
晩ご飯も終わったので、続きを書きます。クロッカスの別の写真もあげてみましょう。
仏教の立場を語るなら、「方便」ということが問題になるでしょう。「オレンジは果物だが、果物がオレンジなのではない」と語ったスマ長老。これを縁起で理解してみましょう。
<オレンジ>があるとき <果物>がある
<オレンジ>がないとき <果物>はない
概念的な理解が進んでいるので、現在あんまり使わないと思うけど、縁起の公式に乗せてみてます。ブッダで大事なのは「<オレンジ>がないとき<果物>がない」という式だと思います。縁起に概念という考え方はありません。
それじゃあ、どうしてことばで言うんだよ??ことばでは言えないことになってしまう。
たしかにそうです。だから、仮に名付けただけだと考えることになります。概念というのは、ことばの意味するものとことばが対応しているということです。「オレンジ」という概念は、オレンジと名付けられた果実を表し、名指されたものがどこかに必ず「有る」と考えます。
どこに?多くは、「頭の中に」と答えられるでしょう。だからどこにもオレンジがなくても、人々は話をすることが出来るのです。縁起も同じ事が言えます。「<オレンジ>があるとき<果物>がある」を考えると、現実にオレンジがなくても、思い出すだけで、この式が出てくるでしょう。
じゃぁ、おんなじことだろ?
そうじゃないんだなあ、これが。オレンジということばを縁として「果物」ということばが出てくるのです。聞いた人の中に「オレンジ」ということばと、その後「果物」ということばが出てきているんだ。そこで「オレンジは果物です」という文ができるんだよ。
オレンジがなかったら、何も出てこない。。オレンジがないとき <果物>ということばも出てこないので、何も言わずにおくのです。
<オレンジ>がないとき <果物>がない
それじゃあ、色即是空、空即是色は、どうなるの?
これは、色(ルーパ)についてブッダのことばを聞いてみないといけない。
3.比丘たちよ。たとえば、このガンジス川が大きな泡のかたまりをもたらすように、そのように眼(まなこ)ある人はこれを見て、静観し、正しく考察するだろう。彼が、それを見て、静観し、正しく考察するならば、それは、まったく虚ろなものであって、空虚であり、実質のないものに見えるであろう。比丘たちよ。それならば、どうして泡沫のかたまりに真実(精髄、サーラ)があろうか。(『サンユッタニカーヤ』22.95)https://manikana.net/canon/canonphenam.html
こういうわけで「色(ルーパ)は、すなわち、空である」と言われるんだよ。つまり、色といわれるいろやかたちは、中身がスカスカで実質がないんだ。いいかえれば、中身空っぽなんだ、ってことだよね。
そこで「いろかたちは空である」と言われるんだよ。じゃぁ、逆は?
「空であるのは?」と来たら、「空」を縁として何が出てくる?今聞いたばかりの「空とくれば、中身スカスカの色でしょ」ってならない?どう?他になんか思い浮かぶ人いる?
「歌は世につれ」と聞いたら、多くの人が「世は歌につれ」と出てくるでしょう。縁起だからね。
こんな話、信用できるのか?!って。
ではでは、龍樹の『方便心論』から引いてみるよ。涅槃は楽だという人がいます。又、涅槃は苦も楽もないという人もいます。今、涅槃は楽だという方を証明してみますよ。
又、説者があって「楽がある」と言うが、それはなぜか。楽には三種ある。一つ目の楽は楽を受けることである。二つ目は悩みや障害がないことである。三つ目は願望がないことである。涅槃の中においては何も求めることが無いのだから、したがって、涅槃を楽であると言ってもよいのである。(『方便心論』1.3.8.3.2 石飛『龍樹造「方便心論」の研究、p.79)
涅槃は楽だと知ったら、逆に、すぐ後に「楽なのは?」と聞かれて「涅槃」と言わないようなら、話を聞いていない人です。空も同じ。
では、さらに突っ込んでみよっと。「色」って概念じゃないの?
「いろ」と読めるから、「色は、いろやかたちをさすことばだ」、とも言えるし、色や形のついてるものはたくさんあるから、「物質」「物」ともいえるし、「形体」ともいえる。。こうなると、「概念」じゃないね。それで、仕方ないので「法」と言うんだね。仮に名付けられるだけなんだね。
こういうわけで、縁起を知るならば、空をも知ることが出来るんだ。。
朝が来たので終わりにしよう。
コメント
先生、こんにちは!
