寒くなるぞと言っていたら、とうとう降りました。まだ、べちゃべちゃした感じでみぞれっぽいです。遠くで雷鳴が響いています。「さあ、冬だぞ、覚悟しておきなさい」って言ってるようですね。
昔は、どこの家でも冬間近になると漬け物をつけたものだったけど、最近は、そんなこともしなくなりました。漬け物は、スーパーなどで買うものになってしまいました。
人の心は変わらないのに、時だけは過ぎ去っていきますね。ブッダの頃も、今も、何もかもが。
『方丈記』の最後にあることばが忘れられません。
たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。
この一文がわたしの心にひっかかっています。これが煩悩ってヤツですかね。あんまり「南無阿弥陀仏」というのもナンダから、二三べん言っておこう、って感じかしらね。
方丈記 https://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html(青空文庫)
いかにも、庶民の南無阿弥陀仏だなあ、って思って、「執心なかれとなり」をそれでも実行している鴨長明がいとおしいです。
空を実践している鴨長明ちゃん、えらいよえらい!
コメント
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否定するわけ では ないので “心”して 読んでみてください
> 人の心は変わらないのに、
人の心 は 「 恒常 」 として 起されます
変らない と 思う 変っている心
対象物( “財” ) は 決して
動きを止めない
目に映るモノ( 「 色 」 ) は
「 恒常 」 ではないのです
ただ 「 止観 」 において ( のみ )
平常( 「 平等 」 )心 が “ある”
> 時だけは過ぎ去っていきます
「 時 」 という ( 財 を 起す ということ )
存在 は 存“財” に過ぎない
( どのように起こしているか は 知られようとしない )
過ぎ去らせる 「 心 」 の 動き
( 財 の 一時の動き は 「 止観 」 に 止まる )
「 財 」 を 動かそうとする こころ( 此処 有漏 )
( 増そう とする “思い” ・ 増幅する 「 慢 」 )
減らそうとする心 を 積み上げる
「 時 」 とは “単なる 場所” に 過ぎない
けれど
(漫然 と) 過ごした( 通り過ごしてしまった )
足跡 を なつかしむ
なつすぎて あき きに けらしも やま の は の
いろどる そらに ふゆ と の ぞ み ぬ
・
> ( 増そう とする “思い” ・ 増幅する 「 慢 」 )
> 減らそうとする心 を 積み上げる
年を取ったせいか、こんなところが目にとまる。
「両三返申してやみぬ」と同じで、これも似たようなもんだな、と思います。
いろいろ減らしたり増したりしなくなってきました。
増多(相似)、損減(相似)という似因が『方便心論』にありましたね。
ヨーガ学派を読んでてちょっと思ったんだけど、
アートマンを認めるか認めないかで、こんなにも違うんだ、って気づいたのは収穫です。
微妙に異なる気分のありようで天地の違いを生み出すことに気づきました。ブッダは、こういうことを恐れたのかもしれない。。
> 減らそうとする心 を 積み上げる
まさしく!この路線。
*
>> 減らそうとする心 を 積み上げる
> まさしく!この路線。
この 線( 細くて 幅のない ) 「 道・路 」 ( 足跡 を たどる )
これが 「 唯識 」 の 「 心 」
龍樹 だけでは そこを辿る のが “ むつかしい ”
世親 は アヴィダルマ に “ avi ” して
ダルマ の ありよう を やさしく 解く・説く
この世 は すべて 「 空 」 である けれども
“ 空である と 説く ことも 空 ” だと
“ 小乗 ” の 者たち は (反・判) 論 ずる
「 空の空 なるは 空ならず 」 という 「 論 」
それが 『中論頌』
そこを はっきりとさせた( 論じた ) 世親( 「 唯識 」 )
減らそうと する心 を 増す(積み上げる)
( 増減 は 「 空 」ではない = 「 空 」 である )
ここは 「 瞑想 」 ( 瑜伽行 ) でのみ 証されている 「処」
「処」 という 場所・行為のある所=行為 が
まさしく 「 時 」 と 同じ意味
「 とおき・とき を ながめて ちかく をしる 」
その “ ところ ” は “ちかく” にあり とおきところ
( “ モノ ” は 考えようによって変わる )
一日前 と 二千五百年前 と は
どちらが あなたの “チカク” に あるのだろうか
「 永 遠 」 という
時の意味 を しろうとはしない
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春間さま なんとお!
