こぶし

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雨模様の中、4月22日コブシが咲いていました。桜の木がこの頃はまだ咲いてなかったけど、芽が赤くなってきていました。

柳も芽吹いてきましたよ。

いよいよ春だなあという感じです。また、寒くなるらしいので、桜も震えているかもしれないな。

庶民の生活も米の値上がりなどで、厳しさを増してますね。

「パンがないとな。では、お菓子を食べればよいのに」

こう言った人がいましたが、知らないということは恐ろしいことです。でも、でも、みんな、知らないところはあります。

わたしも知らなかった。南無阿弥陀仏が、空(くう)からきてるなんて。そして、信じる人には、「南無阿弥陀仏」が苦の滅を約束するなんて。

これは、いわば、信(シュラッダー)の力なんだ。自分の信だよ。他人が証明してはじめてそれの正しいことがわかる、なんて、そんなものではもちろんない。自分で自分を証明し続けるのが信なんだ。

だからね。それが実際そうなったときには、まるで、奇跡のように見えるんだよ。それで、阿弥陀さまの力といわれるんだね。

凡夫なのに、凡夫なのに、人中の白蓮華とうたわれる人になるんだ。ブッダ世界では、あらゆる生き物が地獄の生き物から覚りの生き物へと変化出来る。こうだから、諸行無常というのかもね。

いっちばん不思議に見えない「南無阿弥陀仏」が、いっちばん不思議かも

コメント

  1. カエル より:

    マニカナ先生、こんにちは

    「パンがなければブリオッシュを食べればいいのに」
    世の中ではマリー・アントワネットの言葉となってしまったのは
    なかなかかわいそうですね

    敵国オーストリア出身のフランス王妃のカルマか

    • mani(管理人) より:

      早速、カエルさま!

      >敵国オーストリア出身のフランス王妃のカルマか

      いろいろと考えれば考えるほど、カルマだったかな、って。
      凡夫世界の残酷なところも見えて来るかな。

  2. pipit より:

    エム先生おはようございます。

    私の実家は天理教を信仰しているので、幼い頃から「南無天理王命(なむてんりおうのみこと)」はよく耳にしていました。
    (私は自分は仏教徒と自認してます。)

    母は難病で66歳で亡くなりましたが、晩年の弱った身体でも毎日のおつとめ(「みかぐらうた」の一節を歌う)を父と歌って、それが心の拠り所になっているようにもみえました。

    南無天理王命(なむてんりおうのみこと)と唱えることでも、仏教的には救われていることになるとエム先生は考えられますか?
    南無阿弥陀仏と唱えることと南無天理王命と唱えることは全然違うことでしょうか?

    母が救われていたらいいなと思っています。

    天理教『『こどもひのきしんセンター』開設』
    ://youtu.be/GgslHgj8MlI

    • mani(管理人) より:

      pipitさま、おはようございます。

      お母さまとお父さまは天理教の方だったのですね。難病を患っておられたとお聞きして、親近感が勝手に湧いてきました。そして、pipitさまは、仏教に親しんでおられると。。

      わたしは、天理教のことはあまりわからないのですが、pipitさまのご質問に真剣に考えてみたいと思います。

      >南無天理王命(なむてんりおうのみこと)と唱えることでも、仏教的には救われていることになるとエム先生は考えられますか?

      時に救われていることになると思いますし、また時に救われていることにならないのではないか、とも思います。
      心が清らかであれば、何を行っても仏教になると思いますし、南無天理王命といおうと、南無阿弥陀仏といおうと、名称は関係ないだろうと思います。

      で、心が清らかでないとき(これが問題ですが)、この時は、仏教から落ちてしまっているだろうと思います。「心が清らかでないとき」とは、こだわりが生じているときです。
      たとえば、わたしが、阿弥陀仏は天理王命とは違うから南無阿弥陀仏といわなければ仏教では救われないと考えたとすれば、わたしは仏教から滑り落ちます。

      それから、天理王命はブッダほど素晴らしくないと考えたなら、これも仏教から滑り落ちています。

      他の宗教と比べることなく、そして、こだわらないとき、そのとき、わたしは仏教を信じていると言えるのですが、でもでも、こだわらなければ、仏教である必要もないかも。。です。

      「何なの?これ?」というところですよね。

      わたしが思いますのに、「こだわらない」ということにもこだわらなければ、それこそ仏教と言えるのではないかということなのです。つまり、仏教が空という思想を持っていると知って、その空ということにもこだわらずにいられる(=空ずる)なら、そのときこそ、仏教といえるのではないかと思います。

      「諸行無常」は仏教の法とされますが、このように、諸行無常であるとき、そのときこそ仏教だとされる。。と。
      諸行無常は、変化して止まない、また、生じたら滅する、ということです。
      生じて滅する ならば、仏法とすると、この世に仏法でないものなど見当たりません。こうして、ブッダは生じて滅したので、仏法でもあります。

      • pipit より:

        エム先生真摯な返信ありがとうございます!!

