愛しいもの

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パセーナディ王は、お釈迦様と同い年です。大国の王様やってんだけど、何かとお釈迦様を頼りにしているのです。彼には、マッリカーというお妃がいて、彼女はユニークな存在です。

王様は王妃に自分より好きなものをたずねるのですが、王妃は「自分より愛しいものはありません」と正直に答えてしまうのです。

心にしみる原始仏典

『サンユッタ・ニカーヤ』「コーサラ相応」にある「マッリカー」という経典とその一つ上にある「愛しいもの」という経典は、パセーナディ王がけっこうがんばって考えた経典です。

読んで感心しました。お釈迦様の教えを受けているだけあって、王様は自力で、他者を害さないようにと考えていますね。

ひどいことをされたり言われたりしたら、誰でも腹が立ちます。そのとき、仕返しをしてやろうという気持ちにもなるでしょう。しかし、お釈迦様はそれについて賛成しません。

言い返したりしないならば、自分と他人と二人に対して善いことを行っている、と述べるのです。パセーナディ王は、自分の力でそのことを見つけましたね。

どうして、思わずしてしまうことと逆の振る舞いが、正しい道なんだろうね。。

どうして、なかなか気づけないのかなあと思ってしまう。

それだから、仏教は難しいんだね。簡単にできるなら、すべての人が聖人君子になっていることだろう。

やっぱり目立たないけど、必ず他を傷つけないように振る舞う人は必ずいて、密かに、本当に密かに敬われているんだね。

※「マッリカー」という経典は、わたしの好きな経典だけど、ずいぶん訳し直しました。最後の4行詩が半端ないす。

コメント

  1. カエル より:

    マニカナ先生、こんにちわ

    パセナディー王もビンビサーラ王も人生の最期は同じ感じの伝承が残っていますが、仮に事実であっても恩讐を残さないで往生されたのではないかと推測できるのはお釈迦様の在家の弟子だからですね。

    玉座もまた泡沫のごとし
    実の息子に追い落とされるのもまたよし

    • ぎんた より:

      仮に、恩讐を残さないで往生したとしても、
      次どっかに人として生まれた時に、
      恩讐を残さなかったことは綺麗サッパリ
      忘れているのだと思います。で、一個前の生活をなるべく忠実に再現するので、一個前が、昆虫ならば、その前人間だった時を忠実にやるので、弾き飛ばされた先でかなり貧乏なのに、金遣い荒いみたいになるんだと思います。(お金持ちをやり続ける)

      • カエル より:

        ぎんたさま、こんにちわ

        両王の来世がどうかはなかなか断言できないですが、恨みをいだいてなかなか次にいかないで王国所在地に留まるという場合もあるのだろうけれども、お釈迦様の在家信者だから大丈夫じゃないかなぁ程度の推測です。

        • ぎんた より:

          カエルさん!ぎんたすっごくネガティブなので、お釈迦様すら大丈夫じゃ
          ないんじゃないかと思います。だって、悟ったことなんて綺麗さっぱり
          忘れていると思うから。。。もしかしたら、お釈迦様今頃インドで女性として
          アシッド・アタック(最近ニュースで知り、驚愕しました)にあってるかも
          しれないっっっっ!!!!そんなことがない世の中にしたいけど、今んとこ
          出来てないってコトは、今のところ「仏教の悟りは意味が無い」ってことだと
          ぎんたは思う!!!!もしかして、、、、
          アシッド・アタックされても、なんら気に留めないってのが、悟りの境地
          なの?違うよね??

      • mani より:

        ぎんたさま きびしいおことば。

        パセーナディ王も形なしじゃん(貧乏なのに金遣いが荒いって)。

        もしかしてコガネムシに生まれ変わったりしてる、ってのは?

