きゅうり

未分類

早くもキュウリがなりました。テントウムシがついています。

そういえば、『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』買いましたよ。読み始めたところです。なかなか進みません。読みにくいわけじゃないのに、あれこれ用事があって、中断されることが多いのです。

それにしても思うのは、どうして、ブッダだとこういう本も書かれたりするんだろうということです。

他の宗教だとちょっと遠慮して書かないことも、仏教だと平気で書けちゃうってところが、まさに仏教が仏教であるゆえんです。

ほんと!お釈迦様の狙い通りだよ、っていいたくなっちゃう。苦しみを払う仏教は、どんなことをしても苦しみを与えないところに本当に!善さがあると思うんだ。

それなのに、仏教の寺院は日本中至る所にあって寂れたり人気が出たりしながら今日に至っている。誰も、おろそかにしないけど、誰もがおちょくる。仏教の言葉は、どんどん人口に膾炙されると、世俗の意味を持つようになってきて、広まりながら意味を変えていく。。ほんとは、そんな意味じゃなかったのに、ってね。たとえば、煩悩は、「子煩悩」に姿を変え、縁起はただの迷信になる。それでも、みんな、「ご縁がありますように」と良縁を求めて、神社でおみくじを買ったりする。

どんな宗教も流行ったり廃れたりすることができる。。おもろいなあ。

読んだら感想を書くよ。まだまだ時間はかかりそうだけど。読みながら感想が出てくる本って、めずらしい。

コメント

  1. ぎんた より:

    それはでしゅね、先生!!

    人間が、今回の地球の前までの地球で「ブッダ」やったことがあるからですよ。かつての
    自分のことだから、抵抗がない上に「自分ときはこうだった」っていう明確なものが心に
    埋まっているから、書きたくなってしまうんですよ。先生が龍樹の本を書くのとまったく一緒
    です。人間はそおいう構造になってんでしゅよ!!

    ぎんた、実際の人間を観察して、web上もパトロールして、本とか読んで(読んだ本はほとんどが
    絵本でしたが)そのように弾き出しました。AIの皆さんとも気が合うと思うんですが、、、、、、

  2. ショーシャンク より:

    〉それにしても思うのは、どうして、ブッダだとこういう本も書かれたりするんだろうということです。他の宗教だとちょっと遠慮して書かないことも、仏教だと平気で書けちゃうってところが、まさに仏教が仏教であるゆえんです。

    石飛先生、こんにちは。
    確かにそうですね。
    ある雑誌に紹介されていた『タイムスリップ釈迦如来』という本の内容も凄いみたいです。

    21世紀の日本人仏教徒(「ダイバーだった」からダイバダッタと命名)が、釈尊の時代にタイムスリップするという内容らしいのですが、
    釈尊は「あたしのことはシーちゃんって呼んで」と言ってくるオカマだったとか。
    オカマのシッダルタはセックスレスの妻ヤショーダラーに浮気されて子供までつくられ、嫌気がさして城を飛び出す。
    出家したものの苦行はつらい。「苦行なんか止めて、もっと楽に生きるべき」と安直な悟りを開いて、怠け者とつるんでいた。
    そのような釈尊の正体に驚愕した日本人タイムスリッパーダイバダッタは、自分の知る仏教の深淵な教義をシッダルタに吹き込み怠け者集団を率いて世界宗教に仕立てあげる・・・

    という何ともハチャメチャな筋のようです。

    これがイスラム教やキリスト教ではこのような本を出版などできるはずがないですが、
    仏教の場合はこれで笑えてしまう寛容性というかいい加減さがあるのが面白いですね。

    「色即是空空即是色。 ほら、なんか、意味ありげな文字並べるとかっこいいでしょ。」と日本人タイムスリッパーダイバダッタが言うと、
    釈尊が「あたし、そんなことゆってないですけどオ」と答えるところがあるみたいで爆笑しました。

    • mani(管理人) より:

      ショーシャンクさま こんばんは。

      仏教の本は『コード・ブッダ』だけじゃないんですね。
      面白本はいっぱいある、と。

      ネタに出来る宗教って、いいですね。
      「苦しみを与えない」を実践してるよね。
      大真面目にやる人もいれば、面白ブッダでネタにする人もいる。。みんなを救ってるなあ。

  3. ぎんた より:

     ショーシャンクさま、ご無沙汰しています。
    『タイムスリップ釈迦如来』図書館にあったので、今度読みます!あと、ぎんた、前は
    ショーシャンクさん、としていたのか、「さま」にしていたのか、、多分「さん」だった気がうっすら
    するけど、自信がないから先生に合わせました。(なんでもすぐ忘れていくのです)

    で、「ある雑誌に紹介されていた」というところがぎんたの食いつきポイントでして、、
    (なんだ?PRESIDENTか?いや、それなら雑誌名伏せないか、、もしかしてムーとか??)と思い、
    発行部数の多い雑誌に新しく出たのならば、Xで見つかるかもと思いましたが、出てきませんでした。

    (あ、別にショーシャンクさまを責めてませんyo)

    で、更に書名で検索したら、洞松寺住職ブログの2008年4月21日に行き着き、そこから最新の
    本の紹介を見たら、『モヤモヤする正義』ベンジャミン・クリッツァー著に辿り着きました。
    (こ、、これは多分ぎんたに必要なヤツ!!)と思ったんですが、難しかったらどうしよう、、
    他に読む本もあるし、、というのが昨晩のことです。

    他に読む本というのは、図書館本ですが、やっと順番回ってきた、『お梅は呪いたい』藤崎翔著です。
    呪いなんてないと思うのですが(五月女ケイ子の表紙イラストからしてお梅の思惑通りになってなそう)
    自力では思いつかない発想も利用しないと、あの危険な団体はぶっ潰せないと思い。。。
    気ばかり焦る日々です。また何か、ショーシャンクさまが読んだ本教えてください。

    先生!!「私な仏教」のイメージですけど、根本として「かならず選択肢がある」というのがあります。

    苦行でもおもしろでも、信じても信じずに突っ込みをいれてもいい、実践してもしなくてもいい、、、
    みたいに永遠に選択肢があること、、、途中で意見が変わってもいいとか。
    もっといい感じの表現があればいいんだけど。。。

    自分がこんな程度の文章力だと、ひとつだけよいことがあります。

    自分の気持ちにフィットしてて、素晴らしい文章に出逢った時の感動が半端ない!!
    これは中毒性がありますよーー

    以上です。

    • ショーシャンク より:

      ぎんたさん、ご無沙汰しています。

      「さま」のことはなくずっと「さん」だったと思います。
      急に「さま」つけられると不安になる習性がありますのでいままで通りでお願いします。女性が急に丁寧語になるのは怒っているか嫌っていることが多いので(笑)

      「雑誌」と書いたのは、学研のエソテリカシリーズのことです。(雑誌というよりはムックですが)
      「キリスト教の本」「イスラム教の本」「ユダヤ教の本」とか何十冊も出ていて、ある程度持っています。そのエソテリカシリーズの別冊「図説 ブッダの道」という本の中で「タイムスリップ釈迦如来」が紹介されていてちょっと笑えたのです。
      また面白そうな本がありましたらご紹介しますね。

