昔の写真です。携帯の持ってたときの待ち受け画面に使ってました。写真を撮ってる暇がなくなってきたので、昔の写真を引っ張り出してます。
しみじみ、龍樹のことを考えてます。ブッダから直接教えを受けたのは、そして、時を超えてるのは、たぶん彼一人だと思う。サーリプッタとか、アーナンダとか、マハーカッサパとか、カッチャーヤナとか、すごいお弟子さんはたくさんいただろう。。ウッパラバンナーもあげなくちゃな。
でも、時代を超えて、論法に気づいたのは龍樹一人だ。。
二六〇〇年も経っているのに、完璧な論法を持っていたなんて、ブッダに驚くけど、八〇〇年経って、それに気づいた龍樹にも驚く。それから、一〇〇〇年経って、道元が空の論法に気づいた。そこも驚き!
それから一四〇〇年も経って、論法を気づくわたしがいます。どんどん能力落ちるなあ。ただのひとだぜ、わたし。
でも、時代の蓄積があるので、そろそろわたし程度の人間でもわかる時代になった、ちゅうことかな、と思います。
時間がなくなってきたので、いそぎ、ブッダ論法をマスターして何とかせんと世界が持たないんとちゃうか。
このままでいくと、世界は滅亡すると思われます、かなりの確率で。
ブッダは「なんであれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」と教えてます。
昔の人は、いろんなことわざのようにしてブッダ論法を守ってきた。ブッダ論法は自然の中にこそ生きている。
「もったいない」、「お米は神さま」、「ものをそまつにしたらばちがあたる」
といったことばは、ブッダ論法から生まれてくる。論理だけではない倫理もある道。
自分たちも論法の中でこそ生かされ生きている、と自覚することが生きる道。
だから、自己言及の道を選んで歩んできて二六〇〇年。こうして、わたしたちは存続してきたのです。
経典には、何万才という年を数える時代もあるのです。
この先の年月を数えられるように論法に気づくべし。
コメント
mani先生 こんばんは。 表紙のお写真、気持ちがひきしまります。
「縁起」と「空」のかかわりを示す、世尊の直説っぽい経はないかなと思っておりましたところ、『ウダーナ』がそうかもと思いました。
初めの1菩提品1~3で、世尊は、縁起を観じ菩提へ至った体験を語り、終わりの8パータリ村品1~4で、菩提そのものを語ります。1と8の、菩提に関わるところを通してみると、「縁起」と「空」のかかわりもわかるように世尊は語っていると思われます。そこには「空」の字がなくても、世尊が『空の小経』で「空」に組み合わせて語ったことや、『ダンマパダ』『スッタニパータ』等にある、菩提についてのことばが示されていました。非想非非想の作為もないのを『空の小経』は「無相」としていますが、それは『ダンマパダ』92「解脱の境地は『空』にして『無相』」の「無相animitta」であり、絶句するそのあたりを、先人は「そのようtathā」といったり、「不可量amita」といったり、「摩訶mahā」といったり「般若波羅蜜」といったりしていると思いました。
『ウダーナヴァルガ』26:25の頌の註で訳者の先生は、この頌と、『ウダーナ』8:1と、龍樹の説くところ、の三者が似ていると指摘していますが、このことは、『ウダーナヴァルガ』を編み「一切の形成されたものは空である」12:7の頌を入れた有部の祖師方と、龍樹菩薩が、世尊の菩提の血脈を等しく継いでいることの証拠の一つと思われます。
龍樹の生誕に先立って初期般若経典を編んだ先輩の祖師方も血脈を等しく継ぎ、「空」の字の使う際にも世尊の経と体験に沿っていると思われます。が、新経典の中で「菩薩に阿羅漢は及ばない」とか、「種々の教相に立場をおいてはならない」とか、角が立つことを、世尊の御墨付きを頂くかたちをとって表し、部派とのプロレスを誘発したため、先輩からタッチされた龍樹菩薩がリングに登場することになったのかもと思いました。
長文になり失礼いたしました。
近侍郎さま こんばんは。
>角が立つことを、世尊の御墨付きを頂くかたちをとって表し、部派とのプロレスを誘発したため、先輩からタッチされた龍樹菩薩がリングに登場することになったのかもと思いました。
龍樹のように、論法をもつと、どうしても、けんかっ早くみられちゃいますねえ。
ブッダからひもといて善く検討してくれていますね。ありがたいことです。
般若経典を著した人々は、分派のような、行者のような存在だったのかなと思っています。
ブッダに従う者たちですよね。だけど、龍樹は「初の菩薩」だったのかも、と思ったりしてます。
ご検討ありがとうございます!
