーー!!って。
ていうか、「青年」が結集して真如苑をぶっ潰すんですってば!!!!
ぎんたも頑張る!!
ぎんたさん。
質問していいですか?
『大歓喜修行』とは具体的にはどのような修行なのですか?
『大乗会』とは何ですか?
『霊能を開く』とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?
教えてください。
霊能を開くと、その後研修?して霊能者としてご霊言を出す人になります。
会座(えざ)で祈りの修行をして、「祈りが通る」ことを頑張ります。
大乗→歓喜→大歓喜→霊能と順に修行して「霊能開発」です。
順調に進んで、、大体15~20年位?掛かります。早い人はもっと早いです。
会座に座るのに「お救け人数」とか諸々条件をクリアしないといけません。
これがぎんたの説明ですが、お望みであれば、教書から該当箇所を
引用することもできます。
そ、それでですね、、、、な、、なんと、ぎんた「大乗」を相承して
いるんですよ、、びっくりなことに、、、
って、上の「そ」を書き出す直前になって、やっと、ショーシャンクさんの
「意図」がうっすら解ってきたのですが、、
ぎんた春間さんと話すとねこになっちゃうけど、ショーシャンクさんと
話すと、飼い主のほうのぎんたになっちゃって、真如苑の飼い主のほうの
体験とかを書き易いということに気づいたんです。
ショーシャンクさんには、あの危険な団体のことを話し易いなーとは
思ってましたが。最近あの危険な団体と書かずに真如苑と書くのは、
別に特別な意味はありません。
ano危険な団体と変換されてしまうようになったから、真如苑のが短いし
こっちでいっか、と思っただけです。「単語登録」すればとか思うケド、
めんどくさいです。ありのままで。。。
ショーシャンクさんにはいつも感謝しています。
大乗相承したとこからは、明日以降書きますね。
昨日、びっくりしたこと。朝日新聞の記事
15歳で死去 ミレニアル世代の新聖人 、、、、、、え、、、
「奇跡」を起こしたことも条件だ。、、、、、、、えー。。。
あ、今月から半年間朝日新聞なんです。
ショーシャンクさま こんばんは。
率直なご意見ありがとうございます。
>『はいはい、春間さま、わかっております』というのは、
危うさを感じます。す。
>春間さんの自我が膨張していくのは、掲示板にも本人にも良くないとは思っています。
『わかっております』というわけではないんですが、そのように見えるかもしれません。今後気をつけます。
世間に自我のない人はいないので、まあ、こんなものだな、とは思っておりますが、他山の石としなければならないのかも、ですね。
わたしは、ある意味、無我を説く仏教に春間さまのような方がいるのは面白いことだと思っているところがあります。自我というのはやっかいで見えにくく気づきにくいものですから。
しかし、他人には、その人の自我はよく見えるというところがあるかもしれません。
わざと刺激してるんじゃないかと思ったりもします。本当のところはわかりませんが。
わたし自身は、春間さまに坐禅を教えてもらったと思っています。「ただ座るんだ」ということをならって、ああそうなんだと腑に落ちたので、今のところ、そう思っています。
常不軽菩薩のような、煩わしいところのある人物だと思っています。
常不軽菩薩についてのひとりごとです。
今までの法華経解説本では、常不軽菩薩についてはこういう解説がなされています。
『常不軽菩薩はあらゆる人の仏性を礼拝した。「あなたは必ず仏になる人です」と。
馬鹿にされたと思った人から石を投げるなど暴力を受けたが、礼拝し続けた。常不軽菩薩は釈尊の前世だった。』
しかし、法華経をありのままに読むとどうも不可解です。
常不軽菩薩はあらゆる人に対して声をかけていない。四衆に対してだけ声をかけています。つまり、バラモン教の信者、ジャイナ教の信者、あるいは無神論者、つまり、仏教信者以外には声をかけていないのです。
『あらゆる人に仏性があることを教えている』のであれば、四衆以外にも声をかけるでしょう。
そして、相手を敬った言葉をかけているのに何故、石を投げられるくらい激怒されているのか、です。
この理由も法華経には、はっきり書かれているのに、その理由に触れた解説はありません。
常不軽菩薩は、死期に近づいた頃に初めて法華経を聞きます。
そこで初めて法華経の意味を悟ります。
それでは、常不軽菩薩は法華経を知りもしないのに、人々に『仏になる』と声をかけていたことになります。
ショーシャンクさま わかる限り自分も考えてみます。
>四衆に対してだけ声をかけています。つまり、バラモン教の信者、ジャイナ教の信者、あるいは無神論者、つまり、仏教信者以外には声をかけていないのです。
素直に考えると四衆以外に声をかけないのは、本人の意思を尊重したからではないかと思います。かれら比丘たちは仏教徒になった。ということは、無我をめざすということだから、そこで、敢えて自我を刺激して気づかせようとしていたんじゃないでしょうか。
増上慢の比丘たちが席を立って出て行ってしまうシーンがありましたよね。方便品でしたっけ。お釈迦様の説法なのに聞かないんだ、って思ってびっくりしました。
常不軽菩薩がブッダになったのなら、きっとそうです。ブッダはしつこくしないし、増上慢の比丘たちも自ら気づくように仕向けて、活動してたんじゃないかな。
>それでは、常不軽菩薩は法華経を知りもしないのに、人々に『仏になる』と声をかけていたことになります。
これは「行」だから法華経知らなくてもいいんじゃないかと思います。菩薩は経典に依っていることもあれば、依らないこともあるのじゃないでしょうか。
石飛先生、ありがとうございます。
> 素直に考えると四衆以外に声をかけないのは、本人の意思を尊重したからではないかと思います。かれら比丘たちは仏教徒になった。ということは、無我をめざすということだから、そこで、敢えて自我を刺激して気づかせようとしていたんじゃないでしょうか。
もし、衆生の中にある仏性を礼拝するのであれば、既に仏道に入っている四衆に対してよりまだ仏道を知らない人たちに声をかけるべきではないでしょうか。
仏道に入っている四衆は、常不軽菩薩が声をかけなくても既に仏道を歩んでいるのですから。
> 増上慢の比丘たちが席を立って出て行ってしまうシーンがありましたよね。方便品でしたっけ。お釈迦様の説法なのに聞かないんだ、って思ってびっくりしました。
私も、このシーンは不可解で仕方ありませんでした。
こんなこと、あるわけないと思いました。
自分の師匠の仏陀がこれから一大事因縁を説こうというのに出ていくなんてあり得ません。
最前列のチケットが100万円でも手に入れたいでしょう。
> これは「行」だから法華経知らなくてもいいんじゃないかと思います。菩薩は経典に依っていることもあれば、依らないこともあるのじゃないでしょうか。
法華経の中で出てくる『法華経』は経典ではないと思います。
常不軽菩薩は臨終の時に天に響く法華経の偈を聞いてから延命し法華経を説き始めます。迫害していた四衆たちはみな弟子になります。
ここは、何故、四衆たちは常不軽菩薩に対し石を投げたり杖で殴ったりするほど激怒したのか、ということと大いに関連があると思います。
ショーシャンクさま こんばんは。
>自分の師匠の仏陀がこれから一大事因縁を説こうというのに出ていくなんてあり得ません。
>最前列のチケットが100万円でも手に入れたいでしょう。
そうなるはずが、そうならないところが、増上慢なのかもしれませんね。
つまり、比丘たちは、「法華経」なんて認めない、ってことでしょう。大乗なんて、おかしい教えだというところでしょう。
四阿含を認める部派仏教は、自分たちがメインには使わない教えを「小部」に閉じ込めてしまいました。
大乗・密教などの他の仏教も可能だという道を自ら閉じた感がありますね。
まあ、仕方ないのかもしれません。出家の教団を三宝として大事にすることで、仏教をかろうじて維持してきたと言うところでしょう。
自然に存続していく教えではないからです。日本でこそ、仏教は主流ですが、黙っていたら消えてしまうような教えでしょう。
キリスト教やイスラム教等の一神教の教えが広まりやすいです。
必要な考え方だと思いますが。。
石飛先生、こんにちは。
> そうなるはずが、そうならないところが、増上慢なのかもしれませんね。
> つまり、比丘たちは、「法華経」なんて認めない、ってことでしょう。大乗なんて、おかしい教えだというところでしょう。
増上慢はその通りですね。
ただ、この時、釈尊は、『これから大乗を説く』とも『法華経を説く』とも言っていません。
何より、自分達の代表の長老である舎利弗が繰り返しお願いしてやっと釈尊が説こうとするのです。
これからの説法の内容がどんなものかもわからない段階で席を立つというのは並大抵の理由ではありません。
> 四阿含を認める部派仏教は、自分たちがメインには使わない教えを「小部」に閉じ込めてしまいました。
> 大乗・密教などの他の仏教も可能だという道を自ら閉じた感がありますね。
なるほど。そういう見方があるのですね。
四阿含はどれも整然としています。
雑阿含経はテーマごとの編集になっています。
中阿含経は舎利弗の色彩が濃い理性的な編集です。
長阿含経はよほどの文章力がある人が書いた文章です。
どれこ整然とした編集が加えられたものであり、そこから外れた『編集されていないもの』が小部という括りに放り込まれたような気がします。
> まあ、仕方ないのかもしれません。出家の教団を三宝として大事にすることで、仏教をかろうじて維持してきたと言うところでしょう。
> 自然に存続していく教えではないからです。日本でこそ、仏教は主流ですが、黙っていたら消えてしまうような教えでしょう。
そうですね。サンガと戒律という形を維持していくことで、やっと仏教は存続してきたのでしょう。
このままだと消えていくでしょう。
> キリスト教やイスラム教等の一神教の教えが広まりやすいです。
今の勢いだと、地球はイスラム教の星になってしまうでしょうね。
同じ一神教でも、キリスト教はこれまでさんざんやらかし過ぎました(笑)
確かに口では愛だと言ってるのですが、キリスト教の歴史を見てると虐殺だらけで悲惨そのものです。
歴史を知らない人はそれでいいのでしょうが、知っている人は偽善だと醒めてしまっています。
それに比べ、イスラム教は少なくとも偽善ではないです。
攻撃的、戦闘的ですが、口で愛を説きながら攻撃するのではなく、コーランに『戦え』とあるのですから、偽善ではないです。
ですから、イスラム教は確実にキリスト教の信者数を抜くでしょう。
仏教は存続の危機でしょうね。
イスラム教の国には生まれたくないので、仏教が存続するように頑張ってほしいですが。
あー、、、この前家族が、エリート的な人たちが好きなお釈迦様の言葉は
文字起こしするだろうけど、そんな人たちが「取るに足らない」と思う
ものは、書かれたりしないから消えていくだろうね、と言っていました。
しゅぬん…
> 他山の石としなければならないのかも、ですね。
あくまでも “ かも ” の 世界のこと
かも が いつも ネギ を 背負っているわけではない
( です )ね を 付加して 同類に呼びかける )
ね ! 「 義 」 に 背く( でしょ ? )
「 偽 」 が 見つけられなければ
背負う のは 本・末 の 「 顛倒 」
本 当 のことは 末 っても やって来ない こと
> 無我を説く仏教
無我 に於いては 「 我 」 は 存在しない
存在しないところ が 無我 の 働き場所
< 追加 >
「 有 」 とは 「 我 」 のはたらくこと( 働き )
「 無 」 は 働き場所に起きる 「 有 」
混同していては 無 「 理 」 が起きる
*
> 春間さまは自我の強い方だと思っていますが、ご本人はご自分の自我に気づいていません。
自我の強い者 以外に 自我に気付く者 は いるかな ?
無我 で 有我 に どのように 無 を 説くのか ?
無我夢中 と 有我夢中 との 違いは
明確 に 無我に起きて 「 有 」 と できるかな ?
( 明らかなること → 「 認識 」 とは 「 有 」 です )
不確かな事 だから 明らか に できる
( 明らかな事 でも 不確かに 「 認識 」 を起こす )
同じこと を 二種に 言う
( 二種のこと を 多種に 読む )
聞き方・読み方 に 問題がある と
話し方( 記述 )に 問題なくとも 問題が起きる
その 二種の問題 への 対処 は 同じではあるが
対処の用い方 は 別種 と なる
Dmp.152
聞くこと少なき者 は かの鋤を引く (草をはむ)
牡牛のごとく ただ老ゆるなり
その肉は 肥ゆれども 、、、、、、
聞くこと少なくとも 善き耕作をする者 が あれば
鋤 を 用いて 耕される
Su.77
「 ・・・・。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」
軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのに・・・・・・・『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という
春間 が 耕作しているところを見たことがない という
それなのに 春間は 耕作して 収穫して 食う という
( 自我の塊り を 食って その腹の肉は 肥ゆれども 、、、、 )
>> 『はいはい、春間さま、わかっております』というのは、
危うさを感じます。す。
>> 春間さんの自我が膨張していくのは、掲示板にも本人にも良くないとは思っています。
> 春間・・は自我の強い方だと思っていますが、・本人は・自分の自我に気づいていません。
気付いて いない と 言うとき
気づいて いる こと が 見えない !
( 見えることなのに 気付けない 見方 な のか
気付きがないこと を 見ているのか )
気づき方 は 見える けれど 強い自我 を 纏っている
当てはめて 確かめる 自分自身( 「 自我 」 )
どうやって あること が ある と わかるかな ?
「 自我 」 を 見るとき 「 自我 」 への 対処が起きる
あなたは 天然で 対処ができる
「氏」 に 感謝しなさい ( 父母恩重経 とは 階梯が違う )
やさしさ を “ 甘さ ” と 勘違いする 、、、、
それは 甘露( アムリタ ) の 味 とは まったく別(反対)
> 『わかっております』というわけではないんですが、そのように見えるかもしれません。今後気をつけます。
見方 を 変えること は 当人以外には 不能である
見え方 を 変えても 見方 は その目的に沿って起こされる
目的に沿った 見方 で ↑見方 を 正当化する
見え方 ! を 変えることはできない
バラモン は 言う
「 わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。 あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」
( いじりすぎて 消す前 に あげる )
・
春間さま 来ると思ってましたよ。
>自我の強い者 以外に 自我に気付く者 は いるかな ?
