
ひぇ~、こんなに融けたよ。この日は3月1日(土)です。雪は水から出来ていると、改めて認識しました。昨日は、3月2日だけどアスファルトの地面が見えていました。先週は雪がどっさり降って、今週は暖かい!っと。
3月3日、つまり、今日から、また真冬日らしい、です。はっきり言って、ついていけません。ついていけないけど、ついてゆくしかないのが、現実なのです。
仏教は、ありのままを語るから、なんでも言えるのですだ。でも、語ることは、自分の身に起こったことでないとダメなのです。自分の身に起こることでないとダメなのです。自分の身に起こるだろうことでないとダメなのです。
この三種の語り方があるのです。この三つの語り方を全部一度に言うと、「三世にわたる」っていうんだよ。過去世と、現在世と、未来世だね。これら三世にわたると「一切」と言われる。そのように、わたしは理解しています。
「諸行無常(諸々の現象は常住ではない、つまり、変化する)」って述べたところに、ブッダの智慧がありそうです。
何でブッダの智慧なのか、というと、「諸行(諸々の現象)」を「一切の現象」とは言っていないからです。実質的には、仏教徒からすれば「一切の現象」だと、思うんだよ。
でも、そう言うと、「なんで一切なんだ?神様は違うだろ!プンプン!」とか、言われちゃう可能性があります。
それに、そういう意見があっても不思議じゃないし、寧ろ自然なのです。だから、自分の意見を引っ込めるのです。それは、そもそも、正しいのかどうか、わからんことだからね。
こうして、「諸行は無常なのだ」とだけ述べるブッダの教えを守ることになるのが、仏教徒ということになるのです。
一応ここで「にゃるほど」って言っておこう。
コメント
にゃるほどです!ぎんたのやってる「私な仏教」の場合はこんな感じです。
自分の意見をまず持ちます。
(すると、春間老師が自分は無いとか言いそうだがソレは虫、無視。ややこしくなるから)
で、相手の言ってることを聞きます。内容&真剣度合いを推し量ります。この時に内容が高度すぎて
ぎんたに入ってこないことも多いですが、それは(縁がなかったんだなぁとか、猫人間には判らなくて
昆虫人間のこの人にとっては凄く当たり前レベルのことなんだなぁ)と思って拘りません。←これが失礼な態度に当ってしまう場合もあるかもですが、前回の地球でも同じ事が起こっていたと思うのでどうすることも出来ないから、心の中で合掌します。
相手の話す内容がざっくりとでも理解出来て、納得できたら「採用」します。反論したくなったら、
「この情報に貴方はまだ接していないと思うが、この情報を加えても貴方の意見は変わらないか?」と
確認します。それでも相手が揺るがない場合は、相手に合わせます。なぜなら、相手が神でほとけ
だからです。きっと猫には思いつけないすごい智慧とか計画があると思うので。でも、、、それでも、
もやっとすることがあります。その時は、態度を保留します。双方の意見を仮説として持っておきます。
いつかきっと正しく判断できるタイミングがくると思うので。
ひとつ、実例を挙げましょう。
2023年の紅白に、新しい学校のリーダーズがオトナブルーで出場しました。私は12月25日に
美容院に行っていて、美容師さんとこんな会話をしました。
ぎ「今年の紅白、新しい学校のリーダーズが何着るかのかと思って、楽しみにしてるんですよー」
美「は?セーラー服に決まってるじゃないですかっっ!!」
ぎ「え?だって紅白だよ?何かインパクトのあるもの着るでしょう?」
美「えーーーっっ!セーラー服着なかったら、新しい学校のリーダーズじゃないでしょう!!」
ぎ「でも、この前見た新曲?(Tokyo Calling)の衣装はなんか地球防衛軍?みたいな銀色のやつ
だったよ?ヘルメット被ってて」
美「いやいやいやいや!!ぜっっっっっったいにセーラー服ですって!!!!!!!!!!!!!」
ぎ(すっごい自信あるから、きっとそうなんだね、、、店長はファッションに一家言あるし、、
私はファッションに疎い。でも、、、セーラー服は世間的にも葬儀に着ていける正式な服では
あるけれど、、、若いお嬢さんがハレのステージに着るにはちょっと地味すぎないか?
