「気がつくこと」について

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少し前の写真ですが、桜の木の紅葉です。前回の桜の葉の写真は、この木から落ちた葉です。桜は春の花だけではなくて、秋の紅葉も美しいですね。オレンジがかった赤が渋い感じで美しいです。

掲示板をやめて1年が経ちました。早いですね。もう1年になるのかと感慨深いです。今年は、ほんとに早く感じます。能登の地震からも、もうすぐ1年になりますね。感慨が深すぎて、胸に刺さりっぱなしです。

刺さったままに龍樹を読んでいます。『中論頌』です。難しいね。これはごまかしが効かないです。

多くの人が「難しい」って思っているんだろうね。全体に言及した解説は、この世に現れていません。部分的には、それぞれが解説しているけど、全体像は明らかではありません。ブッダの器に匹敵する大きさだからだろう。

わたしも、『スッタニパータ』と関連づけるところまでは行きました。龍樹は、彼の興味で動くところがあるので、よくわからなくなります。論法に興味を持ったのだから、わたしの興味と似たようなところがあることはわかります。

彼が、サーンキヤ・ヨーガを産み育て、また、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカを産み育てたことは、わたしの中では明解なことです。やがて、シャンカラが出てヴェーダーンタもここから生まれてくるんだろうな、と予測を立てています。あたってると思う。

密教も、龍樹から出てくるんでしょう。。この辺は、わたしには勘の世界ですが、はずれていないことは確信できるのです。

そして、そのおおもとは『スッタニパータ』の第5章「彼岸道品」だということも、もうわかっていることなのです。

不思議ですが、わかっているんです。わかっているけど、説明できないし、証明もできない。ただブッダの教えは拝むものだということを知っているのです。

こんなことって、あり???

ブッダの説く九分教には未曾有法(アッブダダンマ)っていうのがあるけど、それは納得できるな。

南無阿弥陀仏をむげに扱う人はいません。ですが、ただの音だということも知っているのです。

どんなに賢い人でもブッダより賢いことはありません。南無阿弥陀仏を唱える法然上人を見つめた親鸞、ゴータマを見つめた龍樹。。。同じなんだ。。

「信」の系譜に繋がる者たちがいます。

すべて彼らは、「信」ということ一つとっても、一つの極致(境地)にいたるのです。いたったら、それを捨てる。。これが、また、一つの境地ではあります。そして、もはや捨てるものがないとき、完成する!

その時、完成したと知る。。

「『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』と。(SN.12.70「スシーマ」)

これは声聞乗の決めぜりふだけど、菩薩乗でも、辟支仏乗でも、同じこと。一切智だからね。

すべての生き物がブッダになれる。。すごい教えだ。智慧の教えだ。誰でも拝む教えだ、例外はなく。

コメント

  1. Pocket より:

    なるほど、『中論頌』は未曾有法だったのか!
    迦葉仏の時代にも迦葉仏の「ナーガールジュナ」がいたんでしょうね……!

    南無阿弥陀仏
    龍樹菩薩出於世~有無をはなると述べたもう~
    平等覚に帰命せよ~

    • mani(管理人エム) より:

      Pocketさま こんばんは。

      未曾有有法かあ。。それもいいっすね。

      とにかく悪戦苦闘していることだけは確かです。

      全体の構成がどうなってるかわかる?
      研究者の誰も書いてないよね。、