2000年4月に「マニカナ・ホームページ」というサイトを立ち上げてから、25年。
よくぞ続いたものだ。ダラダラと牛のよだれのように続いているこのサイト。インドの哲学学派ニヤーヤ学派のサイトで、論理学を研究している。。いや、していた。しかし、論理学とは名ばかり。新論理学派の『タットヴァ・チンターマニ』の綱要書『マニカナ』の索引を作って載せようという目的だったけど、そのうち、わたしが龍樹の『方便心論』を研究し始めたものだから、仏教のサイトになってしまった。
「インドでは、哲学は、すべてがお釈迦さんから始まるのだ」と知って、安心してお釈迦さんを打ち出すことに専念してきました。
この世のことは、誰も知らないことがあるんだなと知って、お釈迦さんの宣伝をしようと思って今日までやってきたのです。ほぼ2600年前、シャカ族のゴータマは、悟りを開いて、人々に伝えた。仏教という宗教が生まれた。これでよい。宗教で十分だと思う。「宗教で十分」という言い方に変な感じを持つ人もいるかもしれない。
人間の苦しみを払うことだけに特化して、教えを説いたので宗教になった。でも、それで十分じゃないだろうか。これは何らかの意味で「善いこと」を求めたからだと思う。
仏教の教えのすごいところは、決して形而上学に行かないことだ。人間の苦しみを痛みに耐えて正視するところだ。
形而上学に行かない。。。何を言ってるの?
神様を説かない、ということだよ。神々は説くけどね。神々は、わたしたちの生活の中に生きて暮らしている神々だけど、唯一の神は、説かないんだ。「いる」とか「いない」とか説かないんだよ。
説く人がいても、もちろん、いいんだ。お釈迦さんは、そういうことには近づかない、ってだけだから。
どんなわずかのことでも、自分で解決する人は偉い人です。
お釈迦さんは、神仏?に頼らず、自分で自分の問題を解決した唯一の生き物となったのです。。いまのところ。
わたしがお釈迦さんを好きなのは、わたしでも分かることしか説いていないことなのです。わかるところからはじめて、分からないところには決して行かない。。行かないけど、分からないことはなくなったなという実感がわくところがなんとも言えない、のです。
自分で自分の問題を解決したい人は、お釈迦さんの元に集まるべし。
自分で自分に帰依することを成し遂げた唯一の生き物(有情)。。唯一じゃないかもしれない生き物。。それがお釈迦さん。かれは、如来(このようにやって来たもの、サットヴァ)なのです。
ここもいいね。サットヴァ(有情、生き物)というところ。
おしゃかさんも、ボーディ(悟り)を求める生き物だったんだね。
ボーディ、っていうのは、安心を得て安らぐこと、不安がなくなることだよ。
苦しみがなくなる教え、仏教を説いたのは、或るサットヴァ、その名も目覚めたものブッダ。
コメント
マニカナ先生、おはようございます
25周年おめでとうございます。
いろんな宗教勧誘の人たちが通り過ぎて行きましたが、皆さんの精神に平安は訪れたのでしょうか。
四半世紀だと亡くなられた方もチラホラいそう。
生者も死者もまさに生きとし生けるものに幸いあれですね
ペンギン先生も著作が進んでいるようでうれしいです。
誰か脱力インド哲学本路線の継承者はいないですかね。
カエルさま
>いろんな宗教勧誘の人たちが通り過ぎて行きましたが
ほんとねえ、無事に、よくこのサイト持ちましたねえ。
亡くなられた方はixtlanさまかな。。さびしいすね。