まちがえた!
>般若経典を著した人々は、分派のような、
般若経典を著した人々は、部派のような、
と書きたかったのでした。「争うな」という教えを守って争いを避ける人たちですね。
龍樹は、そうではなく、リングに上がっても、争わない工夫をしようとして論法をもった、ということじゃないかと私は思っているのです。
異なる論理の元にある哲学なんだよ、というわけですよね。
その哲学は、無我の哲学です。変化の哲学です。空の哲学です。唯識の哲学です。
mani先生 お忙しい中、御返事を下さり、ありがとうございます!
龍樹菩薩も読んだかもと思われる『道行般若経』を読んでみたところ、「空」の字が最初に登場する場面に、四句分別の論法があるように思われました。
須菩提が般若波羅蜜について語り始めるところで、
「入中心 不當念 是菩薩。 何以故 有心無心。」T224,425c26 とありました。
(これはおそらく「ことばで説き得ないものに達する」『法句経218』ことのようです。)
「有心無心」の説明を舎利弗が乞うと、須菩提は、
「心亦不有 亦不無 亦不能得 亦不能知處。」と答え、さらなる説明を乞うと須菩提は、
「亦不有有心 亦不無無心。」と答えています。
これは、先生のお話にある四句分別の、3→4のことではないかと思いました!
(見当外れでしたらお許し下さい。)
この須菩提の説明を聞き舎利弗は「善哉。不説空身慧、空身慧而説最第一」と称えます。
世尊は「空」を譬えに用いる際に、「無相」や「自我への固執を破る」等のキーワードを添えて説きますが、『道行般若経』にある「空」も、全てにおいて、キーワードが前後に寄り添っていました。その語数は「空」の四倍以上あり、キーワードには、おなじみの「不可得」「無所有」「不可計」「無所住」「不増不減」「無所生」「無所従来」「無所従去」等がありました。よってこの般若経の編者は、世尊の「空」の使い方に則っていると思いました。
また編者は、「空」を形相として追うなかれ(426 c05)とか、「空」に執着するなかれ(442b27)と警告していて、「空」を誤解する危険を排除しようとしています。もしかしたら、『心経』に「空即是色」があるのは、「空」の誤解を避ける意味もあるのかもしれないと思いました。
先生のお話にある論法が、「ことばで説き得ないもの」を指し示すということが、前よりわかってきた感じがします。『金剛般若経』や祖師方の語録は、みな同じ月を指しているような感じがしてきました。
ありがとうございます!
近侍郎さま すごっ!一気に核心に行きましたね。
よかったよぉ。。わたし一人だけが変なこと考えているんじゃないって分かって、ありがたいす。
近侍郎さまも変な人に混ぜてるわけではありませんので、こんなこと書いても許してくださいね。
『道行般若』にいったのですね。
>「亦不有有心 亦不無無心。」と答えています。
>これは、先生のお話にある四句分別の、3→4のことではないかと思いました!