それじやぁ…
「在る という言葉」があるとき「在るという考え」がある
「在る という言葉」がないとき「在るという考え」がない
とも縁起の公式からはなりますか?
赤い実さま こんにちは。
>「在る という言葉」があるとき「在るという考え」がある
>「在る という言葉」がないとき「在るという考え」がない
縁起は、自分の中で自然と起こってくることなので、「在るという言葉」があるとき、という状況がつかめません。
「<在る>という思いがあるとき、<在る>ということばがある」なら、まだ状況がつかめるけど。
縁起は、こんな式だから何とでもなりそうなんだけど、意外と人間の考えの基本に沿っているような気がします。人間って、嘘がつけないように出来てるんだなあと思います。
先生、ありがとうございます。
>>「在る という言葉」があるとき「在るという考え」がある
>>「在る という言葉」がないとき「在るという考え」がない
>縁起は、自分の中で自然と起こってくることなので、「在るという言葉」があるとき、という状況がつかめません。
>「<在る>という思いがあるとき、<在る>ということばがある」なら、まだ状況がつかめるけど。
そうかぁ、縁起は「自分の中で自然に起こってくる」ときのものなのですね。
私がなぜ上のことを昨日書いたかというと。
人間は思考するとき言葉を使いますよね。
「在る」だけ出しましたが、「在る」とか「何も無い」とか考えるときもそれらの言葉を用いる、そして、「なぜ何もないのではなく何かがあるんだろう」などと考えます。
しかし、「在る」「無い」という言葉がもしなかったら、「在る」「無い」に関することに考えを巡らしたりもしないだろうな、というのから書きました。
でも、これだと縁起としては人工的だということなのですね。
人工的というか、考え巡らしたことを縁起の公式に当てはめているので自然ではない印象になるのだと思いました。
このことについては捨て置いていただいて大丈夫です。
それで、今日は、先生が記事で書かれていることの主旨を理解したいと思います。
>こういうわけで「色(ルーパ)は、すなわち、空である」と言われるんだよ。つまり、色といわれるいろやかたちは、中身がスカスカで実質がないんだ。いいかえれば、中身空っぽなんだ、ってことだよね。
>そこで「いろかたちは空である」と言われるんだよ。じゃぁ、逆は?
>「空であるのは?」と来たら、「空」を縁として何が出てくる?今聞いたばかりの「空とくれば、中身スカスカの色でしょ」ってならない?どう?他になんか思い浮かぶ人いる?
>「歌は世につれ」と聞いたら、多くの人が「世は歌につれ」と出てくるでしょう。縁起だからね。
大切なところを抜粋しました。
「オレンジ」が頭に浮かんだら、それは「果物」だな、と続けて浮かぶ。
「オレンジ」と頭に浮かばなかったなら、それは「果物」だな、と頭に浮かぶこともない。
先生が言われているのはこういうことなのかな。
順序があるので縁起になってますよね。
縁起から空が導かれるとき、相依性縁起から空が導かれているように書かれているのをネット上で見ることがあるのですが、これはそうすると先生としては違うと考えられるものになるのかもですね。
前に稲束の話で、人という漢字のように支えあうようにして立てるか、円のように立てるか、という話をされてたと思います。
日本では人という漢字のように立てるのがイメージされるけど・・のように。
赤い実さま おはよう。
さすが!鋭い!痛いところを突かれました。
>しかし、「在る」「無い」という言葉がもしなかったら、「在る」「無い」に関することに考えを巡らしたりもしないだろうな、というのから書きました。
>でも、これだと縁起としては人工的だということなのですね。
これだと縁起としては「人工的」(巧みなことだわ)。。つまり、行(サンカーラ)が入ってくるだろうと思うのです。行が入っても縁起にはなるのですが、行入り縁起は、煩悩入り縁起だから、縁起的には純粋度は落ちるだろうと思われます。
実際文章を読むと「『在る』『無い』という言葉がもしなかったら」と書かれていて、縁起としては此縁性(イダパッチャヤター)の縁起から想起が始まっています。現実には、『在る』や『無い』はことばとしてあるんだし、そのことをわかってもおられるのですが、思惟としては、言葉から入るよねと思っている(?)赤い実さまは、疑問が出てくるのだと思います。
実は、ブッダは、言葉と思惟の間には関係を設けません。言語を伴う思考もあるし(=ヴィタルカ)、言語を伴わない思考(=ヴィチャーラ)もあると考えています。
ここは最初、わたしもびっくりしました。必ず自分では言語を伴って考えていたからです。言語を伴う思考は「粗い思考(尋)」であり、言語を伴わない思考は「微細な思考(伺)」と言われます。
>相依性縁起から空が導かれている
ここは、「相依性縁起」の意図するところがわかりません。詳しい説明を聞いたことが無いのです。葦束のように、人の字のごとく「支えあう」としても、縁起にはよるのです。
一旦切りますね。
赤い実さま 続きです。