        • ぎんた より:

          あ、先生、パセーナディ王って人については、ねこ、まったく頭に入って
          こないのでよく分りません。

          王様って有名人で金持ちだから、羨ましがられて、弾き飛ばされるから、
          来世コガネムシになっちゃって、その後、牛車に潰されて、人間になった
          時には、身体サイズが違いすぎるので、人間の中身がコガネムシってのが
          理解出来ずに、置かれた場所で前回人間だった時の王様やるので、男女は
          分りませんが、家事能力はないでしょう。なにか今世で縁起が働けばなんとか
          なるかもしれません。執事にスケジュール管理任せてたとしたら、それも
          厳しくなると思います。
          ぎんたみたいに、前世ねこだねーーーと気づけば気持ち的には楽になるので、
          みなさま(←神でほとけ)それぞれ設定を考えてやってみれば、
          ものすごい腑に落ち感を体験出来るでしょう。

      • 赤い実 より:

        先生、こんにちは!
        北海道にはじめて線状降水帯発生とのニュースを見ました。
        釧路のほうでしたね。
        北海道はゲリラ豪雨とは無縁だと思ってましたが、高温化の影響はやはりやってきてますね。

        〉それ故に、善行をなすべし。来世の功徳を積むべし。 諸々の功徳は、他の世において、生き物たちのよりどころである。

        最後の結論部分から。
        この「善行」ということの中で最も大切なのは、「傷つけない」ということになるのですね?

        • mani(管理人) より:

          赤い実さま

          線状降水帯はどこにでも発生するんですね。昨晩は、こちらでもかなりひどく降ってましたよ。

          >この「善行」ということの中で最も大切なのは、「傷つけない」ということになるのですね?

          そうだと思います。相手を傷つけない、って難しいですよね。
          消極的に見えますが究極の技のような気がします。

          • 春間 則廣 より:

            >>この「善行」ということの中で最も大切なのは、「傷つけない」ということになるのですね?
            > そうだと思います。相手を傷つけない、って難しいですよね。
             

                 傷つける という意味  は  共有されていますか ?

              もし、 そうであっても、

             「 私は傷つけられた 」 と 言われたとき、言ったとき

              それは、 牟尼の言う “ 傷つける ” と
                   同じ意味となるわけではありません 

              このように書き込むこと は

                あなたの意図 を 傷つけることになりますか ?

                  糸 が こんがらかる ことになりますか ?

          • 赤い実 より:

            先生、ありがとうございます。

            〉そうだと思います。相手を傷つけない、って難しいですよね。 消極的に見えますが究極の技のような気がします。

            ほんとに難しいですね。
            ただ、自分が傷つくことは嫌なのだから、自分がされると嫌なことは人にしない、というのは、自分にとっても結果として良いものになるというのはあると思うし、その方向でならなんとかできるかな、と私などは思ったりします。

            経典を拝見して思ったのは。考え方や言動を整えていくことでしか、本当の意味での自分への愛しさは手に入れられないのだなということです。

            ? この理解の方向って合ってますか?

          • mani より:

            赤い実さま こんばんは。

            >自分がされると嫌なことは人にしない、というのは、自分にとっても結果として良いものになるというのはあると思うし、その方向でならなんとかできるかな、と私などは思ったりします。

            そうですよね。「自分がされると嫌なことは人にしない」というのは、日本人が守ってきたことですよね。けっこう、「人ニしない」というところ難しいような気もします。
            キリスト教だと、「隣人を自分のように愛しなさい」となるんですよね。これも大事なんだけど否定形のはいった文を守るって難しいですよね。

            >? この理解の方向って合ってますか?

            すばらしいと思います!押しつけない 優しさ みたいなのがいいですよね。

          •  春間 則廣  より:

            > 自分が傷つくことは嫌なのだから、自分がされると嫌なことは人にしない、

                心の傷は 修復できる

              傷つけてはいけない  ということは    五蘊 での話
              傷つくのは嫌だ     というのも  同じ  ↑

               心の問題 を   “ その心 ” では  解決できない
                 いや      解決できる と    解決してしまう ???

             ( 傷は癒えても 病は 別の ところ・こころ に 起きている )
             (     誤った 心・やまい で 解決法を探る  、、、、   )

                心には 実体がない から 便利な面もある

            > というのは、自分にとっても結果として良いものになるというのはあると思う

               思う 通りに 事が運ぶなら      解決できる

               良い悪い  とは  良い考えである !

