
とうとう雪解けの季節です。ふきのとうが芽吹いた。クロッカスも白いところが見えます。

けっこう白いね。あっという間に咲くんだろうね。寒くはないね。もうプラスの気温だし。。
仏教がホントに身近になってきました。「なんであれ、生じるダンマのものは、滅するダンマのものである」
ただこれだけのことを知るのに、一生をかけることになるんだね。知りきれない有情は、輪廻する。ただそれだけのことなのに、ブッダは菩薩になって輪廻を繰り返して、了解したとき「悟りを開いた」と述べました。
わたしも、ブッダの歩みを歩んで、少しわかってきたような気がします。十二の縁起は、それぞれが一つのテーマを構成する壮大なドラマなのです。
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死⇒苦
識と名色と有(sat,bhava)は、ブッダ当時の人々の思想的基盤でもありました。ヴェーダの宗教は、当時の最高の思想でした。ブッダは、そこに割って入ってきたのです。
『スッタニパータ』の第五章「彼岸道品」に出てくる人々は当時の最高水準の学人を集めたエリート集団と言っても良いでしょう。バラモンの出身です。15番目に登場するモーガラージャンは、「空」をブッダから習いました。16人の学人の内最後にくる16番目のピンギヤは、ブッダを正しく理解して、いずれ自分も悟りに向かうことを知っています。
ブッダの亡き後、バラモン教の側に六派哲学が生まれてきますが、いずれも根本経典にはスートラ体を保存しています。スッタ・ニパータは「スートラ(みじかいことば)を集めたもの(ニパータ)」という意味です。
インドの学問の伝統は、ブッダによって作られてきました。所謂スッタまたはスートラと言われるものです。スートラ体は、短いことばで暗記に便利なように作られたものです。何故、スートラ体なのか。それは実践によって身体にしみこませて覚えていかねばならないからです。
実践を伴うとき、頭の中だけで考えて見いだしてくるものとは違います。ここで、インドの伝統が生まれます。ヨーガ(精神集中)の文化です。
古代インドは、禅定やサマーディの国でした。思考だけではなかったのです。身体に特化した思想を持つ希有な国なのです。五蘊(ごうん)の国なのです。人間存在を五つに分けて、その集まりと暫定的に考える国なのです。色受想行識、色は身体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志や意欲などの形成作用、識は識別判断の作用。
その中で、ブッダはわかることとわからないことに分けて、わからないことは決して語らなかったのです。ただ、それだけを徹底したのです。
こうして仏教が生まれてきたのです。哲学でもあり、科学でもあり、幸福を目指す生き方を探る学問。あらゆる生き物を対象にした壮大な救済の哲学。
ブッダは、幸福を求めるとは言わなかったのです。彼は,何を求めると言ったのでしょう。
苦しみのないことを”求めた”のです。「求めた」に’’“がついているのは、最初には「求めて」いるからなのです。つまり、わたしたちは自分を変えていかねばならないのだけれど、求め終わったら、「求めること」はなくなるので、それまでの間、求めていくのです。
ブッダは、わたしたちに、自分の到達点を教えたのです。わたしたちは間違っているところから始まるというのが、そのあり方なのです。間違っているところと間違っていないところを知って、それで間違いのないところ(=涅槃)に到達するのです。これが、インドの理想なのだと思うのです。
とりとめなく思いついたことを書いてみました。
自分でも、どこに目が向くかわからないので、何を語るのかはっきりしません。つまり十二支縁起のどの支(部分)に目が行くのか、語ってみるまでわからないのです。
ブッダの対機説法(相手の気根に合わせて説法すること)が何故生まれてきたのか、よくわかります。何を話したらよいのか決まっていないので、相手の疑問に合わせて語る以外方法がないのです。
なんとなく、少しわかってきました。「何を話したらいいんだろう」ってけっこうわたしも悩んだりするのです。テーマを決めてもらえると、それに合わせてするする出てきたりするのです。
そこから、「無我」ということも了解してくるのです。我(アートマン)といわれてはじめて、無我(アナートマン)ということも出てくるとすれば、最初に「有(sat)」と言い出さないと「非有」とは言えないということでもありますか。。。なるほどなぁ。
まあ、我(神)の宗教と無我の宗教があることがわかったのだけれど、それを識の世界のこととするのが、また、仏教でもあるんだ。
だからね、仏教の教え(法)の中に、唯識という分野があるんだよ。。
。。結局、タイトルが「ふきのとう」で、仏教の話だったな、って言わないで。。
コメント
*
> 「なんであれ、生じるダンマのものは、滅するダンマのものである」
“あなた” に 問う
これ って ブッダが 言っているの ?
