桜が咲いた!

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桜が満開です。5月1日にカメラでパチリ。桜とコブシのコラボもあります。。

つぼみもあります。最後はレンギョウと水仙で締めくくってみよう。

いよいよ花の季節が到来です。毎年、同じようなものだけど、それでも春は嬉しいですね。気分転換になります。息子の調子が上がらないのが、今ひとつだけど。

仏教の話も一つ。わたしは、ブッダの教えを、まるきり論理学として受けとめています。

あるひとつの論理で、世界を生きていく、ということだと思っています。仏教は宗教なのであって、論理学というのではないだろう、と言う人がいるかもしれません。

そんなことは、ありません。ある一貫した生き方を取るならば、どうしても論理学を持たねばならなくなってきます。

ブッダは、生き物が苦しむ姿をなんとかしたいとおもい、あらゆる生き物に成り立つ理論を組み立てた、と思う。そのために「一切は苦である」と見る必要が出てきた。五感+心と、その対象を扱い、それ以上のもの、または、それ以外のものは認めなかった。そこで、形而上学には行かないという姿勢となって現れた。

だけど、人々が説いているものは極力受け入れた。こういうわけで、神々や悪魔のいる世界を、わたしたちはわたしたちの世界としたのである。

そのため、わたしたちは、どんな意見であっても、上手くするとその意見を実感できるようになった。こうして、自分の身で体験的に知っていく技を手に入れた。五感と心を駆使して知りうる世界を相手にしたのである

こうして、ブッダの教えには多くの人々が魅了されていくのである。必ず、答えがあって、しかも、実体験出来るから、ブッダにはまる人が必ず出てくる。

そして、理論は完成されており、論理学だから、どんな世界にあっても、その論理世界は成り立ちうるのである。

ただの宗教にしておくのはもったいない。「ただの宗教」とは言ったけど、その世界ではあらゆる学問が成り立ち、あらゆる法がそれなりに成り立つ、そんな世界である。。

ブッダの教えはあらゆる宗教の根底にあって、それらの宗教を心地よく成り立たせるための土台のような教えである。

ブッダの教えは、ただ一つ。「争うなかれ」

これを成り立たせるために、縁起と空の論理を展開したのである。ブッダさまさま、完璧です。

あらゆる生き物が苦しみなく、生存できるように考えられた珠玉の教え。。

結局、ブッダの賛美に終わってしまった。。

ブッダのように、わたしは頭よくないので、最近ブッダを誉めようとして、結局思いだけが溢れて「何を言いたかったの?」となることが多いような気がする。言いたいことをまとめてから話そう。

ブッダのように、瞬時に理論をまとめるのは無理だなんだからね、管理人!!

喉から手が出る。。ああ、ほしい、一切智。。突然ですが今日の日記を終わります。

コメント

  1. ぎんた より:

    気を取り直して、こっちにコメントしよーーっと!  チラッと思ったことーーーーーー!

    猫飼ってる人って、自分前世は猫だったかもーとか、来世は猫になりたい!とか言いがち
    だけど、ワンちゃん飼ってる人って、前世ワンちゃんだったとか言わないような、、なんでだろ?

    ワンちゃんは、「中の人」が人間で、人間が大好きで人間になりたくてというか、自分が人間と
    思って(姿形はワンちゃんだけども)人間と暮らして一生終えて、、だから、、前世がワンちゃんの人は
    心が人間だから、ずっとずーーーーーっと人間という気持ちで生きてるからにゃーーーー

    うん、きっとそうにゃ、、、だから優里の「レオ」聴くと号泣しちゃう人は、ワンちゃん人間にゃ、、
    おれももちろん大号泣、、でも、頭の隅にチラッと(これはワンちゃん飼いの人泣いちゃうやつ)
    みたいな意識混じるからワン人間以外にゃ、、、、、

    昆虫人間は、前世の昆虫はすっ飛ばして、前回人間だった時をトレースしてるから、前回人間
    だった時ワンちゃん飼ってたにゃ、、、、

    最初に疑問持ってから、優里の「レオ」に出逢うまで3~5年位掛かっています。たしか、、、
    そうとう、気長な、、、授業で指されて答えるとか、試験の小論文とかでは無理なやつです。
    ぎんた、良く解ってないってことが日常茶飯事なので、きっと解らずまいでもそんなに
    気にならないと思います。でも、やっぱり判ったほうがいいことはあると思います。

    あれ、、、気軽に書き始めたのに上の4行が重いぞ、、、、なんでだ、、、きっとこれ自分じゃない
    かも、、あ、余計に重い、、、りこ取り直して、こっちにコメントしよーーっと!  チラッと思ったことーーーーーー!

