ブッダとサーリプッタ

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またまた昔の写真です。

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何か置物が奥にあるぞと思ったら、どうやらダン猫のようです。古い写真は古いなあ。ぼけぼけじゃ。

前からサーリプッタ尊者には興味がありました。かれはサンジャヤ軍団に所属する賢いお弟子さんだった。よく、サンジャヤのとこなんかに居たなあ、って気がする。学ぶこと何もないじゃん。

新しく立ち上げたブッダ教団の弟子の一人アッサジ尊者にであって、速攻でブッダ教団に鞍替えをはかります。アッサジはサーリプッタに問われるままに、こう答えます。

諸法は原因から生ずるが、それらの原因を如来は説く。

それらの滅することについてもまた、同じように、偉大な沙門は説く。

(“ye dhammā hetuppabhavā, tesaṃ hetuṃ tathāgato āha.  tesañca yo nirodho, evaṃvādī mahāsamaṇo”)(『ヴィナヤ』Vol.1,PTS,p.41.)

これだけ聞いてサーリプッタはブッダのもとに馳せ参じるのです。わたしも行くと思いました。それだけ、サーリプッタは煮詰まっていたのだと思います。わたしも煮詰まっていたからなあ。。速攻で行くよね。

そう思って見ると、サーリプッタ尊者は滅茶苦茶西洋論理学の人ですね。西洋論理なんて、まだないじゃん、といわれるかもしれないが、こういう思考は、ちょっと頭があれば誰でも思いつくのです。

そこで、わたしは、ちょっと頭の回転の速いものが思いつく思考法と、それを超える思考法とに分けて、検討していったのです。つまり、サーリプッタ的思考とブッダ的思考ですね。サーリプッタのえらいところは、人間の思考には原則的なものがあると思ったことかな。

理屈を通そうというサーリプッタの意図は十分つかめる。

それに応えるのがブッダ。サーリプッタは夢中になっただろうなと思います。

世間では、「部派はサーリプッタ教だ」等と言う人もいますが、そんなことはないと思います。サーリプッタ尊者は、ブッダの教えを自分なりにかみ砕いて、理解し。凡夫にあわせて翻訳し、ブッダの法を伝えたのだと思います。

ブッダの教えは喩えを用いて理解できる、と考えて、喩えを用いました。そこがすごい!!

その喩えは、もともとかれが持ってた西洋論理学(?)の考え方を使ったものでした。だから、わたしが分かるのです。わたしも西洋論理出身だから、サーリプッタの「翻訳こんにゃく」はめちゃわかりやすいのです。

たとえば、葦束を喩えに用いて説明したり、象の足跡を喩えに用いて説明したり、ブッダから凡夫へ、凡夫からブッダへの思考の流れがスムーズになるような気がします。

象の足跡の説明では、ジャングルに住む動物たちの足跡が、みんな象の足跡の中に含まれてしまうと述べています。これって、つまりは包摂関係ってことでしょ。

他の教団の理論は、象の足跡の中に含まれ、そこからはみ出るものは居ないと分かります。

ブッダの法を学ぶなら、他の学問はやんなくて善いってことですよね。

これはインドの伝統です!!ウパニシャッドにもあります。ウッダーラカ・アールニとシュベータケートゥという息子の対話の中にあります。

「シュヴェータケートゥよ、愛し子よ、お前は得意になって、学問を修めたと鼻にかけているが、聞かなかったことがそれによって聞いたことになり、考えなかったことが考えたことになり、知らなかったことが知ったことになるという、そのような教えを得てきたか。」

「尊き父よ、その教えとはどのようなものですか。」 ChUp_6,1.3

ウッダーラカは、論理のことを言っていると思います。だって次のように答えているからです。

愛し子よ、一つの土のかたまりによって、土からなるもの一切が知られるようなものである。(語る)ことばに始まる変異であって、ただ名称である。「土塊」ということだけが真実である。