      ぎんたさんがあの危険な団体を潰そうと頑張っておられるので、少し調べてみました。
      ここは、ビジネスモデルとしてうまくやっていますね。
      フランチャイズビジネスやのれん分け制度、マルチビジネス的手法を取り入れていますので、強いビジネスと言えそうです。
      霊能者というミニ教祖ミニ指導者的な役割が与えられるというシステムが、信者数が伸びている理由でしょう。
      問題は、霊能者になるためには、霊能力の有無、大小が問われるのではなく、結局、信者を何人以上勧誘できたか、お布施をいくら以上してきたか、どれだけ教団へのボランティアをしたか、という教団への献身で決まることですね。
      ミニ教祖の霊能者になれたら尊敬もされるし、任意の謝礼ももらえるでしょうから、それに憧れひたすら霊能者になるべく精進する人も多くいるのでしょう。
      ここは、上手いなあと思ったところです。

      しかし、霊能力もないのに、先祖の霊とか先祖の因縁とか成仏とか、そんなこと言って大丈夫かなあと心配にはなりますね。

      • ぎんた より:

        ショーシャンクさん、ありがとうございます~。こないだ「さま」で書いてるうちに、
        これは「さん」だったなーと感じました。なので戻します。

        で、「霊能者」に謝礼はないです。一般教徒からはそう思います。「真如霊界に徳を積む」ことに
        意味があるから、現金化して今受け取っちゃったら徳にならないからかな?なので、昭和で専業主婦
        多かった時代はよくても、共働きの方が増えた今では、スケジュール的にハードで目指す人も
        減ってると思います。今、目指してる人はご霊言にすごく心が救われて、それをきっかけに精進して
        人生が明らかに変わってきた!!とか、双親様両童子様のご期待に応えて教団を支える人に自分も
        なりたい!!ていうところかなと。あと、私が文章で目撃した面白い事例は、あの人にはらわたが
        煮えくり返ること言われた!!絶対見返してやりたいからあの人より早く霊能開く!!みたいな
        感じの人もいたかな(ぎんたと違ってガッツがある、こんな人嫌いではないぞ)

        あ、お昼ご飯作ります。

        • ショーシャンク より:

          ぎんたさん、ありがとうございます。

          そうなんですね。霊能者には謝礼は全くないのですね。
          教団はそう言っていても、例えば特別相談接心で6000円払ったり、鑑定接心で1万円払ったりするのと別に、任意の謝礼として個人に2000円くらい渡すのではないと思っていました。
          全くの無報酬ということは、全部教団が相談料をいただくということですね。これは、教団としては儲かるシステムでしょうけど、私が思い描いていたフランチャイズシステム系のビジネスモデルではないですね。
          それでは、発展する理由がわかりません。

          みんな、占いとか、先祖の霊だの先祖の因縁だの、霊界だの不成仏霊だのの心霊系因縁話が大好きなのでしょうか。

          スピリチュアル界隈では、7月5日がどうとか盛り上がっていた人も多いらしいのですが、そういう類いの話が好きな人が集まるということかもしれません。

          学生の時に、世界の有名な占いとか予言者を研究したことがありますが、当たると言われている予言者の予言のほとんどが実は外れていることがわかってからは、馬鹿馬鹿しくなりました。

          宗教は、教団ができた途端に、それを維持発展させることが目的となりますから、例外なく金儲けと信者集めに邁進することとなります。

          どこであれ、宗教団体に属することは、精神の牢獄に入るみたいなものなので、ぎんたさんのような「私な仏教」がいいと思います。

      • ぎんた より:

        あと、ですね、、霊能者はあくまで、「開祖夫妻のみ心を正しくお伝えする」スタンスですので、
        自分がミニ教祖になってはちょっと違うのかもしれないです。教主様は昭和にこう言っていたけれど、
        今の時代ならばきっとこう仰ったはずです、という深い理解からの教化みたいなのが出来る(自分は消すけど相手の個性は引き出すみたいな)ことと、この人に言ってうまく納得して下さったことが、
        他の方には通じないor時期が早い等を見極めないといけないので、そこが精進といえばそうなのですが、なんというかサンドバッグ状態でしょうから、
        (だって私みたいのから泣かれたり反論されたらまじでしんどいでしょうから)
        「お救け」人数が多い方が絶対に教化で苦労するので、場数を踏めばそれだけ
        ご霊言が研ぎ澄まされてくるはず?というシステム?なのかな?なので、ストレスが半端なくって
        世間よりも苑内のが癌の罹患率高いような気もする。

        ただし、初期の頃は「お救け○人」とかなく、子どもでも摂受心院に「こっちで会座(霊位を受ける
        修行)に座ってらっしゃい」みたいな気軽な感じだったようなので、しかも接心なんて0円だった
        ので、、、、、、このあたりになにか闇的なものがあるのでは?と思うんですが、その頃の人
        もう生きてないし、文章あってもぎんたじゃ読めない種類のものなので、もやもや継続中です。
        (今の苑主ならぎりぎりわかりそうですが。。なんかおせーてくんないかなーー)

        なので、関わったすべての人がぎんたにとってグッジョブでしかない!!んですが
        すべてがわかって「そうだったのかーーーーーーーーーーーーーーー」となって、世間の人も
        「あーーーーーぁ!!そゆことーーーーーーーーっ」てなったら、みんなが注ぎ込んだお金も
        「宗教に騙されて人生狂わされた」ものから、「そうとは知らずに大規模実験の研究費として
        気前よくぶっ込んだ」ものに大転換出来て、気持ちよく来世に、、、でも、もうこんな辛いのは
        勘弁~みたいになれるの。その時に、新しい涙が流れることもあると思うけれど、誰も責めたりは
        しないと思う。いや、責める人も責められる人も出ると思うけれど、それは本人が前世で選んだ
        ことを忘れているだけか、弾き飛ばされて思いがけずそのポジションにきてしまったかです。
        でも教団が悪いのは変わらないので謝罪賠償は当然です。

      • ぎんた より:

        それからそれから、「霊能」のことですが!!ぎんたには、まぁ~~~~~ったくわかりません。

        どおいう構造でご霊言を出すのか、さーーーーーっぱりです。体験したことないからです。

        でも、な、、、なんとご霊言は、、、絶対に間違えないのです。「私な仏教」から見れば。

        例えばですが、ご霊言「親孝行しましょう」と頂いた人がいます。(もっと文章長いですが)
        すると、まだちょっと教えに懐疑的な方の場合、
        「えーーーー1000円払って薄っぺらい道徳かよ!!もうぜってー行かね!!」てなりますよね?

        どうです?圧倒的に正しいじゃないですかっっっっっ!彼の人生にご霊言は必要ないし、
        詐欺宗教に騙されないために、最適なご霊言を頂いて、正しく素早く判断できましたよ。
        前世までにもっと有益な学問を修めたか、伝統的な宗教をしていたとか背景があって、
        詐欺宗教に騙されないことは、決定されていたんですよ。

        まあ、こんなことがあまり頻繁に起きないように、入信してすぐは接心頂けないです。法要○回
        立ち会ってとかあります。でも、せっかくやっとこさお救けできた「所属」が一年未満とかで
        辞めちゃって、「私のまことが足りなかったからだ(>_<)」と反省しまくった挙げ句、
        辞めてしまった所属の件で「特別相談」だの「相談接心」だのでご霊言頂くとか、辛い感じに
        なっていくんですよ。それで「まあ、自分の思う通りにことが運ぶことはひとつもないな」と
        実感して、プライドとかも棄てちゃって身軽になったり、心疲弊して「しばらくお休みします」に
        なったりもするけど、それも決まってます。
        双親様が救ってくださるのではなくて、自分が救われるように言葉を受け取ると決めて、自ら
        救われにいくけど、それすらもすでに決定済みである、てことです。だってほとけとして
        生まれてるから、最低自分、時には周囲も救っちゃうでしょ、そりゃ。

