安直に「雪が降ってます」と伝える意味しかない写真です。
ちょうど降っているところなんだけど、わかります?
茶色っぽいものを背景にすると白い雪がつぶつぶで見えないかしらと思って、選んでみました。
さて、「龍樹は般若経典を受けとっただろう」、というご意見を頂いたので、それについて一言わたしの意見を述べてみよう。
龍樹はブッダから直接阿含経典の形で受けとっているだろうと考えているので、どうしてそう思うか述べてみようと思います。
もちろん、般若経典も摩訶衍として受けとめてはいただろう。大乗経典だということは知っていたと思う。だけど、大乗だから受けとったのではなく、ブッダの説を受け継いでいるから受けとったのだと思う。そのことは見ればわかるから。
龍樹は、ブッダから論法を受けとった。それは般若経典よりも融通のきく幅広いものである。それを阿含経典から受けとったと思う。阿含経典(パーリ語仏典)を用いて言語論として受けとめただろう。だから、龍樹は大乗仏教の創始者の名を与えられたのではないのか、とおもっている。
龍樹は、論法を受けとったからこそ、般若経典も仏説であることを知ったのである。四悉檀説も論法から導くことができるし、他の大乗の経典がどうやって生まれてきたのか、手に取るようにわかったであろう。
龍樹が独自にブッダの法から導いたものに、「言失」がある。これを守っているだけで、仏法を外さず慈悲に満ちた生き方ができるものだと思っている。「争ってはならない」という教えは、智慧によって進まなければ成りたたない所がある。
煩悩を逆手にとって、煩悩をも混ぜながら、ありとあらゆる生き物の生き方を用いて行く道。しかし、論理は通す道。。ここに仏法の醍醐味がある。
仏教は思いの外伝わっている。15-17世紀にスヴァートマラーマが『ハタヨーガプラディーピカー』という書を著したのだが、それを見ていて、びっくり仰天した。
薪において生じた火は薪と共に消える。それと同様にナーダにおいて生じた心のはたらきはナーダと共に消える。(4.98)
「薪と火」の関係は、龍樹も『中論頌』で謳っているところである。ナーダは体内から聞こえる音である。スヴァートマラーマは、ハタヨーガの註釈者である。しかし、仏教をこれほど知っているとは誰も気づかないだろう。他にも『ダンマパダ』から取ったのではないかと思われる経典もあった。ヒンドゥー教だからと言って、知らないだろうなどとと思ってはいけない。彼らはアートマンを認めるのだけれど、仏教のお株を奪うかのように、素知らぬそぶりもできるのだ。
インドの伝統は「争ってはならない」というブッダのことばを守りながら、今日まで続いていると知るのである。
コメント
*
なぜか ここに コメントできるようになっている
では
> 茶色っぽいものを背景にすると白い雪がつぶつぶで見えないかしらと思って、選んでみました。
誰でも 白い雪 を 見ているけれど 、、、、
茶色 の意味 と 白い という意味 を
「 論 」 として
正しく ( 茶いろくなく ) 考察できる者 を
( 龍樹を含む ) 「 論者 」 と呼ぶ
・
>なぜか ここに コメントできるようになっている
あら、よかったわ!
どうなっているんでしょうね。
わたしは、最近のPCには全然ついていけません。スマホもダメだし、PCもだめだし。紙の時代が良かったわ。
やっぱりわかんにゃい、、、春間さんの言ってること。。。鹿ツノダイナマイトをお見舞いしてやる!!
(歌爆弾を変更しました)水曜日のカンパネラで、「たまのもまえ」だ!
それから、私立パラの丸高校の「自力で万有引力発見するやつ」でへー子と未来が自力で悟ってたよ!!
わーーすごいーーー♪
あと、なんで5人の、なんだっけ?最初に話した人?もと従者?は話伝わらなかったの?(そんなこと
春間さん言ってたような気がするけど、なんでそう思うの?経典に書いてあったの?
24.12.11 11、20直証しながら進む道(菩薩道) を 歩むとは ?
