去年も慌ててローズマリーを救ったけど、今年も、先日同じ羽目になりました。はじめて雪の積もった日に慌てて、鉢植えにして台所においたら、去年より育ってる!!!
今年の春には半分枯れかけてました。庭に戻してそれっきりだったけど、いつの間に元気になったんだ!!!てっきり、もう駄目かと思ってました。枯れ木のようになってたもんで。わからんもんだなあ、自然界は。
諦めてはいけない、ってメッセージかも。。それにしても。。
私が不思議なのは、りゅうじゅの『中論頌』です。正直に言えば、こんなにわけがわからんもんはないと思うのに、
全世界的に、不滅の様相で、りゅうじゅさまは人気なんですじゃ。
なんじゃ、これ? ですよねえ。
たぶん誰もわかってないと思う。。わかってる人は、ブッダだけ。自分で法を教えたからね。
でもでも、なんかあるぞ、って、みんながみんな、思ってるのさ。
わたしもだよ、やっぱ、なんか、あるんだわ。。ブッダの法の真髄であるような何かがちゃんとりゅうじゅさまにはそなわってて、だから、ブッダを外さない。。ブッダを外さず、適切に処理する、
処理?ブッダを処理するの? そう、必要ならばそうするのが、菩薩のりゅうじゅ。
『入楞伽経』も言っている。
「南天竺国に龍樹菩薩という比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法をときて、歓喜地を証して、安楽に往生すべし」(『入楞伽経』)
これは、正しい、って、親鸞聖人じゃなくても、私にも!わかる。
だけど、誰も、りゅうじゅさまの論法のことは言わない。学界が沈黙してる。
ニヤーヤ学派は、その真意を知っているんだけど、あえて、それを言わずに過ごしている。
りゅうじゅが自分から「ニヤーヤはブッダの法をパクった」などと言うはずないから、知らん顔している。実質的に、ブッダ・りゅうじゅ説を受け容れながら、アートマンのところだけ「あり」に直して使っている。
本当は、ニヤーヤ学派や他の六派哲学と言われる学派はみんな知っているんだ。自分たちのしていることを。自分たちの煩悩がただそれ(=無我)を許さないだけだってことを。
その辺は、私もお見通しなんだよ。。ただ、ニヤーヤ学派の気持もわかる。。悲しい性だね。
りゅうじゅをやると、こんな気分になる
たしかに、しあわせとはいえない、けど、あきらかに、不幸ではない。。こんな中道、ってあるんだよね。
コメント
エム先生こんばんは(今夜の10時半前なので)。
私の最近の傾向、気になる所といたしましては、天台智顗の師の慧思の師の慧文の師の龍樹ですとか。しかしながら中論を中国語に訳したクマーラジーヴァですとかのことを思います。それで私の興味といたしましては、日本仏教の空海さんの孫弟子の聖宝さんの龍樹解釈ですとか。実にいい加減に書いていますが、空海さんの中論解釈も鳩摩羅什経由ですよね、という。。
東アジアの大乗仏教が、鳩摩羅什の仕事に依存しているように見えてしまうんですよね。実にイイカゲンな話なので御座いました。ご自愛くださいませ。
エビ天サンバさま こんばんは。
>東アジアの大乗仏教が、鳩摩羅什の仕事に依存しているように見えてしまうんですよね。
そうだと思います。頼富氏の『『大日経』入門』だったか、金岡秀友氏の『密教の哲学』の中だったか、読んでいたら、論師たちは龍樹の論法で打ち負かされた、みたいなことが書いてあって、日本の人はみんなそんな風に理解してるんだなあと思いました(探したけど見つかりません)。鳩摩羅什とか青目釈の『中論』によっているのかな、と思います。
「争ってはならない」と言ったブッダの真意を正しくつかんだ人が龍樹だと思っています。ブッダも含めて、自分の見解が正しいことは証明不可能(原理的に)だから、争ってはならない、と言ったということを、つかんだのは龍樹や外道の人たちだけだった、と思っています。そこのところで、ブッダがヴィシュヌのアヴァターラ(化身)になってしまうということなんだけど、決して肯定的に評価した化身ではないです。外道の人たち(ヒンドゥー教など他のすべての宗教)はしぶしぶでも受け入れざるをえなかった、というところに人類の悲哀を感じてます。。
