
3.11です。様変わりする日本列島。東日本大震災を知らずに育った人たちも多く出てくるようになりました。如来がでてもでなくても、生類に死はあり生はあります。老いと病も、もれなくついてきます。そこをしっかりと見つめるだけです、仏教は。
最近、youtubeを見ています。最初の一回目だけがややインパクトがあり、後は惰性で続きます。二度目を見ると、そのパターンに気づきます。こうして、同じ事が繰り返されています。少しすると飽きるでしょう。こうして、人間は変わらずに輪廻していくことになるのですね。ああ、この輪から抜け出したい。
そう思いながら、『サンユッタ・ニカーヤ』22.95「泡沫」経の詩の部分に訳を付けていました。
わかっていることなのに、なんて新鮮なんでしょう。
身体(色)は、ガンジス川に渦巻く泡沫の塊。濁流となり泡だってちぎれる。冬に見られる日本海の「波の花」もそうかもしれない。海の波が泡立ってちぎれて雪のように舞うのだとか。
感受(受)は、秋雨の頃の水のあぶく。消えては結ぶ水の泡。生じては滅する。
想念(想)は、夏の終わりのかげろう。ゆらゆらと揺れるところが想なのです。
意思や形成作用(行)は、芭蕉の木。堅材を求めても、それは芯のないスカスカのむくろ。
識別・判断(識)は、幻。生じるとどこまでも拡がる暴走の庭。天がける天馬ペガサスのよう。
秀逸な喩えです。これで、ブッダの目の付け所を知るのです。どういう特徴を持つのかを察するのです。
「ありのままに知る」、ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
ありのままに知ることがないようにわたしたちは自分で自分を縛っている。ブッダは、それをほどいて見せた。色はガンジスの泡の塊、受は、あぶく。想は陽炎(かげろう)。行は芭蕉。識は幻。
忘れないようにして、考察せよ。
コメント
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> 「ありのままに知る」、ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
難しくないこと を 難しく考えると 難しくなる
難しいこと を ありのままに見る と
ありのままに (あって) 難しい
見ていること が 難しい のではなく
難しく見るから ありのままに 難しく見える
見ている のは いつも 「 自分 」
自分 が ない と知ると 見ている主体 が いなくなり
ありのまま だけ が 存在するようになる
「 如実 」 であり タタター である
「 如来 」 は ここにあり !
「 如来蔵 」 の 上に 下に 自分が立つから
足下 が 見えなくなる
足下 を 覗くと
そっか ら どっか に 足下は動く
( 足下 は 心中 に いつもある )
「 愚 」 とは 覗けば 何かが見えると 勘違いする事
見える のは “いつも” 自分=「 我 」 だが
それは 〇〇〇 「 無 」 を 冠している
> ありのままに知ることがないようにわたしたちは自分で自分を縛っている。ブッダは、それをほどいて見せた。
どこに どのように ほどいたのかな ?
いくら ほどこうと ほうかっておくから こんがらがる
「 薫習 」 ということを 甘く考えていてはいけない
「 唯識 」 を “学び” 直しなさい
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> 見える のは “いつも” 自分=「 我 」 だが
> それは 〇〇〇 「 無 」 を 冠している
なぜ みんながみんな そうなるのかな、って思っています。
ただ 日本では そうでない人もいるだろう。他の国にもいるだろう。
違う価値を持つ人たちが必ずいる。その価値のせいで、わたしたちはかろうじて暴走を免れている。
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なぜ みんながみんな そうなるのかな、って思っています。
ただ 日本では そうでない人もいるだろう。他の国にもいるだろう。
違う価値を持つ人たちが必ずいる。その価値のせいで、わたしたちはかろうじて暴走を免れている。
> ************
皆 が そうではない
皆 そうなのだ
“ そう ” 観る あなた( わたし ) が いる
「 大宋国の叢林にも、一師の会下の数百千人の中に、まことの得道得法の人はわずかに一人二人なり 」
一人 が 立つには ( 並び立つ ) もう一人 「 縁起 」 する
「 一人 二人 」 なのです
そうではない と 観る人がいる
“ いるだろうと ” いないところに立つ
“ 必ずいる ” と いないところに立っている
どのように 暴走 を 免れているのか ?
暴走の渦中(火中) に いて 望相
( 流れずに 観得る かな ? )
「 外に居出でなさい 」 白牛 の 車が待っている
( “わたし” は そこ=ここ で 「カタク) 「白」 を 観ている 」
だれが “ 居 そして 出る ” のか 間違えてはいけない
“そこ” と “ここ” とは 同時 に 同所 に 存在している
( そこ とは どこ でもない 「 此処 ・ 止処 」 である )
> かろうじて
軽い 労 を 為して ( かろう “じて” )
思い 労 を 免れてはいない ( 我 思ん “じる” )
わたしたち とは
わたしの中の わたし を 数えるに過ぎない
「 一人二人 」 ではなく 一人(独個=我=自) である
「 自他 」 のことを 「 一人二人 」 と 言い表す
唯我独尊 には 孤独 が あり 己事 があるとも言える
( 孤児 は 釈家 に 独居 しているのではない
借家・火宅 に あそんでいる ・ A 相 でいる )
相 ではない と 異義を起こす “あなた”
相 異 う 構造 ・ 「 性 」 に 起きていることを
「 無明 」 とも 呼ぶ
「 無明 」 に 在りて 「 無明 」 を 言う ( “わたし” )
・
mani先生 おそれいります。「泡沫」経を読んで、「空」と「無」の少ない『心経』異訳がありうると思い、作ってみました。あやしい漢文ですが、「空」に「泡沫」「縁起」をあて、「無」に「不住」をあてました(「無~」の所を世尊は「捉われない」・「こだわらない」・「依らない」と言っており、そのニュアンスは初期般若経の「不當於中住」や「無所住」にあると思えるので、「不住」としました)。
1<成道>
菩薩行深般若波羅蜜多時 菩薩が深く智慧の完成を行じていた時、
照見五蘊皆従縁起 五蘊はみな縁起によると、出曜の如く明らかになり、
度一切苦厄 ドゥッカは みな散ってしまった。
2<諸法縁起>
色即是従縁起如泡沫 物質的現象は縁起によるものであり、まるで泡のようだ。
従縁起如泡沫即是色 縁起による泡のようなもの それが物質的現象であった!