          • mani より:

            >良い悪い  とは  良い考えである !

            そうだと思います!
            だから、お釈迦さんは倫理(何か善いこと)を求めたんだなあと思います。

      • mani(管理人) より:

        ぎんたさま こんばんは。

        お金持ちをやり続ける生き物もいるかもしれないけど、学習能力の高い生き物だと、すぐ適応するんじゃないかな。
        壮大な実験場ですよね、輪廻は。

        • ぎんた より:

          >壮大な実験場ですよね、輪廻は。

          本当、その通りだと思います。貧乏で喧嘩が絶えなかった夫婦が、
          次、弾き飛ばしでお金持ち夫婦になったとすると、せっかくお金持ちに
          なったというのに、お金のことで喧嘩ばっかりになったりするので、
          危険です。

          なので、とにかく仲良い夫婦を目指すのは大事だと思います。
          最悪「仮面」でもいいので、殺さないほうが自分のためだと思います。

          今世のこの環境で、最大限幸福度を広げるように頑張るといいと思います。

          ねこも、全ねこ(=ニャントロ星人)のために頑張る。

          お釈迦様って適応能力無かったから、出家しちゃったんじゃないですかね?
          裕福すぎるの凄く違和感あって。←それで出家したのだから良かったね!?

          • mani(管理人) より:

            ぎんたさま こんばんは。

            夫婦になったんだったら、金持ちでも貧乏でも、どっちにしても仲良く暮らさなきゃね。何回も結婚するかもしれないし、って思ったら、仲良くするしかないか。

            >お釈迦様って適応能力無かったから、出家しちゃったんじゃないですかね?

            そうかもしらんねぇ。出家してよかったよ、人類のためには。ありがたいありがたい。。

    • mani より:

      カエルさま

      >恩讐を残さないで往生

      そうですよね。パセーナディ王は、他人と自分に「愛しいもの」として振る舞ったはず。。
      違ったら怒るから。

      >玉座もまた泡沫のごとし
      >実の息子に追い落とされるのもまたよし

      だから、仏教はなくならない。。

      インドって、『マハーバーラタ』もそうだけど、血縁が大事じゃない国だよね。
      輪廻が行き届いた国だなぁと思います。

      •  春間 則廣  より:

        *

        > >良い悪い  とは  良い考えである !

          これは 良くない  という例 の 表示なのです

          
          善い・悪い  という 「 商量 」(自己に起きる裁量)を       

          廃しなさい( それまでの経験による判断 を 疑問視する )

             ということが

          「 縁起 」 の 出発点 です

         (  「 縁起 」 は “人の心” に起きるから 、、、、 )

          いつであろうと、どこにあろうと(どこへ向かおうと)
            そこが  出発点であり、帰着点である

                      ・・・・・・・・・・・・・
            あらゆる方角にさまよっていくのが心であるとしても、
             自分よりももっと愛しいものにたどり着くことはけっしてなかった
                      ・・・・・・・・・・・・・

           どの方向へ ・ 何処へ であろうと 心は そこに赴くことができる 
            その  どこにおいても  “自ら” というモノ が 存在している
          何処に辿り着こうと そこには 自分という ひとの存在がある

          そして  辿り着く処に存在する   「 人 」 は
               自分自身 というモノ を 存在の中心とし
           自らの裁量をもってして 自らの存在と他と を 区別 し
               その区別   に   依拠することにより
           愛しい・愛しくはない の   虚理・距離  を 量る

           どこにおいても 中心は ゆるぎなき(最も愛おしい)自己である

             (最も愛おしい)
           一番大切な基準点 として ある・存在する 自己
           その 愛おしさ     から  人は 離れがたい

          何処に於いても それぞれの中心である  自己 を 発見できる
          ( 発見するモノ が 自己であり  発見されるモノ が 「 他 」 )

