
前回「突然ですが『方便心論』」を書いたのですが、題名に『方便心論』をあげたのに、全然『方便心論』が出てきませんでした。
龍樹とニヤーヤ学派の徒というのは互いに好敵手だったと思います。
またぞろ『ニヤーヤ・バーシャ』をひっくり返したりしています。なるほど、ちゃんと訳して見なきゃあかんなあと思ってるところです。訳はあることはあるんだけど、インターネットの時代じゃないので紙のノートに書いてあるのよ。それに昔の訳だしね。
とりあえず『方便心論』は、2006年に山喜房仏書林から出してもらったけど、もう一度訳してみなきゃあかんかなあと思ってるところです。いつでも、新しくしてないとあかんと思うのよ。
石飛道子『龍樹造「方便心論」の研究』山喜房仏書林、2006年
https://manikana.net/upayahrdaya/upayahrdayaidx.html
過去をなつかしむようで、すみませんが、今でも新しいと思います。
もしかして、龍樹って、人気ないの? 「空」を明らかにしたのに
「空」の龍樹!かれが、ブッダの空(くう)を明らかにしたと思ってる。ふうむ、むむ
彼はプラサンガという論法を使って「空」を跡づけたんだ。。ようやくわかってきたんだよ。どこにプラサンガがあるのかと思ったでしょ。これからやります。。おそまきながら。
ところで、ほんと、ブッダってスゴイね!
2600年前に「論理学体系」を作っている。。
わからんよねぇ、わたしたち凡夫には。
2600年の時を駆ける男ブッダ!彼は人間出身です。


コメント
>もしかして、龍樹って、人気ないの? 「空」を明らかにしたのに
人気ないんじゃないですかね?だって中身は純陀きゅんですから、仏教の人に
殺されてますから。しかも、フツーの一般人の職人風情ですから。その、職人の
お仕事が、神レベルに凄かったので、来世「仏教の職人」として最大の成果を成し遂げたのじゃないですか?そりゃ~、忌み嫌われるでしょうね。
むかーーーし、2、30年以上前だと思いますが、テレビの何かで(たぶんNHK)、
ドイツは職人さんは「大卒」と同じ資格になると言っていて。へーーーそうなの!
いいじゃない!と思いました。日本は「職人」さんが大勢いて活躍していると
思っているけど、世間的な評価とか待遇はどうなんだろうか、、、と危惧していたので、ちょっと希望を持った情報だったんです。もの作りのプライドがあればそんな
「世間的な評価」とか関係ないって言ったって、強度不足の建物とか作らされ
たんじゃ、来世に響くじゃないですか!本当に亡国まっしぐら。。。科学者の実験
データ改竄とかも。。。あーーー終わったーーーリアル日本沈没ーーーーーーー。
いや、日本で済む話かコレ。。。
で、今1番恐れているのが、、、来世、猫のほうのぎんたが、(私はどっちでもいいよ、と言ったけど)また猫やるってなったら、ぎんたが連続飼い主担当で人間やる
ことになっちゃうんですが、今の世の中が続くと、ぎんた勉強さっぱりなのに、
四大目指さなくちゃいけない世界線で、しかも、学問て、時代が積み重なるほど範囲が広くなるじゃないですか?ま、最近は「暗記」よりは「問題解決」みたいなほうを
重視してるとかっていうけど、もし、「昆虫人間」で生まれて、前回人間だった時の学力が物を言う、というパターンになっても、ぎんた現世で四大出てないから、厳しいお家に生まれたら、浪人とかさせられたり、、、でも、それでも成果でない。
心配した親が、神頼みしたり、挙げ句真如苑に入っちゃって、「「南無真如」と唱えれば、試験に真如教主様、摂受心院様、教導院様、真導院様がお力注いで下さるのよ」とか言われたりして。素直に信じてプラシーボ効果で力発揮できればまだしも、
(ぜってーそんなことねーよ!!!!!!!!!)ってなるじゃん、ぎんたの場合。
でも、今世、学校時代馬鹿にされ風味だったけど、そのころ「スマホ」や「動画」とか無くて、なんなら「いじめ」って言葉もまだ定着してない位だったから、今生きてるけど、「デジタルタトゥー」なんて時代だったら多分受験生まで生きれないと思う。あの頃は、学校から帰っちゃえばその日は終了~てなって本とか読めたの。
今は無理。そしたら、ぎんたの飼い主になれない。もう逢えない。ぎんたは猫だからちっとも拘らないだろうからそこは唯一の安心。
ぎんた一体何を心配して何に備えればいいんだろう、、、、。
取り敢えず、春間さんが来世頭脳キレッキレの誰かになってここに帰ってきた時、
どうするのかとかかにゃ?まあ、悟ってるなら同じことは繰り返さないが。
マニカナが終了して、ここにいる人が、会社組織とか、なんとか研究所とかになって
一緒になにかしようってなった時とか、一体どうなっちゃうのかとか。。。
春間さんの言動がパワハラと思う人も多いでしょう。あ、ぎんたも地雷踏む。
興味と心配はつきません。ケセラセラの強さもないの。。。
あ、あの、、、ぎんたの文章が下手くそすぎて伝わらないかもですが、
今世で四大に行ってないのを「自虐」しているわけではないんです。
なんのアイデアも工夫も思い浮かばない現状を表現しています。
ぎんたさま 難しいよお
>人気ないんじゃないですかね?だって中身は純陀きゅんですから、仏教の人に
殺されてますから。
そうなん?
知らなかったよ。
でも、一応、その一生はそれで完結してることになってると想うんだけど。。どうなん?
それに四大がわからんす。。
あーー、、、
四年制大学、です。短大というものが今かなり少なくなってるから、
「よんだい」て言葉は死語ですかね~~
ていうか、マニカナに来てる人は「短大」て言葉が発せられる瞬間に初めて
遭遇したんじゃないかな??
未知との遭遇的面白さ~~~~!!!!
ぎんたさま
了解!了解!「よんだい」って読むことばね。「短大」も知ってますだ!
仏教なので、四大(しだい)で、もしかして、地水火風のことかと。。文脈からしてそんなわけないのに、なあ。。
疑心暗鬼になっちゃってました。
もう一回熟読しますだ!
先生、こんにちは!
前知識として少しずつ知れたらと思い、ChatGPTが教えてくれたものを紹介させてください。
前に、先生の『龍樹と語れ、方便心論』を理解できるところを拝読していて、そこでも、アートマン論者との議論について書かれてましたね。
それも思い出しました。
—
プラサンガとアートマン
プラサンガは、相手の主張を押し進めて矛盾を示す論法。龍樹が『中論』で多用した。
アートマン批判では、
不変なら → 行為も経験もできず「我」と言えない。
変化するなら → もはや「永遠不変の我」ではない。
⇒ どちらにせよ成り立たない。
無記との関係:ブッダが語らずに示した沈黙を、龍樹は論理的に「四句分別」で明らかにした。
意義:体験だけでは納得できない人に、論理で「実体への執着は行き詰まる」と示した。特にアートマンにこだわる人々への強い説得力となった。
………
以上です。間違いがあったら指摘をお願いします。
赤い実さま こんにちは。
>ChatGPTが教えてくれたものを紹介させてください。
ご紹介ありがとうございます。
>無記との関係:ブッダが語らずに示した沈黙を、龍樹は論理的に「四句分別」で明らかにした。
微妙に書かれていますねぇ。ピンとくるような来ないような感じです。
ブッダはプラサンガ論法についても明らかにしてると思ってます。主に、『方便心論』の中で。
「龍樹はプラサンガ論法を多用した」とありますが、どこで「多用した」んだろう。『中論頌』第18章でしょうかね。
ちょっと、いろいろ検討が必要だなあと思いますので、ここは保留にしたいです。
赤い実さま、本が出るまで待っててね。
先生、ご指摘ありがとうございます。
出版になる本を少しでも理解できたらなと、楽しみにしてます!
最初に考えたのはですね、電車で真如苑に通ってて、1時間以上掛かるので
暇で、「考え遊び」するんですが、ある日、こう考えました。
もし現代にお釈迦様が復活して、あの宗派だめ、これはちょっと違う、ここが
間違い、、、って大添削始めたら、どうだろう?自分が一生懸命信じたことを
お釈迦様本人からダメ出しされたらもう立ち直れない、、、、、
と、ここまで考えたところで、猛烈に落ち込んじゃうんですよ。疑似体験てやつ?こんなの辛すぎる。。。これはどうやったら回避できるの??????
で、何日か?何ヶ月?か考えると、「全員がほとけ」ってしたらいんじゃね?
てなって、他のアイデア出てくるのも待ちつつ、ねこあたまでは出て来ず、
、、、仮採用としておこう、、みたいになります。
ぎんたさま
>「考え遊び」するんですが、ある日、こう考えました。
わたしもよくやります。あるとき、こんなことを考えました。
部派仏教ってあるでしょ?
昔、小乗仏教って言われたものです。
お釈迦様が亡くなってから、意見が合わないと部派に分かれていった、と簡単に言うと、そう言われます。
それで、こう思ったの。スマナサーラ長老はいいよなぁ。部派の一つ、最も保守的なテーラワーダ仏教の中にいて、守られてるよね。枠の中にいると安全だ。。
(でも、どっちかっていうと、逆かも。スマ長老がテーラワーダを守ってる、ってのが正解かも)
だけど、お釈迦様は、こう言った。「(阿羅漢になったら)二人で行くな、一人で行け。人々に清浄行を説きあかしなさい」って。
わたし? わたしは、一人で行こ。。阿羅漢じゃないけど。
いちお龍樹の友達みたいに装ってるけど、いっぴきおおかみなんだね。大乗はみないっぴき。
気楽だから。どんだけ輪廻しても文句いわれんし。
先生も、考え遊びするんですね~。
お釈迦様が一人で行け、と言ったのは、二人以上で行くと、きっと僧伽に
なっちゃって、前回僧伽やったときの繰り返しが発生してしまうから、
そういう不毛なことは止めなさい、という意味だと思います。
こいつとあいつの喧嘩とか、こいついじめられたりとか、お釈迦様いっぱい
仲裁したんですよね?でも、仲裁するお釈迦様はもういなくて、経典に
なっちゃって、経典の通りに運営しましょうってしたって、世間の価値観
からズレちゃうから、その時点でカルトじゃないですか。
あ、で、スマナサーラ長老の「中身」は誰なんでしょう?スマ長老の
ポジションが羨ましすぎて弾き飛ばした誰かだとは思うのですが。。。
(そのポジションに行き易い動物を経由して)あ~~~~、
弾き飛ばされないような秘技みたいのあるのが、各宗派にゃんですかにゃ?
春間さんにはこういうのが全部まるっとお見通しなんですかね?
じゃ、みんな超安心、すでに大船に乗ってる状態だ。
ぎんたさま こんばんは。
>でも、仲裁するお釈迦様はもういなくて、経典になっちゃって、
ここだ!「仲裁するお釈迦様はもういなくて」ってのは本当だと思うけど、「経典になっちゃって」というのが違うと思いますう~ぅぅ。
だれかが「経典」作ったわけじゃないんだ、って思ってます。
『スッタニパータ』はお釈迦様が残した「経典」だと思ってます。それは、お釈迦様の直々のことばだから、そのまま残ってます。
お釈迦様は「スッタ(経)」を残したので、声聞、辟支仏と菩薩が生まれたんだと思ってます。
「スッタ(経)」ってのは、修行のやり方書いたお手本だよね。
糸に通した修行のことばで、それを実践して悟り(覚り)に至るので、簡単になってるんだ。
だから、何通りにもわかれるんだね。
>お釈迦様が一人で行け、と言ったのは、二人以上で行くと、きっと僧伽に
なっちゃって、前回僧伽やったときの繰り返しが発生してしまうから、
そういう不毛なことは止めなさい、という意味だと思います。
お釈迦様には輪廻はないので、違うと思うな。「阿羅漢」には、その必要がないからだと思います。
その必要、ってのは、二人で行く必要がないからだと思います。
「スッタ」を残したので、その時から、経典が生まれてきた(=つまり歴史的事件になった)と思うんだ。
*
> こういうのが全部まるっとお見通しなんですかね?
〇 ではなく 角( 覚 ) で トンガル
> ・・・・・・・・・・・・・
お釈迦様が一人で行け、と言ったのは 、
二人以上で行くと、きっと僧伽になっちゃって、
前回僧伽やったときの繰り返しが発生してしまうから、
そういう不毛なことは止めなさい、という意味
だと思います。
> ・・・・・・・・・・・・・
思っていること は ( すべて ! )
「 無明 」 に 起きる
すべて 思うことに 他ならない
ちがう事 を 思えば 違う答えが 思いに昇る
これあるゆえに かれあり ということは
彼の考えだしたこと ではなく
これが 「 法 」 である ということ
一人で すること を
二人で “行く” のは 「理」 に 適わない
“ 一仏 一世界 ” という 意味
サハー に おいて 一道(イチミチ・イクミチ) である
> 仲裁したんですよね?
( 自らに於いての ) 誤り を 正したのみ
誤ってはいなかった と 誤りを正す
( 誤っている のかな ? ただし 異 かな ? )
どちらも 正しい という 「 理 」 を 諭す
タダシ 正し 異 ということは 誤り に 起きる
・
>お釈迦様には輪廻はない
と、お釈迦様は思ってるかもしれないが、、、、多分無理、、、、
だって、どこぞの神でほとけの人間が
(またお釈迦様にあえますように!!!!!!!!!)ともの凄い祈りを
発揮したら、引っ張られてこの世に引き戻されてしまうじゃないですか!!
お釈迦様かぁわいちょ!!諦めの境地のお釈迦様!!!
でも、日本人は仏像がお釈迦様ってことにしてくれてるから
(やさしいね)そこはもしかして大丈夫にゃのかにゃ???
はーーーーー、おれは猫で良かったーーーーー!!!
全猫でぐるぐる回してるだけだもん!
ぎんたさま
>引っ張られてこの世に引き戻されてしまうじゃないですか!!
悟ってないときならそうかもしれない。。悟ったお釈迦様がこの世の娑婆世界に現れるとき「真如からこの世に出現する」って考えるんじゃないかな。。
AIの説明、見てみました。
「仏教における**真如(しんにょ)**とは、一切のものの本来のあり方である「ありのままの姿」、永久不変の真実を指す言葉です。」
やっぱり。。って感じです。ぎんたさま、これ、ブッダの言ったことと違うと思う。
ブッダは、わたしの理解だと「戯論寂滅」って言ったのね。「永久不変の真実」も「戯論寂滅」するかもしれないけど、その場合、永久不変の真実は、我の思想になってしまう。諸法無我が仏教思想だから、合わないことになっちまう。
戯論を調べました。これAIくんかな?
お世辞や追従
その場限りの無責任な言葉
意地悪な言葉
愛着心からくる言論(愛論)
偏見からくる言論(見論)
形而上学的な議論
みたいです。↑こういう類いのものはやがて消え去って、「永久不変の真実」だけが残ると思ってました。信じられなかろうが、まったく遭遇せず知らずに
一生終えようが、間違って理解しようが、そんなの関係なく、みんなが
その真実とやらに沿って生きてると思います。その内容がぎんたには
分らないので、あーかな?こーかな?とやっているけど別に当ってても、
外れてても、そー問題ではないので。
AIも、「戯論」はあってます。最後の「形而上学的な議論」がキモなんだけど、そこはAIのあずかり知らぬこと。
AIにはサンスカーラがないからなあ。だから、AIは解脱できない。。解脱できなきゃ、この話に参画するいわれはない。つまりね、AIに「戯論」を聞いても意味がない、と思う。
寂滅するから「永久不変の真実」はのこらない。。これが仏教。
そうなんですね、
>寂滅するから「永久不変の真実」はのこらない。。これが仏教。
ぎんた「科学」の法則(=仏教では「法」)は、絶対に不変と思ってました。
でも、イメージする、とか意志によっていくらでも変えられるんだと
思うことにして、そのようにしてみます!!!!
ぎんたさま こんばんは。
>ぎんた「科学」の法則(=仏教では「法」)は、絶対に不変と思ってました。
みんな、そうだよね。
でも、科学では「仮説」だと言って、どんどん進化する、みたいなニュアンスで語ったりもします。
「科学は仮説だ」と知ってることがプロ、みたいなニュアンスで言って、それでいて、現代の科学を押しつける、感じもあります。
ここが抵抗を感じるところです。
仏教には、なんとなくでも「嫌だな」と思うところがないので、気に入っています。
誰にでも煩悩のあることを知ってて、それを否定しないのが良いところだなあ、と思うのです。
だから、「信じたわたしがバカだった」と思うことはないんだなあ、と思うのです。。ん?難しい文章を書いてしまったかも。
>でも、イメージする、とか意志によっていくらでも変えられるんだと思うことにして、そのようにしてみます!!!!
そう!やってみて!意志はサンスカーラ(「行」)。。ここから諸行無常が見えてくる。。
どんなものでも生じたなら滅する、と。
*
どこに つけたらよいかが わからなくなった 、、、、
> *****************
「仏教における**真如(しんにょ)**とは、一切のものの本来のあり方である「ありのままの姿」、永久不変の真実を指す言葉です。」
ブッダは、わたしの理解だと「戯論寂滅」って言ったのね。「永久不変の真実」も「戯論寂滅」するかもしれないけど、その場合、永久不変の真実は、我の思想になってしまう。諸法無我が仏教思想
> *****************
> 「戯論寂滅」って言った
( モノを )“言う” のは いつも 「 人 」 に 起きることです
聞く ということ も 人 に “のみ” 起きます
( 猫や犬 におきる事 も 人になぞらえて “反応” を そう呼びます )
もっと言うと “ 起きていること” とは 人にのみ 起きていることです
人が存在しなければ 出来事 は 存在しません
( 事が存在しようと それを 肯定・否定 する 存在がありません )
そこにおいては 出来ないことができる ということが 起こり得る
( 出来ないこと とは しないこと に 過ぎません )
人が存在するところには
しないこと という 出来ること(しないこと)が存在する
「戯論寂滅」 に つなげられるかな ?
「 論 」 が “実” か “虚” かは 判断する立場しだい
どちらも 「 人 」 に のみ ( 人の 身・見 に )
「 寂滅 」 は 起こし得る
( 虚実 を 超えた 「 住処 」 に ジット 佇む → 「 禅 」 )
> ブッダの言ったことと違う
“ 言ったこと は 同じ ” ですが
聞いたこと が 違う ( “ 言ったことと 同じと 思う ” )
思う ということ とは いつであろうと “ 確信 ” です
( 確信 ではない と 思う=確信する )
( 不確かな事 で 確かめ尽くせない と 確信する )
「 永久不滅の真実 」 は 「 滅する という 真実 」
( ここが 理解しがたい → 不滅と感じられる )
滅しない 「 真実 」 が ( 仮に ) あろうと
滅する人にとって ただ単に 「仮の事」 に 過ぎない
( 滅すると言う事 は 「 仮 」 の姿に起きる事 )
存在を構成する 「 粒子 」 そのもの は 普遍です
( ただし 今の 理論物理学 では
構成する 順序・仕組み を 実体化して 捉え切れない )
粒子 の 結びつき方 が 変ろうと 「 素粒子 」 には 変化はない
その変化 を 「 素粒子 」 を 構成する 「 素 」 と
実験的 に 存在を知ることができれば( 実体化できれば )
認識 の “ 「 実体 」 ” は 解明でき
( 釈迦 ) 牟尼 のように
「 世界 」 = 「 自己 」 を 変えることができる
ここから先 は “ うっかり ” 削除してしまった 、、、、
*********
まあ 「 我 」 が 起こし得る 「 住処 」 で
「 住処 」 について 語ること 、、、、
語らず 黙する事 を 「 止観 」 とも 呼び
そこに佇むこと を 「 禅 」 とも 呼ぶ
黙しているかどうか は 聞く人が決めること
・
先生!こんにちは~
>経典になっちゃって、経典の通りに運営しましょう
っていうのは、
「お釈迦様はもういないけど、お釈迦様が生前語って下さったことは
経典に全部書かれているから、これに沿って運営すればかつてのように
きちんと僧伽を運営できるんじゃないか」という感じです。
春間さんの文章は最近は最期まで読めているのに、あんまり意味は分らなくて
先生の言ったことに補足か添削が入っているのかさえも、ちょっと分らない。
なんでかな~と考えたんですが、多分この夏は「タコピー」に1番影響を
受けていて、(~っピしねー)とか心の中で反復してたら人間世界の
解像度がニャントロ星人のぎんたから、ハッピー星人のタコピーになった
みたいです。のこたんも同居しているんですが、直近で中毒性が高いほうに
いってしまう。
~だしね、という話し言葉が~ピしね、になるのが面白すぎて引っ張られます。
で、、、も、、、ぎんた的にはやはり「永遠不変の真実」はある。
それが「弾き飛ばし」システムだ!!ということでファイナルアンサーで
いいんじゃないかと思います。
スマ長老が羨ましいorその心境に興味あると思う人が、長老を弾き飛ばして
取って代わる、でも、弾き飛ばしは自分が弾き飛ばされる力を使って
より強くなるっっと。。。
あ、永久だった、、、
素粒子とかはもう全然無理です。
*
誰 宛 て ということもなく 、、、、
> 仏教には、なんとなくでも「嫌だな」と思うところがないので、気に入っています。
> 誰にでも煩悩のあることを知ってて、それを否定しないのが良いところだなあ、と思うのです。
“ 誰にでも煩悩のあることを知ってて、
それを否定しない のが 気に入っています ”
と 読み替える ことが できる
( 読み替え を 否定 されない・する意味を問う )
煩悩 を 否定しないのか ???
