数日前に撮った写真です。この後、札幌では初雪となったもようです。
30℃を超えるところもあれば、初雪のところもある。。この気候変動には心配になりますね。こちらは、いちおー、生きてます。龍樹の『中論頌』を読んでいます。
龍樹先生、大胆なことやってるなあ、って思って、どうしようと戸惑っています。戸惑っても、そのまま正直に書くしかないなとは思ってますが、今日の気候変動のごとく、龍樹センセー、自在すぎます。
タブーというのがないです!世間体もないです!ありえへんことばが、理屈どおりに連なる。。という現状に、「よく、みんな、読めたな」って感動します。読み直して、第一章でもう戸惑っていますが、「覚悟決めてこのまま進むしかないな」って、いうところです。
ブッダでさえも、情け容赦なく切り刻む姿に、龍樹せんせいのブッダ愛をひしひしと感じます。ブッダに「信を捨てよ」といわれたら、ほんとに信を捨ててかかる姿に圧倒されますね。何度も読んでるんだけど、あいかわらず何度読んでも同じところで躓いてしまう。。わたしの煩悩だなあ、って思います。
問題の個所は、『中論頌』1.10
諸々のものがもともと自性を欠いているなら、
有性(sattā)は認められないのだから、
「<これ>がある(sat)とき、<これ>がある(bhavati)」という
このことはまったく不可能である。
この解釈に、わたしの出した答えは?
「理屈が通ればそれでいいのさ」ってことで済むんですか?
まあ、わからんけど、思うとおりにやってみるよ。。最初でこれでは、後が思いやられる。。。
これで、あっぷしてみる、あっぷっぷ、とぉ。
どっちかというと、あっぷあっぷ、とぉ、って感じです。
コメント
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> 諸々のものがもともと自性を欠いているなら、
有性(sattā)は認められない
認める 有性(sattā) が ある (という)
“ 限りにおいて ”
( 自性 を 除いて )
諸々の もの は “もともと”
自性を欠いている
自性 を のぞき て
> 「<これ>がある(sat)とき、<これ>がある(bhavati)」という
このことはまったく不可能である。
ということ を のぞきこむ のである
> 「理屈が通ればそれでいいのさ」ってことで済むんですか?
という 理屈 を 通したくなる
彼の地 にも 此の地 にも
いかなる “知” において も 理屈は通っている ので
ある(bhavati) ということが 成り立つ
“ UP ” するには 「 足下・脚下 」 に(重ねて)
“ down ” を 要することとなる
“ どっちか ” という ジュウショ(ウ) に 住まう
( 住処・ 重性 ・自由性・・・・ )
㈢ 含多義故不翻
・
ふうむ、春間さま、さすが!言い当てましたね。
> ㈢ 含多義故不翻
いかに解釈するか、ってことかあ。。
誰が一番読めてるか、という問題になるのか。。
*
> 誰が一番読めてるか、という問題になるのか。。
誰も 読めてはいない という 問題
誰も が 一番 なのです
わたしには読めない と わたしに判断が起きる
( わたし とは 自他 であるのに 自に 囚われる )
我 能 読 持 毒 自因 自得
問題がある という 日本語 には 問題がある
( このような 日本語 で 自我語読 )
仏 は 念ずることはない と 念ずる(諸)仏
念仏 惟仏 与仏 乃能究 深
尽 不能
何も読めてはいない のは よむものが ない
・
龍樹菩薩は部派の阿羅漢の道も認めつつ、縁起を巧みに使って、菩薩が資糧を積み、三劫成仏に使う道も示しているように見えます。
その極端な形が、以下かなあと
「一切の認識が静まり、戯論が静まり、吉祥である。 /
いかなる場所でも、誰に対しても、いかなる法もブッダは説かれなかった // MMK_25.24 //」
こういうところがスマナサーラ長老から「悟りがなくなった」とか「相対論」(relativity)とみられるのでしょう。龍樹菩薩は確信犯だと思います。
ところで、龍樹菩薩は、世親菩薩のようには批判されていませんね。説一切有部からは。
Pocketさま、こんばんは。
>MMK_25.24
わたしには一番すぐ分かることばだったなあ。。
あ、やっぱり、って思ったものだった。
道元にも感じました。やっぱり論理なんだなあ、って。
スマナサーラ長老は正義を求める人だからな。。ブッダは、善なるものを求めたんだけど。
ブッダがなぜ善なるものを求めたのか、考え続けています。
で、今のところの結論としては
「畏れなし」は、最高なのかもしれないなと思ったりしてます。
ブッダも、ここを求めたんかな、どうかな。