『図説ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』

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異色の研究者でありヨーギンである伊藤武氏が『図説ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』を出版しました。たぶん彼だから出版できたのだろう、って思っています。

およそ17世紀スヴァートマラーマの著したハタ・ヨーガ本と言えばこれであります。泣く子も黙る『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』

伊藤氏の著書によれば、インド国内におけるヨーガは、1920年代にはじめたクヴァラヤーナンダの「YOGA」であったと述べています。これは西洋の体操や医学などを総合し、インド独自の思想も加えた「ヨーガ・セラピー」を築いたのだとしています。納得です。。現代の、ポーズ中心の、健康法としてのヨーガですね。

その後、1930年代に入って、クリシュナマーチャリヤがマイソール王宮で独自のYOGAを教え、かれの弟子にアイアンガーとパッタビジョイスがいて、所謂アイアンガーヨガとアシュタンガヨガを作っていったと簡単に経緯が述べられています。ここも、大いに納得です。。

現代の美容・健康法としてのYOGAは、こんなところから生まれているのです。西洋の理論と結びついたYOGAなのです。ざっくりした、ヨガの歴史は分かったけれど、で、本来の『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』はどうなったのだろう、と思うでしょ?

そこを解説しているのが伊藤武氏です。

ここからは、わたしも言いたいことが山ほどあるのです。思想が違うのです。西洋の理論ではなく、インドの思想の元に成り立つ実践的なヨーガなのです。そこを伊藤氏はこのように語っています。

とはいえ、当時のインドは英国の奴隷であったし、ほとんどの西洋人や西洋かぶれしたインドの知識人にとって、プラーナなんてものは実証性のとぼしい迷信にすぎません。20世紀のグルたちは、YOGAを世界に広めるためには、プラーナを捨てざるをえなかったのです。

そして、プラーナの代わりに「実証性のある西洋の解剖学」を据え、プラーナーヤーマを「二酸化炭素と酸素を効率よくガス交換できる呼吸法」にすり替えるのが関の山でした。グルたちが”ハタ”に託したのは、西洋的な理論に堪えうる健康法やフィットネスとしてのYOGAだったのです。           (『図説ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』p.5)

マーカーのついているところは傍点がふってあったけど、どうやるか分からないので、かわりに赤いマーカーにしました。

西洋と東洋の対比が為されますね。西洋の哲学は、一神教の哲学だなあとしみじみ思います。それに対して、東洋の哲学は、ブッダや孔子・老子の哲学です。全然違うのです。

それを一つにしようなんて無理筋です。そこで、本来のプラーナの意味を担って解説したのが本書『図説ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』なのです。このようにわたしは、読んでいます。

わたしの意見も混ぜると、ここにブッダの説も込みになって展開するのが、ハタ・ヨーガの系譜だと言うことなのです。仏教(密教)のタントリズムの流れを汲んだハタ・ヨーガはヒンドゥー教のヨーガだという気がします。

わたしも、これから、さらに細かく伊藤武氏の『図説ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』によって、インド伝統のヨーガを学びます。ひとまずご紹介でした。

コメント

  1. o より:

    > 20世紀のグルたちは、YOGAを世界に広めるためには、プラーナを捨てざるをえなかったのです。

    これは輪廻などを捨てた清沢満之や和辻哲郎みたいですね。科学万能時代ですから仕方ない。今はロバート・ライトなどのマインドフルネス科学折衷派がそうですね。

    そういう方便もありなのが、仏教ですよね。エム先生。

    エヴァン・トンプソンがそういう方便を批判してますが、かつての自分を見るようでちょっと恥ずかしい。

    トンプソンよりもヴァレラは素晴らしかったと思ってます。

    ヴァレラはダライ・ラマ猊下との対話で、中観と科学を対比させながら、より進んだ科学を目指していたと思われますが、猊下はゲルクの中観と親和性のある実在論的科学の立場で話されたのは残念でした。せっかくのチャンスがと思いました。

    • mani(管理人) より:

      oさま こんばんは。

      >これは輪廻などを捨てた清沢満之や和辻哲郎みたいですね。科学万能時代ですから仕方ない。

      そうなのか。。むしろ科学時代だからこそ輪廻はいきるのでは、と思ったりしますが。。

      >ヴァレラはダライ・ラマ猊下との対話で、中観と科学を対比させながら、より進んだ科学を目指していたと思われますが、猊下はゲルクの中観と親和性のある実在論的科学の立場で話されたのは残念でした。せっかくのチャンスがと思いました。