           「 自 」 があって  「 他 」 がある   ということは
           「 他 」 がなければ 「 自 」 というモノ は 存在できない
            ということとなる   ( 自他は “ 縁起 に 起きる ” )

           「 他 」というモノ は
           「 自己 」 が 反映 する(した) モノ なのです
         ( 中心 を 成り立たせている   周囲 という 反映物  )
          反映の 根拠(中心) が 最も大切な(失い難き) 「 自己 」 

            「 自己 」 と 反映物  とは  縁起に起きている

          「 縁起 」 を知る者 は 「 自己 」 という 中心 を 知る

          自己を知る者 は   「 他 」(反映物) を 知る

           問題 は  知ることの無き自己 に 起きる

         自己の知ることが適う のは  問題である 「 他 」 のみ 
            ( 問題がない   と    自己裁量に照らし合わせる )

        Su.855 (799・842)
           ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 189p・180p. )
        「  平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない  」
        「  智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない  」

            大切さ  から   遠離 する

          ・・・・・・・・・・・・・・

           善い・悪い  という 判断の根拠 から “ 遠離 する ”

             「 遠離 ( 一切 )  顛倒夢想 」
          菩提薩埵依般若波羅蜜多  ・・・・・ 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

         < 注意 ! >
            遠離一切顛倒夢想  という   一切の中 の 一つ

        ( 何故 一切を付加するか  という点に起きる  玄奘 の
                    「 唯識 」 上の解釈 により 起きる問題点 )

             論理的 に 矛盾する   重ね合わせ( 自己 の見失い )

         ここを知る 自己に起きている
                矛盾  を    「 瞑想 」 に 覚する

        • mani より:

          > これは 良くない  という例 の 表示なのです

          良いという例の表示かと思いました。

          >善い・悪い  という 「 商量 」(自己に起きる裁量)を       
          >廃しなさい( それまでの経験による判断 を 疑問視する )

          「廃した」あとには再び良い・悪いの判断がやってくるでしょう。
          それを言ってるのかと思いました。

          いったん商量を捨てても、現実に生きていくとき、やはり守るべきは善悪の内の善ということになるのでは?と思ったのです。

          「凡夫が如来を称賛して語るとき、わずかなこと卑近なことのみを語る」とみずからブッダが語ろうとも、現実の世においては戒を逸脱しないブッダがいます。だから、わずかなことしか分からない凡夫の目から見ても、ブッダは優れているのです。

          つまり、ブッダを称賛するのは、凡夫であり、声聞であり、菩薩であり、ということだと思います。

          •  春間 則廣  より:

            > いったん商量を捨てても、現実に生きていくとき、やはり守るべきは善悪の内の善ということになるのでは?と思ったのです。

                   “ 現実 ” って 何ですか ?

                仮・虚 ではない  ということですか ? 
                 ( 現実から遠離して )
               わたし(?) は 虚・虚空 に 生きている

               善悪 とは  「 世間 」 の  “ 商量 ” ( 価値観 )

               善悪がある限り において、 善から “離れれば”  悪となる

              Su.762 ( 衆 の  「 安楽 」 ・ 善 )
              「 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。 」

              わたしは牟尼 ではないから
               ( であろうと 、 それを決めるのは あなた )
                          「 安楽 」 に 生きている

          • mani より:

            春間さま 

             >わたしは牟尼 ではないから
             >  ( であろうと 、 それを決めるのは あなた )
             >            「 安楽 」 に 生きている

            わたしは善悪に生きている ということです。

          •  春間 則廣  より:

            > > わたしは牟尼   ではないから
                ( であろうと 、  それを決めるのは あなた )
            > >  「 安楽 」 に 生きている

            > わたしは善悪に生きている ということです。

              わたしは牟尼ではない      と言っている “わたし”
                  と
             わたしは善悪に生きている   と言っている “わたし”
                  とは
             同じ “わたし” でしょうか ?

