
変わった写真でしょ。郵便を出しに行った帰り道、壁に映っていたアザミか何かの枯れ枝をパチリ。
西の空に沈んでいく太陽の光に照らされてます。
数日間、息子は熱を出し、誤嚥性肺炎になった模様です。大変だったけど、無事復活しました。何かあると、ビクビクします。ですが、今は、体力がついているので多少のことではへこたれないんじゃないかと思ってます。
どうかわからんけどね。
こういうときこそ、原始仏典だと思って、チェーラーという経典を訳してみました。サーリプッタもモッガラーナもお釈迦さんより先に亡くなってたんですね。「心にしみる原始仏典」に入ってます。
「比丘たちよ、如来にとって稀有なことはこれです!比丘たちよ、如来にとって未曾有なことは、これです。このような一対の弟子たちが般涅槃したとしても、如来には、憂いや悲しみはないのです。」
読むと、経典の中には、お釈迦さんには「憂いや悲しみはないのです」って書かれてるんだけど、なんか悲しそうだよね。
お釈迦さんは、凡夫のことをなんでも知っていると思ってます。
悟った人は、やせがまん。。そんなことはないか。。憂いや悲しみはない、っていうのは本当だろう。だけど、わたしたちの目には、つまり、凡夫の目には、悲しいように見えるんだね。
なんだか、お釈迦さんって、凡夫には辛すぎるよね。
聖者には、凡夫の楽は苦であり、凡夫の苦は楽なのです、っていわれてます。
他の人々が「楽である」というものを、聖者たちは「苦である」といいます。
他の人々が「苦である」といういうものを、聖者たちは「楽である」と知っています。
了知しがたい法を見なさい。無智な人たちはここで混乱しています。(『スッタニパータ』762)
こんなだから、なかなかお釈迦さんの法はわからないんだろうね。
コメント
マニカナ先生、こんにちわ
誤嚥性肺炎は良くないですが、全身で熱がでるのは腫瘍が縮小するひとつのパターンなので良し悪しですね。
ただし、頭部は熱に弱いのでなかなか難しい。
硫酸化多糖のフコイダンみたいなのでちゃちゃっと縮小するのが理想ですね~
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していること・されていること だけが 「 見 」の 対象
> 他の人々が「苦である」といういうものを、聖者たちは「楽である」と知っています。
「 知っている 」 ということ を 凡夫(衆)は 知ろうとしない
“知っている” という こと(葉) 文字 です
人(衆)は 文字を見て 文字を解釈して その意味を “きめる”
きめたこと は 決めた とうり(通り・当理) にある
という 気本的約束 が ある
( このこと は 約束事でしかない )
知っていること を 知ったように行う ということが 知るということ
( 知る という 「 行 」 )
どのように 苦・楽 を 知って(行じて)いますか ?
> 聖者には、凡夫の楽は苦であり、凡夫の苦は楽なのです、っていわれてます。
言っているのが 顛倒した 凡夫( 衆人 )
釈迦牟尼 は 「 苦 」 について 苦を述べている
「 楽 」 についても 楽々 と 述べ・「行」ず る
> 了知しがたい法を見なさい。無智な人たちはここで混乱しています
了 知 = 「 行 」
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