「縁起」は、サンスクリット語では「プラティートヤ・サムトパーダ(縁って起こること)」と、あって、ここに時間が入ってくることがわかるのです。「縁って」その後で起こるのです。色即是空、空即是色の場合は、色即是空を縁として空即是色が出てくる、といっても良いかもしれません。互いに支えあっているのは、その通りと思いますが、順序が付けられるのもその通りと思います。
疑問はあるかもしれませんが、これで納得もしています。
互いに支えあうというのも順序があるというのも、縁起についてどちらも当てはまるのですね。
その他にも教えていただいてありがとうございます。(_ _)
言葉を伴わない思考というのもあり、そちらを微細な思考と仏陀はしていたのですね。
ここでの微細とはどういう意味合いを指すのだろう?
微細だからそちらのほうが優れているというようでもない気はしますが。
そういえば。動物や赤ちゃんも言語化しないだけで考えてはいますよね。
うちの息子が2歳になる前、言葉の発達が少しゆっくりでしたが、
なにか一人でイラついて、おしゃぶりをわざと低い家具の裏側に私の目の前で投げ入れ、してやったり顔してました。
そこに投げたら簡単には取れないだろー、やったぜ!って考えてるのが手に取るように伝わりました(^o^;)
話がそれてすみません。
赤い実さんの息子さん、2歳前でそんな狙ったトコにもの投げれるの、凄過ぎ。
狙うって発想もすごい。
*
> 順序があるので縁起になってますよね
「 縁起 」 に なっているから 「 空 」 なのです
“順序” とは 「 空 」 なのです
( “順序“ が あるから 「 空 」 が 起きるのです )
ある一つの位置 から もう一つの位置 に 移る
一つの位置 とは 中心から 生れ出ている
( ある一つの位置 が 中心となり もう一つの位置 が 決まる )
「 中心 」 がない ということが 「 空 」 です
( 一つの位置 を 決めている “自分が中心” となっている )
( 中心となる 「 自己 」 がなければ 「 空 」 は ない )
この自分(という)中心 を 360度(180度四方八方から)
観察する 方法 を 「 二種の観察 」 とも 呼びます
( スッタ・ニパータ に その章 が あります )
*********************
二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。
・・・・・・・・・・・・・・
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
・・・・・・・・・・・・・・
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
*********************
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 156p~ )
どこに 中心が起きようと “どこからでも” 観察できる
“素因” なる 基準点 が ない 観察法
“ 素因 とは 自己 ” の 別名・位置の名称
およそ 自己が起きる のは 「 苦 」による
( 「 苦 」が起きて 「 不苦 」 が 起き、
「 不苦 」 を 「 楽 」 とする )
「 自己 」 を 起こすから 「 苦 」が そこに起きる
「 無明 」 を 起こすから 「 苦 」が そこに起きる
「 自己 」 を 起こすから そこに 「 無明 」が 起きる
「 自己 」 から 残りなく( 360度全方向に )離れる
その すべての観察 が “ 二種の観察 ” です
“ 修行僧 ” に 伝える 「 道 」 とは
正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心する こと です ”
( 修行僧 以外 には “ 決して ” 伝わらない )
たとえ あなたが 伝え聞いても 意味をなさない
( “あなた” が 修行僧 という 名称 の 別名 で ない限り )
いくら 善いことを 積み重ねてきても
「 悪 」 を 為した時点から 「 悪人 」 と 呼びます
いくら 「 悪 」 を 積み重ねてきても
「 善 」 を 為した時点から 「 善人 」 と 呼びます
・
> 「 縁起 」 に なっているから 「 空 」 なのです
> “順序” とは 「 空 」 なのです
なるほど。そうですね。そこを理解するのに苦労しました。
> この自分(という)中心 を 360度(180度四方八方から)
> 観察する 方法 を 「 二種の観察 」 とも 呼びます
そこはわかります。『スッタニパータ』も確認してます。
> いくら 「 悪 」 を 積み重ねてきても
> 「 善 」 を 為した時点から 「 善人 」 と 呼びます
ブッダは、誰も見捨ていないことが、ここに現れています。
仏教で何が好きかと言って、ここの部分をおいて他にはないだろうと思います。
いつもパソコンからですが今日はスマホからなのでメルアドが違うせいか、承認待ちです、と出ました。
いつもの赤い実です。念の為(^^ゞ
赤い実さま こんにちは。
どうして承認待ちになるのかよくわからないんだけど、
ひさしぶりだからかなあ、って思ってます。
春ですね。。桜咲いてますか?