        私、例えば天理教の開祖である中山みき様は、私の世界の中では、仏教的に言えば『菩薩』って捉えてもいいんじゃないかなー、と、今は思っているんです。

        まぁこだわらんでもいいのかもしれませんが、そう考えると、やっぱり気が楽になるんですよね。

        • pipit より:

          信仰体系違っちゃったから….

          天理教的には、天理王命が万物の頂点だと思うので、助けてくれる人を「菩薩」と言うなら、仮にそう言いたかったらそう言えばいいよ、でもみき様の中に入ったのは天理王命だよ、ってなるのかもですが….

          んー、やっぱり宗教はデリケート!
          軽い気持ちで質問書き込んですみませんでした
          m(_ _)m

          • mani(管理人) より:

            pipitさま、こんばんは。

            ブッダの教えは、あらゆる生き物を救うことだから、仏教としてはこだわらないんだけど、天理教の方が、仏教と一緒にされて嫌だったりしたら困るので、その点だけが心配です。

            わたしの理解した仏教は、宗教としての形に決まったものはないのですが、ただ、ブッダは善いものを求めた。。そこに特徴があるのかな、と思います。

            現実として、苦しみのない生き方を求めるところが、天理教とも重なるのかな、と思ったりします。

            たしかに宗教はデリケート。。難しいですね。

          • ぎんた より:

            pipitさん、お久しぶりです。ほんと、宗教ってデリケートですよね~!

            ぎんたは無知によりうっかり他宗教の方に暴言を吐いてしまうことを恐れて、
            「すべての人は神でほとけ」としました。安全策です。なので、ぎんたから見たら、
            pipitさん(=神でほとけ)のご両親(=神でほとけ)がしている信仰は正しくて、
            もちろん中山みき様は神でほとけです。

            とした場合に、ご両親と中山みき様が同列になってしまうわけで、そしたら天理教の方々の
            お怒りを買ってしまうかも、、、しれないし、スルーしてもらえるかもしれない。。。
            「すみません、なにぶんにも猫なもんで、理解がざっくりしているんです」と言い訳したら、
            怒りたい神でほとけと、スルーしたい神でほとけが発生すると思いますが、どちらも尊い存在
            ですし、なにより「その反応を自ら選び取っている」ことに安心します。心は自由だから。
            で、その怒りをそのまま出すか、客観視して鎮めるか等、は所属する宗教団体によって違うかも
            だけど、あんまり自分の考えと違う教義を持った団体には所属しないほうがいいと思います。

            天理教のwikiを見に行ったら、ぎんたには超長文で頭くるくるしたけれど、あの、
            「陽気ぐらし」っていーーなぁーーーーーーーーーーと思いました。私も目指そう!って。

            あと、ぎんたが所属していた団体の開祖の母が熱心に天理教してたらしく、教書「一如の道」に
            みかぐらうたが出てきます。みかぐらうたの本をパッと開くといつも同じところが出ると。

            八つ  山の中へといりこんで   石も立木も見ておいた

            九つ  この木きろうかあの石と  思えど神の胸しだい

            それで、開祖は「お前はやはり、一生、神様のご用に使っていただくのだね‥‥」と言われて、
            まあ、そんなものかと思って育った、とか。

            もし、うちの家族に言ったら、本の頁に癖が付いてていつも同じとこが出るのだ、とか
            そもそも、すべての記述が嘘っぱちなんだよ!と言いそうです。

            取り留めなくてすみません~

          • pipit より:

            ぎんたさんへ

            お久しぶりです(^▽^)/

            亡き母は、「みかぐらうた」に出てくる「こころ(心)」という言葉がお気に入りだったようで、病気が進行してからは、歌に「こころ」が出てくると、父と顔を見合わせて(うん)とうなずいていました。

            私の実家では毎日少しずつ歌う箇所を進めながらおつとめするのですが、幼少の私は、何日かに1回だけ出てくる「よしよし」という言葉が好きでした。

            ちなみに父は正月におまいりにいってお賽銭(お札)を入れるとき、「紐つけとこうか」とよく言っていた気がします。

            魚釣りのようにお札カムバック計画…

      •  春間 則廣  より:

        以前 ここに(マニカナに) わたしは キリスト教徒 だと
           書き込んだ覚えがあります

         イエス は 仏教徒 です
           わたしは イエスを介して(解して)  「 仏教 」 を 見ます
             ( 見ることができる  「 仏教 」 に 帰依しています )
           親鸞を 信じるがごとくの  仏教徒  は 親鸞教徒 

          (ナザレの)イエス を 信じるがごとくの 仏教徒 である わたし

          (ナザレの)イエス を イエス“キリスト” と称する キリスト教徒

           ナザレのイエス  と イエスキリスト  とは  同一でしょうか ?

              違っていても、同一でも  構わない わたし

           キリスト教徒  と 称した方が   ( そこにおいて )
              伝わりやすければ  わたしは キリスト教徒 と 称する

         何が 伝わりやすいか  という     問題は
             伝える方の問題 ではなく   それを解釈する方 の 問題

          伝える方に問題がある  とする  聞く方の問題  は
            問題が起きなければ        起されることはない
         起きんなければ     問題は    ないか   という問題

           ( 新約 )聖書 の 読み方  に  問題がある時
            それを ギリシャ語から訳した者の 問題  は  二重に起きている

            もっと 言えば
        イエスの言葉を聞く 者(十二使徒) に 起きている問題 を
            問題とできなければならない

           ( わたしは  左の頬 を 差し出しているのです )

            右向け右  で 右を向く  あなたに  左を差しだす

              どこに  どのように   問題があるか  

                という問題  であり

                問題は 何であるか   という問題

           わたしは キリスト教徒 として    キリスト教の問題 を
                提起している  けれど   ( キリスト教徒には )
             仏教徒 はない者  には    問題を解決する術がない

           幾重にも 絡まった問題  を  紐解いているのではあるが

             そもそも  紐の結び目 に 気がつくまでは

          どのように紐解くか   が  “大きな” 問題となって

               眼の前に  「 壁 」 が 立つ  “・・・・・・・・・”

                   “・・・・・・・・・”
           その壁 に   むきあう  ( 面壁 )   ダルマ 薩埵

        •  春間 則廣  より:

            ちょっと 校正  したので 前回の投稿は消去してください
          ( 読みにくい という 問題がなければ  二重投稿のままで結構 )

          以前 ここに(マニカナに) わたしは キリスト教徒 だと
             書き込んだ覚えがあります

           イエス は 仏教徒 です
             わたしは イエスを介して(解して)  「 仏教 」 を 見ます
               ( 見ることができる  「 仏教 」 に 帰依しています )
             親鸞を 信じるがごとくの  仏教徒  は 親鸞教徒 

            (ナザレの)イエス を 信じるがごとくの 仏教徒 である わたし

            (ナザレの)イエス を イエス“キリスト” と称する キリスト教徒

             ナザレのイエス  と イエスキリスト  とは  同一でしょうか ?

                違っていても、同一でも  構わない わたし

             キリスト教徒  と 称した方が   ( そこにおいて )
                伝わりやすければ  わたしは キリスト教徒 と 称する

           何が 伝わりやすいか  という     問題は
               伝える方の問題 ではなく   それを解釈する方 の 問題

            伝える方に問題がある  とする  聞く方の問題  は
              問題が起きなければ       起されることはない
           起きなければ     問題は    ないか   という問題

             ( 新約 )聖書 の 読み方  に  問題がある時
              それを ギリシャ語から訳した者の 問題  は  二重に起きている

              もっと 言えば

          イエスの言葉を聞く 者(十二使徒) に 起きている問題 を
              問題とできなければならない

             ( わたしは  左の頬 を 差し出しているのです )

             右向け右  で 右を向く   あなたに  左を差しだす

                どこに  どのように    問題があるか  

                  という問題  であり

                  問題は 何であるか   という問題

            わたしは キリスト教徒 として   キリスト教の問題 を
                提起している  けれど ( キリスト教徒には )
             仏教徒 ではない者  には   問題を解決する術がない

            幾重にも 絡まった問題  を  紐解いているのではあるが

               そもそも  紐の結び目 に 気がつくまでは

            どのように紐解くか   が  “大きな” 問題となって

           眼の前に  「 壁 」 が 立つ  “・・・・・・・・・”

                    “・・・・・・・・・”
            その壁 に   むきあう ( 面壁 ) ダルマ  薩埵

          • mani(管理人) より:

            春間さま、こんばんは。

            >以前 ここに(マニカナに) わたしは キリスト教徒 だと
            >   書き込んだ覚えがあります

            覚えています、なるほど、とちょっとだけ思いました。

            >わたしは イエスを介して(解して)  「 仏教 」 を 見ます

            わたしは、ブッダの教えは、二つの部分に分かれると思っています。
            イエスを介しての「仏教」と、神を介しての「仏教」と。

            また、ヒンドゥー教も「仏教」としての要素を持っていると思っています。非常に微妙です。因果を認めますが、主である神も認めます。。ちょっと悩んでしまうところがありますね。

            わたし自身は、龍樹の系統ということで、ブッダの教えを受け取っています。
            日本人では聖徳太子とか、道元とか、です。法然、親鸞も。
            でも親鸞には驚きます。たしかに、あり得るんだけど、わたしには思いつけない道です。だけど、龍樹の道でもある。。

  3.  春間 則廣  より:

    > ブッダの教えは、二つの部分に分かれると思っています。
    > イエスを介しての「仏教」と、神を介しての「仏教」と。

      面 ということなら、 いくらでも 面 は 起こせます

        何を介そうと  「 仏教 」 は 一つです

    > また、ヒンドゥー教も「仏教」としての要素を持っていると思っています。非常に微妙です。因果を認めますが、主である神も認めます。。ちょっと悩んでしまうところがありますね。

        どのような 思想(信条) であろうと、
      (釈迦牟尼)ブッダ  以降のモノは 必ず
                  「 仏教 」 としての側面を持ちます
      釈迦牟尼 以前の ブッダ は
       釈迦牟尼がいなければ 顕われ出ることはありません
     釈迦牟尼以降 は 釈迦牟尼の “恩恵” を 受けずにいる者はありません

           微妙 で   悩みますか ?

    > 龍樹の系統ということで、ブッダの教えを受け取っています。

       ブッダの系統 に 龍樹も入るのみ
        ( 系統は一つ  ではあるが  側面 は 眺める面に起きる )

      龍樹 が どうであろうと、 ナザレのイエス は 龍樹には 差配されない

        イエス が 何を説いたか は 聞く人の 思惑で 変わりうる

       思惑をもって聞けば 自らの錯誤・顛倒 を 見出すのみ

        道元然り 法然然り 親鸞然り    当然 イエスも然り

         わたしが思いつく ように 彼らも思いついている

  4. ぎんた より:

    例えば、この、マニカナを閲覧したり、コメントしたりしている人々は「仏教」の学びが超絶
    捗ってると思って喜んでいいと思います。だって、なにか疑問に思ったら龍樹本人が中の人
    である先生に質問出来ますから。それはブッダ在世時の仏教教団にいるのと一緒ですね。

    で、問題は未来にあって、来世少なくとも1回以上動植物を生きた後に、また人間になるんですけど、
    「自他不二」と魂に入っていても、その意味を子供が正しく理解するには、どんなに早くても
    10年位掛かるじゃないですか。
    すると、自分ちの冷蔵庫と同じようにお友達の家の冷蔵庫を開けてしまう、とか「お前のおもちゃは
    おれのもの」と横取りするとか、、「諸行無常」も「生まれてくる意味なかったかも~」て思っちゃう
    とか色々弊害が出てくると思うんですよ。仏教を修めた上で来世しかるべきポジションに就いて、
    地球のためやら人類のためやら祖国のためやら家族のためやらになるどころか、家族以外の大概の
    集団(もしくは家族も)からはほとんど疎まれてるっていうコースに乗っちゃったら、挽回が難しすぎる、というかまあ無理なわけで。「このやんちゃな子供はお寺にでもやって修行させた方がいいな」っていう親はいませんから、時代がそうさせないし。

    なので、「馬鹿でもわかる」とか「子供でもわかる」レベルまで、仏教を広げまくって「常識」レベル
    にしないと、来世がピンチにゃんですよ。

    うーーーん、違う、、書きたいことではないような?これだとみんなを責めてるような
    感じになったり、脅してるような感じになる、、??かも?