ふくざつです、だけど、現代の日本人はアニメなどを通じて、知らずに世界中にその考え方を広めていっているのかもしれない、とちょっと思ったりもする今日この頃です。
エム先生、こんばんは。
>ふくざつです、だけど、現代の日本人はアニメなどを通じて、知らずに世界中にその考え方を広めていっているのかもしれない、とちょっと思ったりもする今日この頃です。
なるほど、言われて見ればそうかもしれないですね。
羅什は文学的にはまあと思いますが、翻訳者としては如何なものか?と思ってしまいます。先生の独壇場です。宜しくお願い致します。( ´艸`)
えび天サンバさま 少し遡って、ここにコメントを。
>空海さんの中論解釈も鳩摩羅什経由ですよね、という。。
そうなんですか。
私は、分からないので全面的にえび天サンバさまに従ってしまいますが、何か仏教って、ことばじゃない部分がありますよね。
空海さんはブッダの教えをつかんだ、という感触があります。
親鸞聖人も、道元禅師も、ブッダの教えをつかんだなあ、と思います。
道元が龍樹を評価しているのを見て、「やっぱり そうなんだ」と思います。どうしてそう思うかはわかりません。
私の中では『方便心論』の訳出に携わった吉迦夜はすごい人です。仏法を極めた人の一人だと思ってます。鳩摩羅什の訳さなかったところを、鳩摩羅什に足すようにして訳出したと思っているのです。
こうして、仏法に魅せられる人々をこれからも生み出し続けるんだろうな、って思ってます。
エム先生、こんばんは。コメント返信ありがとうございます。
>私の中では『方便心論』の訳出に携わった吉迦夜はすごい人です。仏法を極めた人の一人だと思ってます。鳩摩羅什の訳さなかったところを、鳩摩羅什に足すようにして訳出したと思っているのです。
鳩摩羅什は勿論、東アジアの大乗仏教の立役者ですので、私が言ったことはただの個人的趣味に属する事柄ですが、彼はどちらかと言えば現代ジャーナリスト的感性で、やはり自分の自我を礼賛することを忘れていないように見えます。仏教のことを深く修めてはいるとは思いますが、壁も感じられます。ですので、エム先生が上記のように言われることは、深く頷けます。いつもありがとうございます。
エビ天サンバさま、こんばんは。
>彼はどちらかと言えば現代ジャーナリスト的感性で、やはり自分の自我を礼賛することを忘れていないように見えます。
鋭いですねえ。そうかもしれません。
どこか、自分を作って出してるところがあるような感じがします。
ブッダはないですよね。
だから、論理にはいけなかったのかな、鳩摩羅什は。
最近気づいたことですが、論理というのは、原則を決めたらそれを貫くことなんだな、ということです。
ブッダは、あるところで、四句分別を使うということを決めました。そしたら、縁起と合わないのに使うと決めて使っているんだけど、そのとき四句分別の原則を徹底して守ってるんですよね。我はないです。。そうか、だから、無我なのか。。
そして、無我なのに、自分の言いたいことは言い切っている、という感触があります。
また、「自己に帰依することをなしとげた」とも語りました。
鳩摩羅什は、自我をもっていたので、無我の思想を説くブッダの元で輝いた、ということかと。。うまく説明できないけど。
えび天サンバさま、エム先生、こんばんわ
> 羅什は文学的にはまあと思いますが、翻訳者としては如何なものか?と思ってしまいます。
しかし、三論宗/四論宗はちゃんと龍樹の(全部ではないにせよ)『中論』を受け取っていますよね。
浄土教の曇鸞などもちゃんと因縁生起による輪廻を理解していましたし、親鸞聖人も教行信証でズバリそこを引用しています。
「空であり無自性である、しかも輪廻する」ということだけは伝わっているので、鳩摩羅什はしっかり彼の仕事をやったと思います。
玄奘三蔵では成しえなかっただろうと。(玄奘三蔵の翻訳は難しいですから)
そして、そして、『大智度論』と『十住ビバシャ論』を後世に伝えたこと……これが素晴らしい!と私は思うのでした。。。
pocketさま、えび天サンバさま こんばんは。
>「空であり無自性である、しかも輪廻する」ということだけは伝わっているので、鳩摩羅什はしっかり彼の仕事をやったと思います。
たしかに!