それとも あなたが 言っているの ?
あなたの言葉 を 聞いている わたし が
ここにいるのか
ブッダの言葉 を “ 聞いて いる ・ いない ”
わたしの存在 は ある のか ・ ないのか
( 聞いている わたしの存在 は
これを読んでいる “あなた” に あるのかないのか )
( “わたし” は これを読んでいる けれど “アナタ” は どうか )
つまるところ “ あなたが 存在するか 存在しないか ”
という “ 問い ” の 存在 を 疑問視する
わたしが どのように “つまっているか” ・ “煮詰まっているか”
ということ を 提示したい
「 生じていない ダンマ は 滅することはない 」
「 生じている ダンマ は (たとえそれが) 滅するモノであろうと
生じているのであり “今” (ここに)生じて 存在し 滅していない 」
問題 は 先のこと(未来) ではなく 今の存在 に 起きている
( アナタ のこと ではなく コナタ のこと を 観ています )
過去 に どうあったか ではなく 今 どうあるか
( ブッダの存在 ) ( あなた・わたし という 存在 )
“ この 二つ の 問 ” は “ 「 今 」 に 集約 されている ”
“ 「 今 」 に 集約する ”
彼方 に (コナタの)問い を 起こす
・
>> 「なんであれ、生じるダンマのものは、滅するダンマのものである」
> “あなた” に 問う
> これ って ブッダが 言っているの ?
> それとも あなたが 言っているの ?
わたしかな。。コーンダンニャが初転法輪の時に理解したことばです。
生滅をブッダの法の特徴とみるところは、新しいけど、ここで終わるなら仏法にはいけない。。だけど、第一歩ではある、ということで。
*
> わたしかな。。コーンダンニャが初転法輪の時に理解したことばです。
( わたしの ) 言っている意味 を
とり違えているけれど違えているけれど 、、、、
ブッダ が 語ったとされる( ブッダから そのように聞いた )
聞いた人 が ( 解釈した ) 解釈なしのそのまま
だと、 信じて 疑うことができない ことば
それが、 テキスト として のこされ、受け継がれ
それを、 あなたは ( 解釈なしで 如実 に 読んで )
解釈する( 解釈ではない と 解釈する )
それに対して、 わたしは 疑問を起こす
( その 疑問を起こす わたし を 疑問視する )
> ここで終わるなら仏法にはいけない。。だけど、第一歩ではある、ということで。
第一歩 とは “大”一歩 ですか ?
百(大)歩 譲って その一歩 を 問う
( 第 を つけるからには 次 次 が 起きる )
→ 小から始まり 大へと移っていく/ 一 から 多 へと 移る
留まっているか のように 読むことができる故に
その “故” を 問うている
引っ掛かっている 「 認識 」 の 「 タンショ 」
・
春間さま 取り違えてはいないと思いますが。。
> 第一歩 とは “大”一歩 ですか ?
そうです。仏教が既存の宗教と対立するところだから。。
> 引っ掛かっている 「 認識 」 の 「 タンショ 」
我と無我に集約されるところです。ここはどうしても対立せざるを得ないのですが、ブッダの巧みな方便により、対立は回避される方向に行くのです。
そこの対立を論ずるのが唯識だと思っています。
わたし自身で言えば、対立には気づいていました。また、それが顛倒(てんどう)という形で表されることも。
ブッダの凄いところは、分けて説いたところです。時と処に従って、論理に則って語り選るだけの智慧があったので、ブッダの法は宗教になりました。
これでよい!と思います。智慧によってすすむのが、大乗です。
わたしは大乗の人なので、仏教を支えとしますが、ブッダの責任にはしません。自分で負います。
かっけー!先生!!応援しています~
ふきのとう、1回だけ天ぷらにしたことあります。大成功でした。もう二度と出来ないってくらい。
でも、次はありませんでした。家で天ぷらするのをやめたからです。
油の処理がめんどいからです。。。
ぎんたさま おはよう。。かな
ふきのとうは、天ぷらはないけど、ふきのとうみそにしたことがあります。
春の味です!
たしかに油の処理はやっかいですよね。なので、うちは、全部、食べる方針です。
*
> > 第一歩 とは “大”一歩 ですか ?