*
***********
<オレンジ>があるとき <果物>がある
<オレンジ>がないとき <果物>はない
***********
> <オレンジ>があるとき <果物>がある
* <オレンジ> は <果物> である という前提
その前提 を 外しても
<オレンジ>があるとき <果物>がある
* <オレンジ> は <果物> である という前提
<果物> が あるとき <オレンジ> がある
<オレンジ>があるとき <オレンジと呼ばれる果物>がある
<オレンジ> が <果物> ではないとき
<果物> が あろうと <オレンジ> は ない
> <オレンジ>がないとき <果物>はない
<オレンジ>がないとき <オレンジと呼ばれる果物>はない
オレンジは <果物> である
<オレンジ> は <果物> である という前提 に関わらず
<オレンジ> が なくとも <果物と呼ばれる 葡萄> は ある
・
ぎんたさん、こんにちは(^^)
イライラのストレス解消のため、狙って投げたんだよ。
歩けないうちは泣くしかストレス解消法がないけど、身体と経験的学習からえた知識を使いストレス解消をしだした時期だったみたい。反抗期もあったと思います。
髪の毛を強く引っ張られたりもしたよ。
今は穏やかな青年だけどね。
言葉話せない時期の、人間の脳内ってなにやら凄そうだ!毎日もの凄い勢いで「更新」し続ける、
みたいな感じなのかな?それに付き合う大人も、何かすごいトコロに行けてしまいそうだよ。
子育てって絶対したほうがいいよねー。私が言うのもなんだけど。
子供の足音だけで、機嫌の善し悪しが判るとかそんな領域があるんだろうと憧れます。
ぎんたさんへ。
いやさすがに足音で機嫌がわかったり゙はなかったし、私は賢い母ではなかったの。
息子は親のどっちにも似てない割といい性格なんだけど、幼児のときにはそんな将来が心配になるような行動してたの思うと、ほんと無常、無我を感じる。
返信お気遣いなくね(^^)
赤い実さま、ぎんたさま、こんばんは。
>息子は親のどっちにも似てない割といい性格なんだけど、幼児のときにはそんな将来が心配になるような行動してたの思うと、ほんと無常、無我を感じる。
すごく実感します。こどもって、ホントに千差万別だなあと思います。こどもの頃、どうなるだろうと心配になるような行動をしていても、おとなになったら立派な理性をわきまえた人になるっていうのは普通にあることですよね。むしろ、理知的な人が多い印象すらあります。
尋(粗い思考)と伺(微細な思考)ですけど、話の出来ないこどもも「考えている」というのも実感します。
ヴィトゲンシュタインなんかは、論理にその役割を持たせているじゃないかと想像してます。
わたしの想像だけど、ブッダも「論理的な何か」に気づいてそう言ったのかなあ、って思ってます。動物とかこどもとか、行動で示しているなあと思ったり。ヨーガを熱心に行うのも、そういう肌感覚を身に付けるためじゃないかと思ったり。
わたしは、インドでヨーガや瞑想を行うのは、そういう肌感覚の論理を身に付けるためだと思ったりもします。どう思いますか?