私が観ている 道
*
>>阿含経典をまず受け取って、それから般若経典も仏説として受け取ったのだと。
> わたしも、同じですよ。般若経典も仏説として受けとったと思います。
( 仏典 は )金言 である “ということ” です
すべての 仏典( 「 経 」 ) は そのような前提で残されています
> 阿含経典(パーリ語仏典)を用いて言語論として受けとめただろう。
阿含経典(パーリ語仏典) を 用いた のではなく
( それ等 を 含む アーリヤ系言語 ) 梵語経典 を 用いた
サンスクリット は あくまでも 共通言語 であった ゆえ
教えを説く時には ( 生まれた地 で培われた )
自らの 言語感覚 で 語るように ( 厳しく ) 説き明かした
( 聞く人に わからなければ 説く意味はない )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E8%AA%9E
マガダ国 に於いてなら マガダ語 で 語る という意味
>> >龍樹はブッダから直接阿含経典の形で受けとっている
“ ブッダから直説 ” ということ が “ 大事 ” です
直接 間接 の “ 本当 の ”意味 を 知らなければ
ブッダ に ( 諸仏に ) 出会うことはできない
「直接」 を 「 じきせつ 」 と 読むこと が 大事
>> >大乗仏教の創始者の名を与えられた
創始者 は あなたであらなければ ならない
( あなたが ) 教育の名で 受取った こと からの
“ 創始 ” なのだから
故人(諸仏・諸菩薩) の あゆむ道 は 一つ であるけれど
( 同「行」二人 ) ということ を 前提として
あなたが歩む道 は あなたの足(あなたの心) が あゆむ道
>> >大乗だから受けとったのではなく、ブッダの説を受け継いでいるから受けとった
>> >「争ってはならない」という教えは、智慧によって進まなければ成りたたない所がある。
「 智慧 」 を もってして 「 争う 」 という意味 を 「 慧 」 る
キリスト教 での
( “俗に” 使われる ) “ 神の代弁者 ” とは 全く意味が違う
>> けど、ブッダゴーサみたいにはならなかったと思いますね。かれはブッダになる道しか歩めない人だったと思います。自覚的にブッダを選んだのは、彼が最初かもしれませんね。ブッダの域には行けてるしね。
故人(諸仏・諸菩薩) の あゆむ道 を
歩む者 を ( あゆむ道 と して )
ブッダ と 受けとめ ( “ その道 ” を )崇める
「 法を見る者はわたしを見る 」
( ブッダは 真理の道 そのもの )
>>> インドの伝統は「争ってはならない」というブッダのことばを守りながら、今日まで続いていると知るのである。
ここに 延べて 開けば
「弥陀の五劫思惟の願 一人がため 」
と 教える(説く)人 と 直接 出会うことができ
誰の伝統 か わかる筈
閉じられている !
誰にでもわかる 「 金言 」
・
おはようございます。
ん?今回の日記には反論するところがないぞ、と思い不思議に思いました。
まず三蔵に通暁した(ココ重要!)、その次に大乗経典を老比丘から少し、大龍菩薩からたくさん受け取りましたよね。
問題は「『中論』が大乗から来ているかどうか」という問題設定から来ているのではないかと思います。
私は、先生が考えられているほど、『中論』は阿含経典からの影響が甚大なのではない。むしろ大乗経典の「論法」も受け取っているのでは?と言いたかったのです。
>ん?今回の日記には反論するところがないぞ、と思い不思議に思いました。
おお、予想だにしないコメントでびっくりです。
>『中論』は阿含経典からの影響が甚大なのではない。むしろ大乗経典の「論法」も受け取っているのでは?と言いたかったのです。
ブッダは、論理学者です、っと、思います。龍樹より前に、大乗に論法なんてあったっけ!?
>龍樹より前に、大乗に論法なんてあったっけ!?
先生はないと思ってらっしゃるんだな、というのは理解しました(´・ω・`)
寂しいですね(´・ω・`)
>先生はないと思ってらっしゃるんだな、というのは理解しました(´・ω・`)
般若波羅蜜は彼岸への道。道中、観音菩薩とご一緒する道。
密教は即身成仏する道。大日如来や盧舎那仏が加持してくれていたる道。
>寂しいですね(´・ω・`)
成仏の道は、寂しい道。。ブッダへの礼讃を排除していく道。
仏に会ったら仏をコロセ。。直証の道。
コロして生きる方法はありやなしや。
*
> > 龍樹より前に、大乗に論法なんてあったっけ!?
