まとまった雪が降った朝

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まとまった雪が降りました。久しぶりです。1月はまれに見る暖冬でした。そうだよね。。毎日プラスの気温が続いて、1月といえば、これまでは一番寒い季節なはずでした。それなのに、今年はこんな暖冬でどうなるんだろうと心配になります。写真が同じ風景でもうしわけないす。でも、いつもより雪が少ないのがわかるでしょ。

地球は変化してきていますね。

そう言えば、ダン猫は抜糸しました。でもエリザベスカラーは、1-2日つけておくようにいわれました。あと少しの辛抱だ。。

とりあえず、近況報告でした。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

        雪の降り積もった 朝

         雪はまとまれど ゆきさき いまだ “ まとまれず ”

    > 現場こそが「問題」

      現場 では 問題は起きてはいない
      現場 では 事実のみが起きている

       その事実 が 問題かどうか  は  “ 問題である ”

        問題 は 冷静な 頭脳において  “ 問題とされる ”

    >  「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」
          < 青島俊作 >

      “  問題の おこされている 現場  ”  とは
      “  どのような現場 なのか ??  ”  という 問題 が
          現場にて 起された

        現場で考えて  起し尽くせる 問題   だろうか ?

      < 青島俊作 ・ 織田裕二 >  が 提起している問題

       は    “茶の間の机上”   で   問題化される
        
        確かに !   「会議室」   ではない
                    けれど
                  有効な場所  でもない

       牟尼 は    「 瞑想 」 の 末 に
                 「 瞑想  」 の  中で 
         解決の    「 道 」  を  見出す

       あなたが  牟尼 である  という  無二の事実
       あなたは  現場に立つ   < 青島俊作 >

          「 天上天下唯我独尊 」  と    言う
           指ししめされた 天下   の   あなた
                が
              天上 を          規定している

        これを読む  あなた  とは  自身に他ならない

      
           “あなた”  って  誰 ?    と
           これを読   む  彼方 に 問いかける 

         自信をもって   自身を規定できるかな ??

    • mani より:

      春間さま こんばんは。

      現場では、苦労してます。自身は規定されない。
      規定するからおかしなことになる。

      規定しなければ、なんの問題も起こらない。

      •  春間 則廣  より:

        > 規定しなければ、なんの問題も起こらない。

           起きる・起きない  という
             こと  は    「 縁起 」 に 起きる
         ( 問題 は 縁起   という  こと  も
           「 縁起 」 に 起きているということ )

           このこと を 「 至道無難唯嫌揀択 」  と いう

            現場 では    “常に” 揀択が “ 起される ”
          ( これを  「 仏教 」 では 「 常住 」 と呼ぶ )

           起こっている問題  に  気が付くことがなければ
        “ なんの問題も起こってはいない ” =  問題は存在しない
        * ある・ない  ということ  は  「 縁起 」 に 起きること

        規定せずに生きること は “規定できない” = 認識できない
          認識できないこと  は 理解させることができない
          伝達できても   「 認識 」 には “ 至極 ”  “ 遠い ”

           遠いこと  を  “ 「 非遥 心中 即近 」  ともいう
              夫れ を    「 仏法 」 と 歩む・得度する

           テキスト  とは   「 認識 」 に訴えるもの
         ( 認識に訴え ない もの は  「 認識 」 に昇ら ない )
         * ある・ない  ということ  は   「 縁起 」 に 起きること

           朝  遅く  “起きて”
           寝言の如き  こと を テキストに 載せる(起こす)

        • mani より:

          >   起きる・起きない  という
          >     こと  は    「 縁起 」 に 起きる

          そうなんだよ。。すべて「縁起」なんだけど、「起きる」と「起きない」は、互いに矛盾と言われたりもする。
          <これ>があるとき <これ>がある
          <これ>がないとき <これ>がない