    考えが纏まらない

    • mani(管理人) より:

      ぎんたさまぁ

      >だって、なにか疑問に思ったら龍樹本人が中の人である先生に質問出来ますから。

      それはないと思いますだ。龍樹は、めっちゃ頭よいです。心は、多少よいです。でも、わたしの心よりはよいです。

      ほんとは、pipitさまにも、もうちょっとましな返答をしたかったけど、最近、頭が働かなくて。。

      ぎんたさまみたいなこたえがいえたらなあ、って思ってます。。あら、ぜんぶひらがなになっちゃった。

      • ぎんた より:

        >ぎんたさまみたいなこたえがいえたらなあ

        この気持ち!!あの危険な団体でさんざん経験しましたよっっっ。そこから色々考え出した
        気もします。

        ○○さんみたいにできたらなあ、これ‥ぎんたの原点だと思います。
        長文のお返事書きますけれど、午後から取りかかろうと思います。

      • ぎんた より:

        えーーーっと、ですね、、、そう、、あ、すでに午前中書きたかったこと忘れてる、、、

        あの団体に入ると、いわゆる「精進」をするんですが、六波羅蜜の修行を開祖が分かり易く、
        「歓喜・お救け・ご奉仕」ちゅう「3つの歩み」としてくださって、この3つの中に6個全部入ってる
        から、、、みたいな。で、そうやって自分の人格を作り上げていくと、まあ因縁芽吹かない的な、、、
        悪因縁の中にあっても最小限で済む的な?で、中でもお救けは特に功徳が、、、みたいな。
        (すみません、もう全然あの団体の読み物とか読んでなくって大概忘れました)

        で、たとえばお友達を1人お誘いして、なにか特別な法要があって誰でも立ち会えるからと
        最寄りの精舎に連れてくじゃないですか、、
        そっからが地獄なんでしゅよ、、、だって、宗教やるって前世から前前前世とかに縁が発生したから
        結ばれるんだと思うんですけれども、(←そう思えたのは大分後のこと)それを自覚出来てる人は
        いません!(キッパリと) で、一般の人は「お参り」「御朱印」「仏像」「写経」「座禅」的な
        ものでお寺を考えていて、1回こっきりだと思って、付き合いで来てみたら、
        なんか金の涅槃像の前に、その像を制作した男性とその妻、長男の幼児と学ラン着た次男の胸像が
        あるとか!(やばい新興宗教とこ来ちゃったーーーーーー)てなって、次はありませんよ、フツー。
        そこをなんとか、説明して「へ~、それならちょっと通ってみようかな?」となるまで
        「お伝えさせて頂く」(説明するってことです、しかも祈りながら!!)無理すぎる~~

        で、私も、友達とかまあ一巡は話して、反応はまったく良くなくて、多分話すべきことも稚拙で、
        というかものすごく怪しくて、「諦めずに2回3回と種まき」なんて出来ようもなくって、
        「人の顔色を見て話すか話さないか決めるのは自分を守っているから」とか言われて、
        いや、1回恐怖やら不快感を与えたらもう何話しても入ってかないし、、とか思ってると、、、
        今度は「相手の悩みをきいて差し上げる、相手の言葉をすべて出し切ってからでないと、
        こちらの言葉は入っていかない」みたいに言ってくるわけですよ、、、、。
        あのw、、、私、家族をはじめ周囲の人には大変に危なっかしいというか「変」ていうか、
        子供っぽいていうか、とにかく信用無いことこの上ないのです、、誰も私に相談事なんてしないの。
        多分、その人の「プライド」も刺激して、余計に私の前では悩みなんて出さない。加えて
        あの子に悩みなんか話したら「勧誘」されるっていう警戒心があるわけです。当たり前です。でも、
        苑ではこーゆーのすべて「出来ない言い訳」とされるの。なのに接心では「あなたには出来る」て。
        1回出来ませんて言い返したら、「他の人に出来なくてもあなたは出来る!!」とか返ってくる。
        「もう、(そろそろ)始めないと」とか。ぎ(ずっとやってますけど?!!)みたいな。

        私、あの団体でやれって言われてて、自分でも「確かに理に敵ってるからやってみよう」と思って、
        実際やってみたこと、ただのひとっっっっっっっつもちゃんと出来なかった。思い出して泣いてる。

        で、やっと辿り着きました!

        ○○さんみたいにできたらなあ、、なんですが!!