> 先生はないと思ってらっしゃるんだな、というのは理解しました
先生( 石飛 道子 師 )は 思っている のではなく
知っている のです
(そして) 知ったこと を 伝えようとしているのです
( 伝わらない のは 師の非 でしょうか ? )
( 聞き取れない のは 誰の非 でしょうか ? )
このこと( 以下のこと ) は あらゆる 思考 に 通じています
( “あらゆる” ) 真理 は ブッダ の 論法 に 発します
それ(真理・真の論法)がなければ
( 釈迦 )牟尼 は ブッダ とは 呼ばれません
真理( 真の論法 ) は “ ブッダ が 知ったことにより ”
私の元( 私たち )に 届けられたのです
「 ブッダの論法 」 は 龍樹 に 発しているのです
「 八宗の祖 」 という 意味 を
軽く 見ては(聞いていては)いけません
( あなたの論法 は 親鸞に達していますか ? )
「 本地垂迹 」 ということ を 聞き流していてはいけません
神道(本地) に限らず わたし(達)の 思考方法 は
龍樹の論法 によって ( 「 縁起 」 として ) 支えられます
ここに述べていること の 正否 でさえ
龍樹 が いなければ ( ブッダ以外には)
“判断” できない のです
ただし 龍樹 を 知らなければ
龍樹 の 打ち建てた 論法 を 知ることはできません
あなたは 龍樹を知っていますか ?
( あなたの 「 智慧 」 ・ 論法 は 確かなものですか ? )
あなた が 伝えていること は 「 真理 」 ですか ?
・
> それ(真理・真の論法)がなければ
( 釈迦 )牟尼 は ブッダ とは 呼ばれません
なるほど。確かに。真の論法がなければ、聖者(牟尼)はブッダ(目覚めた者)とは呼ばれない。。
不完全性定理に第一と第二があるようなものですね。
聖者であっても、ブッダではない。阿羅漢止まりと言われてしまうことになる。るわけか。。第二定理は、理論どおしの対立ということになるわけか。
ゲーデルも第一の定理だけではまだ足りない。
> あなた が 伝えていること は 「 真理 」 ですか ?
オオカミ少年というお話があります。嘘ばかりついている少年が、ホントとのことを言ったとき、誰にも信用してもらえない、というお話です。
最近思うことは、世の中ってそんなものかもしれないなあと。
嘘ほど信じたくなるように出来ている、ってことで、どうでしょうか?
だから、ブッダが出るんでしょう。。と思います。
「世の人々はみなアーラヤを楽しんでいる。わたしの教えは誰も聞かないだろう」と思った”そのこと”は正しい、ようにみえます。ですが、教えを聞けばわかる人もいるでしょう、と頼んだ梵天は、人間を熟知しています。
こんなところにも縁起が成り立っているなんて!!
「”如来が出ても出なくても”そう言える教えは如来を超えてます。
ブッダは「真理」を説いた。だから、皆が賛成したくなくても賛成せざるをえない、のです。
*
> 聖者であっても、ブッダではない。阿羅漢止まりと言われてしまうことになる。
阿羅漢 を 置かなければ ならない “ さみしさ ”
その “ さみしさ ” に
釈迦牟尼 の やさしさ( 慈悲 ・ 哀愍 ) が そそがれる
わたしは “ じっと ” てをあわせる
・
別に寂しくないんじゃないかな、一個前の地球の出来事を繰り返しているだけだし。
一個前とその又一個前と延々繰り返して、いっぱいいっぱいその地球のブッダが生まれて、
一個前のブッダは悟ってから地球一個分生きたわけだから、すごい色々なポジションで経験豊富に
なって、今回のブッダからしたら超すごいパイセンだけど、それは当時の仏教教団以外の至る所に
いるのだ!!