> そうです。仏教が既存の宗教と対立するところだから。。
「 大乗 」 の 「 大 」 は マハー の 「 超 」
対立 は 、 一 個 と 他己 との 間に
立ち上がっている けれど、 そこに 立ち上がる “ 処 ” はない
一 「 己 」 と 他己 とを 分ける 壁はない けれど
( 観る・観察する・isvara に 長けている 熟達者 以外 は )
絵画 で 顔を書く時 顔の端には 輪郭 が 描かれる
わたし(“たち”) は 「 境界 」 に 取り囲まれている
既存の宗教は、すべて 「 仏教 」 を その根本としている
けれど 人々 は ( 自分の ) 宗教 の 毒自性 に
こだわり( 境界 ) を 持つ
イエス は 従う 弟子 に 真理の深淵さを 喩 をもってしか
伝えられない と 譬喩 なしで 伝える
14-8 フィリポがイエスに言う、「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足します」
わたし(たち)に分かるように 話してください
そうすれば わたし(たち)は あなたの言うこと に
(満足し) 信仰を起こします
フィリポ は 自己の満足 で 物事 を “推し量る ”
13-33 「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」
「 信仰する 」 ということ を 「 理解する 」 ということに 置き換える
「 荒野の40日間 」 は 一つの生(一生) に 亘っている
( あなたは 「 食物 」 を 断つことができますか ? )
「 人は“パン”によってのみ生きるのではない 」
“ パン ” とは 知 であり あらゆる 認識手段(ことば) である
申命記8・3 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」
歩いている 「 道 」 を ことばにする(言葉で伝える)
“すべての言葉” とは ( 一つ )一つ の 言葉 です
“ すべて ” と 同 義( 同じ言葉の意味 ) です
パン とは 「 四食 」 を 指しています
「一切の有情はみな食によりて住す。」 『成唯識論』
( 断食 触食 意志食 識食 )
「識食」 によって “ 多寡 ” は 量られ
量り知ること により 「 道 」 を 知ろうとする
一歩 から 百歩 が 起きる ( 一 から 荷を負う )
スジャータ から 「 荷 」 を 奉げられ
そうして ( ようやく ) 「 道 」 を 歩み始める
「 道 」 とは 提示されたあなた に ある 知 であり
提示する者 に ある ワケ・分け ではない
「 智 」 と “ 知 ” とは どのように違うかを
“ 知 ” で 推し量る
( > 引っ掛かっている 「 認識 」 の 「 端緒 」 )
端緒 と ( 禅 ) 全 処
( >> そこの対立を論ずるのが唯識だと思っています。)
「対立」 していますか ?
( 端緒 は 全処 と “同一” ・ 同処 です )
> ブッダの責任にはしません。自分で負います。
ブッダ の責任 です
あなた が 背負う ことは できない( できてはいない )
( あなたが 背負うこと を 成就 するまで 負うことはできない )
すでに 自分がない のに
どこに 負うこと が 起きますか ?
( 皆で負おうと そこには 負うている “ 自分がいる ” )
「 唯識 」 とは 「 瑜伽行 」 に 起きていることです
( 「 瑜伽行 」 と 言い換える ・ 言葉化できる
けれども 言葉 ではない )
「 論(蔵) 」 に あるけれども 「 論 」 ではない
独り の 「 識食 」 に 起きるけれど
( 一人二人 は 衆・集人 に 起きる 認識 )
断食・触食・意志食 は 「 唯我 」 に 起きる
「 独尊 」 は 「 他己 」 に 起きるのみ
他己 に あるもの を “ 自己が負う 危険性 ”
「 自他不二 」 でなければ 責任を負う “のみ”
( 負う 身 ではなく 負う の 「 見 」 )
> ここはどうしても対立せざるを得ないのですが、ブッダの巧みな方便により、対立は回避される方向に行く
陀己に 対立して “ 自己 を 建てる 危険性 ”
行くときに起きている 危険 を 知るまでは その危険 は
“ 回避されている ”
(危険が) 起きるまでは “ 回避されている ”
> 対立には気づいていました。また、それが顛倒(てんどう)という形で表されることも。
「 無明 」 に 起きる という 「 無明 」
「 智慧 」 など どこにも存在しない「処」 にもかかわらず
「 智慧 」 を 建てる( 処在 を 言う )
此処 は 「 智 」 の 「処」 ですか ?
