眼耳鼻舌身意、この六つを六根という。眼と耳と鼻と舌と身体全体と心(意)とである。西洋の哲学では、五感であるが、ブッダの分類ではマナス(意)を加えて、六つとする。
そして、これが「一切」と言われるものなのである。すなわち、六つの感覚器官である。
息子は、六つの感覚器官の内、とうとう身と意の二つだけになりました。舌は、ほとんど使っていません。食べ物は胃瘻から入れています。鼻も効きが悪くなりました。だから、わたしは息子の身を使うことにして、しょっちゅう触っています。おでこをなでています。
意(心)はおそらく盛んに働いているのでしょう。目の見えていた頃、音楽が聞こえると言っていたし、息子は「何の曲?」とたずねたりもしたのです。こちらは息子の心の中のことだから、全く聞こえないのだけれど。また、工事現場の音がしてうるさい、と言ったこともありました。
意(心)は、大きな問題です。ブッダは、意とその対象(法)が接触する、と述べています。
わたしたちは、西洋流で考えるから、本人の中で空想したり、思考したり、妄想したりすると考えています。心の中の事は本人しかわからないという態度で接します。そう言いながら、誰もが同じように考えると思っているのです。
だけど、ブッダは言うのです。「意(心)と法(その対象)が接触するとき、意識(心の識別作用)が生ずる」と。
西洋では誰でも同じパターンで考えているのだが、能力に差があるため、考えたことを表すことのできる人とできない人がいると思っている。
仏法では誰でも接触によって心に思い(法)が生ずるが、それを表現する人と表現しない人がいるとしている。
ここから考えると、一番智慧があったサーリプッタは「接触(触)」を押さえることによって、ブッダの法を理解し解明したのだと知るのです。わたしはそう理解しています。そして、わたしもそうです。
そう考えると、また別に「輪廻」ということも見えてきます。たとえその人が死んだとしても、識は、身体から離れてさまよいつつ、次の身体を得て、そこに宿ることはできるかな、と。
ブッダもまた輪廻してきたからこそ、たぐいまれな力(五力)によってブッダとなっていったのだなあと知るのです。
五根・五力というでしょう?
信・勤・念・定・慧の五つが五根・五力です。信から入って、精進して、気づいて、定まって、そして智慧に結晶するという仕組みが説かれます。心(意)のない生き物はいない、というところに仏教があると思います。
あらゆる生き物は解脱できる。。つまり、変化していく者が変化しないステージへと行ける。。これが解脱だと思います。
変化する世界では、(どのようにも変化し続けるのかもしれないですが、)自分はその世界を脱けだしたと言える。。それを「涅槃(ニルバーナ)」と呼ぶ、とブッダは述べたのです。
戯論寂滅は、空の世界の理想です。これも、ご大層に考えるか文字通りに捉えるかで、わたしたち凡夫の意識は変わってくるのです。
認識の世界を決して離れない。。これを何と呼ぶか?
形而上学には行かない、というのです。
ことばの世界を決して離れない。。これを何と呼ぶか?
これこそが空(くう)である、というのです。
息子は、今日も六根をフル活用させていると思います。。かれの心の中で。
コメント
*
> あらゆる生き物は解脱できる。。
人は 解脱できる
( 解脱できない と知るとき 解脱している )
あらゆる生き物 のこと を 考える ステージ ではない
自ら を 考える
( 他 = 有情 を 通して 一つの いきざまを 見る )
( 他 = 万物 を 通して 自らの 生き様 を 見る )
いつも 自ら から 離れることはできない
( 離れることができた時 を 解脱 と 呼ぶ )
つまり 解脱 とは いつも(の時) には なく
すべてにワタル時 に 渡った時に 起きる
渡った時 とは 渡るとき のこと を言う
向こう岸 とは 渡る時 に
起きる “ ところ = 時 = 場所 ”
> つまり、変化していく者が変化しないステージへと行ける。。これが解脱
変化していく者 は 変化しないステージ を 見ることは適わない
そのステージ へは 行くことは適わない
そのステージ を 見ることが適わない から
そのステージ が
変化していく者 の モノ である故に
変化していく者 は 変化しない者 には 到達しない
変化しないステージ が 変化する者 の ステージだから
変化しない者 だけが
変化しない者のステージ に 到達できる( 到達している )
あなたは 変化しながら 変化するモノ を 見ている
その どこを探そうと 変化しないモノ は 見つからない
探すこと を 止めること を 「 止観 」 と 呼ぶ
止観妙門 頂戴 供養
いくら読んでも意味のないこと
・
> 変化していく者 は 変化しないステージ を 見ることは適わない
そうかも。だけど。。
といいたくなる。変化を見る者は変化しないステージを見ることがかなう。
そこに、空がある。変化する・変化しない、は、ことばの世界だから。
*
硫黄島星条旗の写真を削除
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6532773
これを読む人 の 大多数 は 西部劇 を 見ていない と 推察する
先住民(インディアン) を 蹴散らかす 進軍ラッパ(騎兵隊)
その砦 には 星条旗 が はためく
収奪 の 歴史 を 肯定せざるを得ぬ 西洋世界
( 奪ってしまえば 自分のモノ )
「 植民地 」 という 概念 から 世界を構築している 西洋
東洋( 唯一なる日本 ) では 自分のモノ とは 存在していない
( あなたは 西洋 に 住んでいるのか 日本 に 住むのか ? )
日本 以外 に 世界が存在している という(当然とする)
“ 西洋的発想 ”
“ 日本 など 存在しない という 仏(蘭西) 世界 ”
( “蘭”学 を 熱心に学んだ 杉田玄白 )
オランダ(阿蘭陀) から 洋学 を 取り入れる(和蘭陀世界)
西部開拓 史 とは 略奪正当化 史
あなた は 略奪 してはいませんんか ?