鳩摩羅什がいなければ、ここまで仏教が広まったかどうかは分かりません。
『大智度論』がここまで読まれたのかどうか、何とも言えないと思います。
特に、日本人はそのまま読んでわかるものとして鳩摩羅什訳に親しんで来ました。
どんな訳も、訳されたというだけで尊いと思わなければなりませんね。
龍樹も、こうして何度も訳されていくのでしょうね。翻訳者の生きているその時代の中から、龍樹とコラボした形で、新しい解釈がやって来る、ということかもしれないなあと思います。
私自身は、「自分が生きた時代に仏教が廃れていたとは言わせまい」という気持で訳しています。うまく訳せているのかどうかはわからないけど、この時代にあわせた訳を示したいと思ってやってます。
pocketさま、おはようございます。
> 「空であり無自性である、しかも輪廻する」ということだけは伝わっているので、鳩摩羅什はしっかり彼の仕事をやったと思います。
なるほど。そのように評価すればそのように評価できますね。私は、複雑な気持ちがするのですが、思ったことを率直に書いてみようと思います。
伝わらなかった部分は何なのか、に着目すると、いろんな不備も、じつは!見えてきます。
鳩摩羅什を評価して「達意の訳」であるという学者もいます。そして、『大智度論』は鳩摩羅什が書いたということになってしまい、部分訳が中国撰述の中に入ってたりします(中央公論社)。そしてさらに、加藤純章氏は、『大智度論』は『百論』を引用した、と述べています。
その説は、決定的であるかのように書かれていますが、私の調べたところでは、『大智度論』は龍樹が書いたと考えられ、鳩摩羅什は、訳が通じなかったので『百論』を訳し直しているのです。(『古代インド論理学の研究』pp.336-337)
鳩摩羅什には、アーリヤデーヴァの言ってることがわからなかったのだと思います。というのは、アーリヤデーヴァは、龍樹の説く論理的要素を強く受け継いでいますが、そこは鳩摩羅什にはちんぷんかんぷんのところだと思います。だから、まだ理解可能な『大智度論』訳にあわせて『百論』を微妙に変えてしまったのではないかと思います。まさか、後の時代に、加藤氏が、そんな説を出すとは夢にも思わず。
『大智度論』は龍樹が書いたと思って読むと、『大智度論』の論理性である、意図したであろう事柄がするする入ってきます。哲学的で論理的な内容です。
こうして、『大智度論』の読み方が、その時から、私の中で変わりました。ものすごく論理的な書なんだという認識です。簡単に書いてるけど、驚くほど内容は深いです。
だから、サンスクリットの原語が思い浮かぶ時もあります。もはや証明できないことかもしれないけど、龍樹の『方便心論』から、私が学んだことです。
エム先生、こんばんわ
> 鳩摩羅什は、訳が通じなかったので『百論』を訳し直しているのです。(『古代インド論理学の研究』pp.336-337)
じっさい論法の書は難しいですものね。現代日本語の翻訳者もどこまでわかっているのか知らと思いながら和訳を読んでいる自分に気づきます。
鳩摩羅什はこのように「分かりやすくする」ことに長けていたので『大智度論』は鳩摩羅什作のように見えるのでしょう。しかし、鳩摩羅什があそこまでの傑作を仕上げたのなら、もう中観派にクマーラジーヴァという学匠を追加すべき事態ですね。
しかし、それだと四悉壇説の根拠も分からなくなるし、少なくともインドには二万五千頌系般若経への古注釈が存在したと考えないと鳩摩羅什をあまりに神格化することになってしまうのではと思います。そもそも論法の苦手な鳩摩羅什が、わざわざアーリヤデーヴァを引用する意味とは何か、真剣に考えると、鳩摩羅什作はかなり怪しくなってきはしないか?とも。
仏教学はお坊さんである学者が、薄い信仰心を持ちつつ、我欲、名誉欲でどんな学説でも出してしまう世界なので、定説もいい加減だったりするのが嫌ですね。
『大智度論』が鳩摩羅什作かどうかよりも、『大智度論』をいったん龍樹作と受け取ってみて、どこが卓越しているのか、どこが怪しいのか、そういう「ガイドブック」的なものもないのが作れたら、それだけでその人は百年は参照される大学者になれるでしょうね。
pocketさま、こんばんは。