( コタエ によって 発・端 が 決まり いる処 が 決まる )
応処 端緒 此処
受継いでいる
シショ ・ 「 嗣書 」 ・ 此の処 によって
血脈 を 言う 「 大事 」
・
相変わらず言ってることわかんにゃい。。。
そういえば、先日横須賀美術館でダリ展行きました。(6日まで)
で、「反陽子的聖母被昇天」て絵を見ました。人である聖母マリアの魂が「天の女王」として天界に
向かい入れられるというカトリックの教義がうんぬん、、て書いてありました。
マリアの顔は乙女というより、おかんぽかったと思います。(お母さんか奥さんに似せて描いたのかも)
美術館のとなりの木があるところでリスにも会いました。全集中で木から木へ飛び移り、花の花弁を
食べていました。(多分) 見れてお得~~この美術館は大好きです。遠いけど。
天才を演じ続けよ。そうすれば、
おまえは天才となるのだ!
サルバドール・ダリ
やーー、ダリに言われてからやっても無理じゃね?ってなりました。ちょっと岡本太郎っぽいと
思いました。
> 「 智慧 」 など どこにも存在しない「処」 にもかかわらず
> 「 智慧 」 を 建てる( 処在 を 言う )
いかにも春間さまらしい話し方だわ。。
識からは智慧は出てこない。。想から出てくる。。だから、五蘊なのです。
*
> いかにも春間さまらしい話し方だわ。。
いか は あなたの話し方
> 識からは智慧は出てこない。。想から出てくる。。だから、五蘊なのです。
「 識 」 からしか 出てこない 「 智 」
“ 想 ” に描かれ “ 知 ” で 捉え
“ 日常通用言語 ” を 通して 表さざるを得ない “ 想 ”
五蘊 ( 色・受・想・ 行 ・ 識 )
“ 禅 「 行 」 ” は 「 識 」 に移せない
「 智慧 」 とは 「 行 」 であり 其処に対する 名色 です
「 五蘊 」 は 虚仮 ではなく 「 世間 」 が 虚仮 です
此処(?)で コケル
わたしの “ 言 「行」 ” → 現 「 行 」
・
>「 智慧 」 とは 「 行 」 であり 其処に対する 名色 です
> 「 五蘊 」 は 虚仮 ではなく 「 世間 」 が 虚仮 です
うーん、春間さまの考えだしなあ。。まあ、いいか。。
「五蘊」は虚仮ではなく「世間」が虚仮、に対して、
「五蘊」も「世間」もいっしょやねん、と思ってしまいます。
「智慧」は其処に対する名色。。??
そうかもしれないけど、わたしはそうは考えなかった。
「智慧」は「行」であると聞いて、「ミリンダパンハ」を思い出しますね。
それにしても、春間さまのコメントに対して、何も出てきません。
*
> *************
「五蘊」は虚仮ではなく「世間」が虚仮、に対して、
「五蘊」も「世間」もいっしょやねん、と思ってしまいます。
> *************
>**** は 「 五蘊 」 ではないですか ?
「 世間 」 は 何故 虚仮 なのかは
「 世間 」 は 「 五蘊 」 が 創り上げている からです
「 五蘊 」 が 何故 虚仮 ではない のか
ということ は “ 根拠 ” が 「 五蘊 」 だからです
「 五蘊 」 に 「 実体 」 があるから
“ 根拠 ” は 其処から起き上がる 事が 出来る(出でて起き上がる)
> 「五蘊」も「世間」もいっしょやねん、と思ってしまいます。
という “思い事” は 虚仮 ですか ?
虚仮を根拠 に 真理を判断 できますか ?
仮に 誰かが 「 五蘊 は 虚仮である 」 と 言ったとしても
あなたは どうして その言が 事実 だと 根拠付けできますか
その根拠 は どこに起きていますか ?
あなたが 主張する事 が 事実 であるのであれば
そこに 「 実体 」 が 起き上がっています
五蘊 ( 色・受・想・行・識 ) は 虚仮 ですか ?
たとえてみましょう
あなた ( 読者 ) の中で あなた以外 の人 は
わたしを 4蘊 ( 受・想・行・識 ) で 認識します
あなたは 「 色 」 を 起こして わたしを 認識しています
虚仮をもって 認識 したこと は 事実 ですか 虚仮ですか ?
> 此処(?)で コケル
あなたの “ 言 「行」 ” → 現 「 行 」
・
>虚仮をもって 認識 したこと は 事実 ですか 虚仮ですか ?
事実とはなんぞや?
五蘊も又、認識から出てきます。春間さまがわかっているのかいないのかわからないけど、六根で得たものは、変化していきます。
その都度変化するから虚仮なのです。
>虚仮をもって 認識 したこと は 事実 ですか 虚仮ですか ?