否定しません。
>見え方 ! を 変えることはできない
いや、できる といいます。この文に春間さまの自我があると思うんだけど。
諸行無常は、だてではありません。
*
>>見え方 ! を 変えることはできない
>いや、できる といいます。この文に春間さまの自我があると思うんだけど。
その ↑ ( ソノイチ ソノニ は アトニ キズク )
( できる と 言い切る 切り口・切り方 )
は 今のあなた の “ きりくち ” では 変らない
( 認識の 方法・仕方 も 長きにわたって 積み上げたこと )
切り口 で ( 口の上で ) いくら 頑張ろうと
変えるのは 歩み方 ( 積み上げの基礎を作るということ )
“ 切り口 ” は 変えうる が “ 続く ”
“ 習慣の積み上げた ” “ 胴体 ” は もとのまま
“ 胴体 ” の 変え方 は
“ 胴体 ” の 変え方 で 変えなければ 、、、、
“ 動体 が うごく ” のは 「 理 」 には 合わない
『中論頌』 に (戯論とされようと) 厳しく 指摘されている
“頭にくる” ( クルウ ) クル モノ ハ コズ は
“ 胴体 ” の 変え方 は
「 去る者は去らず 」 ( 変らない) という意味
( 頭に 来 なさい 来ているところ に 来ることはできない )
来た から 去りうる
「 さる者 は 猿 ところから 去っている者 」
猿真似 では 真似 であって、
「似」 とは 違う という意味
( 真 位 の 始まり ではある が
真 の “ 切り口 ” で あり そこから続く 魔似 )
( 襟元の ) チンターマニ に そっと 手を沿い逢わせる
マネ ― に こだわっていては
“ ザイ・財 ” に 埋もれるのみ
坐 位 に 坐して マネ ― の 山から 離れる
糞掃衣 とは チープな 服・「 意 」 を 指すわけではなく
打ち捨てる (役に立たなくなった) 金蘭 を (も)
縫い合わせれば
“真理への旅姿” と なる という 意味
説明 で ( あなたは ) 余計 に 分からなくなる
かな ?? ( そこに カナ・金 しばり )
金蘭 を 捨てる とは
質素な衣を 着る という意味 ではなく
敗れ得る 衣 は 一時の輝きに過ぎない ということ
変らない 金蘭 に “ 埋もれている ” とは
( 財 に ) 執着する あなたのこと を 言う
( “ 執着から離れること = 財 に 執着する ” )
知財 ですよ !
問題 は 「 執着 」 という 執着されている 「 積み重ね 」
幾度 羽ばたくとも 「 空 」 は
ソラ (覚わったこと) では 覚わらず
「 智 」 に 足をつけ 蹴っ飛ばす “ 知り ”
地における “ 知 理 ” を 蹴り その下に埋もれている
「 智 」 を 得る
( 得ること と チに着く とは 同時・同 処 に 起きる )
>諸行無常は、だてではありません。
だてではない と 駄手 を 不用意に 使う
「 諸行無常は、だてではありません 」 と 使う 不用意
だって だてなんだもん 、、、、
「 おまえ が悪い 」 と 後ろから言う “ 主体 ”
( 困ったことに「 主体 」 とは 口から出でる 口元を言う )
“ ” と 「 」 の 使い違い を 知ることはできるかな ?
漫然と 用語 を 用いているわけではない
( 「 翻弄 」 と 「 奔走 」 との 使いかたの差には意味がある
けれども 意味を見出さず ば 意味はない
君が見出す 意味 は 自らを翻弄している 、、、、 )
翻弄 していること に 奔走する のは 誰 ?
奔走 している者 を 本葬 しようとしているのではなく
弟子たちに “ 本葬 は 不用 ” と 諭す牟尼 の
“ 猿真似 ” を しているに 他ならない “己” ・ 口元の主体
( 他人事 ではなく 自分のこと だと “習” 「 智 」 する )
わたしは 「 善男善女 」 に 語り 懸けて 居る
( 日々の わたくしごと に カタマリ 懸けて 居る ? )
主語 という 主体 の シュウタイ ( 集大成 )
( 「衆・集」 とは 大という意味 「醜」 とは 鬼に入ること 」 )
ま ( 間 が 悪 )
分からない人 が 悪人 と 言うわけではない
「 真理 」 とは 得難きこと と 言う意味
( 言う事の中には真理はなく 聞くことの中にのみ“ ある・有 ” )
聞こえたこと が “ 言っていること ”
・
> 来ると思ってましたよ。
思うだけで やってくる
やって来た のか 行くから 来たのか
行く主体 は 来る主体 の 生みの親
ま 親はなくとも “ 親子は育つ ”
オヤ ? 育ったのが 親 ?
伊達 で 育ったのではなく そだてるてだて で 育つ
子 と 親 との 境目 は
膿出る 処 に起きる ( 膿 を 大海 とも呼ぶ )
たいかいにしておかないと きらわれる
ぎんたさん、教えていただきありがとうございます。
> 霊能を開くと、その後研修?して霊能者としてご霊言を出す人になります。
> 会座(えざ)で祈りの修行をして、「祈りが通る」ことを頑張ります。
> 大乗→歓喜→大歓喜→霊能と順に修行して「霊能開発」です。
> 順調に進んで、、大体15~20年位?掛かります。早い人はもっと早いです。
> 会座に座るのに「お救け人数」とか諸々条件をクリアしないといけません。
「お救け人数」というのは勧誘した会員数ということですね。
勧誘した会員が脱会した場合は、その人の「お救け人数」は減りますか?そのままですか?
何人くらい新規会員を勧誘できたら、『会座』に座れるのでしょうか。
つまり、こういうことですね。
勧誘した会員数もクリアし、お布施する金額累計もクリアできたら、
『会座』に参加できる。
会座は、大乗→歓喜→大歓喜→霊能とあって、
霊能会に進んだ人のうち、霊能を開く人が出てくる。
と、こういうことで間違いはないですか?
霊能を開いたということは、誰が決めるのですか?
自分が霊能を開いたと思えばそれで認められるのでしょうか。
そんなことはないでしょうから、導き手が『この人は霊能を開いた』と認めるのでしょうけど、その時本人が霊能を開いた自覚がないケースもあるような気がしますが。
あー、すみません、ショーシャンクさん!真如苑のサイトに行ってみたのですが、
きちんと全容を書けるほど、纏まった記述がなく。。。ただ、会座にも種類が
あって、精進会座ていうのと、相承会座があって、精進会座で祈りの深まった人が
相承会座に行けて、そこで祈りが通れば相承出来ます。祈りが深まったか見るのは
事務局員の霊能者?だと思います。相承会座で祈りが通らなかったら、また精進
会座からやり直しだっけか?わかんにゃい、、、は~こういう時、頭悪いな、と
思います。詳しい事務局員がシュッときて説明してくれたらいいのに。でも、
その人からしたらぎんた敵だから無理。。。誰か辞めちゃった人で詳しく憶えている
人来ないかなー、、無理。。。
で、霊能の場合は、あ、「霊能発動修行」とかいう名前だったか?事務局員が
この方そろそろです、みたいになったら、真如継主がすすっとやってきて、
霊呼吸とやらを送ります。で完全に感応できて「天霊系」か「地霊系」かその時に
言われて、相承だと思います。未体験の世界なので、細かくは書けません。
で、ショーシャンクさんのご懸念はそこではなく、参座資格のほうだと思うのですが
1990年代か、それよりもっと前にネットですでにやりましたが(ぎんたは知らない)
その頃の参座資格を満たすべく、お救けに取り組むと、日本人の人口に限りが
あるから、「誰でも霊能者になれる」が嘘偽りになると。数学の得意な人なら
瞬時に計算できると。大分年月が経ってからそれを家族から聞いて、うっ、と
思いましたが、ぎんた真如苑をもの凄く信じていたので、「でも、実際そんな
さくさくお救け出来ないから、机上の論だっ」とか言ったと思います。
色々やり取りして(こいつには、今は無理だ)と悟ったw家族は長期戦に切り替え、
「これ面白いから読みなよ!」と京極夏彦を勧めてきました。で、すっかり
ハマって、京極夏彦教の信徒第一号になっちゃって、ていうか、私が開祖なのか?
で、今、数学とか、マルチ商法じゃなくって正真正銘王道の仏教を使って、
真如苑を粉砕して(これから部派にわかれまぁーす、とかは無いでしょうし、「そしたら2週目行っちゃうじゃん」家族「アレフとかひかりの輪もあるぞ」って)
最小単位の一人一人がそれぞれ自分の推しとか、なにかの活動とかをして、
自分で自分に指示を出してやっていく感じにしたいなーと思っています。
取り敢えず宗教法人からは外れてもらいたい。
あ、ぎんたが大乗を相承したのは「おまけ的措置」です。
あのですね、月一で接心頂いてて、2015~16年に「教えは何年?」と
きかれて「20年」て答えることが、何度かあって、その後に続くご霊言は
違うのだけれど、段々と(ちょっとこれ、毎回20年とか答えて、変に「有名」
みたいになってない?この人例の、みたいな)
毎回毎回20年て答える感じのご霊言じゃ、貰う意味ないんじゃ……と思って
いたところ、2016年に立教80年だったのですが、その時に恩赦みたいな感じwで
「20年位接心頂いてて歓喜の誓約(月5千円)してる方、大乗会に参座出来ます
みたいに参座資格がピンポイントで緩くなったのです。これはですね、多分、
小学生の頃から接心頂いてて、お救け実績などがないまま、なんとなく信心も
消えそうというか、「自分なんてだめだー」と思ってしまっている青年(35歳以下)
の方の向けた配慮なんだと思うのですが、ちょっと、、、何を思ったかぎんた、、
乗っかってしまって、、、2016年の10月22日に大乗会出て、全員で56人相承した
中に紛れ込んでしまいました。
ぎんたさん、ありがとうございます。
一番知りたいのは、真如苑で『霊能者』『霊能を開く』というときの『霊能』とは具体的にはどのようなものなのか、ということです。
どうやら、霊言と関係があるようですね。
神仏や亡くなった人の言葉が聴こえるとかですか?
それは、ぎんたわかりません。接心頂く人の「心境」が「霊能鏡」に映し
出されるんじゃないかな?
私が思うのに、
真如苑の『霊能』とは、霊能力や神通力のような能力的なものとは全く違って
ひとつの地位、役職のようなものなのではないでしょうか。
つまり、ひたすら教えを受ける立場、地位から、教えを授ける立場、地位になったということでしょうね。
霊能力のようなものなら、別に会員を何人勧誘するとか関係なく、生まれつき持ってる人もいますし、1年で開発する人も一生開発されない人もいるでしょうから。
神でほとけのショーシャンクさんがそう仰るならきっとそうなんだと
思います。
で、ですね、大乗相承の時のぎんたのご霊言ですが、、、
【あなたの前に、小さな舟とおおーーきな船の、二艘の船が並んでいますよ。
大きな船を選んで多くの方々と共に歩んで(?)行く覚悟(?)。
日々の中で、このような時にはどのようにしたら教主様の送ってこられた
歩みとぴったり重なるのでしょうか?また、このような時には
どうさせていただいたら両童子様のみ心に叶うでしょうか?と、常に
継主様はそうして前進されています。あなたもそうして歩んだ時には、
継主様は両手を広げて迎えて(待っていて?)くださるのですよ。】
それで、家に帰ってからたしかレポート(相承の)書きながら、ご霊言を
反芻していて、(大きな、を、おおおーーきな位に伸ばしてたなーー)
と思い、それならば、ものすごく大きな豪華客船かぁ~?となり、
いいなー、豪華客船って、中で色々イベントやってて、自分で好きなの
選んで参加するんよね?参加しないで自分の部屋にいてもいいんだよ!
例えば「今日の午後、甲板でヨガあるけど行く?」って導き親に
誘われても、「うーん、今日はいっかなー」で断れるの。自由。。。
自分の行動は自分で決めるし、自分の個室があって、プライバシーは
きちんと守られている。特に導き親に報告とか相談とかしなくても、
心配されない。だって、同じ船に乗ってんだから目的地は一緒。。。
あーそうしたら、私何するだろう、、、。そーだなーーー、、、
みんなが同じ船のどこかで盛り上がったり、一人でのんびりしているのを
感じながら、やっぱり部屋で京極夏彦だなーー。分厚い、至福~
それで、なんというか、心の隅々まで清々しいというか、幸福感に包まれて
いる中に、(これって、別に真如苑の中だけでなくてもいいんじゃ)と
思ったところで突如、脳がーーーーーーーーーーーーーーー
その瞬間(そっちに思考を伸しては)ダメ!か、待って!か、あ!か、
なんか、声を感じて(それが誰の声なのかが解らない)、でも、もう
考え始めちゃったというか、私がびっくりしているうちに、私の心を
置き去りにして、脳自身が勝手に思考しだして、きゅ~~~~~と
忙しく働いている?みたいな。そのうち雲が出てきて、というか雲に
乗ってて、前を見たら、次に乗るべき雲が見えて乗って、するとまた
次の雲が………の繰り返しで。。。
で、もの凄くすっ飛ばして、2018年に、やっぱ一人乗り筏だったや、
と旅立つぎんた。
で、2020年横浜の、ダイヤモンド・プリンセス号に繋がると。
(あ、勝手に繋げただけと言われればそうでしょうけれど)
シンニョヤーナの発表は、2017年でしたか。
絶対に泥船だから(ぎんた個人の意見です)、一人残らず安全に下船
して欲しいのですが。
ぎんたさま おは!