>そもそも論法の苦手な鳩摩羅什が、わざわざアーリヤデーヴァを引用する意味とは何か、真剣に考えると、鳩摩羅什作はかなり怪しくなってきはしないか?とも。
当時の国家事業プロジェクトの事情を考えると、鳩摩羅什には少し同情しちゃうかも。
鳩摩羅什は「蓁語(中国語)」は理解していたけれど、まだ漢文の文学的素養には達していなかったと印順氏は伝えています。中国人に伝えるためのものであるから、これらの欠陥は致命的であるようにも見えたようですが、僧叡等の筆記者はどうしようもなかったと述べています。
だいたい、苦労なく読めて意味が理解できるなんて、それだけでもうオカシイとしなければならないような気がします。自分たちには煩悩があるんだということを忘れているのじゃないだろうか、と思います。
印順氏は、こう述べています。「このように限界はあったが、僧叡等の筆記者には、これが「蓁語」の訳本であり、中国人のために訳されたものであることを忘れることはなかった。」と。(『『大智度論』の作者とその翻訳』p.7)
そうなんだなあとも思います。中国人のために訳したのだから、それで原文は残されなかったのでしょうね。
鳩摩羅什は翻訳事業の中に加えられて「幸せではなかった」ように、私には見えます。
私の理解するところでは、とうとうやってけなくなって『十二門論』の訳出の時、鳩摩羅什はサーディヤサマをサンシャヤサマに読んでいるのです。彼がなした最低の改変だったのかもしれませんが、そこで龍樹は完全に失われました。一個所か二個所です。
『方便心論』は、もはや鳩摩羅什には訳せなかったんだなあと思います。吉迦夜は、事情が丸わかりだったけど、余計な事は言わずに、自分の出来ることをしてふらりと消えたのです。だから、吉迦夜は常に鳩摩羅什と向き合っているような気がします。
>少なくともインドには二万五千頌系般若経への古注釈が存在したと考えないと鳩摩羅什をあまりに神格化することになってしまうのではと思います。
pocketさま、なんとなく、どうなんだろうと思ったりしています。その昔、なんか般若経典の註釈書(?)でもないのかしらと思ったことがあったのですが、伝わってませんよね。
龍樹は、気にしてなさそうですね。
龍樹も、般若経典から受け継いで『中論頌』を書いたという風にいう学者の人もいますが、龍樹はブッダから直接得ていますね。
最近ようやく龍樹が般若経典をどうとらえていたのか少し見えてきました。まだまだだなと思ってます。
>最近ようやく龍樹が般若経典をどうとらえていたのか少し見えてきました。
私は伝記の通りだと思います。
阿含経典をまず受け取って、それから般若経典も仏説として受け取ったのだと。
そうでなければ、龍樹はブッダゴーサやダンマパーラのようになったのであって、決して大乗菩薩のナーガールジュナにはならなかったでしょう。
pocketさま こんばんは。
>阿含経典をまず受け取って、それから般若経典も仏説として受け取ったのだと。
わたしも、同じですよ。般若経典も仏説として受けとったと思います。
だけど、ブッダゴーサみたいにはならなかったと思いますね。かれはブッダになる道しか歩めない人だったと思います。自覚的にブッダを選んだのは、彼が最初かもしれませんね。ブッダの域には行けてるしね。
エム先生、おはようございます
> 般若経典から受け継いで『中論頌』を書いたという風にいう学者の人もいますが
> 般若経典も仏説として受けとったと思います。
> 自覚的にブッダを選んだのは、彼が最初かもしれませんね。
先生の言葉にいくつか違和感を感じていたのですが、やっと言語化できそうです。
私はやはり龍樹は般若経典からヨリ多くのものを受け取っていると思います。
これは『中論』を素直に読めば感じることです。明らかに阿含経典ではなく、大乗経典の立場から教えを説いています。
伝記では三蔵をすべて読誦(暗記)したとあり、さらに求めて、摩訶衍経典を得ています。そして、大龍菩薩に会って多くの大乗経典を与えられて満足しています。
私は学者ではないので、龍樹が阿含経典から得たもので『中論』を書いたというエム先生に意見には賛成できません。龍樹は確かに部派の経典を熟知しています。