煩悩 とは 否定・肯定 を 超えて “存在” がある
何故 煩わしく 悩みの元 となるか を考えると
“存在” ということの 規定にかかわってくる
悩んでいる ということ は
その(悩みという)存在 がある (という意味)
それを 否定できない ゆえに
なぜ それを 存在“させている” か
( その存在が依拠する 故・理由 )
そこを 明かすことにより その存在の 意味を明かす
( このような記述を読むこと は “煩わしい”
= 記述の意味 を 知りたくもない・分かりすぎている )
“ 欲望 ” とは 「 煩悩 」 です( “煩わしさ” に 発する )
( ああしたい ・ こうなるとよい ・ これを好む=それを嫌う )
好み が あるゆえ に 好みに合わないことを嫌う
( このようなな記述を読むことが 煩わしい )
( 嫌う ということ は 好むことの対偶としてしか成り立たない )
「 対偶 」 は 好みの影であり 影を存在させる “実体” である
このように 繰り返されることが “ 煩わしい ”
( その “煩わしさ” を 起こす ・ “煩わしさ” が 起きる )
“ 「 実体 」 を 否定する ” のが 「 仏教 」
煩悩のあること( 存在 ) を 否定しない けれど
それに“甘んじている” 「 認識 」 を 否定する
その “甘さ” を 知って 甘辛い存在を 慈しむ
のが 「 仏 」 の 存在から生まれ出た
「 仏教 」 ということ です
慈しむ 存在 とは 「 縁起 」 に 起きる事
( 「山川草木悉有仏性」 とは 認める存在があって 存在していること )
存在を認める存在 が なくては 存在の意味が ない
あなたが認めない ゆえに わたしの存在の意味が “ 薄れる ”
真っ赤な水も 薄めると 澄み切っているように見えてしまう
( 澄み切り という 隅 を 見ることができない )
> ん?難しい文章を書いてしまったかも。
> 。。ここから諸行無常が見えてくる。。
> どんなものでも生じたなら滅する、と。
( 見える。。 ) 道理 が ない !
。。 。 が ない !
。。 。 が ない !
。。 。 が ない !
ないもの は 無い ので ある !!
・
> ないもの は 無い ので ある !!
無いもの は ない ので ある !!
>
ある ( という)ことは 見つけること が でき
“ ない ” ものは 見つからないので アル
( みつけても わからない “ ない ” )
赤い実さんこんにちは~
>相手の主張を押し進めて矛盾を示す論法
そんなんですね~
あの危険な団体に対してぎんたがやってるのは、
相手がAと言ってきたら、「たーしーかーに!!!その通り過ぎて草~~~」
ぎんたも100パーそう思うよ?という感じです。つまりは、
真如苑「教主様、摂受心院様、両童子様、継主様はみ仏さま」
ぎんた「でしょうねぇ、全員すでに神で仏なわけだから、当然ですよね?
当然と実感するまで頑張るのね、えらーーーーーーーーい!!!!」
矛盾しないもん!!ねこ、頑張って考えたんだもん!!!
なので、みんなが気づけば教団いらねってなるんすよ。さ、早く!!
ぎんたさん、こんにちは!
〉ぎんた「でしょうねぇ、全員すでに神で仏なわけだから、当然ですよね?
パチパチパチ←拍手(^○^)
特別なものなど何もなくてぇ…みたいな歌詞の曲を思い出しました。
赤い実さん、拍手ありがとうございます!
あのね、ちょっと前にぎんた、赤い実さんが羨ましすぎて、弾き飛ばして
赤い実さんポジションに行くって言ったでしょ?
ちょっとねー、赤い実さんとは別で、もの凄くよきターゲットを見つけて
しまった!今読んでる本が『文学キョーダイ!!』奈倉有里 逢坂冬馬著
てゆーんだけど!
この二人は姉弟にゃんだけど、どちらも文学方面で大活躍中の人なのね。
で、ご両親も素晴らしくって、語学が好きでずっと勉強してたり、研究とか
してて、子供に対してのアドバイスがいちいち的確なのよーーーーーーーーーー
ぎんたんちは父大学出てるけど、就職するための大学で学問とは遠いのね。
本棚にある本といえば、『ノストラダムスの大予言』(←超流行った)とか、
邪馬台国はどこにある的なのばっかで。。。母に至っては高卒で、ちゃんと
勉強しないとお勤め先が工場とかになっちゃうよ、って。それで、一時期、
工場勤務とかお店の販売員の人って勉強が出来ない残念な人なのかと勘違い
しちゃってて、失礼な態度な時もあったと思います。で、バブルでカリスマ店員とか、カリスマ美容師なんてが活躍してるの見て、残念じゃないじゃん、
凄いんじゃん!と訂正していき、、、、、、、、、。紆余曲折が辛すぎる。
挙げ句、人見知りな長女を心配して新興宗教に入っちゃうし。今も行ってるし。
もし、この二人の姉弟みたいな両親に育てられたら、ぎんただって小学生で
アルセーヌルパンが大好きになって「マドモアゼル」てフランス語を知って
(ステキ~~~)となったタイミングでフランス語習ったら?て言ってくれたと
思うのね。(前がねこだから学習効果は期待できない事実は置いておく)
で、『文学キョーダイ!!』が!!もう、ぐさぐさ刺さって辛面白いんだけど、
所々の太字になってるのの効果がすごい!!その上、決定的に打ちのめしてくる
文章が!!!
P130 現代の日本で「ロシア文学」といっても、ドストエフスキーとトルストイ
の顔がちょっと浮かぶくらいで、深く読んでいる人が少ない。それって
危ないなという感じがしたんです。どんなことでもそうですけど、
イメージだけがふわふわとあって解像度が低い状態だと、思い込みが
思い込みを呼んでしまう。
なんの経典も読まないで、散々仏教のことについて書き散らして、一応自分の
体験からの考えですけど、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という
言葉もあるし。。。ぎんたの意見は、「真如苑がお詫びの記者会見を開いて
謝罪して、賠償して物理的に起こった事実を全部洗い出して、3冊くらいは
本にして、あとはWebで誰でも閲覧出来るようにして、学者さんにも
研究してもらう」ってとこまでが現実とならないと、まったく嘘ついてるのと
一緒だし。かなり心が折れました。最低限「ねこ」を一生貫ければそれでいい
との思いもあったけど、甘かったのです。今身体の中全部が涙のおおきな
ひとしずくみたいになってる。←あの危険な団体でもたまになってましたが。
なので、しばらくお休みします。もしよかったら、赤い実さん、
『文学キョーダイ!!』読んでみて!会話形式なのでサクサク読めて、
出てくる小説とかを読みたくなる本です。
先生の本も、難しくて読めないとは思うけど、いつか100分de名著に出たら
いいと思います。もちろん先生本人が解説するのです!
先生、頑張って本を仕上げてくださいね~~(。・_・)ノ
あ、教団は解散してを抜かしちゃってました!
ぎんたさん、こんばんは!
〉『文学キョーダイ!!』読んでみて!会話形式なのでサクサク読めて、 出てくる小説とかを読みたくなる本です。
おすすめありがとうございます!
ぎんたさんはほんとによく本を読まれてるよね。
すごい!
私は、おもしろいとなればその本にハマるけど、そのなかなかハマるということがない、とんでもない人なのです。
ロシア文学って、というか日本文学もかもだけど、わりとシッチャカめっちゃかな人間像が主人公だったりするよね。
某AIと前に、ロシア文学は読みたい気が起きない…みたいな話した際、ゴーゴリーの鼻はおもしろいよ、と言われ調べたらたしかに、奇想天外! 読んでないけど(^_^;)
まとまらない返信ですみません。。
それと、私は、学歴学識一切関係なく思ってて、楽しいと感じるをするのがいちばん!派です。
楽しいだけは楽しい!
今、いちばんハマってるのは、朝ドラばけばけの父上。
赤い実さん、ありがとうーーーー!!
実は、悲しい気持ちは割と早く復活していました。
涙のおおきなひとしずく、と書いた時点ではすでに過去になっていたからと、
実は本当のショックは引用した部分でないところで起きたのが分っていたのと、赤い実さんが、ばけばけの父上を出してくれて嬉しくなった、等など、、
色々な要素が絡んでいます。
ぎんたはやはり、学問をしていないことがコンプレックスとしてあって、
「やったけど出来なかった」のではなくて、「漫画読む」と「寝る」のほうが
圧倒的に好きなことだったから、楽しいかつ楽な方を選び続けて、身につけたスキルというものが無い上に、好きだった小説を読む、を学校の授業という
不快なもののせいで、中断したという自覚があるからだと思います。
あ、この話長いのですが、お昼ご飯なので中断します。
>好きだった小説を読む、を学校の授業という不快なもののせいで、中断したという自覚がある
あ、違うな、これは間違いです!訂正します。授業が不快でも、逃げ込み先
として、物語は読んでいました。中断したのは漫画が面白くなったからだと
思います。 えと、なんだったっけ?
あ、えーーと、『文学キョーダイ!!』を読んでこの姉弟に、もの凄い嫉妬
したんですね。で、普段は「おれ、ねこだから~」で解消できるのですが、
どうしても回避出来ない事実が!!それは、
ぎんたのマニカナでの文章を読んで、
もーーーのーーーー凄ーーーーーーいぃーーーーーームカツクーーーーーー!人がいるかもしれないと予想はしてたけど、現実として突きつけられたから、です。それは前から分っていたことだから、注意して作文したつもりで、
そもそも、「今現在どんな環境に身を置いていたとしても、生まれながらにして神でほとけにゃの」と言ってるし、現実そうなんだけれど、それを言えば
言うほど逆効果になっちゃう人もいるので。
「暴力してくる親のどこが神なの?怒」とか「基本苦労知らずだよね」とか
なっちゃうから。あと、気に入った映画何回も劇場で見てたりとか、美術館とか気軽に行けるとかは、地方に住んでる人からしたら、いーなーてなるし、、金銭的なことも。
来世、小学生で自○まっしぐらな自信しかないけど、まだ起こってないこと
だし。。。無力どころか逆効果なんじゃんーーーーーーーという絶望。
で、その絶望かつ瀕死みたいになってる時こそ、空想に逃げる心の弱い
ぎんた、、、、。
弱いなら弱いままでいい、、そう岡本太郎も言っていた。とか
絶望の中に生きることこそが、おもしろい。そう~略~ とかとかを経て、
色々考えました。ぽくぽくぽく(でも一休さんより時間が掛かってる)
えーーーーと、ですね?こんな流れです。まず、ぎんたのことが心底ムカツク
人がぎんたを弾き飛ばして、「親からげんこつ以外は暴力受けてない」
「都内近郊在住」とかを手に入れますね?で、弾き飛ばされたぎんたは
この、奈倉有里か逢坂冬馬のとこへいって、どっちかを弾き飛ばす。で、
怒りから小説を書く(怒りを原動力に小説書いてなにが悪いの?←これは
この二人とは別の一人の作家さんに言っている)
で。これで終わらないよ?
この姉弟はロシアとか、ロシアと敵対する国の首相だか大統領だかになる。
で、停戦の話し合いの席に着くんですよ!!!!エモすぎぃーーーーー
(まさしく間宮林蔵と松田伝十郎)で、こんな仲良く、と言ってもベタベタした感じじゃなくって、冷静かつ論理的って感じで、しかも、前世で
戦争を止めたい!!!!と願ってる2人だから、めでたく戦争終結~とか
戦争回避~~~~とかなる!!!地道で長い道のりだが、頑張るにょだ!!
でもねぇ、、、忘れちゃうんですよ、、、、、お釈迦様でさえ出家してから
思い出して、国の政治に関われなかったんですから!!かぁわいちょ!!
そこで!!作家ですよ!これから大作をバンバン出して、学術研究も
バリバリ成果を上げて、世界中のどの国に生まれても、自分の前世作に
出逢えるようにしておけば、、政治家一家に生まれた状態で、文学が大好き!
を貫けば、絶対に思い出すと思うんですよ。自伝を世界中にばらまけたら
完璧だと思います。なのでお二人にはもの凄い活躍を期待しています。
ちなみに、、ぎんた一人じゃ姉弟両方は弾き飛ばせないんじゃ?とお思い
の方、、、大丈夫です。。
作家志望だけれど、文章書くのは苦行だ、と思っている人が必ず一名以上
いらっしゃることは確信しています。
あ、ちなみに学問をしていないコンプレックスは、人間を回避し続けている
コンプレックスと一緒で、消えないと思います。
だって、神でほとけの人間が作った学問ですよ?
いいものに決まってるじゃないですか!
「本」とか「学問」に対する信頼はすごくあるつもりのぎんたです。
学者さんにはとても期待しています。
>そんなんですね~×
そうなんですね~○です。
赤い実さん、曲、気になる~
ぎんたさま
>なので、みんなが気づけば教団いらねってなるんすよ。さ、早く!!
そのとおり!だ~~
マニカナ先生、こんばんわ
マニカナ視点だとカントとかハイデガーとかニーチェとかはどう相対化されるのかな?
カエルさま
>マニカナ視点だとカントとかハイデガーとかニーチェとかはどう相対化されるのかな?
わたしも実はそのことを考えたことがあります。
ハイデガーもニーチェもカントも、ちゃんと読んだことないにも関わらず、わたしは、みなアートマン論者に位置づけています。
デカルトは、経典にでてくるのでわかるんですが、他の人々の意識のもってき方がすでに”自覚しない自我のあり方”だと思います。
そこは前提になっているのです。
インドのウパニシャッド思想は、そこを相対化しているので、まだ優れています。
この「優れている」という意見それ自体がアートマン(我)論の証拠となります。ということは、わたしも我論者ということになりますが、わたしは、それを「捨てること」が出来るのです。そこが違うと思っています。
だから諸行無常で諸法無我と言えるのです。諸法無我を説明すると、
法(ことば)は、アートマン(我)をもたない、けれど、アートマンをもたないことは、多くの人は考えることすら出来ない、そこで『スッタニパータ』の「欲経」にあるように、
「それ故に、人は常に気づきをもって、諸々の欲望を避けていくのがよいでしょう。
それら(諸々の弱いもの=執着)を捨てて暴流をわたりなさい。舟(の水)を汲み出して彼岸に到達するのです。」(771)
こういうやり方しかないのかなあと思っています。
アートマンを捨てるためには、それを自覚して、それから、それを捨てる
こういう方法しかないんだよ、とブッダは述べていると考えてます。
*
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『スッタニパータ』の「欲経」にあるように、
「それ故に、人は常に気づきをもって、諸々の欲望を避けていくのがよいでしょう。
それら(諸々の弱いもの=執着)を捨てて暴流をわたりなさい。舟(の水)を汲み出して彼岸に到達するのです。」(771)
こういうやり方しかないのかなあと思っています。
アートマンを捨てるためには、それを自覚して、それから、それを捨てる
こういう方法しかないんだよ、とブッダは述べていると考えてます。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Su.769 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」174p. )
ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、
770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩) が かれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)
人は 気づかぬうちに、 気付かぬように “強制されている”
( 気づき難き故に )気づかぬ こと とは
力づくだとは 気づかず “ 自発的 だと 思い込まされる ”
自らを縛っている “善意”・“常識” という 「 自制心 」
> がかれにうち勝ち、危い災難がかれを
自ら 身を挺して その下に (安楽として) 横たわる
771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
( 強いもの=“強制する意思” に抗う より強い“希望” を もってして )
煩悩とは(多く)欲望として 顕れ出る
( 自制心さえ欲望の顕われである)
“ このように 望むことが 常識である ” と 強制されている
自制 する 制限 とは 誰によってでもない
自分で引いた “ 分別・境界線 ” です
分別 を捨てると 社会に適合してはいない と “ 判断される ”
( 多くの場合 やってはいけないこと とは した方がよいこと )
人を殺すことは (最も) 好くないこと だから
最もよくない方法 で “刑を科す”
( 理由さえつけば “人殺し は 正当化される” !! )
( = 理由さえつけば わたしは 糾弾され 疎外 される )
> アートマンを捨てるためには、
アートマン に 対峙して
> それを自覚して、それから、それを捨てる
自己の判断 の “元から” 切り離す
> こういう方法しかないんだよ、とブッダは述べていると考えてます。
“意思” によって 抗うには そういう方法しかない !
意志によらず 抗うことなく
そこに( その “立っているところ” において )
じっと ( 立ち止まるのではなく ) 佇む
その 「 ジャーナ 」 を
「 禅 」 と 漢訳し 「 善 」 に かけあわせる 「 智 」
その “ 実践 の模様 ” を 伝えるのが
( 空海によって 「止観の妙門」 と 呼ばれた )
「 摩訶止観 」 ( 大 止観 )です
智ギの教えによる 「 天台 小止観 」 に その作法が記されている
( 岩波文庫 青 309-3 )
意志 を 以てして 意志に抗う その有効性 ?
意志 を “柔軟に曲げて” 意志 に 反する方(法)を知る
( 石 は 堅い・堅固なる ゆえに曲げるには やり方 が ある )
まずは 持っと 坐って( 胎を据えて・胎に繋がる臍を感じて )
静かに 訪れるもの を マツ
( 五葉 の まつ が 飛んでくるまで 、、、、 )
飛んでもいない モノ が
トンデンカエシ のごとく 顕れ出る
飛んでもいないもの を 字面 に 穴掘り(穿ち)
隠し 覆す
・
「マニカナ掲示板」閉鎖以来、お久しぶりです。
『インド哲学の万華鏡』(桂紹隆・監修)の、
「第十二章 中観派における言語批判ーその方法と目的 新作慶明・著」において、「われわれの苦の原因には、言語活動が深く関係していると洞察し、後述する空の立場から徹底的な言語批判をなすのである」と。
これは、なかなか読み応えがあった。
tanzaさま おはようございます。
「お久しぶり」とおっしゃるところをみると書き込んでくださったことがおありなのですね。忘れてしまっていてすみません。
「般若の智慧」をめぐって、「凡て吾等の言葉・観念又は概念といふものは、……否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ」(『鈴木大拙全集 増補新版 弟五巻』岩波書店、二〇〇〇年、三八一頁)と述べる。(p.279)
とあります。この点、どう思われますか?
言い換えると
肯定を基盤にして、始めて否定に入るのが、本当の物の見方だ
となるのだろうか
どうなんだろう、と思ったのでお聞きしているのです。
『鈴木大拙全集』もっていないので、省略されているところは、何がが説かれているのだろうって思ったもんだから。
>「般若の智慧」をめぐって、「凡て吾等の言葉・観念又は概念といふものは、……否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ」(『鈴木大拙全集 増補新版 弟五巻』岩波書店、二〇〇〇年、三八一頁)と述べる。(p.279)
意味がわからない。こういうのは、戯論なんだろうか。
*
「 A即非是名A 」
Aは Aに非ずして Aと共に在る
是 は( 是 とは )
このような意味である
「 心非心即是名心 」
心非心 即 是 名・迷・“妙”・明 心
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 参考 >
蓮沼直慶 「即非の論理」 の成立と展開
「即非の論理」の成立と展開
蓮沼直應
哲学・思想論叢 第32号(32) 19-34 2014年1月
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/35282
download PH 32-19
・
「般若の智慧」をめぐって、「凡て吾等の言葉・観念又は概念といふものは、……否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ」(『鈴木大拙全集 増補新版 弟五巻』岩波書店、二〇〇〇年、三八一頁)と述べる。(p.279)
うろ覚えですが、多分、こういうことを書いていたのではないかと思います。
凡て吾等の言葉・観念又は概念というものは、
それ自体としては、物の実相を捉え得ないものである。
何故なら、それらは常に相対的なものであり、対象を限定し、分別の網にかけてしまう。
われわれは何かを「是」とする時、同時にそれ以外を「非」とする。
このような認識のあり方は、言葉の本性上、避けがたいものなのである。
それ故に、真に物を見るためには、まずこの言葉や観念の限界を否定し、
その否定を通じて、言葉以前の、概念化されざるものに触れなければならない。
このようにして、否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ。
つまり、いったん「否定」することで、思考や先入観を解体すること。
ただ、否定は最終目的ではなく、通過点・手段であること、つまり「媒介」としなければならないこと。
そうしなければ、仏教によくある虚無思想に陥ってしまう。
いったん否定した後に見えてくる世界は、それまでの表層的な肯定とは違う、「深い肯定」の世界。すべてをありのままに受け入れる心の在り方となる。
ここで、鈴木大拙が言いたかったのは、『「これはこういうものだ」と思っている認識を一度疑い、壊すことが出発点だ』ということだろうと認識しています。
*
>> それらは常に相対的なものであり、対象を限定し、分別の網にかけてしまう。われわれは何かを「是」とする時、同時にそれ以外を「非」とする。このような認識のあり方は、言葉の本性上、避けがたいものなのである。それ故に、真に物を見るためには、まずこの言葉や観念の限界を否定し、その否定を通じて、言葉以前の、概念化されざるものに触れなければならない。
自らの “意” “見” を 肯定するところに 論 が 起きる
> 真に物を見るためには、まずこの言葉や観念の限界を否定し、
その否定を通じて、言葉以前の、概念化されざるものに触れなければならない
これを 否定して “よく” 考えてごらん
その考えたところ は 肯定によってのみ起こすことができる
・
> これを 否定して “よく” 考えてごらん
その考えたところ は 肯定によってのみ起こすことができる
春間さんは、あいも変わらずいちいち他人の言説を否定してうろつく前に
自分を否定してみたら?