        あのーお救けできないってことは、あの団体で発言する機会がかなり少ない、てことです。
        (それに加えて私、なにか発言しようとするとなぜか涙がこみ上げて来ちゃって話せなく
        なっちゃう)なので、人の話をきくとか、観察ばっかしてるんです。○○さんの司会は上手だな~
        私には出来ないな~、、○○さんはよく苑歌引用するけど、すぐ出てきてすごいな~
        私には、、以下略、、○○さんがいると場が和むな~、私には、、、、と際限がない。
        で、接心で、「人をうらやましがってばかりいないで、云々」と言われる。

        そうこうして、相当心がすさんだ状態になったころ今の代表「真如継主」が言うんですよ。
        「私にはみなさんの仏性(=善き個性)がちゃんと見えています」って。
        そうなんだ~~ありがとうございます、継主さまぁ!てなるわけですよ。心の拠り所に
        なりますよ。慈悲の心からそんな優しい言葉を言ってくださる!と。
        もちろんそれでみんなの心が救われているなら、周囲でカルトだとか言ったって無駄です。
        現にその人の心が救われているわけなので。

        で、その時の私も、継主さまぁ~!ってなってたんですが、、、、、、、
        「ん?私周りの人の良き個性、結構わかるとおもうんだけど?だてに観察してないし」と
        唐突に思いまして。。。
        じゃ、「人の良き個性がわかる」というのが私の個性でいーのでは?あと、一切なんも
        出来なくても、、、

        ぐうああああ、言いたいこととどんどんズレていくよーーぅ、午後から取りかかります
        なんて引っ張って置きながら、、最悪の結果にっっっっっ

        うーーん、、無理そうなので諦めます~
        続きもしません。中途半端に終わります~

        • mani(管理人) より:

          ぎんたさまさま こんばんは。

          「桜が咲いた!」にも、コメントありがとうございます。いっこ消した方がいいのかな、って思ったけど、わたしも間違ったら困るからそのままにしておくね。いいよ、平気だよ。

          >じゃ、「人の良き個性がわかる」というのが私の個性でいーのでは?

          それで、いいと思いますだ。素直に思ったことが書かれていて、ぎんたさまの優しい気持ちがよくわかります。

          って、今の代表「真如継主」さまみたいなものいいになっちゃったじゃん。

          わたしが、「そうそのとおり」と思うのは、ぎんたさまが、他の人の言ったことをそのまま信じて、その後、そのようにはならない(=違う)自分に気づいていくところです。

          言われたことは言われたこととしてきちんと受けとめながら、言われた内容とは違う自分の心にきづいて、それをなんとかしなくちゃと思ってる、ってとこが、すんごく共感します。

          あやしい団体になっちゃうのも、言われたとおりに受けとめようとするからですよね。

          たぶん、接心で「出来ない言い訳」とされるのは、出来ないからですよね。自分が出来ないのに、それをやれって言われても、「やりたくない(=納得できない)ことをやらねばならないのは苦しい」って、なっちゃう。

          わたしなら、どうするか。。求道の旅に出るような気がするけど、出来ないと思ってそのままスルーするかもしれない。

          おしゃかさまなら、どうするか?
          わたしが好きなのは、アーラーラ・カーラーマ先生についたとき、菩薩のおしゃかさまが先生の言われたとおりにやってみて、これは無所有処という境地に到達するだけだ、と、言ったそのことばです。「だけ」っつうのが好きです。

          (これを根拠にして、おしゃかさまは「空」に行くことになると思うんだけど、そのときはまだそれしかわからんだった)

          きっと、心からそう思えばそうなると思うから、心から思わないんだったら、「わたしは心からなっとくしてない」と思ってそのまま探し続けるんだろうな、って思います。

          求道者ぎんた!って、求道者maniはおもってる。。

          • ぎんた より:

            ううう、、、先生、優しいお言葉をありがとうございます。

            そうなんです。結果が出た人だけが「こんな私でも出来たんだから、あなたにも出来る」と
            言うんですよ。。「私」の前に「こんな」をつけるのは謙虚な心の表われであったり、
            み仏様とか護法善神様のお力が注がれただけで、私の力じゃないんですぅ~~て感じです。
            それが私の心に刃となって、刺さって血まで流れてるんですが、向上接心だと、
            「心がダイアモンドの様に輝くには、柔らかい言葉では研磨できない略」とか言われて、、、

            で、よく考えたら、好きなことって止められても、やるじゃないですか、、でも、
            嫌いなことはやりたくない、、、突き詰めて考えたらやっぱり何か教えの内容に納得して
            ないのかも?と思い始めて、、、考えるのは大好きだから、子供のころからの全記憶洗い出す
            ぐらいまでやった結果が、
            とにかくあの危険な団体は泥船だからみんな速やかに下船したほうがいいよと。
            (すーごい端折った)

            で、絶対今後誰も仏教の新団体なんて立ち上げないように、詳細な記録を取って、証明として
            建物は残して、「災害遺構」?みたいな感じにしたらどうか?という、、、