先生、ありがとうございます。
語るのではなく示す。拈華微笑というのもそのひとつになるのかな。
ヨーガ。よくわからなくて言ってしまいますが、眠っている微細な感覚を呼び覚ます目的というのもあるのかもですね。
食事も荒いジャンクなものはけして食べないですよね。
mani先生、いろいろ言いたいことが出てきたので、反論したいと思います。
また私が言い過ぎていたら、指摘してください。
>「空であるのは?」と来たら、「空」を縁として何が出てくる?今聞いたばかりの「空とくれば、中身スカスカの色でしょ」ってならない?どう?他になんか思い浮かぶ人いる?
「空であるのは?」(yā śūnyatā sā kim?)と聞かれたら、
「それを問う意図は何か?」と私は問い返したいと思います。
「空即是色」(śūnyataiva rūpaṃ)は「空であるのは?」という問いに答えているのではなくて、あらたに「空であるの、それは色である」と主張を起こして、「色即是空」の世界に留まらない、ってところが重要なんじゃないかと思います。そうでないなら「空であるのは……」(śūnyataiva…)とあえて「空を語る」意味はないからです。
阿羅漢の解脱の道なら「色即是空」で充分です。「色即是空」で空解脱門に行けます。あとは空ならば、無相解脱、無願解脱っと順番にぜんぶに通達します。
でも菩薩の道はそうじゃないと思います。だからこそ「śūnyataiva rūpaṃと」現象の「仮有」(*Vyavahāra-sat、言説有)の世界に帰ってくるのだと考えます。
「色即是空」と観察することから「言説有」に帰ってくる限り、解脱することはありません。「rūpaṃ śūnyatā」で止まるのは、龍樹が「菩薩の死」(*bodhisattvānāṃ maraṇam)と呼んだのだ事態だと思います。
「rūpaṃ śūnyatā」は「śūnyataiva rūpaṃ」と即座に続くことで完成しています。二つで1セットです。
「色は空である」(rūpaṃ śūnyatā)とだけ観察した菩薩は、菩薩道の道半ばで「死にます」。阿羅漢として解脱するので。
>涅槃は楽だと知ったら、逆に、すぐ後に「楽なのは?」と聞かれて「涅槃」と言わないようなら、話を聞いていない人です。
そうですかね、「涅槃是楽、楽是涅槃」は菩薩にとってはマズイです。解脱まっしぐらです。
>空も同じ。
「空であるのは色」という時、空に留まることから離れて、現象の世界に戻ってきています。
これは「色は空である」という言葉によって、一人だけ解脱することから離れるための言葉です。前者の涅槃と楽の関係とは論理が全く違います。
「涅槃是楽、楽是涅槃」と同じ論理で「色即是色、空即是色」というなら、その人は解脱の道に向かうでしょう。菩薩の波羅蜜の世界には行きません。
「空であるのは色」として、「仮有」(言説有)の世界に戻ってくるからこそ、菩薩の般若波羅蜜が成り立つのじゃないですか?
