今回は写真がありません。原始仏典の訳をあげておきますね。タイトルにあるように「ウパニサー」という題名の経典です。けっこう難しい経典だと思うんだけど、スマ長老の小冊子『真理の花束』の解説からアイディアをもらったところもあります。
『真理の花束』の第7章に「生きるとは『感覚』のこと」とあって副題が「一切皆苦と『無価値論』の教え 『Rahogatasuttaṃ(独坐経)』を読む」とあります。ここに「軽安(きょうあん)」ということばが出てきて、それを読んで思ったのです。
「無価値論」ということばにはひっかかるなあ、って。
上座部の仏教は「すべての感覚は苦である」を支持するだろう。ブッダの教えであるから。だけど、感受には、苦・楽・不苦不楽の三種あるとも言われる、この二つの文のちがいをどう考えたら良いのだろうという疑問をブッダにぶつける経典が「独坐経」です。
上座部は修行の中でも「苦」だけ使って「楽」を使わないのですが、ここを使うのが菩薩のやり方です。https://manikana.net/canon/upanisa.html
下の方に「信」を用いて「楽」に行くケースも説かれています。わたしは、どっちかって言うと、こっち系だったので、菩薩の道を歩むことになるんだなと思いました。龍樹も「歓喜地」だから、菩薩道系統になりますね。そこを説いたのが、『サンユッタニカーヤ』にある「ウパニサー」という経典です。
ここは従来のように、苦か楽かのどちらかを説いた、と考えるのではなく、どちらにも行くことができたと考える方が理にかなっているだろう。だから、声聞乗と菩薩乗と辟支仏乗の三つの味つけは、感受の3部門(苦・楽・不苦不楽)からきていると考えることができる。
「ウパニサー」の経典は、どちらかと言うと、外道の方から仏法に進んだ人の体験に基づいているのではないか、と思った次第です。
よくここまで深く考えられるなあと思った次第!煩悩がないって恐ろしいほどです。
コメント
*
とりあえずは。経名だけ 挙げておきます
「 金光明経 」
あなたの訳では ( わたしにとって は )分からない
・
春間さま おはようございます。
思った通りの反応で、「金光明経」をあげていただいて感謝です。
>あなたの訳では ( わたしにとって は )分からない.
適当に自分に引きつけて読んでくださればOKです。
感謝感謝!
17あたりかな
我今已能
與此魚食令其飽滿。未來之世當施法食。
復更思惟。曾聞過去空閑之處有一比丘。讀
誦大乘方等經典。其經中説。若有衆生臨命 画像
終時。得聞寶勝如來名號即生天上。我今
當爲是十千魚解説甚深十二因縁。亦當
稱説寶勝佛名。
時閻浮提中有二種人。一
者深信大乘方等。二者毀呰不生信樂。時
長者子作是思惟。我今當入池水之中爲
是諸魚説深妙法。思惟是已。即便入水作
如是言。南無過去寶勝如來應供正遍知明
行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛
世尊。寶勝如來本往昔時。行菩薩道作是
誓願。若有衆生。於十方界臨命終時聞我 画像
名者。當令是輩即命終已尋得上生三十
三天。爾時流水復爲是魚。解説如是甚深
妙法。所謂無明縁行。行縁識。識縁名色。名
色縁六入。六入縁觸。觸縁受。受縁愛。愛縁
取取縁有。有縁生。生縁老死憂悲苦6惱。
善女天。爾時流水長者子及其二子。説是法
已即共還家。是長者子復於後時。賓客聚會
醉酒而臥。爾時其地卒大震動。時十千魚同
日命終。7既命終已生忉利天。既生天已作 画像
是思惟。我等以何善業因縁。得生於此忉
利天中。復相謂言。我等先於閻浮提内。墮
畜生中受於魚身。流水長者8子。與我等水
及以飮食。復爲我等解説甚深十二因縁。
并稱寶勝如來名號。以是因縁令我等輩
得生此天是故我等今當往至長者子所
報恩供養。爾時十千天子。從忉利天下閻
浮提。至流水長者子大醫王家。時長者子在
樓屋上露臥眠睡。是十千天子。以十千眞珠
天妙瓔珞置其頭邊。復以十千置其足邊。 画像
復以十千置右脇邊。復以十千置左脇邊。
雨曼陀羅華摩訶曼陀羅華。積至于膝。9作
種種天樂出妙音聲。閻浮提中。有睡眠者
皆悉覺寤。流水長者子亦從睡寤。是十千天
子。於上空中飛騰遊行。於天自在光王國
内。處處皆雨天妙蓮華。是諸天子復至本
處空澤池所復雨天華。便從此沒還忉利
宮。隨意自在受天五欲。時閻浮提過是夜
已。天自在光王。問諸大臣。10昨夜何縁。示現
