

おお?!嘘でしょ!!昨日(9日)は、まだまだ先だと思っていたのに、なんと今日(10日)は、もう咲いています。奥の方にはスノードロップの芽も見えています。
なんか、今年も終わったかな、って感じがしてきました。雪は道路脇に残っている程度で、冬の間に道路に蒔かれた滑り止めの砂利が残っています。今年も1年が早そうだ。
pocketさまのコメントを読みながら、龍樹の『中論頌』や『方便心論』を思い返していました。pocketさまのことばでは、「『方便心論』はなんだかサンスクリット原文が透けて見えるような文章ですね」とのことですが、わたしもそう思いました。
考えてみると、たしかにmanikanaでは歯切れが悪くなったというのは、そういう印象だったのかもしれないと思いました。
わたしもちょっとだけ思ったのです。スマ長老は概念的な理解であると誤解されるかもしれない、って。
「オレンジは果物だが果物はオレンジではない」は、集合の概念ではオレンジの集合は果物の集合に包摂される、と考えますが、そう考えるとパラドックスがわんさか出てきてしまう。。
まさか、スマ長老がそんなことを主張するわけがない、と思って、スマ長老のことだから正しい答えは言わないだろうと思いました。相手が勝手に誤解しているのです。どうしてわざわざさらに誤解されるかもしれないのに、ブッダの縁起を詳しく言う必要があるでしょうか。。
「ブッダの公式」と名付けた縁起の公式は四本あります。『相応部』12.20
<これ>があるとき <これ>がある … 「定まっていること(ティター)」
<これ>が生ずるから<これ>が生ずる … 「法として住立していること」
<これ>がないとき <これ>がない … 「法として決定していること」
<これ>が滅するから <これ>が滅する … 「これを縁とすること(イダパッチャヤター)」
知るものだけが知る、と思い、わたしは上座部の立場を知って、それ以上は言いませんでした。「空」は説いてはならないという立場を守るのが、上座部です。上座部の長老は「空は説かずに瞑想などで到達する」と考えているのでしょう。
ところが、わたしの依拠する『スッタニパータ』の「八偈品」はそれだけでなく、菩薩の立場も説いています。ここを龍樹は基本に置きました。わたしは上座部の立場は取りません。龍樹と同じように、菩薩の立場を取る方が向いています。
空は四句分別を応用して解釈できるのです。第三の選択肢「Aである」と「Aでない」をどちらも認める立場です。そして第四の立場「Aであるのではない」と「Aでないのではない」を取り上げるところで、誰も思いつかなかったブッダの立場が明らかになるのです。
「空」は、すべての場合(一切)を扱うところから、あらゆる生類を救うのです。
pocketさま推奨の般若経典は、わたしの目には少し足りないものがあります。戯論寂滅までが見えてこないのです。もちろん、空を、つかんでいることは確かです。上座部の延長上にあって、まだ、足りないところがあるような感じです。
おっと、晩ご飯の支度をしなくちゃならないのでひとまずこの辺で、終わりにします。
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