              同じではない から 認識上の違いが生まれ出ている
                 のか
              同じであろうと    認識 とは 違いを作り出すモノ
                 なのであろうか

               “わたし” という言葉 の 意味することは
             一人の人の 認識に在って そこに在る人 を意味するのか
             人 の  普遍性 に 基づいて  「 己 」 を 指し示すのか
             或いは  他を排して       「 己 」 の 独立性を指すのか

              共通認識における  「 己 」 とは いかなる共通性 に
                  基づいて      為されているのか

             「 共通 」 している という  テキスト を 
             「 平等 」 である  と   言い換えることが  可能です

            ( もし 不可能な場合がある のなら 教え “諭し” てください )

                ・・・・・・・・・

            善悪 が 起きるところ とは 「 生 」の上です( そこに於いて )
            ( 人の生 は )   共通性・平等性 に 基づいてはいませんか ?

              この“わたし” は 善悪 をパーラーした  生に生きている
              これを読む“わたし” は 善悪の中で生きているのですか ?

               人によって “わたし” という 意味が 違うのであれば
                 その違うところを 示し     “違い” という
              共通認識 を 持つことが出来るように 紐解いてください

             “わたし” と  言う
             「 己 」 の 認識から 「 他 」を排することは可能 ですか?

              “わたし” とは    管理人エム 様 を指したり
              対象となる  牟尼ではない者 とされる者 を 指したり、、、、

               指すという認識の主体  とは あなたなのかわたしなのか

                 論理的 に その存在 を 際立たせてください

                ・・・・・・・・・

               わたし は 善悪 に 生きているのでは  ない
                            ( 生きてはいない のです )
               「 善 」 のみ 或いは 「 悪 」 “のみ” に 生きている
                 (  一つしかなければ  善も悪も  ない   )

                ・・・・・・・・・

                二つある  ゆえに   個々がある

               一つ ということは    「 平等 」 を 指し示す

             個々に 此処に    「 平等 」 が あるのであれば
                ココ ハ   一つ であり   二つという差異から離れる

              善悪 とは 善と悪 という 差違の総合的表現  ですか ?

             本当に ( 本当は 本当には 存在しないけれど ?? )
               善悪 とは  存在するものですか  ?

             その差異 を 際立たせるのが   牟尼の存在なのか
                牟尼 が 存在するのに どのような必須条件があるのか

              牟尼ではない者 の 立つ処 から 考察してみているのです
            (その為には 牟尼と牟尼以外 との 差を示さなければならない)

                  ゆえに

              牟尼ではない という( 無二 ではなく 有一 から )

              表現する 立場から の   書き込みを為しています

          • ぎんた より:

            春間さんの言ってることがさっぱりわからないんだけど、
            普通「わたし」っていったら、今この文章書いてる「わたし」じゃないかな。

          •  春間 則廣  より:

            > 春間さんの言ってることがさっぱりわからないんだけど、

              ( すべての人には )
                わかるようには 書いてはいない  のですから
                      わかりたくない人  には
                 分からない ということが (  ごく自然に ) わかる

                 しかし  わかりたい人   は
                       わかるまで  わかろうとする

                ( この文章の意味が わかりますか ? )

            > 普通「わたし」っていったら、今この文章書いてる「わたし」じゃないかな。

               この文章を書いている人  は  この文章を読む人
              (  つまり 書いている人  の  存在を探すのは 難しい )

               読んでいる人 は   読んでいるのが “わたし” だと
                何の不思議もなく  思う( そこに 間違いはない )

              此処には 書いている人( 記述者 ) は 存在せず
                     読む人 は 存在を否定されることはない

                  読んでいる人 とは  “わたし” なのです
                 書いている人  は  存在に 不思議があるけれど
                  書いている人 は  読みつつ、書く から 
             読んでいる “わたし”  に 疑問を持つことはない

               ( 仮に 存在を覚していても ) そのことは 記述として
                  「 覚 」 の 存在を 明かすようなことはない
                ( 明かしたとしても、 読む人 の  「覚」 に
                          照らし合わすことができなければ
                               認知できる 構造に ない )