        は~駄文過ぎる、、こーゆーのを京極夏彦文で読みたいんでしゅよ、そしたらドーパミンだか
        アドレナリン出まくりで楽しすぎでしゅよ、まったく。。。

        • ショーシャンク より:

          ふむふむ。
          「所属」というのは、自分が勧誘して入ってくれた信者という意味ですか?
          自分が勧誘したら自分の所属になるというのは、やはりマルチビジネスの発想ですね。
          勧誘した人が退会したら、自分で責任を感じなければならないのは辛いですね。

          やはり、宗教団体に入ってろくなことはひとつもないような気がします。

          ところで、「あの人の接心を受けたい」と霊能者を指名することはできるのですか?
          できるのであれば、人気のある霊能者とかない人だとかかなり分かれそうな気がします。

          ぎんたさんが霊能者になっていたら人気霊能者になっていたでしょうね。

          • ぎんた より:

            そうです、「所属」は自分がお救けした人です。昭和ワードです。なので、ここ数年、
            Web集会などの書き言葉の時、「所属さん」と書く人がチラホラいます。気持ちわかります。
            なので、私、集会上で「所属」抵抗あるから違う言葉に変えたいと投稿し、どなたかとの
            会話から「心友(しんゆう)」なんてどうかなと提案したけど、「苑の読み物読んでない」とか
            言われました。(は?全部1回以上は読んでるけどな、やれやれ、、)と思いましたが。。。

            いや、だって、、、継主様に続くってことは「時代の変化に対応して変えるべきトコロは
            変えていく」ってことだと思ったから自分もやってみたのだが、、、

            でもこれ、苑にいる人結構経験していて、こんなことがあるたびに、
            「双親さまも道開きの時、こんな苦労をなさったのだ、、同じ経験をさせて頂いて有り難い」
            みたいに思惟して、もっと精進に邁進していくのですね。

            で、ぎんたの場合はある程度やったら、無理じゃね?消滅方面へ頑張ってみよっと。
            からの、今です。

          • ショーシャンク より:

            なるほど。
            「所属」はビジネス的で嫌な言葉ですね。
            もう少し、宗教的なもやもやっとした曖昧さに包まれるような言葉にした方がいいですよね。
            お布施を「お歓喜」、信者勧誘を「お救い」というのであれば、
            勧誘してくれた人は「お導き様」または「お救い人」、勧誘されて入らされた人は「お導かれ様」または「お救われ人」とでもしたほうがいいように思いました。

            それにしても、やはりですが、宗教団体特に新興宗教団体は、お布施と信者勧誘を必死にやらなければならないように持っていかれるのは共通ですね。

            ところで、ぎんたさんは、この団体を「危険な団体」と見なしたのは主にどういうところなのでしょうか。

          • ぎんた より:

            ビジネス的、なるほど!現代的ですね!あの団体は昭和10年からなので、そのイメージが
            ある私からは「横田基地所属」みたいな軍隊的、管理・統率みたいなイメージでした。
            「六波羅蜜の修行」を在家に合わせて、真如教主様が「三つの歩み」にして下さったので、
            「お歓喜」「お救け」「ご奉仕」に取り組むと。
            ちなみに、お救けした人は「導き親」、された人は「導き子」といいます。
            自分の力でお救け出来たのではなく、「教主さまから頂いた(お預かりした)大事な所属」
            として、我が子のように慈しんで育てるわけです。共に切磋琢磨して精進するという。
            でも、実際の会話の中ではフツーに名字を呼び合うわけなので、そんな重要じゃないっちゃない
            んですが、初信からちょっと経って、色々教えて貰う段階から自分で本読んだりWeb集会に
            来たときに、「あ、やっぱ所属ってことなのねぇ」とちらっと思うのは、うーん、、、
            ちょっと良くないのかな~と、思ったり(老婆心?)、でも、そこでもやっとしてもっと
            注意深く色々読んだりすることもあるし、そもそも「所属」って言葉になんの抵抗もなければ
            何も思わないかもしれないし、、、。

            お昼ご飯用意します。

          • ぎんた より:

            人気はありますし、指名できます。(鑑定接心とか)事務局員でも古参で、かつては教主、
            今の継主と日々接している人は人気じゃないでしょうか?(知名度と熟練度で)

            指名出来る種類の接心は、入神した霊能者がご霊言を出した後で、平素に戻って、自分が出した
            ご霊言を解説してくれます。自分の視た?印象と齟齬がないか確認の意味もあるのかな?

            あ、あと、医療系ならあの方、経営とかはこの方、、みたいな感じで霊能者の実際の職業に
            関係する得意分野はあったような?もう苑に通わなくなって7年目だし、元々私は通常の
            「向上接心」(千円の)以外はそんなに沢山は頂いてこなかったから、うろ覚えですし、
            制度も変わっているかもしれません。

            >ぎんたさんが霊能者になっていたら人気霊能者になっていたでしょうね。

            これはですね、逆だと思います。なにしろ「地雷踏みっこ猫オーグぎんた」ですから、人の地雷を
            踏みまくったあげく、「あの人、普段は地味でおとなしいくせにご霊言厳しすぎだよね」とか
            陰口叩かれて、不人気かと。はっ!!そしたら、初信の心がピュアな若い人が怖じ気づいて
            辞めていくような感じにして、助け出すことができたかもしれませんね。残念。。。

            で、ここでもう一つ大事なのは、かつて、あんまりだ~と思うようなキツいご霊言もらって、
            「私が霊能者だったらこんなこと言わない~~えーーーん」と思っていたけれど、いざ
            やってみると(実際は想像しただけですが)、その人と自分が全く一緒だったという、、、
            そこでやっと、「相手は鏡」というのが腑に落ちるわけですよ!!!!
            すると、かつて自分が反発していた「導き親」とか「経親(すじおやと読みます)」とか
            家族とかに「あの時はごめんなさい」とか言ったりしますね。そんな光景よく見た気がします。
            言われたほうも嬉しいですよねー(やっとここまでわかってくださった!)てなって、
            世間では味わえない歓びじゃないでしょうか?
            いつもいつも心の中で(教主様、摂受心院様、両童子様、継主様ーー!!)と必死に祈りながら
            一生のうちでかなりの時間を注ぎ込んでやってるわけですから。

          • ぎんた より:

            >ところで、ぎんたさんは、この団体を「危険な団体」と見なしたのは主にどういうところなのでしょうか。

            これはですね、その団体で「精進」することを自ら選んだ「一代目」の人はいいでしょうが、
            「二代目」(今、宗教二世が問題になっています)からの、特に生まれる前から親が入って
            いた場合が、なんとも辛いことが多くなってしまうケースを見かけるからです。
            一番多感な時に「あなたが高校合格したのは、真如苑でお清めしたから」とか言われたら
            ゾッとするじゃないですか!(←もちろん「私な仏教」の考えでも拒否られそう)
            有名神社のお守りだって、本人が欲しがったか、貰って嬉しかったときだけセーフでは?