    猫飼ってる人って、自分前世は猫だったかもーとか、来世は猫になりたい!とか言いがち
    だけど、ワンちゃん飼ってる人って、前世ワンちゃんだったとか言わないような、、なんでだろ?

    ワンちゃんは、「中の人」が人間で、人間が大好きで人間になりたくてというか、自分が人間と
    思って(姿形はワンちゃんだけども)人間と暮らして一生終えて、、だから、、前世がワンちゃんの人は
    心が人間だから、ずっとずーーーーーっと人間という気持ちで生きてるからにゃーーーー

    うん、きっとそうにゃ、、、だから優里の「レオ」聴くと号泣しちゃう人は、ワンちゃん人間にゃ、、
    おれももちろん大号泣、、でも、頭の隅にチラッと(これはワンちゃん飼いの人泣いちゃうやつ)
    みたいな意識混じるからワン人間以外にゃ、、、、、

    昆虫人間は、前世の昆虫はすっ飛ばして、前回人間だった時をトレースしてるから、前回人間
    だった時ワンちゃん飼ってたにゃ、、、、

    最初に疑問持ってから、優里の「レオ」に出逢うまで3~5年位掛かっています。たしか、、、
    そうとう、気長な、、、授業で指されて答えるとか、試験の小論文とかでは無理なやつです。
    ぎんた、良く解ってないってことが日常茶飯事なので、きっと解らずまいでもそんなに
    気にならないと思います。でも、やっぱり判ったほうがいいことはあると思います。

    あれ、、、気軽に書き始めたのに上のラスト2行が重いぞ、、、、なんでだ、、、
    きっとこれ自分じゃないかも、、あ、それ余計に重い、、、りこてゃ(パラ高)なみに重いのに、
    地雷系の優秀さもない、、、

    • ぎんた より:

      ぃぎゃーーーーーーーーーーっ、、、あの、あのなんか操作間違って文が、、、ふたつ
      入っちゃったぞーーーーーー

      4行を2行に訂正してポチッとなしたつもりがにゃんでーー???怪奇現象???

      ぎんた一番苦手なやつーーーーー!!

  2. ぎんた より:

    先日発見した、縁起の達人~

    5月4日(日)こころの時代 宗教・人生 選 
    ゆれるこころにとことんつきあって 訪問診療医・岡山容子 (明日午前6時で配信終了)

    「私の目標」が「私がぷんすか怒らんと、いい医療を受けて死ねて良かったな~と思えるように
    日本の医療を変えること」  な、なるほろ、、、耳が痛い、、、、、ぎんた怒ってるだけ。。。

    「医師を目指した理由」も超面白い。この人、絶対一個前の地球でブッダやってたね!とか
    思って観てました。あと、患者の住職してた丹羽良道さん!そんなぎりぎりまで仙厓義梵とかで
    仏教伝えようと頑張ってる。ぎんた大泣き、、、おれも!ぎりぎりまで頑張る!!
    あの危険な団体が消滅しないとダメ、ゼッタイ!

    死んでもまた再び生まれて、あの危険な団体に所属し、自分がかつて最も理解出来なかった人やら、
    最もしんどそうだと思ってた人とかの人生で修行するのよ、、、、。ほとけの慈悲で替わってあげたく
    なるor自分ならもうちょっとなんとか出来そうな気がする(実際できる可能性はあるよ、時代が変われば条件が変わるから)等、動機は様々だけれど。やーでも、死ぬほど大変だと思うけどな。止めとけ!