          縁起には「起」という文字がはいってるから、起きても起きなくても起きているといわれる。それに起きてるときだけじゃなくて、起きてないときも「縁起」だよ。

          •  春間 則廣  より:

            > 縁起には「起」という文字がはいってるから、起きても起きなくても起きているといわれる。

               起きていないこと  が  無ければ(起きなければ)
               ( ことの )起きる   「 縁 」  が  ない

               一円もない  (一つの縁さえない・当然ヒャクエンもない)
                というときに、 一円の価値が存在しなければ
              円で(縁で) あがなう  多エン( ことの ) も ない

              さあ “起き上がって” リョウエン を 両手 に 持とう !

            > それに起きてるときだけじゃなくて、起きてないときも「縁起」だよ。 

               寝てても 縁 から 逃れられない

                起きていることから  寝るという縁 が “起きてくる”

                 しかし だな !

               寝てて は 縁ズルことにも 気が付けない

              気がつくまでは、 気がつかないこと は 存在の場所を失っている

               気がつくことに 場所を与えて  初めて  気づきが起きる

                 その場所 を 「 機 」 と 呼び、  奇 であり 貴 でもある
                ( からくり きっかけ のことである )

            > <これ>がないとき <これ>がない

                   これ  があるから
               > <これ>がないとき <これ>がない  が ある

                  
                コレコレ   、、、、
                  こんがらがっていない のは  これを知らない故  だよ

                こんがらがっているときには
                かんがらがっていない  が  こんがらがらずに  “ある”

               わかろうと わかるまいと   「 法 」 は ジネン に ある

          • mani より:

            >  コレコレ   、、、、
            >    こんがらがっていない のは  これを知らない故  だよ
             
            こんがらがっていないのは、よく考えたからだよ。

          •  春間 則廣  より:

            > こんがらがっていないのは、よく考えたからだよ。

             考えていない人  には  考えていない ということ
                         に     気が付く
                            考え( “術” ) が “ ない ”         

               世界( 「 世間 」 ) は
               考えている  よう に 規定されて 存在している
              ( 存在 とは それくらいのこと )

             “ ない ” もの に    気が付く 道理 は “ない”
              “ある”  もの は   気が付くことにより あるとしる
                 ないもの に   気が付くことはない

              考え が あるかどうか  を   “ある”考え  で
               いくら考えても      ないものはない  のである

            ( “ある考え” とは  “考える術” という 考え・道具 である )

            “術”手  を “法” 棄  して   すべて を ナガメル

               ナガメル とは   名を仮める  という 意味
              ス ベテ  とは  ス(名す・為す)をおしなべ手 という意味
                        ( 手 と 舌 で   やり方 は 説明される )
               したこと していること  だけが  名付けることが出来ること
            ( しようとしていること とは いまだ されていず 名モナイ こと )

             名ニモナイ こと  とは  今 名付けることができないこと
            ( 名づけられない から   考える対象 とは 名らない )
               シタッタラズ

               こんがらがている時 には こんがらがっていること が
                 ミエナイ
                ミエナイモノ は 対象とはならない(見ても 観・実 をえることはない)

               よくみえない あたま  で  よくみる  けれど

                     「 ヨクハナク ケッシテイカラズ 」
                  スコシノノーミソ ト 野才 ヲ 食べ物として
                    幻迷  の  主飾  を  食べる

             みえないもの  は みえないという 約束事の上に起きている

               約束事 は いかように “法” 棄  できるだろうか 、、、、

              「ミンナニデクノボートヨバレ」 くにもされない 存在としてある
                   ( ホメラレタイ  のである )

               「 世間 」 の  「 飴 」 ニモマケズ
              あらゆること を   感情に入れることなく
               善く 観 聴き   し(為し)   “分かり”
             ( 分かる ということの   術   の 言戒 を 知り )
              ソ(ー 為 )シテ ワスレズ  ( 総じることの相を知る )

            着たニケンカヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイイ
               つまらない このようなこと  を  止めるが善い  という