如是淨妙瑞相有大光明。大臣答言。大王 画像
當知。忉利諸天於流水長者子家。雨四十
千眞珠瓔珞及不可計曼陀羅華。王即告臣。
卿可往至彼長者家善言誘喩喚令使來。
大臣受勅即至其家。宣王教令喚是長者。
是時長者尋至王所。王問長者。何縁示現
如是瑞相。長者子言。我必定知是十千魚其
命已終。時大王言。今可遣人審實是事。爾
時流水。尋遣其子至彼池所。看是諸魚死
活定實。爾時其子聞是語已。向於彼池既 画像
至池已。見其池中多有摩訶曼陀羅華。積
聚成𧂐。其中諸魚悉皆命終。見已即還白其
父言。彼諸魚等悉已命終。爾時流水知是
事已。復至王所作如是言。是十千魚悉皆
命終。王聞是已心生歡喜。爾時世尊。告道
場菩提樹神。善女天。欲知爾時流水長者
子。今我身是。長子水空。今羅睺羅是。次子水
藏。今阿難是。時十千魚者。今十千天子是。是
故我今爲其授阿耨多羅三藐三菩提記。爾
時樹神現半身者。今汝身是 画像
*金光明經捨身品第十七
流水長者のお話と、「縁由(ウパニサー)」とが繋がっているなんて、なかなかピンとこないかもしれませんが、檀波羅蜜の話として確かに関連しています。
日本に伝わって、放生会などの行事として定着していったのを考えると、昔の人は真面目だったんだなあと思います。
春間さま 実はわたしは流水長者の話はすぐに『スッタニパータ』とつながるのです。
936. (第十五経第2偈)
水の少ないところにいる魚のように、おびえ震えている人々を見た後、お互いに反目している者たちを見た後、わたしに恐怖が走りました。
流水長者の気持ちが、手に取るような感じです。これらの魚は一斉に死んで天界に生まれ変わったというところもなんとなく理解できます。
一昨年大量発生した札幌の雪虫たちも、今は天界で‘展開’してますかね。。
*
ここの サンスクリット(岩本裕)訳 は
仏教聖典選 第四巻 大乗経典二 256p あたりにあります
・
先生、こんにちは。質問させていただきたいことがありお邪魔しました。
上の記事とは直接な関連のない内容なのですが、この記事のところにコメントさせてください。
このところ、「ブッダは空にどういう意味をもたせて使ったのか」というのを知りたいと思い、先生の『ブッダと龍樹の論理学』にそれが出ているページがあったのを思い出し読んでいました。
・・・・・・
「『空であるのは世界である、空であるのは世界である』と、尊師よ、言われますが、どの点から、尊師よ、『空であるのは世界である』と言われるのですか。」
「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
(『サンユッタ・二カーヤ』三五・八五)
ここでも、「空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてである」と、「ないもの」である「自己」「自己にかんするもの」をあげて、それについて説明している。
「世界(ローカ)」というのは、仏教徒の認める世界ではなく外教徒も含めた一切の生類の世界を指している。このような言い方をしているときは、ブッダの体系を超えてもっと広い言語の活動領域を対象としていることがわかる。
このように、ブッダは、弟子たちに、さらに禅定の進んだ状態では「空であるのは、自己についてである」「空であるのは、自己にかんするものについてである」という見方も教えていたのである。
・・・・・
『ブッダと龍樹の論理学』 p228~p229より引用
「ないもの」を挙げて、それについて「空」である、という説明がなされているというのがわかります。
この一つ前に出ている経と同じロジックになるのだと思い拝見しました。
ふと思ったのですが・・・。
「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
と、ブッダは言ったのですが、
なぜ、自己、あるいは、自己にかんするものが「空」だとなると『空であるのは世界である』と繋がるのか? ここ、考えてみると謎な気がします。
自己、あるいは自己にかんするものが「空」(無我)だというのは言っていることが理解できます。
しかし、自己あるいは自己にかんするものが「空」だといういう点から『空であるのは世界である』となる根拠説明が仏陀のここでの説明にはないと感じるんです。
人空から法空に突然飛躍しているように感じるというか。