      ダライ・ラマ猊下は、理論派というよりは、どちらかというと、実践の方ですからねぇ。。
      ところで、中観と科学ですか、とても興味深いですね。
      ヴァレラがめざした「より進んだ科学」というのには、関心があります。

      サーンキヤっぽくもなりそうだけど、どうなんでしょう。

      • o より:

        mani 先生、

         素朴実在論の時代なので、輪廻は迷信とされていたようです。

         ヴァレラはチョギャム・トゥルンパ・リンポチェの弟子なので、ジャングン・ミパムの中観・ゾクチェンの立場なので、mani 先生の解釈される中観にとても親和性が高いです。サーンキヤっぽくならないですね。

         ヴァレラが提唱したナクティヴィズムというのは「認知は脳内だけでなく、身体と環境の相互作用から生成(enact)される」というようなもので、生成主義などと直訳すべきですが、日本人には縁起主義の方が分かりやすいと思います。要は物質還元主義じゃなく、空で無我だけど縁起して仮設されるという見方でしょう。彼は生物学が専門ですが、哲学や認知科学など広い知見があって、諸学のデータは無我を示しているけど、西洋人は文化習慣的に我を想定せざるえないみたいな、まさにらイップニッツの問いみたいな無明があって実在論に立ってしまうような方向に立っていたように思います。

        さらにヴァレラは ジャングン・ミパムの流れなので『宝行王正論』に説かれるśūnyatā-karuṇā-garbhaを重視する姿勢で慈悲を感じられところが、素晴らしいです。単なる学者じゃなくて行者っぽいかんじで。

        そこは伊藤さんに通じるかもです。

        • Pocket より:

          oさま

          >『宝行王正論』に説かれるśūnyatā-karuṇā-garbha

          ここ、mani先生には分かりにくいと思います。
          『宝行王正論』に説かれるśūnyatā-karuṇā-sugatagarbha(如来蔵)と言わないと、通じにくい、かもしれません

          garbhaにsnying poの持っているようなessence, core, central meaning, perspective, inner realityなどのような広い意味は、辞書を一瞥しただけでは存在しないと思われます。

          龍樹菩薩の中観は空性と慈悲が不二なのだと、単なる空虚(śūnyam)ではなく輝き(‘od gsal, ābhāsa)を伴っているのだと、
          如来蔵/善逝蔵(bde bar gshegs pa’i snying po)なのだと。

          garbhaの意味を深読みすれば、wombでありembryoであるのだから、当然garbhaは妥当でしょとは言えるかもですが、
          というかoさまはたぶん仰りたいでしょうが、
          行者の系譜にない先生には、tathāgata-(如来の)がないとピンとこないのでは、と。

          oさまとmani先生に、色々すれ違わないで欲しいと勝手に思うpocketでした。

          • mani(管理人) より:

            Pocketさま、いろいろ詳しく説明して頂いてありがとうございます。

            >śūnyatā-karuṇā-sugatagarbha

            『宝行王正論』について、こんな風に言うんだなあと思って読んでいます。
            「如来蔵」という訳を読んで、菩薩が志す如来蔵なんだなあと思いました。
            「空性」もよく分かりますよ。大乗の立場がはっきりとしますね。sugataか。。善逝なのか。。ふうん。

            たぶんすれ違ってはいないような気がします。

            >行者の系譜にない

            これは、YOGAの方でも言われていて、「実際にヨーガやってないじゃん」なんですけど、わたし自身としてはつねにそういう生き方(つまり、縁起的生き方)が出来ればいいので、そんなに気にしてはいません。

            oさまとは思ったほどすれ違ってはいないと思いますのじゃ。

          • Pocket より:

            mani先生、杞憂でした。
            『宝行王正論』はまさにśūnyatā-karuṇā-sugatagarbhaですね。
            『十住毘婆沙論』もそうなのではないかと秘かに思っております。
            南無阿弥陀仏。

          • mani より:

            Pocketさま、こんばんは。

            わたしの理解だと、サンスクリットそのまんまだからなあ。

            >『十住毘婆沙論』もそうなのではないかと秘かに思っております。

            まさしく!わたしもです。「南無阿弥陀仏」を龍樹に感じます。

        • mani(管理人) より:

          oさま、詳しくコメントして頂いてありがとうございます。

          >「認知は脳内だけでなく、身体と環境の相互作用から生成(enact)される」というようなもので、生成主義などと直訳すべきですが、日本人には縁起主義の方が分かりやすいと思います。