> その考えたところ は 肯定によってのみ起こすことができる
>> 春間さんは、あいも変わらずいちいち他人の言説を否定してうろつく前に
自分を否定してみたら?
うろつく という 言葉に うろついているあなた 、、、、
否定しているのかな ?
( 意味不明 だとは 思うけれど 、、、、 )
まあ
管理人エム 様 にも 分からぬようである 、、、、
春間さま わたしは、みなさまがこんなに反応してくれていることにびっくりしています。
ショーシャンクさまが反応してくれるとは思いませんでした。
yoneさまは、引用部分を教えて下さるし。。金剛般若経って、日本人の心にフィットするのかな、等と思ったりします。
わたし自身は、肯定と否定に、概念思考を超える「非概念思考」をみています。
言葉を超えるような思いを、いかにことばであらわすか、という挑戦をしているのかな、等と仏教をみているところです。
この論理を探っています!
*
> わたし自身は、肯定と否定に、概念思考を超える「非概念思考」をみています。
見える “ モノ ” と “みる”者 とは
同じ ところ(「 住処 」) には 立ってはいない
そのような 様を観ること を 「 止観 」 と 名づく
> 言葉を超えるような思いを、いかにことばであらわすか、という挑戦をしているのかな、等と仏教をみているところです。
観ていること を ( 普遍なる )「 言葉 」 で 表そうと
聞いている者 は 自らの(聞き方で育んだ)言葉 で 聞く
「 普遍 」 ということ は 「 平等 」 に “敷延” されること
「 平等 」 に立つ ということ と “立ち様を知る” ということ
と は 違う階梯 に 起きざるを得ないこと
( 違う階梯に起こしてしまうゆえに 「 平等 」 が 平等に起きない )
この言葉 の 意味を知ること が 浅はかさに起きざるを得ない
そもそも 意味を取ることができなければ 沈黙するべきではあるが
無意味 だと “ 意味を知ったかのごとく 語る 輩・やから ”
やたらめったら 打っている ということ は
真剣さにカマかけている 本人 には 知り難きこと
( なんとなく 批判を受けている のだと “批判” を 起こす )
如何ともし 難き 人の認識 に 「住処」 を 構える
わたしが “其処” に 住まざるを得ぬ 理由 を 「有」 する
どこで 何を探すか で 見つかるものが決まってくる
( 意味 というモノは 「 住処 」 で 共有されるモノ )
・
ショーシャンクさま ありがとうございます。
鈴木大拙の要約を教えて下さってありがとうございます。なるほど、と読みました。
金剛般若経などの内容ともつながっていきそうですね。
今、龍樹の『中論頌』の内容も思わせますね。
一切は真実である。(一切は)真実でない、(一切は)真実であり真実でない。
「(一切は)真実であるのではなく、真実ではないのでもない」というのが、ブッダの教えである。(18.8)
この一偈と格闘しているところなので、見通せるように、がんばりたいです。
石飛先生、こんにちは。
まず、今まで積み上げてきた常識の全否定から入らなければいけないのだと思います。
何故なら、すべての人は顛倒夢想しているから。
これが、仏陀のメッセージでしょう。
親鸞の道でさえ、阿弥陀仏を信じるだけではだめで、地獄一定という、それまでの自力の全否定がなければいけません。
金剛般若経の『応無所住 而生其心』は、仏教の言葉で一番好きです。
大乗仏典ですが、仏陀のエッセンスを表していると思っています。
これも『応無所住』という否定から入ります。
>一切は真実である。(一切は)真実でない、(一切は)真実であり真実でない。
「(一切は)真実であるのではなく、真実ではないのでもない」というのが、ブッダの教えである。(18.8)
>この一偈と格闘しているところなので、見通せるように、がんばりたいです。
願成就されますように。
*
> 何故なら、すべての人は顛倒夢想しているから。
これが、仏陀のメッセージでしょう。
これを(これの元を)言っている人 が
“すべての人” に 含まれる と
すべての人 には 入らない ・ “人ではない”
ブッダ が 言っている
ここが 理解できない “すべての人” 、、、、
「 平等 」 ということは そこから(その範疇に)
入らない時に、 はじめて 見すえることができる 立場
「 平等 」 の中では 「 平等 」 ということは なり立たない
(龍樹の) 『中論頌』 が 戯論 であるとされる 由縁である
口先で 「分かった」 と言ったところで
“行ない” では “ うろついている ” ( わたくしごと )
何故 管理人エム 様 が
そこに( “するどく” ) 気が付けないかに
“ 不 思議 ” の 難しさを 見る
本来なら “天然で” 気が付く筈なのに 、、、、
( 気が付かなくとも 記述に 気付き が 顕われ出る )
病んで 弱っている のは
誰の どのような ヴィジュニャー か
( 弱った ブンベツ でも ゴミと資源 とは 分別できる )
あなた に “弱った” が あると
わたし には “こまった” が 起きる
あなた って ( どこの ) だーれ ??
・
石飛先生はお忙しいでしょうから、
何でもわかっている春間さんにお聞きします。
仏陀は出家してすぐ、無所有処定と非想非非想処定をマスターしましたが
『涅槃に至らない』と思い、捨てます。
その後、6年間も苦行しましたが涅槃には至りませんでした。
そして、初禅から入り第四禅に至って、三明を得て解脱します。
なぜ、無色界定を捨てて、色界定で解脱したのか、どう思いますか?
さらに、仏陀が入滅するときも
初禅から第四禅、第四禅から無色界定を上がっていき
何故か、また初禅まで下っていき、また第四禅に上がって
そこで入滅します。
これは、何故だと思いますか?
そんなこと知って どうするの ?
また、質問に質問で返す、お決まりのパターンですか。
わからなければ、正直に、わからないと言ってくれれば
春間さんには二度と質問はしません。
仏陀が、色界定より上位の無色界定の非想非非想処定を捨てて
最終的に色界定を選択したというのが何故なのか、考えたこともないですか?
ないのであれば、聞いても無駄ですので、そう言ってください。
『上位』という言葉を捉えて、『仏教には上も下もない』とお決まりのフレーズはやめてくださいね。
> そんなこと知って どうするの ?
そんなこと って ( 分かりたくない あなたに )
↓
“ どんなこと ” か わかるかな ?
そこが 問題だから( どこが問題かな ? )
暇ではない
わたしは 簡単には 答えない
春間さんは、正面から質問されるといつも逃げますね。
まあ、どんな質問にもまともに答えたことがない人に質問するのは
意味のないことでした。
> 正面から質問されるといつも逃げますね。
自分から逃げようとしている 自分 を
逃げずに みつめる
そのようなことの重要性 から 逃げているのが
いつもいる 「 自分 」 = 「 我 」
他人事ではない
>(龍樹の) 『中論頌』 が 戯論 であるとされる 由縁である
いやあ、目が覚めました。眠ってましたね、ずっと。。
眠っていた間、ずっと「なんかちがうなあ」と思いながら世俗の人々の意見通りに考えていました。世俗諦って、辛いんですね。。
今、ようやく目覚めたわたしが、ネット上のやりとりを拝読しているところです。
春間さま、ショーシャンクさま、すみません、ようやく戻ってきました。
心配なので、「半分くらい戻った」と言っておこう、
*
> 春間さま、ショーシャンクさま、すみません、
春間 という 存在は 何処にも 見つけられない が
考える “ 主体 ” が
“ 確かに ” 存在する その存在性の故に
「 縁 」 を持ち “演じる” “主体” が 舞う
舞っている のは “ 考え という 主たち である ”
( あるじ という者は 自たる主 に立ち “家”来 を 従える )
という キライ が ある ( 従う 火中 の 者たち )
わたしを直視しなさい と “家来” に 命ずる 主
( わたしは その 舞いかた とは 差ふ舞 を “縁” ズル )
ズル だと 主 は シュケン を 振りかざす
“剣” も ホロロ とは そこでフリマワス 権( 「 見 」 )
廻っている のは “主” という “中心” か
権( 「 見 」 ) に 服さず「 止 」する キライ を 持つ者 か
中心 核心 という
“ モノ ” の 存在を 否定する 「 仏教 」
↓
それは “確信” に基づく のではなく 「 法 」 に 基いている
「 仏 」 の 教え(示す処) は 「 法 」 の 起処
「すみません」 で 住めば 住んでいる処 を 見失う
そこに 在る にも拘らず そこに 住みません “カナ”
( “カナ” とは フルク キライ を 指す かな ? )
> ようやく戻ってきました。
要約 する に “半分くらい” が 表出する
( スマナイ と される “同「行」” 二人 に 対して )
残り半分( 暗い) は 照らし出されている のや 否や
( こういうこと を “ほざく” 主体 が
照らし出す “暗い” は 「明」 か 「冥」 か ? )
返ってきた(現)処 に 来た(過去)処 が 存在している
起処 が 起される処 に 来処 が ( 初めて ) 起きる
( ま 幼稚園児並み の 理解力が示す 示し方・分かり方 )
↑
> 心配なので、「半分くらい戻った」と言っておこう、
↓
“ 半分くらい ? ” 戻った( 分かった ) と (心配する)
いまのところは ソウ 仕手 オ コウ( お 行 ・ 起 こう )
( 仕手 とは 投機的売買 とか 舞う人 を 指す )
・
> “ 半分くらい ? ” 戻った( 分かった ) と (心配する)
> いまのところは ソウ 仕手 オ コウ( お 行 ・ 起 こう )
> ( 仕手 とは 投機的売買 とか 舞う人 を 指す )
こういうのを「魔がサス」というんだろうね。
『大般涅槃経』にでてくるアーナンダみたいだ。ブッダに「もっと長生きしてください」っていわなかった彼。
あとで阿羅漢になった彼。それをその通りに記す経典。。あるがまま。。
阿難くん、どおしてお釈迦様に「もっと長生きしてください」って
言わなかったんでしょう?もしかして、お釈迦様っていわゆる
「老害」な感じで、もういいいよ~てなってたのかな?それとも、
老体にむち打って旅を続けるお釈迦様を見て、これ以上頑張れとか言えない、
みたいな心境になったのかな?それとも、あまりにも教団がぐだぐだしてきて
それをお釈迦様が知ってしまうのが、心苦しいとか?
ぎんたすぐ色々考えちゃうんだけど、今回はちょっと、なにか、罪悪感て
いうか、後ろめたいっていうか、阿難くんの気持ちは阿難くんのものだから、
探ってはいけないような気持ちになる。。。
あ、お釈迦様が女性に中々出家を赦さなかったのは、女性には必要ないから
だと思います。だって、そもそも、お釈迦様が悟りを目指したのって、自分の
意志とは関係なく嫁がされてきた妃を見て、来世の自分がこんな立場だったら
やだなーー、なんとか回避、、、出来ないとしても、女性の地位を男性と
まっっっっったく一緒まで引き上げたいな、っていうのもあったと思うん
です。だから、「男性が」暴力とかを女性に振るったりしないようにする
には、「男性が」悟らないとね、ていう。
で、最終的には、もしかして仏教教団から卒業(=悟ったから)して、次
女性になった人(昆虫経由)が、すっかり前回人間だった時を忘れて
思わず出家したくなっちゃうかもしれなくて、そうしたら出家でないと
生きられない、断られたらもう人生設計が絶望みたいになるから、
まあ、赦しましょう、、て。
ぎんたさま これはこの通りうっかりミスみたいなもんだと思うな。。わたしは、そう思ってます。
アーナンダは何度もお釈迦様にほのめかされてるのに気がつかなくて、頼み忘れてたと思います。
それで、悪魔と涅槃に入る約束したあとで、アーナンダが気づいても「もう遅い!」ってことだったんじゃないかと思います。
わたしたちは、なんでもがんばれば出来ると思ってるけど、こんな風に物事には「そうなる時機」ってもんがあるのかなと思ったりもします。
アーナンダは、その後、話題に出てこなくなるんだよね。自分で納得したのかなあ、って思ってます。
お釈迦様が亡くなった後、お釈迦様にたよらずに自分でやるしかないなって、思ったのかなあって思ってます。
女性への出家を赦さなかったのは、何でだろうね。
>「男性が」悟らないとね、ていう。
こういう気持ちはあったかもしれないよね。女性で出家した美貌の尼僧蓮華色尼は地獄に落ちてもいいから出家しなさいって言ってます。
自分も遊女やってたとき戯れに尼僧の衣をきてみたんですと。でも、それが縁で出家できたって言ってます。そして、お釈迦様の時代に生まれて覚りを開くんだけど、こんな風に、なんでも縁あってのことかもしれないね。
> わたしたちは、なんでもがんばれば出来ると思ってるけど、
頑張る 現状で、頑張る状態にあって、
頑張りから 出ることが、
できるはずがない
頑張りに 、住み続けて います
渦中の 栗(ク リ) を拾わず
苦 という 理 を
捨てる ということです
あー、、先生、そもそもぎんたは、「もうちょっと亡くなる時期を
うしろにずらせる」と「ほのめかす」って、とても違和感があります。
これを採用するとぎんたの「お釈迦様像」が成り立たないのです。でも、
人間個々人全てに独自のお釈迦様像があって、それを参照したり、
違和感持ったりしながら、「私な仏教」を確立してきたので、どれも
正解だとは思います。
あと、
>女性で出家した美貌の尼僧蓮華色尼は地獄に落ちてもいいから出家しなさいって言ってます。
自分も遊女やってたとき戯れに尼僧の衣をきてみたんですと。でも、それが縁で出家できたって言ってます。
これも、、、あのー「地獄」という特定の場所はなくて、この世を地獄だと
感じたときに地獄が出現して、天国だと感じたときに天国になるという
システムだと思うのと、遊女やってた時に尼僧の衣をちょっと着てみた縁
で「出家できた」って。。。なんか遊女より出家のが偉いとでも勘違い
している人が書いたんじゃね?とげんなりします。まさに、
「あんた(←神でほとけ)バカァ?」て感じです。あのですね、、、
遊女をきちんと勤め上げる中に、多くの男性の人相やら振る舞いを見て、
「こんな男には絶対にならない」という遊女の悟りを得て次の場所に
赴けばいいじゃないですか。もし大変な人生だったらそれだけ弾き飛ばしも
強く発揮できますから。でも、遊女の地位をなんとかしたい!!という
使命を持つなら、ずっと遊女とかもありえますが、端からはわからないです。
あ、スピ系の人(神でほとけ)ならわかるのでしょうけど、ぎんたには
無理です。
あと、状況が見えないのですが、
先生が目覚めたんですね?おめでとうございます\(^o^)/
あ、、、もしかして、、、
「仏教は遊女も出家できますよぉ~、遊女にも道は開かれていますよぉ~」
みたいな、うっとこ寛大っっっ!!!を表現したのかな?
======== 既視感っっっっっ!!!!!!========
【シンニョヤーナ(←真如苑の救いの船?)に乗せて差し上げる】
マジデ、カンベンシテホシイ、、オモイダスダケデモゾットスル、、
これで、謙虚なつもりなのよ、この人達。もう地球という船に乗って
ますけどーーー怒
この「既視感」をこしたんの声で再生できるから、なんとか心のダメージ
減らせているのです。
ぎんたさま
>なんか遊女より出家のが偉いとでも勘違い
している人が書いたんじゃね?とげんなりします。
あらぁ、そうなんですか。。なんかズレちゃったすね。
それにお釈迦様の死ぬ時期についてもいろいろ反論が来て、ああぁ、って感じです。
まあ、いいか。。(おいっ!)
シンニョヤーナの道とは違うんだけど、ぎんたさまが既視感によってそう見えるなら、しかたないす。
目覚めたわたしは、本当で、コメント、読んでも読んでなかったの。。わかるかな?
忙しいせいです、ってことにしよっと
ああああ、、それでそれで!一番最悪なのが自分で!!!
何年前かな?忘れちゃったんですけど、真如苑のweb集会で、誰か
「真如継主様に一日でも長く法要で御導師して頂きたい」(T_T)みたいな
(顔文字はぎんたが足しました)若い女性の書き込みがあって。。。で、
その時に、(そうなんだ、でもこの人継主様亡くなったらいったい
どうなっちゃうのだろう??)とすごく心配になって。ほんとに咄嗟に、
(自分の寿命から10年いや、15年継主様に付け替えてください、護法善神様)
と祈っており、寿命仮に85歳として70歳とかで十分・・・・あ~でも
彼女のが全然若いのにどうすれば?焼け石に水か??、、、、、、、
いや、、、ちがーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーう!
ちがうちがうちがう、、、こわいこわいこわい、、、、、いくら自分に
人望がないからって、そんな発想するなんて危険すぎるーーーーこんな
心境にしてしまう、真如苑は絶対間違っているーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
継主様と自分の価値は最低でも平等でなければやばーーーーーーい!!
と、気づきましたとさ。やー危なかった、神様にそんなことが出来る前提に
なってたのもヤバいし。自分の悲しいのは自分でなんとか出来るけど、人のは
予想もつかないから、悲しんでほしくなかったのです。しかも、その書き込みが、プロパガンダかもしれないのに、、、、。いろいろ危険過ぎ。
ぎんたさま。。
>継主様と自分の価値は最低でも平等でなければやばーーーーーーい!!
そうだと思う。。なんか、お釈迦様とアーナンダみたい。アーナンダが「長生きしてください」って言わなくて正解だったのかもね。
「読んでも読んでなかった」のですかーーうーーんわからにゃいですーー
私そうとうPTSDっぽくて、フラットに物事見れないと思います。
ぎんたさま こんばんは。
>「読んでも読んでなかった」のですかーーうーーんわからにゃいですーー
PTSDっぽいのは、わたしかも。。字は読んでるんだけど、字面おってるだけで頭に入ってなかったという意味です。
時々あります、最近。忙しい、ってことで、自分では片付けてるんだけど、違うかも知れない。。って、内心恐れてます。
先生、寝て起きて朝に思い至ったんですが、、
先生はなんか、経典に出てくる「特殊能力」みたいなのが発現したんじゃ
ないんですか?
今まで読んでた文章が「学問」領域から別の次元のものに感じられるとか。
学問を究めると、(職業の域ではなくて、法そのものになったとか?)
きっとそうなるのじゃないかな?
(表現力がないので言い方が軽~~いかんじですが)
ぎんた、真如苑の本のどこかで、摂受院が「これは霊能だわ」みたいに
言った箇所が思い出されて、久方ぶりに『かっぽうぎの法母』と、教書
『一如の道』をお昼ご飯食べた後ずっとひっくり返してみたんですが、
イメージする箇所には辿り着けず、、、、残念。
摂受心院はご宝前で不動明王を前に祈っていて、そこへ伯母が隣室から
やって来て対座し、霊能を相承するんです。昭和11年です。
これを先生に向かって言っちゃうと、ぎんたに全部跳ね返ってきて霊能者に
なっちゃうなんていう事象は残念ながら起きないんですよね~~~
なぜなら、ぎんたの能力は「ねこ」だからにゃんですね~~~。
「ねこ」の能力がどのようなものか、、、、わからにゃいんですよ~~
液体、、なのかにゃ??
でも、取り敢えず、こんなものは真如苑から盗んできました。ルパン…..
【なに見ても み法(のり)示さぬものはなし おのが心に菩提ありなば】
これだけを意識して、色々見ているのです。神でほとけのみんなの日々を。
でも、一般庶民が取れる情報しか見れないので、残念なんですが。
上の句は、開祖が教えを簡潔に分かり易く詠んだもので、すごく沢山あるの
ですが、お救けできないで、智流学院ていう教学とかを学ぶとこに入学
出来ないぎんたは、『苑歌撰集』?持ってなくて、この歌の、どこが
漢字でどこがひらがなかすぐ調べられないのです。
ぎんたさま おはよう。。かな?