・
硫黄島の占領時の有名な写真に先住民が写っていたのを、トランプ政権の方針で、LGBTQを推進していた前政権を修正する為に削除したと。
どこに焦点を当てて、解釈(行為)するかということについて、日本人ということを問うているんだね。
日本人は沖縄で、琉球を不当に占領して併合したし、かつては蝦夷征伐といって、天皇家の王権に馴染まない化外の民を征伐して、占領していったんですね。松前藩の頃には、どこにその境があったのかは分からないけれども、アイヌを同化(支配)してその居住地と言われる択捉までもを日本の領土であると僭称した。
立派な植民地主義帝国であった大日本帝国であるが、最近、いくつかの理由で日本憲法無効論が言われている。それは三島由紀夫や石原慎太郎などがかつて主張していたらしい。
で、日本人は帝国主義によって国家を運営した結果、現在があるのであろう、ということは理解できるかもしれない。
*
> そうかも。だけど。。
「 そうではない。 それは。。 」
( と 言う その心の態度 を あやふやにする )
ことばの世界 では
( 必ず ! ) 自らを 絶対化するところ から 始まる
↓
アートマン が 住む その世界 を 肯定するところ
原理 を 絶対化する 「 無明 」 に 起きる
見ているモノ が 存在している
言ったこと は 言った通り( 「 道 」 ) に 在る
釈尊 は 「 道 を 歩む 」 と “ 言った ”
あなたは > そうかも と 言う( 言った ! )
言ったこと は 言ったとおり に ありますか ?
> といいたくなる。
言ってしまっている ( 過去完了形 であり BUDDHA である )
( 言った こと・ことば は 言った とうり・当理 に ある )
> 変化を見る者は変化しないステージを見ることがかなう。
変化しないステージ は 変化しない者 が 立っている “ところ”
そこに 「 住処 」 を もたぬ限りは 「 その住処 」 に
存在する 存在の証 を 見ることはない
すでに 見ている から みた“とうり( 等 「 理 」 )” を
自らの言葉 の 証( 存在の 性・ショウ・ 「 生 」 ) とする
「 不生 」 という ことばをないがしろにする
> そこに、空がある。変化する・変化しない、は、ことばの世界だから。
「 空 」 が ある という ことばを発する 「 住処 」
牟尼の住処 は あなたの住処 と
同一( 等しく変わらぬ ・ 「 平等 」 ) ではあるけれど。。
あなたは “自己 が 存在する世界” から ことばを発している
↓
「 無我 」 ですか ?
自 ・ 他 が 存在しない限り ことばを発することはできない
( 独り言 でさえ 発する者 と 聞く者 とが
存在するけれど 。。 )
発する者 (わたし) は 聞く者 が 存在しない世界 で
“ 独り ゴト ” を 発し 独り事 を 見て 語っている
一人 ということ は その一人 を 認めるもう一人 が
存在しているけれど その一人 は 感知 から 漏れる
ことばの世界 とは “存在する世界” ですか ?
「 空 」 ということ は “どのような世界” にも 存在している
あなたが 釈迦牟尼の 「 住処 」 に 住んでいれば
その 「 住処 」 は “いかなる世界” にも 所属していない
あなたにとって ( 当然のこと ではあるけれど )
わたし とは あなたの住処 以外 に 住むもの
( わたしの存在 は 札幌にはない )
( わたしの言葉 は 札幌では発せられてはいない )
春間 則廣 とは 存在の基盤を壊失している 、、、、
ある というなら
「 空 」 に 起きる
( 「 無明 」 に 起きる )
・
いっってることがさっぱりわっっかんねーんだよーーーー!!!
ばーーーーかばーーーーーか春間のばーーーーーーーーーーーか!!!
これでもくらえーーーっっっ
優里「ピーターパン」
修理に出してたパソコン帰ってきました。スマホから閲覧だけはしていました。
ぎんたさま パソコン直ったんですね。
>「連合部」も昭和っぽ過ぎる
>優里「ピーターパン」
コメント読んでて、youtube見て、「ああしょうわかぁ。。」って思いながら、
思ったの。
この「ピーターパン」も、
「令和っぽすぎる」って言われるようになるんかにゃあ、って。
2018年8月28日の向上接心 ノートより
霊能者「2代目ですか?先に精進してくださったご家族に感謝。それによってこんなにも清らかな貴方が
ある。(→母のお腹の中からの精進で20代前半か?という感じの言い方)両手を高く掲げて何かを
探していらっしゃいます。接心に取り組んでみるのはどうでしょう?プライベートなことでも
何でも、、」
ぎ「いえ、プライベートのことでなく教えのことで色々考えているんです。
霊「どのような?」
ぎ「「所属」という言葉は、横田基地所属みたいだし、「連合部」も昭和っぽ過ぎるので何か他に
良い言葉はないかな、とか」
霊「そういうことを導き親さんに言っていく、、」
ぎ「み仏様より高くなってると言われます」
霊「事務局はどうですか?」
ぎ「私、事務局苦手です。最近苑の読み物で「所属が反発」という言葉を2回、目にしました。自分が
親に反発など、自分の行動に反発を使うのはよいですが、「所属に反発された」と使うとパワハラに
になると思います。」(意見が合わないってだけなのに!!)