受想行識亦復如是 感覚・表象・意志・知識も また同じ。
是諸法縁起相 それは、あらゆるものが縁起のすがたということである。
不生不滅 不垢不浄 不増不減 対になる相を超えており、測れない。
3<縁起無所得>
是故縁起中 ゆえに縁起のただなかで、
不住色受想行識… 五蘊十二処十八界に とらわれず こだわらず 依らず、
不住無明亦無明尽… 十二縁起に とらわれず こだわらず 依らず、
不住苦集滅道 四諦に とらわれず こだわらず 依らず、
不住智亦不住得 智と得に とらわれず こだわらず 依らない、
以無所得 無所得をもって、
4<菩提無相> 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙故 遠離一切顛倒夢想
補足:
・『心経』「空即是色」は、「悟了還同未悟」のような、360度回転したような
新しい面目への詠嘆!…かもと思いました。
・「不生不滅…不増不減」は、法句384や経集1076にひかれて、意訳しました。
・『心経』「無智亦無得」の言いかえとも思える経集856の「依りかかることのない
nissayanā natthi」は「中正的な真理の発見」を表すそうですが、世尊の言う、
とらわれない(法句410)・こだわらない(経集519)・依らない(経集800)も、
中道と関わると思いました。因みに「不住」の使用例に「不住於中道」(宗鏡録)、
「無所住」の使用例に「両處無所住」(経集801義足経)がありました。
・段落1~3に関連すると思われた、手元のパーリ経は、以下の通りです。
(段落3も、教説の否定でなく、世尊の教説に沿うと思いました。)
段落1 法句277・279・282、経集5・372・499・653・1119、悪見経(如是語49)、
犍度大品Ⅰ.1.7、自説1.3。← 出曜の譬えに「照見」のイメージありか。
段落2 法句147・255・277・279・384、経集514・731~737・856・1076・1121、
自説8.1~4、不生経(如是語43)など。
段落3 蘊処界 :法句374、経集337・340・737・778・974・1111など。
十二縁起:法句348・385・410、経集519・535・654・1056など。
四諦智得:法句経97・221・421、経集21・799~803・856、筏喩経。
手元のパーリ経と般若経典のつながりが、前よりも少しわかってきた感じがします。
ありがとうございます。長文になり大変失礼を致しました。
近侍郎さま 遅くなってしまいました。
>「泡沫」経を読んで、「空」と「無」の少ない『心経』異訳がありうると思い、作ってみました。
ということなので、わたしもその意図に倣い、素直に味わうことにしました。
>・『心経』「無智亦無得」の言いかえとも思える経集856の「依りかかることのない
nissayanā natthi」は「中正的な真理の発見」を表すそうですが、世尊の言う、
とらわれない(法句410)・こだわらない(経集519)・依らない(経集800)も、
中道と関わると思いました。因みに「不住」の使用例に「不住於中道」(宗鏡録)、
「無所住」の使用例に「両處無所住」(経集801義足経)がありました。
この箇所に特に目が行きました。
>「中正的な真理の発見」を表すそうですが、
誰かがそう述べたのだなあと、思って読みました。
ガンジスの泡立つ泡沫の如く、色はそうである。。
「空即是色」を表すかのようです。「泡沫」経で、わたしが気になるところは、喩えの中に、秋とか夏の終わりとか、季節が現れることです。時と空間とが置き換わっているような気がして、そこを味わっています。
究極にはこだわらないさまを表しているんだなあと思って、近侍郎さまの読みを興味深く受けとめています。
mani先生 お返事を頂きまことにありがとうございます。
一か所、正確でない表現がありました。
>経集856の「依りかかることのないnissayanā natthi」は「中正的な真理の発見」を表すそうです
の末尾は、「そうです」ではなく、推量「ようです」が適切でした。お詫び申し上げます。
小生がそう推量したのは、二つのわけによります。
一つは、経集1070の「natthīti nissāya」についてのスマ長老のご説明で、
「中村先生は『何も存在しないことによって』と訳しています。…これは、『頼りになるものnissāya は一切ないnatthi』というすごい意味なのです。…『頼ること、依存することが一切ない』ということは、これは解脱の境地のことを言っているのです。(ここにいう)『何もない』というのは、『一切有』に対して『一切無』とちがって、有無の極論をさけた中正的な真理の発見です。」とありました。(『彼岸道品』P.103~104)
二つには、経集856の「nissayanā natthi依りかかることのない」に続く後半に「生存に対しても、生存から離れることに対しても妄執がない」という、対になる両方への否定の意味があったことです。
それで、経集856 「nissayanā natthi」の使い方は、「依存することがない」という点と、「対になる両者のいずれにも~ない」に続くという点で、経集1070の「natthīti nissāya」と似ていると思い、856の方にも「中正的な真理の発見」という意味がありそうだと推量しました。
経集856も「依存することがない人は、理法を知ってこだわることがない」という、1070と同じくらいすごいことを言っていると思われ、それは『心経』「無智亦無得」や、『大品般若』・『智度論』「不住有為性中 不住無為性中 是為菩薩住般若波羅蜜」に重なるかもしれないと思いました。
訂正の報告が、また長くなってしまい、申し訳ございません。