
降ってます!ひたすら降ってます。2025年2月23日朝8時はこんな感じ。昨日は虚空の話で、何とか話題がもったけど、今日はもう虚空もないし、曇天の空から雪がどんどん降ってきているだけ。
まあね、諸行無常ではありますね。北海道に住んでいると冬の季節には雪山で見通しが悪くなるので、諸行無常を実感します。因と縁に縁って、道路が埋もれてしまいます。
結局融けるんだから、降らなくていいのに、って思うけど、律儀に降ってくる。こうやって毎年毎年季節はめぐり、寒冷化したり温暖化したりしながら、数十億年があっという間に経つんだろうなあ。。
数十億年か。。大きく出ましたね。
***
「空であるのは世界である」といわれるとき、誰かが認識したものを語っている。過去世をずっと見ていく時、鮮明になることを口に出すのである。それを過去世を語るという。それは言葉で言われたものであり、認識されたものである。
たとえば、箒で掃いたことがなければ、塵がどのように溜まっていくのかわからないだろう。箒で掃いたりぞうきんで拭いたりしたことがなければ、塵がうずたかく溜まっていき、また、積もっていくさまがわからないだろう。
一度でも掃いたり拭いたりしたことがあるなら、数十億年経ってもなんてことはない、塵や埃が降り積もるさまが鮮明になるのである。
このように、見たとおり、感じたとおり、考えたとおりに語るものが、仏教を知るものである。
「ラジョーハラナン(塵をはらう)」ということの中に、仏の教えはある。
***
テレビで、お掃除のコツを曹洞宗のお坊さんに聞いている番組がありました。
「お掃除が行き届いていますね。きれいにするコツは何ですか?」
「完全にきれいにしようと思わないことです」
***
にゃるほど。。
コメント
>完全にきれいにしようと思わないことです
あーーー、なんかこれ、刺さります、、、、
ところで、豪雪地帯は雪かきが命がけになってしまうので、なにか画期的な技術が発明されないかな、
と思います。ドローンを使って、他の地域の人がゲームとして雪かきを楽しむみたいな。
(家にいる人がロボットを操作してカフェで接客配膳するみたいなやつ)
> あーーー、なんかこれ、刺さります、、、、
わたしもですぅ。。永平寺の掃除は10~15分くらいでやるんだけど、
ものすごいスピードで拭いていきますよね。
そうか。。って思いましたよ。
雪かきって、すごく性格出るの知ってました?
大雑把だけど、一応全部やってある人とか、きっちりきれいにやらないと気の済まない人とか。。
ちなみに、わたしは大雑把タイプです。つい、春になったら融けるんだし、って思っちゃって(汗)
>ものすごいスピードで拭いていきます
そうですよね、複数人でやると猛スピードでしょうね。「体育会系」みたいな。
ぎんたのリビング掃除はクイックルワイパーだけと、掃除機がけの2パターンです。
その時、(あ、この茶色の小っちゃいのは揚げ物の衣だ、もしくはパン屑だね)と
楽しく確認しながらです。なんなら落ちてる髪の毛、長さと色でこれは私、
とか、、、う~ん書いてみるとヤバい感じですね。
でも、これって「あの危険な団体」で早朝奉仕していたからだと思います。
缶コーヒー、今はココのが流行ってるのね~とか、缶コーヒーが減って炭酸系が増えてきて、
季節が移り変わったのを実感するとか、、、このメンソールたばこの人はいつもこの辺に吸い殻棄てて
電車に乗るのね、駅まで来る間も吸いたいってことは結構なヘビースモーカーさんですか?
高額納税ありがとうございます。でも体が心配です。。。とかとか
あ、今はもちろん行ってないです。
あ、最初から吸い殻の人の体調を気遣ったわけではないです。
数年間は、あそこの喫煙コーナーの箱に棄ててくれればいいのになんで!と怒ってますた。
ぎんたさま リビングのお掃除、ご苦労様です。
わたしも、気分は、しょっちゅう掃除してます。.実際はそれほどじゃないす。。
普通のゴミに加えて、サム・ダンの鼻水や咳もあるので、床は汚いす。
猫トイレの砂つぶもあっちこっちにあるし。。
「気にするな!人生はこんなもの」って思ってます。
>あ、最初から吸い殻の人の体調を気遣ったわけではないです。
最後にはぎんたさまに心配されて「このぉ、幸せもんが」ってかんじがしまっす。それにしても「なくて七癖」とはよく言ったものですねえ。
先生、それは違いますよ~ぎんたのイメージが間違っています。
床は汚いですよ。先の文章だと、毎日最低でもクイックルはしているイメージでしょ?
でも、実際は何にもしない日が月の半分です。けっこうしっちゃかめっちゃかです。
なんか、毎日新聞読んで記事切り抜いたり、たまに小説読んだり、アニメも観なきゃだし、
時間の使い方が下手ですし、あっと今に一日、一年が過ぎていきます。
一日が27時間あればな、、
最近考えているのは少子化、ですかね。
家族「いくら男性が育休取れたってだめでしょ、まずカップルが成立しないと」
ぎんた「………….(カップルて)」
(ギャンブル的要素が必要かもなー。最高早くて来年には前世が蚊でその前が鳥山明って子供が
生まれる可能性があるから、そこに賭けたい人が多く発生するようなヒット漫画が出るとか、、」
(または、使命感。日本人が滅ぶと、滅んだことを知らずに他の大陸の民族として生まれる。
すると、前回人間だった時起こったことをなるべく忠実に再現。他の国の人を滅ぼす。そうして
順繰りに大陸制覇、地球滅亡。。。そうならないように頑張れ日本人!というSF小説がヒット)
とかとか。。。輪廻は地雷なので家族には言えにゃいけど。
>先生、それは違いますよ~ぎんたのイメージが間違っています。
>床は汚いですよ。先の文章だと、毎日最低でもクイックルはしているイメージでしょ?
ぎんたさま こんばんは。
毎日クイックルしてるのかと思っちゃいました。ああ、よかった、毎日じゃなくて(??)
わたしもたまにクイックルしてます。長年の汚れであんまりきれいににゃらにゃいです。
>とかとか。。。輪廻は地雷なので家族には言えにゃいけど。
輪廻は地雷なのか。。輪廻は、必然的・合理的にそうなるようなきがするんだけど、輪廻だけ認めない人もいるよね。
キリスト教などの影響なのかな、って思ってます。
>輪廻は、必然的・合理的にそうなるようなきがするんだけど、輪廻だけ認めない人もいるよね。
合理性を重んじる人は、証明されていないことは、不採用なんでしょう。でも、今観ている
『チ。ー地球の運動についてー』(22)のアントニ司教は地動説の出版を許可してましたね。
利益の8割を取ることで。
「太陽が中心であるという地動説の考えは三位一体の自然学的な裏付けとも捉えられる。
これは神学的にも神をたたえるすばらしい気づきかもしれんぞ」といって、あくまで仮説の一つと
して柔軟に受け入れてくれて、むしろ聖書の再解釈に繋げるようにしないと、とか。
これは、本の利益の8割貰えてWin-Winだから合理的だね~と思って言っているのではないと
思います。前回の地球で地動説が採用された後の人生を通ってきたから、
理解がめっちゃ早いのだと思います。(無自覚)
?????ところで、上の文章の「不採用なんでしょう」の直後に、、、、、、、、、、、、
なんか、、、え?ちょ、、なにこれ感が襲ってきたんでしゅが、、やだやだなんで?
