「葦束」を考える

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春間さまのコメントから、「クロッカスは空」につけられたコメントを活用してあらたに論じてみます。

> * <オレンジ> は <果物> である   という前提
>     その前提 を 外しても
>   <オレンジ>があるとき <果物>がある

前提の「オレンジは果物である」と「<オレンジ> があるとき<果物>がある」は、この場合は、それぞれが、異なる思想による表現です。

前提に説かれる文では、概念の<オレンジ>は<果物>という概念に包摂されると考えます。

縁起を示す、あるものを縁として起こってくる場合とは違いますが、言葉で表されるとき、上のように似たような表現を作ります。

概念・オレンジは、概念・果物に包摂されると思ってから「<オレンジ> があるとき<果物>がある」というと、どうしても前の文の思想に引っ張られます。それは、実は、縁起によるからです。そこにも縁起が働いているのです。


だから、最初に縁起の思想を説明すれば、概念の思考をチャラにすることが出来るのですが、残念ながら、まず肯定文を出さなければ、それを否定した文は出せないというルールによって、なかなかやっかいなことになっているのです。
<オレンジ>があるとき <果物>がある
<オレンジ>がないとき <果物>がない
この式の順序からも、肯定文の後に否定文が来るとわかるでしょう。だから、概念思考を説明した後で、縁起が説明されることになるのです。(我の思想の後に無我の見方が来るから)

ここで「葦束」の経典が登場するのです。ブッダには、概念という思想はない。それは執着だからです。

たまたま言語でオレンジと言われるが、それはたまたまなのです。それは又果物とも言われます。ここに固定された実体はないが、なんとなく、わたしたちはみなはあるような気がしているのです。


ブッダの立場は、言葉は仮設であるというものです。だから、オレンジは「色(ルーパ)」といわれることもあるのです。
概念オレンジは、腐ったりしないが、わたしたちが食べるオレンジは腐ったりカビが生えたりいろいろします。だから、おいしいうちに食べようという発想になってくるのです。

例えば十二支縁起のように、「縁起」によって、一定の順序では語られるのです。そこは、ブッダによって教えられています。しかし、特別な二つのものの間の縁起では、人という字が 互いに支えあって立っているように、支えあっているだけなのです。


 <これ>があるとき<これ>がある
 <これ>がないとき<これ>がない

条件や原因が変わるとその結果も変わっていくのです。オレンジは果物とも呼ばれますが、そこにあるオレンジは食べる間だけあるのであって、食べると、「オレンジがないとき」果物はなくなるのです。

「葦束」の経典から。

友よ、これらの葦束のうち一つを引きさるとしましょう。一方から倒れるでしょう。他を引けば他から倒れるでしょう。まさにこのように、友よ、名色の滅から識の滅があります。識の滅から名色の滅があります。(「葦束」『サンユッタニカーヤ』12.67)

名色と識の間は互いに支えあっている構図です。これが特別な二つのものの間の縁起だと思ってます。

コメント

  1. Pocket より:

    mani先生

    >まず肯定文を出さなければ、それを否定した文は出せないというルール

    そのルールの名前、検討が付きました。「ヤターブータ」でしょう?違う?

    • mani(管理人) より:

      pocketさま 
      肯定文が先のルールは、とりあえず、わたしが作ったものです。
      これはクワインの『論理学的観点から』という本の冒頭に、何があるのかと問い、自らeverythingと答えていたので、そこから取りました。

      ヤターアルタではあるかもしれないけど、ヤターブータではないですね。
      ヤター・アルタは、実在論のニヤーヤ学派が使うものです。

      無明から始まるのが仏教だから、違うと思います。

      pocketさま、アンチ仏教がニヤーヤです。徹底してます。どうして、仏教に行かなかったんだろうと思っています。

      •  春間 則廣  より:

        > まず肯定文を出さなければ、それを否定した文は出せないというルール

           「 無 」 とは
                 すべてがある      のではなく
                  何もない        のでもない
                 何かがある       というわけでもない

            肯定が起きる  のではない  ゆえに 否定も起きない 

        >>まず肯定文を出さなければ、それを否定した文は出せないというルール

            これは (ルールの) 肯定文 ですか ?

             ルール には それを想定させる なにか(否定)が ある

           その何か を  肯定 と呼ぶか 否定 と 呼ぶか

            その どちらか  を 肯定(的)・否定(的)  と 見るのかな ?

        • mani より:

          >    これは (ルールの) 肯定文 ですか ?

          こうなりますよね。
          まあ、このルールは面と向かって言われることはありません。すぐに矛盾が見えてしまうからです。

          時と処。。このうち、どちらを優先しても矛盾が見えます。

          我を出さなければ無我は出せない。

          結局、我を出すなら、それを否定した無我を知ることになる。

          我と無我、両方があることを知るなら、両方共にないことも知る。
          戯論寂滅へと進む道を行くのがブッダです。

  2. Pocket より:

    mani先生

    >これはクワインの『論理学的観点から』という本の冒頭に、何があるのかと問い、自らeverythingと答えていたので、そこから取りました。

    ライプニッツは「なぜ何もないのではく、何かがあるのか?(pourquoi il y a plutôt quelque chose que rien ?)」と言っていますね。顛倒というのかな。

    >アンチ仏教がニヤーヤです。徹底してます。

    そんなニヤーヤが知りたいです!先生のニヤーヤ本待ってますよ!

    • mani より:

      Pocketさま こんばんは。

      >そんなニヤーヤが知りたいです!先生のニヤーヤ本待ってますよ!

      その前に龍樹をなんとかしなくちゃね。
      宮元啓一先生も、『タルカサングラハ』『タルカバーシャー』の翻訳を出されていますね。宮元先生は存在論であるヴァイシェーシカの人だけど、それよりはニヤーヤは流動的です。
      ニヤーヤは、一応因果を認めていますから。その辺を明らかにしたいですね。
      Pocketさまには、けっこう共感を呼ぶんじゃないかと思います。