    そんなこと考えながら観てたら、彼女僧侶の資格も取っちゃうし、なんか写経したやつ、
    自分が看取った患者遺族に渡してるし、、、前回人間だった時に僧侶やって、今世で実践としての
    医師なのに、自然と前職にもどるのねぇ。二刀流てやつ?
    よく、都会でバリバリ働いて、まあお金も貯まって定年退職した夫婦が「農業」とか始めて充実して
    幸福度上がってるあれ、前回農業で頑張って「百姓=色々な仕事ができる」というからかなりバランス良く頭も身体も使って、自然相手にコツコツ頑張って、、からの今世、都会でも良い感じに働けたわけよね
    でも、引退したら土に触れたくなる、、てやっぱ戻ると落ち着く~みたいになるんよね~

    しゅげ~~、、人間、、圧倒される、、、勉強になりまぁす。。。猫はみてるだけだけど。
    家族にも「お前はなにもするな!!」と言われてるし。
    「俺みたいに宗教とかま~~~ったく興味ない、忘れてる」レベルにならないと潰せないよ。
    とか言われて。。。

    うーーーん、、、でもなぁ、自然減で消えてもなぁ、、、時間が経つとまた物好きが発生するかも
    しんにゃいから、大大大炎上(火)の後、世間の正しい理解(水)で消火がいーと思うけど。

    (↑あの団体、火と水の法要とかやっちゃってるので、そこから考えました。)
    火災が起きると風が発生して、火災旋風っての?強風。これが「神風」てことにしたらどうかと。
    や、だって、誰か一人の意志で「フーーーッ」てやってとか、おれ信じねーよ。

    不思議なんてないもん。

  3. 近侍郎 より:

    mani先生 おはようございます。
    先生のお話にある「一切智」「論理」のおおまかな意味が、小生はいまいちわかっておらず、自分なりに「一切智」「論理」とはこういうことかもと思い、お尋ねいたします。基本語の質問になり、大変恐れ入ります。

    1 世尊の言う「一切智」を…「心身の防護と煩悩の捨離を完成した世尊が、体得し知り尽くしたことの全て」というような意味にとらえて、とりあえずよいでしょうか。
    これは、『如是語』35・36「たぶらかしではない経」①・②にある、修行の目的を示すことばをまとめたものです。
    ①に「心身の防護samzvara」と「煩悩の捨離pahaana」、
    ②に「直観智abhinwnwaa」と「知り尽くすparinwnwaa」という目的が示され、
    ①と②の両方に、「伝え聞きでないaniitihamz 」とありました。
    上の、「abhinwnwaa」は『法句経』のシメの句423にあり、「aniitihamz」は『経集』彼岸道品で理法を説く複数の句にあり、重要な語だと思いました。
    また、『空の大経』には、修行の目的にそぐわないテーマ(国土論・世界起源など)がいくつも示されていて、それらは一応、世尊の一切智の範囲外と思いました。

    2 一切智への過程の一部は、親近→聴聞→如理作為→法随法行の階梯で説かれますが、先生の仰る「論理」とは、「階梯の各ステージに通底する筋道のようなものであり、如理作為までは教説としてことばで伝えられ、法随法行からは各自で体得し検証することの方向を示すもの」という意味かもしれないと思いました。「論理」をそういう意味にとらえて、とりあえずよいでしょうか。
    これは、『如是語』16「如理作為(教わった法の意義を理解する)」、86「法随法行(教えに従って実践する)」から、そう思いました。「如理yoniso」の「根源より」という意味が先生の仰る「論理」の意味に重なるかもとも思いました。「法随法行」では、法を語り、法を思惟し、その両方を回避して捨てる、という非分別への過程が書かれており、こういうことも先生の仰る「論理」に含まれるのではないかと思いました。
    世尊は、わかりやすい比喩を用いるだけでなく、チューラパンタカには道具を渡して極端を行けと言ったり、弟子によって四句をつかったり、双非をつかったり、その時々の相手の心に響く、丁度よいアドバイスをするのが、すごいなと思います。「論理」も、その現れ方は、状況によっていろいろ違ってくるのかもしれないと思いました。

    • mani より:

      近侍郎さま こんばんは。

      「一切智」「論理」ということを、まずわたしが考えるとき、「語」とか「ことば」ということをほとんど考えません。何を考えるかといいますと、自分で答えを出せるだろうか、ということを考えます。