これでもう、数日上の空でしゅよ、まったく疲れる。くたくた
今日も雪 雪を踏みつつ 行方不明
*
> 結局融けるんだから、降らなくていいのに、って思うけど、
どう思おうと ( 結局 ? ) 降るんだから
融ろける 思考 に つかまることなく
降る降らぬ の 差異を 凍らすこと無く
括弧(?) 野なか を 歩むことなく
道を求めず 足下 を 踏みしめ 滑ることなきように
日々の些細 を 漫然と やり過ごしてしまわず
「 常 」 に 対して 目を光らせ ( 明 を見つめ )
“ 闇 ” に 足を踏み入れず ( 暗 を 見過ごさず )
> 律儀に降ってくる。
律儀 の 「 律 」 は 「 蔵 」 に あると知り
降って湧く “ 迷 ” に “ 覆い ” と知り
ハラス 運上 の 「 空 」
> こうやって毎年毎年季節はめぐり、寒冷化したり温暖化したりしながら、数十億年があっという間に経つんだろうなあ。。
2500年 前に “ 高き ” 虚空 の 「 蔵 」 を 明かしている
闇を晴らした人 に
此処 に立つ 並びつ ( 「 平等 」 たる )
個々の 「 己 」 であり 釈氏 たる を 知り・ 足る を とり
億年に 臆することなく 大・小 を 離れ
感温 を カンノン と読み ( カノン を 重ねる )
以上 「 観 」 の 意味を述べる
“小さき” 一歩 に あると知る
・
> 億年に 臆することなく 大・小 を 離れ
> 感温 を カンノン と読み ( カノン を 重ねる )
感温 を 観音 と読んで、経典をつむぐのか!
音に聞いた話を紡ぐのが、お経です。
*
>> 感温 を カンノン と読み ( カノン を 重ねる )
> 感温 を 観音 と読んで、経典をつむぐのか!
カノン とは
> 日本語では「輪唱」などと訳 一つのメロディを、複数のパートが追いかけるように演奏していく演奏様式の事
重ね 積む愚 ではなく
紡ぎ を 積み続ける(重ねる)
「 経 」 を 重ね続ける という 「 生 」=「 不生 」
> 音に聞いた話を紡ぐのが、お経です
「 経 」 を 紡ぐ とは 行ないに移す という意味
紡ぐ のも 行ないではあるけれど
着用の為に “みずから”の為に 紡ぎ そして 着る
何の為に 着るのか ということ が
「 経 」 に 説かれ “きょう” 着る意味を 知る
けふ ・ 仮 布 着て 仮に敷す 仮とは 世・ローカ
掛け言葉の 意味 を かるんじていては
「 経 」 の意味を 知ることは 不可・ 付加 されている
隠れた意
感温 の 感 とは 感情 の 感
感 とは 「 心 」 を 惑わす ローカ の 姿 ・ 使 召されること
「観」 とは 止観の 意
( 意を捨て去ること が 止 ではない )
意中 に こだわりなく
そのまま(あるがまま)で 浮遊 することが 「 止観 」
坐禅 には 捨て去るモノさえ 存在しない
拾わずに 浮遊 する
すべて は 意のまま 意中 に フスル
大小 を パーラ して ミター への こだわりを 離れる
( 拾う ということ は MITA ものを 量り 手に選ぶ という意味 )
拾う ということ は 捨てるモノがあってこそ 成り立っているが
捨て去ったこと は 物忘れ に 入ってしまう
ま こんなふうに 誤 を 重ねること が
聞くところの 語 の 意味でしかない
「 たわごと に あそぶ その ひ の
あさき ゆめ 」
・
パッヘルベルのカノン、演奏したことあるよ。
でも、「カノン」ってどんな意味だ?と考えたこと無かった。
ぼんやりした子供だった。今もだけど。でも、へーき、猫だから。。。
>箒で掃いたりぞうきんで拭いたり
mani先生 おはようございます。
お忙しいところおそれいります。『テーラガーター』560のチューラパンタカへの世尊の言葉の意味について、先生にお尋ねしたく思うことがあります。
世尊の言葉にある語、ekamantaMに、「ひたすらに」のほか「近く、傍ら」の意味もあるとみて、世尊のアドバイスを以下のように読むのは、可能でしょうか。
「この 浄らかなものを行いなさい、この 近く(傍ら)にあるもの一筋に よく気をつけていなさい。」
この質問への経緯は以下の通りです。
560の世尊のアドバイスを、パーリ『註』とは別に直訳で読みたいと思い、岩波文庫訳には「この浄らかな物を ひたすらに専念して、気をつけていなさい。」とあり、光明寺経蔵を拝見し、語の意味を辞書で調べたところ、次のようでした。
EtaM suddhaM adhiTThehi, ekamantaM svadhiTThitaM.