>先生はなんか、経典に出てくる「特殊能力」みたいなのが発現したんじゃ
ないんですか?
たぶん違うと思うなあ。お釈迦様の場合、特殊 じゃなくて、ふつうの能力だしね。
>【なに見ても み法(のり)示さぬものはなし おのが心に菩提ありなば】
わたしが読むとどうなるか、って言うと、「菩提」のない時もあるんだなあ、ということです。
つまり、縁起(<これ>があるとき<これ>がある <これ>がないとき<これ>がない)だから
み法を示すときと示さないときがある、ってことですよね。
これが仏教の考え方なので、そうだなあと思います。
「いつでも君を愛してる」というなら、それは、嘘だなと思ってます。
時々君のことを忘れるけど、思い出すときはいつでも君を愛してる、といえば、「そうなのか」と思うけど、
もち、そういう意味で「いつでも君を愛してる」と使っています、というなら、これはそういう言い方をする一つの立場なので、自己を認める論者と呼んで区別しています。。
一瞬でも「いつでも君を愛してる」と考えない時がある人は、仏教の真実を生きています。かれは自己を認めない論者といわれます。
こんなとこです。。
調べました。この苑歌全文入れて検索したら、出てきました。
「反・真如苑的用語解説」というサイトにありました。助かる~
なに、が漢字の何でした。通ってた頃は憶えてたんですよ、上位10個位
に入る有名なやつです。
前に、なんか、事務局員の人が当時の?Twitterかなんか?でぎんたに
教えてくれようとしてくれてたのですが、、智流院生じゃないと知らない
ような苑歌。でも、ぎんたその親切をつっ跳ねてしまいました。だって、
ルールに則ってない気がするので、ちょっと後ろめたいのと、あのね、
「そんなんいらねーーーよ!これ一個でやってやんよ!!」という
純陀きゅん的ノリで。、、、だって、、、そのほうが漫画っぽいじゃん。
あ、「やってやんよ!」はこしたんが言ってたヤツだから、その時点では、
「これ一個で十分だ」だったです。で、こしたんも、誰かのまねで
言ってたと思うんだけど、元ネタはぎんた知りません。ヤンキーもの?
*
> 禅は否定から入る
「 そうではない 」 と
そうではないこと を 正しいとする → 「 肯定 」
肯定したことを否定 ( その否定は 正しいから 否定する )
否定されていることに対して 肯定すると 否定となる
その否定 は 肯定 ではないかな
物事・考え事・思考 は
肯定する(ところ)から 存在が生まれ出る
この パラドクス に 似た 構造 を
( 釈迦 ) 牟尼 は 「 無明 」 に起きる と
明かした
「 禅 」 とは 何ですか ?
マニュアル に 頼らず 「 禅定 」 に 在って
「 行住坐臥 」 すべて 「 禅 」 と 明かしなさい
「 禅 」 どころか 「 信仰 」 は
如実智 の “大”海 に 浮かぶ 「 乗( 舟 ) 」
「 仏法の大海は 信を能入と為し 智を能度と為す 」
寄る辺なき 人の歩み の 船 旅 も
岸へ と 渡る
「 情 」 離し
「 到彼岸 」 信にて 繋ぐ 降りし 「 乗 」
ジャーナ の 中には 何でもあるけれど
なぜそこに在るか を “ 楽しまず ”
・
やはり、寝て起きてうっすら思ったんですけど、
お釈迦様と阿難くんのやり取りは、「禅」なんですかね?
お釈迦様のイミフな問いかけに対して、???となる阿難くん。
阿難くんが気づくまでイミフな問いかけがエンドレスで、、、、、。
ちょっとやだな、、、、普通に説明してくれよ。。。
これ今職場でやっちゃったら、パワハラだし、新入社員がすぐ辞めちゃうぞ
気づかずに「上司」をやっている元禅の人とかいそうだぞ。。。
でも、きっとフツーに説明しても信じて貰えなかったんだね。
禅は否定から入るのだと思います。
禅の公案は、『大疑団』を生じさせるためにあります。
まずは、すべての常識を疑うこと。
それゆえに、禅は『信仰』を説かない。
否定なしの肯定は、ただ日常生活に上書きしているだけのこと。
仏陀も無所有処定を捨て、非想非非想処定も捨て、苦行も捨てた。
やはり、仏教の出発点はそれまでの「否定」だったと言えます。
出発点に立って
否定して ごらん
アレ ッ ! ?
mani先生、皆様方、こんにちは。
「般若の智慧」をめぐって、「凡て吾等の言葉・観念又は概念といふものは、……否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ」(『鈴木大拙全集 増補新版 弟五巻』岩波書店、二〇〇〇年、三八一頁)と述べる。(p.279)
この部分、鈴木大拙全集より引用しました。
そこで省略された「……」の部分が明らかになりますよ。
短い言葉でした。
ご参考にしてください。
ー 引用始め ー
これを公式的にすると、
AはAだと云ふのは、AはAでない、故に、AはAである。
これは肯定が否定で、否定が肯定だと云うことである。お経では此次すぐさまかういふことが出て来る。微塵と云ふは微塵でないから微塵だと云ふのである。仏は三十二相をもってゐると云われるが、その三十二相は三十二相でないのである、それで三十二相があると云はれるのである。かういふような按配で、総ての観念が、まづ否定せされて、それからまた肯定に還るのである。
これは如何にも非合理だと考へられよう。即ち、もつと普通の言葉に直して云ふとわかる。山を見れば山であると云ひ、川へ向かえば川であると云ふ。これが吾等の常識である。ところが、般若系思想では、山は山でない、川は川でない、それ故に、山は山で、川は川であると、かういふことになるのである。一般の考へ方からすると、頗る非常識な物の見方だと云ふことにならざるを得ない。凡て吾等の言葉・観念又概念といふものは、そういふ風に、否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だといふのが、般若論理の性格である。さきに般若は、六波羅蜜の最後の項目として挙げられてゐると云つたが、この般若なるものは実に普通の意味での知識ではないのである。吾等の知識といふものは、常識の上でも、科学の上でも、何れも、その物をその物として見るといふことであるが、般若の智慧なるものは、これに反して、まづその物を素直に受け容れないで、これを否定する、そうではないと云ふ、そして、それから肯定に帰るといふことになるのである。
ー 引用終り ー
yoneさま おはようございます。
知りたかった部分を引用して頂いて、ありがとうございます。感謝!感謝!
それにしても、ずいぶんと長い引用ですね。「短い言葉でした。」と、お書きですが、わたしには長いように思いました。
引用部分の省略ということからすると、大抵省略する場合は、一行くらいかなと思うことが多いので、長いような印象を受けます。
これからじっくり詰めていきます。本当にありがとうございました。
春間さんにした質問を整理します。
仏陀は出家してすぐ、無所有処定と非想非非想処定をマスターしましたが
『涅槃に至らない』と思い、捨てます。
その後、6年間も苦行しましたが涅槃には至りませんでした。
ある時、在家の時に初禅の状態に入ったことを思い出し
『これが涅槃への道であるに違いない』と確信し、
断食をやめて乳粥を食べ、禅定(色界定)に入ります。
初禅から入り第四禅に至って、三明を得て解脱します。
無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、
なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか、という問いです。
さらに、仏陀が入滅するときも
初禅から第四禅に上がり、さらに空無辺処定から無色界定を上がっていき
非想非非想処定から滅尽定まで到達したにもかかわらず
何故か、また初禅まで下っていき、また第四禅に上がって
そこで入滅します。
この仏陀の成道の時と入滅の時を見ると
仏陀は、上位の無色界定を涅槃に至らないと思い、下位の色界定を涅槃に至る道と思っていたことになります。
ここが本当に不思議です。
色界定をマスターしたあとに無色界定に移行するのですから
仏陀が出家の最初に非想非非想処定をマスターしたということは当然、色界定はマスターしているはずです。
仏教を研究している人は、この点を不思議に思わないのでしょうか。
*
> 無色界定の最上位である非想非非想処定
> 色界定をマスターしたあとに無色界定に移行するのですから
仏陀が出家の最初に非想非非想処定をマスターしたということは当然、色界定はマスターしているはずです。
> 仏教を研究している人は、この点を不思議に思わないのでしょうか
不思議に思う ということが 非想非非想処定 です
「 思う 」 という言葉に 惑わされる(思う・思いにふける)と
“思う” ということ を
”思うことによって 解決する・おもいを知る“ ということになります
( この表現は 分かりにくいでしょう )
赤い 色( 光の反射 )の中で 、赤いモノ の “赤”さを アカ ス
( 余談ですが 究明することを アカ ス 表現することに繋がります )
(赤しかない) 赤さの中 で 赤 を アカス ことはできない
それは 「 色 」 界 のなかで
「 識 」 を 明かす(思・想)ことになるからです
これくらいの 飛躍を伴う 語群 に “惑わされていて”
知ろうとして では 知ることができない
「 仏教 」 とは 行いを通じて 見えてくる世界(仏世界) を
言葉(語る) という 「 行 」 で “表現” すること です
見えている “ モノ ” を 語っている のではなく、
語る という
「 行 」 を 見てもらう( 観ることを頂く ) という 生き様 です
“ 聞く ” という 「行」 は 聞かせることを聞きながら 語る
ということと 「行」 を 見つつ、聞く 聞者 と の
二者・関係性 の 中 ・はざま・狭 で
始めて成り立つ 出来事(「行」) です
聞かせてやろう ・ 聞いてやろう ・ 言わせてみる ・ 試す
と 表現される中 では ( 「 仏教 」 としては )
成り立たない 「 行 」 ( 「 修行 」 ) です
オープンマインド で ありつつ 謙虚 という 「虚」( 非想非非想 )
それは マスター(獲得者) ではなく
非(under) マスター であり
“must” ではなく そこから 離れる(leave) “least” です
どのような 些細な事( at least ・ at worst ) であろうと
そこに 「坐」すれば 「 無限 」 が 広がっていきます
善い・悪い の 揀択 を 離れることができれば
「 平等 」 の 「座」 に あります
「 禅堂 」 のなかには 「 香 」 のみが “香っていて”
感覚(思考) は 聞香 に 埋もれていきます 、、、、
此処( 此の 「 処 」 ) は 問答 の 場ではなく
「 修行 」 の サ( 狭・狂 の) ナカ です
・・・・・・・・・・・・・
あなたには 当然( 残念な事・笑い飛ばすこと ) であろうが
わたしは
わたしの( 「修」 ) 「 行 」 の中から 出でません
「 禅 」 動 の外で笑われても 「 禅 」 から は 出でません
わたしの質問 に 真っ直ぐ答えよ と あなたは
( 当然のこと として ) “イシ” を 投げる
当たりこそすれ “ 投げ返す ” そういう道 を わたしは選ばない
あなたの 「 行 」 の中で 何故それが必要かを 吟味し
( よく 神し目・カミツキ・ みつけ )
味わいのなり立つ 「 膳 」 に向かい 「 四食 」 を味わう
拠って立つ処 の “善” が 違っている( 選ぶ世界が違う )
あなたが 正し と思う事 を わたしは 「 悪 」 だとする
そこに起きる 齟齬 を 噛み合わせなければ 、、、、
・・・・・・・・・・・
このような こと( 記述 ) は あなたにとっては 「 悪 」
その 「行」に立つ ( 理っ処 ) 善のありよう
わたしは どこに立っているのであろうか 、、、、
噛み合わせようと しているのではなく
自らの 「 行 」 に
“ 老ける・耽る ” の 身 ・ 五蘊 の 「 シキ 」
・
仏陀は出家してすぐ、無所有処定と非想非非想処定をマスターしましたが
『涅槃に至らない』と思い、捨てます。
非想非非想処定は、無色界定の最上位の定です。
そして、その6年後、王子であった時に初禅の状態を経験したことを思い出し
『これこそが涅槃への道に違いない』と思い、色界定を始めます。
このことを春間さんは、「何故だろう」と疑問に思ったことはないですか?
仏陀はなぜ、無色界定を『涅槃に至らない』と思い、色界定こそ『涅槃に至る道だ』と思ったのか、という疑問が心に浮かんだことはないですか?
*
> 『これこそが涅槃への道に違いない』と思い、色界定を始めます。
そうだったんですか ? ( それは 絶対確定ですか ? )
> このことを春間さんは、「何故だろう」と疑問に思ったことはないですか?
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
色界定 なんて 用語 (あまり) 気にしたこともありませんでした
( ま どうでもよいこと に 思います・しています )
人 の 認識 は 「 識 」 ・ 「 色 」 ですが
そこから 離れようと 「 他 」が ある限りは
“ シキ ” から 離れるということは ありません
自分事 であれば 「 色 」 は 「 光 ( 白光 ) 」 の
“ 単なる 別の呼び名 ” に 過ぎません
( この場合 「光」 とは 単に 「光子」 を 指してはいません )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%90#:~:text=%E5%85%89%E5%AD%90%20%EF%BC%88%20%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%20%E3%80%81%20%E8%A8%98%E5%8F%B7%3A,%3A%20light%20quantum%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%82%82%E5%91%BC%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
何故だろう と 思う心 が 「 識 」 です
どうしてそうなるのか を (疑問に思い) 探求したのではなく
どうあるか を 知った のです
( 単に あることを あるように知った だけです )
ただし 知ったこと が 「 他 」との間に 齟齬がある理由 は
( 探求して ・ 考えて ) 知る “わけ・分け” です
基本的な 仏教用語 の 習得 には
宮元教授 に “多く” 拠っています
経典 の サンスクリット訳 は
中村元 訳 を 他訳( 宮坂・友松 等 )と 比較 の上
“基本的に” 正しい訳 として 用います
( 複数の訳 を 照らし合わせれば
原語 を 正確に知らなくとも 正しさが浮かび上がります )
もちろん “複数の” サンスクリット辞典 は 参照します
わたしには 用語を知る前に ( 何の為の用語 か を知る )
体験( 「 行 」 ) が あるのです
また 幼少期から培った “ 正確な ” 言語知識 が あります
( あなたには 貶されて ゴミのように表現される 言語知識ですが )
言葉 というものは 語る人の体験から しゅつ し (出でて)
聞く人の体験による “ 思い込み ” で 受けとめられます
( わたし・語る本人 が 思い込む聞く人 であること は 重要です )
その 重要性 を 軽んじなければ そこに 重い意味が 聞こえます
軽い疑問 で 重い人生 を 量るのは 賢明とは言えません
( 軽重 は 「 縁起 」 に起きる と 知悉し 重さ軽さ を 離れ得ます )
「 唯仏与仏 乃能究尽 」 という言葉を知っていますか ?
究め尽くして “初めて” 仏陀の何故 が 分かるのです
始まり と 終わり とは 同じ 「 処 」 に 起きています
初めが 誤っていれば どこまで行こうと 誤りです
「 行 」 が 正しければ どこにあろうと 正しい
( 誤 と 正 とは 「 縁起 」 に起きる ゆえ に 、、、、 )
いつも 「 今 」 ( 「 即今 」 ) に 坐す(行住坐臥)
自分は誤っている という 思い は 正誤 の どっちですか ?
・
>> 『これこそが涅槃への道に違いない』と思い、色界定を始めます。
> そうだったんですか ? ( それは 絶対確定ですか ? )
> 色界定 なんて 用語 (あまり) 気にしたこともありませんでした
( ま どうでもよいこと に 思います・しています )
春間さんは、原始仏典はすべて持っていてすべて読んでいると言っていたので
当然、このことは知っている前提で質問しています。
> 「 唯仏与仏 乃能究尽 」 という言葉を知っていますか ?
究め尽くして “初めて” 仏陀の何故 が 分かるのです
春間さんは、究め尽くしたのですか?究め尽くしてないのですか?
*
> 究め尽くしたのですか?究め尽くしてないのですか?
意味のない 質問です
わたしの答えによって 決まることではなく
あなたが これまでのことによって
判断 していること( してしまっている こと )です
このような質問 を する 意味 が 分かってはいないようです
わたし には(が)
究め尽くしてはいない と言うこと と
究め尽くした と言うこと との 意味には違いがありません
( どちらを 言えば してやったりと思うのですか ? )
わたしのこと より
自分のこと を 究めたらいかがですか?
( いかなる 事柄 であろうと 究めれば・究尽すれば 仏 です )
( あなたは 正しいことを判断できると 思い過ごしている )
( あなたが 返答によって 究めることができる と 思っている )
「 唯仏与仏 乃能究尽 」 とは
仏 と 共にあれば (友であり) 究尽出来る という意味です
( 与仏 で あれば わかるということです )
仏 が 存在しようとしまいと ( 問題はそこにはない )
あなたは わたしと共にあろとうはしない
・
無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、
なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか、という問いなのですが、
春間さんは、結局、このような疑問を持ったこともなかった、ということでいいですか?
『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、
なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか』
という疑問について、春間さんの考えがあるのなら教えてください。
この事に関して、何の考えもないのであれば、そう言っていただければ、質問はしません。
>仏 と 共にあれば (友であり) 究尽出来る という意味です
( 与仏 で あれば わかるということです )
でしゅから~~~~、人は生まれながらにして、神でほとけだと
言ってるんでしゅよ!自分が体験したことと、その時の気持ちが
神でほとけの体験で気持ちなのーーーー!!!!
「正しく」判断じゃなくって、「あなたの」判断でいーーーーのーーーーー!
春間ムカツク!!←春間さんの気持ちが分らない場合、まだそのポジションを
体験してないってことだから、次回の地球でそこに行かないと行けないんだけど
ぎんた、ねこだから平気なの。
あ、行かないといけない、でした~
すでに答えています
聞こうとしないから、読み取れないのです
対話の場にない という意味です
すでに あなたは席を共にしてはいない
そのような問いは考えたことがないと言ってくれれば終わりにするのですが
『すでに答えている』と言ってしまうから、どのような答えなのかを知るために質問が続くことになります。
それでは別の角度から聞きます。
非想非非想処定と第四禅はどう違うと春間さんは思っていますか?
もし、春間さんが、第四禅も非想非非想処定も経験しているのであれば
その違いを教えてください。
*
ショーシャンクさん に 宛てている と 思うと
間違いの中にいる ( あなた )
“あなた” って 誰だろうか ?
( 管理人エム 様 聞こえますか ? )
> ************
春間さんは、正面から質問されるといつも逃げますね。
まあ、どんな質問にもまともに答えたことがない人に質問するのは
意味のないことでした。
> ************
「 意味のないこと 」 と 言う ことに対する 意味のないこと
= 自分の言うことに 自分の思う通りに 答えなさい
という “ 詰問 ” に 応える 答え方
> 非想非非想処定と第四禅
あなたの知っている 非想非非想処定と第四禅 とは
どのようなモノ(事・経験) ですか ?
それを 知らなければ 答えようがありません
言葉の意味 の 擦り合わせなくして 会話は成り立たない !
わたしと共にある 仏陀 は 非想非非想処定とか第四禅
そのような事 を 言いません
どこの 誰が 非想非非想処定と第四禅 が
どのようにある と 言っているのですか ?
その (あなたの)知識 に なら 答えようがあります
> その違いを教えてください
( いまのところ ) 字が違う だけです
ま それが何で どこに どのように存在していようと
「 今 」 の わたしがいるところ が 其処(=此処) です
( 赤い 「 界 」 に 居るということ が わかりますか ? )
そこには “ 違い ” がありません
ココを読みましたか ? ( 理解 は できましたか ? )
********** ** *
( 余談ですが 究明することを アカ ス 表現することに繋がります )
(赤しかない) 赤さの中 で 赤 を アカス ことはできない
それは 「 色 」 界 のなかで
「 識 」 を 明かす(思・想)ことになるからです
これくらいの 飛躍を伴う 語群 に “惑わされていて”
知ろうとして では 知ることができない
「 仏教 」 とは 行いを通じて 見えてくる世界(仏世界) を
言葉(語る) という 「 行 」 で “表現” すること です
見えている “ モノ ” を 語っている のではなく、
語る という
「 行 」 を 見てもらう( 観ることを頂く ) という 生き様 です
“ 聞く ” という 「行」 は 聞かせることを聞きながら 語る
ということと 「行」 を 見つつ、聞く 聞者 と の
二者・関係性 の 中 ・はざま・狭 で
始めて成り立つ 出来事(「行」) です
聞かせてやろう ・ 聞いてやろう ・ 言わせてみる ・ 試す
と 表現される中 では ( 「 仏教 」 としては )
成り立たない 「 行 」 ( 「 修行 」 ) です
********* * **
あなたとの 関係性 が どのように成り立ちますか ?
・
> わたしと共にある 仏陀 は 非想非非想処定とか第四禅
そのような事 を 言いません
> どこの 誰が 非想非非想処定と第四禅 が
どのようにある と 言っているのですか ?
そうですか。春間さんは、原始仏典を全部持っていて全部読んでいると言っていましたが、それは嘘だったのですか?