『大智度論』では、「空であることも空と見なさい。これが般若波羅蜜です」(或説空亦空是般若波羅蜜)とも説かれていますね。
私はこれを「空であると見ることも通り過ぎなさい」という風に龍樹菩薩は云いたかったんじゃないかなと思いますね。
とにかく、龍樹菩薩は一貫しています。
一貫していないのはDavid Kalupahanaのような、『中論』をニカーヤ・アーガマの変奏だと理解する人たちだと思います。『中論』を中論自身の論理で読むのではなく、(ある種の)論理実証主義者として解釈する立場です。
『般若心経』は大乗特有の論理を持っていると思います。大乗の華厳宗の賢首法蔵大徳ならもっと立派にスマサナサーラ長老に反論するでしょう。賢首法蔵大徳の注釈書を読んで私が感じたことです。
mani先生は、スマナサーラ長老の批判に沈黙したのではなく、重大なクリーンヒットを喰らって、黙る他なかったのではないか、と周りからは見えてしまいます。沈黙したからです。
黙ることが、すなわち争わないことではない、というのは龍樹菩薩が実践した通りです。時には言葉を発してmani先生のいう「争わない」論法を駆使して対話することが必要だと思います。
ですから、黙らずに反応する、ということも争わないことです。お互いの立場を確認することだからです。
『ミリンダ王の問い』のように、これが「賢者の議論」(paṇḍitavāda)です。
語るべき人、語る能力がある人が黙ることによって、『般若心経』を信仰するひとたちの感情は深く傷つきます。
この場合、「沈黙は金」ではなくなります。
「応時語」でもなくなります。
「応時不語」というのは『方便心論』にはなかったですよね。
こんな所でアップします。
pocketさま こんにちは。
>「空であるのは?」(yā śūnyatā sā kim?)と聞かれたら、
>「それを問う意図は何か?」と私は問い返したいと思います。
śūnyatāという言葉だけ、ブッダの縁起には出てきていないからではないでしょうか。
これは正確には龍樹の造語の可能性があります。
縁起の四つの式に関しては、
ṭhitāva sā dhātu dhammaṭṭhitatā dhammaniyāmatā idappaccayatā. (sn.12.20)
これら四つが、-tāという接尾辞を付ける形で、縁起の世界の見方をまとめています。
これを応用すると、縁起ではなく、空という見方は、「空性」と名付けられるでしょう。「スンニャ」はブッダは語りましたが、スンニャターは、ブッダは出しませんでした。
これは龍樹オリジナルだと思いますが、しかし、どこを取ってもブッダの教えから導かれます。
さらに、śūnyatāが必要なのは、「一切智」と結びつくからです。モーガラージャンに教えたとき「世間を空とみるなら死王は見ない」と告げました。
モーガラージャンはバラモンの学人です。ヴェーダやウパニシャッドにも詳しいことでしょう。
彼らの発想では、四句分別が重要なものの見方です。「空」は、そのなかで第三番目に位置する見方を形成します。見解を持つなら四句分別です。ある見解Aに対して、それを出すとそれを否定するような見解「Aで無い」が出されます。A、Aでない、AかつAでない、AではなくAでないのでもない、という見方が取られますが、これが四句分別の一つの形です。
「AかつAでない」で「一切」を構成します。これを空っぽと見るのが空性という見方です。色(物質)はガンジス川の泡の塊のようなものだから、それらを空とみようというブッダの側からの提案なのです。なぜ、そう見るのか?
ブッダは一切の生類のために法を説いたからです。だから、仏教は一切の生類を対象とするのです。
菩薩となった人々は元はバラモンだった人たちが多いのでしょう。龍樹も又バラモンの出身でした。
独立独歩の道を行くものたちは、各自が菩薩となってブッダの教えを受けながら、しかし、ブッダにも頼ることなくオリジナルに進んでいくナーガ(龍)となったのです。
pocketさま、こんにちは。
なかなか手厳しいですね。「色即是空、空即是色」について。
>「色即是空」の世界に留まらない、ってところが重要なんじゃないかと思います。
わたしは、これ(わたしの答え)でいいと思うけどなあ。何故かと言えば、śūnyataiva rūpaṃだからです。つまり、この見えてる世界を空だ、または空性だというのであれば、逆に空性とは何かと問われてみても、見えてる世界以外に世界があるわけでもないのだから。
スマナサーラ長老がホントに誤解して「オレンジは果物だが果物がオレンジではない」と言ったのなら、わたしはますます沈黙しますです。言えない。。まあ、違うと思うけど。
『無門関』の32に「外道仏に問う」というお話があります。外道の質問に黙然するブッダ。なのに、外道は、賛嘆して去って行きます。後で、ブッダが「良馬が鞭の影を見て走り出すようなものだ」と説明します。