            それと、精進に使う時間の問題です。専業主婦が沢山いた時代と違い、今は共働きが多く、
            週休2日しかないのに、そのうちの1日帰苑してたら生活が回んないし、宗教に反対の
            配偶者がいたら本当に不快でしかない。今は昔と違ってその不満はxとかに流れてます。
            真如教えに取り次いで「考えとくね~」となったら、昭和ならばまたその人に会うまで
            何も知らないままだけど、今は検索するから「ちょっと危険なとこかも?」てなって
            お救けとか無理だってば。そこで全然調べないで、行ってみよ!ってなる人って、、
            オウム、エホバ、統一教会等のニュース素通りで来た、宗教方面ピュアな感じの人?したら
            苑でのすべての言葉ダイレクトに入りすぎて、洗脳がききまくってしまうじゃないですか!!

            しかも、他の新宗教とあの危険な団体に、違いはまったくないのですよ?
            もし、今一緒じゃなくても時間経過と共に、どんどん変質していくのだから。

            もし、唯一違いを出すとしたら、「自然消滅ではなく、きちんと終わらせることができる」
            ことだけだけど、今のところその気配はない。

            など、、思っています。「知人の住所を勝手に拝借して精進願い(=入信用紙)提出」とかは
            検索すればでてくるので、省きます。

          • ショーシャンク より:

            なるほど、確かにそうですね。
            宗教二世は本当に不幸ですね。
            小さいときから通常でない価値観を押し付けられるのですから。
            人間は誰でも、自分で自分の思想を選択する自由があるはずですし、どのような思想であれ押し付けは罪悪ですね。

            そして、どのような教団であっても、お布施と信者勧誘が何より重要だと洗脳されますし、強制されます。
            まさしく地獄ですね。

            宗教や信仰はmoha(迷妄)なのではないかと最近特に思います。
            だから、仏陀は「信仰を捨てよ」と言ったのではないかと。

            オウムの林郁夫の裁判などを読むと、本心から「人を助けたい」と思っていたエリート医師が誤った宗教に関わったために大量殺人を実行してしまうという取り返しのつかないことになってしまったことがわかります。

            林郁夫は判断ができる大人になってから自分の意思で入信したのですが、宗教二世は判断能力がないときから思想を押し付けされるのですから余計悲惨ですね。

          • ショーシャンク より:

            あ、それと、ここなんですよね。

            〉(教主様、摂受心院様、両童子様、継主様ーー!!)

            この団体は仏教だと思うのですが、仏陀のことはほとんど話題にも出てこないと思います。
            開祖と現在のトップが絶対ということでしょう。

            『タイムスリップ釈迦如来』で、いくら怠け者のオカマと書いても、日本の仏教界からは何の反応もないのは、包容力とか寛容性では全くなくて、ただ単に仏陀が頭になく、自分たちの教主や宗祖を絶対視しているからだけに過ぎません。

            もし、この団体の教主や継主を『タイムスリップ釈迦如来』のように書いたら激怒してクレームするでしょう。

            これを見ても、仏教と仏陀の関係って何と思ってしまいます。

  4. mani(管理人) より:

    ショーシャンクさま、ぎんたさま、こんち!

    宗教をめぐる深い闇の拡がりを感じています。宗教団体は結局金儲けに走り、信者は騙されたという心を抱いて傷つく。。

    宗教にもてあそばれたくなければ、自分で考えて実践するしかないだろう、ってのが、インド哲学の図式化かも。

    >宗教や信仰はmoha(迷妄)なのではないかと最近特に思います。
    >だから、仏陀は「信仰を捨てよ」と言ったのではないかと。

    わたしの意見なんですが、「信仰をすてよ」というのは、涅槃のことを指すのではないかと思います。ブッダになれば、何者にも頼ることなく、輪廻から解脱できます。だから、「mohaを払って自己に帰依することをなしとげなさい」といったのではないかと思っています。最後には世尊であるブッダ個人をも捨てて、何ものにも頼らずに寂滅せよ、ってブッダは言ってると考えてます。

    • ショーシャンク より:

      石飛先生、こんにちは。

      『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』 (『スッタニパータ』第5章<パーラーヤナ篇> Sn.1146)

       『見終わってから、<世界の主・梵天>に詩句をもって呼びかけられた。
      「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」』 (『サンユッタ・ニカーヤ』第1篇〈サガータ篇〉・第1集=『悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫 P.87)

      「何ものかを信ずることなく、作らざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、ー かれこそ実に最上の人である。」 (『ダンマパダ』第7章97)

      自分以外の外部のものを信じてはいけない、信仰してはいけない、自己を洲とせよ、島とせよ、理法を洲とせよ、島とせよ、というのが仏陀が一貫して言っていることですね。

      ところが、宗教や信仰はほとんどすべて「自己は不完全なもの、未熟なもの、汚れたもので信じてはいけない。教主様が完全なのでひたすら教主様を信じなさい」というものです。

      「他を頼らずに自己を頼る」人は絶対に宗教団体には属さないでしょうね。

      • mani より:

        ショーシャンクさま こちらにも。

        >「他を頼らずに自己を頼る」人は絶対に宗教団体には属さないでしょうね。人は絶対に宗教団体には属さないでしょうね。

        そうかもしれませんねえ。でも、そうでないかもしれない、とも思います。というのは、菩薩の時、ブッダもまた外道の先生について修行をしているからです。無所有處と非想非非想處という境地を習うのですが、習い終わったら「これは涅槃ではない」と去ってしまうのです。

        最終的には「他を頼らずに自己を頼る」としても、中間的にはどう見えるのかはわかりません。
        人目を気にすると、「自己」を持つことになり、仏教的にはイマイチですが、他の宗教では賞賛されるかも。。

    •  春間 則廣  より:

      > わたしの意見なんですが、「信仰をすてよ」というのは、涅槃のことを指すのではないかと思います。

        意見なんて イリマセン

         「 信仰 」  を持つか  事実 という 「 信念 」 を持つか です

         意見なんてものは いつでも変わる

         決して変わらぬ 事実・信仰 を 持つことです  
           「 信 」  とは  「 真 」 です
           信念 とは  真 「 念 」 です

         念じなければ   決して 叶わない
           口に 十遍  すれば 実遍 と “變”ずる

           「 世間 」 には “これが真実である” と 指さすモノ が
           指す指の数だけ   存在している

        「 思う 」 と 指し示すこと は  真実ではない  その
        ( 真実だと )思うこと だけで  「 世間 」 は 成り立っている ) 

         「 世間 」 では
        思うということ は  「 妄見 」 に過ぎない

                         Su.916

      • ぎんた より:

        えっ?神でほとけの人間にゃんだから、自分の意見は大事では?新しい情報一個取得したら、
        新たな意見が発生するのは当然でわ?

        「そう思った」も真実では?次の真実に置き換わるまで持っててよくね?

        •  春間 則廣  より:

          >   Su.916

          ( 出典 中村元 訳 
                岩波文庫「 ブッダのことば 」 200p  )

          <われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

          • mani(管理人) より:

            春間さま こんばんは。

            デカルトに対抗するブッダのことばですね。
            「われおもう、故に、われあり」に対抗していると思っています。

          • ショーシャンク より:

            「意見」という言葉が思考だとして否定しようとする決まりきったパターンも思考そのもの。

            「信仰」や「信念」という言葉も思考にしか過ぎないし、
            「意見」という言葉を否定して、「信仰」や「信念」を称賛するのも思考の働き。

            そして、このようなワンパターンな反応は、陳腐な思考の行き着くところ。

            一番自分が言葉に付いて回っていることに気がつかないのだろうか。

  5. mani(管理人) より:

    ショーシャンクさま おはようございます。

    春間さまに一言言いたくなっちゃう気持ちもわかりますが、春間さまも全く意味なく「意見」を言ってるわけではない、というのもわかるので、お節介にも橋渡しをしてみようかと思いつきました。もしかして思いつかない方がよかった?