               冷たいコウリ に  触れようと
                   冷たさ に  触れたことがなければ
                その冷たさ を    冷たい と 表現しない

               熱さ の 定義(程度) で あらわすしかない

              “わたし” に 触れなければ    “わたし” とは
                       触れたことがない  存在  でしかない

               読んでいる(聞いている)  “あなた”
                     が        必ず “わたし” なのです

               これが 普通の事  であり 

                牟尼 以外は “わたし” のことを 知る由がない
              ( もしあれば そのことにより 牟尼 と 呼ばれる )

               牟尼 に   出会ったことが  なければ 
                       牟尼  という   存在はない

               あったことがないこと  を  あたかもあった
                       ( かのごとく )  悟得 に   
                 書き記されている のが  この記述です 

               これ を 読む   “あなた”   と
                記述している   “わたし”   の
                          “  即近  ” で 読んでいる “わたし”

                 どれほど近かろうと   道程は遠い 、、、、
                          ( わかり難きことなのです )

          • ぎんた より:

            えいっっっっっ!!

            「爆発だッ!タローマン」タローマン合唱団

            これでもくらえ!!!!!

          •  春間 則廣  より:

            >      しかし  わかりたい人   は
                       わかるまで  わかろうとする

               わかるように 記述することは  出来ないことではなく

                 しないこと  なのです 

            > > 普通「わたし」っていったら、今この文章書いてる「わたし」じゃないかな。

              あなたは 普通の人と 交わってきたので
                     普通ではない 人に ( ことに )
                     耐性 が 無いのです
              普通 が そんなに良ければ   普通に生きて行きなさい

                それでは 生き辛い から 普通ではないことを 望む ?

               わたしは   読みながら書き 書きながら読む
                しかし  読んでから 書いている  と 知っている

                  その 知りよう  を 書いているのです  
                ( 知る ということは 智慧を得る ということです )

              “普通” では 読めないのは 智慧が記述してあるからです

              (  どこのなにさま に 智慧がある  って ?  )

                 笑って 投げ捨てれば いいんじゃない ?

                      ・・・・・・・・・・

              頭の中を 読むと 書くことが 見えてくるのですが
               あなたは 書いてあること しか 読まないようです

             読んでいる あなたの 頭の中  を  読みたくはないのですか ?
                書いてあること を 読んでいるのではなく
                読んでいること が 書かれていて
                書かれていること  とは あなたが読む その読みように
                  意味が 発するのです ( 自分を読んでいるだけです )

                あなたが分かる という意味は   あなたの思考 に
                   物事は 沿って起きている   ということであり
               そうであれば  ワザワザ 読む 技 を 磨く必要はありません

               磨かなくとも その技で すべてやってきているのだから 、、、、

              「 わかるように 書け 」 って 言いたいのは 分かります

               わかるように書けば わかるのですか ?

               すでに  あなたは わかった道に沿って
                     歩んできた  のではありませんか ?

               そのまま わかる道筋 で 歩みなさい

                 わたしの道 とは あなたが歩みたくない道  です

              わかる ということは あゆんだ後 に 起きてくることです

               わかったから わかった道を 歩めるのであれば
               その分かり方( 歩み方 )で
            ( わかったことを積み上げて起きている )
                わかる道を歩めばよいでしょう

              わからないこと からは 離れる  のが 賢い歩み方です

          • ぎんた より:

            うにゃ~~~~???
            頭の中といっても、今は

            同じことを繰り返すくらいなら死んでしまえ とか、

            「なんにでも牛乳を注ぐ女」とかがぐるぐるしているだけなんだが、、、、、

            気に入ったものに、ちょっと課金する、とか位しか思いつかないけど?

            前にヨレンタさんの「私はここまでなので」て書いたのけっこう強く
            作用してると思います。

  2. カエル より:

    ぎんたさま、こんばんわ

    お釈迦さまは奥さんと子供を捨てて出家したので、カルマでインド女性に転生させられる流れはあるかもしれないし、さらにアシッドアタックを受けるカルマもあるかもしれないし、ないかもしれないし、あったら2500年の仏教が滅びるレベル(笑)

    忘れ必要があるのが輪廻。忘れる必要すらなくなるのが輪廻からの解脱なんですかね〜
    解脱しないとわからないですね〜

    • ぎんた より:

      カエルさん!!今更なんですが!悟りと解脱ってどう違うんですか?
      悟ったから解脱できるのでしょうか?