これは『大智度論』の中にも出てきて長爪長者の覚りの説明に「良馬」の喩えが用いられているのです。
龍樹の喩えの使用が、『無門関』の32の話とわたしの中でかぶるので、龍樹も言わないんじゃないかと踏んでいます。
>「涅槃是楽、楽是涅槃」と同じ論理で「色即是色、空即是色」というなら、その人は解脱の道に向かうでしょう。菩薩の波羅蜜の世界には行きません。
「涅槃是楽、楽是涅槃」は、一向、分別、詰論、止論の中の分別論を元にして作られたものです。共通の論理が使われていると思います。菩薩の波羅蜜の世界に行くと思います。
pocketさまの、断定した物言いには、何かこだわりでもあるのかなと感じます。
mani先生
>ṭhitāva sā dhātu dhammaṭṭhitatā dhammaniyāmatā idappaccayatā. (sn.12.20)
>スンニャターは、ブッダは出しませんでした。
>これは龍樹オリジナルだと思いますが、しかし、どこを取ってもブッダの教えから導かれます。
世間を空なりと見なさい、空から考察しなさい。(suññato lokaṃ avekkhassu)ですもんね。世間を空の視点から見る人は空性も説くことができるでしょう。
>「空」は、そのなかで第三番目に位置する見方を形成します。
ありゃ!私には第四句の「AではなくAでないのでもない」に見えます。。。
>「AかつAでない」で「一切」を構成します。これを空っぽと見るのが空性という見方です。
ここは『金剛般若経』の香りが漂ってきますね。
「その時、尊者スブーティは世尊に申し上げた。「世尊よ、未来世において衆生があると聞いて、この法を説くことは信心を生じるのでしょうか、生じないのでしょうか。」世尊は仰った、「スブーティよ、かの衆生ならざるものは、衆生ならざるものではありません。なぜでしょうか?スブーティよ、衆生、衆生というが、如来は衆生ならざるものを説きます。これが衆生なのです。」
(爾時慧命須菩提白佛言。世尊。頗有衆生於未來世。聞説是法生信心不。佛言。須菩提。彼非衆生非不衆生。何以故。須菩提。衆生衆生者。如來説非衆生。是名衆生。)
>わたしは、これ(わたしの答え)でいいと思うけどなあ。
>この見えてる世界を空だ、または空性だというのであれば、逆に空性とは何かと問われてみても、見えてる世界以外に世界があるわけでもないのだから。
「見えてる世界以外に世界があるわけでもないのだから。」という所で、お互いに納得しあえると思うのですが、
「空性とは何か」と再度問うなら、それは同じことの繰り返しではない、別の意趣があると思うのです。
>まあ、違うと思うけど。
いやあ、本気で言ってると思いますよ。スマナサーラ長老がこういうことでジョークを言うとも思えませんし。
>pocketさまの、断定した物言いには、何かこだわりでもあるのかなと感じます。
大乗は不住処涅槃を目指すのであって、涅槃に留まることを目標とはしないんじゃないか、と思います。
pocketさま こんばんは。
>ありゃ!私には第四句の「AではなくAでないのでもない」に見えます。。。
ああ、それもあります。 そう取ると、苦楽二辺の中道になりますね。カッチャーヤナに語った「ある」と「ない」の中道の方にはいけないので、第三の選択肢にしています。
ゲーデルで言えば第1定理かな。
> いやあ、本気で言ってると思いますよ。スマナサーラ長老がこういうことでジョークを言うとも思えませんし。
まあ、そうかもしれないけど。。。
そうなら、いつか訂正してくれると思います。
日本の大乗諸派の立場を尊重します。三宝を敬うべしというところです。
縁起によって解説してくれると思っています。
>大乗は不住処涅槃を目指すのであって、涅槃に留まることを目標とはしないんじゃないか、と思います。
『スッタニパータ』にありますね。不住処涅槃のことが書いてあると思います。
そして、比丘たち(仏弟子たち)にも同じ教えが説かれていると思います。『法華経』は正しいと思っています。
『スッタニパータ』の1094がそうです。
1094何も所有していないこと、取著のないこと、これが中洲にほかならないのです。それは、老いと死の滅尽である「涅槃である」と、わたしは言います。
ブッダはカッパという学人に教えていますね。阿羅漢になったものたちが「清浄行を伝えなさい、二人で行くな、一人で行きなさい」とブッダに教えられて出かけていくのは、そこを指していると思います。
ブッダの「争うな」の教えは、自分で開発していく新たな道であり、そこは仏弟子にも外道たちにも、また、凡夫にも等しく教えられていると思います。
pocketさまのこだわりがわかりましたよ。不住処涅槃は中洲(ディーパ)だと言うところです。そこは、すべての人に平等に教えられていると思います。