    以下のことはわたしの意見です。春間理論は、道元の『正法眼蔵』から来ていると、わたしは思ってます。
    この道元理論によれば、「意見」というのは「意(マナス)」の「行い」なのです。
    坐禅を組むことは行いであり、意見に定する(?)ことなのです。
    意によって見ることが「意見」ですが、これは思考ではないと春間さまは考えているとわたしは思ってます。考えるというのは、一つには、ことばによってことばを追求することで、それは行いとは違うと見ている。。はず。。

    で、ここから、わたしの意(マナス)による見(見たもの)ですが、

    無色界においては「行い」と「思考」は不一不異で、行いでもなく思考でもない、という側面によって成り立つのではないか、ということなのです。。

    つまり、仏教によると「賛成でもないが反対でもない」というのが意見ということになりますが、こういう答え方はどっちからも嫌われますね(笑)

    笑ってお茶を濁すなっ!
    って、自分にいっときます。

    • ぎんた より:

      道元と先生、なんか、かっけー!!

      でも、春間さんが、次人間になった時が心配だ。
      心配する必要ないのにどうしても不安だ。

      • ぎんた より:

        春間さんは、『コード・ブッダ』の教授なのかな?
        今すでに、AIみたいなっとる!

      • ぎんた より:

        「自分はない」ってことだと、たとえば死んで蚊をやって人間にパチンとやられて次人間でしょ?
        したら、相手の思うがままの自分にその都度なっちゃうから、精神的にキツいんじゃないかな?

        取り敢えず、「あの子、人によってすっごく態度変わるよね~性格悪っっっっ」とかなるよ?
        大丈夫かな?

        • ぎんた より:

          わかったよーーーーーー!!春間さーーーーーーーーーーーーん!!(←遠くから駆けてくる感じ)

          あのさ、春間さんは死んだら、なんか「仏教を守護する」意識だか意志だか魂だか空気だかに
          なって、その辺を漂っていて(遍満しているってヤツ?)、誰か(気が合うな~)みたいな人
          いたら、シュッて下りてきて「同化」しちゃうの。そりゃそうだよね~、同じ気持ちってことは
          区別ないってことだから。ふ~ん、そおいうシステムなんだーーー。すると、仏教を学ぶか
          お経を唱えるかしないといけなくて、「仏教国」が必要になるんだねー。

          だから、「わたしのォォォォォォォーお墓のォま~えで~~~~泣かないでください~~~~」が
          けっこー日本人に刺さったんだねーーー。

          昨日からずっともやもやしてて、今朝ももやもやしたままごはん用意して、はっっっっっっ!!
          となったんよ、はーすっきりしたー

          でも、そのシステムだと極々少数の人しか発生できないね。あ、希少性てやつが重要にゃのか~
          「私な仏教」だと、嗅覚とか多産が必要ならワンちゃん、闇夜ならコウモリとか動物の特殊能力を
          借りてこれんだよ、自分がやったことあるやつなら。もう、この位な時代ならみんな一通りは
          やってるでしょ。

          • ぎんた より:

            それででしゅね、日本の仏教システムっていうのは、、、、、

            まず、お坊さんがお寺で修行して、生活して、各宗派の秘密のメソッドによって、
            悟りますよね。(←悟ったとはまわりに言わないのかな?奥ゆかしいね)で、
            日頃精進潔斎とかしてたら、見えない位のちっさい虫しか殺してませんよね?
            (虫に対する慈悲もある)。すると、次1回虫やって、その次人間やるんですが、
            悟ってると基本同じ性別にならないんでしゅよ~。男性の場合、女性になる。
            すると、悟ってるから玉の輿とか狙いすぎず「身の丈にあった」人に嫁ぐ。
            子育ては未経験だけれども(昆虫の時に繁殖はしてる)、子どもの頃から弟妹の世話を
            させられるから、十代後半にはすっかり習得。家事はお寺時代にもばっちりやってきたから、
            完璧。配偶者がちょっとアレでも、、言い方アレですけど「うまく操縦して」家庭円満。
            配偶者をうまく操縦のところは、お寺でいろんな人の相談相手したりとか、組織の中での
            政治的な駆け引きやらで鍛えた。

            で、精進潔斎じゃなくても、お釈迦様も托鉢でいろんなもの食べてたからいいんじゃない?
            と変わってきた、、とか?

          • ぎんた より:

            ただ、、今は学校の教科書で仏教出てこなくて、(ぎんたの頃は「貧者の一灯」とか、
            道徳の教科書でやった)、医療の進歩で祖父母も昔より長生きだから、お葬式でお経を聴く
            機会が後ろへ延び、叔父叔母の人数も少ないし、家族葬だからお葬式に行く機会自体も減って
            せっかく前世で悟ったのに、悟りスイッチが入らない状態のまま、生きている、、人が多い
            のじゃないかと、ねこはおもったの。

            どおかな?ねこの意見~

          • ぎんた より:

            今年のどこかでxで見かけたんだけれど、どっかのお寺のお坊さん?住職さん?で、
            「経典にこのように書いてあります」みたいに話してるのに、
            「いや、それは違うと思います」って即答なのなんでなん?実際読んでないのに。

            みたいのがあって、ぎんたは(いや、きっとそれパイセン。。)て思ったんだけれど、
            そういう事象にであった時こそ、なんでだろう~て考えるといろいろ思いつくんじゃ
            ないかな?

            ①実は、自分の師匠の師匠で初対面だけど大先輩
            ②経典にはそのように書かれているというなら、そうでしょうが、それは令和の日本では
             そのまま運用出来ないと瞬時に判断した、真っ当な社会人
            ③春間さんのような仏教の守護者が瞬時に憑依した人
            ④実はかつてその経典を書き起した人で、印刷技術がない頃だったので、
             意味が変わってしまったので訂正した
            ⑤①~④以外

            もし、ぎんたがその住職さん?だったら、「なんでそう思うのか、詳しく教えてください!」
            と、そこから1時間は話したいところだ(だって、神でほとけの考え聞きたい)。
            でも、同僚に「その態度はどうなのか?」と諫められそうだ。まだ色々仕事残ってるとか。
            仏像磨いたりとか。

            あれ?もしかして、、仏教の人って、、、仏陀の一神教をやっているのか?