しかし「龍樹真撰である」『無畏論』を読めば、龍樹がいかに大乗経典に依拠しているかが分かります。
もちろん大乗経典に対して、部派から非法という誹りはあったでしょうが、龍樹は明らかに般若経典を法として受け取って、「ブッダは何も説かなかった」、「輪廻と涅槃は差別がない」と説いています。
「ブッダは何も説かなかった」は何か知的な論理学的帰結というより、諸大乗経典から受け取ったものを戯論(プラパンチャ)寂滅の法としてそのまま説いているのではないでしょうか。
ここに何か大乗経典とは違う(部派仏教や現代人!も納得できるような)、龍樹独自の密意を見出すのは不自然だろうと思います。
むしろ、大乗を読み替えようとしているのはチャンドラキールティのような後代の人だと思います。かれ(ら)がこのような作業を行ったのです。
龍樹は涅槃を取らずに無住処涅槃に留まったのでしょう。三蔵と摩訶衍経典を自由自在に説く智慧があったという点で、龍樹を一切知人とか、ブッダの域にあると述べることはできると思いますが、ブッダと等しいとは思いません(漏尽智を取っていないのに、どうして文字通りの一切智人でしょうか?漏尽智を知らないのなら一切智人ではありえません)。
龍樹菩薩が等しいのは、(「生まれが尽きたという智慧」を敢えて取らない)観音菩薩など十地の菩薩でしょう。
伝統説でも龍樹を如来とか仏陀としているものはありません。
「チャンドラキールティから龍樹菩薩を見る勿れ」というスローガンで今回の私の言いたいことを閉めたいと思います。
エム先生、おはようございます
>『十二門論』の訳出の時、鳩摩羅什はサーディヤサマをサンシャヤサマに読んでいるのです。
同疑因(サンシャヤサマ)とある所ですね!
しかし、「復次我今不但破一事。皆總破一切因果。若因中先有果生。先無果生。先有果無果生。是三生皆不成。是故汝言餘時見麻出油。則墮同疑因。」とあるところは意味が通るように思えます。
鳩摩羅什はニヤーヤスートラも知っているように見えます。
むしろここをサーディヤサマとみるのはよく分かりません。。。
pocketさま ここは、龍樹が論を書いているところなので、鳩摩羅什は訳せば良いだけなのです。ニヤーヤを知っても知らなくても訳すだけなら訳せます。
また次に、わたしは、今、この事一つだけを非難しているのではない。一般的にまとめて一切の因果を非難しているのである。もし因中に先に果があって生ずるとしても、果がなくて生ずるとしても、有果無果にして生ずるとしても、この三つの「生ずること」は、みな成り立たない。これ故に、「別の時に胡麻が油を出す」というあなたのことばは、同疑因(という誤った理由)に帰着する。(復次我今不但破一事。總破一切因果。若因中先有果生。先無果生。先有果無果生。是三生皆不成。是故汝言餘時見麻出油。則墮同疑因。* )
訳すとよくわかります。三つの「生ずること」はみな成りたたない(不成立)と、あります。サーディヤサマだと思います。『中論頌』4.8と4.9に関連しています。わかりますか。『中論頌』はブッダの意図をしっかりと読み切っているんですよ。
エム先生、こんばんわ
漢訳は分かりやすいので大丈夫だと思います。
サーディヤサマだと同証因とか同明因と漢訳するのかな。不了因としても良いような。
たしかに龍樹はサンシャヤサマは使わないので、サーディヤサマを好むかなあと思いますね。
「サンシャヤ」(疑)が重要になってくるのはニヤーヤの中なので。
ちょっと周りの文脈も調べてみようと思います。。。
pocketさま こんばんは。
調べてみてください。
議論が平面的じゃないんですよ。平面的、という言い方もおかしいけど、何となくそう言いたくなっちゃう。
~samaという、理由の誤りを自分で作成しながら議論を行っています。
だから、サーディヤサマは、新たに生まれてくる似因で、龍樹が初めて導入した似因になります。龍樹の議論は、仮想の議論です。実際に議論を行っているわけではないのですが、ニヤーヤは、おそらく龍樹の意図をしっかり理解しています。
『チャラカ・サンヒター』から議論を追わないと全体像が見えません。『チャラカ・サンヒター』『方便心論』『十二門論』と進んでいきますね。『中論頌』は、目的が異なります。龍樹の別枠の論です。