>脳がーーーーーーーーーーーーーーー
その瞬間(そっちに思考を伸しては)ダメ!か、待って!か、あ!か、
なんか、声を感じて(それが誰の声なのかが解らない)、でも、もう
考え始めちゃったというか、私がびっくりしているうちに、私の心を
置き去りにして、脳自身が勝手に思考しだして、きゅ~~~~~と
忙しく働いている?みたいな。そのうち雲が出てきて、というか雲に
乗ってて、前を見たら、次に乗るべき雲が見えて乗って、するとまた
次の雲が………の繰り返しで。。。
こういう経験、わたしもあります。わたしの時は龍樹がらみだったけど。
>2018年に、やっぱ一人乗り筏だったや、と旅立つぎんた。
そうなんだよね。結局、自分の行いは自分に返ってくるだけ、なんだよね。
ダイヤモンド・プリンセス号も一人乗りかもしれないね。
個室にいて雲から雲へと乗り継ぐだけの。。
わたしも龍樹に「本を書け!」って言われたけど、書いたらいいことあるとかは言われてないす。
男の子が生まれると予言したご婦人も、「あてたら良いことある」とかは言われてないと思う、な。
世間の事情ってヤツが、作用してるんだと思う。
ぎんたさまは純粋だから気づいたんじゃないかな。
>霊能力のようなものなら、別に会員を何人勧誘するとか関係なく、生まれつき持ってる人もいますし、1年で開発する人も一生開発されない人もいるでしょうから。
参座規定が出来たのがどのような経緯なのかはわかりません。
あと、ぎんたがずっと気になっているのが、摂受院が真導院を妊娠中に
一般人なのか、一般教徒なのかは憶えてないですが、ご婦人が苑に来て、
「こちらに4月8日に男の子が生まれますが、普通の子供ではなくみ仏様の
子として、お宮参りには輿を仕立ててうんぬん….」みたいに言ってきた
方がいて、それが当っているんですが、なんというか、その方への対応が
ぞんざいというか、あまり信じてないようだったし、かなりもやっとして。
記述が本当なら、摂受心院より霊能力強いじゃんと思ったり。。。
まあ、自分のことは占えないとかいうから、、、でも、ざらっとポイントな
ことには変わらないです。
> あなたの前に、小さな舟とおおーーきな船の、二艘の船が並んでいますよ。
> 大きな船を選んで多くの方々と共に歩んで(?)行く覚悟(?)。
この喩えがよくわからない。
仏教で普通に考えると、大船=大乗 小さい舟=小乗 と思われますが、
日本には小乗が入ってきたことはなく、サンガが存在したこともありませんから、小乗の選択はないでしょう。
もともと、大船の喩えは、浄土門の喩えです。
徒歩で行く聖道門に対して、浄土門の易行の素晴らしさを例えたものです。
しかし、真如苑は真言宗で聖道門ですから、この喩えでは大船ではありません。
単に、大人数が乗る船=大船 ということであれば、日本最大の仏教教団は浄土真宗本願寺派です。新興宗教では創価学会です。
これに比べると、真如苑は小さい舟です。
ですから、何の喩えかがよくわかりません。
> あと、ぎんたがずっと気になっているのが、摂受院が真導院を妊娠中に
一般人なのか、一般教徒なのかは憶えてないですが、ご婦人が苑に来て、
「こちらに4月8日に男の子が生まれますが、普通の子供ではなくみ仏様の
子として、お宮参りには輿を仕立ててうんぬん….」みたいに言ってきた
方がいて、それが当っているんですが、なんというか、その方への対応が
ぞんざいというか、あまり信じてないようだったし、かなりもやっとして。
記述が本当なら、摂受心院より霊能力強いじゃんと思ったり。。。
そうですね。
一般の人でも霊能力がある人は結構いると思います。
どこの街でも、霊視ができてよく当たる占い師はいますしね。
信者バイアスなしで、客観的に見ると、
長男が幼少期に亡くなり、次男が15才で亡くなり、奥さんが55才の若さで亡くなった家庭があったとしたら、創価学会や幸福の科学やエホバの証人やらから『自分のところに入ったら幸せになる』という勧誘が山ほど来そうですね。
やっぱり、先生にも何かあったんですねぇ。ちょっと匂わせてくれている?
と思ったので。なにか、経典とかを読み込むと、ここまでいったら、
この回路が開く、みたいな仕掛けがあるのでしょうねぇ、経典て
スゴイですね。
て、ことは今頃聖書を読んだキリスト教徒に同じようなことが起こって
いるのかな?
で、ぎんたはその後、かなり何も手に付かないような状態になり、
洗濯と料理はなんとかやりましたが(家族にいぶかしく思われないように)、
掃除は大分疎か目になりました。で、10日後くらいに家族に
「(そろそろ?いい加減?)この辺掃除しないの?」と言われました。
こーゆー時は怒らないから助かるーーーーー。
で、11月2日に、見たわけですよ。『君の名は。』を劇場で。
♪やっとー眼をー覚したーかーーい♪
自分は誰だ、は置いておくとして、私がなんかやんないといけないの・?
からの、え、ちょ、、おれ高校生みたいなキラキラしたのと違うけど?
むしろ親世代、、、、でも、やっぱなんかやるんだよね??と思い、そっと
隣の席を見る、、、と、苦虫噛みつぶしたような家族、、、、
(うっぜーーーーーー)みたいなっとるーーーーーーーー
えーーー独りでなの、、。
で、映画面白かったぎんたは、映画の中の「時間」の感じがどうしても
解らず、、映画糞不快だった家族に、だからーー!この時の○○はー!
とか図に書いて教えて貰ったのに、やっぱり解らず、、。
なんでわかんないのー!と言われる。小学生の頃、父に、どこが解らないんだ
と言われながら、「わからないところがわからない」とべそべそしながら
算数の(多分)文章問題をやっていた(というか全然できなかった)自分を
思い出しました。
で、今更びっくりしてるのが、一応歌詞を検索して書いたのですが、
「目」を覚す、じゃなくて「眼」なんだねーーーって。
野田洋次郎、天才かっっっ。(神でほとけの仕事だねーー)
今年紅白出ますよね、朝ドラので。楽しみ
>単に、大人数が乗る船=大船 ということであれば、日本最大の仏教教団は
浄土真宗本願寺派です。新興宗教では創価学会です。
これに比べると、真如苑は小さい舟です。
ですから、何の喩えかがよくわかりません
ですよねーー、ぎんたもわかりません。で、多分霊能者もわからないと
思います。そこで、「やってみるとわかる」ということに
ならざるを得ないのだと思います。多分、ぎんたの中に埋まっているモノを
透視で視ると言ったって、霊能者は他人であるわけで。(この、である
わけで、は人間のまねっこしました、ええ、そうです逢坂冬馬ですよ。お前は早くノーベル文学賞と、ノーベル平和賞をダブル受賞するんだよ!!!!)
で、ぎんた思ったのは、ぎんたの心の中を透視で視ても、それにどんな
価値を付けるかは、霊能者の「主観」だから、その霊能者と合わない場合
意味が逆とかなるよね、、と。だから、接心終わった後で、そのご霊言に
対して2人で話し合いが出来ない場合、何か消化不良が出るかと。その点は
世間の霊能者は、透視で見た後でトータル1時間位はお話出来るだろうから
いいなーーて。でも、真如苑の場合も、初信の接心頂く人は、後ろについた
導き親がいて、霊能者も「解説」してくれるから、まあ、いいとして、
導き親とか、経親が微妙だとどんどん方向がズレていくこともあるよ。
ね、毒親って世間にだけじゃなく、苑内にもいるのですよ。全然変わりは
ありません。
そういえば、ぎんた実家は浄土真宗ですよ!(家族は真言宗で、祖父の代で、
四国から出てきたんだそうです)
よく、世間の人が、なんか宗教に勧誘受けたときに
「うちは先祖代々浄土真宗だ!」っていうあれですよ。
で、本願寺派なんてものがあるのは知らなくって、知ったのはここに来て
ミチオさんの投稿を見てからだと思います。だって、浄土真宗て親しみやすい
イメージで、○○派とか言い出さないと勝手に思っていて。(なぜ?)
で、去年法事で住職さん?お坊さん?に聞いて、何派か解ったんですが、
また忘れた。
ねこに何派は無理すぎた。。。
あ、で、霊能者ですが、まあ、、、、これを言ってもそんなに大勢は
個人を特定出来ないと思うから、申し訳ないけど、使わせてもらうけど。。
ぎんたの、前の経親は霊能者ですが、ある日、こんなことをぎんたに
言いました。
継主様と真玲様は、とっても仲が悪くって、例えば、継主様が真玲様の
2人のお子さん(海外留学している?)にお手紙をお出しても、真玲様が
怒って手紙をビリビリに破ったりとかして、お手紙もお出しできないように
したりとか、あーだとか、こーだとか(←忘れました~)と。
それで、ぎんたびっくりしちゃって、あのね、ねこやはり組織内の派閥
とか本当に疎いので、はぁぁ、、とかちょっと口半開きでじっと聞きました。
で、内心(いや~、摂受心院さまはお二人をペアだかセットで見ているとか
いうのが『かっぽうぎの法母』に書いてあったけどな。もし、本当に仲が
悪いなら、かなり終わってんなーー)て。で、もやもやする~ぅ、、、と
思い、経親の方は、(この子、全然ピンときてないようね、でも、知らない
ままじゃダメなのよ)とかかな?(正解ではない、予想)でも、家に
帰っても、もやもやが続き、このもやもやの正体何~~?と思いながら寝て
翌日午前中のどこかで ピン!!と来ました!
「二人が仲が悪い」ことを経親さんは「嬉しそうに」語ったからです!!!
だって、あの姉妹が仲悪かったら普通悲しいか、危機感だと思うけど、
嬉しそうってどうよ?あーーー!もやっとの正体わかったーーーーーー!
すっきり、ふう。でね、ここが肝心なとこなんですが、、、一晩経たないと
自分の気持ちに気づけないってとこがみそで、、、、
だってね、もしその場でピンときたら、、
「経親さんは、それが嬉しいんですか??」と200%訊いてしまうじゃない
ですかーーーーー!!その自信がありすぎる~(二人きりだったし)
ねーそんな言動したら、喧嘩になって辞めちゃったかもですよ!!良かった!
(その後も諜報活動できたしな)
でも、多分相手も何かの使命感でしょうけれど、その時は、流石にいつもの
「相手は鏡」を当てはめることは出来ませんでした。そのかわり、
もう、この人に上求菩提なんか一切しないで、全部自分で考えようと
決めました。でもさ~、このタイプが自分の親だったらどうしよう、
無理すぎる。なので解散してください。
そして、時が経ち、こんな感じで春間さんに歌の爆弾なげているわけで。
その経親さんは、かなりモーレツな感じの人で、
「埼玉部会じゃ全然埒が明かない」とか言って、埼玉から東京に引っ越して
「立川部会」を手に入れたのよ!まーースゴイったら!一軒家売ったの。
しかも、割とサクッと売れた。「覚悟が違うから」
で、大分経ってから、「相手は鏡」を成立させる為に、ぎんた
「この条件でこの場所に置かれた人は、例外なくこのように動く」とか
決めたんでした。
注:経親の現住所で部会が決まるのです。だから人によっては、一番近い
精舎は都内にあるけど、住んでるのは神奈川県で、部会は埼玉とかなります。
>霊能力のようなものなら、別に会員を何人勧誘するとか関係なく、生まれつき持ってる人もいますし、1年で開発する人も一生開発されない人もいるでしょうから。
で、ですね、ここからは推測なのですが、立教当時、早い段階から霊能は
ちょっと有名、くらいになりました。で、日頃「エリート」「知識人」の
タイプで霊能者を胡散臭く思っている人が、表では霊能を腐しておきながら、
こっそりお伺いに来る、みたいな態度の人もいたそうです。ぎんた的には
どういう神経してるんだろう?ですが、開祖は「どんな人でも悩みはある
から」みたいに寛大でした。(お前殺されたことないんだろうな?慈悲?
あ、そう)で、そうこうしているうちに、開祖の弟子の、順天堂大学で
薬剤師していた女性がなんと、霊能を相承したんです。これは、ちょっと
予想外でした。で、開祖の子供(長女と次女か?)とかも次々霊能を
開いたりして、盛り上がり、更に苑は進展していくのですが。。。
あのね、なんというか、一部「男性」で中々霊能開けないみたいな人が
発生したのではないかと。で、昭和20~30年代の男性ですよ?フツーに、
「女子供」に負けるのが悔しいーーーってなり、霊能者ばっか生まれても
教徒が少なかったら意味ないじゃん的に「お救け」人数とか言い出したのでは
ないかと。そうすれば、まあ、子供はちょっと無理ですから。で、霊能って
「我」が強すぎると駄目とか、多分人を見下してる人が開くのも無理
でしょうし。だからって、世間では一家の大黒柱で頑張ってるのに、苑だと
「霊能開けない」人扱いって辛いよ。。。ぎんたも霊能開いてなくて、
前の経親に言わせれば「まっっったく意味のない大乗」だけど、20年以上
辛すぎたから、、、気持ちはわかりますよ。
で、ここからも、推測ですが、京都の醍醐寺に開祖が泊まりで修行に
行く時、きっと霊祖は強姦されたと思います。まあ、定石よな。
「開祖の修行の邪魔してはいけない」とか言って耐えてたと推測します。
でもさ、ちゃんと開祖に言わないから、、、。内緒は駄目だって、、
そんなだから、現代の女性が大変な思いをして裁判したりしないといけなく
なってんでしょうが!!よく、うちの家族が
「夫婦は同レベル」といいますが、そうだね、同レベルすぎて草
まじで、こいつらだめだめ過ぎる。人を救えるわけないじゃん。
ちゃんとしなきゃ。。。
あ、強姦は今は、性的暴力とか不同意性交とかいうのかな?
またマニカナを汚してしまったや。あとさ、キリスト教会での神父とか
牧師からのそういう被害ってのは、どういうことだろう?そんなことしたら、
徐々に信徒が少なくなってじり貧になるのに。だって子供の頃そんなこと
されたら、大人になったら、教会行かないじゃん?なんでそんな簡単な
因果もわからないのかな?もしかして、仏教でもそういうことがあって、
キリスト教もお揃いなのかな?きっと、キリスト教の神父だか牧師の
「中身」は違う種族なんじゃないかな?それか、中身が元奴隷の人とか?