ペンギン先生、インド哲学の方面で着々と成果を上げられていますね。
>誰か脱力インド哲学本路線の継承者はいないですかね。
仏教がらみでヨーガ学派のものを読んでます。
脱力系でいえば、けっこう本格派だと思うけど、異色の研究者伊藤武先生はお勧めです。
『シヴァ・サンヒター』で覚醒した感じがあります。まじで、ピカイチだと思いますです。
マニカナ先生、こんにちわ
ixtlanさん以外にもいっぱい亡くなってそうな感じですね
「秘伝マルマ ツボ刺激ヨーガ」が面白そう
インド、中国、日本となんでも相対的に見ると面白い
わりとインドが源流で中国と日本で変化の仕方が興味深い
そこに西洋科学から観点で補足があるとさらに面白い
結局、地球は丸いのだなあと思う
最近、YouTubeで日本すごい、日本世界一
日本は霊性の頂点みたいな動画が流れているけど
そういうのは微妙だなあと思うでゲロゲロ
心配でゲロ
仏道は究極の個人哲学だからねえ
カエルさん、こんにちは~
ぎんたは、ここ数年、日本人とは何だろう?と考えていて、コレだ!!っていうのが
出てこなくて、「日本語で思考する」のが最低限必要かなぁ位でずっともやもや中です。
あと、心配なのは、今日本人やってる人はまだ死んでないから、日本人として全員途中の人
だけれども、今違う国の人で、前回人間だった時日本人だったよーって人の方が
着物着て一生過ごした分だけ日本人として「らしい」感じだったらどうするのかね?
ってこと。。。
「日本世界一ぃいい」ってもっとも日本人から遠いような気がしてもやもやするし。。
人間の価値は誰でも一緒だ(←科学的)ならわかるんだけども。
カエルさま、ぎんたさま、おはよう!
今生は日本人の管理人です。
>あと、心配なのは、今日本人やってる人はまだ死んでないから、日本人として全員途中の人だけれども、今違う国の人で、前回人間だった時日本人だったよーって人の方が着物着て一生過ごした分だけ日本人として「らしい」感じだったらどうするのかね?
これ!わたしも感じます。最近、外国の人が日本に観光で来てるけど、アニメの見過ぎかわからんですが、日本の若者みたいだなと思う人が多い気がする。
ってことは、日本人より日本人っぽい外国人はいっぱいいる、ってことかも。
ぎんたさん、マニカナ先生こんにちわ
意識に日本国籍と日本語がへばりついているのは仏道とは真逆かもしれないですね。
ただ日本以外は移民の大移動で治安が大幅に悪化して文明が崩壊しつつあるので、日本が相対的に治安がよく見える現象は確かですね。
まあ次の世代のために良い治安を引き継ぐ責任くらいはあるかもねえ。
あの世に国籍を持っていけないのは間違いなさそう。
本人が、ずっと日本人でやってく気満々でも、他国の人で「ここではないどこか遠く」と
好奇心を発動した場合には、現日本人は弾き飛ばされて(←この弾き飛ばすのはいつも、
シン・仮面ライダーのクモオーグのところをイメージしてます、まだダム行けてない)
次はどこか違うところに生まれると思います。
地球、今ぐらいの時期はもうみんないろんな人種、動植物、細菌類一通り経験してるんじゃ
ないかと思います。
25周年おめでとうございます!!めでたいーーーーすごーーーーーいぃ
ぎんた、そんなに続けてることないです、ラジオ体操は15年位やってるけど(家で)。
先生とサイトに来ている&来たことある人の、、、なんというか、のぞみが叶うといいなと
心から思います!