そうです!そう思いますぅう。
『スッタニパータ』の「八偈品」第5経「最高のことの八偈経」は第4句への解説です。
ここを自ら最高の境地にして語っています。
つまり四句分別という論理と縁起という論理の言い換えを行っていると言えましょう。
近侍郎さま、つかんで来ましたね!ブラボーーー!!
mani先生 ありがとうございます!
「八偈品」第5経の章の初めに「『そのように語らないことによって、そのようであることを顕す』という語り方」という先生のご説明がありました(P.109)。
なるほど! 801・802・803が沁みます。
「そのように語らないことによって、そのようであることを顕す」とは、『金剛経』の要旨にかかわり、「そのようである」は、「tathā」にもかかわると思いました。
『道行般若』を読むと、ほかの経の句が並行して浮かんできました。
先に挙げた「入中心 不當念」は、『金剛経』の「応無所住而生其心」に似ているし、
「亦不有有心 亦不無無心」は、『仏説般舟三昧経』の「勿起想 有与無」「以解見空者 一切無想願」と似ている感じがします。
『道行般若』『金剛経』『般舟三昧経』のこれらの句は、ともに第5経の802「わずかの想も分別されることはありません」にかかわると思いました。世尊や祖師方は「そこ」をいろいろ譬えたり、非言語の方便を用いたりして、親切心全開で導こうとしていると思います。
「仏教というのは、いろんなところで自然とつながってきますね。」と先生は以前仰いました。それの跡を見つけるやり方を教えて頂き、月や牛に譬えられる其れが、以前より匂ってまいりました。「八偈品」を第1経から読み返します。習気のおおそうじをします。工夫し、確信に至るまで温めます。
尊答を謝し奉ります。先生、本当にありがとうございます!
近侍郎さま こんばんは。
>「空」を形相として追うなかれ(426 c05)
『道行般若』を見ているのですが、426c05は意訳したのでしょうか。
また、
>「空」に執着するなかれ(442b27)
も、意訳したのかな?もし訳したものがありましたら、教えていただけますか?
mani先生 段取りがわるくてまことに申し訳ありません。
意訳です。梶山雄一先生訳と対照して意訳いたしました。
漢文(T244)を左に記し、対応個所と小生の思う梶山訳を、右に記します。
(梶山訳は梵文やコンゼ訳をふまえているようです。)
>「空」を形相として追うなかれ(426c05)
道行品 『八千頌般若経Ⅰ』中公文庫 (P.19 12行から)
小見出し「無執着」
426c05 設空色行為行想 もし物質的存在は空であるというように追求する
ならば、彼は特徴を追求しているのです。
426c07 空識行為行想 思惟は空であるというように追求するならば、
彼は特徴を追求しているのです。
*「想」…支讖・支謙訳「想」、羅什訳「相」、梶山訳「特徴」、平川彰訳「形相」
*「空」…文脈からみて、「生・観・滅・空」が並列しているようです。
>「空」に執着するなかれ(442b27)
清浄品 『八千頌般若経Ⅰ』中公文庫 (P.232 1~3行目)
小見出し「執着」
442b26 舎利弗問須菩提 何所為著 これらの執着とはとういうものですか。
442b27 須菩提言 知色空是曰為著 物質的存在が空であるとするのは一つの執着である。
もう一か所、『道行般若経』に「空」の字がないけれど、対応する梶山訳に「空」の字がある個所がありました。『八千頌般若経Ⅰ』中公文庫 (P.237 4~7行目)
「もし『物質的現象は空である』というように追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追求しているのである。感覚・表象・意欲についてもそうであり、さらに、もし『思惟は空てある』というように追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追求するのである。」
ここは梶山訳では、P.236 13行目からの、須菩提と佛の対話の一部です。