一つ自分なりに考えるのは、禅定により自己・自己に関するものが空だと理解した人には、世界(ローカ)もそうであると理解できるから、という理由なのかな、ということです。
とても初歩的な質問ですし、とんでもないとんちんかんなことをお尋ねしているのでは?という気恥ずかしさを抱えつつ、今、自分にとってどうしても知りたいことなので質問に参りました。
お忙しいところすみません。急ぎませんのでご都合のつくときに教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。
*
管理人エム 様 は どのように説明されるか 興味があります
私が 「 空 」 である( 「 無我 」 )
わたしは モノを手に取る これが 事実 と呼ばれる事(柄)
わたしは 邪魔なものを 蹴っ飛ばす
なんなく蹴飛ばすことができるときもあり
ゆびさきを痛め しかめっ面をすることもある
これら二つのこと は 事実(起きうること) と されています
これは “ 「自己」「自己にかんするもの」 ” です
( “もの” とは “事 実・物” の 総称です )
あなたにかんするもの とは
あなたの 見ることができるもの
( あなたの 心に“かたち”を 結ぶもの )
それらが 世界を形作っていて それらのある世界 を
仏虚 では 「 世間 」 と呼び
その「 世間 」 ・ “ ローカ・ダートゥ ” が 虚仮であると
悟りを得た者は 知るのです
そういうこと が 天寿国曼荼羅繍帳 に
「 世間虚仮 唯仏是真 」
と 織りあげられています が
世間では それを 美しき仏世界 だと 見るのです
・
赤い実さま こんばんは。
難しいご質問ですね。空は簡単そうに見えて、やっぱり難しいですからね。
「簡単だ!」という観点から答えるなら、「わたしの見ている世界を超える世界はないから」といえるのではないか、ということなのです。
桜が大好きな人で、「桜は散り際が美しい」と思っている人には、商店街に造花の桜が飾り付けられていても、あんまり美しいとは思わないでしょう。
「わたしはホントの桜のことを言ってるんだよ、造花の桜は桜じゃないから」って、思うかもしれません。
ですが、その商店街が寂れてきて造花の桜だけが色あせずにいつまでも飾ってあるなら、どうでしょうか。一層さびしいような気がしてくるかもしれませんね。
最初に桜を見ていろいろ思った人は、やがて、世界のありさまも見つめます。そのとき、桜にみた思いと同じような思いを世界にも感じ取れるなら「空であるのは世界である」ということもわかるのかもしれません。
天寿国曼荼羅繍帳 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AF%BF%E5%9B%BD%E7%B9%A1%E5%B8%B3)には天寿国の様子が表されているかもしれませんが、移ろう世界、つまり変化をみるより、永遠を夢見る世界がえがかれているかもしれませんね。
聖徳太子とその母の死を悼んで作った天寿国繍帳。国宝にもなっている天寿国の様子を描いた刺繍の数々も、今は断片が残るのみ。。。
空であるのは世界である。。のかな。
いかがでしょう、世間虚仮 唯仏是真(世間は虚妄であって、仏のみ真実である)という言葉が何度も形を変えてせまってくるようですね。
(最初にすみません。一つ前の私のコメントは、春間さんのコメントと私がした本からの引用がくっついてしまっているので、再度このコメントで修正しています。
今度は大丈夫かな? ですので、一つ前のはお手数おかけしてしまいますが削除してください。)
先生、返信ありがとうございます。
>「簡単だ!」という観点から答えるなら、「わたしの見ている世界を超える世界はないから」といえるのではないか、ということなのです。(先生のコメントより)
>あなたにかんするもの とは
あなたの 見ることができるもの
( あなたの 心に“かたち”を 結ぶもの )
それらが 世界を形作っていて それらのある世界 を
仏虚 では 「 世間 」 と呼び
その「 世間 」 ・ “ ローカ・ダートゥ ” が 虚仮であると
悟りを得た者は 知るのです>「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」<<
空である自分の目や耳などの感覚器官を通して形成される自分の世界(あくまで自分から見える世界)も空なのだ、ということになるのでしょうか?