          なるほど。。生成主義か、あるいは、縁起主義ね。。最近、しみじみ考えているんですが、この「縁起」は、ブッダの「世紀の発明」だと思っていましたが、案外、人々の思考の癖みたいなものから生まれたのかもしれないなあという気がしてきました。

          しかし、ブッダの軽いノリから生まれたとしても、「世紀の発明」と同じ重要性があります。

          >空で無我だけど縁起して仮設されるという見方

          これって、言い換えれば変幻自在ということですよね。『中論』読んでるとクラクラします。空で無我に意識がいくと、縁起して仮設される、ってのは、もはや考えられないんですよね。自立論証派と帰謬論証派の違いのように、どちらか一方になってしまう。

          両方考えられる龍樹は、たしかに天才なんだなあと思います。

          龍樹の考えについて行くには、ほんとに嘘がなく心がきれいでないと不可能です。そうでありながら、煩悩も知っていなくちゃならないところに、ブッダと龍樹の人間離れしたところを見ます。

          >西洋人は文化習慣的に我を想定せざるえないみたいな、

          まあ、わたしも似たようなものなんだけど我を意識しまう癖、こいつをなんとかしたいです。
          そして、もし、なんとか出来たとするならば、ここで必要になるのは何かと考えると、ただただひたすらに心がきれいであること、それに尽きるのかなと。

          • o より:

            Pocket さま、mani先生、

             śūnyatā-karuṇā-garbha を私は慈悲ある空性と捉えています。

             リメー系や真言宗もそう捉えていると思います。

             ヴァレラには言動から、それを感じます。

             mani先生、私も我利我利ガリ糞です。すいません、結局、単にものづきなだけのつまらない野郎ですから。

          • mani より:

            oさま

            >私も我利我利ガリ糞です。すいません、結局、単にものづきなだけのつまらない野郎ですから。

            こういう自覚が仏教だなあって感じです。

          • Pocket より:

            oさま

            >śūnyatā-karuṇā-garbha を私は慈悲ある空性と捉えています。

            「慈悲ある空性」ってまさに大乗(mahāyāna)を端的に言い表したものですね。

            部派はaniccā-dukkha-anattāで、ちょっと慈悲が弱い。
            『upāsakajanālaṅkāra』みたいな論書が出たのもスリランカで大乗が流行ってた影響があるんじゃないかと思ってます。

          •  春間 則廣  より:

            悲しいかな 悲しいかな

               人 は 成功体験 のみ 喋るものである( 思うのみである )

              嬉しいかな 嬉しくはないかな ?  

                  マニカナ

              外れることもある   という  成功体験

    • カエル より:

      マニカナ先生、こんばんわ

      本屋で見たら分厚くて8800円で
      チラチラっと

      梵我一如なのね

      来世か
      今生で如来に出会えたあとでw

      • mani(管理人) より:

        カエルさま

        >梵我一如なのね

        そうなんですよ。ハタ・ヨーガですからねぇ。
        だけど、西洋哲学とは違うんです。

        四句分別を持っている国だからだなあと思います。

        • カエル より:

          マニカナ先生、こんばんわ

          四句分別といえば、サンジャヤ+ジャイナ教だと面白いなあと

          簡単に四句を断言しない
          「ある観点から」の四句を観察する

  2. ぎんた より:

    あれ? プラーナ、シン・仮面ライダーにも出てきたぞ!

    • mani(管理人) より:

      ぎんたさま こんばんは。

      昨日、感想、書いたと思ったのに、今日見たらなかった。
      プラーナ、シン・仮面ライダーに出てくるのかあ。。東洋を感じる!!

      プラーナは、身体の中をふく風と解釈されると思う。
      中国の「気(エネルギー)」みたいな感じで捉えられてると思います。
      仮面ライダーでもそうなんかなあ?

      • ぎんた より:

        あ、そうです、プラーナは魂とか生命エネルギーみたいな感じでした。
        エネルギーを集めて変身するんだったかにゃ??

