空はからっぽ

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わたしも罪深いヤツだ。昔、『「空」の発見』という本を書いたのですが、その中で「空はからっぽ」ということだと書いたのです。今読むとそう書いてあります。実は、忘れてた。。

だけど、書いていることは、今もそう思ってることなので、まるで、他人が書いたものを読むように自分が読んでいます。

一つのことばを器のように考えて、そのことばに中身を盛るのが「他人に伝える」ということだ、というようなことが書いてあるみたいです。これは「論理」なのです。論理の基本なのです。

223 怒らないことによって、怒りに打ち勝とう。善いことによって、善くないことに打ち勝とう。
布施をすることによって、物惜しみに打ち勝とう。真実によって、虚偽を語る者に打ち勝とう。(『ダンマパダ』)

書いたことをそのまま読むと、「あたりまえじゃん」って気もしてくるけど、それがあたりまえじゃないんだなあ。

たとえば、怒らないことがそんなにすごいことだなんて、誰が思うでしょうか。真実を語って虚偽に打ち勝てるなんて、誰が思うでしょうか。フェイクニュースに翻弄されてるのに、どうして真実を語れるだろう。何が真実だろう、ってみんな思ってるのに、どうして真実か、そうでないかわかるんだ???

だけど、やがて見えてくる。。からっぽの目で見るんだ。からっぽの耳で聞くんだ。からっぽの

心で入ってくる心に出会うんだ。。

もし、それが真実ならば、それは心に入ってくる。心は自然と反応する。

だからね、本当は、誰でも仏教徒なんだよ。

からっぽのこころさえもつならば、真実に出遭わないわけがない。。

わたしは、そう思ってる。だからAIが発達してもフェイクニュースがはびこっても、真実は伝わっていく、って思ってるのさ。

コメント

  1. ぎんた より:

    先生こんにちは!AIがどうなっていくのかはすごく興味があります!家族は財務省の替わりを
    AIがやったらすごく効果あると思うと言ってました。経済のすごく繊細なところを何通りも
    シュミレーションして最適解を出せるから、(出世したいみたいな欲もないし)だそうです。

    あと、前に先生にぎんたが「あの危険な団体」は仏教だと思っているのでは?と質問されて、なにも
    答えなかったように記憶していますが、なんか、こころの中では瞬時に答えたのですが、文字にしないで
    しまったので、今日書きます。

    あの団体は「仏教」でいいと思います。むしろ、そっちのが好都合なんです。
    インドの仏教寺院(だか遺跡だか)って全部破壊されて土台だけしか残ってないんでしょう?
    釈迦族も殲滅させられちゃって。と、いうことは?もし、あの団体が仏教だったら同じ道を辿るのが
    科学的にゃんですよ!!これに気付いたとき(もももしかして、いけるんじゃ?!!!)と思い、
    わーーーーーーーーーーーいいいいいいとガッツポーズというか、もう、高反発ウレタン座布団の上で
    ぴょんぴょん飛びはねました!!なので、あの団体は仏陀直伝wwwの世界で唯一のww仏教教団と
    いうことに決定ーーーーにゃんです!そう信じればそうなるんです!!信じれば心が作用して、出会う
    情報が変わってきて、どこかに勝機が隠れていると思うんです。

    ごめんなさい、先生のキレイな青空の写真と投稿にこんな返信を付けて。。。
    だから、あの応現院とかいうとこで前後左右のマダムに錫杖ふられるとなんか、黒板に爪みたいに背中
    がゾワッとしてその部屋にいられない、みたくなるんだ、、、、、、ぎんたが悪だから、、、、

    • mani(管理人) より:

      ぎんたさま こんばんは。

      おおっ! ぎんたさまからコメントもらったっち、って思いましたよ。

      しかも、昔の質問に答えてもらってる。。

      >あの団体は「仏教」でいいと思います。むしろ、そっちのが好都合なんです。

      そうかぁ。。なるほどねぇ!「好都合」ってところに反応しちゃおう。
       いいと思います(”テレビの宣伝”風で)

      なんだかんだ言っても、日本は仏教の国だからなあ。.それなりに「黒板に爪」みたいなところも出てくるよね。そういう面があるってこと、忘れないようにする!