ぎんたさま お祝い(?)してくれてありがとうございます。
気がついてみたら25年経っていたので、ちょっと書いてみました。
最初の頃は、ニフティも「ホームページを作ってみませんか」みたいなノリでしたね。ホームページって今は言わないよね。
昔は、「相互リンク張りませんか」、とか、どっかから、「宣伝文句入れませんか」、みたいなことも言われたんだけど、あれって、どうなったのかなあ。。今は、ないすね。
いろんな人が来てくれて、おもしろかったっす。
ところで、ぎんたさま、15年ラジオ体操って、エライすね!わたしなんか、ラジオ体操したら、ヘトヘトで寝込みそうです。。
わたしののぞみは、ラジオ体操でへたらない身体を作ることです。後は、みんながなんとなく幸せっぽくなることかな。。「なんとなく」「○○っぽい」ってところがブッキョっぽいす。ゆるキャラですねん。
ラジオ体操はですね、整体?の先生に勧められて始めました。
最初は「みんなの体操」っていう5分番組だけで翌日筋肉痛になり、(しかも出来ないところが
あった!)家族に「筋肉痛が治るまでは再開しないこと」と言われたので、週1位しか出来ず。
始めた年は、「夏は暑いから」とお休みしてました。
今は、「テレビ体操」という10分番組を2日分と少しプラスしてラジオ体操第一と二、みんなの
体操やって、25分位を一日置きに通年しています。肩こりは無くなりました。
やはりものすごく時間掛かっています。家族に筋肉痛直るまではやってはダメと言われなければ
1回で挫折したと思います。
挫折といえば、最近図書館の返却棚にあった、
「文系でもよくわかる
宇宙最大の謎!
時間の本質を
物理学で知る」松原隆彦著 を借りたんですが、猛烈に睡魔が襲ってきてちっとも進まず、、、
目次はすごく面白そうだったのに、、、なんか、「物理学」って言葉がでてくるたびに
もやっとするし。
でも、ねこ、大学行ってないから、「文系」でもないしな、、、と諦めました。
よく春間さんが「時間なんてない」みたいなこと言ってるから、ちょっと調べてみようと
思ったんだけれど、縁が無かったみたいです。
ぎんたさま おはよう!
3時近くにやってるのが「テレビ体操」かな。あれやったことあるけど、ついていけないす。マネしようと思うけど、その通りにならないです。
筋肉痛になるんですね。よかった~。。あ、ごめん、わたしのことです。くじけず、思いついたときにやってみますです。ありがと。
>「文系でもよくわかる
文系ですじゃ。わたしのための物理学だって分かるけど。。
時間って気づいてないときは「ない」よね。最近、「昭和世代」ってことばが出てきているので、昭和世代のわたしは、昭和が最先端だった時代に「明治・大正・昭和」といわれてた、あの「明治」みたいな感覚かな、って思ってます。
そうすると「明治って、すごい昔じゃなかったんだ!」となって、目からうろこです。
そういえば、昔京都に行ったとき、年配の人が「先の戦争で…」って話しているので、「先の戦争っていつだろ?」と思ったら、なんと応仁の乱(1467)のことでした。さすがにスケールでかい!
そう考えると、「時間はない」かも、です。
先生、NHK+で調べたら、私のやってるのはEテレの朝6:25~6:35のやつで、昼のは
13:55~14:00までのが総合でやってます。昼のは振りつけが難しい日があったと
記憶しています~
エム先生こんにちは。改めて考えると、あっという間でしたね。実質賃金が上がらない失われた25年と重なりますね。マニカナでは着実に成果が上がっているというのに。と言うわけで祝賀ムードを共有したいと思います。
*
> どんなわずかのことでも、自分で解決する人は偉い人です。
偉い 偉くない
どのような尺度 で 人を量っているのか ?