        解説動画を見直したら(ツッチのムビログ)仏教もチラッと出てきてた。
        興味がないので(わかんないから)記憶に留まらなかったみたいですー。

        • mani より:

          すごいよね!日本の子どもたちは、プラーナを知ってるんだ。

          お釈迦さんより前に、プラーナは説かれていて、ウパニシャッドのなかにも出てくる。。プラーナは生きてる身体と関係すると思う。。よく分からんけど。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生、こんにちは。

            私は高校2年の夏休みに名古屋のヨガ道場に断食しに行ったことがあります。
            そのヨガの先生がさかんに『プラーナ』の多い食べ物を食べるように言っていました。(その先生は『プラナ』と呼んでいましたが)

            何でも種とか全粒穀物とか、これから成長していくものを食べろ、腐っていくもの例えば肉とか、精製して生気を取り除いたもの例えば白米とか白砂糖とかは絶対に食べるな、と強く言っていました。

            この健康法は非常に役に立ったと思っています。

          • mani より:

            ショーシャンクさま、こんにちは。

            ヨーシャンクさまは、ヨガ道場に行かれていたんですね。プラーナとプラナの違いは、サンスクリット語を長音として発音するか、インドの現地の発音になじんで発音するかの違いです。ヨーガとヨガの違いもそうですね。アーサナもアサナになりますよね。

            精製したものはいけないという、この考え方は、日本の「食養」という考え方が入っているかもしれません。わたしの妹が真面目にこれを実行していました。そういえば、昔、ヨーガもやってたなあ。。なので、黒糖を料理に使ったりしてましたよ。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生、ありがとうございます。

            白米や白砂糖などの精製されたものを食べるなというのは、ヨガの先生によると
            やはりプラーナの考え方から来ているようです。
            プラーナは何か根源的な生命エネルギーのようなもので、
            自然なもの特にこれから成長していく種や豆や全粒穀物などに多くあるもののようで
            それを精製など加工すればするほどその生命エネルギーが削がれていってカスになってしまうようです。
            肉などは腐っていくものなので、プラーナがほとんどないようです。

            私が高校の時など、牛肉が一番栄養価値が高いように思われていましたし、ナッツなどただのカロリー高いおやつとしか認識されていませんでしたが、
            今になって時代が追い付いてきたのか、ヨガの先生が言うように
            ナッツや豆や全粒穀物が身体によく白米や白砂糖や赤肉、加工肉、加工食品は身体に悪いとなりつつあります。
            豆からできるコーヒーやココア、チョコレートも身体に悪いと思われていた時期もありましたが、今は非常に身体にいいとなっています。

            インドの智恵は凄いものがありますね。

          • mani より:

            ショーシャンクさま、実のところ、そのヨガの先生のお話が正しいのかどうか、わたしには分かりません。

            わたしが知っているのはウパニシャッド文献に説かれるプラーナです。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』のなかには、こんなお話があります。諸感覚器官が誰が一番偉いかを争ったそうです。誰が一番か決めようということになって、プラジャーパティという神様のところに行ったら、「からだから出て行かれると一番困るのが一番偉い奴だ」と言われたので、それぞれわれこそは思う感覚器官が出ていくことにしたそうな。まず語が出ていったけれども、不自由だったが決定的に困るということはなかった。次に目が出ていき、耳が出ていき、心(マナス)が出ていったけれども、どうしても困るということはなかった。最後に、プラーナ(気息)が出ていこうとしたら、駿馬が鎖の杭を引き抜くように他の感覚器官も一緒に引き抜いてしまった。感覚器官たちはプラーナを取り囲んで「あなたが一番です」と言ったのだそうです。

            このお話から「生きてる身体」に必要なものがプラーナだと知ったのです。ヨガの先生のお話は、現代風にアレンジされ解釈されているのかなと思ったりもします。

            プラーナは「気息」と訳されたり「生気」と訳されたり「気」や「エネルギー」と訳されたりもします。いずれも、「生きている身体」のことを意識させようとしているのかなと思います。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生、こんにちは。

            いま、調べましたら、そのヨガの先生は数年前に亡くなっているみたいです。
            享年は69歳だとか。
            やはり、ヨガの先生なら長生きはしてほしいですね。
            新書版などの本は数多く出していた人ですが、ウパニシャッドなどを読むような専門家ではなく、タレントっぽい、雰囲気だけヨガ指導者だったのでしょう。
            いま検索したら、短命の理由の考察がいくつか出ていました。
            短眠が悪かったのではないかという説や、1日に100本以上のタバコを吸っていたという説などがあります。
            ヘビースモーカーが健康法を説いていたとはビックリです。

            最高の健康法は断食、最高のアーサナ(ヨガのポーズ)は逆立ちと言っていて、それはそうかもとは思っていますが、先生が言われるように、プラーナの解釈はちゃんとした文献に基づいていないのかも知れませんね。

          • mani より:

            ショーシャンクさま 詳しく教えていただいて、ありがとうございます。

            ヨガの先生って、意外と短命な方も多いような。。古いところでは、最初のヨガブームの牽引者である沖正広という方は64歳で亡くなっています。でも、インドのアイアンガー先生は、94歳まで生きました。ヘビースモーカーの方なら仕方ないかも。。ですね。

          •  春間 則廣  より:

              長く生きれば 悪 ・ 早く死ねば  悪   というわけではなく
               片方 の     逆  が 真   である  わけでもない

              早く死んだほうが   “よい”   という時の
               その 善い判断   という    善事

              “ 禅師 ” に  聴聞したい  三乗 の 二乗

               どの 二乗 に 生きるかは   一定 の 問題

                 「 一定 地獄ぞ すみか 」  かな ?

