ブランコは二つ

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近くの公園を通ったらブランコがありました。腕を伸ばした人物が、支えるブランコ。

身体は、大抵のものは二つがそろっている。手・足・目・耳・鼻の穴。

仏教では、肯定と否定の二つの表現がある。

「○○だ」に対して「○○でない」

だけど、わたしたちは第三の選択肢を考える。真ん中、というヤツ。

楽と苦には真ん中がある。「楽でもなく苦でもない」というこれは、あり得る。

しかし、「楽」「楽でない」の間には「真ん中」はないと考えられている。これは言葉の使い方だから、認めるほかはない。

「楽」と「楽でない」の”ない隙間”のことをどう表現したら良いのか。

ブッダはこう言ったのだ。「近づかない」と。

我(アートマン)と無我(アナートマン)、この間で縛られると、「自己はある」とか「自己はない」とかうるさくなるし、さらには、やれプライドだのやれ自我意識だのともっとうるさくなる。

近づかなければどうなるか。。

気にしないで話せることになる。どんなにプライドが高かろうと、自我意識に悩まされようと、気にせず話せる。その分類はないのだから。「ある」とか「ない」とかも気にせず話せる。

有る、絶対有るう、などとがんばらなくてもいい、無い、絶対無いい、と答えなくても良いのだ。

なぜかって、それはね、「一切は空(くう)である」からなんだよ。空(から)っぽなんだね。

どんなものも、よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)なのさ。

身体は、多くは二つの部分をもっているけど、その一つの身体も泡沫のように消えていくんだ。

永遠を夢見る神々も神話と共に消えていく。それを教えたのが、ブッダなんだよ。ブッダは人として生まれたから、人のために、救いを説いたんだ。

過去世にはたくさんの動物として生まれたので、人として生まれてきたら覚りや悟りをめざすように教えを説いたのさ。

そんなの嘘だ。。って言うのなら、ブッダに嘘はないんだよ。ブッダはいつでも「その通り」ということしか説かないんだ。

写真を見れば、ブランコは二つで、中央には人は一人とわかるだろ?

どんなものも生じたなら滅していく。世の中は泡沫のようだ。。これに反対できる?

だから、「一切は空である」というブッダの言葉にも納得できるのさ。

納得できない人がいてももちろんいいんだ。肯定と否定があって、仏教(もしかして、一切)は成り立っているのだからね。

コメント

  1. 近侍郎 より:

    八つあんが駆け込んできて、
    八:ご隠居、てーへんだァ!
    隠:おまいさんの「てーへん」はいつも九割引きだ。
    八:「日本的霊性」って本で、般若のお化けがあばれてる。
    隠:八つぁんが、なんだって、そういう本を目にしたんだい? 
    八:貸本で水木しげるの横に並んでたんで一緒に借りたけど、お化けの絵がなかなか出てこねぇ。
    隠:目次で気づきな。そいで、八つぁんは、般若をどうみたね?
    八:強面のお化け般若は、言葉の世界を頓智でなぎたおす、油断のならねえやつだ。
    隠:お化けからもう少し離れな。
    八:寺の和尚も、般若を騙る狐か狸にちげぇねえ。雲水たちに「一息でしにきれ。足の裏で考えろ」とか言って、木の棒でひっぱたく。 人を喰って、ハンニャ腹満つ。
    隠:くだらねぇよ。 和尚は「分別離れりゃ、現われる」「とらわれなけりゃソレが生じる」「言葉なんぞは放り出せ」って励ましてんだろう。わしの見立てはどうだい?
    八:そんなら、あっしも草野球してる時、言葉を放り出しちまうことがありやしたぜ。
    隠:ほう、それはご奇特なことですな。どんな体験かな?
    八:打球の急所直撃時の感じは言葉になりません。やむをえず、おりんの音がするアレでさぁ。
    隠:ばきやろう、サイトの品が下がるじゃねえか。しかし、アレもソレも、冷暖自知ではあるな。
    八:はなはだあやしいねぇ。ご隠居さんの「わしの見立て」は、いつも十割引きでさぁ。
    隠:上等でェ、それが方便ってもんサ。

    失礼いたしました。

    •  春間 則廣  より:

       面白い 話し  を
            鼻白ばなし( 鼻白む はなし ) に してしまう 話

      >> 人を喰って、ハンニャ腹満つ

          人を食う  ハンニャ 腹立つ

         ハンヤ に行って   誤主因 を 探す 、、、、
       ( 万能 の 御朱印  って  アオイ 印籠 だろうか 、、、 )

            ・・・・・・・・・・・・

      > そんなの嘘だ。。って言うのなら、ブッダに嘘はないんだよ。

        言っていること  には   嘘 はない

        聞いていること・聞き方 に “ 嘘 が 芽生える ”

          生えるもの に  目を光らせ、光(視線)をあてて 
                      生えて来たもの を
           育む ( というと 聞こえは良いけれど) 増幅させる

       そんな意味で言っている ん 邪ない( 記述しているのではない )
        と  意 嘔吐  手(目)にするのも嫌   廃棄物に過ぎない

         見なきゃいいんだけど
          シセン ( 自然 )  光の方を向く 「 生 」・サガ

          照て テ  テにとる  成り行きという 解釈

         嘘 とは ついた     “ モノ ” に ついて回るけれど
         物 には 嘘はなく     嘘 つく 者  に つくもの

           「嘘」 と 決めると  嘘と決まる
                    誰にとっても
          これは   ( 場合によっては )  嘘 かな ?