この 清浄 確立させる 傍らに よく確立させる
行う・練習する 近くに よく行う・練習する
献身する 一方に よく献身する
岩波文庫訳の「ひたすらに」にあたるのは、ekamantaMのようです。
ekamantaMは『テーラガーター』565、『スッタニパータ』1017にもあり、その二か所は「傍らに、近くに、一方に」という具体的な場所を指す意味でした(辞書は aside, near,on one side )。
世尊がこの語を用いたのは、「一方に」→「一方にかたよって」→「一筋に」という意味と思われ、「ひたすらに」の訳になるものと思われます。
ただし、「ひたすらに、一向、専ら」には、ekantaM(『ダンマパタ』228)の語があり、それにしなかったのには、何かわけがあるかもと思いました。
「君は、いろいろある行のうちの一つにしぼって、足もとの具体的な行一本でいきなさい」と世尊が言っているように思われ、「いろいろあるうちの一つ」「近くに」の意味もふくめてekamantaMと言っているのかもしれない、と思いました。
「この 浄らかなものを行いなさい、この 近く(傍ら)にあるもの一筋に よく気をつけていきなさい。」
近くの一事を専ら行じ、やがて一切に及んで、この浄らかなものが成る。
近くの行い、傍らにあるものごとが、道行の場たりうる。
近くの、この浄らかなものに、気をつけていく。
かような手立てとして世尊のアドバイスを読むと、後の祖師たちによる、専修や、日常の物事を用いる手立てや、そこは遠くないという指摘とも関わっていく感じがします。
近侍郎さま
ekamantaMの訳についておたずねですね。ここは水野さんの辞書には、「eka-antaのacc.(目的格)」とありますが、ハイフンは必ずしも複合語というわけではないようです。
いろんな意味があるようですが、基本的には、「一つの辺(極端)」ということで、ここでは、どこかの場所を指す言葉として用いられることが多いのでしょう。普通には「一方の隅に座った」とか「一方の隅に立った」などと訳されますね。そこから派生して「傍らに」「近くに」などという訳も出てくるものと思われます。
さて、そこで「この近く(傍ら)にあるもの一筋によく気をつけていきなさい」と訳せるかどうかです。気分としては、良いようにも思いますが、ekantaM(一向に)を取らずに ekamantaMといっているのには、それなりにわけがあるのだろうとお考えになったのですね。
ふむふむ、極めて適切なお考えだと思います。
わけはあると思います。わたしの考えはこうです。「いろいろある行のうちの一つ」ではなくて「一つの極端によれ」と、ブッダは言っていると思います。
何の極端か? それは、「‘この浄らかなもの’を確立することによって」ということだと、わたしは読みました。
カッチャーヤナに語った経典では、中道を説いて「極端によるな」と教えましたが、チューラパンタカには、「一つの極端によれ(浄らかなものを確立せよ)」と教えていたんだなあと思って、ブッダに感動しました。
対機説法の一つですねえ。近侍郎さま、教えて頂いてありがとうございます。わたしの解釈は、すごくはっきりと極端なところが出てしまいました。
いかがでしょうか。
mani先生
お忙しいなか、お教えを頂き、まことにありがとうございます。
「一つの極端によれ」というアドバイスは、大きな励ましとなって、チューラパンタカの耳と心に、しっかと響いたと思いました。ふっきれたチューラパンタカが直ちに工夫を始める感じがしてきます。
「一つの極端によれ(浄らかなものを確立せよ)」このアドバイスとともに世尊の渡したのが、足拭きであることも、重要なポイントと改めて思いました。
ありがとうございました。
*
「 こころ な そ
おもふ ちかく の と ほぐ こと
みゆる に すぎる もの の す がた そ 」
・
**********
なそ
謎なる ?
名
そ ( 衣 ぞ 感変えない )
背き思 礎意・本心
ちかく
智 欠く
と
と ひら(扉・戸開) 非は フタツに開くさま
すこしだけ
ほく
ほき ほふく ほぐす(ほくす)
源氏物語 常夏
「世にも、ほきたることと、そしり聞こゆ」
竹河
「我よりも年の数積もり、ほけたる人のひがごとにや」
すぎる
過ぎる
「 す きる 」 カ行上一段活用
・
ムッカ~~~~!!にゃにが言いたいのーーーーーー!!!
コレでもくらえ!!!
椎名林檎「私は猫の目」にゃーおにゃーお
ぎんたさま、ムフ!
アントニ司教で検索しちゃったよぉ~。
「そんな司教いたっけか?」って思って。。
>前回の地球で地動説が採用された後の人生を通ってきたから、
理解がめっちゃ早いのだと思います。(無自覚)
だよね。つまり、輪廻ですかね。8割はえごいっす。アントニ司教って金銭こだわるタイプなのね。。
>合理性を重んじる人は、証明されていないことは、不採用なんでしょう。
「証明されてないこと」じゃなくて、「証明してないこと」です。他人が証明してもだめなんです、なんでも自分でやらにゃ、あかんのよ。
>これでもう、数日上の空でしゅよ、まったく疲れる。くたくた
それはね、ぎんたさまが輪廻的思考に親和性を持ってるからだと思うな。。「わたしな仏教」の成果だねっ。、
えへ、先生私うそつきました。
アントニ司教観て、最初は「変わり身早え~~~~!!」ってドン引きしました。えげつなーーとか。
そうは思ったんだけれども、違う側面から長所と思えることを考えて、どちらを採用しようか
迷って選択しました。一見強欲でも、結果人類の進歩に貢献してしまうみたいなことになるって、
「理趣経」みたいなことですよね。あ、ぎんたお経の内容はしりませんが、あの危険な団体の代表が
人間の欲望も肯定している、、、みたいなことを言ってたと思います。
*
他人が、 説明して 分かったこと とは
( 話仮った つもりのこと とは )
自分のモノ ではなく 仮たった 人(他人) の モノでしかない
もし ワカラ ナケレ バ 分かる 可能性 は ある
分からないこと( カリのこと ・借りのこと )は 所有者にもどる
仮て(借りに) 使っても 、 いつかは 話した者 の 帰属してしまう
借り物 は いくら大事に使おうと 返さなければ 必ず 損壊する
損壊しても 返せば 貸主は それをいとも簡単に 元の姿に戻せる
問題 は 借主には それを
損壊して 使用し続けても ( 損壊した )思考においては
気づくことが できない ということ
損壊した 思考方法( 損壊していないという確信 ) で
損壊 を 修復する
馬鹿 とは “ 馬鹿とは 気付けない 利口さ ” を 言う
足らない思考 で “ 足るを知る ” ということ
知らなければ “完全なる” 理解 は そこにある
知ろうとする時 知るモノ それ“自体” が 存在してはいない
もし(仮に) 存在していれば 分かる分からない は
存在には 関係しない
あなたが 着ている “ころも” が あれば
寒いときは それなりに あなたを寒さから 守っているのです
それなり では 不服 なら 服 の センイ を しらべなさい
( 服の センス を 思考で 云々 すればよい )
わたしが どのような “ ヨソ 負い ” で アラワレテモ
わたしの “素”の 体 は あらわれる前のわたし と 同じである
外(余所)負い で めくらませる為に 装いを 工夫するけれど
目暗まされてはいない と 確信する 者 には
眼の前にある 装い が “ 商量 ”の 対象となる
量る 器(者) は 量る器(思考)で 量られている
けれど
量る思考 では 量られている という 「 縁起 」に
遠い
量らなければ 「 平等 」 ではあるけれど
量ろうとする 対象 は その対象の必要性によって
その価値( 「 量 」 ) が 変ってしまう
必要性のある 場所を決めると 必要性の 価値 は 変る
( 電子 の 位置を決めると 電子 の 動き・働き は 止まってしまう )
動かない真理 を 用いて 動いていく 「 如実 」を
“ 量る ”
( ここにおいて 「 去る者は去らず 」 という 「 真理 」 は 動く )
魔 わかっても わからなくても
どうでもよい話 には “ 価値 ” は ない
( という 量・推量 は 起こし得り
それ“自体” は それなりに動いていく )
想 言うこと とは 相 を 見た様 を 言うこと でしかない
( 難しい “ところ” は その“ところ” が 「 如実 」
だということ )
独り言 です ( ヒトゴト でしかない ? )
独り立つ ということ を 建てて 観る
・
*
管理人エム 様
この 変な装い を
脱がしてみる こと は できるかな ?