               つまるところ   自己顕示でしかない   この書付

                自己 賢治  を
                 他己     は    どのようにみるか を    
                 顕示 してみようと    工夫してみる
              ( 功夫して みずから  ヨクミキキシワカリ  ということ  )

               あなたは よく考え こんがらがっていない
                      けれど
              わたしは  その考え の  外に 存在する
                                思価  ない

               コンガラガッテイルコト ハ コンガラガッタアタマ デ
                 こんがらがらず ?
               コンガラガッテイナイ   と  知る  の  身

               この身 着のまま   で
               この身 の “格好”  を  見定める(検知する)

                 コレコレ !      「 是 」 ですよ !

  2. カエル より:

    マニカナ先生、こんにちわ

    ダンちゃんが特別な骨格をした猫であるとは
    実は宇宙人かもw
    それだけでも盲亀浮木のようで有難いですな
    善因楽果、ご利益がありそう(-人-)ナムー

    願一切衆生悉皆成幸

    • mani より:

      カエルさま こんばんは。

      宇宙から来た猫ダンです!
      骨がカールする猫、珍しい猫として生きることにしました。

      自分でも知らなかったよ、
      道理で、高いとこには上がれなかったわけだ、って納得してます。

  3. mani(管理人) より:

    >“ ない ” もの に    気が付く 道理 は “ない”

    そうでもない。。んだよ。
    春間さまが、ない、ない、と言っているので、それを知るからだよ。
    縁起によって知るからね。

  4.  春間 則廣  より:

    > ・・・ が、ない、ない、と言っているので、それを知るからだよ。

       >ない  が あるから、あるものを知る
       知ることがない のではなく 知ること は “ある”

    > 縁起によって知るからね。

       「 縁起 」 を 知るまでは( 気付きが 起きるまでは )
                 存在の “不思議” しかない
       “思議” に 登らない “うち” は “そと” と
                       隔絶されている

        「鬼」 とは “うち” に 起こされている
               “そと” に いだして 思議 に のぼる

       「 服 」 とは 伏にあるもの を 配下 にすること
         服 は 内 に 対して  外面化する(概念化する)
         内 を 隠して(覆いて) 服 を 着かざる(着物である)

       きかざる者 に 聞かせる術はなく
        かざる意味の 思議 を 示そうと 服を脱ぐ様子はない

       菩薩 が 何故 “ 着飾っている ”  のか わかるかな ?

       捨て去る者  は  拾う者 の タスク を 知る

       なにが 不要  か  を
              様く みる と  分かる様 に なっている

       人は いつも

        見たい自分 で   見られる自分 を 見ている
     ( 見られる自分 を   見たい目    で 見ている )

       M君   見た目で  判断していなかっただろうか  ?

             見た目    「 見 」 の   まま

  5.  春間 則廣  より:

      糞掃衣 を  外に纏って 内に着る(うちをかぶせる)

       ひとは みため で はんだんする  使暇 ない

       ひと(の)目 で わかる(判断する) 

       三つ 目  て も  わからない
     ( 「 おしえ 」 とは  「密」 である ゆえ )

       幾ら 目を重ねても (いくつ目であろうと)
           「 見 」 から 離れなければ 
           「 実 」 は  積み重ねの下に隠れる

       ひとつ ( ひと津 多津 )   
        コノ   フミ を 踏むことはできるのだろうか 、、、、

        二つの「葦」(悪) は  交互に支え合い
                       歩みを 支える

       あしきみち を あゆむ    アシ多 を 望みながら

  6.  春間 則廣  より:

      私のコメント の 承認   とは なんであるかを

       承認できるのであろうか

      読めば良い  というモノではない

       読まれて  知らしめる  為に 書き込んでいる

      比喩  を   比喩して  象徴とする

       これが   「 真言 」 の 意味するところ

       これさえも   比喩    である

      揺れている ” 大 知 ”  の上に たつ 承知

       承知 も 重ねて 揺れている  故に
             ”  揺れとは  存在できない”