      > ブッダはいつでも「その通り」ということしか説かないんだ。

         タター とは  “タタム”ト  あるがまま とは 嘘となる

        あるが まま   には   その通り という意味と
         我が  儘   という   意味 を 併せ持つ
       (  ワガママ   という 
            「 その通り 」 の いみ は 通じている のかな ?)

  2. tanza より:

    この世がどうなっているか、事前に調査・納得して生まれて来た人はいない。しかも確率100%で死に至るのに!
    それは、言語活動に執着しても思うようにならない。

    •  春間 則廣  より:

      死んだ人 は この世に一人もいない

        言うまでもないことだが 

      死んだことのある人も 一人もいない

        この世 が どこにあるかを 知る人は 一人もいない

        ここにあるって ?

        ここ って どこ ?

          一人もいない と ヒトリ 知る  

          人は 人知れず  ひとり で に いきている

      • ぎんた より:

        あのー、思ったんですが、「死んだ人は一人もいない」でやってきた結果、
        今、世の中がこんな具合なので、死なないのはとても厄介だ、という気がします。

        やっぱり、身体の死をちゃんと、「死んだ」ってことにして、とても辛い人生に
        なっちゃった人は、弾き飛ばしてもっといい感じの所に行って、まあまあ満足って
        人は、次回も上手いこといくかもしれないし、そう上手くはいかないかもしれない、ってしたらいいんじゃないかな?でも、前回人間だった時のことは憶えてないので、兎に角、置かれた場所で頑張りつつ、ヤバいとこ来ちゃったと思ったら
        その場所をいいものに変えるとか、逃げて遠く離れたところで社会そのものを変えるを頑張るか、避難しただけですごい頑張ったとするか、とかとかは自分で
        決めたらいいんじゃないかな?というか、どのように判断するかは前世の生き方で
        すでに決まっている。。。と思うのですが。

        ぎんたは観察するのが好きなねこだったから、ずっと観察しています。人間が
        なんとかするのを面白く見ている。

        数ヶ月前に、家族が京極夏彦のぎんたが読んでないシリーズの最新刊に、
        (教祖の本なのに読んでないのあるんかーーい!!)

        【嘘は綻ぶ】と書いてあったと教えてくれました。
        家族「あばかれる、より時間の経過によって自然にって感じがして、流石だね」
        ぎんた「ほんと、すごい!!(流石、役小角の仕事だ!!)」

        もう、これだけで十分過ぎぃ~!!それ以来、心の中で、「うそはほころぶ」を
        繰り返しているぎんたです。やーーすごいわ。

        xで見たんだけれど、京極夏彦のアクスタ持ってる人いるのよ。どこで
        手に入れたんだろう、いいな。

      • ぎんた より:

        今日、「野狐禅」て言葉を知りましたよ。

        ぎんたのは、「元地域猫禅」~

  3. カエル より:

    そうだ印哲に近づかない、
    距離をとって遠くから眺めて
    釈尊だけ参考にする

  4. Pocket より:

    カエルは印哲に近づくことなく
    諸欲において距離をとって、遠くから眺めて、戒律を守り
    釈尊だけ参考にする。
    かれは二度と母胎に宿ることはないだろう。
    カエルーニャメッタスッタン。

  5. 近侍郎 より:

    八:あるでもなけりゃ、ないでもない、あいだにも近づかない、とは何でやんす。
    隠:「前にも後にも間にも、なんにもなくて、取りも捨てもしない」とお経にあった。
    八:時や処に際がなく、着くも離れるもなく、因業もなし、ということかぃ。成程、
      ダルマさんは、前後上下・此処彼処、いっこうに気にしねぇで、転がってらぁ。
    隠:三社家という、太神楽みてぇな名の印度人が云ったって、
     「そうであるともないとも、ないのでないとも、あるらしいとも、異なるとも考えない。」
    八:庭をながめてぽうっとしてる隠居かい。
    隠:一切非思量のことじゃねぇかな。そっから先は各自が看ることで口走るのは野暮でやす。
    八:粋がすぎて、ただの変な野郎に見えます。

    • mani より:

      近侍郎さま

      >あるでもなけりゃ、ないでもない、あいだにも近づかない、とは何でやんす。 

      わたしが思ったのは、ふつうの言葉の使い方です。苦と楽の間には「苦でも楽でもない」があるけど「苦である」と「苦でない」の間には隙間が無いなあ、ということです。「苦でも楽でもない」は使いますよね。
      そして、「苦でない」「苦である」という隙間がない言い方をするとき、その言葉に近づかない、が出てくるのかな、と思ったのです。
      要するに、その苦という言葉を無いものとして扱おうということかな、と。

      言葉を作ると、その言葉による悩みがでてくるということで、其処を乗り越える手立てかな、と。おそまつ!