えへへ、ぎんた「呪い」っちゅうのにチャレンジ中~
どおですか、ショーシャンクさん、足りないトコありますか?
あ、で、「他人事ではない自分事」の観点から、いつか継主の死が隠されて
しまうのでわ?というのが目下の心配。。。
先生、こんにちは!
庭に自然に生えるエゾリンドウの色が美しくて、種ができたら取って増やそうと考えたりしてます。
ところで。
〉「仏教はだじゃれだ」という側面があるのを『スッタニパータ』に見つけました。
〉526 両面ある諸々の白いもの(パンダラ)を考察して、内にも外にも清らかな智慧をもち、黒(悪)と白(善)を超え出た者、このような者が、真実に<賢者(パンディタ)>と言われます。
種々の白いもの(パンダラ)とは何ですか?
赤い実さま こんにちは。
お釈迦様に質問したサビヤは、次のように言いました。
523 サビヤは言いました。「諸々のブッダは、誰を『田の勝者』と語るのですか。何によって巧みな者になるのですか。どうして、賢者(パンディタ)なのですか。聖者といわれるのはなぜなのですか。尊者よ、おたずねしますので、どうぞ解説してください。」
こう質問されて、お釈迦様は、このように答えます。
526 両面ある諸々の白いもの(パンダラ)を考察して、内にも外にも清らかな智慧をもち、黒(悪)と白(善)を超え出た者、このような者が、真実に<賢者(パンディタ)>と言われます。
白いものは、イメージから言って清らかなもの汚れの無いものを示していると思います。逆に黒は、邪悪なもの、不浄なものを示すと思います。
ヴェーダの時代にも白ヤジュル・ヴェーダ、黒ヤジュルヴェーダなんて言葉もあって、「白」は、不純物を含まないという意味から来るのかどうかわかりませんが、注釈文献(ブラーフマナ)を含まないものをさし、黒ヤジュルは、注釈部分込みのものを指しているようです。そこから派生してきたのでしょうね。
後に、白い業や黒い業などの善悪等とも結びつけられていったものと思われます。「清らかなもの」はどうしても白いイメージと結びつきますよね。
「パンダラ」と「パンディタ」が関連付けられるとは思いませんでしたよ。
先生へ
〉白いものは、イメージから言って清らかなもの汚れの無いものを示していると思います。逆に黒は、邪悪なもの、不浄なものを示すと思います。
やはりそうなのですね。
ありがとうございます。
〉526 両面ある諸々の白いもの(パンダラ)を考察して、内にも外にも清らかな智慧をもち、黒(悪)と白(善)を超え出た者、このような者が、真実に<賢者(パンディタ)>と言われます。
再度戻るのですが、「種々の白いもの」と言いながらその前に「両面ある」と付いています。
これはもしかしたら、白いものと見えるものにも微細な両面つまり黒いものも含まれている、という意味ですか?
赤い実さま こんばんは。
>これはもしかしたら、白いものと見えるものにも微細な両面つまり黒いものも含まれている、という意味ですか?
わたしはそうは取りませんでした。白と黒は、単純に色の対比と受け止めました。でも、それも考えられますね。そう考えても、可能だと思います。そっちの方がいいかも。
白と黒の間にはグレーのゾーンが考えられるからです。単純に、白でも黒でもないというグレーが考えられるなあと思ったのですが、赤い実さまのように考えてもいいんだなあと思いました。ヴァリエーションがいろいろ出来ますね。
両面というのは「白」と「白でない」の両面と考えていく考え方です。ことばの上からいくと、赤い実さまのご意見がいいかも。そこまで、ブッダは考えていると思います。だから、だじゃれっぽく聞こえるのかな。
これ、七仏通戒偈に通じますね。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と同じことをいっていますね。
パンダラ(白)とパンディタ(賢者)は善(悪)に通じています。賢者は善悪を乗り越える、ということが出てくるなあと思いました。赤い実さま!すごいね、ありがとう。すごく考察した気分です。
先生へ
疑問に思ったところを想像してみただけで何もすごくはないですけど、ありがとうございます。
〉これ、七仏通戒偈に通じますね。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と同じことをいっていますね。
質問ばかりしてもなので自分でこれは調べてみたら、もとはダンマパダにあるのですね。
漢字ばかりなので中国で作られた禅の言葉だと思ってました。
見たことはあったけどそんなふうに思ってました。
悪をなさないで善をなしなさい。
そのためにも心を清らかにしていなさい。
ということなのですね。
清らかな心からこそほんとうの善がなされる、ということなのでしょうね。
道元の『正法眼蔵』にもこの言葉があるとも出てきました。
原始仏典から漢訳そして道元へとその精神は伝わってるのですね。
> 白と黒は、単純に色の対比と受け止めました。
色 ではなく 見え難さ ・ 見易さ の 対比
こういうことが
グレーゾーン に 収まっている
*
> 〉 「仏教はだじゃれだ」という側面がある
掛け言葉 と 駄洒落 を 一緒にしては “洒落にならない”
もうちょっと 言葉をよく考えて ミナ シャレ
見方 によって 見え方 は 変るものです
「 洒落 」 が通用する 「 酒 」 を 仏教はきびしくシャケル
避け られない ことではない ( 仏教では酒を厳しく 禁ずる )
「 不許葷酒入山門 」
般若 には 熱いも温いもなく 湯・等 を 禁ずる
( ミズ に 入る は 冷たくあしらわれる! )
どっちも同じようなモノ なら 温もりから出でよ !
ま 、 駄洒落 が 通用される 「 世間 」 に
「 居 」 を 構えて 其処に安住する 輩 の はなし
> 〉「仏教はだじゃれだ」という側面があるのを『スッタニパータ』に見つけました。
見つけたところで 見つけよう が 起きる
釈迦牟尼 は 駄洒落 に 覚れない
( 溺れていると 溺れた仲間の 駄洒落を 掴む )
藁蘂 を つかんで 得るのは 世間の財
白いモノ は 色モノ の 世界 にのみ 存在する
白光 とは 「 到彼岸 」 におきる 輝き
( 白黒 を つける意味がない )
ここを “考えること” を 疎かにすると
疎かな 「 認識 」 に 気が付けない
よくよく 駄洒落 に 気を付けなさい( 妙 な・名 付ける しゃれ )
( 「 精進 」 という 「 気 」 )
よむひと よまぬひと 読める 人 その人に語る
・
〉日本には小乗が入ってきたことはなく、サンガが存在したこともありませんから、小乗の選択はないでしょう
選択 しなくともアーガマはあります。
大小 を 越える 仏教
大 がある という 「縁起」に起きる
起こす 仏教
この意味を知らずとも
仏教 は アナタのコナタ に ある
それは オームも仏教である
と言う のと 変わりはない
大きいものは大きい 小さくはない ?
*
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『自分は悟ってる』『自分は仏だ』『自分は神だ』と思っても客観的には否定できない。
これが、社会的、現実的な自慢の要素、自我の構築物だと、
財産は客観的な金額で比較でき、学歴も社会的地位も比較は容易でしょう。
ですから、自我が無限に膨張することはありません。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
客観的 に 見ていると 思う 主観
客観的には 見ることができない という 主観
( 主観 で 主観 を 客観視できる かな ? )
( 「 仏教 」 は 常識を打ち破るところから 生れ出る )
「 比較 」 という 自己常識の基盤から の
“ 高さ・嵩 ” を 量り比べる
( 赤信号 みんなで渡れば 安心・アンジン かな ? )
ま 「 異安心 」 という 量り比べ で 人を量り
その量った人 を 大谷の首領 に 据置く
( 東 の 金・財 を “あけのからす” が 支配する )
身近な もの に “愛着” して
その 「 愛 」 の 中身を知らず
( いや 知らぬのは お主 で あろう・決まっている
と 知っていることで 知らぬことを量る )
決まり とは みんなが決めた モノ ではなく
決める者 の 「主体」が選ぶモノ
文章 の 指し示す(決められた)意味 も
あなたが指す意味 の 上 に 踊る
其処において 踊るそう(は)させん( このように踊らせる )
ま 幼稚園児 に 変らない 理解力 で 考えること
( 理解 を 求めず 服従 を 教える 教育 )
“ 教育 する側 は されたように 教育する ”
幼稚園 には 一年 しか 通ってはいない から
「 一念 」 を 発起 できた とも 言える
宇宙 は 爆発的な速度 で 膨張している と 観測できる
“ 廻ってはいない 地球 ” の 上 に起こす
観測結果 を 信じて疑えない
膨張している 「 自我 」 で ・ 膨張する宇宙 で
観測しようと 得るものは 自我の範疇
( 範疇 という 括り が そもそも 範疇にない )
思い当たる者 だけが “ 当たって 砕ける ”
( それほどに “堅い” 信念 なる 亡霊・妄念 )
・
“求めよ、さらば与えられん”の本当の意味とは|キリストの教え
https://www.youtube.com/watch?v=UfpXcoqBz_c
鬼さま おはようございます。
1度目はコメント欄に書き込むには管理人の許可がいりますので、「承認」マークを押しました。
ところで、この、ご紹介のyoutube、どう思います?
おはようございます。
深い感銘を受けた次第です
究極たる愛 佛教のお慈悲
阿弥陀仏の教え、そのものではないのかと ?
しばらくして この物語は管理人様の環境にも似ているのではないのかと?
勝手に想像し
それで、つい衝動に駆られ、躊躇もいたしましたが、投稿。
ヤイール 怒りも恨みもあります
キリスト それで良いのです
(煩悩・闇・苦) そのままでよいんですよ ! その闇に光が入る
阿弥陀仏の教えそのものではないでしょうか
キリストの回答 この子には、純粋な信仰がある。
鬼さま おはようございます。
>阿弥陀仏の教えそのものではないでしょうか
なるほどぉ。。そう見えますか、たしかに!そう見えるんだけど、ここは「空」が効いているからだ、と自分では思ったのです。
で、その後、ぎんたさまにヒントをもらって、
大乗の「大般涅槃経」を読んで、驚愕したのです。
そこには空も不空もつかわない、と書いてあったのです。
そして、常楽我浄の決めの台詞と共に、なんとなんとあれほどまでに我に反発して説いていた「無我の教え」を(一見すると)振り捨てて「我」と称し始めたのです。
それなのに、やっぱり仏教になってるところ、驚きでしかありません。
本当は、キリスト教のことはよく分からないのですが、人の心の深いところでは
一緒なのかもしれませんね。ありがとうございました。
*
> 本当は、キリスト教のことはよく分からないのですが
今の(地球・世界の)状況 を 考える時には
キリスト教 は 重要ですが
断定すれば キリスト教 と ナザレのイエス とは
もはや 無関係です
“ 教会 ”の 存在 が イエスを 消しています
教会 とは “組織” に 他ならない
( 組織にたてつく イエス は 組織に迫害される )
イエス を 道具 とした “教会” が 広がっていく
( 組織の道具 に過ぎない 教会関係 )
秀吉 が 見た(知った) 海外での “日本人奴隷”
( 言うまでもなく 売る日本人 がいて 買う 奴隷商人 がいる )
ま 日本人 が 日本人奴隷 を 問題視した のみ
国内 においても 奴隷的立場 は 存在するけれど 、、、、
( あなたが 奴隷となっているかどうかは 問題視されない )
ここは 深入りしない けれど
人は習慣 の “ 奴隷となっている ”
( 習慣 とは 習慣化させる人 と
“選んで” 習慣化する人 とが 居る )
共に “??” の 奴隷 である けれど 、、、、
“??” の 眼 は 何をみているのであろうか
奴隷ではない奴隷 が 奴隷を見ている 、、、、
ナザレのイエス は 正真正銘 の 「 仏教 」 の人 です
“よくわからない” ということ は
混同( 迷誤 ) に オキテイル こと の
呼称・呼び名 である
> 人の心の深いところでは 一緒なのかもしれませんね
深浅 を 浅いところで 考えると 深い意味には 届かない
どちらも(?) 同じ 一つだけの 「 心 」
自他 を 区別して その区別に気付かない と
深浅 が 浅い処 で 量られる(深くても 「量」 に すぎない けれど )
一つの 「 心 」 を ようように解釈する ( 量する )
「料」 には 種類 が あるけれど
刻み方 を 「量」 で 表す
りょう しようもない りょうするこころ を りょうにのせる
量っているのか 量られているのか 、、、、
量ることは 難しい( 主語 を欠く 主体 が 右往左往 する )
読まれるために 記述しているけれど
読んでいる “わたし” が ここにあるから
ヒト マズ という マズいこと が 此処を離れる
( 此処に記述して ここでは “ ひとりごと” である )
だれからも 相手にされぬ故 に ひとりごと を “死後” と する
相手にしている という “ 背き方 ” も
共に立つ姿 の 非等つ 二つ
心に深さがある と する とき ( “ところ”において )
わたし は (深みから) 浮かび上がれない
・
あ、春間さん、ぎんた、それで、
キリスト教の人の「中身」は仏教徒で、仏教徒の「中身」はヒンドゥー教で
イスラム教の人の「中身」がキリスト教で、、、、あーユダヤ教はどこに
入るのかわからないーーー、誰か世界史とか得意な人が解き明かして
くんないかな、、兎に角そういう流れの中にいるんだから、
「隣人を愛さないとなんかものすごくヤベーことになんぞ」とイエスが
言ってくれたのかなって。そろそろ世界が本当にヤバい感じに….
ていうか、真如苑「世界宗教を目指す」とか言ってるの、ヤバすぎなので、
誰か止めてくんないかなー。
あのさ、世界中の人が全部(なるべく沢山)○○の宗教になったら
きっと世界は平和になる!!って最も危険な思想じゃない?