霊「何を言われてもいいから、思ってることを口に出していくことです」
このころはまだ、古くなったところを「カイゼン」していけばいいと思っていたんですね~遠い目
色々口に出していった結果、潰さないといけないことに気付いたのは良かった!
確かに、ご霊言は頂いたら実践していくことが大事ってw 言われてたやw
2017年9月28日の向上接心 ノートより
霊能者「傍系女性で、喉から胸からお腹まで具合が悪い方が示されます。キリスト教でアーメンと
していた、あなたに似てキレイでかわいい方。キリスト教では因縁が浄められなかった。神の教えでは
ダメだったと言っています。あなたに託してくださっている(私を越える信仰をしてと)。この方が
あなたに和顔施を特にお願いしている。摂受の旅50年の今年、お施餓鬼お護摩,親苑参拝,法要参座
お救け,上愚母大(こう出た)上求菩提頑張って!あなたが霊能者になるとこの方は救われると
おっしゃっています。この方と二人三脚で。
こんなん出ましたけど~~~と聞えてきそうな爽やかな感じで言ってはりましたが、、、、
*当時*
あのさ、「キレイでかわいい」って、おれ親にしかかわいいって言われたことないよ?感じ悪!
なんか日本のなんとか大臣が国際会議で「ここにいる(女性の)皆さんはおキレイで~」みたいな
リップサービスしてドン引きされてたニュースあったじゃん見てないの?忙し過ぎるの?
しかもさ、「神の教えではダメだった」てキリスト教の人に失礼だろーが!!なんで過去のキリスト教
の人より真如教徒の信心のがすごい的な考えなの?どう頑張ったって越えないよ。最高で同等だよ。
しかも命張ってるなら、もう全然敵わねーよ。もーさーー霊能者の人は真如苑が好きすぎるんだよ!
あと、うち先祖にキリスト教の人いないよ?田舎者だもん。キリスト教の人って長崎とか居住地域の
環境が大きいじゃない。そうじゃない人はちょっとエリートな感じの人でしょ?
*今*
喉から胸からお腹ってことは、毒殺なのかね?そっか、、毒殺なんだ、、、、、、焼け付くような
感じだったんだろうね。合掌。おれ、猫の時はキレイでかわいかったんかにゃ?
和顔施、、、無理だね。猫、人間ほど表情筋が発達してないから。猫、「ほんとうの情報」しか
扱えないから、こころから可笑しーーと思えないと笑えないし。
神の教えではダメだったって。。。 神の教えは「因縁を切る」みたいな概念ないでしょ?
いったいこの霊能者は何を視てこれを作文したんかな、もうちょっと文学的な表現にできないのか・・
でも、あんな短時間で流れ作業みたいにやるんだから、無理だよねぇ。二人三脚ていわれても、、、
猫、ひとりで四つ脚にゃんだが、、、。
「私な仏教」的には、毒を飲むのは決定としても(科学だから)、その毒を青汁にすり替えることは
目指す価値があるかもしんない。うーーーーん、、でも飲んで死ぬのまではやはり決定事項だろうな。
(でもさ、そのキリスト教の女性は天国にいるんと違うの?天国から出張ってきたわけかにゃ?)
いったいどうすれば、、、
そういえば!もしかして、天霊系、地霊系霊能って言ってるけど、本当は、地霊系の人しか
「ご霊言」を出す能力は無くて、天霊系の人は「考察」の人ってことないかね?そして、誰も
精度高く考察している人はいない、と。(誰もってことはなくて、一部の事務局員とかだけ)
そうだったら、もう超絶詐欺で即っっっっっ刻潰せるのになあぁぁぁぁぁ!
証明できない以上「霊能」禁止!!とかね。ね?「占い好き」が支えられないよ?
マニカナ先生、こんにちわ
魂とかプドガラという言葉は使わないで意識という言葉を使うと
(1)眼耳鼻舌身の感覚と意識は頭に縛られている
↓
(2)眼耳鼻舌身の感覚は頭にあるが意識は頭から自由になり丹田に集中する
↓
(3)意識が丹田からも自由になる
頭はとても良くできた電気信号の集積回路にすぎない
マーニプッタは丹田にいるかさらに自由になってるかもにゃん
> 頭はとても良くできた電気信号の集積回路にすぎない
「頭」「電気信号」「集積回路」、これらも、もしかすると概念(=煩悩)かもしれない。
丹田にいる息子は、何かに抵抗している。
概念に抵抗してる?
眼耳鼻舌身はセンサーであって煩悩の一歩手前の物質的側面ですね
そこからの脳への電気信号も物質的側面
そのセンサーや電気信号へ意識が執着したり偏愛したり勝手な解釈で妄想するところからが煩悩じゃないですかね
センサーと電気信号を物質は物質ととらえてとらわれないのがサティとかではないかと
その実践が丹田に意識を集中しセンサーからちょっと離れる
ブラフマンや神仏という言葉を使わなければ
マーニプッタの厳しい修行も人間を超えた「上」の配剤で
われわれ凡人にはなかなか詳細はわからないものです。
生きとし生けるものが幸せでありますように(ー人ー)南無医王善逝
*
> 脳への電気信号も物質的側面
電気信号 は 物質 ですよ
・
コロナやインフルで死ぬかもしれないし、明日交通事故で死ぬかもしれない
カミナリにあたって死ぬかもしれない、今のうちに書き込んでおこうw
春間爺さんもマニカナ先生もマーニプッタも掲示板のみなさんも
生きとし生けるものが幸せでありますように
>センサーと電気信号を物質は物質ととらえてとらわれないのがサティとかではないかと
なるほど。その意味で、五蘊は「色(ルーパ)」から始まると見てよいわけですね。
「物質は物質ととらえてとらわれない」かぁ。。
味わい深いことばですねぇ。。色がないと始まらない、とも受け取れます。。
*
> マーニプッタは丹田にいるかさらに自由になってるかもにゃん
マーニプッタ は 丹田にいて 自由 であろうと
周囲 は 丹田ではない
自由 を 履きちがい 破棄違いの靴で 不自由さを感じる
自由 に 感じるということ ( “ 自由 ” の 意を問う )
>> 丹田にいる息子は、何かに抵抗している。
>> 概念に抵抗してる?
