今が最後のチャンスかなと思ってパチリ! どんどん葉が落ちて行っていますものね。イチョウの黄色がほしいけど、それは別の場所です。雨に濡れてる風情も美しい。今年は、紅葉はまずまずかな、と思います。
いろんなことを考えてるんだけど、いざ書くとなると、何もないなあと思ってしまう。
もし,仏教をやりたいなら、まずインド哲学をはじめるべきだという意見が「昔」ありました。わたしの頃は「昔」だったので、インド哲学をやりました。
別に、インド哲学でいいと思ってました。仏教は特にやりたいわけではなかったのです。でも、気づいたら仏教にいました。
龍樹を読みながら、また、脇で『ハタヨーガプラディーピカー』を読んでいます。仏教タントラがちらちらする。これもやがて仏教タントリズムに行くなあと思う。。
どうしてもブッダの教えに行くように、人間はなっているんだなと思います。
『スッタニパータ』の「彼岸道品」が大乗や密教への道を作っていったんだなあと感慨深く思います。インドの人は幸せだなあ。すべての哲学を自分が‘生きる道’として学べるなんて。
最近、しみじみ思うのは、もし生きる道を探りたいなら、輪廻を意識しないとダメだなということです。生き物は輪廻している、という思想を信じることで、かろうじて生き物らしくなって行くのかもしれない。。
って、ちょっと思ってます。
短いけど、これでアップしよう。
コメント
mani先生 こんばんは。
『空の発見』2部の終わり「あなたにとっての輪廻は?」の問いについて省みました。
今回のお話の輪廻の意味からズレてる場合は、お許し下さい。
1「縁起を見る…業と報いを熟知している」「有情は業に束縛されている…行く車のくさびのように」(経集653・654)は、車輪に譬えられる輪廻のイメージに重なると思いました。
2 お風呂場で垢すりしている時、「私」と仮名されるものを組み立てる細胞が刻々と縁起し消滅しており、転生は刻々と起こっていると思いました。また「心」と仮名されるものが漂いジタバタする苦しみも、時々刻々と縁起し変化していると思いました。バッタバラ菩薩は風呂場で水を観て何を感得したでしょうか。泡と水の関係を譬えとする気付きでしょうか。
3 一呼吸に、ジタバタの解放の機会ありと思われ、「人の命は、一呼吸の間にあり」(四十二章経37)、「順次少しずつ、一刹那ごとに、…除くべし」(法句239)に、励ましをもらいます。
4 正念正続ならず、元の木阿弥になるばかりの業悩まみれの者として、輪廻を見るに、それを疎んずるのでなくて「共にいる」のがいいように今のところ感じています。縁起する十二支、五蘊、五臓六腑の皆さん、欲望さんたちと、仲良しでいながら、とらわれない、こだわらないような感じです。
5 生物上の死という変化においてその後どうなるのかとか、転生とかは今はわからないので置いといて、目下の一呼吸を工夫しています。「悪いことをするより何もしない方がよい」(法句314)の「何もしない」に糸口を感じます。
近侍郎さま こんばんは。
私も、『法句経』に励ましをもらいます。
>「悪いことをするより何もしない方がよい」(法句314)の「何もしない」に糸口を感じます。
なるほど。ただ、生きている身としては「何もしない」わけにもいかないので、
行ったあとで後悔して、顔に涙しながら、結果を受け入れるとき、その行った行為は善いものではない。(『法句経』67)
とか、同じく68の「行ったあと後悔することなく、喜び満足して、その結果を受け入れるとき、行った行為は善いものである」などに眼が行ってしまいます。
また、なぜか『バガヴァッドギーター』に出てくるアルジュナを思い起こしてしまいます。クリシュナ神(ヴィシュヌ神の権化)の説得で迷いのなくなって、戦さに向かうアルジュナは、本当に迷いがなくなったのかな、と。
輪廻ということを真面目に考えると、おっしゃるように「何もしない」という生き方はけっこう深いかも、です。
いろいろ考えてしまいますね、ありがとうございます。
mani先生 ありがとうございます。
「何もしない」(法句314)を糸口に、
「莫作・自浄」(法句183)、「作為にとって求めることがない」(経集210)、
「衰滅する性質のものは、行である」(『空の発見』P65の先生訳)
を工夫します。本当にありがとうございました。