事実ということばは、コケています。知ってるつもりで確かめると逆に確かめられることになります。
真実を語らなければダメです。
「神を試してはいけない」とイエスは語っています。
キリスト教でさえ神を試さないのに、世間を生きるわたしたちが人を試してはいけないでしょう。
おのれの真実を語りましょう。
そこから虚仮かどうか、判断してくれるでしょう。
事実ではないことに、事実ではないことで、対応する。
*
> 春間さまがわかっているのかいないのかわからないけど ・・・・・
わかっていない という 前提で、 ・・・・ 論じられ(判じられ)たので
わかっていない者 が
わかっている者 に もの申さなければならなくなっています
わかりますか ?
> その都度変化するから虚仮なのです。
ということ は 変化しないこと であるのに、
変化してしまう 理由は 何なのでしょうか ?
「 五蘊 」 とは 「 世間 」 を認識( 受用 ) する 手段(方法) です
「 世間 」 とは 「 色 」 を 受 → 想 → 行 → 識 と 受けとめる
“ 主体 ” です ( 言い換えれば、 主体が 「 世間 」 と 「 識 」 する )
色即是空 とは 空即是色 を 並立概念として
その 真実性 を 容認されます ( 体得されます )
簡単に 言い換えると 「 色 」 とは 「 空 」 である ということです
事実 とは 「 実体 」 と 言い換えることが可能です
「 実体 」 が ない( 「 空 」 ) ということが 「 仏教 」 の 「覚」 です
( “核” があれば 其処には 「 実体 」 が起きている )
「 覚 」 が 起きれば 彼岸 は 足下に起きている
“核” = 中心 が あるときには 偏心 が 起されている
偏った心 とらわれた心 を 言い換えると 「 顛倒 」 と 成ります
( 「 顛倒 」 が起きているときには
心は どこかに偏り そこを中心として 輪廻します )
> ・・・・ 知ってるつもりで確かめると逆に確かめられることになります。
確かめている “つもりでいる時” その “つもり” は
確かめられている ということ に 気付けなくなっています
既に、 何に 気付けなくなっているか のさえ 気付くことができません
気付くことは できるでしょうか ?
( きづき を 言い換えると “覚り” という “ 文字になります ” )
気 を つっつ くと 気の粉 が 舞い散る ( 法師 では ありません )
熟した キノコ は 何をまき散らすのでしょうか ?
> おのれの真実を語りましょう。
人 それぞれに 「 己 」 が あり
己には それぞれの いだく 「 真実 」 がある
なぜ 人々 は 自らの抱く 「 真実 」 をもって、人を 判断するのでしょうか ?
ヒトのことは 放っておいても 自分の問題にはならない
( 自分一人で 解決できること が 人の世 に ありますか ? )
> そこから虚仮かどうか、判断してくれるでしょう。
ドゥッカ ( 何処か ) から 判断を起こすと
毒化 が 起きる
どこにもないところ ( 「 空 」 ) からは
「 無量 」 ( A MITA ) が 起されるのみ
あなたが 自らの問題 として 対処できているのであれば
見つめるところ( シセン ) は 足下に向きます
アアソッカ と めいめいにある 異なった真理 で フミヲヨム
フミフミ するところ を 見て( 読んで ) 知る ?
異なった 「 処 」 にある 文し ところ を 踏めますか ?
何故 そこに “ ことなる ” 言なり の ことが 起きるのでしょうか ?
あなたの 読み方 に その 事 成 が 起きている
・
> わかっていない という 前提で、 ・・・・ 論じられ(判じられ)たので
> わかっていない者 が
> わかっている者 に もの申さなければならなくなっています
普通に読むと「わたしが春間さまをわかっていないと思っているので、わかっていないわたしがわかっている春間さまにもの申すという事になっています」と読むか、「春間さまがわたしをわかっていないと思っているので、わかっていない春間さまがわかっているわたしにもの申すという事になっています」と読むかですが、大差ないです。
「わかる」と「わからない」は相対評価にすぎません。めまぐるしく入れ替わります。識の評価を乗り越えるところに「空」があります。
*
>> わかっていない という 前提で、 ・・・・ 論じられ(判じられ)たので
>> わかっていない者 が
>> わかっている者 に もの申さなければならなくなっています
>普通に読むと「わたしが春間さまをわかっていないと思っているので、わかっていないわたしがわかっている春間さまにもの申すという事になっています」と読むか、
>「春間さまがわたしをわかっていないと思っているので、わかっていない春間さまがわかっているわたしにもの申すという事になっています」と読むかですが、大差ないです。
( 物事の仕組み を) わかっている “あなた” が
( 論理の構築の原則を ) わかってはいない“わたし” に対して
解答を示したので
( 論理の構築の原則を ) わかってはいない“わたし” が
( 物事の仕組み を) わかっていないままで
( 物事の仕組み を) わかっている “あなた” に対して
もの申さばなければならない
前提が ( あなたによって ) 置かれています
わたしは、 その前提に沿って もの申していること と 成ります
“ そのような 前提 を 見る立場に立っていること ” を
(わたしが) “ 記述の前提として ”
記述できている とは 読まれてはいません
>「わかる」と「わからない」は相対評価にすぎません。めまぐるしく入れ替わります。識の評価を乗り越えるところに「空」があります。
めまぐるしく入れ替わります と 入れ替わりを断じるには
( 相対評価 ) の 対している 二つの評価 の 整合性 の
成立する “ 基準 ” を もつ必要があります
“ その基準 ” を 「 空 」 と いう 呼び名 で 指し示します
「 空 」 においては 対立する「 識 」 は 両立しています
( 空 の )どこにも めまぐるしさ は 存在しません
わたしは 評価している のではありません
あなたが 対立をおいているのを 指し示しているだけです
その示し方 は あなたにとって 対立ですか ?