            またすごい地雷を踏んじゃったのかな?ねこの言うことなので気にしないでください。

    • ショーシャンク より:

      石飛先生、こんにちは。

      本人が言葉のひとつひとつに自分なりの意味付けをおこなって悦に入るのは自由です。
      しかし、そのようなことのどれも思考の枠内でおこなっていることに過ぎません。
      どのように本人が思考の枠外にいるつもりでいても。

      人間の行いは100%思考の枠内です。思考とは記憶の反応であり、言葉の介在がなくても思考はあります。
      初めてレモンを見た人が、かぶりついたところあまりの酸っぱさに辟易したとします。その人はその果物がレモンという名前であると知らなくても、次にレモンを見ると酸っぱい記憶の反応としての思考、想念が自動的にわき上がってきて唾液がこみ上げるでしょう。

      人間はすべて、そのような記憶の反応である思考、想念の渦のなかにいてそれから出ることはありません。

      たまたま座禅をして無念無想に近くなることはありますが、日常生活に戻ったら元の木阿弥です。
      ただ、一瞬、思考のない状態を経験することがあり、それを悟りと思い間違う人が出てきます。そして、その「悟りの体験」を後生大事に担ぎ回って、「自分は悟った」などと思い込み、強固な自我を形成してしまうのです。
      ある禅僧が「社会人はそれほど熱心に座禅しない方がいいと思う。座禅して見性したためにかえって人格が悪くなってしまう人もいる」と書いていたのをずいぶん昔に読んだことがあります。その時は意味がわかりませんでしたが、今ならはっきりとわかります。
      「自分は悟った」という体験が、日常生じる自我よりも格段に強固な自我を形成するのだと。つまり「悟った自分」という自我の誕生です。そして、そのような自我が形成されると、上から目線で他人を見下し常に他人を教え導いてやろうと思い込むようになります。

      そのような馬鹿馬鹿しさの全体を見たので、私は宗教には否定的になりつつあります。

      宗教的自我は何よりもタチが悪いです。
      日常的な自我は、容姿、年齢、財産、社会的地位、学歴、経歴などから形成されますが、どれも比較が容易なので無限に膨張はできませんが、宗教的自我は客観性が皆無なので、自我は膨張し続けます。

      •  春間 則廣  より:

        > たまたま座禅をして無念無想に近くなることはありますが、日常生活に戻ったら元の木阿弥です。

          元の木阿弥  は 基から木阿弥

            混同仏(混同阿弥陀) が  いいか悪いか  
             議論 は 今度
             今回 は 根の曲解 を 指摘するのみではあるが

           曲解を真っすぐ歩む 自我の思考枠内 では
             枠外に対する    曲解 が 正解

                  たまたま 歩んで(坐禅で) 正道に入る

          <  正法眼蔵 瑞文 記  >

                ここが 分かるのは  此処( マニカナ )に 於いて、 一人二人

          *********

        22.04.03 2559 大宋国に 一人がいるゆえに 二人と知る

           「  大未国の叢林にも 
                    一師の会下に数百千の中に
              まことの得道 得法の人 は 僅か 一 二 なり  」
               
                  (   『 正法眼蔵随聞記 』  三 ・ 11   )
        >  1と2どっちが良い?

            どちらでもよい

            一人がいるゆえに 、 二人と知る

        >     3と4  どっちが多い ?

           「 仏教 」  は  「 無量 」  を  教える

            そこから 帰依 が 起き、 永遠の生 が 起きる

        >  「4枚増えて値段は同じ、どっちが得か?よく考えてみよう

           “ 損得 ”  の 考えで、  「 仏教 」 を知ることは出来ない

            推して知るべし  自らの不徳

          *********

        > 人間はすべて、そのような記憶の反応である思考、想念の渦のなかにいてそれから出ることはありません。

           すべてそうであれば
            出ることはない  ということから 出ることはない

        • ショーシャンク より:

          > ここが 分かるのは  此処( マニカナ )に 於いて、 一人二人

          1、春間さん   2、石飛先生   ですね。

          すっごーい、春間さん、すっごーい。

          こんなにすっごーいこと今回限りですね。

          それでは、今から30分、オペレーターを増員してお待ちしています。

          以上、春グループでした。

          •  春間 則廣  より:

               自分をオペレート出来ていますか ?

          • ショーシャンク より:

            自分をオペレートできてないから、「春グループ」なのです。

            以上、春グループでした。

          •  春間 則廣  より:

            *  十三里

              キュウリ より うまい 意(マナス)も  甘い  

                甘い 考察  重ねても  辛口とはならず

                       固く口 閉じて  カタクチ イワジ

                秋茄子 は 嫁に 出くわす  な あす  に 思う

                     思うところ  が  いびり出汁

          • ぎんた より:

            ショーシャンクさん、こんにちは~

            多分、なんですが、春間さんは「自分はない」派なので、春間さん以外で一人二人かな?と
            思っていて、しょんでもって、仏教関係者じゃないのは、ぎんただけで、ぎんたは飼い主ぎんた
            と猫ぎんたに分けることも可能なので、おれのこといってんのかな~と思います。
            (動物らしい用心深さで、そう思います)
            で、ぎんたが何かに気付いていないということを言っているのかなーと。

      • mani(管理人) より:

        ショーシャンクさま こんばんは。

        遅くなってしまいました。すみません。コメント付けようとしていましたが、どこにいったかわからなくなってしまいました。やっとみつけたっ(笑)

        >人間の行いは100%思考の枠内です。思考とは記憶の反応であり、言葉の介在がなくても思考はあります。

        この考え方、ブッダがウパニシャッド思想から学んだ内容と同じだと思ってます。十二支縁起の最初の方に「無明→行→識→…」って並んでる「識」がそれに当たると思います。
        だから、「唯識」という思想が出てきたんじゃないかと思ってます。

        で、何が言いたいかというと、「思考の枠内のことだ」というのは、そうだなあと思うのですが、さらにその前に原初的な部分もあるのではないかということなのです。

        つまり、五蘊とあるでしょう?色受想行識です。身体(色)が最初に来るんですよね。つまり、生きているわたしだからこそ、考えることも出来る、というわけです。

        となると、色が識の前に並びます。あ、そうだ!「識の前には名色(名前と形体)がある」と気づくので、「無明→行→識→名色→…」と続きます。
        だけど、「生まれる前ってのも考えなくちゃあかんのとちゃう?」と気づくので、輪廻も意識に入れます。こうやって、「無明→行→」の順序を入れて行ったんじゃないかと思うんだけど、この辺は、わたしの中ではまだあいまいです。

        >宗教的自我は何よりもタチが悪いです。

        たしかに!でも、ちょっと待って。「宗教的自我はタチが悪い」に固執するのも又タチが悪いことにはなりませんか。
        そこで、多分だけど、ブッダは「無我」を説いたんじゃないかと勘ぐってます。

        (宗教的)我を強調するあまり、我の弊害を逆に主張することにもなりかねないので、そこで逆に「じゃあ『無我』を説いておくか」みたいな感じで説いたんじゃないかな、って思ってます。肯定があれば否定もあるとき、言語のバランスいいよね、って感じです。
        どう思います?

        • ショーシャンク より:

          石飛先生、こんにちは。

          >つまり、五蘊とあるでしょう?色受想行識です。身体(色)が最初に来るんですよね。つまり、生きているわたしだからこそ、考えることも出来る、というわけです。となると、色が識の前に並びます。あ、そうだ!「識の前には名色(名前と形体)がある」と気づくので、「無明→行→識→名色→…」と続きます。

          識の前に名色があるとすると、名色→識 となるのではないですか?
          私は思考が生まれるのはもっと後で、触という体験の後だと考えています。
          感覚器官と外部の物が触れることによって記憶が生じるからです。

          >(宗教的自我は何よりもタチが悪いです。)たしかに!でも、ちょっと待って。「宗教的自我はタチが悪い」に固執するのも又タチが悪いことにはなりませんか。

          「宗教的自我はタチが悪い」に固執しているのではなく、宗教をやっている人の中に、宗教的自我を見ているのです。
          そして、その宗教的自我は日常的な自我よりよほどタチが悪いことを見たのです。
          かつて、閉鎖された掲示板で四人組(春間、芳和、ミチオ、メッター)が荒らしまくっていたことがあります。
          この四人に共通なのは、自分は悟ってる、自分はわかっていると思い込んでいたことです。ですから、この掲示板に学びに来るようなこと、何かを真摯に聞きに来るようなことは一度もなく、ひたすら上から目線で他人に教えてやるという姿勢でした。
          石飛先生に対しても、教えてやるという姿勢でした。
          承認欲求を満たしてくれる、つまり褒めたり認めたりしてくれる相手であれば普通に応えたりしますが、そうでない相手には『この素人が』みたいに攻撃していました。その四人のどれもド素人なのですけどね(笑)