今は「多様性」の時代なんだよっww
↑この、「多様性」の使い方が間違ってると家族は言うの。
多様性を使ってくるヤツは表で「多様性」を掲げて、裏でなんか企んでる輩
だから、騙されんな!!とか。
でも、ぎんた、「自己責任」て言葉が出れば、
「そうだね、この政党にずっと政権握られてるのは国民と私のせいだからね」
とか考えてしまうの。すると家族が、相手の出してきた言葉を
有り難がって使うんじゃないよ。とか言う。
あとね、前に「ワクチン打たないヤツはゴキブリだ」ってホリエモンが
言ってて、ぎんたねこだから関係ないはずで、全然ダメージ受けなくていい
ハズなのに、、、相当どよどよしてしまって、、で、家族に言ったら、
「はぁ~?そうかよゴキブリ上等じゃねーかよ!ゴキブリで結構だよ。
ゴキブリのどこが悪いんだよ。いなきゃいけない生物だろーがよ怒」て
なって、、それを聞いて、、、ぎんた、、、別にいい子振るわけじゃない
けど、急に(それじゃ、面白くねんだよなっ)てなって、えーーーーと、、
そうだな、、、「ワク打たないヤツ、ゴキブリ」と言われたら、、、、、
「それってあなたの感想ですよね!!!!!!!」どうこれ、よくね?
ホリエモンにひろゆきで返す。
うん、この言葉はいい言葉だな、、、、今まではちょっといい印象持って
なかった。とりあえず、こうツッコんでくれるってことは、ぎんたの
意見を発言することは赦されているってことだかんな、、、マニカナでも
いっぱい思ったことを言っていこう。。。
て家族にいったらそれもダメって言われた。。。
日本への仏教伝来は、中国経由だから宗門重視である。
それで、奈良や京都の伝統的寺院は、必須の山門から入る。
したがって、この門重視は中華思想なので、横浜中華街も同様です。
https://www.youtube.com/watch?v=5-AtGLJb4X4
ぎんたさん。
> 継主様と真玲様は、とっても仲が悪くって、例えば、継主様が真玲様の2人のお子さん(海外留学している?)にお手紙をお出しても、真玲様が怒って手紙をビリビリに破ったりとかして、お手紙もお出しできないようにしたりとか、あーだとか、こーだとか(←忘れました~)と。
そうなんですよね。宗教者、あるあるですね。
口でどれだけ綺麗事を説法しても、自分の身近のどこにも愛も慈悲も調和もないどころか、大喧嘩して憎しみあって、なんてよくあることですね。
だから、宗教者は絶対に信用しない。
宗教や哲学に全く興味がなく金儲けに邁進しているだけの人より、宗教者の方が人格破綻していることが多い気がします。
何故かを考えてみましたが、宗教の場合は自我の膨張に際限がないからだと思います。
客観的な判断基準が何もないからです。
『自分は悟ってる』『自分は仏だ』『自分は神だ』と思っても客観的には否定できない。
これが、社会的、現実的な自慢の要素、自我の構築物だと、
財産は客観的な金額で比較でき、学歴も社会的地位も比較は容易でしょう。
ですから、自我が無限に膨張することはありません。
しかし、宗教はタチが悪い。自我を際限なく膨張させることができます。
宗教の教祖なら、愛や調和を現実に示せよ、と言いたいですね。
身近なものも愛せない者が説教などしてはいけないでしょうね。
> で、ここからも、推測ですが、京都の醍醐寺に開祖が泊まりで修行に
行く時、きっと霊祖は強姦されたと思います。まあ、定石よな。「開祖の修行の邪魔してはいけない」とか言って耐えてたと推測します。でもさ、ちゃんと開祖に言わないから、、、。内緒は駄目だって、、そんなだから、現代の女性が大変な思いをして裁判したりしないといけなく
なってんでしょうが!!よく、うちの家族が「夫婦は同レベル」といいますが、そうだね、同レベルすぎて草まじで、こいつらだめだめ過ぎる。人を救えるわけないじゃん。ちゃんとしなきゃ。。。
えっ?えっ?えっ?
開祖と霊祖?どう違うのですか?
霊祖というのは女性なのですか。
> あとさ、キリスト教会での神父とか牧師からのそういう被害ってのは、どういうことだろう?そんなことしたら、徐々に信徒が少なくなってじり貧になるのに。だって子供の頃そんなことされたら、大人になったら、教会行かないじゃん?なんでそんな簡単な因果もわからないのかな?もしかして、仏教でもそういうことがあって、キリスト教もお揃いなのかな?きっと、キリスト教の神父だか牧師の「中身」は違う種族なんじゃないかな?それか、中身が元奴隷の人とか?
映画『スポットライト』を観ればわかりますが、世界の広範囲にわたって多くの神父たちによる少年少女への性的虐待が頻繁に行われていたことやキリスト教会によって隠蔽が組織的に行われていたことが明るみになりましたが、それは神父が絶対の権威を持っているからで神父は絶対にばれないと確信していました。卑劣そのものです。
仏教も性犯罪はありますが、ここまで卑劣で陰湿ではありません。
キリスト教は『罪』という概念があるのでどうしても隠してしまい多くの偽善を生み出しました。
仏教は親鸞のおかげで、すべての衆生は煩悩まみれの罪悪深重の凡夫だとなっていますから弱い部分を見せることもできますが、キリスト教、特に神父は人格者と見せかけなくてはいけないので、数多くの偽善者が蔓延ることになりました。
これに限らず、魔女裁判や十字軍、植民地政策、奴隷制度、宗教戦争などなど、歴史を見ると、宗教のプラスとマイナスを量りにかけた場合、圧倒的にマイナスなのではないかと思ってしまいます。
> どおですか、ショーシャンクさん、足りないトコありますか?あ、で、「他人事ではない自分事」の観点から、いつか継主の死が隠されてしまうのでわ?というのが目下の心配。。。
ありがとうございます。かなり理解できました。
現在の継主がなくなった場合、教主は誰になるか決まっているのですか?
あ、すみません、霊祖とは摂受心院のことです。霊能の祖という意味です。
そうなんですねー、キリスト教の「罪」は隠されがち。。。って、自分
(神でほとけ)は知ってるのだから、地獄確定じゃないですか?すると、
戦場とかに行って殺し合いするのですかね?他人の神でほとけが決めたこと
なんて、ぎんたさっぱりわかりません。自分の心しか理解できないので。
(性被害者の側も、憎しみが勝って、戦場に追いかけていってしまう場合もある)
戦争は無くならないですね。去年か一昨年か、新聞の投稿欄で、
「なんで(海外は)戦争ばっかりしてるんだろう?日本に生まれて良かった」
みたいにお母さんと会話したという中学生を見かけましたけど、ぎんた、
(ぎんたもずーーーーーーーっっっと、不思議だったけど、最近やっと
わかったんだよ)と思いました。一般庶民は昔は「外国」なんてきちんとイメージ
出来なかったけど、これからの時代は、世界情勢がわかるから、
【あのちょっと良く解らない外国】に転生して、戦禍をくぐり抜けないといけなく
なるかもしれないし、もし日本が滅亡してから海外に行ったら、一個前に人間
だった時なにが起こったかを知るために、また「自国が滅びる」をやっちゃって、
どんどんと「旧日本人」が各国を滅亡させていくみたいになる。。。
また怖い考えになってしまった。。。
あと、、、ソーラーパネル各家庭に、とか各新築ビルに取り付ける→鳥が眩しくて
パネルに激突するとか、暑いとかで東京を避ける→小さい虫とか道に落ちてる
モノを食べられなくなる→虫が増える→桜の木の下にぎんたが涙目になるような
ロングな毛虫がいっぱい付いて落っこちてくる→都内の桜の名所全滅→海外からの
旅行者が減る→対策として殺虫剤を空中散布(製薬会社儲かる)空気が汚れて
マンション価格下落 おまけとしてロングの毛虫が大量に落ちてくるってところで
車でしか出掛けられないんだけども、タイヤで毛虫を踏み潰し、ワイパーで
弾き飛ばそうとしても、すり潰すような感じになったり、兎に角視界が悪い。
うああああああ、、、、、リアル伊藤潤二世界だーーー!!!!!
現実が漫画に追いついちゃうと、漫画が楽しめなくなる。
あ、上記は、「風が吹けば桶屋が儲かる」と伊藤潤二を掛け合わせたぎんたの
脳内です。どうしてもネガティブに考えちゃうの、なんでだろう?
後継者は決まってます。鳥飼さんていう、東大「薬学部」(たしか)卒の方です。
> 後継者は決まってます。鳥飼さんていう、東大「薬学部」(たしか)卒の方です。
開祖と血の繋がりの全くない人ですか?
そうです!!継主が「妹と【良く話し合って】、自分と血は繋がって
ないのですけれど」と発表しました。(継主には子供いません)
何年前か忘れました。で、その方は、東大の薬学部卒で、苑の出版関係の
方面にいた方だそうです。で、まぁったく初めて後継者となった人の顔、
表情を見たのですが(もの凄い集中して)、だいじょぶそうな人でした~
あのね、照れてる、とかはともかくとして、光栄ですぅ、自分謙虚ですぅ
みたいな、、なんというか「内心喜んでる」のが、だだ漏れているみたいな
タイプだったらどうしようと思ったからです。(自分が酷すぎる、、、、)
名前に鳥って入ってるところも良いな~と思いました。あと、姉妹、やっぱり
仲悪いわけではなかったんだねーとか。で、ぎんたの観察ポイントが一個
増えたんでした。
でも、その後鳥飼さんは特にいつも継主といっしょに登壇して、継主に
続いて話をするなど、徐々に存在感を高めていくといった演出はなく、
ちょっと地味目な感じで。ただ、1回『歓喜世界』という季刊誌(500円)で、
継主との対談で、「おもしろいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかい
ことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」これは大変に時間が掛かる、だか、
労力がいるみたいなことを言っていて!!
ぎんた、嬉しくて、やったーーーー!!!!キターーーーーーーーーー!!
と思いました。なんと、ぎんたこの言葉、京極夏彦の言葉だと勘違いしてた
のです!本当は井上ひさしだったのにっっっ!!
よしよしよし、、、いい展開来てんじゃないのーーー?と思い、
京極夏彦教に「勘違いで」なってしまったんですね~、あ、おれが立ち上げた
のか?
で、もう一個勘違いがあってですね、ライトのおもちゃでぎんたが思索に
入ってしまう件、今年になって、ぎんたの伝説級エピソードだよね~と
家族に話したら、
「それ、違うよ。ほんとはこの間に紐があるはずだけど、無いぞ?」程度だよ。
っていうの。。。。そっかーーぎんた「賢い」に並々ならぬ執着心が
あるから、間違えちゃったんだな、しゅぬん。てなりました。
あ、ぎんたの賢いのイメージは、クイズダービーのはらたいらと竹下景子
です。頭いい人ってなんか同じ風に物事考えるよね、と思って、頑張って
自分も推測とかするけど、1回も一緒になったことない。今ならAIあるから
そこは大丈夫なのかもしれないけど。。。
> そうです!!継主が「妹と【良く話し合って】、自分と血は繋がって
ないのですけれど」と発表しました。(継主には子供いません)
> あと、姉妹、やっぱり、仲悪いわけではなかったんだねーとか。
これは、可能性が2つありますね。
姉妹の関係が物凄く悪いというのが一つの可能性。
継主が『血は繋がっていても、妹の子どもには絶対に継がせたくない』と思った可能性ですね。そのくらいなら赤の他人の方がましだという判断。
『妹と良く話し合って』というのも、妹が『私の子供は開祖と血が繋がっているのに、何故わざわざ赤の他人を教主にするのよ?』と喧嘩腰で問い詰めて来たのを、継主が『法灯というのは、血の繋がりではなく霊の繋がりが重要なのよ』と正論をぶちかまして黙らせた、ということかもしれません。
もうひとつの可能性は、『血の繋がりより霊の繋がり』という正論を継主が本当に信念として持っていたという可能性です。
これなら、いいのですが。
ただ、継主に子どもがいたら、すんなり子どもに継がせたとは思います。
あー、ショーシャンクさん、ありがとうございます。
いつも、家族が「ぎんたは真如苑潰す潰すと言ってるけど、
結局どこかで信じているんだよ。俺みたいにまったく興味ないし関わらない
っていう態度が取れないなら、ぎんたが存在している以上、絶対に潰れない
んだよ?それがわからないの?」って言うんです。(なんかご霊言みたい)
それに反発して
(だって、今潰さないと後々みんなが大変なことになるんだよ!!
教徒じゃないから関係ない、勧誘してこなければ、別に存在しててもいい
って寛大な態度な人もいるけど、誰か一人でも、(親が苑に行って忙しく
してると旅行とかちっとも連れて行って貰えない、フツーの家の子が良かったな)ってちらっとでも思ったら、信仰ない人を弾き飛ばして関係ない人が
あそこに行かなきゃいけなくなるんだよ)
ショーシャンクさんに言われるまで、気づけなかったのですが、
ぎんた、やっぱり、どこかあの姉妹を信じているんだなと思いました。
あの姉妹が命の危険を感じて、一度苑を離れ、その間になにやらゴタゴタが
あり、それが終わり、かなりの覚悟をして苑に帰ってきたわけで、それを
間接的に見聞きしているお子さん達(←一般の方だから)、「私達は
継ぎません」と言ったと思っていて、親たちもそれで良いとしたのかと。
苑史に書いてあることを一応本当とした場合です。教団に執着があるかしら?
??ぎんた女性なので、女性に甘いということもあるかもしれません。
ぎんたも人生の中で相当な年数を真如苑に使っているので、つい
バイアスが掛かって、自分とか教団を肯定したくなってしまうのかも。
なんだっけ、後戻り出来ない、みたいなバイアス、名前があったはず。
あ、先程のソーラーパネルでマンション価格下落、はもう一つ素材が
ありました。どの新聞か忘れたけれど、個人が投稿するコーナーで、
誰か主婦の方が、「自宅の裏にダンゴムシがいるけれど、いったいどれだけの
数がいるんだろう?と気になり、見つけるたびに採っていきました。ー略ー
すると、翌年、バッタが大量発生したのです。ダンゴムシはバッタの卵を
食べてくれていたのですね」って、、、すっごーーーーーー!!