      つまり、わたしが一切智を持ったとしたら、どういう答えになるだろうか、という観点から考えています。

      それは近侍郎さまが「アニーティハ(伝承されたのではない)」と説くもので、つまり、直に体験したことを示しますよ、ということです。だから、自分でも「ブッダから教えてもらったのではないこと」に気づけるかをやっているのです。

      >「階梯の各ステージに通底する筋道のようなものであり、如理作為までは教説としてことばで伝えられ、法随法行からは各自で体得し検証することの方向を示すもの」という意味かもしれないと思いました。「論理」をそういう意味にとらえて、とりあえずよいでしょうか。

      いいと思います。たとえば、「階梯の各ステージに通底する筋道のようなものであり、如理作為までは教説としてことばで伝えられ、法随法行からは各自で体得し検証することの方向を示すもの」ということを読んだとき、最初は論理ですから、ことばで言われるのですが、そのことばをことばのままに止めないで、そのような気持ちのところまで持ってくると、浮かんでくるのは「こだわり」みたいなものとなってしまうでしょう。心の中で「これこれは正しい」と思ったとしますと、そこには何か「こだわるもの」があります。わずかであっても、そこに気づいていると、それを消す方向に持って行けます。

      わたしは「ブッダはすごい」と思っていますが、これもまた執着であって、いつかなくなることを夢見ています。

      チューラパンタカの例、四句分別の例、双非の例など、よくご検討になっていますね。これが自分で出来るようになると、本物だと思います。龍樹は、そこまで行きましたね。

      • 近侍郎 より:

        mani先生 
        くわしいお話を頂き、まことにありがとうございます。
        先生のお話をうかがい「論理」を「調理」にして、『ダンマパダ』を反芻してみました。
        世尊は、心身の構え・調理道具・基本レシピを示し、
        「あとは各自が体得することです。私はここまでは教えます。」
        「汝らは自らつとめよ。もろもろの如来は教えを説くだけである。」法句276
        と言い、方向づけとして、
        「道具やレシピにとらわれず自ら調理したものを直に味わい、志をもって工夫を重ね、心身を害するものを混入させぬ人は、よい調理人になります。」
        「ことばで説き得ないものに達しようとする志を起こし、意は満たされ、諸欲に心を妨げられることのない人は、流れを上がる者とよばれる。」法句218
        と述べ、以下の保証をしますが、世尊にも依存するなといっていました。
        「他人がどうして主であろう。自分をよく調えたならば得難き主を得る。」法句160
        「正しく向けられた心がしてくれる。」法句43
        『ダンマパダ』最後の423は、三つの明智を体得した世尊の一切智の宣言だと思いました。
        そして、最初の1・2の句は、マナス(意)とダルマ(法)の因果と輪廻を示し、世尊が、チッタではなくマナスと言っているのには、わけがあると思いました。上の法句218でも世尊は、「心」と「意」をはっきり使い分けていました。
        今回の「桜が咲いた!」で先生の仰る「ある一貫した生き方を取るならば、どうしても論理学を持たねばならなくなってきます。」の意味が初めよくわからなかったのですが、今『ダンマパダ』を改めて見て、三学のエッセンスのギュッとつまった調理本のようにこの本が思われ、経が飛び込んでくる感じがしています。ありがとうございました。

        • mani より:

          近侍郎さま おはようございます。

          >三学のエッセンスのギュッとつまった調理本のようにこの本が思われ、経が飛び込んでくる感じがしています。

          そうです!それが、わたしの見方です。お釈迦様の論理は透徹していて、どんな時も、庶民レベルの論理を外すことがありません。
          自分の得た論理がどこまでも貫かれるように語るだけの力を、おしゃかさまは持っています。そこがすごいところです。

          多くの人は、必ず例外を設けてしまうのです。論理から外れるところが出てくるのです。

          >最初の1・2の句は、マナス(意)とダルマ(法)の因果と輪廻を示し、世尊が、チッタではなくマナスと言っているのには、わけがあると思いました。

          マナスは煩悩のないブッダ論理から出てくるものという感じがします。また一方、チッタというと煩悩も混じったものというところかもしれません.
          外道であるニヤーヤ学派やヨーガ学派などは、チッタもマナスも同じ事だとしていると思います。