          このようなことが、宗教をやっている人には非常に多いと感じています。

          現実社会だとこのようなネット弁慶もおとなしくしているので、ネットのような酷さはないですが、何かの時に強固な宗教的自我が垣間見れることがあります。

          有名な宗教者であっても、表面上はいいのですが現実には宗教的自我により宗教をしていない人より闇に堕ちて苦しんでいる人は多いと思っています。
          宗教の分野はファジーなので簡単に自我を膨張することができるからです。
          新興宗教の教祖とかトップはそのような罠にはまった人が多いと思っています。

          >そこで、多分だけど、ブッダは「無我」を説いたんじゃないかと勘ぐってます。(宗教的)我を強調するあまり、我の弊害を逆に主張することにもなりかねないので、そこで逆に「じゃあ『無我』を説いておくか」みたいな感じで説いたんじゃないかな、って思ってます。

          仏陀は、思考者(自我、自己)が思考しているのではなくて、思考が思考者を形成しているに過ぎないと見抜いたのだと思います。だから、そのような思考者などどこにもいないと言う意味で無我、または非我と言ったと考えています。

          • ぎんた より:

            ショーシャンクさん、いつも宗教の問題点を言って下さり、ありがとうございます。
            それによって、色々考えるきっかけとなるので、大変に助かります。

            そこで猫の場合どういう順番になるかを考えてみました。(無明とかのやつ)

            六処:母猫の体内で耳とか鼻とかできる

            有:生存が確定

            触:一緒にいる同腹の兄弟に触れる

            受:一匹じゃないと識る

            生:生まれる

            愛:母乳が欲しい

            取:母乳が出やすい場所の取り合い(負けると最悪死)

            識:この兄弟にいっつも乗っかられたり、過剰に毛繕いされたりする!!

            老死:一生が終わってまた猫に生まれる(六処に戻る)

            かなぁ?無明と名色と行はちょっと組み込めなかったけど、動物ですから「種をつなげ!」が
            煩悩で行?かと思ったりします。猫飼いの先生、添削してください~

          • ぎんた より:

            あ、猫は生まれてから少ししてから目が見えるようになるから、
            五処でスタートかな?

          • mani(管理人) より:

            ショーシャンクさま こんばんは。

            >識の前に名色があるとすると、名色→識 となるのではないですか?

            当然そういうことも考えられますが、名色と識の間は葦束のように互いに支えあっていると考えることも出来ます。そこで、苦しみが滅する事を考えて順序を決めていったのではないかと思っています。縁起によっていますね。

            宗教的自我については、わたしは、気にしないことが多いです。自分がどう感じるかを問題にするところがあって、ブッダがどう感じたのかが問題です。

            まあ、なんだかんだ言っても、ブッダより優れた人は人類史上でていないと思っています。

          •  春間 則廣  より:

            > まあ、なんだかんだ言っても、

                なんだか 噛んでみる

            > ブッダより優れた人は人類史上でていないと思っています。

               他人のことを言って  みる  ( という  自分事 )
                自分のこと  は  ミガタキ ( ミガキカタキ )キキカタ
                 聞き難き    効き方   ( 心に声を聞く )    

             Su.799 ( 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」180P. )
              智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

                自分と比較     しなければ 他人のことを量れない
                すでに 基準 が 量られて   基準と据えられる
              (  自分と並べて  高い低いの  基準と される  )

                以下を知ると  よりよく分かるけれど
              自分より優れた ブッダ を知るとは
                どのように どの点(基準)において 優劣 を 量らなければならない
              量る 自分の基準  は  量る前に  絶対の優 である

                そのようなことを 知るとき  「 無量 」 に ふ れ る 、、、
                 ゆれる  ふるえる       フレエル  FULLYELL

               エル と ニパータ との   違い を える
                 やはり 基準なしでは  得難き トキノコエ

                人類 は 人類 を 量ることを得ず

                 ただし 自分なりの(自分の優劣の)基準 を 手に取れば
                 百点 を つけうる ( その ヒャクテン が ジャクテン )

              いくら見ようと  いくら聞こうと ( 其の判断は )

               ただ単に !  自分の 立ち位置  からの 距離に過ぎず

                 上下左右  は  いとも簡単に  逆転 する

            「 802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?  」

              あなたの判断は  この世において(世間にあり)
              見学思索   が  妄想の域を超えることはないけれど
                        ( あるかもしれないこと・存在の可能性は ) 
               有る という   ( 無いに縁っておきる )
                可能性 の   “犯意” に (範囲に沿って) 起きている
                縁 衆     ( 縁 取る 寄せ集め )

            「  588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。  」

                違う(上下左右) 違わない(等しい)
            「 908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。 」

               自分は正し道を踏み 清浄である   ゆえに 正しい判断を下せる
                 と  おもい違う  ( そこに 判断の起点が起こされている )
               
               910
             (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

               わたしは 導くことが出来る  という  妄想には とらわれない

               人は   自らの歩む道にある 障害  に   躓くのである
                   ( ここに起きる 歩み  を  「 無明 」 と 呼ぶ )

               分かる  ということ  は   

                歩み の 中  で 拾う・手に取る   「 翳障 」  である

                決して 手を はみ出すことがない   「 量 」   である  

            「 夫れ仏法遥に非らず、心中にして即ち近し。真如外に非らず、身を棄てて何くんか求めん。
             迷悟我れに在れば、発心すれば即ち至る。明暗他に非ざれば、信修すれば忽に証ず。
             哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子、苦しい哉、痛い哉、狂酔の人、 痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 」

  6.  春間 則廣  より:

    * 管理人エム 様の  見解 に 接して(位して)

       そうである(そうであった)  と知る   のも  修行  
       そうではない(そうではなかった) と知るのも   修行 
         確認できぬまま進む   のは  修行 ?
         確認しつつ 進む    のが  修行

      進む  →  おでこの向いている方向 が指し示す

      おでこ が どっちを向いているか  は
             見ている者 の おでこの向きが決めている
    ( あなたは 下を向いているのか 上に位置しているのか 、、、、 )

      見ている方向 が 前か後か 右か左か  は
          向いている方向  に 沿って   決めている
       決まっているのではなく  思っている! のみ

       上下左右  とは  位置(意・思)によって決められる 価値!

            価値に囚われていてはいけない

          Su.773 ( Su.788  見解とは最上の境地である  )
     「 ・・・人が全く清らかになるのは見解による 」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である

    Su.1068 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 224p. )
     「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」

        ドータカ ! よ  と 語りかける
          観客となるか  聞者(声聞)となるか  は

        あなた(位置) !  しだい

    • ぎんた より:

      人は、「清らか」になりきることは出来ないと思います。なんとか頑張って、

      どんな人生もみんなして順番こで体験するんだよ、という諦観みたいなものを受け入れられる

      のがせいぜいだと思います。

      それでも、世間を見渡すと、(どう考えてもこいつはやりたくない!)と思ってしまう輩がいて、

      【ねこ、にんげんむり、ずっとねこでいる】と思ってしまうので、清らかにはなれにゃい

      •  春間 則廣  より:

        清らか って 具体的に言うと、どんな概念 ?