『道行般若経』の対応個所は、442c28からの、須菩提と佛の対話です。
「世尊よ、このようにまで詳しく、菩薩大士の執着のありさまと執着のないありさまが解説されたのは、稀有なことです。」(P.237 15~16行)と須菩提は讃えています。私も感銘しつつ、『金剛経』の「応無所住而生其心」、鈴木大拙師の言われる「即非の論理」が並行句として思い出されました。
『道行般若経』には、後に「真如」と訳される前の「本無」とか、「自然」のキーワードが登場してきて、とても興味深く感じます。小生目下の注目句は曇無竭品の以下の二句です。
梶山先生訳と、もとの梵文がちがうみたいで、小生の自力訳のため訳は怪しいですが、
475a13 一切我所悉断本浄 一切の我所が悉く断たれ本は浄らかである。
般若波羅蜜亦本無如是 般若波羅蜜もかくのごとく本は無い。
475a17 怛薩阿竭般泥洹本等無有異 如来と涅槃は本より等しく、異ならない。
般若波羅蜜亦本等無有異 般若波羅蜜も本より等しく、異ならない。
a13に、七仏通誡偈の「自浄其意 是諸仏教」の響きあり、二辺中道のけしきでしょうか。
a17は、如来=涅槃=般若波羅蜜 と、まとめているから、ありがたいです。
ご著書『龍樹 あるように見えても空という』を入手し拝読始めました。
これまで小生の、こんがらがっていたことが、いろいろスッキリして、見通しがとてもよくなりそうです。じつにありがたいかぎりです。
スマナサーラ長老は、ウパ―シーヴァの問い経集1070にある、natthi、nissaaya等にかかわるご説明で、「有無の極論をさけた中正的な真理の発見」と仰っていることからみて、長老は、「有無二辺の中道」・「空住の定」を、般若波羅蜜として目立たせるのでなく、五力や八正道のまとまり(全てが揃うべきもの)のなかのこととして、とらえるべきという考えをお持ちなのだろうな、と思いました。
余計はことを追記し、お返事が遅れ、まことに失礼をいたしました。
いろいろと湧いてまいりました。深く感謝いたしております。
mani先生 一か所、説明不足がありました。
以下のコメントは、426c07 空識行為行想の「空」に対するものです。
>*「空」…文脈からみて、「生・観・滅・空」が並列しているようです。
近侍郎さま こんばんは。
>*「空」…文脈からみて、「生・観・滅・空」が並列しているようです。
なるほど!分かります!
四法印的思考を基本においていますね。
諸行無常・一切皆苦・涅槃寂静・一切皆空と設定してあると思えばいいのかな。
はじめの「生」は縁起を表し、「生じたものは滅する」と見ます。2つ目は人間存在を中心にした生き物の世界を語っており、「観」は「観察」の「観」で衆生がどのような境涯にあるのかということを見ていくものです。3番目の「滅」は、最初に「生」とあるので、そこから「滅」を語るというものです。一切皆空は、概念や識の世界を表していて、ここを空と観ることが重要だと言うわけですね。
つまり、無我の教えを述べているとみてもよいかと思います。
こうしてみると、やはり「空」といっても、「縁起」を中心に見ていく作業になって来ますね。初期の大乗という感じがあります。
近侍郎さま いろいろ詳しく教えてくださってありがとうございます。
近侍郎さま、般若経典の編纂と龍樹とでは、異なるところがあるように思います。pocketさまにも申しあげましたが、般若経典は声聞系統の教えによっていて、龍樹には依っていないような感じがあります。
前から気になっていたところで、般若経典の方は、縁起を中心とする教えで”正統的な仏教(?)”の路線を歩んでいる感じです。つまり、スマ長老の教える系統を良しとするような気がします。そのため四句分別には行かず、縁起から中道・仮設と来て、寂滅するという流れになっています。それを空と呼んでいます。
従来の学者の研究してきた路線です。
ところが、龍樹は『中論頌』でちがう道を歩んでブッダを理解したのです。それは外道から出発する道でした。四句分別を使って、空思想を前面に押し出しながら、無我を教える、という内容です。