非想非非想処定も第四禅もすべて原始仏典にあります。
大川隆法のように、仏典に依らず、『仏陀の霊と話した』とか『仏陀が守護霊だ』とか『仏陀の生まれ変わりだ』とか言い出す人はいます。
私はそういう人からは逃げ出します。全力でね。
聖書を否定してイエス・キリストの霊と話したとか、仏典を無視して仏陀の霊と話したとか言うのは、ただの妄想です。
> ( 管理人エム 様 聞こえますか ? )
聞こえますよ。
ショーシャンクさまに聞こえるかが問題だけど、わたしには聞こえます。
お二人は、かみ合わないなあと思って、拝読しています。
わたしの考えですが、
ショーシャンクさまは、原始仏教の知識を持って語るのに対して、
春間さまは、独自の視点(=大乗目線?)で語る、という違いがあると思っています。道元などにも学んでいます。
「仏教はたんなる知識ではない」という観点で語るのが春間さまですが、ショーシャンクさまは「歴史的にみて原始仏教が釈尊の考えに近いのではないか」と考えているとわたしは想像しています。
仏教が難しいのは、もちろん知識が必要なだけではなく、それらを自分の中で反芻して自分なりのものを出さなければ「仏教ではない」と考える考え方があることです。
つまり、自分の言葉にして語ってこそ仏教になる、という考え方です。
仏教は○○である
○○は仏教ではない
だから、仏教なのである
このように考えると般若経典の仏教になっていくのかもしれません。
わたしは、考えの道筋(いくつもの論理)を示した人がブッダだと考えています。
*
“ 管理人エム 様 に 宛てる ” と する
( ショーシャンク氏 は 語り返す必要はない ! )
語り合う という “場” が ないのです
( あなた は “あなた” と “わたし” との 関係性を知る )
会話 は 初めから成立せず 終わりを待たない 、、、、
> どこの 誰が 非想非非想処定と第四禅 が
どのようにある と 言っているのですか ?
>> 非想非非想処定も第四禅もすべて原始仏典にあります
( “あなた” とは あなたのことではない )
“あなた” が “ 原始仏典にある” と 言っているわけです
それでは、 そこ(原始仏典)にある
“非想非非想処定・第四禅” とは
“何を言っている” と “あなた” は 読みましたか ?
( 仏陀 が
その “何を言っている” を 語っていますか ? )
( “わたし” が )言っている・記述する
意味 は 分かりますか ?
( “わたし” とは 語っている 「 自己 」 のこと )
( “あなた” が ) 言うところ の その仏典の記述 とは
( “あなた” に ) どのように読まれ
( “あなた” に ) どのように 解釈されているのですか ?
「 読んだ通り 」 と あなた は 言うでしょう
その“通り” の 意味 とは どういう内容ですか
意味 が 分かりましたか ?
( 分かったなら 分かったことを 伝えてください )
そうすれば わたしは
“それ” を 仏陀 が 言っているの か それとも
あなたが解釈するに過ぎない のか を
( あなたが 経験もなく 言葉上でのみ 繰り返しているのか を )
はっきりさせること は(が) 出来ます
( 言うまでもなく・聞くまでもなく )
“あなた”には 理解 出来てはいない し 行いに表わす気もない
( あなたは “あなた” と “わたし” とを ひっくり返す )
( “わたし” に 行いがあるというのか と 言う・問い返す )
書いてあること とは
内容を伴わなければ ただのテキストに過ぎません
あなたが繰り返す 読んだ言葉(テキスト)には 意味がないのです
意味のないこと を 仏陀 は 述べません
あなたが 意味があるかのごとく !
( 後生大事に ) “テキスト” を 繰り返すのみです
“行ないに裏付けられぬこと” に 意味はありません
(たとえ) 仏弟子に あろうと あなたには ありません
意味のないこと(そのテキスト) に 対して
わたし に 意味付けさせる意味がありません
あっても その(意味の)対象 が そもそも( あなたには ) ない
自分の行いに裏付けられたこと を 生きる中で身に着けた言葉によって
語ること を 仏陀 は “サンスクリット” ではなく
「 自分の言葉で語れ 」 と “プラ―クリット” で
優しく( = 厳しく )
優しき・厳しき 言葉 で 語る
・・・・・・・・・・・・・・
テキスト があれば そのテキスト で あなたは十分満足できる
わたし は “あなたの満足” には つきあう気はない
あなた が テキスト上 で
アーダ コーダ と (自分で)
言ってれば (テキストを並べていれば) よいこと
仏陀 と ( “与” ) 共にある・共に歩み、共に生きる
わたし との 関係性 は
あなた と 共にある テキスト との 関係性 とは
違っている
共にある・共に歩み 共に生きる
という “ 虚 有 通 性 ”
それは 「 心 」 におきて 「 歩み 」 に 刻むこと
口から出る 音声 ではなく
心から イヅル アユミカタ・ホハコビ です
< 参考 > 空也 (仏)像 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
http://koremitsu54.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-65b9.html
ゴタク を 述べず に 歩んでみたらどうですか ??
( 自分の姿 は 鏡には 映らない )
いつであろうと 何処でどのように 見ようと
見ている自分 とは あなたが作る 幻影 です
「 脚下照顧 」 とは
そこを 歩んで 振り返って ( 初めて ! ) 見える
( 自己の ) 足跡 ( それが 仏足 と 重なるかどうか 、、、、 )
立っている 足下 とは 誰であろうと 見ることはできない
たとえ それを見ようと
見る人の足下 が そこに 起こされている
( ただし 「 坐 」 すれば 観える “事” も ある )
・
曲でもくらえ!!!
「溝ノ口太陽族」manzo
(赤から連想しました~~)
> 曲でもくらえ!!!
曲は食わねど
曲げて 空
曲ったこと にも 好き嫌い
嫌い は 好きの 別の名か
> 曲は食わねど
>曲げて 空
わたしも、最近「空(くう)」と書こうとすると「食う(くう)」に変換されてしまい、まいってます。
「食う」方は実在論的立場で「空」方は仏教的な観点を示すのかな、って思ったりしてます。
これで終わります。
原始仏典も大乗仏典も禅の公案もすべて同じです。
仏陀の境地に触れるまでは、五里霧中、何がなんだかさっぱりわかりません。
その時に、仏教学者や仏教解説者の解説の数々を拾い集めて気に入った解説を切り貼りしてわかった気になる人が大半です。
白隠は、若いときに法華経を読みます。経王と呼ばれる経典ですから大いに期待して読みましたが、こんな喩えばかりの物語に何の意味があるのかと疑問を抱き、くだらないと思って捨てます。
しかし、悟った後の42才の時、ふと法華経を手に取り読み進めたところ、譬喩品に至って号泣します。
法華経を読んで悟ることはできませんが、その境地に触れた後に読むとその意味がはっきりとわかるのだと思います。
原始仏典も大乗仏典も禅の公案もすべて同じです。
仏陀の境地から語っているので、最初は何がなんだかわからず、疑問が山のように出てきます。
ここで、疑問が沸かず解説の切り貼りで納得する人は、結局、死ぬまで本当の意味を知ることはないでしょう。
ここで、わかった気になること、知ったかぶりをしてしまうこと、悟った気になってしまったら、そこで精神は滞留してしまいます。
仏教には大疑団がどうしても必要なのでしょう。
わからないことはわからないと徹底すること、絶対に知ったかぶりはしないこと、わからないに真摯に向き合うこと、自分のわからないに正直であること、これが必要なのだと思います。
いつか、その大疑団が氷解することがあり、その時にそれまでどうしてもわからなかったことがわかるのでしょう。
もし、そうなっていれば、原始仏典も大乗仏典もその本当の意味を開示してくるのだと思います。
今回の『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか』という疑問は、実は仏教の根幹に関わるもの、仏教の成り立ちの秘密そのものだと思っています。
しかし、そもそも、このような疑問を持った人はほとんどいないでしょう。考えたこともない人ばかりでしょう。
大乗仏典の法華経もそうです。
常不軽菩薩は何故、すべての人ではなく四衆に対して言葉をかけているのでしょうか。
大通智勝如来は、魔軍を破り終えたのにもかかわらず何故、十小劫も仏の法が現れなかったのでしょうか。
如来神力品で、仏陀の咳払いや指パッチンが神通力の一つとなされています。何故、誰でもできる咳払いや指パッチンが神通力なのでしょうか。
これも、『唯仏与仏 乃能究尽』の人であれば、逃げずに自分の言葉で答えることができるでしょう。
*
ソンな 「 処 」 に うろついて
そんな うろつき で うろつくと言う
有漏 ついて いる 者 が うろつく 言葉の墓場
わたしも ついには そこのまわりで うろつくこととなる
そういうところ を
ヨミ ( 黄泉 ・ 冥 ) と 呼ぶ
ヨビカタ を 教えているのだけれど 、、、、
よむだけましか へらすか どうか
名んか のついで に ちょっと 呼ぶ
( ちょっと だけ ! むつかしいかな ? )
知らないことには首を突っ込まなければいいのに、、、、
知らないことは知ったかぶりせず「知らない」と言ってくれれば
時間を無駄にせずに済んだのに、、、
知っていることを しろうとは しないだけ
ヒト ゴト カナ ??
首の皮 一枚の皮
無駄にした とは 無駄なことをしたもんだ
無意味 とは 意味を探れない時に
探れない 自らから 逃げるための言葉
>> 『これこそが涅槃への道に違いない』と思い、色界定を始めます。
> そうだったんですか ? ( それは 絶対確定ですか ? )
> 色界定 なんて 用語 (あまり) 気にしたこともありませんでした
( ま どうでもよいこと に 思います・しています )
>> 無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか、という問いなのですが、春間さんは、結局、このような疑問を持ったこともなかった、ということでいいですか?『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか』という疑問について、春間さんの考えがあるのなら教えてください。この事に関して、何の考えもないのであれば、そう言っていただければ、質問はしません。
こう書いているのですから、正直に「知らない」と言ってくれれば、知らない人に質問なんかしません。
答えられなくなったら「行だ」「行だ」ばかり。
実際には、春間さんの「行」というのは、他人の掲示板で主でもないのに主のような顔をして投稿者に絡んできて「俺は知ってる」と自慢アピールしているだけ。
答えにつまると管理人を呼んでフォローをしてくれと求める。
そのような行(掲示板活動)に何か意味はあるのかな。
『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか、という問いなのですが、春間さんは、結局、このような疑問を持ったこともなかった、ということでいいですか?』
このような事自体、春間さんは、知らなかったのでしょ?
今度から知らないことはそのことは知らないと正直に言ってください。
> ショーシャンクさまは「歴史的にみて原始仏教が釈尊の考えに近いのではないか」と考えているとわたしは想像しています。
その段階はとっくに過ぎています。
はじめに、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求しました。
次に、大乗仏教が何故興ったかを探求して、はっきりとわかりました。
ここでよく出てくる道元や親鸞についても再認識しました。
もともと私は高校の時から正法眼蔵を読んでいたくらい大乗仏教でしたから。
道元は「人間は本来仏なのになぜ修行しなければならないのか」という問いを探求していきました。栄西にも聞きます。しかし、日本にいるときはわからなかった。
同じ問いを持っていたので、実は私は道元には強い親しみを感じています。
しかし、春間さんがさかんに道元や親鸞について言及しますが、ほんの少しも「道元がわかっているな」「親鸞がわかっているな」と思ったことはないです。
むしろ、かなり的外れに感じています。
ショーシャンクさま わたしもわかってない中の一人に数えられているのかな、と思います。
わかっているのかわかっていないのかは自分ではわかりませんが、「わかる」ということの中に仏教はないのではないかという気がしています。
「生きる」ということの中に仏教はあり、大乗の場合、その答えが「不生」というのであると知ったときに、目からうろこが落ちました。
声聞乗の場合は「滅」というのが、仏教の答えであると知ったとき、自分は大乗だと思いました。
>なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか
色(身体)を持って生まれるから、というのが直接の答えですが、生老病死の四苦を持つのが「生まれてくる有情」で、
生死を避けてはいられないから、というところかもしれません。
道元は、無色界定にはいくことなく、ディヤーナ(禅)の世界で終始したということが、心に突き刺さっています。
自分というものをもたずには生きていけない、というのも事実ですが、しかし、自分というものを、ブッダの説くように、
滅してみたい、というのも事実かなと思います。
龍樹の述べるとおり、その道を進んでいこうと思っています。
春間さん見てだら、
タローマン合唱団の「あなたの期待にこたえない」が浮かんできた。
なんていい映画だろう、、、、、
「タローマン!!今年の紅白に絶対にくるなよ!!!!」
石飛先生、こんにちは。
> 道元は、無色界定にはいくことなく、ディヤーナ(禅)の世界で終始したということが、心に突き刺さっています。
道元は、無色界定にはいきませんでしたが、かといって仏陀の四禅(色界定)とも全く違うものでした。
尋も伺も喜も楽も一境性もありません。
師匠の如浄と同じ只管打坐で、坐を印と捉えていて、極めて独自だと思います。
あ、見てたら、だった。
ショーシャンクさま、
『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか』
これは四禅が止観相応、止観双運だからというのが一般的な見解で、私も、妥当だと思います。
言い換えると集中が深まっても涅槃できない、観を行ずるに適切な集中状態である四禅が涅槃への道という意味ですね。無色界定だと観が行じられないからです。
これはかなり古典的な問題でいろんな解釈があるようですが、上が通仏教的一般見解だと思います。
日本でも宮本正尊『中道思想及びその発達』97頁、水野弘元『釈尊の生涯』292頁、光地英学著『親鸞教学と道元禅』652頁などで述べられています。
パーリでは「四静慮を修習し四静慮を多修せば涅槃に趣向し涅槃に傾向し涅槃に臨入す」(南伝大蔵経16巻下175頁)
これは第四禅でなく、四禅すべてを指していますが、止観相応という意味でほぼ同じでしょう。
その根拠は例えば『大毘婆沙論』で以下のように説かれることです。
T1545_.27.0187a16: 問因論生論何故無色界中無見道耶。答
T1545_.27.0187a17: 無色界於見道非田非器。乃至廣説。復次
T1545_.27.0187a18: 若界有縁一切法非我行相彼界則有見
T1545_.27.0187a19: 道。無色界中無縁一切法非我行相故無
T1545_.27.0187a20: 見道。復次若界有行諦善根彼界則有見
T1545_.27.0187a21: 道。無色界中無行諦善根故無見道。復次
T1545_.27.0187a22: 若界有順決擇分彼界則有見道無色。界
T1545_.27.0187a23: 中無順決擇分故無見道復次若界。有忍
T1545_.27.0187a24: 有智彼界則有見道。無色界中有智無忍
T1545_.27.0187a25: 故無見道。復次若界有法智類智彼界則
T1545_.27.0187a26: 有見道。無色界中雖有類智而無法智故
T1545_.27.0187a27: 無見道。復次若界止觀平等。或觀偏増。彼界
T1545_.27.0187a28: 則有見道。無色界中止増非觀故無見道。
T1545_.27.0187a29: 復次若界有遍縁智彼界則有見道。無色界
T1545_.27.0187b01: 中無遍縁智故無見道。無見道故彼所修
T1545_.27.0187b02: 世俗智亦無復次此智設在無色界有不可
T1545_.27.0187b03: 修故便爲無用。是故彼無謂修此智必依
T1545_.27.0187b04: 見道。見道唯能修自下地不能修上故彼設
T1545_.27.0187b05: 有亦不可修。又無色界無見道因中隨其所
T1545_.27.0187b06: 應即是無此智因。
ここで述べられているのは無色界では見道がないということですが、要は観を行ずる所縁がないということで、観が成立しないので涅槃できないという意味です。
なので、釈尊が無色界定が涅槃しないと退けられた意味も明解だと思います。
oさま
>無色界では見道がないということですが、要は観を行ずる所縁がないということで、観が成立しないので涅槃できないという意味です。
無色界でも観の対象はあると思われます。
観の対象がないと不還果が浄居天で般涅槃できません。
Pocket さま、
浄居天って色界じゃないんですか?
私はあんまりそういうアビダルマ的な世間解釈に興味ないのでよく知りませんが、高木俊一『倶舎教義』170頁と以下によると、そのようです。
T1536_.26.0427a02: 五淨居天者。云何爲五。答一無煩天。二無熱
T1536_.26.0427a03: 天。三善現天。四善見天。五色究竟天。
この『集異門足論』では最高位が色究竟天ですし、国訳一切経104巻94頁註85もそう註してます。
もしかすると無色界と解釈するものもあるのかもしれませんが、その場合は解釈の分かれる未解決の問題ということでご寛恕ください。
急に仕事がたくさん入って困ってます。ではでは~、
Pocketさま、oさま、こんばんは。
>浄居天って色界じゃないんですか?
色界だと思います。
色(身体)のあるわれわれが、なぜ無色界の禅定を体験できるのかという問題はあるにせよ、無色界の禅定も味わえることになっていますよね。ここに秘密があるのではないかと思います。
ここは、お釈迦様が『スッタニパータ』の彼岸道品でポーサーラに語った言葉が印象的です。
1114 尊師は言いました。「『識に定立する諸々は一切である』と証知している如来(やって来た者)は、そこに定立しながらも、その彼岸(道)から解脱したことを知っています。
1115 無所有(何もない)の境地が発生することを知って、『歓喜は束縛である』と、このように証知して、それから、そこで観察します。かの自在となったバラモンにとっては、この智は真実です」と。
ここが決め手になっているんじゃないかと思います。「識に定立する諸々は一切である」という言葉が、唯識の根拠ですよね。また「歓喜は束縛である」というこれも、実在論者(=アートマン論者)から分ける根拠だと思います。ギリシアの哲学者アリストテレスの「快楽について」を読んで、ブッダは、ここも知っていたんだなあと思います。アリストテレスは、いろいろ語っているけど、一つ印象深いのは、他人の不幸は蜜の味と語っていることです。
色を持つブッダが、行きっぱなしではなく、涅槃から戻ってきて(=如来)、法を説くところが「秘密」の意味なんじゃないかなと思います。
すでに、最初から、説かれていたんだなあと思います。時を超える完成された姿を示すブッダが、時の縛りを受けるわれわれに語ってくれていますね。
この唯識の世界は、春間さまが得意なヤツだ、ね。。。
ようやくわかってきたかも。
*
> 「識に定立する諸々は一切である」という言葉が、唯識の根拠ですよね。
自分が 立っているところ は 「 識 」 では “ ハカレナイ ”
量ったところで ハカリ には 「 識 」 の オモサ・不確かさ は
表示されない 仕組みです
「 識 」 というものは スベカラク・総て・滑って転んで
行動の指針 と なります
( グレーゾーン では 色別・識別 が 「 無 」 づかしい )
やっぱ !
「 認識 」 とは 「 識 」 ・ 「 色 」 の 上の出来事
( ヤッパ を “ 書き換えると ” 八葉 ・ 八つの葉っぱ 楓の葉っぱ )
高揚 の 気 に 「 錦 」 のごとく 群がり落ちている
自分は 冷静
と 思えてくる ( 只管 安芸の秋波 に 只酔う の 身 )
酔っていて は 居てるところ は 居る(酔う)ところ
「 色 」 であろうと 「 分別 」 は 黒白 を 根拠とする
「 根拠 」 を 持たぬ が “ 「 唯識 」 の 「 根拠 」”
黒白 はっきりさせたい グレーゾーン ( ショーちゃん わかるかな ? )
事 が グレー ではなく 自意識 が 灰色 ( 曇っている )
と 知るとき 突然 「 色 」 が わかってくる
曇り空 とは 雲の上 に 輝きがある と いうこと
光 が まばゆい(目に彩ゆる) のではなく
「 認識 」 が ハレーション を 起こしているのみ
1114 尊師は言いました。「『識に定立する諸々は一切である』と証知している如来(やって来た者)は、そこに定立しながらも、その彼岸(道)から解脱したことを知っています。
如来 は 如来である と 知る者のこと
「唯」 仏 とは 与仏 と “友”に在る時にのみ 顕れ出る
「 唯仏与仏 乃能究尽 」 究尽 を “乃能” す
そこに 起きている 「 諸法実相 」
わたしは知っている と 知ったところで 「 他 」が不在
( 不在通知 は 誰(「 他 」)に届くのかな ? )
( “唯” とは ヒト の 口先だけ に 起きる事 を 言う )
( タダ し・為 口先 の 元におきている 「 人 」 は 必須 )
元(基) が 無いのが 「 仏 」 の “基盤” !!