この部分について回答いただけるとありがたいです。
天寿国繍帳は、中宮寺にあるのですね。(調べてみました。)
丁寧に何度も何度も修繕されて今日まで天寿国繍帳として現存しているというのが、考えてみると縁起や無常を表しているように感じます。
春間さんへ。
お母さまのこと。お悔やみ申し上げます。
春間さんもどうぞお身体をたいせつになさってくださいね。
赤い実さま こんにちは。 ちょっと横から失礼します。
> 「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
> と、ブッダは言ったのですが、
>
> なぜ、自己、あるいは、自己にかんするものが「空」だとなると『空であるのは世界である』と繋がるのか? ここ、考えてみると謎な気がします。
> 自己、あるいは自己にかんするものが「空」(無我)だというのは言っていることが理解できます。
> しかし、自己あるいは自己にかんするものが「空」だといういう点から『空であるのは世界である』となる根拠説明が仏陀のここでの説明にはないと感じるんです。
> 人空から法空に突然飛躍しているように感じるというか。
初期仏教 で 釈尊が説かれた 自己・自身 とはどの様な ものだったのでしょうか。それがわかる仏典があります。
( 中部経典 44経 「 小有明経 」 片山一良 訳 ) から 一部抜粋して紹介します。
尊尼 ( ダンマディンナー比丘尼 ) よ、 『 自身、自身 』 と言われます。
しかし、尊尼よ、世尊が説かれる〈 自身 〉とは 何でしょうか?
友、ヴィサーカ ( 尊尼の在家時の元夫 ) よ、
世尊 が お説きになる 〈 自身 〉 とは 、 次の 五取蘊 です。
すなわち、色の取蘊、受の取蘊、想の取蘊、行の取蘊、識の取蘊 です。
友、ヴィサーカ よ、 これらの 五取蘊 が、
世尊 の お説きになる 〈 自身 ( 私と誤解されてしまう身体 ) 〉です。
尊尼よ、 『 自身 の 生起、自身 の 生起 』 と 言われます。
しかし、尊尼よ、世尊 が 説かれる 〈 自身 の 生起 〉 とは 何でしょうか?
友、ヴィサーカ よ、再生を 起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜 する渇愛です。
すなわち、欲への 渇愛 、生存への 渇愛 、虚無 への 渇愛 です。
友、ヴィサーカ よ、 これが、 世尊 の お説きになる 〈 自身 の 生起 〉 です。
尊尼よ、 『 自身 の 滅尽、自身 の 滅尽 』 と 言われます。
しかし、尊尼よ、世尊 が 説かれる 〈 自身 の 滅尽 〉 とは何でしょうか?
友、ヴィサーカ よ、その 渇愛 の 消滅 による 完全な滅尽 、捨断 、破棄 、解脱 、
無執着 です。
友、ヴィサーカ よ、これが、 世尊 の お説きになる 〈 自身 の 滅尽 〉 です。
尊尼よ、 『 自身 の 滅尽 に 至る 行道、自身 の 滅尽 に至る 行道 』 と 言われます。
しかし、尊尼よ、世尊 が 説かれる 〈 自身 の 滅尽 に至る 行道 〉 とは 何 でしょう
か?
友、ヴィサーカ よ、次の 聖なる八支の道 こそ、世尊がお説きになる 〈 自身 の 滅尽
に至る 行道 〉 です。
すなわち、 正見 ・ 正思 ・ 正語 ・ 正業 ・ 正命 ・ 正精進 ・ 正念 ・ 正定 です。
釈尊は 「 自身 」とは、五取蘊であると説かれました。では、「五取蘊」とは何か?