************
Pocket 様
> 「苦しみのないこと」というのが素晴らしいですね。。。
「 苦しみ 」 とは
どこの 誰に どのように 成立しているモノ ですか
わたしの読む そのところ に ある
「苦」 についての言葉をぬきだします
大いなる章
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 169p~ )
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。
・・・・・・・・・・・・
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である
759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
・
はるまさま
>その示し方 は あなたにとって 対立ですか ?
わたしにとっては対立ではありませんが、春間さまが対立したがっているように見えます。
書いてあるとおりに読まれたと感じたことは一度もないです。
*
>> その示し方 は あなたにとって 対立ですか ?
> わたしにとっては対立ではありませんが、
対立したがっている者(春間) の 差し示し方 が
“ その示し方 ” です
あなたは ( あなたの意識的範囲においては )
対立しようと (は) してはいない
けれど
春間 の 示し方 が 対立を生んでいる と 感じます
あなたが 自分の読み方 が 正しい とする時
わたしにとって
あなたが “ 自分の読み方 が 正しい ” とする
根拠・「 理 」 が あなたによって 提示されます
わたしは その 「 理 」 に 沿って
“ 自分の読み方 が 正しい ” という 「 理 」 に 住します
そこにおいて( その 「 住処 」 では ) 両論 は
対立することはなく 並立しています
> 春間さまが対立したがっているように見えます。
人は 「 愛 」 ・ 執着 に そって 物事を “感”得 します
わたしは そうではない と 言おうと
あなたが そうであれば そうではない ということは 成り立ちません
対立 は 中心・偏心 に 起きています
( 仏法 は 遥か遠く に あるのではなく ・ 非遥
中心 には なく 「 心中即近 」 です )
極極近く とは 「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」 です
“ 合理 ” に 僅かの 隙間があれば
千仭の谷 が そこに起きています
天より 地(谷底) に( 智を用いて ) “ 知 ” によらず
落ちずに 谷を渡ることが( 「 到彼岸 」 )できているのですか?
あなたの読み方 ガ 正しい ( “ 自分の読み方が正しい ” )
という 前提( 「 住処 」 ) に わたしは 居を構えます
そのわたしの居 に おいて “ 自分の読み方が正しい ” と
あなたによって 決められています
わたしは “ そのあなたの理 ” に 居を構え 正しさを 起きます
あなたが 読んだとおりに ( 「 受 」 するように )
わたし も 読んだとおりに 内容 を 「 受 」 する
***********
> 春間さまが対立したがっているように見えます。
***********
“わたし” ではなく 「 他・春間 」 に それが起きている
( あなたは アクマデモ
「 悪 」 ではなく わたしに ソレ・逸れ がある と 想する )
> 書いてあるとおりに読まれたと感じたことは一度もないです。
わたしが 一番大切なのは 自分自身です
そのわたしの心 は 「 自由 」 という 真理の上で
あなたの元に 飛んで行き あなたという 存在に重なります
そこにおいて 一番大切なのは (あなたという) 自分自身です
「 マッリカー経 」 は そこを説いているのです
( ブッダ は 普遍 なる 「 真理 」 を 説くのみ )
そうして その心 は 「 人を傷つけてはいけない 」
“ という 「 住処 」 ” に 居を構えます
( 衆の 苦・傷 汁 は 聖者の楽 ・ 甘露 である )
「 五蘊 」 である( 化和合 )
「 色 」 を 濁らせるのは 「 愛 」 ・ 執着 です
( 傷つける のは ) 中心なる 偏心 です
・
春間さま
そう来ましたか……そこに注目されるのですね
ming ni gang dang gang gis su/ /chos rnams gang dang gang brjod pa/ /de la de ni yod ma yin/ /’di ni chos rnams chos nyid do/