・
変なよそおいぃ?…………………………..
春間老師の変な欲望に付き合っている時間はにゃいのだ!
猫は猫の欲望のためにちょっとだけ動くにょだ!!
利益は猫という種族が続くこと、にゃ。
どうするかというと、『チ。』(20)のヨレンタさんみたく、「私は ここまでなので。」
と、言える状態にするということです。それがもーーーーれつに面倒くさい。どうしようか
イマイチ判らなくって、袖猫が永遠に袖の中を匍匐前進し続けて、顔が出るゴールが見えない、
といったところです。完全に煮詰まっている!
1月のどこかの会話
ぎ「(新聞読まない人は知らないかもしれないが)今年ってさ、昭和100年で戦後80年なんだって!
最近新聞で盛んにいってる。」
家族「へー。」
ぎ「でもって、私あの危険な団体で接心初めて受けてから30年なんだ。なんとかケリを付けたい」
家族「まだ言ってんの?兵法でも読めば?」
ぎ「ヘーーーーーーーーーーホーーーーーーーーーー!!!!!!!
(自分、兵法読んだことないクセになんでそんな信頼度高いんかな????←この声は
遅ればせながら今年になって知ったニャンチューバーつくしちゃんの声が脳内に響いてます)
私が兵法読んでなんとかなると思う?兵法でどうするの?」
家族「思わないけど、戦うなら兵法は基本でしょ。あと、相手の情報ね。」
ぎ「情報ったって、一番下っ端の誰でも取れる情報しか集めらんなかったよう!20年以上通ったのに
(しかも、戦ったら猫は絶対負けるんだよ。人間を負かせない決まりなのーーーー)」
家族「はぁ?上層部を攪乱できないとはなしになんないじゃん。無理だね」
ぎ「でも、組織がピラミッドだとすると、上の方が1個2個欠けても揺らがないけど、一番下の段の
数個が揺らげば結構危うくなるんじゃないかとーーー」
家族「甘いな、揺らがねーよ」
くっそーーーーー、絶対にギャフンと言わせてやる—-
あの、それでですね、前にもあの危険な団体のことで、激しく言い合いになって
もうどうにも平行線でお互いに譲らないってことがあって。
家族は「開祖が教徒を騙して金を懐に入れてるんだよ。」と言うの。それに対して私は、
「開祖は金づるとしてたかられまくっていて、それを正そうとした妻が
殺されたんだよ。でも、もうその連中は鬼籍に入ってその集金システムだけが駆動していて、
今関わっている人もどうにも出来ない状態なのーー。」(あ、もちろん全員ほとけ)
で、ものすごく平行線で埒が明かなくて、結局私が最期に
「この二人の間の溝、すっっっごく深くて埋まりそうにないけど、京極夏彦が小説書いてくれて
その内容に納得できれば解消できるかもね!!」(つまりは絶対に無理)という
捨て台詞で終わりまして。それが7.8年位前かな?
しょんでもって、マニカナに来るようになって、(はっ!そうだ!ここでにゃんとか京極夏彦に
小説を書いて貰えるように持っていけないかな?と思い立ち、多少強引に名前を出したのでした。
「え~い、ままよ」的な?
でもさ~、、頼み方が、、、難しい~~~~~
最初はある程度、役小角に操られている体で書いたら、「筆を投げつけよう」と思っていたの。
「やってられっかーーっ!お前が書けーー!」とか言って。。。でもさ、京極夏彦って、
「不思議」がきらいじゃん?だから、、、、「筆投げ」効かないかと思って。絵的には
面白いと思ったんよ。あの朝ドラあまちゃんで、マイクの電池?がすっぽ抜けて額に命中した
古田新太みたいで、、、。でも、筆はそんな重力ないからちょっと違うかもって。
あ、彼の小説のどれかで、浅田次郎っぽいアーサーだじろう(ごめんなさい、うろ覚え)ってのが
けっこー散々な扱いだったから、筆を額に命中させること自体はそんな失礼には当らない
だろうと思ったのだけど。。。
、、、、、、まだ続きます。今日もクイックルワイパーもせずに(3日目)これから洗濯物
取り込んで、畳んで、ご飯作って食べて片付けて、日参している猫ブログとかYouTubeとか観て、
明日は実家に行かないとだ、、、、、
そんなこんなで、や~~~いったいどう頼めば、、、、、と1年以上迷っていて、、、
そもそも、なにか自信が無いから迷っているのだろうけど、何の要素が??と考えたら、、
【原稿料】だーーーーーー!!てなって。。。当たり前じゃんね、プロの小説家に依頼するなら。
でも、原稿料、、、知らにゃい。。。しかも、原稿って「太極宮」に依頼しないといけないし。
私の貯金と家の貯金かき集めて賄えたにしたって、怪しすぎて却下でしょう。。。ぐぬぬ
あとね、これも心配要素なんだけれど、最近の彼は「小説書くの面倒」みたいなこと言ってて。
は?小説家ニャのに?私はこの数年の自分の駄文にほとほと嫌気がさしているけれど。。。
うう~~~~~ん、、困ったなーーーーーー家族の一番信頼している作家である彼が書かないと、
読んで貰えないのに。。。米澤穂信、貴志祐介、雫井 脩介らへんもすごく好きですけれど、
やっぱり、次点になってしまうし、、、、、、
で、そこから考えて、、、、、、、そうにゃ!!!!!!!!!
あの人が依頼すればいいんだーーーー!!!と思いついた人が一人、、、
これも、どの小説か忘れちゃったけれど、どすこいみたいのだったかなーー?とても優秀な
女性編集者がいたでしゅよ!!で、作家の尻ひっぱたいて書かせる感じにゃんでしゅよ!!
出版社にいるので、優秀な四大卒の人ですよ。こーゆー時にとっっっっても頼れる感じの!!
大きい出版社にいるから、信用もあるし、原稿料も引っぱってこれるの!!
え??それでも面倒くさい???そう、、、ね、、、、、そんな気はした、、、、、
あのーーーーもしかしてだけれども、、、、もう誰かが原稿は書きあげて、大事に仕舞って
あるのかもしれない。。。も、、、しかしてだけれども、、、あの開祖とか、、、、
あの人は、涅槃像作ったり、なんか総本部のアトリエで性懲りも無くいつまでも色々な像を
作ったりしていたから、、、小説か、、日記かなにかあるかもしれない。それを適当に繋いで
京極夏彦に名前だけ借りて出版するとか、、、。は?教団の取り分?あるかそんなもん。。。
そうこうしているうちに、17年振りに京極堂シリーズが出て、読んだら弘法大師の筆投げの
記述が出てきて、ぎんた大受けでしたにゃ。あはははははーーーーーっとにゃ。
でも、「不思議」がちょっとニュアンス変わってて、「不思議」なことも、起きた以上は、
なんらかの原因が重なって起きたのでしょう。その原因は今は判らないにしても。みたいな。
え?不思議なことなんて絶対ないから、軟化している?? とにかくなんとか書いて欲しい。。
万策尽きて、、、、まだやってなかったことにトライしてみることに!!!