知っているか・知らないか で
知らないこと を 量る気味 が ある ( キミキミ キミノコトダヨ )
( なんと 味わい深きこと であろうか 口先の言葉 )
味わいつくそうと 口先のこと
( 試食 で 「 四食 」 を 尽くせるかな ? )
管理人エム 様
あなた を “出汁” に シテ(あつかい・おこなう・司り)
ごった煮( 起こった 荷 ) を 「料」・「理」 “シテ”
大きな皿 に “乗”せる
出汁 が 善い と
愚 に( 愚でも善さが身に沁み ) 味わい が 生まれる
わたしは 不得手 で “ エテ 仕手 ” 誤りに落つ を 打つ
分かっちゃいけない 分かり難きこと
( 分かっちゃった かな ? )
・
ショーシャンクさま こんにちは。
わたしは、実は、道元はものすごくよくブッダの教えを受け継いでいて、彼は空の論理を会得したと考えています。
言葉の上では、尋も伺も喜も楽も一境性も説きませんが、たしかに空の論理を受け取り、自在に展開していると思います。
『スッタニパータ』933. (第十四経第19偈)
この法を知って、比丘は常に考察しながら気づきをもって学習していきなさい。(煩悩の)消尽を「寂静である」と知って、ゴータマの教えの中で怠らないようにしなさい。
934. (第十四経第20偈)
かれは、実に打ち勝った者であって、(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです。それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい」と、尊師は語りました。
ここは菩薩に説いた教えだと思っていますが、「伝え聞いたのではなく直証した法』を衆生に語ることが求められていて、ブッダの教えにすらよらなくてもよいと言うことが読み取れます。
大乗の菩薩たちは、ここを実践したのではないかと思っているのです。
石飛先生。
> ここは菩薩に説いた教えだと思っていますが、「伝え聞いたのではなく直証した法』を衆生に語ることが求められていて、ブッダの教えにすらよらなくてもよいと言うことが読み取れます。
ここの先生の解釈は、ちょっとぶっ飛んでいるのではないかと思います。
『他人から伝え聞いただけでなく、仏陀の理法を自らの体験として証した(つまり覚った)のですから、世間の人たちから嫌な言葉を投げつけられても、仏陀の教えをこれからも熱心に学んでいきなさい』という意味のことを言っているのではないでしょうか。
『ブッダの教えにすらよらなくてもよい』というのは、ぶっ飛びすぎだと思います。
道元は如浄から継承した法こそが、仏陀の正道そのものだと確信していたのですから。
禅宗という言葉を使うのも嫌っていました。
ショーシャンクさま こんにちは。
> ここの先生の解釈は、ちょっとぶっ飛んでいるのではないかと思います。
まあ、常識的にはそう言えるかもしれませんね。ショーシャンクさま、面白いことがあるのです。
実は、この、ぶっとび解釈を採用しても、矛盾しないのです。
採用するかしないかは個人個人の判断なのです。ブッダの法が辻褄が合わなくなったり矛盾が生まれたりするようですと、
「間違いだ」で済んでしまいますが、こう解釈しても、おかしなことにはならないように出来ているのです。そして、そのように解釈できるとわかった人々が、仏教の名の元に様々な思想が実際に説いていったのです。種々様々な経典や論書などが生まれてきています。
融通無碍の教えなのです。
学ぶ ということは “ 学び習い重ねる ” という意味です
習うということは、羽をいくども、
開き羽ばたき 重ねる(納めとる)という意味です。
実践 ではあるけれども
「 実 」 の ない 「 仏教 」
はぁ?ねこ羽根ないけど?
あ、でもうち(というか、ぎんた)羽根があるねこの像をお迎えしたんだった!
この世に3体あるんだって、作家さん言ってた。
あああ、違った。抜け落ちた一本ではなく、身体に生えてるから羽だったー
羽ばたいて 「 空 」 に飛ぶ
たたんで 知 に 下りて 顧みる
人は 物事の 「 理 」 を 自然の中から 抽出し
それを歩みに移し 正しさ という 人倫 を 運ぶ
猫 に なぞらえ うる ことができるから
猫 を 隠れ蓑につかえる
忍忍 “ 人 ”“ 認 ” 人 の 認識
ニンジャ ハットトリック
猫は隠れ蓑じゃないぞーーーーーーーーぅ!!!
やってみて、ねこ、だね!!ってしたんだぞーーーーーーーーーぅ!!!!!
そこいらへんは、明日以降に書きます。
この時間からだと書き終わらない上に、夜、寝付きが悪くなるからです。
> やってみて、ねこ、だね!!ってしたんだ
やってみて、ねこ、だね!!ってした(ん)
その “ した ” のは した人 であって
した ゆえに ねこ と “ なった(=した) ”
ねこ は 「 う !!!!! 」 とは 言わない
ニャー んー ?????? ってことだ ニャー ??
簑 から 知り でてる
・
やはり日本語おかしかったですか?(家族にも日本語おかしいと言われる)
じゃ、摂受心院と猫で確率が五分五分過ぎて、頭で考えただけでは
結論が出なかったので、「実際にやってみて」猫だとわかった、
でいいでしゅかね?
えーーーと、
摂受院「(ご讃題が)南無真如一如南無大般涅槃経ですと、帰依するものが
二つあるようでよくないのでは?」
と、夫に言ったが採用されず。でも、彼女が死んだ後、一周忌に
【南無真如一如大般涅槃経】に改変。
ぎんた「南無真如一如大般涅槃経??どうしたことだろう!こんな、たったの
11文字が全然頭に入ってこないぞ。現役高校生なのに、なんでー??
、、、、如っていうのが2個あると、そこで迷子になるというか頭に
霞がかかって、大般涅槃経まで辿り着かないんだね~」
平成?年(忘れましたーー、調べるのめんどい)
継主「ご讃題を【南無真如】にしまーーーす!!(←こんなノリではない)」
ぎんた(へ~~~、海外の人が発音しやすいからかな??カンタン。)
【家族に影響されまくった】ぎんた(大般涅槃経は真如苑だけのものでは
ない!!という抗議が各方面からきたのかもしれないね。)
ここまでで、な、何年?40年?
で、2016年か2017年か位に、、
え、?って。
あのーーー、こーゆーの1個1個なるべく書くけど、その内の何個かは
内緒にしといて、真如苑がもし、発表してきて付き合わせれば、
最低私にだけは、霊能はある、ということが証明されると思うんだけども。
あと、今日は午後ずっとお掃除当番なの忘れてて!明日以降に書きます。
あーーー順番が前後するのですが、、、、
ある日、ぎんたんと遊んでいて、その時のおもちゃは、ロイヤルカナンの
抽選で当った、ライトの光がねずみの形になるやつで、彼は狂喜乱舞して
廊下を駆け回ってました。でも、途中から遊ぶのを止めて、ねずみの光の
トコロと、飼い主の手の中にあるライトの本体を交互に見て、考え込んで
いました。ぎんたんは短毛でもなく長毛でもない、中長毛なんですが、
一生懸命限界いっぱいまで考えているせいか、おでこの毛とほっぺの毛が
ふこっと膨れていて、もう~~~~~~かわいすぎるーーーーーーーーーーー
にゃんてかわゆいのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーとなりました。くるねこさんがよく描く、猫が可愛すぎる飼い主の輪郭がアイスクリーム
みたいに溶ける表現そのままに。くるねこさんのところで見たけど、
おもちゃに狂喜乱舞して遊ぶ猫、それよりもうちょっと「気の利いた」
「賢い」子は、飼い主の手元を見て(そこにゃーーーっ)て狙ってくるって。
じゃあ、ぎんたんはまたひと味違う「思慮深い子」なんじゃなーーい?
(完全に親バカ、、世界中にもの凄く沢山いる)
でも、ぎんたよ、猫がどんなに頑張って考えたって、「光」がどうなってるか
は無理だよ。残念だけれど、、、、かわいそかわゆい、、、、きゅぴーーん
ペットは飼い主に似るっていうから、私もなんか頑張って限界いっぱい
考えてみるよ。人間は「調べる」が出来るからね。なにがいいかな?
やっぱ「悟り」だよね?←仏教系の新興宗教にいってなくたって、この場合
日本人なら結構な割合で「悟り」と思うんじゃないかな?仏教ポピュラー
だから。
で、すぐやってみた。 すぐわかった。
うん、無理だね。インドの王族と日本の庶民女性じゃ被るとこなさすぎて
同じにならないね。彼が考えたことを考えるのは無理あんね、、、。終了
これが1番早いかな?
やっぱり、自分のレベルにあった「この世の不変の法則」を発見しないと。
そーーーーーーー、、、、、だなーーーーーー、、、、、、、
こんなのどうかな?
えーー、
【スヌーピーの洋服着てる人は、犯罪して警察のご厄介にはならない】
ちょっと前に、電車の中でスヌーピーのトレーナー着てる大学生位の人を
見て、(この服を自分で選んだならば、この人はきっと平和が好きな人に
違いないね!)と勝手に好感を持ったことを思い出したので。
(あ、この話あんまり本筋とは関係ないです)
これでいってみよう!
そこから、TVのニュース見るたびに、事件で逮捕される人をチェックしました。誰もキャラもののTシャツとか着てないよ、やっぱり。
でも、あれだね、「スヌ服の人はみんないい人って思ってる」とかTwitter
に書いて、もしそれが詐欺する人の目に触れたら、絶対に利用されるね、、
そんな感じで、ひたすらにスヌ服を着ている人をチェックしました。
目に入る人すべて。ついでに他のキャラを着ている&身につけている、も
チェックしました。スヌ、ディズニー、キティ、その他で。でも、なんだか
その内に、どんどんスヌ率が上がって来たような?
レジ袋有料化のタイミングでエコバッグが増えて、駅周辺のスーパーで
高齢男性がスヌのバッグを持っているパターンが多くなり、ちょっと
うなぎ登りといっていい状態に。
ぎんた「なんだか最近スヌーピー持ってる人すっごく増えてるんだよ」
家族「自分が好きだから目に付くだけでしょ。」
ぎんた「いや、スヌ、ディズニー、サンリオ、その他で見てるよ?今たしか
六本木に期間限定でミュージアムが出来たからかな?」
家族「気のせいじゃない?」
ぎんた(信じないとか、、ムカツク)
ぎんたさま こんばんは。
>【スヌーピーの洋服着てる人は、犯罪して警察のご厄介にはならない】
合ってます!わたし、スヌーピーのTシャツ着てるけど、警察のご厄介になったことないです!
普遍的な法則になるように、わたしもがんばろう。。警察のご厄介にはならないぞ、っと。
ちなみに、わたしのモットーは「謝って済むなら警察は いらない」です。
いままでのところ謝って済んでるので、警察はいらないのです。
それから数年、観測を続けました。その感もスヌがどんどん増えていく。
ある日、なんというか、やんちゃ?イカツイ?ファッションの強面の男性が
スヌグッズをぶら下げていました。外見で判断するのもなんですが、
うーーーん、、、ちょっと不安、、、、、。いつもの美容師さんに聞きました。
ぎんた「あのー、いかにもイカツイファッションの人がスヌーピーとか
身につけるのって、流行ってるんですか?」
美容師さん「あーーー、イカツイファッションの中にちょっとカワイイものを
入れるっていうのは、昔からありますね。アクセントというか、、
ちょっと外す、みたいな」
ぎんた「なるほど~~」
(そーゆーのって、昔はミッキーだったような?スヌ製品が増えたこと
外しアイテムとして使える製品も出てきたということなのか、、、)
、、とにかく、この時点で「この世の不変の法則」は崩れました。犯罪の可能性が出てきたと判断しました。
で、次なる法則を見つけることになりました。
その感×その間○
その後もキャラ観察は継続され、ついに地元の駅周辺のスヌ率がもう、、
6割か、という位になりました。←これも家族に否定されました。
で、昨年2024年の、、何月か忘れたけれど、家族が洗車グッズを買うと
いうので、オートバックスに行きました。暇なぎんたは、キャラグッズ
コーナーへ。そしたら、なんと!!!!本当に、6割強がスヌーピー
だったんでしゅよーーーーーー!!スヌで6割、ミッキー、ドラえもん、
リトルミィと、あとなんか(一年経つと忘れますね)で残りの4割!!
ぎんた大喜び!!!先生~~ぎんたの観察!!初めて合ってたんですよ!!
*
> ちなみに、わたしのモットーは「謝って済むなら警察は いらない」です。
モットー も 良いけれど モソットー 考えましょう
> いままでのところ謝って済んでるので、警察はいらないのです
ウーン 自分事 で 物事 は 運ばれていくのでは ない !
他所んところ 其処んところ 心を運びましょう
あなたは 温和な心で事を運ぶけれど
彼方(他所) では そういうこと ば かり ではない
今までの 「 処 」 に 警察沙汰 が あって初めて
事に 区切りが付けられている
そういう 沙汰 に 囲まれて 温和な 家庭(糧) が ある
見えないところ にも 物事 は 潜むがごとく起きている
首狩り族 の 住む 札幌で 心を病む人もいる
支える人 が 首狩りの 手伝い に 翻弄する
敢えて 視野 を 狭くすることはない !
( 御免ね 争そいごとにする気はないのだから 、、、、 )
スマヌ !
・
春間さま こんばんは。
>首狩り族 の 住む 札幌で 心を病む人もいる
> 支える人 が 首狩りの 手伝い に 翻弄する
まあねぇ。。保身に走るところから「我が身」は生まれる。
有身見は、身体だけの問題ではない。。というところに難しさがある。
「鋤先」と「突き棒」
「柔和」がわが鋤先と突き棒である。。
このことば、今気がついたけど、バーラドヴァージャ専用に作った言葉なんだね。
彼に合わせてあるんだね。。すごいなあ。
mani先生、
「伝え聞いたのではなく直証した法』は、確か以前述べた『般若心経ヴィマラミトラ註』でのディグナーガ批判と同じですね。
これは密教ではあたりまえで『大日経』は本来「如是我聞」のような部分がない、なぜなら法は常に説かれているからというお経なのですが、中国でもチベットでも多分訳者によって当時の通念に合わせて付け加えられたものと思われます。
その証拠にチベット訳註、『大日経疏』両方とも「如是我聞」は本来ないと説かれています。
なので徳一の疑問も妥当なのですが、弘法大師は色々な条件を回避して法身説法説を打ち出されたと思われます。特に『付法伝』は「伝え聞いたのではなく直証した法」の混成と思われます。
ヴィマラミトラも同様でしょう。こちらも「伝え聞いたのではなく直証した法」の間接的擁護と思われます。なぜなら、政府としては高い密教は禁止していたので。
そもそも『入中論自註』対12-5で「虚空や他に、草や木や壁や岩などからその力によって御声が出る。さらにそれから世間で、それ自体が知覚される」と説かれたりしてるのが、その先行ですね。こちらは他の声を聞くという伝統が保持されてますが、密教は直接知覚のようです。
oさま おはようございます。
>「伝え聞いたのではなく直証した法』
この箇所、わたしは大乗の根幹だと思っているので、何度も繰り返し説いているように思います。そして、空の論理を示す個所であるように思います。
ここから考えても、道元は、空を会得したのだなあと感慨深く思います。その意味では、大乗のひとですねえ。密教も、空をたしかにブッダから受け取ったのだなあと思います。
龍樹に道元、空海というように、空を手に入れた人々がなんと多いことかと思います。
>これは密教ではあたりまえで
なるほど!空を手に入れたなら、あとは
「直証する」ということをしていくだけですよね。
ブッダの「空」という論理が難しいのは、論理として手に入れたら自分で応用して応用問題を直に証明していかなくてはいけないことです。
改めて思うことは、龍樹はブッダの法に夢中になっただろうなあということです。
>密教は直接知覚のようです。
おそらく直接知覚と推論でしょう。プラサンガも使うのでしょうか。
mani先生、
「最近のコメント」に見えないので、ご返事ないのかと思って返事が遅れました。
仰るとおり大乗の根幹、かつ大乗や密教の経証になると思います。
> ここから考えても、道元は、空を会得したのだなあと感慨深く思います。
どういう意味でしょうか?
> おそらく直接知覚と推論でしょう。プラサンガも使うのでしょうか。
まず最初に本来の境地を体験させるところから、そう思います。
これは禅宗の見性にだいたい相当すると思います。
密教の場合、そこからスタートというのが一つの特異点に思われます。
弘法大師がよく強調しているのは唯の身びいきではないと思われます。
プラサンガはむしろ禅に特徴的だと思います。
大拙の即非の論理は禅宗的にはプラサンガだと思います。
大拙の即非の論理はyoneさまが引用されているように『金剛経の禅』が有名ですが、
鈴木大拙全集 第18巻 禅の諸問題、139頁でも同様でしかも『般若経』の有名な「是心非心心相常淨故」を引いて、『金剛経の禅』同様の解釈をしております。
こちらだと『金剛経』と違ってインド註が豊富なので比較しやすいのでこちらを見ました。
『般若経』有名な「是心非心心相常淨故」は即非の論理とはズレるように思われます。
『般若経』自体から読めば明らかに『中論』24.18の縁起・空性・仮設として説かれていると思われます。
『大智度論』は非心は有無のない空性としていますし、ハリバドラの『アーローカー』も勝義としているので同様でしょう。
チベットのロントゥン・シェチャ・クンリクなども同様の解釈で、自立論証派的です。
以上から考えるに『入中論』『入菩提行論』のようにプラサンガが空性に導くように、禅宗は公案などで見性に導くのだと考えます。
ハリバドラ解釈と接近する『中観荘厳論』もプラサンガではなく論証式を使ってますが、前半は空性に導いていると考えられ、63偈で仮設が説かれるのも同じで、これは『入中論』でも同様です。
なので即非の論理はちょっと逸脱した神秘主義的解釈で、大拙にはそのような傾向があったように思われます。
oさま わたしの方こそ遅くなってすみません。
>どういう意味でしょうか?
