「無我考」というのは「無我を考える」ってことです。
龍樹の『中論頌』をまた、気を取り直して取り組んでいます。しばらく、取りかかっては止め、取りかかっては止めを繰り返していましたが、今生ではもたもたしてると自分が死んでしまうと気づき、少し急ぐことにしたのです。
写真と無理矢理結びつけるなら、白樺とドイツトウヒの木々に囲まれて「迷いの森」にいる気分ですが、そろそろ脱出を試みなくちゃと思い始めました、と言ってみよっと。
わかってきたこととわかってないこととどちらがどれだけ多いんだろう。ずいぶんわかってきたと思う反面、どれだけ奥が深いんだろうと不安が渦巻いたりもするのです。
『大智度論』をまた読み始めてみたら、新しい発見がいくつもありました。軽く考えていたことに、全部、深い意味があったことを知りました。わかったつもりでいたことが全くわかっていなかったということがわかりました。
『スッタニパータ』の第4章は訳してみたけど、第5章は、まだそんなに手をつけていないのです。真面目に考えだしたら、龍樹の奥深さが見えてきて、龍樹が急に雲の上の人になったように感じました。
ブッダは、いくつものことが同時にわかる、つまり、国語と算数と社会と理科を一度に勉強できる人(?)なのです。1日で小学校を卒業できるのです。龍樹も、3日で卒業可能です。
それなのに6年間小学校に通ったわたしみたいな者のこともわかるのです。ブッダも龍樹も、自分たちも6年間通ったような顔をしながら、相手にあわせて語ることができる、そこがチョー不思議です。
その鍵は、「無我」だということまではわかりました。少し感覚も掴みつつあります。頭で考えると了解できるのです。自分がないんだから、相手にあわせていくらでも変容できるのです。それはわかるんだけど、ブッダや龍樹は、彼ら自身の思想をもっていなければならないのではないか、という気もしてきます。
なぜなら、相手と比べてどうかと言えるためには、比べる相手との違いが必要でしょう?
そうか、わかってきたぞ!
苦しみをなくすかどうかというところにしぼって考えると、苦しみを完璧に払ってしまったブッダに対して、苦しみにあえぐわたしたち、っていう構図。
なるほどなるほど、こういうことか。
実際に、ブッダを知る前に、ブッダや龍樹が気づいていたことをわたしも知っていたなあと思うことがあります。
それは、我をもつ哲学、とくにわたしの知ってる西洋哲学では、論理的に追及して行くと、必ず、パラドックスに陥る、ってこと、ここに昔から気づいていました。
でも、なぜだか、わからなかったのです、ブッダを知るまでは。
ブッダも龍樹も自信満々(?)で言うことは、わかります、つまり、ことばを使う世界が虚妄だってことは。「戯論」といわれることはよくよくわかります。ことばで言われるものが「ある」と思ってしまう、そこを否定しようとしてるんだ、ってことは、よくわかっているのです。
わかっているんだけど混乱してくるのです。これが煩悩ってやつなのかも、ね。
混乱したところで今日は終わります。明日あらためて考えよう。
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