*
> 一個前の地球の出来事を繰り返しているだけ
この地球 は 一つしかありません
この 「 生 」(あなたの「 生 」)は 一つだけです
( いくら繰り返そうと、“いわゆる過去” 「 生 」 を 忘れようと )
繰り返す 一つの生 は この 「 生 」であり
立った ヒト つ の “ 人の生 ” です
この地球 が あなた であり あなたの「 生 」 です
あなた とは あなたの出来事 であり
“ 考えている あなた ” ではない のです
出来事 とは 「 法 」 と 言い換えられます
この 「 法 」 は (考えている)あなた が
存在しようと しまいと 確立しています
「 法 」 が 確立していようと いまいと
あなたは “ 考えているあなた から 離れがたい ”
離れがたきこと を 言い換えると
「 難行 」 と(も) 呼びます
信じること ( 「 信仰 」 を持つ ) ことを
「 易行 」 とも 呼びますが
「 難行 」 を 離れがたいとき
易行 は 難行 と “ 思われています ”
呼んでも 深き悩みの ソコ に 於いては
ただ 言葉のみ コダ魔 しています
行い( 「 行 」 ) とは
一つの出来事 なのに
( “過ぎない” のに “過ぎていく” 過去を見つめる 、、、、 )
どこまで 歩みをすすめ ようと あなたの足 の下 には
あなたのたった 一つの 出来事 しか ありません
・
ゆゆゆゆってることがわかんにゃい。
「法」はずっとあって、その法にそって「考え」は立ち上がってくるんじゃないかな?
先生、こんにちは!今年、猫のほうのぎんたはニャントロ星に帰還してしまいました。
そのあと父も亡くなりまして、手続きやら色々で今は実家の断捨離頑張り中です。
なので、文章は以前にも増して雑です。
ぎんたさま こんばんは。おひさ!
お父さまがお亡くなりになってさびしいですね。
お悔やみ申しあげます。
ネコちゃんもニャントロ星にかえられたとか。
これもさびしい。
うちもサム(ねこ)が元気なくなって病院につれてったら薬をもらって元気になりました。よかったけどうるさいす。
それにしても、ドラえもんの声のおおやまのぶよさんも亡くなってさびしいかぎり。スペイン版のドラえもんも同じ声だったので、びっくり。
スペイン語だった。世界中にこの声はあるんだな、って思ったしだいです。
元気出してね。、
お心遣いありがとうございます。
父の葬儀では私と弟だけ泣きませんでした。(それぞれの配偶者も)
ぎんたは亡くなる5日前から毎日泣いてましたが、亡くなってからは泣いてないです。
ぎんたさま、泣かないでえらいです。
うちの父が亡くなってから、すぐ下の妹が、父はバングラデシュにいる末の妹のところに行ったといってました。
家の前の大きな木にとまって、末の妹が家から出てくるのを見て、安心して帰った(?)ようだと言ってました。
すぐ下の妹は霊感があるみたいでいろんなことを言います。後で確かめたら、末の妹の家の前には大きな木があるそうです。。
しゅごいーー、私は怖がりなので、色々見えたりしたら大変です。霊感無くて良かった。唐突ですが、
先日(12月のどこかで)家族に言われたこと。。。
「悟りには定義がないので、永遠に悟りの途中。だからずっと続けられて仏教は今に至る。全員が
悟れたら仏教は終わる。悟りにはゴールが無いからいつまでもやらせることができる。ワクチンは
8割打てば集団免疫が得られる→そうならなくても重症化は防げる→入院防げる→死亡を防げると
言っていたけれど、仏教は集団免疫という効果すら提示してない(悟った場合の)。
みんなが悟れれば仏教終了。悟りのメソッドがあったら仏教いらね。そうだな、(今気付いた風に)
お釈迦様は【悟れ】とは一言も言ってないのでは?《お釈迦様が凄いのは悟っているからだ!》
という後の人の後付けで。まあ、仏教はいらないと思うけれど無くす必要はないし、無くせない
だろう。宗教としてはなくてもいいけれど、職業としてはあったほうがいいんじゃない?葬式の
忙しさが遺族には必要だから。(特に最初の一週間)でも職業だから税金は払ったほうがいい。
税金免除だから、変なヤツが寄ってくるので。
とのことです。。。で、ぎんたは「ちょっと待って!!」とメモを取りながらききました。ちょっと
キレ気味にいってる人のことは大体正論だと思っているので、この説も採用なんですが(なんでこんな
に自信たっぷりなんだろうと思いつつ)ちょっと先生に聞いてみようと思いました。
お釈迦様は「悟れ」と言ったんですか?私は「悟り」は無理なので(猫だから)「設定」を考える
方向で行くんですが。父の葬儀の時にお寺さんに聞いたら「自分は悟ってません」と言ってました。
もちろんお返事は急ぎません。よろしくお願いいたします。
ぎんたさま 正論をありがとうございますだ。
>お釈迦様は「悟れ」と言ったんですか?