      黒板に爪。。。嫌なことの極みだなあ。

      •  春間 則廣  より:

           心中 の ムシ  を   思う

        > 日本は仏教の国だからなあ。. それなりに

           「 仏教 」  が どこにあるか   も
                 問われるところ   ( それなりに 、、、、 )

        >   「黒板に爪」みたいなところも出てくるよね。

           黒板 が  「 仏教 」 
            爪  を  たてるのは   人
            爪  とは “それ” ? を 建てる  人の心 でもある

           気に障る人もあり、 あえて 建てる人もある 
          
                         「 共建法幢 」

        >  黒板に爪。。。嫌なことの極みだなあ。

           嫌 も 好き   も   “ コノミ の 内 ”

           「 獅子 身中 の虫 」  とは  思慧(思い)難き  こと

        • mani(管理人) より:

          春間さま こんにちは。

          >  「 仏教 」  が どこにあるか   も
                   問われるところ   ( それなりに 、、、、 )

          だから、ぎんたさまに「あの危険な団体」って言われるのかな。

          どんな宗教でもそうだけど、どんなに立派な教えでも、団体になると「『あの』危険な団体」になるよね。

        • ぎんた より:

          あーー春間さんこんにちはー。

          春間さんは、ケツァルコアトルって知ってますか?私、昨年末に検索して初めて出会ったんですが、

          アステカの神様なんですってーーー!

          私立パラ高で、よく未来ちゃんが「説あるコアトル」って言ってて、意味は「説ある」だから

          特に調べなくても判るし、と放置していて(いずれどこかでその情報に遭遇する日を楽しみに、、)

          でも、ほぼ丸一年経っても何も判らなかったので、ついに痺れを切らして検索してみました。

          したら、神様てなってたーー、びっくりーーー(←ちょっと未来ちゃん風に棒っぽく)

          やー、ただ生きてたら中の人が猫だと全然遭遇しない情報だー、なんておしゃれな言葉遊びにゃんだ

          教養てやつ?ゲーム用語の場合もあるかな?ほぼ一年なにも知らずに「せつあるこあとるww」と

          心の中で反芻して楽しんでた自分。。。うーーん、ざんねんすぎて気に入っている。。。

          学問とか教養とか知識とかって大事ですよね~~~~こんなに身に染みているのにそれを得ようと

          しないのは、なんでだろう??猫あたまだからすぐ忘れすぎて意味ないからだろうな。。。

          先生はぎんたが春間脳で考えることができたら一切智みたいなことを仰っていたと思うけれど、

          うん、それは物理的に不可能だ。こんなに一生で得てきた情報が違うのだから。。。

          春間さんが一番時間をかけて読んできた本は学術書だけれど、ぎんたは漫画雑誌だ。

          ジャンプサンデーマガジンヤンジャンビージャンチャンピオンスピリッツ、、なんとかスペリオール

          とかあったか?一週間があっという間に過ぎ去っていくの。こしたんは、東京リベンジャーズ読んで

          ヤンキーになったそうだが、ぎんたはなんだろう?いっぱいいるし、なんとなく近頃浮かんできた

          のは、『究極超人あ~る』なんだけど、内容忘れちゃった。、、、、調べたらアンドロイドだった。

  2.  春間 則廣  より:

    >  学問とか教養とか知識とかって大事ですよね~~~~こんなに身に染みているのに

        大事ではないですよ
        「 世間 」 を 見渡せば、
     いかに “疎か” に 暑扱われているか が
       わかる(はずです)
     ワカル ということ  が      話において、
        軽く 扱われる から ( 重く は ないから )
       広く “分かる” ということが 敷延するわけです
      染み込んでいる  ということを
      「 仏教 」 では   「 習気 」 と 習い知ります
     ( 習う ということは、
        幾度も羽を広げたり畳んだり するところに発します )
       善“悪” を幾重にも 真似 重ねて
         「見」・身 に 着けます 