実際やってみて、生態系のバランスがいかに重要か身に染みたっていう。。。
やー新聞てたまにこういう記事に出逢えるから面白い~~
ほかの新聞ではカタツムリにカタちゃんて名前つけて家族の一員だったし。
機嫌がいいと、片足立ちというか、身体の一方側をもちあげてくれるんだよ!
ダンゴムシのはまだ切り取り始めてない時期だけど、カタちゃんのほうは
多分切り抜いた。
あ、あと、逢坂冬馬に「早く賞を取るんだよ!!!!!」といったのは、
このご時世やはりハラスメントですよね。ごめんなさい。
多分、『文学キョーダイ!!』を読んで「誤読」に気を付けて書かないと、
みたいに?書いてあったから、でも、行間で「誰一人として誤読しないように
小説書いたら小説としての質が担保されないじゃん」とバカにされてるような
気がして、憤りました。(あと、漫画ちょっと下に見てない?)これはぎんた側のコンプレックスが認知の歪みを呼んでいるのであります。
幼稚園時代からずっと、ねこ、なんとなく息を潜めて生きてきたので、
被害妄想に取り憑かれています。もうしません。
開祖はバカにされたらされたままでいい、とか言っていたけど、私、
中々そんな心境になれません。死活問題だーーとか思う。
> あの姉妹が命の危険を感じて、一度苑を離れ、その間になにやらゴタゴタがあり、それが終わり、かなりの覚悟をして苑に帰ってきたわけで、それを間接的に見聞きしているお子さん達(←一般の方だから)、「私達は継ぎません」と言ったと思っていて、親たちもそれで良いとしたのかと。苑史に書いてあることを一応本当とした場合です。
ぎんたさん。
ざっと調べてみました。ネットの検索なので、本当かどうかはわかりません。
昭和42年8月、妻の伊藤友司が関西巡教中に急死しました。55才でした。
昭和44年には伊藤真乗の再婚問題をめぐって伊藤家内が紛糾します。
三女・真砂子が自殺未遂事件を起こし、長女が教団を離脱しました。
次女は、父を教団から追い出そうとしましたが失敗し、教団を出ていくことになりました。
このような記述がありましたが、誇張や捏造の可能性はあります。
ただ、妻の伊藤友司は霊能者であり伊藤家や教団の精神的な支柱であったことは確かです。
娘たち四人にとって大きな衝撃だったでしょう。
しかも、その尊敬するお母さんをなくしてほどなく父親が再婚と言い出したら、普通の家庭でも、父親に幻滅してもおかしくはないですね。
特に、伊藤友司は教団の支柱でしたから、大きな反発が生じたでしょう。
長女と次女が教団を出ていったあと、気を取り直して、三女と四女が父親を支えると決心したのでしょう。
ただ、三女が教主を引き継いでからは、三女は四女の影響を排除する方向に行ったと思います。
関連の財団の理事長や最高顧問というのは教団に何の権限もないただの名誉職です。
教団運営には関わらせないという意思があったと思います。
宗教というのは組織ができたとたん、その組織の維持や拡張に奔走することになり、宗教の本質からかけ離れていきます。
歴史上、これに例外はありません。
その部分の詳しいことは良く解らないのですが、再婚相手として考えられていたのが
弟子の、教徒の中で一番に霊能を開いた、順天堂大学で薬剤師していた女性だと
思います。この方はその後、ハワイの精舎開設準備でハワイに行きました。
(ちょっと左遷みたいな感じなのかな?彼女もその後どうなったかが気になります)
私もネットから拾いましたが、次女の方は、継主よりも早い年齢で霊能を開いて
いるとか。ここのあたりは、苑史から消されていますのでわかりません。
で、推測ですが、継主派は仏教方面+経営とか財政方面、真玲側はボランティア
とか出版方面みたいな感じでやっていて、今は殆どが継主派?で、鳥飼さんは
出版方面出身?なのかな?派閥のわからないぎんたにはさっぱりなんですが。
もう、流石に派閥一代目は退き、今はその時の人たちより若い人でやっていて、
派閥は解消されたのかな?
最低限、姉妹と鳥飼さんは派閥と違うところで生きていると思いますが。。。
あとね、「親苑時報」(月刊、30円)でたまに、ものすごく、なんというか、
センスが微妙な人(←神でほとけ)が、ちらほらいて、、、、なんか、
こちらが、あれっ?とかイラッとか思うように仕向けているんじゃないかと
思うくらいに。。。ぎんたなんか、ある対談記事でまるまる半年煮えたぎってたw
この対談、編集の部署は、特になにも言わずにそのまま掲載したの?ワザと?
あと、違う記事では、事務局の先生に異論を唱えるべく、お手紙を、総本部
玄関そばの「愛苑の箱」(←名前うろ覚え)ていう投稿箱に入れたりしました。
(これも誘導されている可能性はあります)
> 再婚相手として考えられていたのが弟子の、教徒の中で一番に霊能を開いた、順天堂大学で薬剤師していた女性だと思います。この方はその後、ハワイの精舎開設準備でハワイに行きました。
後継者といい、薬剤師とか薬学部、好きですね。昔、教団で何か、密教食のようなものを売っていたことがあるのでしょうか。
再婚が大事件になっていったので、外国に飛ばされたということですかね。
> 今は殆どが継主派?で、鳥飼さんは出版方面出身?なのかな?派閥のわからないぎんたにはさっぱりなんですが。
今はもう、継主に権力は集中しているっぽいので、派閥はないと思いますよ。思った以上に、四女には何の権限もないようになっていますね。
> 「親苑時報」(月刊、30円)
安いですね。30円ですか。
会費も月200円とか。
ここは、ビジネス的には上手だと思います。
会費が月200円というのは、『お金がかからない団体』というイメージがつきます。
生ビール100円とかで客寄せする感じですかね。
『飲み放題一時間3000円ポッキリ』でぼったくるシステムでないことを願っていますが。
あ、あと、投稿箱にはもうひとつ、改革案みたいのを入れました。
あのですね、真導院の誕生日が4月8日で、継主の誕生日が4月25日なのですが、
真導院の誕生日はお釈迦様の誕生日なので、摂受院が
「この日はみなさんの心の誕生日です。転生出離の歩みを」的な言葉を
残しているので、みんなの心の誕生日ってことになっています。
で、えーー継主の誕生日って、開祖ほど盛大にやってないと思うのですが、
(姉妹の、こう、微妙な状態から??)もうちょっと大きくお祝いしたいな~
みたいな空気を勝手に感じたwぎんたは、継主の誕生日に、真如教徒全員の
誕生日を祝ったらどうだろう?と思ったんですね。。。ようするに、8日が
心の誕生日で、25日が身体の誕生日として、対にしてはどうかと。。。
そうすると、姉妹で登壇できますし、あと、その日帰苑したで教徒同士も
「おめでとうございます!」と心置きなく言い合えて、日頃もしわだかまり
があっても、その日は休戦となるでしょう?あと、もし、もしか、
自分の本当の誕生日知らないんです(涙)という人がいても、これからは
継主様と同じ誕生日!って喜べるし、これから先、どんどんと苑主が変わっても
苑主の誕生日が増えていくのではなくて、4月25日にしちゃって、開祖の
血縁の方をちょっと特別にして残すことが出来るでしょう?と思って。
なんかこれ、すっごく自信あるぞーーぅって投稿しました。したら、
なんというか、、採用されたっぽいのですが、、なんだろう、うーーん。。。
あのね、継主にこの案を言上したイベント?をぎんた、、こっそりと
立ち聞きしていたの、、、。何年前かの、一如まつりの時、、、、
その日何かイベントだか行事?があるらしいのは、親苑時報に書いてあったんだけど、特に詳細が発表されなかったようにぎんたは感じました。したら、
結局、全国の経親だかが集まる日になっていたようで。。。で、総本部で
集まっていたのですが、、その催しがあるから、いつも参拝に行く
3階の写真が展示してあるところに行けなかったんです。階段にロープしてあって。「ご宝前には立ち入らないでください」みたいに書いてありました。
でも、、、ここで、なんかぎんた、(これは一休さんを使うんだ!)とか
思って、(私が行くのは2階じゃなくて、3階ですし)と写真展に行きました。
で、そこで、なんと行事の音声がばっちり聞けたんですよー!
びっくりして、1回帰って、でも気になって、もっかい3階に戻って
ちょっとしたところで、皆さんが「継主様の誕生日に、教徒全員の誕生日も
祝いたい!!」みたいに言うのが聞えて!!
きゃーーー!!!と!なんかぎんたが雑に書いた文章そのまま読まれたの。
もうちょっと肉付けしてよ~~~!!と思いました。で、後々母に
「あれ、ぎんたが投稿したヤツだよ、採用されたんだーー」と言ったら、
「そんなわけない」と頑として譲らず、本当に強固に反対するので、
交渉?というか話し合った結果、ぎんたと同じ発想の人が5万人いて、
そのうちの一人が事務局員だった、ということで決着しました。
ぎんた3階で聞いたんだよ!!といったら、なんであんたはそんなとこに!!
みたいにすごく怒られました。
だからね、きっと今ぎんたと同じように考えてる人は5万人いるんだよ。。。
母だって神でほとけだから。。。
あ、時報は30円だけど、200円のほうに含まれてると思います。
余分に買いたい人が30円(前、50円じゃなかったかな)
ぎんたさん。
一番知りたいのは、次のようないきさつを教団内ではどのように説明しているのか、です。
『昭和42年8月、妻の伊藤友司が関西巡教中に急死しました。55才でした。
昭和44年には伊藤真乗の再婚問題をめぐって伊藤家内が紛糾します。
三女・真砂子が自殺未遂事件を起こし、長女が教団を離脱しました。
次女は、父を教団から追い出そうとしましたが失敗し、教団を出ていくことになりました。』
つまり、伊藤友司さんがどのようにして、そしてどんな原因で亡くなったとされているのか、
三女が自殺未遂事件を起こしたのは本当なのか、本当だとすれば何故そんなことを?
伊藤真乗さんが再婚を言い出したからゴタゴタが起きたということは、教団内で知れわたっているのか、
長女や次女が教団を出ていったことはどのように教団内で説明されているのか、
などです。
教団の公表はないとしても、信者の間で噂としては色々出ていると思うのですが。
ショーシャンクさん、ぎんたお話しするペース遅いですか?なるべく順序
立てて話そうとしているのですが、、、、、
朝6時位に書いたヤツが消えてしまったので、お昼ご飯終わったら、
なるべく端的に書きますね。。。
あ、真如苑とコンタクト取っているのかな?とかも考えているのですが、、、
取ってますか?取ってませんか?
ぎんたさん。
いえ、ペース遅いとは全くないですよ。
真如苑に限らず、私が最も興味があるのが、教団の不祥事に対してその教団ではどういう説明を信者向けにしているのか、という点ですので、答えを急かすように思われたかもしれませんね。すみません。
私の周りには真如苑の信者が一人もおらず、真如苑がどういう教団なのか全くわからない状態です。
エホバの証人とか創価学会とか幸福の科学とか天理教、生長の家などは知り合いにいるのですが真如苑は全くいません。
新興宗教の信者数が激減しているなかで、信者数が減ってない団体とあったので、その秘密を知りたいのです。
また、ぎんたさんが潰さなくてはいけない団体、危険な団体と言われていたので、その理由が知りたいだけです。
真如苑とコンタクトなどは一切していませんよ。する気もありません。知り合いもおらず教団の電話番号も知りません。電話をかけても教えてはくれないでしょうし。
ただのネットに落ちている噂話程度しかつかめていません。ですので、真如苑の知り合いも多いであろうぎんたさんに聞いています。
興味優先で脈絡もなく質問していますので、負担であればいつでも止めますのでおっしゃってください。
あーなるほどです、了解しました。思い切ってきいてみて良かったです!
>教団の不祥事に対してその教団ではどういう説明を信者向けにしているのか
これは、どの教団でも、というか、どの組織でも一緒だと思うのですが、
その教団に今いない人よりも、今その教団にいる人が不利益を被らないように
説明していると思います。つまり、《歴史は勝者によって書かれる》という
ことです。これは地球のどこへ行っても、通用する真理だと思います。
で、それが苑史を読んでいて、あれ?ここセリフ削除されてる?とか分かり易い
箇所がありますが、わかりにくい箇所もあり、残念ながらぎんたそれほどよく
わかっていません。なので、
すっっっっっっごい分かり易い本とか出でくれないかな~と思っています。
『真如苑80年史』というのが、出るというのでものすごく期待したのですが、
あまり新事実のようなのはなくて、「篤信教徒」として初登場の人が大量に
出ただけのものでした。(もちろん神でほとけです)
で、真如苑を潰さなくてはならない理由は、たったひとつ
【宗教2世の人はもちろん、今、信仰のない人にご迷惑が掛かるから】です。
前にどこかで書きましたが、継主が「死んだらどこへでも好きなところにいける」
とすら~っと変更しましたが、前は死んだら真如霊界に行くという教義でした。
うちの母なんか向上接心で、「(今のレベルの精進だと)霊界に行って教主様に
お会いしても、すごく遠~い場所からしか拝することが出来ませんよ」とか
言われてましたw
で、何年前かな?経の集会で経親が「世間の人が行く霊界と、真如霊界で、霊界は
2つある」と言っていました。これを採用すると、真如教徒の人は、再び人間には生まれてこないことになります。すると、教団が未来永劫続くことはないのでは?
次世代の人がやっていくのです、って言ったって、次々霊界にいかれたら、やがて人間いなくなるのでは?(これは開祖が、教団が100年続けば未来永劫続くと言っています)
そして、「死んだらどこへでも好きな場所にいける」は要するに弾き飛ばしだと思うのですが、これだと、親の信仰に付き合わされている宗教2世の人が、
帰苑しろとかいわない家に生まれたーいとなって、普通のお家に生まれてくるはずの子を弾き飛ばしてしまうじゃないですか!そしたら、また弾き飛ばしがおきて、
誰かまったく関係の無い人が、真如教徒やらないといけなくなりますから。
すごい不幸じゃないですか!