日本人のみんながよくやってるやつ!!!!
パンパン!!
神様!!!どうかどうか、京極夏彦が真如苑をぎったんぎったんにする小説を書いて
くれますように!なにかすっごいお力で手を回して編集者の人を動かしてください!!!!!
ぎんた、一生のお願いですにゃ!!
「もし、実際に出たら読むか?」「読むよ」という会話もしたので、どうぞ、なにゆえ!!!!
この本さえ出れば、本の内容はともかく、ぎんたの中ではぎんた勝利~~~~なのです。
ぎんたさま おこんばんは。
春間ちゃまが、疑問を出してたけど、気にしないでね。
コーユーハンノー来るぞって、ちょっとだけ思ったのです。
きょーごく夏彦も、ちょっとわからんかも。。お釈迦さん相手だし。
インドのヒンドゥー教はお釈迦さんの影響を受けていて、お釈迦さんを忘れられないのです。
だけど、ぜったい反発もするのです。
>ぎ「ヘーーーーーーーーーーホーーーーーーーーーー!!!!!!!
へーホー通用しないって、わかったところが、すごいところ!
おしゃかは、おシャカになる道を歩む だけ。その道は、争わない道。。。
なんで、わたしも因果なことやってんのかナーーって、思います。
昨日実家に行きました。最初28日に行こうとしたら「用事がある」と断られ。。
ぎ「もしかして、まだ立川行ってんの?混んでた?年寄りばっかになってきた?」
母「前ほどじゃないけど混んでたよ。若い人もいっぱいいるよ。接心も頂いたよ。」
ぎ「ふ~~~ん。その接心だけどさ、頂いたご霊言をそのまま受け取っちゃだめだよ。霊能者が
どんな人かをチェックしないと。」
母「?」
ぎ「例えばね、私が頂いた接心で、【2代目ですか?先に精進してくださったご家族に感謝
ですよ。それによって、こんなにも!!清らかなあなたがあるのです。】てもう超満足気な
感じなのよ。でもね、そのご霊言に対して私と答え合わせ出来るわけじゃないのよ?
その霊能者は。私はその時、もう真如苑しんどい。超危険な団体!絶対心壊してる人
いるはず!みんなの尊厳を守るには「人類全員がほとけとして生まれる」までいかないと
絶対無理!!違いますか?教主さまーーー!!それこそ爛れるような思いで祈って
いたんだよ?それをなんだか脳天気に、さすが真如苑、世間には絶対いない清らかな若者が
いるのよね~的な上機嫌て、どうなの?しかも喋り方からして私を学生かなんかだと思って
るのよ!!ね?当ってるんだか間違ってるんだかって感じでしょ?」
ぎ「だからね、要するに自分の気持ちっていうのは自分で判っているんだけど、それを霊能者が
どのように解釈するかは、霊能者の数だけあるわけ。【お救けによって道がつきました~】
なノリの(陽キャな)霊能者と、経(すじ)の人間関係がもう辛くて辛くて、教主様を祈る
しかないっっていう(陰キャな)霊能者では、同じものを視たとしても出してくる言葉が
違うわけ。で接心札を霊能者のエプロン(のポケット)に入れる時に目開けるでしょ?
その時に、サッとこの人はどんな人かな?ってチェックするのよ。人は見た目が9割とか
いうから、第一印象でいいの。で、もしかしてこんな風にズレてるか?と修正するわけ。」
母「でも、最近全然ご霊言覚えられないのよ~~。頂いて、手帳に書こうとした瞬間に忘れるの」
ぎ「、、、じゃ、何のために行ってるのよ!意味ないじゃん!!」
母「え~、だってやっぱりまだ電車やバスを乗り継いで行ける体力があるっていうことが
嬉しいし、行けば爽快な気分になるし、、、」
ぎ「はー?じゃあカーブスでいいじゃん!」
母「ここからカーブスは遠いのよ。送迎バスがあるわけじゃないし。時間は掛かっても苑のほうが
楽に行って帰って来れるのよ。」
ぎ「…………..(モータリゼーションの勝利?)……まあ、申し訳ないけど、私
真如苑の不都合な真実を暴くべく活動していて、ネットに誰かこんな小説とか漫画描いて
くれたらいいのにって流してあるから、もし成功したら大炎上ののち、解散てことも
有り得るからね!ショックで心壊さないように先に言っておこうと思って!」
母「別に心壊さないよ。そんなあんたみたいに真剣に考えてるわけじゃないし」
ぎ「………………………………………………」
で、母が何を書いたの-!?と訊いてきたので、マニカナに来てからの発言をざっくりと
話しました。まあ、一応「上愚母台」(←変換したらこれが出てきた)いえ、
「上求菩提」ということで。なんか、きちんと上求菩提しないと「真如霊界」に通じないww
ということなので、ちゃんとルールに則って。。。
母はこんな質問をしてきました。。。
「じゃあ、なんであなたが自分で書かないの?自分で書けばいいじゃない」
ぎ「自分で(主観だけで)書いても面白くないでしょーーー!?しかも、文章が下手くそなんだよ
書くより読む方が1億倍好きなんだよーーーーーっっ。とにかく面白いものが読みたいのー!」
家族に今朝、母はやはりまだ立川行っていたよ。まあまあ混んでるってさ、と報告。
帰ってきた言葉が、、、
家族「真如苑が潰れるわけないでしょ?ね、考えてみなよ。あそこは仏教じゃないんだよ?
占いが好きな人は今も昔も一定数いるじゃん?あそこも占いが売りでしょ?だから
潰れないんだよ。そしてここに、まだ何かを信じている人がいるでしょ?
(ぎんたのこと)ぎんたが俺と同じくらいまーーーーったく信じないっていう状態に
ならない以上、潰れないことを自分で証明しちゃってるようなものでしょ。」
ぎ(ううう…..ぎんたが何かを信じているとしたら、誰か、ではなくて、、法、だよ、、、、)
*
これって あなたに付き合っている
ってこと
じゃない って こと ?
“ これ ” って “ どれ ” かな ?
