「葦束」

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支え合う二匹。どっちがどっち?手前がダンで奥がサムだと思うけど、自信はない。

『サンユッタニカーヤ』12.67に「葦束」という経典があります。サーリプッタ尊者とマハーコーッティタ尊者の会話が主体です。お釈迦さまは出てきません。四句分別と縁起が説かれている経典です。

サーリプッタ尊者は、葦束をたとえとして、縁起を解説しているのです。かつては外道だったサーリプッタならではの説明かとも思うのですが、縁起の仕組みをよく表していると思うのです。

「心にしみる原始仏典」に入れましたのでご覧ください。

「葦束」https://manikana.net/canon/nalaka.html

皆様の画面ではどう見えているのか分からないのですが、文字化けしてるのがあって何度直しても直りません。”」(かぎかっことじ)”の文字を入れたいのに、”《”になってしまう。また「名色」の文字が「吊色」の文字になってしまいます。

それでも良かったら読んでください。直るかどうか、またトライしてみます。

葦束という喩えがどのように使われているのか、そこを解明しなくちゃならないけど、なんだか、そのあたりがごちゃごちゃしていて混乱しています。

サーリプッタの喩えをよくよくご覧あれ!

瓜生津先生は、この喩えから「縁起」に、「相依性」の訳を与えたのではないかと思われますが、それでいいのかなあと思っています。わたし的には違う意見です。

みなさんはどう思う?

っと、丸投げでごめん。いろいろ考えられると思うけど、今は沈黙です。

コメント

  1. Pocket より:

    エム先生、こんばんわ

    この葦束の譬えは、葦束が他の葦束に寄りかかって、円状になって、まるでドミノ倒しのようにもたれ掛かる事で出来上がっているように見えますね。

    昔のインドではそのように葦束を保管したのではないでしょうか?

    日本人だと、葦束を人の字のように相互に立てかけているイメージが思い浮かぶのではないか……なんて……

    • mani(管理人) より:

      pocketさま こんばんは。

      >日本人だと、葦束を人の字のように相互に立てかけているイメージが思い浮かぶのではないか……なんて……

      そんな感じですね。ドミノ倒しのように円のようになってる。。か。。なるほどね。
      「相互に立てかけているイメージ」ね!
      そんな風に訳してあるものもありますね。

      「縁起」をどう捉えるか、というところにかかってきますね。
      識と名色との関係に引っ張られてしまうこともひとつか、と思っています。

  2. 近侍郎 より:

    mani先生 おはようございます。
    最近チラ見した『因縁心論』の中に「逓手相依、猶如束蘆」の句があったので、
    葦束の譬えは、「支が一つでは成り立たない」ということかなと思いながら、
    「束盧」で大正蔵を覗いたら、思いのほかたくさんヒットして、ビックリです。
    (「盧束」も「束葦」でも、ありました。)
    『婆沙論』(私には戦車みたいに感じられる論書)の個所を恐る恐る読むと、「束蘆は相応じるように、一つ一つの蘆は独り立てず、多くの束と共にまさにとどまる。心心所法もかくのごとし。」というふうに書かれていました。           T1545.080. c 22-23
    また、『仏説十地経』の「束盧」の使い方が、ビシッときまっているなと思いました。
      悉是無我 離我我所。自性消滅 猶若束盧。         T287.553. c 06
    他に、目の不自由な人と足の不自由な人が同行する譬えや、馬車と御者の譬えが見つかりましたが、私には束蘆の譬えが一番ピッタリくる感じがします。蘆に「脆いもの」というイメージがあるせいかもしれません。
    そして、マニカナ『縁経』を読み返してみて、終わりの方20.21の世尊のしめくくりのことばは、やっぱりカッコいいなと改めて思いました。
    ほかにも、いろいろ手立てやアドバイスが見つかりました。ありがとうございます。

    • mani(管理人) より:

      近侍郎さま こんばんは。

      >他に、目の不自由な人と足の不自由な人が同行する譬えや、馬車と御者の譬えが見つかりましたが、私には束蘆の譬えが一番ピッタリくる感じがします。

      おお、そんな喩えがあるのですね。目の不自由な人と足の不自由な人の喩えは、インドのアートマンの哲学の学派で、サーンキヤ学派というのがありますが、そこで説かれる喩えです。馬車と御者の喩えは、カタ・ウパニシャッドに出てくる喩えかなあ。ヨーガ学派で説かれているかも、です。
      サーンキヤ、ヨーガ学派は姉妹学派で、ブッダの影響を色濃く受けながらも、自己(アートマン、我)を立てるので、ヒンドゥー教の学派になっています。

      ちなみに、目の不自由な人はプラクリティ(物質原理)、足の不自由な人はプルシャ(=アートマン)(精神原理)です。馬車と御者は、馬車が、アートマン(自己)の乗った身体を指し、御者がブッディ(根源的思惟機能)と言われるものです。馬車は、アートマンが乗る乗り物ですが、馬が感覚器官で道路がその対象です。御者は制御して進まねばなりませんが、下手をすると暴走して馬を操れなくなってしまう、という喩えになっています。

      葦束がしっくりきておられるのがさすがです。、

  3. ぎんた より:

    あ、「私な仏教」の涅槃の意味は、(こんな感じで生ききれたから、来世どこに生まれてもまあ、
    なんとかやっていけるっしょ♪)という自信?確信みたいな意味だと思います。

    なので、そんな心境になれる人はそんなにいないと思います。いたら相当おめでたいヤツです。
    だって、ニュースでよくやってる親に虐待されて死んじゃう赤ちゃんていますよね?弾き飛ばされて
    そこに生まれちゃったら、「前世の行い」やらより環境のが勝つもん。

    そんな社会を、来世生まれてくるまでには人間がきっと変えてくれるはず!!と信じるの?
    そっかーー、信じるのかーーー、、、エモいね

    • mani(管理人) より:

      ぎんたさま こんばんは。

      >ニュースでよくやってる親に虐待されて死んじゃう赤ちゃんていますよね?

      いますねぇ。人生に「ここはパス!」って、言ってるみたいに、この世をおさらばしちゃう赤ちゃん。

      >そんな社会を、来世生まれてくるまでには人間がきっと変えてくれるはず!!と信じるの?

      うーん、どうなんだろ?「勧善懲悪の世界であれ!」と願うんだろか??

      チベットでは、ダライ・ラマは観音菩薩の生まれかわりと考えられていて、ダライ・ラマが亡くなるとすぐにどこに転生したか探すチームがあるみたいですが。チベットの高僧でも「探さなくていいんじゃない」という人もいるのだとか。。

      たぶんもし、その生き物が菩薩なら、どこに生まれても菩薩やっているだろうから、大丈夫だ、って考えるのかも。

      虐待されて死んだ赤ちゃんも、もし、その子が菩薩なら、罪に問われた両親をどこかで救ってるかも、かも。。わからんけど。。

      >そっかーー、信じるのかーーー、、、エモいね

      まあね。。考え方だよね。。確かに、エモい話しではあります。
      自分がそう思うかどうかだから、「信じるものは救われる」じゃなくて、「信じるものは他を救う」って世界かなあ。。

  4. カエル より:

    マニカナ先生、こんにちわ

    四句分別みたいな論理的、抽象的な議論ははぐらかす!
    比喩は比喩でそんなもんかな〜と

    十二支縁起のコピペ部分も読み飛ばすw

    議論よりも定型句よりも葦束を倒すことが重要
    毒箭経と同じ主題かにゃー