      あと、お釈迦様の奥さん(←神でほとけ)のお腹の中の子(神でほとけ)は、奥さんのお父さんの国王だと思います。めでたく懐妊したんで急いで釈迦族んとこに
      嫁に出したと思います。
      もし、長男生まれたら、自分の実の子が国を治めるという寸法。。。

      そのくらいのことは平然と出来るのが、あの時代の国王(神でほとけ)だと思います。娘なんて、政争の道具でしかないんでしょうから。
      お釈迦様もそれに気づいて名前ラゴラにしたのだと思います。

      あ、これみんな知ってるのに言わないで、空気を読めないぎんたが言っちゃって、
      (あ~~~みんな黙ってたのにぃ)みたいなやつですか?

      • カエル より:

        ぎんたさま、こんばんわ

        何かを悟ったのが原因で、輪廻から解脱したのが結果だから当たり~じゃないかな

        • ぎんた より:

          なら、良かったです。

          あ、文章間違えた。

          奥さんのお腹の中の子の父親は、国王、だった。

        • カエル より:

          愛しいものは自分の他には自分の子供かも
          しかし男の場合は古代インドの両王のように息子に追い落とされる潜在的敵対関係があるので愛憎は深い
          動物とオスと同じでサル山のボスや群れのリーダーなら地位を脅かす存在

          • mani(管理人) より:

            カエルさま

            現実は罪深いっすねえ。。
            だからなのかなあ。。インドは、血のつながりを重視しない傾向があるんだなあと思います。聖者や神とのつながりを重視しますね、『マハーバーラタ』とかだと。

  3. カエル より:

    マニカナ先生、こんにちわ

    お釈迦さまもイエス・キリストもことさらに血縁を否定しますね。キリストが聖母マリアをこの女性と言うのはなかなか。

    昔の方が血縁社会の規範や締付けが重いからなのかなあ。

    現代日本みたいに核家族化している社会でお釈迦様だったらどんな実践論をするかな。

    でもラフラにはわりと気にかけてる感じがするから所詮は修行に集中するための方便のようなw

  4. 赤い実 より:

    先生、お邪魔します。

    ふと浮かびました。
    空は、世界を柔らかく再構成して認識させてくれる魔法みたいなもの?
    理論的な詳細を語ることは私にはできないけど、そんなことが浮かんできて、心が軽くなる思いがしました。
    中論を読めたらいいなと思います。

    • mani より:

      赤い実さま

      >空は、世界を柔らかく再構成して認識させてくれる魔法みたいなもの?

      ああ、そんな感じかなあ。わたしも、よくはわかっていませんが、それでいいような気がします。「心が軽くなる」って、空のねらいのような気がします。

      がんばって、空の論書、「中論」を解読して出しますよ!

      え?だれ? 「不安だ」なんていってる人?
      もうちょっとでわかる筈なんだから。。ねっ!

      • 赤い実 より:

        〉がんばって、空の論書、「中論」を解読して出しますよ!

        執筆されてるのですよね。
        いつか出版のお知らせが先生から出されたら嬉しくなりそうです!
        先生が出されるのは高度な本で私には理解できるわけないと知りつつ、やはり嬉しくなると思います。

        それまでに少しでも前理解ができたら…読めるかも?可能性低いな…

        • mani(管理人) より:

          赤い実さま こんばんは。

          >いつか出版のお知らせが先生から出されたら嬉しくなりそうです!

          がんばろう、っと。
          赤い実さまが十分理解できるように、書きたいと思ってます。。
          きっと理屈は通るはずだと思ってます。

          たぶん、わたしたちでも理解できるような結果になっているはず、だと信じてます。