・
*
ちょっと 豆 知識
> おしゃかは、おシャカになる道を歩む だけ。その道は、争わない道。。
「 おしゃか 」 とは 「 しゃく か 」 という ご
「 釈 」 氏 の 「 カ 」 ・「 家 」
釈 の 血筋 ( を 継ぐ者 ) という意味
万人 が そこに連なっている けれど
“ それ ” を 知らずに
“ おそれ ” に 道を 迷う
( 万人 が ) 歩みを止めて 静寂(死寂)に 入る
「 永遠 」 に 生きる という 「 不生 」に入る
南無 ( あなたに帰依します )
阿弥陀 ( 図ることから離れる )
仏 (「 智慧 」を 得し者 )
このような “ 量り方 ” = 考え方 (からさえ)
「 遠離 」 する
「 遠離 “ 「 一切 」” 」
“ 顛倒夢想 ”
こんなん(こんな) “ 夢物語 ” に 道を迷う
“ これ ” の 意味 ( 夢を争わず )
・
*
もひとつ ちょっと
> 「 今日も雪 」
きょうも ゆき
( けふ も いき ではなく )
くよう も ゆき 供養 も 行き
> 今日はもう虚空もないし
供養 (に)は もう 虚空もない 死
*
論理も完全でなくていいんだ
毒矢が抜けるだけ
葦束が倒れるだけで
必要にして十分
人と論争する必要もないニッバーナ
ねこ、一人で考えることは出来るんだけれど、論争できにゃいの、、、ヒヤリングと同時進行で
ものを考える脳の構造もってないの。(>_<)
論争する必要はないのでわ
他人の良いところを取り入れ
どうでもいいところはスルー
別に同じ意見になる必要もないし
揚げ足をとっても憎まれるだけ
ケ・セラ・セラ〜
ぎんたさま こんばんは。
仏教だと、考えることを考えるんです。
>ねこ、一人で考えることは出来るんだけれど、論争できにゃいの、、、ヒヤリングと同時進行で
>ものを考える脳の構造もってないの。(>_<)
って、ぎんたさまは言ったけど、みんな、それを聞いて思ったことを述べてくれているんだ。
”論争”って、言葉に反応してくれてる。実は、論争しないのが仏教だから、どうしたらそうなるか、いろいろアイディアを出してくれてるんだね。
>ねこ、一人で考えることは出来るんだけれど
これがすばらしいことなんだよ、って。。だから、みんなオーエンしてくれてるんだ。。
って、事ハ、ひとりで考える動物は少ない、ってことなんです。
ここでは、ひともねこも「一人で考える練習」をするブログなんだと思ってます。
論理は完全でしょ。だから毒矢も抜ける。
完全でないのはあなたの頭の中なんでは?
論争はあなたの頭の中にある。
前提にするものがあるからである。
前に色々考えたの思い出したんですが、、、
(○○はダメ、ゼッタイってお釈迦様が言おうが、隣人を愛せとイエスが言おうが、結局
思うようにコトが運ばないのはどうしてなの?、、、きっと、他の人と、仏や神の子のパワー?が
平等だからじゃないかな?人、一人分のエネルギー?やらなんやらって悟りやカリスマ関係なく
均一なんじゃないか)
だから、論争ダメっていちおー言ってみるけれど、「ココであったが100年目~~!!」て感じで
論争が起きちゃうのは、論争することが決まっている神でほとけ方だから、、、あくまでいちおー
理想を言ってみる(自分が後悔しないように)ことが、前回の地球の通り決まっているだけ
なんじゃないかと。
ぎんたさま またまた、こんばんは。順序不同だけど、ここにも。。
>きっと、他の人と、仏や神の子のパワー?が平等だからじゃないかな?
そうだと思う。「平等」ってのも、考え方で、これが基本守られるので、争いがなくならないんだと思ってます。
ぎんたさま こんばんは。
>「ココであったが100年目~~!!」て感じで論争が起きちゃうのは、論争することが決まっている神でほとけ方だから、、
うん、それはそうかも。。ブッダだけがそう言って、お弟子さんたちにろんそうさせなかったのです。
お弟子さんは、意見が分かれたり、議論になりそうだと、そこで何も言わずにブッダのところに行って「こんなん、言われました」といいます。
そこで、ブッダが出てきて、その人と対話するのです。
経典には、ブッダの元で相手が感服して出家することが多いけど、決裂しちゃうケースもあります。でも、お釈迦さんとお弟子さんたちだけは論争しなかったのです。
で、インドのヒンドゥー教は「論争しない」を守っていると思います。そこがすごいなと思うところ。
「喧嘩してるじゃん」という意見もあるかもしれないけど、また、みんな、自分たちの信じてるものが最高だと思う気持ちを持ってるけど、でも、どんな意見も意見としてまかり通るのはすごいことだって、思うんだよ。
ヒンドゥー教では、ブッダもまたヴィシュヌの9番目の化身になってて、ブッダが世に出て悪魔たちに仮に悪法を説いた、ってことになってます。
だから、インドは、宗教のるつぼって言われるくらい、いろんな宗教がそろってます。
1500年頃マドゥスーダナ・サラスヴァティーという人が書いた『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ(全哲学綱要)』は、ヒンドゥー教の本だけど、全部の哲学が並んだ本です。最初に最低の唯物論が来て、2番目に異端の仏教・ジャイナ教が来て、だんだん自分の信じてる正統派の意見に持ってくという並びになってます。ちなみに、この本では不二一元論(シャンカラ)を最高としてます。
最低だって言いながらちゃんと並べてるのがえらいな、って思います。
いつも全くつまらないことで、いつも素晴らしいことを書かれるエム先生に恐縮ですが、
マドゥスーダナ・サラスヴァティー『プラスターナベーダ』で、有名な『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ(全哲学綱要)』はマーダヴァじゃないでしょうか?
それとチベットの化身、トゥルクは化身、化現しているのであって輪廻しているのではありません。
かつてある方に「トゥルクですよね」と伺ったところ「違う。後身だ」と言われました。つまり、化身でなく輪廻してるけど、前身の記憶はあるという意味だと捉えております。
繰り返すかもですが、チベットで死者のための教えをするのは一部で、多くは生者のために教えをします。たぶん、江戸時代ぐらいまでの日本仏教とほとんどおなじだったと思います。特に天台真言禅宗あたりと本質的にほとんどおなじかと思います。現れは違いますが。
Oさん、こんばんは。
>それとチベットの化身、トゥルクは化身、化現しているのであって輪廻しているのではありません。
かつてある方に「トゥルクですよね」と伺ったところ「違う。後身だ」と言われました。つまり、化身でなく輪廻してるけど、前身の記憶はあるという意味だと
これは、すごい情報です。前身の記憶があるんですね!!ぎんたちょっとイメージ出来てなかった。
バカリズム脚本の「ブラッシュアップライフ」っていうドラマがすっっごく面白かったのだけれど、
前世の記憶そのまま使えるってちょっとどうなの?(まあ、同じ身体だからな、、、)ともやもや
してたんですが、(こんなにヒットしたから、世間の価値観的にはこれが正解なのか???と)
合ってたんですね。
すると、この先、自伝とか書いてそれが保管されていれば、自分の前世がわかる、という人も
偉人じゃなくても可能ですね。
、、、ダメですかね。。。
ぎんた様、
前世の記憶がある方はかなりいますよ。日本人の現代人でもです。
チベットの自伝や伝記は、結構前世から始まることがたくさんあります。普通です。
それは釈尊の法話の中でもよくとかれることなので、仏教的には常識でしょう。
日本でも有名なところでは、聖徳太子が慧思大師の後身、弘法大師が不空三蔵の後身というのが有名です。
これらは現代のコモンセンスを基準とする現代仏教学では否定されてきましたが、もうそういう時代は終わりつつあると思ってます。
名前はどうでもいいので、お気になさらないように。
>前世の記憶がある方はかなりいますよ。日本人の現代人でもです。
そうなんですか!そんな人に会ったことがないです。ただ、Xとか見ていると、前世が
ねこだったと言っている人を結構見かけます。(もちろん仏教的観点からではないでしょう)
多分そのような人は、猫が大好きすぎてその様に言うのですけれど、その人は、前回人間だった
時も、猫が大好きすぎて「前世猫だった」と言っていて、それを人間をやるたびに繰り返しているのだと思っています。本当に前世が猫だったら、香水はつけないし、光ったり揺れたりする
アクセサリーや、鈴の着いたお守りなんかも邪魔だから持たないと思います。
と、上記の話をした場合に、あ~、、、、ま、そうかもね~と納得する方と、
ちがーーーーーう!猫だーーーーーーーーーーっっ!と思う人に分かれると思いますが、
それぞれ神でほとけの判断なので、自分の本心に従うのが正解と思います。
>聖徳太子が慧思大師の後身、弘法大師が不空三蔵の後身
ということは、今もどこかにいらっしゃるんでしょうか?