一般的には、煩悩 に伴われた有漏である五蘊、 五蘊 の中の〈 煩悩 に汚され、(それが私であると見なされて) 取著 されてしまったもの 〉が 五取蘊 です。
経典から、〈 自身 の 生起 〉とは 五取蘊 の顕現であり、〈 自身 の 滅尽 〉とは、その五取蘊が 無漏の五蘊 に戻ることと読めます。
ですから、初期仏教で 釈尊が説かれた「空」とは「 空=無漏の五蘊=無我 」であろうと私は考えています。
また、釈尊は「一切」を説きます。
「一切」とは、「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触、意(心)と法」のことを指していますが、これは、「六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)で認識・認知できる全ての対象」のことです。
それらは「我」についての認識であり、色(物質)に関わる領域が拡大すると、それは「世界」の認識へと変容します。
この「一切」を別の形で表現したものが「六大(六界)」や「五蘊」になりますよね。
大和さん、教えていただいてありがとうございます。
>釈尊は 「 自身 」とは、五取蘊であると説かれました。では、「五取蘊」とは何か?
>一般的には、煩悩 に伴われた有漏である五蘊、 五蘊 の中の〈 煩悩 に汚され、(それが私であると見なされて) 取著 されてしまったもの 〉が 五取蘊 です。
五蘊というものがどういうものかはおおよそ知っていました。五取蘊というのは言葉だけ知っていて、五蘊と=だと思っていたので違いを知れてありがたいです。
>経典から、〈 自身 の 生起 〉とは 五取蘊 の顕現であり、〈 自身 の 滅尽 〉とは、その五取蘊が 無漏の五蘊 に戻ることと読めます。
ですから、初期仏教で 釈尊が説かれた「空」とは「 空=無漏の五蘊=無我 」であろうと私は考えています。
自己が空(無我)であるとは、この意味だというご説明になるのですね。
自身の滅尽があって無漏の五蘊になった状態での自己を、仏陀は「空」としたということを説明いただいたのだと理解させていただきました。
>また、釈尊は「一切」を説きます。
「一切」とは、「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触、意(心)と法」のことを指していますが、これは、「六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)で認識・認知できる全ての対象」のことです。
それらは「我」についての認識であり、色(物質)に関わる領域が拡大すると、それは「世界」の認識へと変容します。
この「一切」を別の形で表現したものが「六大(六界)」や「五蘊」になりますよね。
はい。
赤い実さま こんばんは。「一つ前のを消す」ということで、正しく操作できているでしょうか。
>あなたにかんするもの とは
あなたの 見ることができるもの…
この部分はやはり春間さまの書かれたものだと思いますが、意図を汲んでお返事しますね。
>空である自分の目や耳などの感覚器官を通して形成される自分の世界(あくまで自分から見える世界)も空なのだ、ということになるのでしょうか?
そうです。そのつもりで書きました。なので、自分の見えてる世界で、散り際の桜を愛でる目を持つ人が、やがて商店街の寂れた風景にも同じような散り際の移ろう風景を見いだして感慨深く思うという例を挙げてみました。
「生じたものは滅する」というのが、「空」の別の受けとめと思っています。
>空である自分の目や耳などの感覚器官
このようにお書きですが、ついつい、そこに永遠なるものを見てしまうというのが、私たちだと思います。
といっても、赤い実さまは正しくとらえているのでその心配はないだろうと思います。
目の付け所ととしては、目で見たものは、ひととおりそう見えることを大切に思うからです。
その点を大事にすれば、論理学が生まれます。消えていく方に目を向ければ、「空」ということが浮かび上がります。
ですから、やがて、龍樹の立場は、論理学を認める自立論証派と帰謬論証派に分かれてくるのだろうなと思っています。
こんなところでどうでしょう。大和さまもご説明をされていますね。こちらも今熟読しているところです。
先生、返信ありがとうございます。
>赤い実さま こんばんは。「一つ前のを消す」ということで、正しく操作できているでしょうか。
はい。お手数をおかけしました。
二つの投稿とも、春間さんのコメント引用と自分の文章部分に空間を入れたのですが、なぜかくっついてしまってました(;^_^A
>あなたにかんするもの とは
あなたの 見ることができるもの…
>この部分はやはり春間さまの書かれたものだと思いますが、意図を汲んでお返事しますね。
はい。
>>空である自分の目や耳などの感覚器官を通して形成される自分の世界(あくまで自分から見える世界)も空なのだ、ということになるのでしょうか?