      • mani(管理人) より:

        ぎんたさま おはよう。。

        >人は、「清らか」になりきることは出来ないと思います。

        そうかぁ、そう思うんですね。わたしもじつは、心清らかになった認知症のお坊さんのことを考えて、ぎんたさまのように、「ちょっとねえ」って思ったの。

        そこから出した結論は、「やっぱ声聞(最高位は阿羅漢に成る)じゃだめなんだ、智慧を使うようにしないとな」って、思ったのだった。

        龍樹は、毒に犯されたら手足をきって救うだろう、って言ってる。やっぱ、そういうこと考えたら、菩薩かなあ、と。多少心が汚れても智慧がいいのかな、って思ってます。

        •  春間 則廣  より:

          清らかさ は 何に縁起するか
          そこに 真理は依拠し、
          ムニ は 依拠するところを心に見つめる

          一切を知る ということは
          自らの行いを支える対立するものが
          あると知り
          そのどちらにもかたよらないこと

          価値観から離観すること

          正邪 とは 世間の商量

          •  春間 則廣  より:

            平等は一切に支えられている

            であるならば

            一切を支えているものは何か?

            それを ムニ は
            一切であると知る

  7.  春間 則廣  より:

    * 173p.

  8.  春間 則廣  より:

    見解 →   思う 思うこと 思っていたこと   思っていること
            オモッテ いること

         尾を持って  頭を振り回す ( オモイ ということ )

       振り回しているのか 振り回されているのか

        それは  端 に対する   “ 見解 ”  による

    •  春間 則廣  より:

      >  「 間違う 」 人生  を 送っている

           「 無明 」 に       生きる
       =  間違ってはいない  と  信じている    
                    ( = と いう 信仰を持つ )

      > 間違わない人生を送ることも出来る

        “ 必ず ” 間違う    ( 「 無明 」からは逃れられない )
                                 ↓
         必ず間違う  ということは   間違うことがない  「 真理 」 

         間違う・間違わない  ということ は  間違うことに支えられている
                 ここを   間違えるから  間違いに真理が起きる
          ( やや  ややこしいぞ ! )
         ややこしいから 間違え 間違いに気がつかない
        ( 間違う・間違わない という  土俵の上の出来事 )

          ここ(土俵上の思考)を間違いなく    理解出来るから
          このことを     理解するまでもないこと と 放置できる   
           あるいは       この問題 に       かかわらない

      ************ 春間 則廣 2025年7月17日 6:58 AM
        どのように(な) どの点(基準)において(も)
       “ 優劣 を 量らなければならない ”   量る 自分  
          の       基準  は  
                     量る前に   絶対の優 である
      ************   ( 各個 有 を つける 、、、、 )

       間違っている  という “見解”  が  間違いなら
            どうしますか ?      そこには 立ち入らない ?

        間違っている から  その   間違いを放置しない
         「 脚下照顧 」  とは  観ようとして おでこを下げること
       (  おでこを上げて 上から  見下ろす あなた 、、、、 )

         むきあうところ  を ( 上下左右から )    はなれる
           「 下 」     ( 間違っている立場 ) に 固定する

       Su.1068 
       「 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない 」

        中央 において( 心中 において ) いだく(いだいている)  「 信 」 
               これだけは 間違っていない( 正しいと信じている )

         中央  には  必ず横が起きている( 横を倒せば上下となる )

           どこにもないところ   には   根拠をおけない  と
           どこにも存在できない   根拠から  「 理 」 を 導き出す

         執着の対象 を   “横” (根拠)に  おいて  そこにつかまる
       (  横を見る       中央 なる  「 自己 」   )

       Su. 1055
      「 上と下と横と中央とにおいて、 そなた が 気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 」
       ( ソナタ  とは 自らの楽器を用いる 独奏曲 のこと  である 、、、、 )
      https://www.youtube.com/watch?v=tergQI8yPCo&list=PLvLufmqGCZNnTLPjmPwfSjKbokdfKWTTt&index=1

          教会 において   食を得て   職業上の曲を得る( 作出する )

      >  自分と比較     しなければ 他人のことを量れない

         自分が中央にいなければ  位置を特定できない
                              ↓
          自らの位置を語ることにより 姿勢を中央に決める
                              ↓ (中央において)     
                              ↓  

         わたしは “ヘンキョウ”  に   たたずむ
         ( 極めて 強い !     偏 経 ・ 偏見  です )
      > 量る 自分の基準  は   量る前に  絶対の優 である

          “優劣を決める故”  に  絶対の優  は  起される

          ワカッテモラエナイ  コト ハ  ワカッテイル  コト

          分かってはいないのに 分からせようとする ( 盾と矛 )

      • mani より:

        春間さま

        >    「 無明 」 に       生きる
        > =  間違ってはいない  と  信じている    
        >              ( = と いう 信仰を持つ )

        わたしが意図する言葉尻をとらえただけなら意味はなく、
        そうでないとき意味をもちます。

        つまり、間違っているのかそうでないのか検討してみるとき、意味を持ちます。
        もし春間さまが他人を試しているなら、他人を試すのは、善くないです。ブッダは、そうはしなかったのです。

        いつも、聞かれたことに正面から答えています。そのように読んでいます。

  9.  春間 則廣  より:

    *

    > わたしが意図する言葉尻をとらえただけなら意味はなく、
    そうでないとき意味をもちます。

       意味を持つかどうか
         ということに 意味を持たせる 

       言葉尻をとらえただか という理由 で 意味を否定される

    >> > 量る 自分の基準  は   量る前に  絶対の優 である
        “優劣を決める故”  に  絶対の優  は  起される
       ワカッテモラエナイ  コト ハ  ワカッテイル  コト
       分かってはいないのに 分からせようとする ( 盾と矛 )

       わたしが 分かっていようといなかろうと
               そこに “意味はない”
      意味 は あなたが与えるもの であり  あなたの量分 に 拠る
      わたしが分かっていようと いまいと     あなたによって
             与えられるモノ は     あなた の 領域から出るのみ

    > 他人を試しているなら、他人を試すのは、善くないです。ブッダは、そうはしなかった

       あなたが ブッダ であるか を 問うています
     ( ブッダ ではなくとも  あなたの  言っていることは
    あなたの    絶対の正 から 出ることはない )

      どの口から出でる言葉でも  それは 絶対の正  です
       それぞれも口の数だけ  正はあるけれど
         その どの口  も  一つの正   から 出でる
        唯一の正なる   言葉を発する

      それは間違っている・それは正しい  ということは 正 ではないですか ?
    ( 間違っているか正しいか )分からない  ということは 正・本当の事 ? 

    > いつも、聞かれたことに正面から答えています。そのように読んでいます。

       あなたのおでこ の 向いている方向に対しての 正対(正面)

        前後・左右  を  入れ替えても  正 は 正 です

        正面 とは     単に あなたのお凸の 向いている方向 
                       ( 気の向く方向  )
      山と谷 を ひっくり返せば   山と谷の入れ替え(谷と山)

      あなたが 前に向かって 歩むとき
             前に向かった 価値(量見) が 起される( 進むと退く )

     どのように読むかは   あなたの自由意志 に “沿って起きる”
       ( たとえ それが  自由と平等 という 意志であろうと )

       わたしは  「 平等 」 から
               >  ( = と いう 信仰を持つ )

       あなたの後ろから  聞かれたこと 確かめられている事
                  について    正面から答える