            だから、xとかで苑の「悪口」言ってる人をみると、「それ、めっちゃ正しい!」と合掌
            してしまいますね。助かる~と思って。

            今の言葉で言うと「自爆営業」ですか?自分で苑費払って友達を勝手に所属にするの、
            絶対ダメですから!!!でも、それをした人が一人以上いるお陰でそこをつけるから、
            これも助かる!!←でも、ちゃんと泥船沈められないと「善き」にならない。

          • mani より:

            ぎんたさま、苦労してきたんですねぇ。

            >結果が出た人だけが「こんな私でも出来たんだから、あなたにも出来る」と
            >言うんですよ。。「私」の前に「こんな」をつけるのは謙虚な心の表われであったり、
            >み仏様とか護法善神様のお力が注がれただけで、私の力じゃないんですぅ~~て感じです。

            「こんな私」が他人に勧めてはいけないと思います。ぎんたさま、その対応でいいんだと思います。
            自分がこうしようと思わなきゃ、そうしないですもんね。
            仏教は、自分から「やろう」とおもってはじめるもんだと、って思ってます。
            五根とか五力とか言うでしょう?信勤念定慧の五つだけど、最初は、信から入るからです。

            この人の言うことを信じてみようと思わないと、誰もそうし(=信じ)ないよね。
            自分からそう思うまで待つのが仏教だと思ってます。なぜなら、仏教は無我の教えだけど、最初は誰でも我(自分)があるからです。

            仏教って、むずかしいよね。言葉で言われても、どんどん変化していくんだから、それはすぐ嘘になってしまう、
            だから、嘘つかないんじゃなくて、いつでも、そのときの真実を言わなきゃいけないって、思うんだよ。
            どうせ、時間が経てば嘘になるんだ、せめて、そのときの真実を語っておこうじゃないか、ってことだよね。

            それで「こんな私」って言ったかもしれないけど、「こんな私」って言ってる段階ではもう嘘だよね。。

            こんな私でもでき「た」んだから… 

            もう過去だ。。  真実ならば現在形じゃなきゃね。そうなら、信じる人もでてくるかもしれない。

            って、わたしは思ってます(現在形だ!)

          • ぎんた より:

            >言われたことは言われたこととしてきちんと受けとめながら

            あ、これはですね、言われている今が「現実」だからです。フェイクじゃなくて。
            言われたことを受け取ったという物理的な真実がまず確実に存在するから。

            それと、猫から見たらみんなが「神でほとけ」だからです。取り敢えず信じておく。
            もし、嘘を言われても、そこになにか「神でほとけ」のねらい、目的があってのこと
            でしょうから。

            それと、物理的なことは一個前の地球の繰り返しだから、なにも間違えないから
            ふーん、て感じです。

          • mani より:

            ぎんたさま、続きっす。

            >言われている今が「現実」だからです。

            あ、それです、それ。ぎんたさまの文章読むと、ブッダの教えに則ってるなあ、って思います。

            >物理的な真実がまず確実に存在する
            >猫から見たらみんなが「神でほとけ」

            最初の文は、みんなに煩悩がある、ってことで、だから、誰でも無明から始める、ってことで、次の文は、どんな生き物も覚りにいける、ってことだなあと思います。

            諸行無常(あらゆるものは変化する、生じたものは滅する)って、ほんとうだなあと。

          • ぎんた より:

            >どんな生き物も覚りにいける

            悟りと、覚りがあったんですねーー。私の中だとこないだまで観てたドラマ「SPEC」のサトリの
            呪文、「サトリン、サトイモ、、」が一番に出てくる。「サトリマス♥」みたいな。このドラマで
            戸田恵梨香は「スペックを持ってる死者を召喚する」スペックを持ってるんですよ♪しゅごい

            どんな生き物も自分の覚りで自分を救えるようになったらいいのに。

            でも、お米が今こんなことになって、贔屓の煎餅やさんが「材料費の高騰」を理由に
            廃業したら、私は困る。毎日食べてるの。そこのお煎餅8種類位をぐるぐる回してはぼ毎日。
            食べ物の怨みは怖いんだよ。家族は「今回は不作ではなく、政府の失策だ」って言うの。

            な、なんだとーー!ぎんたものすごい怒っている。

          • ぎんた より:

            ほぼ毎日でしたー

  5.  春間 則廣  より:

    *    飛んで行く 空

    > 「南無阿弥陀仏」  いっちばん不思議   かも

       南無    帰依
      阿弥陀   非 思量
      仏      「 悟り 」 を 開いた 者・サット

       非思量 に 帰依 して   開かれた 「 心 」 に 住する

         その サット  と  対峙する ( 共に立つ ) サット
                     ( 同 “行”   二人  )
       ( あくまでも )     サット は 独り立つ ( 独 存 )