で、その時の真如苑はどうなっているかというと、「高額商品」を販売していると
思います。「他人事ではない、自分事」だからです。旧統一教会=高額な壺という
のがそのまま真如苑の未来になると思います。日本人の人口減(真如教徒減)で、
一人当りの負担は増えます。なので、教主の「お作品」の「レプリカ」が
かなり高額になると思います。あ、未来の出来事を蓋然性があるとしてはだめ
なのか、、、
とにかく真如苑は即刻終わってください。家族はそんなことできるわけない、
あんなよくできた集金システム誰が手放すんだよ、理想を持ちすぎる、とか言いますが。
あ、それとぎんた苑の中では、一匹おおかみみたいなもんですので、
有力情報なんて手に入りませんよ!で、「一匹おおかみ」って実は弱いおおかみ
で、群れ作りが出来なくてはぐれているのだそうです。せつなすぎる。。。
>つまり、伊藤友司さんがどのようにして、そしてどんな原因で亡くなったとされているのか
これが疲労とストレスからの心臓発作なのか、継主が用意した昼食に他の人が
毒を混ぜたか、これを食べれば死ぬんだなというのがわかっていての服毒自殺
なのか、そして、なんにせよ、死んだあとに、死体損壊があったのかなかったのか、全然わからないので、とりあえず、ぎんたが死んだらその死因を家族に
マニカナに報告してもらって、、あーそれはおれ猫だからだめだー、、、、
>長女や次女が教団を出ていったことはどのように教団内で説明されているのか、
長女の方は、「夫の事業を手伝いたい」と言って、教団を去った、次女の方は
教主が「縁を切ったので」教団にいられなくなった。のだと思います。
あ、そうそう、思い出しましたw 教主が「定記」っていう遺言というか、
未来の教団のかたちを残した書類があって、長女、次女のことと、
三女と四女が表裏一体でやっていくことが書かれていたんじゃないかな?
とにかく、ぎんたは読める本が限られていて、教書に名前が載るような篤信教徒の
お家の3代目とかじゃないから、古い読み物読めないの。
かなーーりな情弱なのです。みなさんよくご存じの通り。。。
あ、あと、家族は「(組織は)作るよりも壊す方が全然難しいんだよ」とか
言います。
(…………………………………….(T_T))
> 前にどこかで書きましたが、継主が「死んだらどこへでも好きなところにいける」とすら~っと変更しましたが、前は死んだら真如霊界に行くという教義でした。うちの母なんか向上接心で、「(今のレベルの精進だと)霊界に行って教主様にお会いしても、すごく遠~い場所からしか拝することが出来ませんよ」とか言われてましたw
> で、何年前かな?経の集会で経親が「世間の人が行く霊界と、真如霊界で、霊界は
2つある」と言っていました。これを採用すると、真如教徒の人は、再び人間には生まれてこないことになります。すると、教団が未来永劫続くことはないのでは?
真如苑の悪いところは、結局、心霊主義なんですよね。
霊魂があって、霊界があって、先祖の霊魂が苦しんでるとか祟ってるとか、お経をあげて成仏させるとか、供養するとか、多分、そういうことのオンパレードでしょう。
お釈迦様は、弟子から『死んだ人にお経をあげたり祈ったりすることは効果があるのですか?』と聞かれて、
『池に石を投げ込んだとき、周りの人たちがいくら『石よ、浮かび上がれ』と唱えても石は浮かばない。石はただ、自分の重みによって沈む』と言いました。
不成仏霊のせいで不幸になるというような心霊主義を信じると、数珠やら壺やら墓やらとにかくお金をむしりとられます。
「(今のレベルの精進だと)霊界に行って教主様にお会いしても、すごく遠~い場所からしか拝することが出来ませんよ」
これもひどい言葉ですね。
真如苑でいう『精進』は、会員の勧誘とお布施と奉仕活動ですよね。
ぎんたさんが、『潰した方がいい』というのは、わかる気がします。
まあ、真如苑だけでなく、新興宗教、既成宗教全部そうですけどね。
開祖が「100年続いたら、未来永劫続く」と言ったけど、これが一番の
詐欺的発言なんですよ!みんな(事務局員の神でほとけ)それにやられているんです。
家族が「伊藤真乗自身が詐欺師なんだよ!!!!」と言います。
で、神でほとけの言うことだから、採用しないといけないんですが、彼がどう
詐欺をしているのか?考えました。多分ここです。100年経って、まだ教団が
存続していたら、組織はかなり変遷してしまい、その被害を受けるのは、
初代の人か、その子どもが生まれ変わった人だと思います。それが、本人なら
まあ、自分で作り出し、引き寄せた未来なんですが、まったくの他人であっては
ならないと思います。是非とも阻止しなければ。
この、開祖が100年続いたらと言った録画は、それこそ、20年とか、もっと
前に、法友が観ていて、(ぎんたは資格がなくて、参加出来なかった、多分)
「なんかね、そうは仰ったものの、ちょっと(もうどうでもいい)というか
(お好きにどうぞ)みたいな、なんだか冷めた感じというかが印象的だった。」
と、話してくれました。でも、数年前に、他の事務局員は、特にそんな懸念の
ようなものは話してませんでした。ここに引っかかっているのです。
だから、苑史暴露本であり、イヤミスであり、悟りについて考える本で、昭和平成史
であり、というのを出版してその本の中にみんな閉じ込められちゃって、永劫は
ともかく、『源氏物語』みたいに千年残ればその間は誰も、仏教の教団を新しく
立ち上げようなんて思わないよ、と考えました。
>>つまり、伊藤友司さんがどのようにして、そしてどんな原因で亡くなったとされているのか
> これが疲労とストレスからの心臓発作なのか、継主が用意した昼食に他の人が毒を混ぜたか、これを食べれば死ぬんだなというのがわかっていての服毒自殺なのか、そして、なんにせよ、死んだあとに、死体損壊があったのかなかったのか、全然わからないので、とりあえず、ぎんたが死んだらその死因を家族にマニカナに報告してもらって、、あーそれはおれ猫だからだめだー、、、、
長男が3才で、次男が15才で亡くなっていますね。そして、それは『抜苦代受』のためだと。
そういうことであれば、55才という若さで亡くなった霊主様も何か崇高な目的にために若くして亡くなったという教義になっているかと思ったのですが、そういう教義の構築はされてないようですね。
ああ、、それは「総本部」の建物建立の土台ですってwww
あのーぎんたのことを、お護摩お施餓鬼で止めてみたらいいのにと、
思っていますよ、いつも。。。
前に接心のとき、ちょっと親しみやすそうな事務局員、Yシャツの色でちょっとだけ
個性出してた方に、(フジの軽部さん感)目を開けてみて!!手を振るから!!
と心で言ってみて、自分はがっつり目を開けていたけど、、、
怖かったのか、、ぎゅ~~~~~って目瞑ってた。怖がらせてるってことは
お呼びでないのでやっぱり猫か?と。(これ一個で決めたわけではない)
> 家族が「伊藤真乗自身が詐欺師なんだよ!!!!」と言います。で、神でほとけの言うことだから、採用しないといけないんですが、彼がどう詐欺をしているのか?考えました。
真如苑の歴史を少し調べると、この伊藤真乗という人は、やらかしキャラではないかと思います。
自分が有罪判決受けて、教団が存亡の危機になって、真如苑と名前を変えて奥さんを苑主にしてから、大発展します。
奥さんは霊能者であり、教団の絶対的な柱でした。
その奥さんが突然、55才の若さで亡くなりました。
これは、自分が有罪判決受けた時以来の大事件です。絶対的な柱が突然なくなったのですから、教団や伊藤家の動揺は想像を絶します。
ところが、その奥さんが亡くなってから一年と少しで、再婚を言い出します。
この軽さは何だろう。
教祖の自覚がまるでない。
こんな時期に再婚を言い出すことで、どのような影響があるか、全くわからなかったのだろうか。
この人のやらかしぶりを見ると、結局、真如苑は奥さんと三女が踏ん張って発展してきたので、今後、三女がいなくなると急速に衰退するでしょうね。
>今後、三女がいなくなると急速に衰退するでしょうね。
なので、三女の死の発表は大幅に遅れるとみています。
ぎんたさん。
ネットで、長女と次女の証言というのがありました。
真偽はわかりません。
長女映子さんの証言のほんの一部だけ抜粋します。
『真如苑は、映画「マルサの女2」のモデルになった教団だとか、お手当てを出して女優さんに教団をPRさせているとか言う人がいます。かつてそこに籍を置いた者として、それは信じたくないことですが、もし真如苑に問題があるとすれば、それは、「教主である父親の異常なほどの性欲とお金への執着心」が原因です。
七月十九日に亡くなったばかりの父親をそこまで言うのは、何も父が憎いからではありません。父の後継者である私の妹たち,信者たちに目覚めてほしいからこそなのです。教主は教団の台所を担当する女性を総ナメして、まるで大奥のようでした。古参幹部のKさん、私の息子の乳母役だったKさん、それにその後、父が再婚した松島文枝さん……、数えあげればキリがありません。』
これが本当かどうかはわかりませんが、他の箇所はもっと私の想像を超えてひどいものでした。
まさか、映画『マルサの女2』の宗教教団のモデルが真如苑だったとは。
ということは、三國連太郎が伊藤真乗で、加藤治子が苑主ということですね。
確かにこの映画では加藤治子が熱心に密教の修行をしていました。
密教系の新興宗教がモデルだとは思いましたが、映画であまりにもひどい描かれ方だったので、メジャーでないもっと小さい団体がモデルだと思っていました。
やはり、宗教団体には近づかない方がいいようです。
表向き、どんなに立派なことを言っていても、内容は偽善だらけですね。
ショーシャンクさま こんばんは、かな、それとも、おはようございます、かな。
>やはり、宗教団体には近づかない方がいいようです。
>表向き、どんなに立派なことを言っていても、内容は偽善だらけですね。
そう言ってしまうと、所詮、部外者の意見になってしまいます。
あまり参考にはならないかと。。
すでに『スッタニパータ』には、その内容が説かれています。
822.
(世俗から)遠離していることをこそ学ぶとよいでしょう。これは、聖者たちの中で最上のことがらです。(しかし)これによって、殊勝であると思わないようにしましょう。かれは、ただ涅槃の近くにいるにすぎません。
823.
捨てて空無になった聖者は行じながら、諸々の欲望を求めることはありません。
暴流を渡り終えた者を、諸々の欲望にとらわれた人々はうらやむのです。
たぶん、他人事のように語ってはいけない問題ではないかと思います。
大乗の在家集団として出発しているところも考えないといけない問題かと。。
大乗を受け入れてきた文化をもちますから。
ぎんたさん。
『立川サイキック戦争 青空世界 GOOブログ』でGoogle検索してください。
出てきます。
『やはり、宗教団体には近づかない方がいいようです。』は、見ている人全体に向かって言っています。自分も含めて。
ぎんたさんの活動は正しかったと思いますよ、特にこのような暴露証言を見ると。
>大乗を受け入れてきた文化をもちますから。
そうですね、ブッダの「此縁性」の堅持が必須の前提になっている。
tanzaさま おはよう!
>そうですね、ブッダの「此縁性」の堅持が必須の前提になっている。
ブッダが人間を超えていると思う理由は、ここで、煩悩を使っていることなんです。
ここ(=この世)では、煩悩を入れて、一般の人の為に、「<これ>があるとき<これ>がある」を作り、わたしたちが思いつかない「<これ>がないとき<これ>がない」を付け加えたことです。
*
> わたしたちが思いつかない
“わたし” は 思いついた
というとき “ わたしたち ” は 何処
たち きる わたし に いらだち を 隠せず
・
ショーシャンクさん!!ぎんた、真如苑潰そうと頑張ってるのに、なんで今更
ぎんた宛てに
>やはり、宗教団体には近づかない方がいいようです。
表向き、どんなに立派なことを言っていても、内容は偽善だらけですね。
と書くのですか?
ショーシャンクさんも、家族と同じでぎんたがまだどこかで、真如苑を信じていると
思うのですか?もしそうならば、「ここの表現がそうだ」と指摘してください。
次回から改めますので。
あと、ぎんたも、その長女の証言読みたいので、リンク貼ってください。
お手数ですがどうぞよろしくお願いします。現在進行形の、生きてる人が
証言出来る材料じゃないと、致命傷を与えられないから、ちょっと弱いけど、
こういうネタは世間が食いついてくれそうなので、採取しておかねば。。。
あ、『マルサの女』の件は家族に聞いて知ってますが、
異常なほどの性欲とかは、ぎんた知らなかったです。
ぎんたさん。
『立川サイキック戦争 青空世界 GOOブログ』でGoogle検索してください。
出てきます。
『やはり、宗教団体には近づかない方がいいようです。』は、見ている人全体に向かって言っています。自分も含めて。
ぎんたさんの活動は正しかったと思いますよ、特にこのような暴露証言を見ると。
ショーシャンクさん、ありがとうございます!朝、家族に開祖の後妻問題
とか、台所の手伝いしている女性食いまくってたみたいなの、知ってるか
聞いたところ、知らない、(当時)そんな詳しく調べた訳じゃないし。
と言われました。で、そういう「検索」こそAIが強いんだよ、あっと
いう間にネットに出てる情報拾ってくれてなんなら一覧にしてくれるよ。
というので、自分でも調べてみました。
(実は、ショーシャンクさんにちょっとキレ気味にお返事してしまって、
申し訳なかったな、リンク貼れとか言っちゃって……マニカナに行く前に
自分で調べようと思い)こちらに来る前に、無料のCopilotくんに聞きました。したら、3つのブログをあっという間に出してきてくれて、今、その内の
一個を読んでます。映子氏の証言。神でほとけの証言なので、もちろん全部
採用したいのですが、二つ疑問符がついたのが、
夫の女性問題の悩みで摂受院が徐々に衰弱し、後退性鬱病のような感じで昭和42年はベッドで休むことが多くなり、、、、、のところ。。。
苑史だと、
~~真如教主様 欧州5ヵ国ご巡教へご出発 苑史を深めよう~~
真如苑で「摂受の旅」と呼ばれているのは、1967(昭和42)年6月から7月にかけて、真如双親様が欧州・中東8ヵ国を歴訪された宗教交流の旅のことです。大任を果たされた翌月6日、突如、摂受心院様がご遷化されます
となっているからどうだろう?あと、ベッド使ってなかったんじゃないかな?