概念 とは それを保つ者 に 保たてられる
( 不 ) 自由 を 自由と感じる ( “ 自由さ ” を 問う )
不自由 と 感じる 自由性 は 「 平等 」 に 起きる
好き嫌い で 物事を感じる その者 に
“ 嫌い ” を 説明しても “ 嫌われる ”
「 至道無難 唯嫌揀択 」 唯嫌揀択 → 好き嫌い を 嫌う
何を 好んでいるか は 眼の前の出来事 を 見ればわかる
選んで “ 感情 ” を 起こしている
釈迦牟尼 は 誰が死んだときに 悲しんだのであろうか ?
舎利弗 は どこに存在して どこで 存在を失ったのであろうか ?
「 心 」 は 自由に 「 空 」 を 飛ぶ
石 でさえ 投げれば 落ちるまで 「 空 」 を 飛ぶ
足下( 其処 ) から アッチ( 悪地 ) へと 位置を移す
「 好嫌 」 とは 善悪 の
把握 ( 悪 を 握って 憮然 と する )
「 意 」 の 把握(把悪) の こと です
( 善悪 を 起こさぬ限り いつも 「 善 」 を 抱きこんでいる )
( すべて 「 悪 」 なら すべて 「 善 」 と 言い換えられる )
善悪 が 「 縁起 」 に 沿って おきるから
起きた 「 処 」 で 意が乱れる
悪くはないぞ と 不図 ( は ) 知る
( 不図 ・ フッ ・ 弗 ) 知るときに起きる 「 死 」
フシ て 死ぬ 死んで 起きる( 立ち上がる ) 克己
立って 死ぬ のは 武蔵坊弁慶 だけ である
( 一本の矢 であれば 簡単に 折れる・倒れる )
( 幾本 もの 矢 を 刺しているから そこに 立っている )
一本 でも 立つ 日本 の 「 坊 」 ( 武蔵 の 坊頭 )
また 金銀 の 銀 が ( 金も銀も 貴重 なのだが )
「 ワケワカラン 」 と “分かったこと” を 言う
「 銀 」 は 一人の 「 意 」 に 立つ
分かっていること に対して 疑問は起きない
何が分かっているかを問うと 現実を指さす
けれ ども
指の先 が どこを指すのかは 決まっているわけではない
指先 を 蹴り とばし“ケリ”
言い ける こと は つま先 のこと ( 妻 とは 先っぽ の こと )
長い人生 の 先をつかんで “ 思い ” と 言う
重い か 軽 「 意 」 かは 不測のこと ではあるが
其処 は “個人の自由” に沿って “ジユウニハカラレル”
位置 は “ 勝手 ” な 法の手 で 認知される
一 から 十 まで の どこを 指そうと
一から “其処”まで は 十等分 できる
起きた 「 処 」 ( 其処 ) を 「 無明 」 と 呼ぶ
その 一 ( 位置 ) は いつも ブゼン と する位置
前に遡らなくとも 今 読むことができれば
無 「 善 」 とは
善悪=好嫌 を 超えて( パーラー )起きる 「 密 」 であると知る
密( MITA ) とは ミルことが適わぬ 「 見 」 の こと
パラミタ とは A MITA と 同義 である けれども
↓
( 見たことを 現実 と 捉える限り ) 密 にあって 見難き
麻から 晩まで 抜け殻 を 応 ( 負い 続ける )
・
お釈迦様って、誰が死んでも悲しくないの?悲しいという感情はこれか~~って客観として
扱うから周囲から見たら、悲しんでるように見えないとかでなくて?
んじゃあ、「悲しい」が体験出来るとこに吹っ飛ばされていくべきでしょうねぇ!
猫は開祖が殺したのかな?「真新しいお堂に爪を立てては困るから」とか言って?
なにか責任感のような気分で?
後に、真導院様と呼ばれた自分の次男が背比べして柱に傷を付けてこっぴどく怒られたけれど、
今となっては、とーーーーーーーっても貴重な宝として、みんな参拝しているね。。。
「猫差別はんたーーーーーーーーい!!!!!」と言わせて頂きたい。
ぎんたさま こんばんは。
>お釈迦様って、誰が死んでも悲しくないの?
面と向かっては言わないけど、悲しかったんじゃないかな、って思ってます。
サーリプッタとモッガラーナが亡くなって、悲しんだと思うんだよ。口では、言わないけど、きっと。
「チュンダ」という経典からの抜粋です。(「サンユッタニカーヤ」47.13)
1.
あるとき、それはサーリプッタとモッガラーナの二人が般涅槃して間もない頃でしたが、尊師は、大きな比丘の集団と一緒に、ヴァッジの国、ウッカチェーラーというところのガンジス川の岸辺に滞在していました。
2.
そのとき、尊師は、比丘の集団に囲まれ、露地に座っていました。
さて、尊師は、じっと黙ったまま比丘集団を眺めていたが、比丘たちに呼びかけた。
3.