       ここを 信じると      “ ここ ” に   立っている
       ここを 信じない人 も  “ ここ ” にも  立つけれど 、、、、

      「  人の心 は 何処へも  飛んで行くことができる

        その 何処に於いても  佇むところを “ ここ ” と 呼ぶ

               “わたし” を 害してはならない  」

    > 凡夫なのに、凡夫なのに、人中の白蓮華とうたわれる人になるんだ。

       凡夫の 凡夫の為の 唯識     凡夫を知る 非 思量
     「 凡夫が凡夫に呼びかける唯識 」

      凡夫 とは      凡夫なる由縁         において
      凡夫 を  見下す・見上げる・と共立する  秀逸さを 握っている

      語ること  の 秀逸さ    語らないこと を 得ることはない

       得てはいない(「 空 」) を  どのように掴むか

          かいつまんで   話してみる 
                     “・・・・・・・・・”
         その壁 に   むきあう ( 面壁 ) 

    • ぎんた より:

      「面壁」調べたよ、久々に。。。

      したら面壁九年が出てきたよ。なんか仏教講座のサイトに至ったよ。52段階とか達磨とか。

      でしゅからね、ブッダになった後に、最低地球一個分以上生きた人が、この地球上にいっぱい

      いんでしゅよ。その人がなんか「実践」してくれんでしゅよ。京極夏彦とか魚豊とかが

      きっとそうでしゅよ。ゲージュツ方面の人達。

      寝てまってればいんでしゅよ。ゲージュツ方面じゃ嫌だって人は、先生が出す本が救ってくれましゅよ。

  6. Pocket より:

    mani先生、pipitさま

    Puṇḍarīkaは辞書を引くと「ハスの花」(lotus-flower)とあって白い蓮華に限らないようですね。
    日本のヨモギもpuṇḍarīkaと呼ぶようです。(Japanese mugwort plant / Artemisia indica)

    ヨモギも分陀利華。。。
    ヨモギのお団子、よもぎ饅頭になる分陀利華・・・(じゅるり)

    > 南無天理王命といおうと、南無阿弥陀仏といおうと、名称は関係ないだろうと思います。

    ですね。
    真宗だと久遠実成の阿弥陀仏を説きますから、大日如来も薬師如来もみんな法身のアミダ仏でしょう。
    南無天理王命といおうと、アミダ仏と同体ですから関係ないんではないかと。

    天理王命が本体で、アミダ仏は垂迹だと思おうと、それはその人の道であって、行としての実態は変わらないような気がします。

    • mani(管理人) より:

      Pocketさま こんばんは。

      > ヨモギも分陀利華。。。

      それは知らなかったなあ。。白蓮華と受け取っていました。
      それにしてもヨモギの季節になってきましたね。草餅の季節。

      utpalaは青蓮華、padmaは赤蓮華、puṇḍarīkaは白蓮華、その蓮が水面上にでているもの、水面に咲いているもの、水面下にあるものというように、分類できるんじゃなかったけ。
      『聖求経』からです。『マッジマ・ニカーヤ』のたしか26経だと思うけど。
      わたしは、それで理解してました。

    • ぎんた より:

      Poketさん!

      私はよもぎ餅(草餅)が大好きなんです。
      近所に美味しいお店があって、そこのはもう、なんというか、限界濃度ぎりぎりいっぱいの
      よもぎが練り込んであって、濃ゆい緑でヒカリゴケかってくらいの光沢があるんです!
      でも、そのお店は店主高齢のためということで閉店してしまい。。。

      仏教的には閉店を悲しんではいけなくて、限界濃度よもぎ餅に執着してもイケナイのでしょうが、
      誰か若い人が事業継承してくださっていたらな~と思いました。閉店して消え去ってから
      復活させるのは大変ですから。。。みんな(=神でほとけ)が美味しい草餅を食べれるように
      してくださったら、当然お店も繁盛するでしょう。神でほとけの店主が作る草餅だし。。。

      地元であと10年は厳しいかも、、、っていうカレー屋さんとかもあるんですが、
      「後を継がせてください!!」と体力がある常連さんが名乗り出てくれないかと祈るような気持ち
      です。てか、祈ってます。(新聞でちらほら昔ながらの喫茶店を常連さんが継いだりしている
      記事とか見ますから、そんな無理難題なお願い事でもないと思います)