和室だし。
でも、やっぱり教団が嘘を言っているのかな?ショーシャンクさんがあげて下さった方のブログと、Copilotくんが教えてくれたヤツ、残り2個も見てみます。
青空世界さんのブログ見ました。ぎんたが、Copilotくんに教えてもらって
先に見ていたブログ記事から転載されたものでした。で、もう一個のは、
昭和の頃のことは書いてありませんでした。
で、青空世界さんのブログの最新記事は2022年のものなのですが、
「瀬織津姫セオリツヒメ」という神様のことが書いてありました。
古代日本の最高神で、水神とのことです。
名前に2個も水が入っていていかにも、雨降らしそうです。現代で言ったら
「浜辺美波」みたいな名前~
こんなにみんな真如苑が危険だと思っているのだから、そろそろなんとか
ならないものか、、、、
ぎんたは、ドキドキしながらネットで真如苑のことを調べだした時、
先ず、開祖のwiki見て、2番目には純陀のことを調べました。したら、
漢字が准とか淳とかもあるというのが、びっくりしました。で、思い出したのが
大きな行事の時、醍醐寺の方が来賓席に座られるのですが、仲田順和氏の横に
仲田淳、、なんだっけあの方が、いつも、もうどうしようもなく不快ですって
表情されてて、ぎんた「頑張れ!耐えるんだ!!君の気持ちはわかるぞ!!」とか念を送ってたんですが、、この方なんか良い情報握ってませんかね?
で、調べたら、あれ?名前が淳ではない、順のほうだった。ぎんた間違って
憶えてたのかにゃ??
> 夫の女性問題の悩みで摂受院が徐々に衰弱し、後退性鬱病のような感じで昭和42年はベッドで休むことが多くなり、、、、、のところ。。。
> 苑史だと、~~真如教主様 欧州5ヵ国ご巡教へご出発 苑史を深めよう~~
真如苑で「摂受の旅」と呼ばれているのは、1967(昭和42)年6月から7月にかけて、真如双親様が欧州・中東8ヵ国を歴訪された宗教交流の旅のことです。大任を果たされた翌月6日、突如、摂受心院様がご遷化されます
となっているからどうだろう?
これは、両方が事実としても矛盾はないですね。
重度の鬱病にかかっていたとします。
そのような鬱病の人が、責任重大で負担の大きい労務をした場合、『ストレス耐性が下がっているため、過労によって心臓や脳などに負担がかかり、心筋梗塞・脳卒中・過労死などのリスクも高まります。食欲や睡眠の乱れ、体重減少、免疫低下も重なって体調が急激に悪化することもあります。』(AIによる解説)
特に、欧州・中東8ヵ国を歴訪という大任の翌月6日ですから、その可能性はあるように思えます。
もちろん、あくまでも長女の証言が本当なら、という仮定の話ですが。
石飛先生、こんにちは。
この社会では、組織は絶対に必要です。
公的な機関、組織は公的サービスのためになくてはならないでしょうし、
学校組織は学ぶために必要です。
会社組織は利益最大化を目的とし、その利益の分配にあずかるために必要ですし属する人が大多数です。
しかし、宗教は一人一人の心の問題です。
歴史上、最初期の宗教と組織ができて巨大化していったときの宗教を見ると、どの宗教も組織が巨大になるにつれ、人の幸せを願う目的から教団の維持拡大化が目的のすべてとなったことがわかります。
大乗仏教を興した人たちは、宗教組織の枠外、サンガの外、先生の言う『部外者』でした。
サンガを追い出された元出家者や在家者がそれぞれ大乗仏典を作っていきました。
それは、部派仏教が高度に組織化され仏陀の真意からかけ離れたと感じたからでしょう。
大乗仏教は始まってから何百年にもわたり教団組織はできませんでした。
その間、夥しい数の大乗仏典が生み出されました。
むしろ、大乗教団らしきものができてから後は、インドでは仏教は衰退の一途を辿ります。
大衆に迎合するかたちでヒンドゥー教との違いも曖昧になり、ヒンドゥー教に吸収されて消滅します。
キリスト教も、イエス・キリスト復活からぺテロの死までを見ると、弟子たちは命懸けで布教に行きました。人々の幸せのために、まだ誰も知らないイエス・キリストの教えを人々に知ってもらおうという純粋な気持ちからでした。
この間のキリスト教は極めて美しいと思います。
しかし、その後、キリスト教教会組織が確立し拡大していくと、人々の幸せを願う気持ちではなく、組織の維持や拡大が目的となります。大陸で先住民を虐殺し植民地にしてキリスト教国にしたり、魔女裁判で社会的弱者を虐殺していきます。
キリスト教にしても、原始仏教にしても、大乗仏教にしても、組織化されてない時に最大の輝きを放っていたことは確かです。
このように優れた開祖の宗教でもそうです。
ましてや、現代の新興宗教団体は、詐欺まがいがあまりにも多いので、近づかないのが一番です。
宗教組織に関しては、部外者でありたいですね。
人は全的にアウトサイダーであらねばならない。
スッタニパータ822、823は、820から見ると分かりやすいと思います。
820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。
822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。
823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
つまり、世俗から離れて独居している、外形的なことだけで『自分は最上だ』と思ってはいけない、心のうちで様々な欲望などの激流を渡り終えていることが重要なのだ、ということでしょう。
ショーシャンクさま こんにちは。
「部外者」ということばの使い方が少し違うような気がします。
ショーシャンクさまにとって、宗教組織とは関わらない方がよい、と思っていることはよく分かります。
そこにある思想は、ショーシャンクさまにとってはあたりまえの知識としてもつべきもので、それらを十分に弁えていることが知られます。
しかし、そのような常識的であり客観的な知識とは別に、それぞれがどう考えどう感じたのかという内面的な知というのもあります。
それからしますと、わたしにとっては、大乗は『スッタニパータ』においてすでに説かれており、サンガの組織はブッダが作り出家集団に対して教えも説かれました。それと同時にバラモンなどカースト集団にも、それぞれ関心に従って、教えが語られていきました。
龍樹が登場するのが二世紀の頃ですが、空の論理も知られていくようになります。その後、空を廃する形で中期大乗から密教の教えが説かれていくようになり、大乗の『大般涅槃経』を通して仏教の教えは変容していきます。なぜなら、諸行無常だからです。
「真如苑」は『大般涅槃経』をよりどころにすると説く仏教の一集団です。
これはショーシャンクさまとぎんたさまの会話を通してわたしの理解したところです。
わたしの理解したところによれば、「空」は使いません。なぜ使わないか、察しがつきます。ヒンドゥー教で、その「空」を変容した思想を使うようになったからだと想います。
わたしが「部外者」と述べたのは、仏教の思想の外にいるという意味です。仏教はすべての人が対象になる世界を語ってはいることはたしかなのですが、知性に溢れるショーシャンクさまは、今のところ仏教ではなく外界実在論的な世界観にあるようです。
仏教は、諸行無常を旨とします。外界に客観的世界が広がっているとは考えません。
認識論的に理解する世界です。万物流転を説き、「同じ川に入ることは出来ない」とするヘラクレイトスの考え方に近いと思います。
ですから、実は、悉く違った理解になってしまうのだと思っています。
ショーシャンクさまの考え方は西洋的なものの見方をよしとする考え方のように見えます。ものは外界に存在し、誰が見ても一つの見方が成り立つという風に見えます。
仏教的な見方とは根本的に相容れないと思っています。だから宗教となるしかないのです。
*
> ********************
ただ、私は、どのような前提もバイアスもなしに、仏陀は本当は何を言いたかったのかを知りたかっただけです。
そして、大乗仏教はなぜ興ったのかをどうしても知りたかったのです。
そして、それが自分の中で完全に納得できました。
法華経に対する数多くの『?』もすべて氷解しました。
それは、法華経成立の紀元前後に降り立って初めてわかることだと思っています。
大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったし、法華経はその代表的な経典です。
仏陀の理法は人類の至宝なのですが、このままだと埋もれていくと思います。
そうならないように願っています。
> ********************
ここに於いての “ > ただ ” が 問題です
ただ “ 問題としない者 に 問題は存在しません ”
“前提とバイアス” を 持っているから
「本当」 が 存在します
( 「本当」 とは ) “前提とバイアス” の上 にしか 存在しません
“ これある ゆえに これがある ”
「本当」 が 存在して 始めて 「本当」 が 存在する
「 空 」 とは “それなきゆえ に それがある”
ということ と “それあるゆえ に それがない”
ということ とを “それゆえにある” とする ことです
(“それあるゆえ に それがある” )
この意味が ない ゆえ に
( “あなた” には ) ↓ この意味 がある
“ ( それあるゆえ に それがある ) ” という 意味がある
言葉の 遊び ( ひねくり回し ) だと
“あなた” は する( あなたはせずに わたしがしている )
( 思うこと も すること だが ・ ではあるけれど
していること は 思うことの上にしか起き上がらない )
知って どうする という 出発点 が なく
知らずに こうしている と 知らず( 知ろうとはせず )
( 此処ら あたり になると “遊び” に 入ってくる ? )
こんなことは “遊び” に過ぎないから
真剣 を 扱う あなた は
“ 言葉を切り捨てる ”
( 我が身・わが認識 が 切り刻まれて いく 、、、、 )
認識主体 の 「 我 」 は 無 という ( は な し )
「 空 」 を 知らずして 「 空 」 を 俎上に載せる
( 真 名 板の上で 仮名 で 出来ている 「 気 」 を切る )
切っても 切れない のが 「 縁 」 である
( “ 縁切り ” という 切り方 で
「 縁起 」 を 切れるかな )
>> 仏教的な見方とは根本的に相容れない
根本がない という 理 の上で 根本を説く
仏教的な見方 など 存在しない
( “モノの見方” には 色々ある という
色付きの見方 )
色 を プリズムを通すと “七色・十色” に 見える
見ている のは 一つの波長に的を絞った 「 認識 」
あなた は 例外 ではない ( という 例外を認めず )
( 考慮の上 である という 考慮の上にある )
わかってほしい のではなく
わからないこと を 言うのみ
わたしがわかっていること は わたしのうえにある
( そのようなさま を ワガママ ・ 自捻 自縛 という )
・
えいっっっ!ぽい!!
椎名林檎 「芒に月」
大乗仏教を大前提として、仏陀の言葉を読み込んでいく見方はそれはそれでいいと思っています。
実際、大乗仏教の国日本ではそのような見方をする人がほとんどですから。
ただ、私は、どのような前提もバイアスもなしに、仏陀は本当は何を言いたかったのかを知りたかっただけです。
そして、大乗仏教はなぜ興ったのかをどうしても知りたかったのです。
そして、それが自分の中で完全に納得できました。
法華経に対する数多くの『?』もすべて氷解しました。
それは、法華経成立の紀元前後に降り立って初めてわかることだと思っています。
大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったし、法華経はその代表的な経典です。
仏陀の理法は人類の至宝なのですが、このままだと埋もれていくと思います。
そうならないように願っています。
それでは、終わります。
ショーシャンクさま こんばんは。
>ただ、私は、どのような前提もバイアスもなしに、仏陀は本当は何を言いたかったのかを知りたかっただけです。
すでに、ここに一つの思想があることを知りますが、納得されているのならそれでよいと思います。
>仏陀は本当は何を言いたかったのか
「如来」という名は、ブッダの口から言われたことで、「この世界に戻ってきたもの」という意味を、わたしは!認めています。
「無我」を説いた、ということは、非常に重要ですが、「仏陀は本当は何を言いたかったのか」ということも、そのような思いから離れられない人にとっては、重要なことになるだろうということは、わかります。
何を言いたいのだろうと思われたかもしれませんが、
「無我」ということを説いたブッダに慈悲の心を見ています。
ショーシャンクさま、ありがとうございました。
*
>> ただ、私は、どのような前提もバイアスもなしに、仏陀は本当は何を言いたかったのかを知りたかっただけです。
“ただ” ということ
“知りたかった” “だけ” ということ
この 並列 の 意味を 知りたくない 故に
知ろうとはしない 起きていること
そこに 故 が 起き
知るべきこと が するべきこと であるのに
知ろうとする “だけ” で せず に スマシテいるのです
( スマシテ 居る のに スマシ 顔 は 鏡に映らず )
( 映るのは・見るのは 見たい自分に起きる 見たい顔 )
( ここは 読解能力 を 要するところです ! )
あなたは 表現者 が 自分であるとは 知ろうともせず
記述者 の 表現力不足 で “ スマス” ことができる
見たいよう に 世の中は 存在し
見たい自分 が 見たい世界 を 表出している
( これ は 「 平等 」 “!” に 人の認識に起きている事 )
> すでに、ここに一つの思想があることを知りますが、納得されているのならそれでよいと思います。
「 納得 」 という語 には “納得” できない
( “納得” という ) 「 認識 」 は “表裏” に 起こし得る
見えている面 を “表” という
( “面” を 上げて これを 読む
読んで得る 認識 を あげつらっている訳ではない )
知る知らず に “かかわらず” 見過ごしている事
( これ も 「 平等 」 “!” に 人の認識に起きている事 )
ブッダ が 何を知った かを 見過ごす
( 知ったこと とは 「如実」 であり
「如実」 とは 誰にでも起きていること )
“ 如実に生きる ” 誰でも 「 認識 」 を離れれば 如実
( 「 認識 」 でさえ! 如実に起きている )
管理人エム 様 に “さえ” 納得できてはいない こと
( 納得できますか ? 「 認識 」 を離れて 腹に据えること )
「 瞑想 」 とは ハラヲスエテ 「坐」 に あるということ
( 「 行住坐臥 」 という 「坐」 に 起きる 「行」 たること )
いくら読もうと 一度読んだこと から は
離れ得ない
その “ヨウ” ・ 有様 を
知ること を ヨウキュウ しているのです
・