      揺れ動く 知  で  揺れ動く 大智 を

         知ろうと    知 は 基盤を持つこと無しに 揺れ立つ

       そのようなこと を  承認なしの書き込み で  記述する

        私も読むけれど   わたしの “ 外 ” に  “ 揺れ立つ ”

       “あなた” という   「他」 が 多寡 を 生んでいる

      そのような  “ 自他 ” が   「 認識 」 の基盤であり

      その基盤 は  揺れ動くことなき のごとく  の 

               次なる認識 を   重ねる

      そのような 重ね合わせ  を

            「 唯識 」 では  「 薫習 」 と 呼び知る

      「 オーイ 」 と 一度呼ぶ

       ほんの少しの智  が  言霊(こだま)に乗って 還ってくる

        巡り巡ること を   「 還る 」 と 言い表す

     大小  の   “ 小 ”知  で  処置 するしかない

      いいん 「 委因 」 だ  如何ともし難きことの如し 

      私が分かっていようと  あなたが それを 承知 しなければ

      わたしに理解  が   成立する因 は 立つするところを失う

      わたしが 定 を 知ろうと(為そうと)

      それを認める  あなたに 比して知る 情 が なければ

       ヒジョウ に  困難なる・何ともし難き 情報 に 過ぎず

       こうして このような一人合点 を 重ねるしかない

       一人 ということは 二人がいなければ  成り立たない

      しかし  一人 とは 二人を拒否する概念 である

       「 念 」 ずるときに 「 独尊 」 は 立つ

        ただ 尊者 のみ  知ること

        今 この釈を作る   深く聖旨に背けり
            能不の間       教機に在り
            顕密二教      その旨 天に懸なり
          医王の目には    途に触れて  皆薬なり
            解宝の人       礦石を宝と見る

        こうしゃく  を  重ねて記述する   我が愚 を
         解宝の人 である  あなた は
           いかよう に  読むのであろうか

        如何 とも し難い   私の指先 は 皆宝に触れる
         にもかかわらず    “蹴れども”  ホウコウ を 失っているが如し

          蹴って知る  足指の痛さ   躓いて知る 指先の感覚

             感覚に訴える  躓きを重ねる

  7.  春間 則廣  より:

      承認されていない 書き込み を 承認させる

       以下の如し

       **********

     春間 則廣  より:
    あなたのコメントは承認待ちです。

    2025年2月10日 8:07 AM

    *  

    読んでは 見ました

       見ただけ ( かもしれない )
            ( 見ても理解できない ) 

       藁束 なら 交互二つに 掛けて 干す
     「 葦束 」は どのように 干さなければならないのか は 不明

      たてかける( 起す・支え合わせる ) のが  主眼

      このように 「 譬喩 」 にも 使える

    イネ科の植物の「ヨシ」   ヨシとアシの違い

        オギは綿状のものが詰まっています (あしきおぎ)
          ( 人の心 は 「 空 」 なのか )

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E5%A4%8F%E5%B8%86
      12歳 の 村田夏帆
    https://www.youtube.com/watch?v=FaJPt4sv6W8&list=RDxIBTe35Sftg&index=7
      を 聞きながら  pandering  しています

      もう一人の “ 日本 ” の 才媛 の 12歳
    https://www.youtube.com/watch?v=Lfe6dl8CS_A
    https://www.youtube.com/watch?v=__36oDCMXn8
      カルメン ファンタジー
    https://www.youtube.com/watch?v=3K6UQRvhw-E
       世界最年少 の ストラディバリウス使用 演奏者