苦しみ の 多寡
多ければ 偉くはない 少なければ 偉い ( 比べれば ! )
その 一つの苦しみを 掘り下げれば 掘り下げるほど
苦しみは ( 新たなる ) 展開 の元で
深く深く 掘り下げられる
( 新しい 古い という 無意味なる 時間の尺度 )
どのように 古い 苦しみであろうと ( 釈迦牟尼にあろうと )
今 ここにおいて “ わが苦しみ ” は 深く広く 展開している
そもそも “苦しみ” とは 何に 「 縁起 」 して 起きるのやら
「 楽 」 を 求める故に
今ある 「 楽 」 から 苦しみに足を進める
( あらゆること には “ 起きる ” 法則があり
千仭・浅深 の 深さ に “ 起き ” 闇に起きる )
「 法 」 の示すこと であり 「 縁起 」 と呼ぶ
“ 自分で ” という “ 垣根の中 ” の
起されている 「 苦 」
「 自他不二 」 である 由縁 を 「 縁起 」 と呼ぶ
自分で解決しようと 他人にまかせようと
解決 は その手段 によって “ 偉さ ” を 離れる
「 自他不二 」 であれば 人は 手をつないで 歩みを進める
その “ 繋ぎ方 ” ・ 繋がれ方 の様 を
「 縁起 」 と呼び
繋がれる様 を 「 世 」 とする
主従 が ある場合 にのみ 繋ぐ・繋がれる の 先後 が 起きる
前 にあるのが 先である という “ 遅れた ” 考えも 起きる
犯人 を 先に歩ませるか 後に引き連れるか によって
犯人 の 人としての 価値は 失われない
行ない の 善悪 の “ 裁量 ” で 人の価値を裁く
「 平等 」 とは ビョウ・平・病 的 なる
裁量権 を 裁く基準である
“ わずかなこと ” とは 掘り下げる人により
深さ と 広さ とを 伴い起きる
わたしは あなたの裁量によれば
ナンゴト も 自分では解決できず
人の裁量 に 右往左往 する 往く人 であり
彷徨い人 に 過ぎない
彷徨わない 拠り所 がなければ 彷徨うということ は
起きようがなく、起こしようがない
( 拠り所 とは
どこにあろうと 彷徨うこと無くして 起きることはない )
何処にあろうと “ 拠り所 ” が ありさえすれば
彷徨うこと からは 離れることができる
拠り所 に 近い・遠い は “ 「 縁起 」 に 起きる ”
分かろうと・分かるまいと “ あるものを あるという ”
「 縁起 」 は
ナイモノハナイ という “ あること ” に
「 縁起 」 している
分かりもしないこと を 広げて見ても
分かることから は
“ センジン ” の 距離・隔たり という
垣根の外 の 絵・世 という 空事 にある
・
春間さま、おはようございます。
> 偉い 偉くない
> どのような尺度 で 人を量っているのか ?
自分で自分が救われるか、救われないか、の基準です。
まあ、誰もそうした人はいないので。。ブッダを除いてね。
自分への帰依を成し遂げた人、って本人が言ってます。
救われる人 と 救う人 との 差異は ?
苦楽 に 囚われて 暗く に 入り込む
明るさ と 暗さ との 差異を量る 基準を 持つか否か
> まあ、誰もそうした人はいないので。。ブッダを除いてね。
いないと知る人 は そうした人 であるか否か
ブッダ を ノゾク ノゾキ 窓 の 女( 「 有情 」 )
> 偉い 偉くない
> どのような尺度 で 人を量っているのか ?
自分と比べて、です。自分の出来ないことをできる人は「偉い人」ですね。
*
> 自分と比べて
自分で 自分と 比べて 自分の差異 を 量れますか ?
他人 と 比べる 意味がない
他人 と 比べてはいけない
* ( ただし 「 自他不二 」 であると知るのであれば
するのは 自他を問わず 受果 も 自他を問いません ) *
このようなこと は 「 経 」 に 説き示されています
出来ること を しても 何等 偉いこと ではない
( 誰でも 出来ることをして、 出来る時期 に 出来る )
何時するかによって 人の価値( 偉い・偉くない ) は
決まりますか ?
早くできる人 は 早々とする
ゆっくり構える人 は 出来る時にする
( 真っ直ぐ 最単距離 を 選ばなければ 偉くはないですか ? )
そもそも 最単距離 とは 人の尺度で量るものではない
紆余曲折 が 必要な人 は 紆余曲折 が 最短です
この世の中に 直線 とは 存在できますか ?