政治やるとか、語学堪能で海外留学したりとか。
もしかしたら違う宗教のとこにいるのかもしれませんね。
oさま、こんばんは。わたし、間違えましたね。!
マーダヴァが『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』で、マドゥスーダナ・サラスヴァティーが『プラスターナ・ベーダ』ですね。ごめんなさい、ぎんたさま。
これでいいんだっけ?って、実は思ったのよ。なんか違うかな、って思ったら調べないとダメですね。
実は『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』は、かなり読んだことあるんだけど、昔なので忘れてしまいました。
>チベットで死者のための教えをするのは一部で
すみません、何度も教えて頂いて。
さらにまた、応身(トゥルク)と後身のお話、ありがとうございます。
ヴィシュヌは、アヴァターラ(化身)がたくさんありますね。でも、シヴァがちょっとよくわからないなぁ。。。奥さんが輪廻してるのかな、ウマーとか、サティーとか。
oさま、いろいろ貴重な情報をありがとうございます。
ごめんなさい!
Oさんでなくて、oさんでした!
先生のぎんたへのごめんなさいがわからにゃい。。
ぎんたさま こんばんは。
>先生のぎんたへのごめんなさいがわからにゃい。。
わたしが著者と本の名前を間違えて、oさまがそれを指摘してくれたのです。
マーダヴァという人が書いたのが『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ(全哲学綱要)』という本でした。すべての哲学をまとめたもの、という意味です。
ぎんた様、
身の回りに居ないというのは縁がないということだと思います。
縁がないというのは、色々で全く出会う環境にいないこともあり、気が付かないこともあると思います。
目に映ったものを映像として記憶すること、映像記憶を持ってる人はよく居ると思いますが、私などはあまりご縁なく、数人しかしりません。こういう人は本とかでもざっと見ただけ完全に覚えてます。
気が付かない方は、例えば私は猫は好きなので、猫の話はよくしますが、バカリズム本とかは好きでないので彼のドラマのことにほとんど縁がありません。真如苑にも全く縁がありません。
それらは本当はバカリズム・ドラマが好きな人や真如苑信者にお会いしているのかもしれませんが、それに気が付かないだけなのかもしれません。
もっと縁について、実感するのは、加行をする前は悪友に縁があってつきまとわれたのですが、加行後は自然と縁がなくなりました。
さらにすごいのはインド・ネパールに居ると縁ある方には、絶妙な機会に出会いますが、ない方には居ても出会いません。これは何度も体験したので間違いないと思います。
そういう意味で私はちょっと前世の記憶の有る方と縁があったんだと思います。
ではでは
mani 先生、
恐縮です。
そこで『プラスターナ・ベーダ』ちょっと見たんですが、
śūnyavādenaikaṃ prasthānaṃ mādhyamikānām
これが、空説が中観派の唯一のプラスターナだ、という意味だとすると、マドゥスーダナ・サラスヴァティーは間違ってるように思います。
中観派、仏教にはプラスターナはたくさんあると思うからです。
いかがでしょう。
oさま こんばんは。
>中観派、仏教にはプラスターナはたくさんあると思うからです。
確かに。
どこに目線をあわせるか、で何とでも言えますよね。
「空」ということに特化するとブッダの法は空の一つに収まります。
ですが、この世に現れる姿は無数にあります。
こだわらなければ空ですから、一神教のようなすがたすら説くことが出来ます。。と思います。
以前、いったいどのくらい「空」には現成している思想(?)があるんだろうと思って調べたことがあります。龍樹の『中論』ですが。
そうしたら、こんがらがってわけがわからなくなりました。これは、龍樹の他の作品で見ていくか、または、他学派の教えを調べていくしかないかな、と思いましたよ。
ブッダの原始仏典を調べると、龍樹の言うとおりですね。
「空」は目立ちません。しかし、空はメインテーマとして説かれています。様々な人と出会って、教えを説いたブッダの、その教えの中から拾い集めると、どんどん自分で考えていくしかない状況になります。
必然的に「菩薩(ボーディ・サットヴァ)」にならざるを得ません。
じぶんもまた「さとりを求めるいきもの(sattva)」とならざるを得ないんだなあと思います。
sattvaは、自性があります。自性のある生き物として出発するところからしか、ブッダになる道はないんだなあと思います。
一つとも言えるし、数え切れないとも言える、というのが、今のところのわたしの答えです。
*
>> 「お掃除が行き届いていますね。きれいにするコツは何ですか?」
完全ではない のに 行き届いている ?
行き届いて きれい とは 行き届かない認識
> 「完全にきれいにしようと思わないことです」
完全 を 知るとき 完全ではない が 知られ得る
不完全であるその 認識用語使用 を 用いて
「 完全 」 を いとも簡単に 使用する
綺麗 って どこが、どにように 綺麗 ?
思わないこと を 思うこととして 口にする 修行僧
“僧”いう ( 想で言う ・ ソウいう ウソいう 口で修飾言語 )
「 修行 」 が 坐禅らしき 「 行 」 を 積む姿
***
> にゃるほど。。
にゃるほど と 首をかしげる ラジョーハナタレ
ダン 捨離 その 日々 (般)若んたることか 、、、、
・
春間さま
> 完全ではない のに 行き届いている ?