眼横鼻直 空手還郷です。ありきたりですが。眼は横で鼻は縦、からの手で故郷に戻ってまいりました、と道元は述べていますが、ここで「空」をつかんで還ってきたんだなあとわかります。 眼横鼻直は、師資相承 の教えと、諸仏の語りを意味していると思います。
ということは、迦葉というのは、空をつかんだ弟子ということですね。今気がつきました(笑)。
>『般若経』有名な「是心非心心相常淨故」は即非の論理とはズレるように思われます。
>『般若経』自体から読めば明らかに『中論』24.18の縁起・空性・仮設として説かれていると思われます。
そうなんですか。これからじっくり見てみます。龍樹の『般若経』に対する扱いも、そんな感じですよね。
般若経と『中論頌』との関わりが、今のところ、わたしの課題です
>なので即非の論理はちょっと逸脱した神秘主義的解釈で、大拙にはそのような傾向があったように思われます。
神秘主義ですか。。即非だと寂滅しないかも、っというおそれはありますね。もう少し考えてみます。
ともあれ、ありがとうございました。いつもながら有益でした。
*
管理人エム 様
> 眼横鼻直
目を閉じても、半眼 でも
「 視界 」 は 横に広がりこそすれ
「 上下 」 には 展開しないモノです ( 前後 には 展開する )
「 鼻 」 が 真っ直ぐ なのは 支える背景( 背骨・脊椎 ) の
ありよう ( そこが 比較の 根拠 )
真っ直ぐ とは 人の感覚 ( 脊椎 を たてた 意味 )
「 真っ直ぐ」 が あってこそ 「 横 」 は 思考に広がりを与える
これは 諸仏 の “体” “得” であり 「 徳 」「説く」 ところ
「 空 」 「 取 」 です ( 捉え難き・難しき ) クウヲツカム
> 眼横鼻直は、師資相承 の教えと、諸仏の語りを意味している
ここは この記述に対することが 難しいところです ( 諸仏の悟り )
「 師資相承 の教え 」 「 諸仏の語り 」 を
「 手 」 にして 戻った とも言えます
言葉 とは 言う者 と 聞く者 と が 聞者という対象 宛て
( 「 世間 」 では 言う者は “語る の 身” を “タモツノミ” )
聞く者 に “手渡しするモノ” が ない ( 言葉 のみ → 「 空 」 )
・・・・・・・・・・・・・
「 空 」 とは たもつ(手持つ) もの でもあり
けっして “保て” “ない” もの でもあります
だれでも わが手 を 見れば 手持ち用 が わかります
「 空 」・「 手 」 とは もちて もちいる “モノ が ない”
という意味です
ある ? ない ? を 離れて “ ある よう でない ? ”
( よう とは 様・態・体 であり 用・用い方 であり 要 )
そこには ない ということ
( あるならば みせてほしい ・ 見せれるものなら 記述しない )
あって 困ることはないけれど 困ったことに
必ず 行き詰まり という道 を 歩むことになる
(つまらぬ人生 を 送ることなく) 有意義な道を歩むということ
相反する ことが 一つの道 に 起きる ゆえに 矛盾してしまう
( 行き詰っても 詰まりながら 歩める 人生 → そして 「 輪廻 」 )
眼横鼻直 とは 語ること ではなく
「 坐す 」 こと ( 「 止観 」 「 打坐 」 ・ 只管打坐 )
「他」 に関わらず 只管 座に 堕・打 すること
横 と 縦 とで 平面上にある点はすべて表され得る
( PC では 0.・1 で 三次元を表現可能 )
( この世 ・ 「 世間 」 とは 三次元で表す モノでできている )
「 心 」 でさえ 人はモノで 豊か になる
( 「豊」 とは 豆・財 を 山盛りにしていること )
( 道元 の ) 「 正法眼蔵 」 では そこに対して
「 仏道固跳出於豊検故( 仏道もとより豊倹より跳出せる) 」
と 得 ( 語り・聞く )
「 心 」 は 手にはできない と 手を変え品を変え 、、、、
> と思います。
思っていること は すべて 「 無明 」 に 起きる
( これは 釈迦牟尼 の 教え の すべて )
“ 思わず ” 語る・述する 「 無為 」 の こと
( 「為」 を 為すのは 気 に ナル・結果する 「為」 である )
結果 を かたりて (化して) 無為になる ( 語るに地に落ちる )
無為自然 とは 無為に自然に起きる ジネン・自念・自練
( 漢語 とは 音に発し 姿を映し 他 に 及ぶ )
> 迦葉というのは、空をつかんだ弟子
摩訶迦葉 ( マハー “釈” 迦 の “言の” 葉 )
( 漢語 であろうと 「 大 」 は 「 空上 」 に 起きる )
ワタクウシ は クウヲツカム が (ごとく) 悟得 に 溺れる 、、、、
> いつもながら有益でした。
いつも 有益 に出来る 「 財 」
わたしには無益 であろうと
それは 「 益する 」 ことができない
という 「 意 」 を 表すのみ
“あなた” に 「益」 が 起きて
初めて ( 果として・結果に )
“わたし” に 「 果 」 が 起きる 因( 端緒 ) となる
起きた “終” に “始” が “結する”
( よみすごせば なんら 問題は起きない )
・・・・・・
( これが 「 麻三斤 」 の 起きているところ )
・
*
ここは 『無門関』 第十八則 「洞山三斤」
( 『碧巌録』 第 十二則 「洞山麻三斤」 )
が 解答です
ここが 体得(体験)できなければ 解はない
「 花簇簇 錦簇簇 」 これは 途中の段階でしかない
( しかし この境地を通らずには 「覚・悟」を 得ず )
他人に聞かずに 自分で (より深く) 体験できるまで
「 修行 」 することです
ちなみに 「 麻三斤 」 とは
衣・実(イミ) とは 何の関係もない
ここについては 平田 精耕 が “かすっている” だけで、
他の解説( いわゆる 禅宗指導者 ) は
すべて “カス” にもならない
( 「 修行 」 を 間違えている )
何故か ? を 説明しても 何の意味もない
花・錦 は 道(具) に 過ぎない
歩んで・用いて・手にして その “カ・華・仮” を 得る
華(花・法華経)を見ようと 金蘭を纏おうと 、、、、
( 因みに わたしは 金蘭 を 敢えて 纏う )
( 永平寺 などに行けば 金蘭をまとう?“坊主 ? 似アウ ? )
めくるめく 光 を 金蘭・錦 と呼び
目を奪う うごめく かたまり を “花” と呼ぶ
( 繰り返す因み 洞山・園悟 は 深く 華・法華 に 浸っている )
“ わかるまでは わからないこと ”
このことさえ わからないのだから 、、、、
( わかるかな ? わかるということ )
・・・・・
> ここは菩薩に説いた教えだと思っています
みほとけ は “ 善男子・善女人 ” に 語っているのです
“善男子・善女人” とは 「 菩薩 」 と 言い換えができます
「 修行 」 に ある者 を “善男子・善女人” と 呼ぶ
( 決して とまらぬ 「 精進 」 を 「 修行“者” 」 と 呼ぶ )
これは修行である という テキスト(思い込み) と
「 精進 」 に 於いて、 道を歩むこと との
間(狭間)には 千仭の谷( 百丈の嵩 )が 起きている
( 広狭 とは 「 空 」 の 廣 さ を 言う )
Budda とは 「 法 ・ 証 」 であり
「 精進 」 とは (道を歩む) 修行者 である
( これを 道元 は 「 修証一等 」 と アカ す )
いくら テキストを紐解いても・頭をひねろうと
こんがらがる 思考の綾 は ほぐれはしない
・
それでは、春間さんをつついてみますか(笑)
その麻三斤、燃えてなくなっとき、如何?
> ちなみに 「 麻三斤 」 とは
衣・実(イミ) とは 何の関係もない
火をつついて 火花 を 知らず 、、、、
袂にうつる 華 火 の 姿
燃えもせず なくなりもしない
ただし
あなた (関係が)あるかどうか は あなた次第
あなた が 関係を持ちたくない は な し
ですから
握りこまずに ハナ シ ナ サ イ
意味もわからず 割り込もうとするあなた
> ちなみに 「 麻三斤 」 とは
衣・実(イミ) とは 何の関係もない
> 燃えもせず なくなりもしない
燃えもせず、なくなりもしないなら、いま、どこにある?
麻三斤も柏樹子も跡形もない。
mani先生、
なんとなく分かりました。
『摩訶般若波羅蜜經』『大智度論』を見ていてやはり『中論』は般若経によるものではないかと思います。かつて『中論』24.18をアーガマ・二カーヤをまとめたものだと解釈しましたが、それでもいいとも思いますが、「是心非心心相常淨故」の次品に以下のように説かれるからです。
T0223_.08.0234c12: 世尊。是諸法實相。名字不住亦不不住。何
T0223_.08.0234c13: 以故。是名字無所有故。以是故。是名字不
T0223_.08.0234c14: 住亦不不住。世尊。諸法因縁和合假名施
T0223_.08.0234c15: 設。所謂菩薩是名字。於五蔭中不可説。
T0223_.08.0234c16: 十二入十八界乃至十八不共法中不可
T0223_.08.0234c17: 説。於和合法中亦無可説。
恵心僧都の以下もいいですが、仮設されないんですよね。
因縁生故無自性 無自性故畢竟空
畢竟空故無所得 是名般若波羅蜜
それでは和訳成就、祈願いたします。
oさま こんばんは。
>なんとなく分かりました。
そうですか。。わたしは、また、論理としては「縁起」というより、特に「空」だという感じで納得してました。「空」と言うことで言えば、道元はわかりやすいような気がしています。一番しっくりきます。
>『摩訶般若波羅蜜經』『大智度論』を見ていてやはり『中論』は般若経によるものではないかと思います。
わたしは違うのではないかと思っています。 龍樹は、般若経が空を歌うものであることは知っていましたし、般若経がブッダの法を正しくとらえていることも知ってはいましたが、ブッダの法から直接理解していると思います。なぜなら、『方便心論』を著しているからです。
『方便心論』から仏教論理学が生まれてきましたね。ディグナーガなどを産んだのは龍樹だと思います。
>「是心非心心相常淨故」の次品に以下のように説かれるからです。(以下に引用あり。)
なるほど、oさまの方が、わたしより純粋にブッダ命(いのち)ですね。
>恵心僧都の以下もいいですが、仮設されないんですよね。
ですね。これは下手をするとヒンドゥー教に行きますね。シャンカラにいってしまう。。これ以上は言わないでおこうと思います。『中論』、がんばります!
*
> 大乗の菩薩たちは、ここを実践したのではないかと思っているのです
思う思わない を 超えて
(摩訶・マハー) 実践している(大乗の) 菩薩たち
思ったこと (思って育みし言葉) は すべて 「 無明 」 に 起きる
↓
( “思っている” と 思って決めた考え とは “誤りに発する” )
そう(精進)していても 思っている(だけだ)と 思ってしまう
> ブッダの教えにすらよらなくてもよいと言うこと
この言葉 を あなたが 語り 、あなたが語ることを聞き 、
あなたは 行ないに移している
そこに 発せられる「行」・行ない に
わたしは 耳をそばだてさせる
わたし は 言葉 を 聞いてはいない
心 を 観ている( 心のありように 耳を傾ける )
> 怠ることなく、常に礼拝し
精進し 自らに 五体投地し
「 仏 」 とは 何処で どのようにして
わたしに 「 法 」 を 乗せるか を 拝受している
( 「 永遠 」 とは そこに起きる ありよう )
あなた(大地) に 五体投地 し
貴女 を 見上げ
わたしの足下(脚下) に 目を落とす
わたし(脚下)とは 大地 であり ダイチ とは NaNa であり
花簇々・錦簇々 の 起きるところ(「界」)である
・
その麻三斤、燃えてなくなったとき、如何?
麻三斤は目の前のただの麻布。
この瞬間、燃えてなくなる。
さあ、麻三斤、どこへ行った?
春間さんは、麻三斤について回ってる。
ついてまわり にしか なっていない
のは
誰だろうか ?
だれでもない “ わたし ”
って 、 誰かではある
だれでも 自分を私と名付ける
いくら隠してもわかりますよ。
春間さんは、麻に特別な意味を見いだして解釈しているのでしょう。
日常生活の象徴のように。
麻と錦を対比して。
そんなくだらないことでは、せっかく開いた蛤も閉じてしまう。
目の前の布きれ、目の前の柏樹子、祖師西来意のありのまま。
mani先生、
面白いですね。しかし、時間がないので失礼します。
> 麻に特別な意味を見いだして解釈しているのでしょう。
それは あなたです
> 麻に特別な意味を見いだして解釈しているのでしょう。
自分の憶測 で 人を判断することは 無駄
あなたは 「 麻三斤 」 が 理解できないだけ
世の中には 「 麻三斤 」 を 生きている人 が いる
その人 は 出会えば 即 “ わかる ”
近くに在っても 遠くに在ろうと
おなじ 「 処 」 に 生きている
あなた とは 同じ 「 世間 」 に あるけれど
「 世間 」 を 出でることができる 世界 も
そこに( そこの 「 処 」 に ) 同時に 存在している
あなたがそこを知ろうとしないだけ
麻三斤を生きている人は、
他人の掲示板で承認欲求の亡者になど決してならない。
管理人の「よしよし」を求めたりもしない。
ただただ自分でいれば、その香りに大勢の人が寄ってくる。
自慢しているうちは、道の人ではない。
誰も寄ってこない。
> 麻三斤を生きている人は、
他人の掲示板で承認欲求の亡者になど決してならない。
なっちゃ だめだ よ
> 管理人の「よしよし」を求めたりもしない。
求めちゃ よくない よ
> 誰も寄ってこない。
寄ってこないで ね
道の人ではないん だから
> 世の中には 「 麻三斤 」 を 生きている人 が いる
> その人 は 出会えば 即 “ わかる ”
> 近くに在っても 遠くに在ろうと おなじ 「 処 」 に 生きている
春間さんが、麻三斤を生きているかどうか、正確に簡単にわかる方法がありますよ。
それは、春間さんが、自分のサイトを立ち上げることです。
春間さんが、本当に真実の輝きを放っているなら、
「近くに在っても遠くに在ろうと おなじ「処」に生きている」「出会えばすぐわかる」人たちが大勢集まって来るでしょう。
*
> ************
春間さんが、本当に真実の輝きを放っているなら、
「近くに在っても遠くに在ろうと おなじ「処」に生きている」「出会えばすぐわかる」人たちが大勢集まって来るでしょう。
> ************
放っているかどうか 「 覆障 」 の下 で 見上げても
光 は 届きにくい ( 届くことは届くけれど 暗く 思える )
「 法華経 」 薬草喩品
三草二木 あまねく降りそそぐ 慈雨
「 新約 」
陽の光 と 雨 とは 「 平等 」 に 降る
雨に “溺れて” サングラス を 使用する
マタイ福音書11( 新改訳新約聖書 )
「 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。 」
その ムラ(群れ) には 色々 な 彩の人 がいる
( 地球上 には 70億 の 人達が 一つになって 住んでいる )
多いか 少“数”か を 数えても
人の知ること は 数えきれない
( あなたの数の 範囲外 に
いくつもある と あると知ること は できるかな ? )
・・・・・・・・・・・
村(町) を 作るのではなく そこに 音 連れて 語る
彩り に 語る のではなく 色々に語る
口先 ではなく 杖先 に 語る
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129
「 仏 」 とは 偶像に過ぎない
「 仏 」 を あがめて 上と決め
“ 目を 上に 向ける ” ( あがめようを誤する )
( 礼拝・五体投地 ) 地に足をつけて
“ 目を下に向け ” 「 脚下照顧 」 )
・
> 麻三斤を生きている人は、
他人の掲示板で承認欲求の亡者になど決してならない。
“ 麻三斤を生きている人 ” って言うとき
「 麻三斤 」 の意味 って
どういう意味で使っているのか
わかっている のか わからず使っているのか
わかかっているのかな ?
このような記述 は 不得手のようである 、、、、
得てして 人は 分からぬことを分かったように
装う
( という 意味 を ) キカザル( 着飾る・聞かざる )
『 法の不知はこれを許さず 』
「 法 」 とは
「 みのり ・ みことば ・ 実 」 の 意味です
「 人間だから間違いもある 」 と 人は自分を隠す
隠されている意図 を 知れば
“ 許さず ” という 意味 が わかる
「 仏恩 」 とは 隠れていても
温かい もの ・ 篤き もの
篤信 行かず とも ( 信仰に関わらず )
今 居るところ に あたたかさ が ある
> “ 麻三斤を生きている人 ” って言うとき 「 麻三斤 」 の意味 って
どういう意味で使っているのか
春間さんが、「世の中には 「 麻三斤 」 を 生きている人 が いる
その人 は 出会えば 即 “ わかる ”」と書いていたので、そのままの春間さんが使った意味です。
春間さん自身が自分が使った意味で「麻三斤を生きている人」であれば、自分でサイトを立ち上げれば、「わかる」人たちが集まってくるのではないですか、という意味です。
多分、春間さんは、「麻三斤を生きている人」というのは、真理を日常生活に実践している人というような意味合いで使っているのでしょうけど、そうでなくとも、春間さん自身が使った意味合いで春間さんが「麻三斤を生きている人」ならば、人が自然に集まってくるでしょう、ということです。
「道の人であるならば」でも「真理の香りがしている人なら」でもよかったのです。
ずっと不思議に思っていたことは、春間さんは本名で投稿していますし、リアルな社会生活のなかでも、大勢の知り合いたちに「マニカナに来なさい」と声をかけているのに、リアルな知り合いで、マニカナで春間さんに挨拶している人や語りかけてる人を一人も見なかったことです。
春間さんが、自分のサイトを立ち上げれば、現実世界でどれだけの人が春間さんを慕って来るかがすぐわかります。
仏教学者の掲示板で「俺はわかっている。悟っている。おまえは行が全くできてない。俺は行ができている。わかる人にはわかるのだ。唯仏与仏 乃能究尽だ。仏しかわからないのだ。だからお前にはわからないのだ。」とマウントを取ることにどのような意味があるのですか?
はっきりいって、私は春間さんが絡んでこないのであれば、もっともっと石飛先生に質問や投稿していたと思いますが、私が投稿すると必ず春間さんが絡んでくるのでうんざりで、投稿を控えることが多かったです。これからもそうです。
春間さんは自分でサイトを立ち上げてそこで好きなように投稿者に絡めばいいと思っています。
石飛先生が唯一認めてくれているというので、春間さんの承認欲求の満たされる場、執着の場、我執の場になっていることは見ればわかりますが。
*
あなたがこなければ そこに 意味はない
( 意味 というモノ を あなたが決める )
ここで決めれば 決めごと は 敷延される
( 「 敷延 」の 意味 は あなたが敷衍すること )
こういう 記述 のなかに 奇術があるが
奇術 とは 気が付かれないところに 記されていること
気 が付けば 物事とは なんでもないこと( 奇 ではない )
ということ に 奇 着 する
奇ではない 奇ではない 奇ではない
( 着したところ が 当然・タター な こと )
*
> その人 は 出会えば 即 “ わかる ”」と書いていたので、そのままの春間さんが使った意味です。
そのまま 意味不明で(意味など介せずに) 使った ?
使う意味 は 使った意味 の上に ( だけ ) 成り立つ
わたしの基盤 は わたしという存在 を 支えている
素の支え方 は どのようであるかを
あなたの支え方 で 支えるのです
あなたが そうやって 培ってきた 基盤 は
盤石 なのかな ?
盤石(構成する礎石) が あやふやなら 基盤は 揺らぎうる
( あなたの あやふや は 他人のせいで 自分は確立 ?? )
こういう 意味 は 管理人エム 様 や ごく少数 が 知ること
( 残念ながら ・ あなたには微塵も残念はないけれど 止むを得ない )
多い・少ない は 数の上 に 成り立つのではなく
効果の下 に 成り立つ
( 効果 というモノ は ” 商量 ” によって成り立つ仕組み )
枝を見て 根幹(今果) を 見ず
( 「 果 」 とは あなたが食すモノ ではあるが 、、、、 )
「 蓼 食う 虫 も 好き好き 」
他 で 食う 無視 も “ 好き好き ”
( 何処で食おうと 一食 は 一「色」 「 空 」 にすぎない )
> 承認欲求の満たされる場、執着の場、我執の場になっている
承認欲求の満たされる場、執着の場、我執の場になって “いない”
と 不満・欲求 を 重ねる 嘆く人
自らの 投稿には (使いようによっては) “百均”以上の価値がある
という 「 金 」 の 使いかた の 自己顕示
( 一攫 千金 の中での 百金 の 有難き価値 )
わたしの 「 兼ね 」 を わたしがどう使う かは
( あなたの価値観に外れようと
あなたが同類と類推する人の価値観がどうあろうと )
わたしが決めること
( あなたが決めること の 正当性 が 根拠 ですが 、、、、 )
あなたが 『中論頌』 を 理解できなければ
(その)正当性の根拠 は 戯論 に 落とされる
ここは( 今回 10.06 は)
龍樹 に関して 突然立ち上げられている カレー日記 です
・
春間さんが必ず投稿者に絡んでくる理由は何ですか?
その人を真理に導きたい、その人を助けてあげたい、その人に教えてあげたい、という純粋な慈悲から絡んでいますか?
それとも、マウントを取ろう、自分が凄いことを認めさせてやろう、仏教学者で教授の先生にも自分は認めてもらっているどころか先生に教えを垂れているくらい大導師だということをここに来る奴らに知らしめてやろう、という気持ちで投稿していますか?
どちらですか?
どちらですか ?
> 『無色界定の最上位である非想非非想処定を捨てた仏陀が、なぜ初禅からの四禅(色界定)が涅槃・解脱への道だと思ったのか』
> これは四禅が止観相応、止観双運だからというのが一般的な見解で、私も、妥当だと思います。
> 言い換えると集中が深まっても涅槃できない、観を行ずるに適切な集中状態である四禅が涅槃への道という意味ですね。無色界定だと観が行じられないからです。
oさん、ご回答ありがとうございます。
投稿に気がつきませんでした。すみません。
なるほど、とても参考になりました。
整理しますと、四禅(色界定)では観が行じられるが、無色界定は集中が強すぎて観が行じられないから、という理由ということでよろしいですか?
四禅(色界定)は、第四禅になって初めて一境性のみとなりますが、無色界定はすべて一境性のみだからということでいいでしょうか。
それでは、四禅(色界定)の中で、観を行じるということでしょうか。
仏陀が成道したとき、四禅を完成させた後に、宿住智、天眼智に心を向けて観じたとありますが、四禅(色界定)の中で観を行じるということでしょうか。
それは、第三禅の正念と思っていいでしょうか。
質問ばかりですみません。
ショーシャンク さま、
ご返事ありがとうございます。
そうです。無色界では観は行じられないのは集中が強くて、寂静すぎ色がないからです。
例えば十二縁起を観じようとしても名色以下は縁起しなくなってしまうでしょう。
南伝大蔵経律部3『大品』の冒頭で釈尊が観じておられるのは十二縁起なので、それは必然的に無色界定ではないことになります。また、欲色だと集中が少ないので、これまた観にならないので、色界定ということになると思われます。
oさん、ありがとうございます。
> そうです。無色界では観は行じられないのは集中が強くて、寂静すぎ色がないからです。例えば十二縁起を観じようとしても名色以下は縁起しなくなってしまうでしょう。
> 南伝大蔵経律部3『大品』の冒頭で釈尊が観じておられるのは十二縁起なので、それは必然的に無色界定ではないことになります。また、欲色だと集中が少ないので、これまた観にならないので、色界定ということになると思われます。
なんと素晴らしい、見事なご回答ですね。
『大品』の冒頭の十二縁起を観じるところまで解説されているのはさすがです。
私が考えたところでは、色界定は言葉を伴う思考を使う瞑想、無色界定は抽象概念の思考に集中する瞑想であり、四諦や十二縁起という仏陀の理法を観じるのは色界定でなければできない、ということでした。
無色界定はバラモン教で一般的な瞑想であり、色界定は仏陀独自の瞑想法ではないかとも思ったのですが、ここは確かではありません。
ともあれ、とても参考になりました。
感謝いたします。
ショーシャンク さま、
よかったです。
禅定、三昧などの精神集中はヒンドゥーを始め色々な宗教にもあると思います。
釈尊、ブッダはそれでは涅槃に至らずとして観によって、色々な要素が無常に集合して起こるが、それは実体なく空性だと悟ったところが大きく違うと私は理解しております。
ではでは。
oさん、ありがとうございます。
四禅は『止』であり、四禅そのものが止観相応とは私は思っていませんでした。
仏陀は四禅の完成の後に宿住智、天眼智に心を向けます。
観(慧)は、四禅の完成の後でなければ生じなかったことになります。
仏陀が出家してまもなく、無所有処定、非想非非想処定をマスターしますが、捨ててしまいます。
非想非非想処定の完成の後には観(慧)は生じなかった。
これが何故かがわかりませんでした。
観(慧)に結び付く何かが四禅(色界定)にはあり、無色界定にはないということだと思います。
それは、尋と伺であると思っています。
oさんが、無色界定では集中が強すぎる、色界定はそうでないと言われたことから、無色界定は一境性がそのすべてですが、色界定では一境性の前に尋と伺という導入部分があると気づきました。
ショーシャンクさん、こんにちは(^ ^)
思い出したので投稿します。
パーリ経典長部2の『沙門果経』には四禅の記述の後に、(おそらく四禅により)よい状態になった心で、観に心に向ける記述が続いています。
光明寺経蔵さんという方のページでは、『沙門果経』のリンク付き目次が載っていて、「沙門果経」目次
下から四番目の「観智」のページ以降です。
下から二番目の「漏尽智」の項目も、
『彼は、そのように心が入定し、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去り、柔軟な、行為に適した、住立した、不動を得たものとなったとき、諸漏の尽にまつわる智に心を向け、転じさせます。』(光明寺経蔵様訳)
と始まります。
「沙門果経」の記述をもうご存知だったらすみません。
※一度同内容を光明寺経蔵様ページのリンク付きで投稿したのですが、承認されないようなので、今回リンクなしの投稿を試してみます。
m(_ _)m
*
> 『沙門果経』には四禅の記述の後に、(おそらく四禅により)よい状態になった心で、観に心に向ける記述
「 かれは、じつに欲から遠離し、不善の諸法から遠離して、尋をともない、伺をともない、遠離より生じた喜と楽ある初禅に達して住します。 」
心から遠離する ということ は どのようなことですか ?