>そうです。そのつもりで書きました。なので、自分の見えてる世界で、散り際の桜を愛でる目を持つ人が、やがて商店街の寂れた風景にも同じような散り際の移ろう風景を見いだして感慨深く思うという例を挙げてみました。
ありがとうございます。
>「生じたものは滅する」というのが、「空」の別の受けとめと思っています。
はい。
>>空である自分の目や耳などの感覚器官
>このようにお書きですが、ついつい、そこに永遠なるものを見てしまうというのが、私たちだと思います。
といっても、赤い実さまは正しくとらえているのでその心配はないだろうと思います。
目に見える身体やその能力などは永遠ではないというのは理解しやすいと思うのですが、思いや感情については永遠というのとは違うけど、そこにこだわりを持ってしまいがちなのかな、と今、思いました。
考えてみれば、身体やその能力が老齢によって衰えてきたとしても、そこに思いや感情がついていかなければどうとも思わないんですものね。
>目の付け所ととしては、目で見たものは、ひととおりそう見えることを大切に思うからです。
その点を大事にすれば、論理学が生まれます。消えていく方に目を向ければ、「空」ということが浮かび上がります。
>ですから、やがて、龍樹の立場は、論理学を認める自立論証派と帰謬論証派に分かれてくるのだろうなと思っています。
こんなところでどうでしょう。大和さまもご説明をされていますね。こちらも今熟読しているところです。
龍樹、難しいです。自性を欠いているので空である、の部分のごくごく表面しかわかりません。
今の延長線上でいつか少しでも理解できたらいいなと思っています。
〉この部分について回答いただけるとありがたいです。
あなた見ているもの、感じているもの
それらが 実体.現実 であり
それら 以外に この世に存在するものはありません
あなたは、それら事物を用いて それらでもある、 思考を作り上げます
思考が変われば、それら は 変わります
空ではなく、 現実それ自体が変わる
。
あなたが、目に映る事*現実について
それにたいして、良くないこと と
判断を起こせば、よくないのは何故か
という判断の根拠が底に起きていて、
その良い方向にあなたは、足先を向けています。
向いた方向が、良いかどうかの判断は、他人が起こします。
その良い方向 は 真理にもとづいいていますか ?
。
誰の判断も間違ってないよ。一個前の地球で起こった通りにするべく判断しているのだから!!
そしてですね、「私な仏教」ではですね、「空」はこんな感じです。
身体決まってるけど、心は「空」だから、なんにでもなれるの。だから「猫」なの。
次の日「犬」に変わってもいいの。で、のこたんとかヨレンタさんにもなれる!!
は~~、空ってなんて自由でいい感じにゃんだろ~~~
赤い実さんが先生に質問すると、急ぅぅぅにここが仏教教団ぽくなってすごく面白いの。
ワープしたみたいで!で、皆さんの言ってることはちぃいいっともわかんにゃいの。
ほぼ外国語w 自分がかつてそこにいなかったことが如実にわかるの。おもしれーー
そして、春間さん!あのーーーあのーーーー、念のため確認しちゃうんだけれども、
赤い実さんは、優しくて折り目正しいので、春間さんを気遣ってお悔やみを言おうと
思って、唐突にならないように「空」の質問をしたと思うのだけれど、どうかな?
これ書いちゃうと、赤い実さんのさりげなさを台無しにしちゃうようで非常に
心苦しいのだけれど、私、この時点で色々正しく見れてないとなると、この先どんどん
違ってきちゃうので、なんとしても正しい情報が必要なの。
そそそそして、赤い実さんっっっっっっっ、非常~~~~~に心苦しいのですが、
本当のところ、どうなのか、、、こっそり教えてくらさい(>_<)
嘘はダメです。実際にどうだったのか、、、
一生のお願いです。
ぎんたさん、おひさしぶりです~。
>そして、春間さん!あのーーーあのーーーー、念のため確認しちゃうんだけれども、
赤い実さんは、優しくて折り目正しいので、春間さんを気遣ってお悔やみを言おうと
思って、唐突にならないように「空」の質問をしたと思うのだけれど、どうかな?