      12歳のころのわたし は 10歳上の叔父 から 和算 を 教えられていました

       「学者」 として “ある” には 英語能力が必要 と  言われました

         多言語 である 必要性  とは 、、、、、

      「 葦束 」 は 支え合って 立つけれど

        支え合わせる 人  は どのように 支え合うのか 、、、、

          ことば では 支え合わせられない 、、、、

       音楽 で   ( こころのゆれ で )
               世界は支え合わせられるであろうか

        ゆれている “ ジ シン ”

       シン を チュウシン に たもって  「 信 」 を ながめる

         という  「 真 」

       この数か月 は 夕方に 「リリカ」 を 300mg服用している
    https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00066754

        心の揺れさえも  感じるのに 孜々としている 

  8.  春間 則廣  より:

    ありがとうございます。

    ついでの、個人的お知らせです。

    今朝方・夜中
    母が息を引き取りました。

    なんとなく、不思議な、
    寂しいような 気分で
    座っています

    独り言ですが、伝える相手がいなければ

    ことば というもの は

    もの言い の いみをうしなう
    母の横にすわっています

    • mani(管理人) より:

      春間さま お母上さまのこと、深くお悔やみ申し上げます。

      2018年に、わたしも母を亡くしました。出会えるのは思い出の中だけになりました。いつまでも、いつまでも不思議です。
      思い出だけが、どんどん鮮明になります。

    • ぎんた より:

      春間さん お母様のこと衷心よりお悔やみ申し上げます。

      「不思議」の使い方がとてもいいなと思いました。
      いつも、文章が難しすぎて、お手上げで、もはや判らない漢字も調べないのですが、
      この文章が、とてもよく伝わってきて、好きです。

      ご自愛ください。

  9.  春間 則廣  より:

    > 「不思議」の使い方がとてもいいなと思いました。

      それはね  みちこちゃん が
       > いつまでも、いつまでも不思議です
      って 使ってくれたから 伝わったことなのです

      わたしだけでは だめだから
        うまく使うことができる 手助け が あるのです

      
     手前味噌( 手前勝手 ) に言うと

         そんな 共同作業 で  「 仏教 」 は 広がりを得ます

        ほっとしている 面  もあるんですよ !

    • ぎんた より:

      なるほどです。なるほどです。それは半分合っていて、半分違っていますね。詳しい経緯です。

      まず、私は「お悔やみの文章」で躓いています。先生と同文じゃダメだし。で、検索。
      「ご逝去の報に接し」固いよな。先生がもうちょっと柔らかいのに、ヘン。若輩者だからとしてもヘン。
      だ、誰か他の人はコメントしにゃいのかすら、、、あ、でも他の人がまた違う文章入れてきたら、
      それも使えなくなるしにゃ!コメントするって決めてはいるんにゃから早くしにゃいと!!!!

      お悔やみの文章はこれでぇ、次の自分のことの文章はどうしよう?これは絶対に必須なのにゃ。
      なぜ、必須かというと、「面白い」からにゃ。先生のはもちろん鮮やかだけれども、私は
      それは目指していにゃいのだ!!イメージしているのは、先日のダンの帰還のとこのPocketさんにゃ。

      >縁といいましたが、別に私はそこに宗教的意味があろうとなかろうとどうでもいいのです。
      ただ印象的なことがあったから話をしているだけで、2匹が前世で夫婦だったとかそういうロマンチックな話をしたいわけではないです。

      これ!!これに痺れているのだ!!これは、その人(←ほとけ)の「今の内側」がすっごく伝わる文で
      ここ数年の超お気に入りにゃ!!この手の文章で絶対に嘘はつけないと思うし。(この感じで嘘言われたら信じるしかないな俺)本題の後にポロッと感も最高です。(内容が100パー首肯できるからというの
      を差し引いても)