「比丘たちよ、わたしにとっては、この集会は、まるで空っぽのように思われる。比丘たちよ、サーリプッタとモッガラーナが般涅槃して、わたしには、集会は虚しい。サーリプッタとモッガラーナが居たところにも期待はもはやない。
4.
比丘たちよ、過去世において、阿羅漢で正等覺者である者たちがいたのである。かれら尊師たちにも、このようにすぐれた一対の弟子たちがいたのである。それは、あたかもわたしに、サーリプッタとモッガラーナがいたようなものである。
比丘たちよ、未来の世においても、阿羅漢で正等覺者であるものたちはいるだろう。かれら尊師たちにも、このようにすぐれた一対の弟子たちがいるだろう。わたしに、サーリプッタとモッガラーナがいたように。
5.
比丘たちよ、弟子たちに稀有なことであるのは、弟子たちに未曾有であるのは、師の教えを実践するだろう、師の教誡にしたがうだろう、ということである。四つの会衆に愛され好かれ重んぜられ尊敬されるだろう、ということである。
比丘たちよ、如来にとって稀有であるのは、如来にとって未曾有であるのは、このような一対の弟子たちが般涅槃したとしても、如来には、憂いや悲しみがないことである。
このことを、今ここで、どうすることができようか。比丘たちよ、生まれたもの、存在しているもの、作られたもの、壊れるもの、このようなものに、実に、破滅してはならない、といっても、そうなる道理はないのである。
6.
アーナンダよ、たとえば、大きな樹木がしっかりと立っているとしよう。だが、その樹木の、大きな幹が折れることもあるだろう。同じように、アーナンダよ、大きな比丘の僧団はしっかりと存続しているのだが、サーリプッタとモッガラーナは、般涅槃したのである。このことを、今ここで、どうすることができようか。生まれたもの、存在しているもの、作られたもの、壊れるもの、このようなものに、実に、破滅してはならない、といっても、そうなる道理はないのである。
まだ続くんだけど、このくらいにしておこう。
わたしには、ブッダは悲しんでるように見えるんだけど。。どうかなあ。
ぎんたさま 再度挑戦。
>お釈迦様って、誰が死んでも悲しくないの?
ここを考えてて、「チュンダ」という経典上げたと思うんだけど、まちがってました。
その次の「チェーラ」という経典でした。その中に、こんなことばがあったでしょう。
>このような一対の弟子たちが般涅槃したとしても、如来には、憂いや悲しみがないことである。
なのに、わたしは「ブッダは悲しがってる」って思ってるんだけど、何故そう思うのかは書かなくちゃね。
っというわけで、訳し直したり、考え直したりしてました。
「原始仏典」にも入れようと思うんだけど、その前に説明するね。
ブッダが比丘たちに、話しかけてるのが、この「チェーラ」(SN47.14)という経典です。
ブッダは、集会で、
集会があっても、サーリプッタやモッガラーナの脱けた穴は埋められず空虚である、って意味のことを語っています。
で、「比丘たちよ」と呼びかけて「自分を中州にして他をよりどころとしてはならない」と教えます。また、「法を中州にして他をよりどころにするな」も教えてます。
ここで、わたしが感じるのは、「比丘たちのために教えを説いてる」ってことなんです。
集会は空虚だ、っていうのは本当で、ブッダの気持ちだと思います。でも、ここでブッダは、気を取り直して
二大弟子は死んじゃったけど、「悲しくない」と教えて、悲しみや苦しみがなくなる境地を目指そうとさせているんじゃないかと思っています。
自分をよりどころにすれば、憂いや苦しみのないところにいけるんだよ、って教えてるような気がします。
いつもブッダは生きてるもののために働くんだなあと思って、「偉いぞ、ブッダ」って思ってます。
わたしは、ぎんたさまも、いつも「えらいなあ」、って思ってます。
春爺に負けないからです。
先生、私が読んだことない文章をあげてくださり、ありがとうございます。
私はこの文章は、、この文章を書いた人の「気遣い」のようなものを感じます。
「尊師」とか書かれると、(猫人間の漫画脳では)尊師という仰々しい言い方に
影響受けすぎて、(オウムの事件にも引っ張られて)お釈迦様の気持ちより、
書いてる人の気持ちが強く感じられてしまいます。私はお釈迦様の気持ちは
正直わかりませんが、自分の気持ちはわかるので、自分の解釈を書きます。
けど、もう晩ご飯の用意をしないとなタイミングなので、明日にします。
ぎんたさま おこんばんは。
>私はこの文章は、、この文章を書いた人の「気遣い」のようなものを感じます。
おしゃかさまって、けっこう気遣うタイプだな、って、前から思ってました。
わたしの訳が悪いためにうまく伝わってないと思うので、たぶん正しいと思う訳をそのうち上げますね。
なかなかすぐに出来なくて申し訳ない。。
晩ご飯おいしく作って食べてね。
先生こんにちは、昨日布団の中でずっと考えたんだけれども、煮詰まりすぎて
もはや投げやり状態で、誰にも気を配らずに書ーこおっと、と思いました。
ねこだし。
お釈迦様は、やっぱ悲しいんですけれども、なにが悲しいのかっていうと、
これまで一生懸命やってきて、その結果僧団が大きくなって、沢山の人と出会え
たんだけれども、それにつれてやっかみとかも強くなってきて、二人は死ん
じゃって、殺した人は「いくら仏教やっても殺されちゃうんじゃあ、世話ねーや
なw」とか言っちゃって。。。お釈迦様は2人を親御さんから預かっているわけで
責任があります。
でも、いくら前世で起こったこととか前の地球で起こったこととお揃いなんですよ、彼らが今回はこのルートで!と選んだことなんだから、それは尊重しないといけないんですよ、とか言っても遺族にはもはや言い訳にしか聞えなくて、、、
だから、「遺族の悲しみが続くのが悲しい」です。でもって、殺された人は、
次(昆虫その他を生きた後に)殺した人のポジションに行っちゃうので、結構
道が違っちゃうから、もう大分逢えないねーはあるでしょう。
て、ことは、純陀きゅんはお釈迦様が殺したのかな?したら次お釈迦様の
ポジションに来れるし。ねこと純陀きゅんは仏教に殺され仲間でシンパシーが
ありますねー。自分が罪を犯しても、っていうのが慈悲っっっっっみたいに
賞賛されているの?なにはともあれ殺人、、、、
純陀きゅんは討論に勝って(と思っているけれど実はパイセンだしね)意気揚々と村に帰ってみんなに報告しよおっと!!みたいな所を後ろから射かけられたのかなと。ぎんた接心で、戦争に行って後ろから頭に弾丸受けて亡くなった親戚
示されたことあるから、お揃いにしてみた!