あいみょんとかはポリシーで普段の服ではあるがー、、、、、、、、、うーーーーん、、、)
「じ、じゃあ、、真っ赤なセーラー服とか?」
(我ながら発想が貧困すぎ、安直すぎ)↑これをちゃんと発声したのか心に留めて置いたかは
ちょっと覚えてない。
それで、大晦日にドキドキとTVを観てました。今、私、日本一集中して紅白観てるね、てことは
宇宙一だねっww
はたして、衣装は、、「真っ赤なセーラー服」だったんです。すごい鮮やかな赤で納得でしたー
店長があんなに言い張らなければ、辿り着かなかった。
それに、安直と思っちゃったから、敗北感しかないがー。。。
なので、自分の意見をただ引っ込めるのではなくて、完全に否定できるまでは、大事に持っておくとか、
相手寄りの新しい意見を捻り出すとかするのも善いと思います。それも、前回の地球のこの場所に
置かれた人がしたことだから、自信持ってやったらいいと思います。
ぎんたさま おこんばんは。
>ぎ「今年の紅白、新しい学校のリーダーズが何着るかのかと思って、楽しみにしてるんですよー」
>美「は?セーラー服に決まってるじゃないですかっっ!!」
こ、これはですね。。いかにもNHKの発想っぽい感じがします。
固定観念と奇抜さの妥協点で、紅白っぽさを出したって感じかなぁ。
*
> 「諸行無常(諸々の現象は常住ではない、つまり、変化する)」って述べたところに、ブッダの智慧がありそうです。
> 何でブッダの智慧なのか、というと、「諸行(諸々の現象)」を「一切の現象」とは言っていないからです。実質的には、仏教徒からすれば「一切の現象」だと、思うんだよ。
「諸行(諸々の現象)」 とは ( わたしの ) 目に映る現象(現実)
目に映る “ モノ ” は 映る(映させる)人 の
感覚(五感)によって
“ 現実 ” と される
“ 現実 ” とは 感覚に “映る”
現象に対する 感覚内のことへの 相対的呼び名
わたしの感性 は その慣性に沿う 感性 によって
現実 を “ 直視 ” する
慣性( 「薫習」 ) とは “ 目を曇らせるが ”
曇っているかどうか は 曇った目 で 看取られる
物事の性質 は 性質を構成する 諸要素 によって 成り立つ
( 車 は 部品によって 組み立てられ 成り立つ )
諸要素 の その一つ一つ は 単体として 認識され得る
その一つの 認識 が
“曇った目で見る、曇ってはいない” 感性 によって 成り立っている
( 一つの )部品 とは ( 一つでは存在せず )
“必ず” “総体化された 事物” を 想定している
ここで 飛躍させよう
現象 とは 曇ってはいない セイレイなる 感性 の 賜物である
「仏教徒」 とは 「 仏教 」 に 歩みを進める輩 の 別名である
「 仏教 」 とは “ 「 真理 」を得た者 の 歩む道筋 ”
歩むべき 「 道 」 があり
そこを歩む者( 仏教徒 ) が “歩みを進める”
諸々の人 の 諸々の感性 を 「 五蘊 」 と 呼ぶ
諸々の人 には あなたが入り わたしも入り 仏教徒も入る
諸々の人 とは 諸々の “道の歩み方” = 「 諸行 」
「 人 」 とは 「 行 」 の 塊 の 別の呼び名
「 真理 」 に目覚めれば 「 行 」 の 意味 は 変る
人々 は 変らぬ“心理” で 変らぬ真理 を 眺めている
道に沿って( 道筋にある ) 景色 は 「 うつりにけりな 」
「 はなのいろは うつりにけりな
いたずら に ながめせし ま に 」
移りゆく 景色 は 映らぬ 真理 を 見逃すから 起きる
一切の現象 とは 一切を知る者 の 「 理 」 に沿う
あなたは どんなものでも 目に映る限り 存在を認識 できる
このこと は すべての 「 有情 」 に
「 平等 」 に 備わっている
ただし その備わり方 には 異なる“面” が ある
異ならない ことば で 異なり を 記述する
異ならぬ 認識の人 に 違和感を与える
・
> 何でブッダの智慧なのか、というと、「諸行(諸々の現象)」を「一切の現象」とは言っていないからです。実質的には、仏教徒からすれば「一切の現象」だと、思うんだよ。
これは同じ仏教徒でも、補特伽羅(pudgala)は無常・苦・空・無我ではない、となるので、危うい所ですね
チベットだと如来蔵の功徳が勝義において不空であるとしますね。
危ういと述べましたが、仏法僧への帰依があるなら如来蔵の不空も補特伽羅も方便としてアリ、というのが仏教なのでしょう。
Pocketさま こんばんは
>これは同じ仏教徒でも、補特伽羅(pudgala)は無常・苦・空・無我ではない、となるので、危うい所ですね
危ういです。。
>危ういと述べましたが、仏法僧への帰依があるなら如来蔵の不空も補特伽羅も方便としてアリ、というのが仏教なのでしょう。
語るとすれば方便しかありません。ブッダの五蘊の説き方も「方便」として解する他はありません。
龍樹の述べるとおりです。煩悩を持たなければ悟れない、って、言ってると思っています。
言語活動によらずには、第一義を説くことはできない。第一義に到達しなくては、涅槃を獲得できない。(『中論頌』24.10)