      で、不思議ですが、前に ~なんとなく~があるのが、ほのかな静けさっぽくていいな~~と思い、
      3行で収まっているのが、また最高で。しょんでもって、また春間さんの芸術的な改行があって、さいごに
      すわっています、が今度はひらがなにゃんですよ~~ほおおおおおおおぅと染み入る瞬間に、
      座っていますのトコに吹っ飛ばされていくのがまた良いんですよーーー。えーーっとなにが言いたいかと
      いうと、先生の「いつまでも、いつまでも不思議」の前にくぅううとなってはいましたよ、と。
      で、Pocketさんに倣い、私の今を忠実に書こうとすると、こうなる、という。先生の「いつまでも」は
      文芸の香りがして、ほおおおおぅとなるけれども、私という人は事実こんな感じですみたいな。

      あーーそっか!じゃあ、「なんとなく」の使い方がいい!と書けば良かったのか~、、、、
      たしかに先生の不思議を継いで作文しちゃったかもにゃ。

      いつも、言文一致ならぬ脳内文一致を心掛けているのに大失敗。

      しかも珍しく春間さんが謙虚か、みたいなタイミングで、、、「ほっとしている」っつてんだから、
      「そうなんですね~(ほっこり)」とかしてればいいのに、、、台無しじゃん!!
      でも、事実と違う!と思うと訂正したくなって、、、

      仏教の広がり?だから、ゆっくり解説とか、未来ちゃんに悟ってもらうとかあるでしょーが!

      あ、こんなだから私ひたすらに人望がないです。なので「私な仏教」なんです。
      人望ありまくりの人が言ってることで、私が救われることは不可能と思います。

  10.  春間 則廣  より:

    > で、不思議ですが、前に ~なんとなく~があるのが、ほのかな静けさっぽくていいな~~と思い、3行で収まっているのが、また最高で。
    しょんでもって、また春間さんの芸術的な改行があって、さいごにすわっています、が今度はひらがなにゃんですよ~~ほおおおおおおおぅと染み入る瞬間に、
    座っていますのトコに吹っ飛ばされていくのがまた良いんですよーーー。えーーっとなにが言いたいかというと、先生の「いつまでも、いつまでも不思議」の前にくぅううとなってはいましたよ、と。

      あなたのように 読んでくれるのは
     他には、管理人エム 様  くらいじゃないかな  、、、、

     こちらの意図 と 少しの食い違いはあるけれど、
    それは 私の 世界(世間) から 、 あなたが所有している世間 への
       橋渡しの中では、 止むを得ぬ こと   です
      管理人エム 様は  世界から これ を  読むけれど
         これは、    「 世間 」 でのみ   読まれる言葉たち
        

        「 もの言い の   いみをうしなう
          母の横 に   すわりしわれの ことひきのこと 」

    .

    • ぎんた より:

      世界と世間がわかんにゃい

      •  春間 則廣  より:

        >  世界と世間がわかんにゃい

           「 世間 」 とは

           「 世間虚仮 (唯仏是真) 」 の 虚仮 の 結ぶ姿です

          この場合 の 「 世界 」 とは
          「 (世間虚仮) 唯仏是真 」 たる  「 如実 」  の ことです

          しかし、 いくら    わたしが 真をみせようと、見ようと
              私の見ている        モノ  は
             あなたによって  その何たるか が 決められるのみ

           “仏 の 真”  は   仏ではない者 が その価値を決めている
                         ( それは 「真」 ですか ? )

           千里 の道  は 一歩を歩みだす その道   に  ある

                 一歩下がって  その道を見る

        • ぎんた より:

          いやいや、だから、全員ほとけなんだってば、覚えてないだけで。

          仏教関係者じゃない人が全員ほとけのパイセンなんだって。一番覚えてない

          集団が、今回の地球の仏教の人達なんだってば。

  11.  春間 則廣  より:

    > だから、全員ほとけなんだってば、覚えてないだけで。

      日本では 死んだ人のことを ほとけ と呼ぶ

      ほとけ とは 別の名を 無量寿如来 とも呼ぶ

       死んで  「 無量 」 に 足を踏み入れる

            覚えのないこと

        でも  如実なる  「 如来蔵 」