    > それを得ようとしないのは、なんでだろう??猫あたまだからすぐ忘れすぎて意味ないからだろうな。。。

       他に (自らの 「 習気 」 に 相応して)
         好みに合った  こと  を  “選ぶ” からです
      そのようなことを  「 仏教 」 では 揀択 と 呼びます

        「 至道無難 唯嫌揀択 」  『信心銘』

          悟りは すぐそこにある
       あなたの   「 習気 」 を 捨てて 、
         自らの  コノミ に応じている
              選び取り を 棄てるだけである

       この  「 真理 」 に沿って、
       この   無難なる至道  を 歩ま“なければ”(否定)
             道・真理 に 到る(至)

       このように、 正しいこと さえ 行わなければ
         正しいこと  は  その身にある ( 獅子身中の無視 )

    > 先生はぎんたが春間脳で考えることができたら一切智みたいなことを仰っていたと思うけれど、

       釈迦族の牟尼 は 誰の、どのような脳 であろうと
     その 能( 可能・可脳 ) は 同じである  という 
        “普遍”テキ な 真理  を  発見したのです
     この 「 真理 」 に あてはまらない  「 有情 」 は いません

    >   うん、それは物理的に不可能だ。こんなに一生で得てきた情報が違うのだから。。。

      人の たった一つの細胞 を 取り出しても、 そこには
       事物発生 以来  の  歴史的積み重ねが 
         DNAに 情報として 保存されている

    > 春間さんが一番時間をかけて読んできた本は学術書だけれど、ぎんたは漫画雑誌だ。

        一生  とは     此のひと時  以外には ありません
        この道(真理) を   どのように 歩むか  です

       人を傷つけてはならない ( 人 とは これを読む あなた です )
       あなたが 傷つけている     あなたの人生

    >  一週間があっという間に過ぎ去っていくの。

      アッ と 言う間もなく  ( 過ぎ去っていく あなたの過去 )
       35億年 と言われる     あなたの身の歴史

       コノミ  を 大切にして  タノミ  と する

       そのようなこと  を

         「 仏教 」 では

         「 自他不二 」  と  “ 習い ” 知ります

    • ぎんた より:

      選び取りを棄てる?は?やだけど?

      •  春間 則廣  より:

        > 選び取りを棄てる?は?やだけど?

            「 人 」 は “ 嫌 ” なこと  は しません
         ( するときは 選ぶ 理由 を  選び取る = 揀択 )

          ( “唯” ) 嫌  揀択  ということを  揀択する

            「 仏教 」 では “ 唯一 ” ということを 否定します

             それを  「 縁起 」 とも 呼びます

           嫌なこと は  しなくてもいい
         ( したくなれば 自然と 選び取る )

         「 唯 」 ということ が  自然と 口に登ってくる
                        ( 思惟に上がってくる )

           下がらせたい 内は   下がっていけばよい
         ( どこまで 下がろうと   ソコ は いつも 底辺  )
                          「 愚中 の 大愚 」
          『 願文 』
        「 愚中の極愚  狂中極狂 塵禿の有情 底下の最澄 」

          ( “いつであろうと” )  どこから   昇ろうと 
            登ると トキ には  “ 上 ” が 起き上がっている
          そういうこと  も    「 縁起 」 なのです

          「 得難くして 移り易き は   それ 人身なり
            発し難くして 忘れ易き は  これ 善心なり 」

        > 選び取りを棄てる?は?やだけど?は

           いやなこと である内  は “ 嫌 ” のこと です

            「 正法眼蔵  」  < 行持 >

        「 光陰なにとしてか わが功夫をぬすむ
           一日をぬすむのみにあらず  多劫の功徳をぬすむ 
               光陰 と われ  なんの怨家ぞ  うらむべし
                 わが不修 の  しかあらしむるなる べし  」

           「 時 」  というものは  私の積み重ねた功徳 を 盗む
            “ 怨むべし ” は    「嫌」 の 積み重ね( 不修 ) 

              不治惨 ( に 登る )  ( 「 只管打坐 」  )