(『転有経』, Ārya-bhavasaṃkrānti-sūtra)
名はそれぞれであって、それ(名)によって、それぞれの諸法は言い表される。これについて「此れ」(というもの)は(真実には)存在しない。これが諸法の法性である。
春間さまは菩薩の道を歩まれるのだなと思いましたー
サードゥ、サードゥ
mani先生
>苦しみのないことを”求めた”のです。
幸福という“あやふや”でよく分からないものではなく、「苦しみのないこと」というのが素晴らしいですね。。。
求め「た」と、過去形なのも、もっと素晴らしいですよね。。。
>最初に「有(sat)」と言い出さないと「非有」とは言えない
龍樹は「nāstiko durgatiṃ yātiṃ sugatiṃ yati cāstikaḥ」とも言ってますよね。
とりあえず人は自己を大切にする。大切にするなら因果は外せないっと。。。
pocketさま こんにちは
>龍樹は「nāstiko durgatiṃ yātiṃ sugatiṃ yati cāstikaḥ」とも言ってますよね。
そうですね.『ラトナーヴァリー』ですよね。昔は、わかんなかったです。
「一切は無である」と説くものは悪趣に赴き「一切は有である」と説くものは善趣に赴く。
ブッダは倫理(善いもの)を求めたので、こうなるんだなあと、今ならわかります。
『ラトナーヴァリー』の1.59ですが、『方便心論』の議論を踏まえていますね。ここは、衝撃でしたよ。訳してみますね。
「有る」を否定することによって、「(一切は)無い」が意味上指摘されます。
同じように「(一切は)無い」を否定することによって、どうして「(一切が)有る」が指摘されないのでしょうか。(1.59)
菩提(悟り)をよりどころとするから、主張はなく、行いはなく、心はありません。このような意味で「無である」と説く人々が、どうして「虚無論者」と考えられるでしょうか。(1.60)
attanとanattan、我と無我ですが、ブッダと龍樹の作戦はこうです。有があるから、それを否定して無が説かれる。「肯定が先に来てそれから否定である」というならば、我を否定して無我が説かれ、その無我を盛んに有論者のお前が否定している、とするならば、「無我がある」ということをお前は知るだろう。
『方便心論』のテーマでもあります。変になったけど、このままアップしよう。
mani先生
>『方便心論』のテーマでもあります。
「syād astidūṣaṇād asya nāstitā kṣipyate ‘rthataḥ」
まさに『方便心論』で実践されていますね。「汝言以有所破故有我者。以有能破故知無我。」
「(我が)否定されるがゆえに我が存在するならば、(無我の)否定ゆえに無我が知られるのである」
『ラトナーヴァリー』を読んでみると実感しますが、『方便心論』はなんだかサンスクリット原文が透けて見えるような文章ですね。
>菩提(悟り)をよりどころとするから、主張はなく、行いはなく、心はありません。このような意味で「無である」と説く人々が、どうして「虚無論者」と考えられるでしょうか。(1.60)
ここは般若経典を彷彿とさせますね。龍樹が『中論』を作るうえで般若経典にちゃんと拠っている事を示していると私は解釈します。
菩薩たちの般若波羅蜜に依拠して、彼は住する、心に妨げなく。
(bodhisattvānāṃ prajñāpāramitāmāśritya viharaty acittāvaraṇaḥ)
明はなく、無明もなく、明が滅尽することもなく、無明が滅尽することもない。
(na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo)
私は般若心経のスマナサーラ長老解釈に乗っかっていたクチなんですが「色即是空、空即是色」も明らかに範疇論として語るものではないですね。
「オレンジは果物ですが、果物はオレンジではありません」と言われたら、そういう範疇の関係にはありません、と誰かが長老の般若心経批判にピシャっと反論できなかったのは何だったんでしょうか。
もちろんカテゴリーとして解釈することを批判する日本のお坊さんは(マニカナの外に)いました。
でも、マニカナではこの長老の批判はかなり影響があったみたいで、不思議です。
何だかみんな歯切れが悪くなって、長老の「言葉の迫力」恐るべしって感じでしたね。
とりあえずチベットの注釈書を挙げるなどに終始して、分析的に『般若心経』に触れることはなかった気がします。