だから、次の犠牲者を出さない為にも、もう僧団は絶対に解散して個人個人で
やっていって欲しいんだけれども、中々聞き入れて貰えずこちらも悲しい。
どうですか?思いつく限りの残念さで書いてみました。厭な感じになり
ましたか?春間さんをげんなりさせられたら本望です!
先生は、、、一切智のジャッジが出来るみたいだから、先生が一切智にゃのでは?先生の訳楽しみにしています。もちろん急ぎません。
ぎんたさま こんばんはっち
世間を知ることと、一切智を目指す管理人です!
>意気揚々と村に帰ってみんなに報告しよおっと!!みたいな所を後ろから射かけられたのかなと。
後ろから射かけられたら、その瞬間は「後ろから」ってわからんですよね、、、だけど、なぜか知らないうちにわかっちゃう。
昔テレビで、デモでチベットの高僧が撃たれて亡くなったのですが、その高僧の生まれ変わりの坊やが出てきてました。
弾はお腹にあたったと言ってました。そして、それは本当だったのです。高僧はお腹を撃たれて亡くなってました。
だけど、誰の撃った弾かは言ってませんでした。そこまではわからなかったみたいです。
「縁起」とか「因縁」とかいわれるものは、そんなもんだよね。
お釈迦様は、「親御さんから預かってる」ってる、って文句言われたので、そこで「親の承諾を得てから来るように」ってきまりを作ったの。
ぎんたさまに言われたからじゃなくて、あるバラモンが怒って文句を言ってきたからです。
そんなとこです。春間さまはなかなかげんなりしないです。。逆に元気でます。。
いや、先生、
「出家は許したけれど、まさか尊い僧団にいて殺されるなんて聞いてねーですだ」って言われるにきまってるじゃないですか!
あと、お釈迦様は高齢で病気だから、弓使えなかった。お釈迦様の死んだ年齢が間違ってるか、
「芸術的レベルの忖度」でもって、
もっと若い人が射たのでしょう。
純陀きゅんは、前世は狩られて死んだ動物なんでしょうね。
ぎんたさま こんにちは。
>「出家は許したけれど、まさか尊い僧団にいて殺されるなんて聞いてねーですだ」って言われるにきまってるじゃないですか!
そうか。。モッガラーナは殺されるみたいですけど、サーリプッタは病気で死んだみたいですね。
教団にいる人ってけっこう殺されたりしてますね。龍樹の弟子のアーリアデーヴァという人も異教徒に殺されてしまいます。
たしか、苦しい息の下で彼が無事に逃げられるように「早くにげろ」とか言うんじゃなかったかなあ。
日本でも法然のお父さんが夜討ちにあって殺されちゃうんだ。お父さんは幼い法然に「敵を恨んで敵討ちをしてはならない」と言ってなくなるんじゃなかったっけ。
仏教って、あんがい平和じゃないね。大乗になると「捨身飼虎」とか、虎に自分の身を食べさせたりする話もあって、グロいです。
*
> わたしには、
その声を聞いている わたし
そのわたし には 同じ住処 に “わたし” が いる
一つの“場所” には 二つの わたし が 存在できる
( “わたし” と それを認めるわたし とである )
二つめ の 場所 にも もう一つ が 存在する
( その 存在する“わたし” とは あなたであるけれど 、、、、 )
******************
自他 を 二つの存在とする(しかない) 人 には
それぞれに 独立した 一個 の 存在しかない
独立した自己 に それを認める自己 は 存在できない
「 自他不二 」 とは
他を排除して独立する自己 を 否定すること の 言い換えである
******************
こうして この(一つの概念である)地球には
幾多 の 意のチ( 意のいづる 地・知 ) が 存在している
> 集会は虚しい。サーリプッタとモッガラーナが居たところにも期待はもはやない。
集会 を 構成する “確固” ・ 各個 には
“サーリプッタとモッガラーナが居たところ” が 存在していない
そこが存在している のではあるが “ 各個 ” は それを認めず
( そこに対する )期待 は 衆人 には
“もはやない” と 伝えざるを得ない
> 4. あたかもわたしに、サーリプッタとモッガラーナがいたようなものである
あなたたち には サーリプッタとモッガラーナ は
いない ( たしか いたのではあるが )
故に あなたは 下記のように 翻訳・解釈 する
> かれら尊師たちにも、このようにすぐれた一対の弟子たちがいるだろう。わたしに、サーリプッタとモッガラーナがいたように。
尊師には “いる”
あなたの前 の ( 「眼」 に うつる ) わたしには “いない”
どうして 同じ尊師 に いる・いない が “存在”しているのであろうか
( 存在=あるない ) は
( イッショニ ) “存在”できない のでであろうか
「 尊師 」 の 構成要素 に どのような違いがあるのか
ということ その違い を “認識する” のは あなたでしかない
( 認識 とは “カッコ” として 存在する“モノ”であろうか )
「 認識 」 であろうと 「 識 」 である
それをもってして あなたは 想像という妄想 を 展開する
> 比丘たちよ、 ( 比丘ではない 読者たち よ )