言ったか言わないか、で言うと、お釈迦さまは「悟れ」とは言ってません。前から不思議だったんですよ。世間の人が言うみたいに、「修行せよ」とか「悟れ」とか、絶対(ずぇったい)言ってない、んです。その場面に来るとお釈迦さまは沈黙しちゃう。
算術家のモッガラーナという人が、アレコレお釈迦さまに尋ねるんです。それに一々丁寧に答えてるんですが、その中で、こんな風に答えてます。
「究極の目標である涅槃には到達するものもいるし、しないものもいる」って。
「え?なんで?」って思いますよね。モッガラーナも「なんで?」って、聞いたんです。
そしたら、こんな喩えを出しました。「ラージャガハに行く道を聞かれて教えてあげたとしよう。ところが、その人は反対の方角に行ってしまいます。他の人にも聞かれて、また教えます。今度は、その人は、その通りの道を行ってラージャガハにたどりついたとします。どういうわけで一人はラージャガハにいけて、もう一人はダメだったのでしょうか」
「え??そんなこと、どうすりゃいいの、わたしは道を教えるだけなのですから」ってモッガラーナが答えたら、「わたしもだよ、道を教えるだけなのだよ」って、答えたというオチになってます。
>まあ、仏教はいらないと思うけれど無くす必要はないし、無くせないだろう。
そうだよね。でも、ブッダの教え(を仏教とすると、それ)はなんとなく無くなってきてるかも、って思ったりする今日この頃。
「死ぬ」っていうことがあるかぎり、死の儀礼はなくならないのかな。
テーラワーダ仏教では、お坊さんは、生きてる人に向かって説法するけど、チベットでは死んだ人に向かって説法する。大乗仏教の国日本では、死んだ人と生きてる人に向かって説法するなぁ、って思ってます。
先生、ありがとうございます~。
そうなんですねぇ、ラージャガハに辿り着かなかった人は、次回の地球の時に辿り着く順番
なんじゃないかと思います。あと、生きてる人に説法すれば中の人は死んだ人なのでオッケー
だと思います。同じ説法を聞いても中の人が違うから解釈が違ってしまうんだと思います。
あと、家族には「私な仏教」は「仏教じゃねーじゃん!」ということらしいです。ぎんた
ネーミングセンスがないから仮に仏教としています。
チベットでも日本と同じで死んだ人と生きてる人に向かって説法します。
派によっては生きてる人に向かってだけ説法するじゃなかったかな。
いずれにしろ、生きてる人に向かってだけ説法する方が主です。
ぎんたさま こんばんはっち。
>ラージャガハに辿り着かなかった人は、次回の地球の時に辿り着く順番
やさしいなあ、ぎんたさま。。そうかもね。
>あと、家族には「私な仏教」は「仏教じゃねーじゃん!」ということらしいです。
輪廻を信じていれば、仏教になってくるなあ、って、わたしは何となく思ってます。
そういう意味では、ヒンドゥー教も仏教かも、って気がしてきます。
輪廻を信じていれば、どうしても「私な仏教」になるし、「私な仏教」であれば、「仏教」って言っても間違いじゃなかと、って思ってます。
自由に考えられるなら、仏教かもなあ、って思うのよ。ラージャガハに行くも行かないも、自由なら、ストレスないです。ストレス(苦)なければ、仏教の理想の姿、ってことになるなあ、って思ってます。
*
> ストレス(苦)なければ、仏教の理想の姿
ストレスなければ、 ストレス という 概念もなく
仏教の理想 も なく、理想の姿もない
仏教 それ自体 も ない *
( 仏教 は それ自体 が ないことを 教えの基本としている )
自由に考えられない から 仏教 が ある *
↑ ある 限りには 仏教 は ない
「 仏教 」 があれば 自由に考えられる
( 自由に考えられる ということ が
「 平等 」 に 発している )
「 平等 」 がない から 不「 自由 」 である
この 論述 に 矛盾を見つけるのであれば
その矛盾 は 仏教にない
( そもそも この論述 が わからなければ
論述 の 存在“価値” は ない )
ないもの を 探す( 探し出す ) 矛盾
矛盾がないから そこにある矛盾 に 違和感を覚える
( 矛盾がどこにあるかを教える 『中論頌』 )
・
わ、わからにゃい、、、
老師の言葉は猫にはわかんにゃいさだめなの。。。