ここから生まれてくるのは、アリストテレスの論理学のような存在論の哲学です。ブッダもまた、その考え方を知りながら、まったく違う論理で語りました。ブッダは、変化を説く哲学です。わたしたちの常識が導くのは、不変化の哲学です。

だから、噛み合わないところが出てくるのです。

サーリプッタは、それに気づいた。かれは、ブッダの教えと凡夫の常識との間を行き来するのです。優しいサーリプッタは、覚りに導くために、凡夫とブッダを行き来するのです。

コメント

  1. カエル より:

    マニカナ先生、こんばんわ

    インドの哲学なり宗教って「藁人形論法」がおおそうなのでサンジャヤも仏典に出てくるようであったのかどうかはわからないですね。

    もしそうなら舎利弗は目蓮がなぜ弟子だったのかなかなか説明がつかない。それなりの説得力のある一派だってのではないかと推測しています。

    ダイバダッタがどんどん悪魔化されるのと同じでサンジャヤもコメディ化されたと推測しています。

    • mani(管理人エム) より:

      カエルさま わたしは仏典の読みは正しいと思ってるんですよ。

      言われて思いついたんだけど、サンジャヤが四句分別を説いたのかもしれないと思いました。そうなら、サンジャヤのところになぜ居たか分かります!

      ありがと!ありがと!
      そういうことか。。。

      サーリプッタは、すごく概念的思考に長けている人で、まるでニヤーヤ学派のような考え方ができる人でした。つまり空間的な思考に強かったのです。
      かれが説明するところは、いつも概念思考的な感じなのです。ことばを重視するからね。
      サンジャヤはその概念思考に、相手と自分の意見の違いを組み込んで四句に分けたので、そこが新しかったのです。つまり、第3句と第4句をつけ加えたところが新しかったし、見方全体が新しく変わったので、サーリプッタはついて行ったのです。
      「藁人形論法」は、自分は正しくて相手が間違っているという、そこしか見ていないので、ちょっとイマイチな論法です。

      ところが、ブッダは違った。

      ブッダは、空間的思考に時間的思考を組み合わせるという、新しい手法(因果関係)を使っていることが察知されたので、そっちに鞍替えしたのでしょう。

      わたしも即ブッダのところに行きますもん。

      そして、そこで完璧な理論を得た!人類史上、ここまで完成された理論はないと思います。。おがみたくなる。。

      ちなみに、ヴェーダーンタなどのヒンドゥー教系統の学派は、この四句分別を今でも使っています。ブッダがいちおー認めているので、トゥリーヤと称して、第四句を自分たちの理想にしています。
      それによって、彼らにエゴが出ないようになっているのです。ブッダは非仏教徒も救っていると思います。すごすぎ、ブッダ。

  2. Pocket より:

    エム先生、カエルさま

    > つまり、第3句と第4句をつけ加えたところが新しかったし、見方全体が新しく変わったので、サーリプッタはついて行ったのです。

    ブッダの師匠も非想非非想処まで行ってるのでサンジャヤ・ベーラッタプッタの発明ではないかもしれません。

    あとパーリ注釈書ではサーリプッタ長老の師匠であったサンジャヤとサンジャヤ・ベーラッタプッタは別人としてますね。

    そもそもインド人ってバーラドヴァージャとかサンジェイさんとか一杯いますもんね

    • mani(管理人エム) より:

      Pocketさま、近侍郎さま こんばんは。

      > ブッダの師匠も非想非非想処まで行ってるのでサンジャヤ・ベーラッタプッタの発明ではないかもしれません。

      ブッダの師匠はいないんじゃなかったっけ。無師独悟って言ってるし。

      サンジャヤの発明じゃなくても、それを批判的であろうとなかろうと、取り上げていること事態が「新しい目だ」ということなんです。

      当時は、進んだ考え方だったとも考えられます。
      般若経典は、菩薩の編み出した経典ではなく、声聞系統の人々の流れから生まれたものと見ています。
      だから、四句分別には行かない流れから生まれてきていると思ってるんです。