> 如来にとって稀有であるのは、如来にとって未曾有であるのは、このような一対の弟子たちが般涅槃したとしても、如来には、憂いや悲しみがないことである。
いくら “ない” と 言おうと
( 現実と呼ばれる ) 今 において
「 三世 」 に亘る 「 今 」 を
( 今・ここ・現世 で ) 言っても 架空のこととなる
> 如来にとって稀有であるのは、如来にとって未曾有であるのは、このような一対の弟子たちが般涅槃したとしても、如来には、憂いや悲しみがないことである
> このことを、今ここで、どうすることができようか
このようにしようと
ただ 「 虚空 」 に グ(愚・求)モン は こだまするのみ
「 虚空蔵 求聞 」 とは このような 「 法 」 に 対して
存在する ( 「持」 されている )
求める “ モノ ” は 求める者 に 対して 存在する
聞きもしない “ 「 法 」 ” には 存在できない
・
> 尊師には “いる”
> あなたの前 の ( 「眼」 に うつる ) わたしには “いない”
> どうして 同じ尊師 に いる・いない が “存在”しているのであろうか
> ( 存在=あるない ) は
> ( イッショニ ) “存在”できない のでであろうか。
それが、「識」の特徴だからでしょう。
西洋と東洋にこだわっているように見えるかもしれませんが、それは我と無我の対立として、
識の問題に置き換えられるからだと思ってます。
ブッダで感心するのは、識を扱うときにはローカルルールの「識の規定」に従うことです。
そのルールに従いながらも、矛盾・逸脱・顚倒を示せることに心底「一切知者」を見ます。。
*
> ブッダで感心するのは、識を扱うときにはローカルルールの「識の規定」に従うことです。
> そのルールに従いながらも、矛盾・逸脱・顚倒を示せること
それは ローカルルール ではない のではないですか ?
ローカルルール には 矛盾・逸脱・顚倒 が ない !
矛盾・逸脱・顚倒 がないのに
矛盾・逸脱・顚倒を あらわせますか ?
人の生 には 矛盾・逸脱・顚倒 がない
その 「 識 」 が ローカルルール であり
それによってのみ( 言語習慣 によってのみ )
真理は表現される
それを表現するのは 成就者 であり
成就 するとき( したとき )
その成就 を 言語習慣で 知る( 表す・表現する )
成就していなくて その表現 を 真理に沿って 知ること可能 ?
> に心底「一切知者」を見ます。。
一切知者 の 一切(=一部) を見る
「 獅子 」= 象 の 足( = 象 ) を見る
足跡 が あるとき その足跡に沿って(顛倒していようと)あゆむ
「 道 」 は 足下には 無いのです
しかし “あゆむ” という
ローカルルール で 認識するしかない(あゆむしかない)
“釈迦牟尼 の あゆみ” は “ローカルルール の あゆみ” ?
わたしは ローカルルールに沿って この表現を為しています
この ルール においての
“矛盾” を “ 指摘 していただくこと ” はできますか
ローカルルール においての 「 理 」 に対する 「 顛倒 」 です
・
春間さま こんばんは。
> ローカルルール には 矛盾・逸脱・顚倒 が ない !
> 矛盾・逸脱・顚倒 がないのに
> 矛盾・逸脱・顚倒を あらわせますか ?
ローカルルールと言ったのは、それぞれ「界」のルールに従うということです。
その点では、言い方が適切ではなかったかもしれない。。
五蘊という範囲では、いろいろに分けて語れますが、識という範囲では二通りしかありません。
肯定と否定です。
そうなると、矛盾は示せます。。
だけど五蘊の感受(受)になると三通りに示せて、「いずれでもない」という中道が出てきます。
受で得られたことは、識とは異なっていて、それぞれの界のルール(ローカルルール)に従う語りになっています。
三通りに示せるときは「中道」と言っても良いけど、「識」の界で話すときは二通りしかないので話せません。なので、「近づかない」という言い方になります。
そういうことをローカルルールとして示そうとしたけど、上手くいかなかったみたいです。
*
> > 矛盾・逸脱・顚倒 がないのに
> 識という範囲では二通りしかありません。
肯定と否定です。
「 そうかもしれない 」 ということ の 意味
仮定のこと なので 真偽 は 知ることができない
つづいて 「 けれども 云々 」 (と 続ける )
知らないことでも “断定して” 云々と 提示する
( “断定” とは 提示されている 事実 )
「 云々+ と思う 」 思っていること を 断定で提示している
思っていること に 対して 断定できてしまう
( 思っていること は “この断定一つ” と “確定している” )
* 知らないこと 「 ○○○○しれない 」 事 に対して *
知るゆえ に 対する 「 認識 」 を 提示できる 「 云々 」
「 かもしれない 」 ということ は
“ 否定でもなく 肯定でもない ” のに
「 云々と思う 」 と “ 否定する 弁を立てる ” ( 否定を 肯定する )
* 知らないこと 「 ○○○○しれない 」 事 に対して *
知っていること で 否定できる かな ?