結果的に、みな無上正等覚者に到達するはずなのですが、なかなか上手くは行きません。
ブッダが現代人よりすぐれていることは明白なのですが、それは、すぐれているという意識をもたないことにより、すぐれているのだ、という般若経典のメッセージを伝えている、のだろうと見ています。
『八千頌』は、大乗に分類されていても、特に、声聞の’正統’路線から行くもので、そのため、空という思想を前面に押し出さないタイプの般若経典だと思います。
いろいろ、これからまた、読んでみます。ひとまずわかっていることを書いてみました。いろいろおそれいります。ありがとうございました。
mani先生
八偈品をよく咀嚼し、般若経典とのかかわりを検討したいと思います。
まことにありがとうございました。
*
このように 読むことができれば
般若波羅蜜多 は あなたと “元” に ある
「本」 本当の姿 が 無い ということが
「 仏教 」 の “ 本 ”( おおもと ) です
“ 末 ” に 目をとられると、 “ 太く ” 見えてしまいます
475a13 一切我所悉断本浄
一切の我所が悉く断たれ本は浄らかである。
きよらか ではない (末に目をとられる)あなたが
どのように 「 経 」 を 読もうと
浄らか な こと は 目からはみ出る
般若波羅蜜亦本無如是
般若波羅蜜もかくのごとく本は無い。
「 如是 」 に ・・・ 般若波羅蜜 は 無いのです
475a17 怛薩阿竭般泥洹本等無有異
如来と涅槃は本より等しく、異ならない。
タターガタと (如来)寂滅 は 大本において 異ならない
般若波羅蜜亦本等無有異
般若波羅蜜も本より等しく、異ならない。
般若波羅蜜 も 又(もとより) 異ならない
分かっても 分からなくても( それは あなたの 読み方 )
あなた は 如何ともしがたい
・
春間さま 関連ご見解を頂きありがとうございます。
近侍郎さま、エム先生、
道行般若を読むのでしたら、辛嶋先生の以下二作が便利だと思います。
A Critical Edition of Lokakṣema’s Translation of the Aṣṭasāhasrikā Prajñāpāramitā
道行般若經詞典
Oさま ありがとうございます!
これまでこの著作へのアクセスの仕方がわからずにおりました。
早速、使い方の説明書きを学び、原文のニュアンスが分からない個所を調べられるようになりたいと思います。
まことにありがとうございました。
oさま おひさです。
ご紹介ありがとうございます。とても便利ですね。
『付法蔵因縁伝』の「龍樹」の個所ですが、『付法蔵因縁伝』の見方はあたっているんだなと思っています。
『大智度論』は、龍樹作と見ないと話が合わなくなりますね。龍樹は般若経典を超えて学んでいるんだなと思います。
だいぶ見えてきたかなという感じです。ご紹介の作品をもとに進みます。
ありがとうございました。
近侍郎さま、エム先生、
ご活用ください。
エム先生、
すいません。なんとなくしか思い当たりません。
最近、帰謬法だかが西洋思想に大きな影響を与えたみたい論考を呼んだんですが、これもなんだったか思い出せないくて。
ボケ老人の域に入っているのかもです。
はやく極楽に行きたいものです。
みなさま、良いお年を
oさま さっそくのご返信ありがとうございます。
>ボケ老人の域に入っているのかもです。
わたしもです。そこに自信あります。
>帰謬法だかが西洋思想に大きな影響を与えた
そうなんですね。
そう言えば、わたしが帰謬法で驚いたのは、どんなに結論があたりまえでも、答えをいわないことです。誤りに導くのが帰謬法なんだけど、そこから当然正しい答え(結論)が引き出されるだろうと思われるところで、ブッダも龍樹も沈黙してしまうのです。帰謬法であっても、相手に答えを委ねるんだなと思ったとき、ブッダの、龍樹の優しさが身にしみました。
「こんなことも分からないのか」とは口が裂けても言わないんだと知って、ありがたいと思った次第です。