               **********

               問題は、  何 をしたか ・ 何 をしなかったか 
                  その “何” の 中身 ( しないことの中に 中身がある )

              中身 は 覗かなければ   観え ない
                    掴まなければ   得られない

               何を得たか  は  得た者しか 分からない

                得たつもりで  積もる話に  積む話
                 わたしの    つもり
                つまるところ   何が詰まっているか は
                  通して 考えなければ  そこに つまづく

                 問題は つまづいていても  動いている  ということ

               変化なし  という  変化  は  “ ヘンカナ ? ”

             
                  返事なしの変  という    ○八 の 変 ( 逆の変 )

          • ぎんた より:

            あ、「日本の子どもたち」がプラーナ知ってるかはわかりません。

            映画「シン・仮面ライダー」楽しく観たのは、中高年です。子どもの頃テレビで仮面ライダー
            観ていた人達です。お父さんに連れられてきたお子さんを劇場で見かけましたが、ちょっと
            辛そうでした。

            映画は石ノ森章太郎の原作の感じに近いそうで、ちょっと暗い感じです。
            平成ライダーと言われる今のテレビシリーズに多分「プラーナ」出てきてないと思います。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生。
            そのヨガの先生は藤本憲幸という人です。
            沖正弘を師としていたように思います。
            高校の時に断食しに行ったくらいで、その人の本もほとんど読んではいないのですが、
            いま検索してみますと夥しい数の本を出版しているようで、
            中には『超長寿人になる』という本もあるみたいです。
            当然、Amazonレビューには羊頭狗肉と書いてありました。
            やはり、不老長寿の健康法を謳い文句としてお金を稼いできたのであれば自分の人生で実証しないといけないでしょうね。

            日本ではハタヨガばかりがヨガだと思われがちなのは、これらのヨガの有名人たちのせいかもしれません。

            しかし、白米や白砂糖を食べるな、ナッツや豆や全粒穀物を食べろというアドバイスは私には有益だったと思っています。

  3.  春間 則廣  より:

    https://www.facebook.com/watch/?v=806310386946314

       こんな風に  傾いた体 で  ヨーガ は 出来るのだろうか ?

       教えるヨーガ  の 最中 に  “ 正立 ” 出来ても
        日常 の ふとした 居ずまい・佇まい が 歪めば
      何のためのヨーガ  あるいは そのヨーガ の 巧験 は
         何処の 「 処 」 を  基盤とするのであろうか

       身体障害者  には
           ヨーガ  が  出来ないということを言ってはいない

       「 体 」 の 傾き( 歪み ) は  「 心 」 に 由来する

      心に対する 認識の執着 が “ 姿勢 ” を 決定する

      ( 言葉に対する 認識  は  「 心 」 に 由来する )

       あなたが  わたしの歪み  を  どのように量るか は
       あなたの   整合性  に  依存する

       人 は  自分の! “保持する” 整合性  を 用いるしか術がない
       (  「 信仰 」  とは  “自らが保つモノ”  )

       本の 一ページ目 を 読めば
            その本の  総てを 把握可能ではあるが
      何をもってして    其の本の価値 とする   かで
            全ページ を 読破しようと  可否 は 並立する

       医者の不養生 とは   その人の 生き様に由来し
         その生き様の元に  その人の言動・選択 は 起されている

       医王 であろうと 90歳 にもなろうとする時
        その車輪 を   縄で補強しなければ  直進は 不能

        真っ直ぐ ということ  は
         曲がった心では   描かれうることはない

       曲がった心  を  真っ直ぐに “見つめる時” ( 「 脚下照顧 」 )

        その 脚下 に 「 直 顧 」 が起き  それが 連続していく

       「 己 」 とうものは  弧を描き 交錯し 常に曲がり続けようとする

     「 止観 」 の 妙門  揚げ頂き 手をはなして 据置く処 を 知らず
        (   「 恵止観妙門頂戴供養不知攸 」   )
             報 仏恩徳 望    不憚 煩勞蹔

          何を紐解いて  何を探求する 道を開く