黙っている しかない こと に対して
提言できること は “ ただ 存在を 肯定 する事 ”
提言しなくて それにたいして 沈黙 すると
それは “必ず” 否定の 態度になる
> > そうなると、矛盾は示せます。。
どこに 矛盾があるか が まだ分かりませんか ?
> > 矛盾・逸脱・顚倒を あらわせますか ?
LOKA
あらわした時 は 矛盾 が 起されている ( ローカ ル ルール )
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だけど五蘊の感受(受)になると三通りに示せて、「いずれでもない」という中道が出てきます。
受で得られたことは、識とは異なっていて、それぞれの界のルール(ローカルルール)に従う語りになっています。
三通りに示せるときは「中道」と言っても良いけど、「識」の界で話すときは二通りしかないので話せません。なので、「近づかない」という言い方になります。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 世間 」 ・ “ ローカ ・ダートゥ ”
において 「 出世間 」 には “ 近づけない ”
「 中道 」 とは 沈黙 ではなく 否定でもない
“ 「 と 思う 」 ということ ” を 言っているのではありません
( それぞれの界 の ルール に 従うことができない 提示 )
・
春間さま こんばんは。
> 仮定のこと なので 真偽 は 知ることができない
ここはグッときました。仏教の本質ですね。
また、「西洋」と書くと文句が来そうですが、ほとんど世界的な価値観となっている点(西洋)からすると、
誤っていることになりますね。
多くの日本人が受け入れた価値観によると、これでよい。。
諸行無常、一切皆苦、一切皆空、諸法無我、この四つで仏教の考え方がほぼすべてわかる。。
色受想行識の五蘊に合わせているんだ、って、春間さま、気がついてた?
*
わからずとも 描き得る 覚 こと の 世間( loka – ) “dhatu”
> 諸行無常、一切皆苦、一切皆空、諸法無我、この四つで仏教の考え方がほぼすべてわかる。。
ほぼ わかっていること とは
わかっていない ということの
バリエーション の 一つでしかない
「 道 」 を 歩む ということ は わかること に
たどりつこうとすること ということ ではありません
わかっていないこと を “ ふみしめること ”
( 文 し 見ること )
文 つづけること
わかった時( 話 かりし とき ) には
わかった ( 吾 仮った ) と わかる
( 仮 のもの で 仮る しかない)と 知り 得る
↓
得てはいない “ モノ ” を 得ること を 知る
得ること の できぬこと を 知りて えりうる
“ ほぼ ” には “まったくないところ” が 存在しない故に
ほぼ ではなく 全う して 分かる と 思い 違う
( 末当 が ありもしないのに あるという前提を立てる )
端 から 歩み始めて もう一端 に たどり着いて
そこで
その道 に ありもしない 更なる一端 を 探す道 に 迷う
( 迷っている にも かかわらず )
かかわっていること を “見ない”
( 見て有る・見得る にもかかわらず にんしきできない )
立っているところに 得るものがあるのに
ちがうところ (ないところを・ありもしないところ)
を サ 迷い追おう とする
「 脚下照顧 」 とは この言 を “サ” として いる
“サ” を 摂る と イウコト ( 諭す )
( 差 が 存在するためには “ 両端 ” を要する が )
一端 気付いてしまえば 両端 が 存在している と 思い違う
( これは 読んで知ること に おきる・端を発する )
端 成る ( “こと” の ) 思い違いでしかない
> 色受想行識の五蘊に合わせているんだ、って、春間さま、気がついてた?
“ ほぼ ”気がついている “あたま” で
“ ほぼ 気がつく(頭) ” を “ 割る ”
我ない頭 で 我いる 頭 が 割れずに 見(そして)得る
( 「 縁起 」 とは 今のこと を 射ている・受滴・言う ことです )
わかりましたか ? ( 吾 の わかる ということ )
気がついた者 には 気がついた者 の きづき が わかる
( わかった処 で わかってはいない それまでの歩みを 復見 する )
端 は どこにでも起きているけれど
もう一端 は
起こそうとすると どこにでも起きている端 に 留まってしまう
五蘊 に まかせて 五蘊に 居き・息 る ( LOKA”L RULE )
・
> ほぼ わかっていること とは
> わかっていない ということの
> バリエーション の 一つでしかない
いかにも春間さまって、反応です。
識の人らしい反応だなあ、って見ています。
自分の表面意識が壊れたAIみたいなものという認識があるかないかですね
壊れているという自覚と修復が禅とかサティとかなんでしょう
なるほど、カエルさま
壊れている、という自覚があったので、考えてしまいました。訳し直しています。
ぎんたさまに再度コメントしてみよう。
マニカナ先生、こんにちわ
壊れているというよりはバグってるというのがもっと近いかな
自分は完成してたり正常と思う信仰信念と釈尊の仏道は別物なんだと思うな
人間はたいていはバグったAI
カエルさま すばらしいです。
>自分は完成してたり正常と思う信仰信念と釈尊の仏道は別物なんだと思うな
わたしもそう思うっす。
>人間はたいていはバグったAI
つまり、「人間は、論理ということを大事にする生き物だ」っていう言い方も出来るかな。。
分かる ということ は
瑜伽行 の 上に 起きていること
起きていること を 知るには
知るということ を 知らなければならないが
問題は 知らなくとも知っている
ということ が 成り立つこと