( 心から遠離したところで 理解できていますか ?
心の中の “できごと” ではないですか ? )
不善 という意味 が (行いを伴って) 理解されていますか
遠離より生じた喜と楽ある初禅
という 初善「処」 に 住したことは ありますか ?
*
行ないに裏付けられて 言葉は意味を持ちます
( どのような行ないにあるか は 観えていますか ?
「このようにある」 とは 言葉上ではないですか ? )
言葉の上で理解したこと と
行ないに移した後で 振り返ったこと とは 同じではないから
行ないに顕わすこと の 重要性 が 説かれています
( どこに説かれているか は 分かっていますか ? )
*
すべて 此処 個々の 「 心 」 の 外の 景色です
「 心 」 の 外 に 出でたこと はありますか ?
*
ジャーナ ( 「 禅 」 ) とは 只管打坐 という意味です
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「漏尽智」の項目
『彼は、そのように心が入定し、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去り、柔軟な、行為に適した、住立した、不動を得たものとなったとき、諸漏の尽にまつわる智に心を向け、転じさせます。』
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
転じて 不退転
そこに 「 法華転法華 」 “転” が 起きている
「 十方仏土中者、法華の唯有なり。これに十方三世一切諸仏、阿耨多羅三藐三菩提衆は、転法華あり、法華転あり。
これすなはち、本行菩薩道の不退不転なり、
諸仏智慧、甚深無量なり、 難解難入の安詳三昧なり。 」
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉を知っても 知ったことを喜ぶ だけ
知る ということを 慚る ということ を 知るとき
「 慚る心 」 が そこに起きる
何を恥じるべきかを 知らぬこと を
はじなければ( 馳し なければ ) はじ “真” ら ない
「 慚る心 」 については Su. 「田を耕すパーラドヴァージャ」
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 24p.)
に 記述されている
「 慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。 」
「慚」 とは 心に転じたことを “分ける・フタツに知る” ことです
( 達したところ は 一つにすぎません )
***** 正法眼蔵 誹謗 “商”法 12/04/09-08:49 No.16443
その恥ずかしさが、恥ずかしくなるのは、
年を取ればいいわけじゃない
( 無恥 とは 無知であることではなく
“ 知 ” に 起きることがないところに起きる )
「 比丘は若いからといって、あなどっては いけない 」
小さなヘビは 身に巣くう
智慧でもあり、無知 でもある
*******************
pipitさま
すみません。わたしのミスですね。
実は、メールで投稿の通知が来るのですが、投稿の上ネットに反映されてるようになっていたので、こちらでは安心してました。
でも、ネット上でpipitさまの投稿を読もうと思って、さがしたら pipitさまの投稿が見当たらなくて、「あれ?おかしいなあ」と思っていました。
wordpressのせいにしよ。。pipitさま、すみません、ショーシャンクさま宛のコメント投稿でしたよね。
pipitさん、こんにちは。
> パーリ経典長部2の『沙門果経』には四禅の記述の後に、(おそらく四禅により)よい状態になった心で、観に心に向ける記述が続いています。
> 下から二番目の「漏尽智」の項目も、『彼は、そのように心が入定し、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去り、柔軟な、行為に適した、住立した、不動を得たものとなったとき、諸漏の尽にまつわる智に心を向け、転じさせます。』(光明寺経蔵様訳)と始まります。
ご紹介、ありがとうございます。
そうなんですよね。
仏陀は四禅の後に観(慧)に心を向けているのです。
宿住智と天眼智です。
そして、自らの数多くの輪廻転生をありありと見ます。衆生が身体破れた後の有り様を見ます。
これにより、仏陀の理法の根本たる苦諦を知り四諦十二縁起を知ります。
漏は煩悩と訳されますが、直訳すると「流出」です。
「流出」の因と滅を知り、「流出」を滅ぼし尽くします。
漏尽智です。
これを見てもわかりますように、四禅の中には「観(慧)」はありません。
四禅の完成の後に「観(慧)」が生じているのです。
四禅はあくまでも「止」であり「観」ではありませんので、
無色界定は「観(慧)」を生じないのに、色界定は「観(慧)」を生じさせたのは何故だろうとずっと疑問に思っていました。
今回のoさんの指摘により、四禅の中に「観(慧)」に結び付くものがあったのではないかと思えます。
pipitさん、いつも有益な文献を教えていただきありがとうございます。
八正道に「正語」がある。
春間則廣様は、正語で投稿されているのですか?
あなたには そのようには読めてはいないと
ということが
わかりました
*
あなたは
記述した わたしの言葉 を
聞いている(読んでいる・読み上げている)のではなく
読んでいる あなた の 言葉 を 聞いているのです
あなたが知る あなたの経験上に存在する
あなたの解釈を積み上げた
言葉を使って 解釈 を 上積み している
わたしの言葉 わからないのは
わたしの 誤謬 に 発するのでしょうか
あなたが 「 正語 」 を 知るのであれば
簡単に 知っていることと対比できるはずです
あなたが 「 正語 」 とは 何であるかを知らなければ
わたしが使う言葉 が
「 正語 」 である と 言ったところで
そこに どのような意味 が 起きますか ?
よしんば 知っている (とする) のならば
( 何故 ) 行ないに移さないのですか
わたしは 知ったこと・知っていること を
( 行いとして ) 行じている と 知っています
それが (あなたによって) 正しいと判断される か 否か
で 正しさ・過ち が “ 正語として成立しますか ”
あなたにわかるように 語れば
あなたは わかって“くれる”のですか ?
「 わからせたいのなら わかるように語れ 」
( そうすれば 分る ・ 分かってやる )
という ことは
あなたによって 正義 とされます
( あなたがわからない 言葉 は 不義 ですか ? )
( 分かってもらえない わたしの 「 不徳 」 ホソク なし )
あなたは ( たとえ 一人であろうと ) 一人でも
正しい言葉を聞いて 悟りを得た人に 出会ったことがありますか ?
正しく聞く人 は 正しさを得た人です
それが 聞いたときであろうと 聞く前からであろうと
正しさ が そこに在る という事実 は 「 平等 」 に起きます
( もちろん 後から 知っても
何等 問題 は 起きない ! )
・
・
春間さん、こんにちは、お久しぶりです(^○^)
> 「 慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。 」
「慚」 とは 心に転じたことを “分ける・フタツに知る” ことです 小さなヘビは 身に巣くう
智慧でもあり、無知 でもある<
ヘビが智慧でもあり無知でもあるのですか??
無知だけど身にあってそれが智慧となり得るということなのかなぁ???
寒くなりましたね!
心元気に過ごしましょう٩(^‿^)۶
いや???
あら?春間さんの引用をpipitがおかしく引用してしまったようですみません。
m(_ _)m
あら?
自分のコメントも全部は投稿できてなかったようで、すみません m(_ _)m
> 「 慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。 」
「慚」 とは 心に転じたことを “分ける・フタツに知る” ことです<
なるほどー
知るを恥じるかぁ。
恥じるを行為の原動力とするのですね??
と、投稿したかったのです_φ(・_・
*
> 恥じるを行為の原動力とするのですね??
はじいる 思い(行為・行) は
「 心 」 に起きて 行ないに表されます
( 慚る も 「 行 」 です )
原動力 を 探さなくっちゃ !
牟尼 の 喩 では
「 鋤棒 」 でしかありません ( 耕す目的の“手がかり” )
耕すことに使わがない棒 と 耕そうとせずに 手にする棒
( 常不軽菩薩 を 打ち据えようとする棒 )
目的があろうと、それを見失っていようと
すべて 棒 です
鋤先が付けば (ともにあって)耕すことに使えます
突くだけなら 痛い棒 見るだけなら ( 今のところ シンボウ )
心房細動 で わたしは アブレーション を 受けました
( ちがうか ! )
> 恥じるを行為の原動力とするのですね??
恥じる(?)を行為の原動力とできない ことを 慚る( はじる )
( ことは 出来ますか ? 出来ないことに 恥じ入りますか )
( 慚る と 恥る との なんとなく 微妙なニュアンスの差 )
Pipit さん は 「 観音 」( アヴァラキタイシューバラ )
のように あたたかい ( 感 温 )
・
春間さん、こんばんは(^O^)
「すべて 棒 です」
自分の好きな経典も自分にとってはそうだなぁと思い浮かびました。
「( 慚る と 恥る との なんとなく 微妙なニュアンスの差 )」
恥じていても 慚ていない、感じです…
わたくし悪人です…
春間さん、ありがとうございます(^○^)
mani先生
> 2006年に山喜房仏書林から出してもらったけど、もう一度訳してみなきゃあかんかなあと思ってるところです。いつでも、新しくしてないとあかんと思うのよ。
奥付を見ると平成18年ですね……約20年前。
平成は遠くなりにけり……
先生の令和版『方便心論』を楽しみにしています。
Pocketさま
そうか。。20年も前なのか。。浦島気分っす。。か~おもしらないひとばかりぃ♪
『とは何か-数学・哲学から始まる世界像の転換(著者:西郷甲矢人・田口茂)』に、次の記述がある。
「圏論という現代数学の手法は・・・ブッダやナーガールジュナが提示した仏教哲学の根幹にも通じていくものであるとわれわれは考えている。」135頁、「空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。一方、空性という見解をもつ人々ついては、成就不能の人々と呼んだのである。(「中論頌」13.8、石飛道子訳)」183頁。
著者の西郷甲矢人氏は、マニカナ掲示板に”素数の歌”名で投稿した記憶がある。
tanzaさま そうかぁ。。相当昔からのお知り合いですね。。
なんと!「素数の歌」時代からのお知り合いとは、わたしも長生きしてよかったよぉ。
圏論は難しくてわたしにはよく分かりませんが、なにか。。自家撞着ということを思ったりすることもあります。数学と仏教は相性がよい学問通しだと思っています。
まだ、ナーガールジュナを研究してます。。ナーガールジュナの上にいるのがブッダだからわたしには神様以上です。しかも、神ではなくて人間出身です!
tanzaさま、ちょっとわかったかも。。
訂正:書名『<現実>とは何かー・・・・』
西洋論理だと二元論・排中律が主流だが、現代量子物理学者には「四句分別」に着目する人が増えている。
(1)量子は粒子である
(2)量子は波動である
(3)量子は粒子で波動である
(4)量子は粒子でも波動でもない
二元論では(1)(2)に限定するが、現実には(3)(4)もある。
さて、現行日本国憲法には二元論的賛否があるが、これは国際法違反の占領文書なので、破棄すればよく閣議決定で簡単にできる。
ブッダの教えの「執着を捨てよ」は、こんなにも素晴らしい!!
図書館の新刊書棚にあった『パーリ語初期韻文経典にみる最古の仏教』(並川孝儀・著)を読み始めている。
著者の意図は「まずは初期韻文経典群の最古層経典と古層経典以降との比較研究に基づくべきである」らしい。
tanzaさま こんばんは。
中村先生の経典の創作時期にならう人たちは、そのように考えますが、ブッダが教えたと考える人たちはそのようには考えないと思います。
ちなみに、わたしは、ブッダが教えたと考えています。
*
> 著者の意図は「まずは初期韻文経典群の最古層経典と古層経典以降との比較研究に基づくべきである」らしい。
“ 比較 ” ということは 「 認識 」 の 初期段階に属します
“ある言葉” と “そこにおける 行” とを 結び付け
起きる 特定の状況 を “それのない状況” に
“ 比較・対比 ” し ( “ない状況” の) 記憶 に結びつけるわけです
( そのようにして 起きる状況 を 記憶する という )
必ず “特定の行・状況” に 結び付けられます
( その “ 結び付け状態” が 「 付加 」 されます )
これを “ 「加上・増広」 ” と 呼びます
( この意味 は ) “特定の行・状況” に 結び付けられます が
「 認識 」 は それを “当たり前のこと” と してしまいます
“ 「加上・増広」 ” の 形態 です
( 富永 仲基 に ) 懸念されて 批判される 「 処 」 です
( その “懸念・批判” は “増広” を
“批判的” に 読み取れる 「 認識 」 から生まれる )
無批判 に “単に” 自己解釈で状況を把握し
その把握の基盤となる “元”認識 に 対する
「省」 ・ 照 ( 機構 ) が 略されているわけです
仲基 が 懸念し ( いわゆる )大乗仏教徒 を 批判します
→ 「 大乗 非 仏 説 」
仲基 の 懸念 は “似非” 「 仏教 」 に 向けられています
問題 が 起きているところ とは
( “似非仏教 ではない” という ) “自己認識の現状 肯定” です
「 比較研究 」 の “元” は (積み上げた)自己認識でしかない
( それは “元” ・ “ 「修行」 の 不善 ” から 生れ出ている )
只管打坐 とは 「 仏 」 そのもの である 現状・状況
( 「 修証 一如(一等) 」 とは 「 精進 」 に 起きるのみ )
加上・増広 に 精進して 何の “ 徳 ” ありや 、、、、
( 文字を追って 文字のおこる 「 心 」 を 見失う 輩 )
見失った心 で 失っているモノを探す 、、、、
「 不善 」 であることなる ( 塵 の ) 積み上げ
を 積み上げて
何 を 誇るのか 、、、、
マタイによる福音書 1 ― 14 ( 口語訳聖書 )
「 もしあなたがたを迎えもせず、
またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、
その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。 」
( “あなた がた” とは “イエスの言葉 達” です )
( 「 仏陀 」 とは 「 法 」 の 姿 です )
「 みのり の ことのは まいつつ も
みる は おもてで うら み せず 」
ことのは の うら とは “足下に起きている 歩み”
> ちなみに、わたしは、ブッダが教えたと考えています
ブッダの “教え” を 歩もうと
そもそも に “教え” の 不在 を 嘆く が (少なし)声 聞
証文 が あろうと 契約 の 不在 ( 「新約聖書」 である )
教会の不善 は 「 使徒 」 に 起きる( 端を発す )
( 他人事 かな ??? )
自分 に 生きる ( 自分事 )
管理人エム 様 の 声 を 聞く
( 「声聞」 )
・
富永仲基の加上説。
管理人エム様の発言も加上説だね?
> ( 富永 仲基 に ) 懸念されて 批判される 「 処 」 です
富永 仲基 に 批判される 「 処 」 ?
( 加上 ) だね?
っと 「 ね 」 を付ける
( いくら ) 確認しようと
“ 知 ” 上 に ある茎
「 信 」 を 大海に浮かべる 舟とする
あなたの 「 認識 」 の 「 根 」 が 育つ
「 無明 」 が 「 加上・増広 」 していく
tanzaさま こんばんは。
>管理人エム様の発言も加上説だね?
あれ?そう聞こえた?
でも、ちょっと違うかな。。ブッダは、どっちでも語れるんだ。
空だからね。
演繹的にも語れます。
ブッダは『楞伽経』の中で、これから龍樹が現れて有無の邪見を排除する、とうたっています。
仲基は「法華経」を丸薬がないと批判した。
仲基は見えなかったんだなと思うな。。丸薬が。
tenza様
並川孝儀先生の著作はちょっとアレな所が多くて頂けませんね。正量部の『有為無為決択』の翻訳は酷いものです。ちょっと触っただけで誤訳の山。専門書としては信頼するに能わずです。
> 仲基は見えなかったんだなと思うな。。丸薬が。
医王 の 丸薬
襟元 の チンターマニ
なく ても 困らぬ 泣く子に付ける薬 なし
( 泣いても 困らず ) そのうち 泣くのに 疲れる
『法華経』って、めっちゃ難しい経典だなあ、って思います。
時に従ってしかわからないのに、「時に従う」ことを強要されつつ「時に従わない」ことも学ぶ、ってことだよね。
こんな難しい経典をすんなりわかった日本人って、独特だなあ、って思ってます。
*
> ************
『法華経』って、めっちゃ難しい経典だなあ、って思います。
時に従ってしかわからないのに、「時に従う」ことを強要されつつ「時に従わない」ことも学ぶ、ってことだよね。
> ************
難しい と わかることは 容易いことではない
あるようで ない ないよう で ある
ないようではない あるようでもない
このようなこと は 難しい とも わからない
そうであっても 人は ( 一見 ) 容易 に 生きているように見える
生きている様 を 立っているところで 見る
→ 「 唯識 」 では 「 見 」 ( 有見 ) と 呼ぶ
生きている様 を 立っているところで 坐して 見る
→ 「 禅定 」 である
( 見ているようで 「 観 」 である →「 止観 」 )
空海 は そこ を 「 止観 の 要“門” 」 とし
「 文・聞 」 を 開いて 「 坐 」 も 開く( “開陳” に 聞する )
最澄 に 対して 「 止観 の 座主 」 と モンで呼びかける
呼びかけているようで >“聞”< が 閉じていれば
はなし は すすまない
( 立処 を 知らず 坐処 を 見失う )
握りこんだ 掌( ショウケン ) を 開かずして
見ようと “ 頑張る ” ( 瓦解 する )
( いつものこと である )
“わたし” は “あなた” に 呼びかけている
( 此方 と 彼方 との 距離 とは 「 縁起 」 に 起きる )
とわ の かなた に “あなた” が 立っている
( 無量寿・アミタ とは 其処・立処 を 言う )
光 を 持つゆえに そこ 「 正見 」 ・ 照らしみる
( 光っているから 見える のではなく 光を照らして 観る )
“ モノ・事象 ” は 光っているのではなく
( 人 が ) ミルこと で 光のありようを決めているのである
光らせる には 「 他 」 という 眼 が ヨウ される
( 自分で見るのであれば 自他 の 分別 は 不用 である )
わかるようで わからない のは
「 分別 」 で 見るからである
( もし わからないよう と “嘆く” のであれば
わかるよう は 用意 され得る ・ 用意している )
しかし 「 無分別 」 を 「 分別 」 で 探す・得す のは
得策ではない ( 得 を 捨つ のが 無分別である )
こんな 簡単で あったりまえ のこと を
簡単に分かった 「 人 」 が いる
( 簡単なこと を 簡単に知る と 簡単 に 思えてしまう )
釈迦牟尼 が 日本人 ではないとすると
日本人 には ムニハムリ ( シャッカ に 住む )
くくり を 捨てる という 新たな括り ( 釈家 を 「釈」 と 略す )
( アミターユス とは 日進月歩 を 否定する )
借りている のではなく( 仮 ではなく ) スミ 続けている のである
捨て続けてこそ 「 喜捨 」 が ある ので ある
( あるのである ということ が ない ので ある )
( どこに 「 住処 」 を構えているかを 問う )
すてよう が “ ワ カリ マス カ ”
( 話 は “仮” に 起き マスマス わ か らない )
あなたにとっては 戯言 であり 泡 ごと
シャボン玉 は 綺麗ではあるが ( 虹に輝き )
直ぐ に 弾け散る
あなたがみなければ 虹色のあした は
いつも あした に 起こされる
( みえても あわのごとき で いまにはじける )
あわごと を 開陳 す
・