素人目には、きれいに見えるのでそう言ったんだと思います。
「完全にきれいにしようと思わない」というのは、こだわらないことと読みました。
チューラパンタカのお話もこだわりを捨てて浄らかになったんだなと思います。
*
> 素人目には、きれいに見えるのでそう言ったんだと思います。
どこまで が 素人 の 範疇か
知ろうと には 分からない(知りようがない)
クロウト とは 苦労の徒 であるならば
常楽 には 程遠い( いまだ 道程の途中 )
分かっている範囲で 分からないことを 教えられる ?
分からない 範疇で 分かること の 範囲
分かったこと の 積み重ねが 分かっていないこと
分かる・分からない を 離れる意味 が アミタ
> 「完全にきれいにしようと思わない」というのは、こだわらないことと読みました。
> チューラパンタカのお話もこだわりを捨てて浄らかになったんだなと思います。
分かっている 者 だけが 分かる
( 分かっていること )
成就者 が 分かっていること を
分かることができない 未 成就者
こだわりを捨てれば 浄らかになる けれど
浄らか かどうか かを 知ろうとする時( 知るとき )
そこには キヨラカサ は 働いてはいない
知る・知らない という 「 縁起 」 から
知らない・( あるいは )知る その 偏 だけが 起されている
( そのようなことはない という ヘン事 が 起される )
浄(らかさ) とは 不浄 の 反対概念
浄 とは 不浄中 に於いてのみ 起こし 得る 概念
得たモノ を 捨て去らない限り ( 去るもの は 去らず )
キヨラカサ の 傘の下には 入れない
嵩・量・“かさ” を ハカッテ その ありよう を 決める
ハカナイ人生 は ハカ に入るまで 続く けれど
入ってしまえば ハカ ル 必要はない
この文章 の 意味(善し悪し) を 量って 知ることは 不能
願わくば 不能 の 不 を 知る
「 願不能 東西 今思一處 量商仏法大事因縁 」
・
*
> 「 量商 」
これは テキ リョウ の 読み間違い
商量 ではなく 啇(てき)量 です
啇 とは (不)敵 の テキ の 偏 のこと
真っ直ぐに 的 に当たる という 的(テキ)
敵対 する → 真正面 に 対する
” 商量 ” するのではありません
仏法の大事 を 量り知ることができますか ?
量らない = AMITA( 阿弥陀 )
仏 が 非量( A MITA ) のことを
凡 は 量ってしまう( 商量する )
わかるまで は わからないこと
分かっていることの中には 分からないことはないのです
よく分かっているから
よく分からない(わたし) を 否定する
あなたが これを読んで 否定しているのです
・
mani先生、
いつもながら私のつまらない問いに素晴らしいお答えありがとうございます。
全くそう思います。ただ空だと空思想を主張しているわけでないですよね。主張すると空見、空執となると思います。『プラスターナベーダ』や『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』は空見、空執と捉えているように思うのです。
まったく融通無碍に相手に合わせてこうしたら楽になるよ、と説けるんだと思います。
> sattvaは、自性があります。自性のある生き物として出発するところからしか、ブッダになる道はないんだなあと思います。
たしか、あらゆる分別は捨てるべきだが、有情への慈悲という分別は完全に悟るまで捨ててはならない、というような句があったことを思い出しました。
oさま
>主張すると空見、空執となると思います。
全くもって、おっしゃる通りです。それで、難しいんですよね。主張せずにしかも相手にわかってもらう為には「生き方全体」を見てもらうしかないのかなと思ったり。
ブッダは、対立しても大丈夫そうなときは、はっきり「顚倒」と語りますよね。自性もあるかの如く語ることもありますが、最後は寂滅してしまう。。それから、相手にあわせて、常楽我浄などと語ったりもします。
「空」に行くためには、1.論理を持って証明するように語る、2.帰謬法で顚倒をほのめかす、というやり方もあります。多種多様ですよね。
自立派と帰謬派に分かれてくるのも、なんとなくわかるかなあ。
>たしか、あらゆる分別は捨てるべきだが、有情への慈悲という分別は完全に悟るまで捨ててはならない、というような句があったことを思い出しました。
なるほど!ほんとに、そうですね。ブッダの慈悲にすがりたいっす。
mani先生さま、oさま
>ただ空だと空思想を主張しているわけでないですよね。主張すると空見、空執となると思います。『プラスターナベーダ』や『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』は空見、空執と捉えているように思うのです。
なるほど、『カターヴァットゥ』ブッダゴーサ註にマハー・スンニャ・ヴァーダ(大空部)という部派が出てくるのですが、
内外問わず、同様の見方なんですね……
>「空」に行くためには、1.論理を持って証明するように語る、2.帰謬法で顚倒をほのめかす、というやり方もあります。
とすると、相手には空論者と思われてしまうような……
帰謬だけでも結局、言外に「空……!」ということを相手に認めさせたいのが見えたら、それは空論者ですよね。
まさに<「生き方全体」を見てもらう>というのが行者かなあと。
pocketさま、空の難しさですよね。
わたしが、ブッダには到底かなわないと心底思ったのは、論理を尽くして語るところです。論理を尽くすと、相手に認めさせたいように、一見、見えますよね。
そういう方法でもブッダは語れるんです。なのに、相手に認めさせたいわけではないのだ、と知るのは、完成すると全部消えるからなんです。
十二支縁起も、最終的に何も残らないからなのです。
わたしは、今までどんな意見であっても、今ひとつな感じを持っていました。どんな見解も見解であるというだけで、「つまらん」という感じが否めなかったのです。
どんな意見であっても、意見だと言うだけで何かを主張することになるのです。見解からでることが空だと説くブッダだけが、何も主張しないのです。しかし、主張はしないけど「証明」にはなっているのです。だから、誰も反論できないのです。
後になると、アドヴァイタなどが「空」であるかの如くに遍満するブラフマンを説き始めます。『バガヴァッドギーター』などには、ブラフマ・ニルヴァーナなどの用語も出てきます。
阿弥陀仏は、空であると言えますが、ブラフマンやヴィシュヌやシヴァは空ではありません。やっぱり残るものがあるのです。空という見解を持つ人になってしまっているのです。
2600年も前にブッダのような人が出てきたことが奇跡だと思います.人類が今も存続しているのはブッダのおかげだと思っています。滅亡するかもしれないけど。。
生き方全体を見る<行者タイプ>で行くのは、道元かなあと思っています。
Pocket さま、mani先生、
<「生き方全体」を見>せていただいたのが、師匠です。
ブッダはブッダですから、それは完全だと思います。
ではでは
私も完全にきれいになることはないと思います。
地球上が完全にきれいになったら、多分脳への刺激が少なすぎて、、、、、暇です。
すると、多分地球を出て、どこかもっと困っている人がいる星に降り立って、怪獣と戦うんだと
思います。 そう、ウルトラマンです。あんな感じに全員がツルッとした顔をして、
それぞれが独りで他の星の人を救わにゃいけません。
それは、ちょっと怖いかもです。