          • 近侍郎 より:

            mani先生 こんにちは。

            >マナスは煩悩のないブッダ論理から出てくるものという感じがします。

            『法句経』『経集』で「マナス」・「チッタ」のある個所をたどってみたら、
            「マナス(意)」は、方向や力がそなわる、いくらか能動的な心の在り方、
            「チッタ(心)」は、影響を受ける、受動的な心の在り方を指すように感じました。
            『法句経』3章「心」の初めに、
            「心は…守り難く制し難い。英知ある人はこれを直くする」33 とあり、終わりに
            「優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。」43 とありました。
            制し難い心を直くする=心を正しく向けられるようにするのが、如理作意&法随法行で、「如理yoniso作意manasikaara」は、ブッダ論理を咀嚼し(如理)、制し難い心に対しこんなふうにやってみようと意図する(作意)ことかもしれないと思いました。
            また、定に向かう時、調身・調息しますが、調心については、心が調うまでの方向づけや推進に、マナスがおのずからはたらくのかもと思いました。

            >心の中で「これこれは正しい」と思ったとしますと、そこには何か「こだわるもの」があります。わずかであっても、そこに気づいていると、それを消す方向に持って行けます。

            なるほど!うたた放下するよう、注意したいと思います。「わかった」と思った刹那に、洗面器が落下して(昭和)、ダメ出しを仏祖から頂くイメージが浮かびました。

            『法句経』1・2に「マナス(意)はダルマ(法)を先導する」とありましたので、根と境のかかわりに関心がわき、『根修習経』(中部152)を読みました。世尊は阿難に、「よく作意しなさい」と言い、六根の各々が六境の各々に対し、「可意が生じる、不可意が生じる、可意かつ不可意が生じる」と第三句まで説き、「しかしそれは為作された、粗大な、縁起したものである」と述べ、第四句で「ウペッカーupekkhaa」を説いていました。意を用いた三句、為作・縁起という明言、第四句のウペッカーが、まことに興味深く思われました。この経の旨を味わうため、己を樽に入れ発酵を待ちたいと思います。ありがとうございました。

  4. mani(管理人) より:

    近侍郎さま こんばんは。

    >「マナス(意)」は、方向や力がそなわる、いくらか能動的な心の在り方、
    「チッタ(心)」は、影響を受ける、受動的な心の在り方を指すように感じました。

    いいところに眼を付けられました。「マナス」は語根man-にasという力を表す接尾辞がついたもので、「行(サンスカーラ)」と関係すると思われます。「チッタ」は、おっしゃるように「心」全般を指してヴェーダーンタ的と申しましょうか、存在論の臭いがしますね。
    どちらも、世間では使われますが、ブッダが法(ダルマ)として定めたものではありません。(以上は、みなサンスクリット語に置き換えています。パーリ語ではなくて)

    >第四句で「ウペッカーupekkhaa」を説いていました。

    四句分別と縁起をつなげていますよね。
    ここからヒンドゥー正統派の人たちは、第四句は聖者の境地と学んで、第四番目を「第四位」とか、「トゥリーヤ」などといったと考えられます。

    わたしは、最初に見て、このウペッカーに驚愕しました。
    ほんとにそうだなあと思いましたよ。将に洗面器が落ちてきた感じです。

    最後はウペッカーで完成するんだと学んで、「なるほど、ブッダまで捨てなきゃダメなんだ」と知りました。自分は大乗なんだと自覚したのです。

    『スッタニパータ』の「彼岸道品」の最後に出てくるピンギヤさんの気持ちがよく分かります。

    龍樹も菩薩だし、「ま、いいか、そのうち捨てれば」って気持ちにもなります。。

    • 近侍郎 より:

      mani先生  小生の投稿が重なり、まことにおそれいります。

      >「マナス」は語根man-にasという力を表す接尾辞がついたもので、「行(サンスカーラ)」と関係すると思われます

      有部の「有」astiのasもサンスカーラに関係するかもしれない、もしそうなら、有部は有為を詳しく観ることで、修行に役立てようとしたのではないかな思いました。
      経典を「行息」で検索したら、「息を行ず」と「行(サンスカーラ)が息む)」と読めるケースがあり、後者は「重荷をおろし、とらわれのない」(法句402)処と思いました。