存在を確信するのであれば 直線 を
( 何処にであろうと ) 描いてみてください
メルカトール の 直線 は 地球 では 曲線です
頭の中 の 直線 は 根性で曲がっている
> 自分の出来ないことをできる人は
自分の生 ! の 上で
自分の出来ないこと を する人 は 自分しかありません
自分が するようになる・出来るようになる 事 を 意味します
自分のこと は 自分がするしかありません
他人がすれば 他人の事 と なります
* ( ただし 「 自他不二 」 であると知るのであれば
するのは 自他を問わず 受果 も 自他を問いません ) *
いつできるか は 時の問題です( 人は 「 永遠 」 に 生きている )
偉くない人 でも いつかは ! 偉くなる
そのように 「 法華経 」( 「 法 」 ) には 説かれている
偉い人 とは 覚悟 の人です
覚悟して 「 精進 」
・
> 自分の生 ! の 上で
> 自分の出来ないこと を する人 は 自分しかありません
まあねぇ。。文字通りにとらえるとは。
わたしも縁起は知っているのですが。。。
> わたしも縁起は知っているのですが。。。
知っている という意味 には 多様な解釈が存在できます
文字には 文字上の意味 が 付随し
その付随 には 不随意 という もどかしさが 付随 します
文字通りに 捉えなければならない
文字上の 付随行為 を 前提に もどかしさ を 折り込み済みです
通り一遍 に 読んでいるのは 誰であるか
という 疑問を 我が身に降りかけることはできますか ?
わたしは 独り言を言っている 、、、、
> 通り一遍 に 読んでいるのは 誰であるか
> という 疑問を 我が身に降りかけることはできますか ?
それは出来ないです。通り一遍に読むことが出来ていることに感謝しています。
通り一遍に書いているのは誰か、を問いたいです。
どうして「いつも同じ」と感じてしまうのかを考えています。
>知っている という意味 には 多様な解釈が存在できます
あ……春馬さま生存かくに~ん!
*
― 糞掃衣を 纏う 美しさ ―
> 通り一遍に読む
通り一遍 の “解答” ( 回答 X ) ですか ?
その通り を 誰でも 歩むけれど 、、、、
あゆみ方 は “ 人それぞれ ” であり
通り一遍 の 解釈 で 歩まぬ人 “ も ” います
> それは出来ないです
出来る・出来ない という ことを 言ってはいません
誰でもできる 通り一遍ではない ( 人としての ) あゆみ
すれば 出来る しようとすると することが訪れてくる
訪れてきたことに対して 感謝しつつ ( 人としての )
歩みを 進める ( 共に歩む “ 人 ” に 感謝する )
「 同行 」 二人 → 「 唯 我 独尊 」
( 他がなければ 唯 も 独 も “毒” でしかない )
そのようなこと を 「 マリッカ経 」 から 読み取る
> どうして「いつも同じ」と感じてしまうのかを考えています。
他人事 を 詮索せずに
先ず 我が身 の “いつも同じ”( 「 輪廻 」 ) を
ミル ことを 観る
いつも 見る 「 脚下 」 ( されている わたしの 通り一遍 )
( わたしに “照顧” を 求めずに 我が身の証拠 を 照顧する )
わたしは 求めつつ 行いつつあるかを “ 常に彷徨う ”
あなたには 彷徨いはなく 通り一遍 を 愛顧 し
皆と同じ という 通り一遍 に “ユアミ” する
このように “ 文字 ” を 連ねると
“ 沸 沸 ” と 湧いてくる
通り一遍の心持 ( わたしにも “惑” けれども )
そのとき わたしはすぐに “ 湧出品 ” を “手” に 持つ
( “持つ” という意味 は
通り一遍 では “手放し” では 歩めない )