これ書いちゃうと、赤い実さんのさりげなさを台無しにしちゃうようで非常に
心苦しいのだけれど、私、この時点で色々正しく見れてないとなると、この先どんどん
違ってきちゃうので、なんとしても正しい情報が必要なの。
ええと・・この部分は春間さんへのぎんたさんからの呼びかけになるんですね。
>そそそそして、赤い実さんっっっっっっっ、非常~~~~~に心苦しいのですが、
本当のところ、どうなのか、、、こっそり教えてくらさい(>_<)
嘘はダメです。実際にどうだったのか、、、
ここは私にですね。
いやほんとに先生に質問したくて参ったのです。
ぎんたさんはいろいろと気遣おうとして(春間さん、私を)書いてくださったのかな、って感じました。
ぎんたさんは優しいからねっ。
でも実際、なにも心配(?)はいらないですよ。
春間さん、ありがとうございます。
〉>この部分について回答いただけるとありがたいです。
>あなた見ているもの、感じているもの
それらが 実体.現実 であり
それら 以外に この世に存在するものはありません
一人ひとり、見ている感じている世界が違う、完全に客観的な世界というものは無い、ということですね。
>あなたは、それら事物を用いて それらでもある、 思考を作り上げます
>思考が変われば、それら は 変わります
>空ではなく、 現実それ自体が変わる
思いや感情が変化すれば現実も変化していきますね。
*
> > あなた見ているもの、感じているもの
> > それらが 実体.現実 であり
> > それら 以外に この世に存在するものはありません
実体・現実 は 存在しないもの です が
存在しないもの 以外 に 人間が認識するもの は ありません
( 存在する 事・もの を 認識する しか “ ありません” ?? )
認識するもの は 認識 であり
「 認識 」 は 人識 に よってのみ 認識される “ モノ ” です
「 仏教 」 では
“ モノ ” の 実体(存在) を 否定します
( “ モノ ” とは 「 実体 」 の 別の呼び名 です )
しかし “実体がない という認識” は “実体” なのです
“ モノ ” とは 「 事 」 とも呼び 「 事物 」 とも言います
思っている “ モノ ” を 「 実体 」 と 言います
( 「 認識 」 は 「 実体 」 を 基に 構築されます )
実際のところ とは 思っているところ を
( 認識に基づいて ) 正しく 言うことです
事実・真実・真理 とは 認識が構築する “ 事物 ” です
しかし その認識( 「 心 」 ) の すがた は
「 瞑想 」 の 中 “だけ” にしか存在しません
それを 明かす ( 「 無明 」を晴らす ) のは
「 瑜伽行 」 ( 瞑想行 ) なのです
その「行」 を 「 瑜伽行唯識 」 と 言います
「 唯識 」 を 学ばなくとも
「 正悟 」 に 達した者 は ブッダ と 呼ばれます
しかし ブッダ とされる人 で
「 瞑想 」 を 怠った人 は いません
そういうこと は 「 瞑想 」 の 「 行 」 に入れば
直ぐ 智ること で 「 瞑想 」 とは 智慧であり
「 智慧 」 の 湧き出る泉 なのです
湧き出た泉の水 を 飲むことが 「 瞑想 」 の 意味です
“ 意 味 ” という “味” は 「 実体 」 なのですが
「 仏教 」 は その 「 実体 」 を 否定します
・
赤い実さん、ありがとうございます!
「今日、こんな感じで赤い実さんに質問したんだ~」と家族に言ったら、
家族「…………………….それで返ってきた答えをそのまま信じる事ができると
思っているの????」と呆れられ、野暮だとも言われました。
私も野暮は思ってたけど、優しさではなくて、自分の予想が合ってるかどうかの《好奇心》が
勝つので、えーい今日は猫の日だし!と思い切って書きました。お答えいただきありがとう。
それで、私の赤い実さんの印象が、ちょっとズレていると思ったので、少しドライよりにしようと
思いました。あ、それって赤い実さんの中のぎんたの印象とまったく一緒のことが起きている?
のかな?
あと、「仏教の人は嘘は言わないんだよ!「正見」とかしないといけなくて、他人(ほとけ)の正見を妨げちゃいけないから絶対に「正語」しないとだし、ちゃんと教えてくれるよっっっ」と家族には反論しておきました。
そしたら、「その人が仏教の規則をちゃんと守るつもりであるとどうしてわかるの?」と
言ってきましたから、「だって、いかにも仏教好きそうだし、自分を裏切れないと思う」と
答えました。