『般若心経』に分析的にアプローチする道を開いたという点でスマナサーラ長老は画期的だったのかなあ、と思い出しています。
なんだか話が脱線してしまって、こちらもこれでよいのか疑問ですが、投稿します。。。
pocketさま、おはようございマウス。
>でも、マニカナではこの長老の批判はかなり影響があったみたいで、
ああ、そんな風に受け取られていたんですね。
わたしは、スマ長老のことばをなんとも思いませんでした。
「オレンジは果物ですが、果物はオレンジではありません」
縁起(のみ)をわきまえると当然のことのように思います。
オレンジ→果物
果物→×オレンジ
これを概念間の包摂関係から、そうは言えないと、スマ長老が考えるなら、西洋論理の罠(=パラドックス)にはまっています。あえてそこをたずねなかったのは、同じブッダの教えを学んでいるからです。
わたしは、スマ長老の解釈を縁起からのものと解釈して「黙った」のです。
つまり、上座部の立場では、「空は説かない」ということだと思います。
『般若心経は間違い?』というご本の中でも、それに言及しておられましたしね。
「空を説く」という立場が、大乗だと思います。わたしは、龍樹と同じ道を歩むことになるんだなあと半ば諦めていますが、悲観はしていません。
わたしは、ナーガセーナ長老が大乗と部派の分岐点にいるような気がしています。
春間さま おはようございます。
>そこにおいて 一番大切なのは (あなたという) 自分自身です
思ってもいないことを言われるのは不本意ですが、まあ、はるまさまだからなあ、ってことで。
「正しい」とか「大切」とか、そういう話はブッダに任せておいたらいいんじゃない?
*
> 「正しい」とか「大切」とか、そういう話はブッダに任せておいたらいいんじゃない?
自分は 正否 は 気にせず
自分の道を歩む ( 歩んでいる ということが 「 正 」 です )
“悪いとは 知りつつ” も “知りつつ歩む” こと を 正とする
正否の判断(論) は ブッダに任せることができようと
選んだ という “こと” は
動かすことが出来ない( 「 正 」 ・ 「 如実 」 ・ 「 有 」 )
選んだ ということ を 動かすと
選ばない ということ に 移行する ( 止まらぬ行 )
「 如実 」 とは 気にせず 行ずる ということではなく
「 如実 」 を 体得して
「 如実 」 に 起きている “意” を 行ずる こと
( 意 とは 言葉 を 行ずる )
「 こと 」 とは 「 言葉 」 の 別の 「 名称 」
( 葉と枝と幹 と 実・華 を 総称する コトバ )
事 が 起きる → 言葉を介して 「 意 」 に ノボル
解釈せずに( 正否をブッダに任す ) 行じようと
「 意行 」 とは 正しいこと を 「行」ずること
> そういう話はブッダに任せておいたら
一聴すると 至極当然ではあるが
任せきることができる者 を ブッダ と呼ぶ
ブッダ は 全て任せられている( 任せきる 故 を 持つ )
あなたに 全て任せきって
あなたの言う 「いいんじゃない?」
で いいんじゃない? ( いいんかな ? )
“ いいんじゃない? ” と いう
選択 を 「 意 」 と呼ぶ
( 正否 )
・
> 任せきることができる者 を ブッダ と呼ぶ
いいんじゃないでしょか!?!
> “ いいんじゃない? ” と いう
> 選択 を 「 意 」 と呼ぶ
って、ことは、意意んじゃない、ってことで。
*
> って、ことは、意意んじゃない、ってことで。
意 忌んじゃない ・ 意 異んじゃない ・ 異 為んじゃない
それぞれ 「 イ ム 」 という
“日本語” の 異・意・為 を 持ちます
あなたの 解 釈 に 任せるしかない
あなたの 歩み方 に 任せるしかない
* あなたが ( 「 道 」 を ) 歩むのだから
あなたが わたしの 解 釈 に 異 を 為す のだから
* それぞれに 「 道 」 がある
歩む人の数 と “ 同じ数 ” の
一 以外 の 道の数( 数え方 ) が ある
わたし は 道を示す
示す道 を 歩む(歩んでいる)のは わたし
わたし が どのように 歩もうと
歩む人 には ( それぞれにいだく )歩み方 が ある
( そこに ) 留まる のも 歩み方
わたしが 歩む道 でも “いいんじゃないでしょか!?!”
ってことで すます ↓ しかない。
澄んだ こと を 書き回す
↓
( 描く 意味 が あるやら ないやら )
留まるに 意味をもつ 春
サクラ花
散り行きし
謳歌 に 華に 表裏 の 意味 ハ ナ シ
・