その手( この手 ) があったと この手でわが膝を打ち据える
わたしの母 は “仏式” での 葬儀をしなかった
( 僧侶 も 呼ばず 戒名 も なし )
ただし 仏壇は 母が購入した ゆえに そこに 遺灰 は
置いたままにしてある
「 香 」 は 生前から 真一日 欠かさず
「 香 」 を 宅す( 記 起 自・事 )
マッタク 以って センシ万招 ( シシ 奮迅 )
鬣を起こす悟得 「 香 」 を 建てる( 功 とは 思わず )
( 決して親孝行 には非ず ) “難” とも 思わず
習い覚えたことを 積み “重ねる”
重ねて ! 上に 「 薫習 」 を 乗せないようにする
このように いくら “期” しても
届く “ 記 ” は
通り一遍の扱い という 愛着 の 下 で 蠢かざるを得ない
“ 春 ” に 起きた メモ いつしか 枯れる運命も
通り一遍 の “ コシ ” に 折れざるを得ない
ここまで クドク 毒 を “毒”自 に 飲み干す
クドク という 医王の“厄” を 忌み嫌う 我
わたし は 記しつつ 読み返しつつ “起” を 辿る
( 「 起 」 に 戻り 「 気 」 を 確かにする → 「 合気 」 )
道を求める者 は 起された “起点” に 頭を垂れつつ
真っ直ぐ という 曲がった道 を ひたすら( 真っ直ぐ )歩む
曲がった 概念にも 真っ直ぐ は (曲がっていても) 起こし得る
けれども いつも人の逸れ は 曲がっているものである
人 でありつつ 人ではない “沸” の 人
( 通り一遍 の 人 ? )
普通に考えて( 通り一遍に ) “ 歩幅 ” を “ 量り ”
わたしの 遅々とした “差異”なる 小幅 を 規定する
「 同行二人 」 という意味 は
サンニュウ( 三人・参“丹”生 )を 拒まず
智下 マグマ の 沸き出る ところ に
ニュウ(NEW) は 赤く染まって 血出 している
「 温故知新 」 という 「 智 」 は 牟尼と共に眠っている
牟尼 が いづるまでは
恩 も 己 も 智 も 古きままでいるしかなかった
新しき革袋 に 入れる ナザレのイエス の 新し吉(アタラシキ智)
血の滴るまで 承けた血を 求めて す“あし” であゆむ
アシキ を 求めず 求める基準 を 捨て去る
「 至道無難唯嫌揀択 」 難のことはない
薫習衣 を 「 糞掃衣 」 に 着かえるのみ
( 糞掃衣 とは 美醜 に 起されるものではない )
質素 で 動きやすき という
“ 美醜 ” に 惑わされていてはいけない
人の “ 美しさ ” は 質素倹約 では 量り知ることはできない
煌びやかさ に 目を奪われるように と
敢えて “洋服” を 選んだけれども
通り一遍の解釈 で 興覚め を 呼び起こしてしまったようだ
取り返すモノ もなく 取り返しようもない “服”した 「 毒 」
毒 に まみれた “ 我が選択 ” を 洗い清められるか
ユアミ ( アユミ ・ 悪由身 ) ・ 沐浴 の テイギ
「 擬 」 を 提示 て 「 法体 」 を 問う ( カジョ )
( 「 伏惟 法體何如 〇〇 推 常擬 」 )
大事 因縁 ( 「 縁起 」 )
共建法幢報 仏恩徳 望 不憚
*
憚る所 を 「 便所 」 と 呼ぶ 「 薫習 」
糞にまみれて 美醜 の (糞掃)衣 を 纏う
・
春間さま こんばんは。
>通り一遍 の 解釈 で 歩まぬ人 “ も ” います
それはそう思います。
「通り一遍」は、期待されない道です。人は一遍しか歩めない。。とも思います。
> わたしの母 は “仏式” での 葬儀をしなかった
> ( 僧侶 も 呼ばず 戒名 も なし )
うちもです。ただ写真が、並んでいます、やまほど。
記憶の中にいつでもよみがえってきます。。そこがさびしい。