> 「 空の空 なるは 空ならず 」 という 「 論 」
> それが 『中論頌』
前から違和感があったのが、なぜか判明しました。
>「 空の空 なるは 空ならず 」
『中論頌』13章は「空である」と説いています。
「見解からの出離」の意味するものは大事です。
4章8偈と9偈にもあります。ゲーデルは「空である」と説いた一人だけれども、
『中論頌』を知らなかったし、かれは実在論者だったのです。。
ブッダの域に近づいたものは,龍樹を除いて誰もいない。。
インド哲学でも、他には誰もいない。。
春間さま、続きです。
>ここは 「 瞑想 」 ( 瑜伽行 ) でのみ 証されている 「処」
論理学もそうです。「瑜伽行でのみ証されること」は論理で証されます。
ただ識のみ、という世界は、論理の世界なのです。ディグナーガは仏教論理学者ですが、かれは唯識の人でした。。なるほど、そうだったのかぁ
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> ディグナーガは仏教論理学者ですが、
かれは唯識の人でした。。
> なるほど、そうだったのかぁ
そうであった と 知っている人 だけが
“ そうだったのかぁ ” と 知る
そういう 構造( 「 性 」 ) を 知るのは 容易ではない
容易ではないこと は 容易なことに支えられている
だから “ そうだったのかぁ と 知る ”
こと が ( 容易に )適う( 成就する )
この構造 は 最もシンプル な ことである
単純にして 明快 ではあるけれど
“ 容易ではないこと ” によって 支えられている
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春間さま、おはようございます
>「 空の空 なるは 空ならず 」
龍樹も空であると述べていますよ!
「空もまた空なり。これ般若波羅蜜なり。」(『大智度論』)
(T1509_.25.0375b13: 是般若波羅蜜。或説空亦空是般若波羅蜜。)
> 「 空の空 なるは 空ならず 」 という 「 論 」
> それが 『中論頌』
「 空 」 である 「 空 」 ならず
という 「 論 」 を
離れる 「 論 」 → 『中論頌』
春間さま、こんばんは。
なるほどなあ、というところです。
ディグナーガは菩薩だったんですね。龍樹と同じタイプですね。
知っていたことを、あらためて知りましたよ。。
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>単純にして 明快 ではあるけれど
> “ 容易ではないこと ” によって 支えられている
容易ではないこと を 「 信仰 」 と呼ぶ
容易ではないこと を 「 易行 」 と呼び
かつまた
「 易行 」 とは 容易なる「 信仰 」 のことを言う
「 信仰 」 を 保ち 難行 に 赴く
そのこと を ( タンニ )
「 難行 」 と 呼ぶ
「 難行 」 に おもむく のは むつかしい
と 「 歎異 」 する
かたき やすき 道 を あゆむ
そこにたいして
「 いづれの行も およびがたき身 なれば ‥‥
愚身の信心におきてはかくのごとし 」
と 歎く(嘆く) (歎異)
「 親鸞もこの不審ありつるに、
唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに
よろこぶべきことをよろこばぬ にて、
いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 」
「 よろこばざるは煩悩の所為なり。
しかるに、 仏、かねてしろしめして、
煩悩具足の凡夫と仰せられたること
なれば、 他力の悲願 は かくのごとし 」
無義 を もて 義 と す
その義 を 瑜伽行 において 義 と 論ずる
「 易行 」 は たやすいかな ?
( 義 は 不要 で 「 難行 」 に あるのかな ? )
およびがたき身 の 親鸞 が 「 経行信証 」 を 証す
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> およびがたき身 の 親鸞 が 「 経行信証 」 を 証す
‘およびがたき身 の 親鸞’がおよんでいられるのも、法然上人あってこそです。
法然上人は親鸞聖人のほとけさま。。親鸞聖人はわたしの善友。
なんだろ、こんな感じがします。法然上人には仏の影をみるけど、親鸞聖人はわたしの善き友。
ブッダは、わたしにはブッダだけど、龍樹はわたしの善き友、って感じに近いかな。。
ほんとはブッダと龍樹は並んでいるのに、なぜか、そんな気がする。
法然と親鸞も並んでいるのに、なぜか、そんな気がしてしまう。ふしぎ!