      >四句分別と縁起をつなげていますよね。

      このあと世尊は、「アーナンダよ、これらの木の根、これらの空屋があります。あなた方は禅定をなしなさい。放逸となるなかれ。後に後悔することなかれ。これが、あなた方への、我々の教誡です。」と告げ、
      「心に適った(attamano)尊者アーナンダは、世尊の所説に歓喜した。」とありました。世尊は、「我々」と言っており、諸仏を代表して伝えたのだな、と思いました。
      そして、attamanoは、マナスが目的に向かうことだなと思いました。

      >『スッタニパータ』の「彼岸道品」の最後に出てくるピンギヤさんの気持ち

      仏法僧は、独りのうちに確かに起こることで、依存するのでなく、それにもとらわれない論理のことだと思いました。
      今回は、基本の意味から始まり、いろいろと教えて頂き、まことにありがとうございました。

      • mani より:

        近侍郎さま こんばんは。

        >有部の「有」astiのasもサンスカーラに関係するかもしれない、

        紛らわしくて申しわけありません。
        有部の場合は、サルヴァ・アスティ・ヴァーダという合成語になります。アスティは、接尾辞ではなく、語根as-から作られた三人称単数の「あること」という名詞になり、「一切が『ある』と説く(もの)」という派閥を指します。manasの-asとは違いますので。紛らわしいことを言ってすみません。
        サンスカーラとは関係するとは思いますが、仏教であれば、それはあらゆる場合にそうですね。

        あと、attamanasについて気づいたことを語ります。「心適える」と訳されたりしますが、attaは、「得た」の意の過去分詞だと思われます。attan(アートマン)かなと思いましたが、二つ意味があるようです。

        何で覚えてるかというと、『スッタニパータ』の800の詩が、両方に訳せそうだったので、他の訳ではみな「得た」の意を取っていましたが、わたしは、「自己(attan)」の意に取って訳してみたからです。

        『スッタニパータ』800 
        自己(得たもの)を捨てて、執着していない者は、知識においてもよりどころとすることはありません。様々な異論のある中で、党派に組みすることはありません。かれは、いかなる見解にも頼ることはありません。

        どちらでも成り立つなあと思います。この800の境地をめざして、ブッダは努力していたのだなあと感慨深く思います。

        • 近侍郎 より:

          mani先生 
          お話頂きましたことをふまえ、行なっていきたいと思います。
          詳しく教えて頂き、まことにありがとうございました。

  5.  春間 則廣  より:

    > *************

    「心に適った(attamano)尊者アーナンダは、世尊の所説に歓喜した。」とありました。世尊は、「我々」と言っており、諸仏を代表して伝えたのだな、と思いました。
    そして、attamanoは、マナスが目的に向かうことだなと思いました。

    > *************

    あった だけなら なかった のと
          どう  変わって・違って いるのかなのかな ?

     ある もの  が  存在理由を持つとき   存在が起きる

       理由 とは  思考上に存在するものではない

      > 思いました   のと  思いませんでした  との間 に
                    違いがあるとすれば
         どのような   行ないに出たこと を 指すのかな

        思う    ということ が  行ない である ならば
        思わない  ということ も
               行ないである  と  分かりますか ?

        その二つの行 の  違いは
                      どのように顕現されていますか ?

        「 仏教 」 は   学ぶものではありますが、
                   学問ではありません

         「 教え 」  と 「 修行 」 との  せめぎ合いです

         「 修行 」 が 教えと 寸分たがわなくなるまでは
         「 修行 」  とは   教えをうつした ことにはなりません

        「 仏教 」 は 映像ではなく、テキスト でもありません

          写したところで  何の意味もありません

               血脈 とは  血の滴る 実践です
          仏 血  の 流れを  血脈として受け継ぐことです

            生きた証  の  葡萄酒が滴る

            新しい 革袋を 用意するべきです