
ナナカマドが赤くなってきて、シュウメイギクが道端に咲いています。家の前には、季節はずれのシバザクラが一つ咲いていて、季節はずれ感を演出しています。

ウソでしょ、って感じですが、この地球自体が「ウソでしょ」段階に突入しているのでやむを得ません。ふつうに生きよう。。ふつうが無理なら、ふつう風に生きよう、と考えて暮らしてます。
最近は、日常的にはいろいろコップの嵐はあるものの、息子も落ち着いていて、龍樹の『中論頌』に取り組めています。外から俯瞰気味に眺めたり、字面を追ったり、ブッダの経典と合わせたりいろいろ試してます。
このサイトで、『中論頌』の予備考察をするのもナンダと思うけど、日頃から思いついたことを書いているので、『中論頌』絡みなんだろうなと思った人も多いかも。
『スッタニパータ』がよく出てくるので、『中論頌』と関連してると思ったのではないでしょうか。おおあたりです。
『スッタニパータ』をひもとけば、『中論頌』が見えますね。「空」も見えますね。『古代インド論理学の研究』を上梓したけど、そこでもずいぶん書いています。https://manikana.net/book/bookidx.html
「『スッタニパータ』は、もういらないよ」と言われそうだ。だけど、『スッタニパータ』がなければ、ブッダの「一切智」はわからないだろう。
ブッダには10の称号があって、如来の十号と言われてるけど、ブッダ本人にその自覚があったって知ってる人はどのくらいいるんだろう。一人の人が十の顔をもつ、って本当なんだよ。龍樹も、そうなんだ。
だからね、何が言いたいかと言うと、龍樹が書いたとされている書は、全部龍樹が書いたってことなんだ。どうして、それがわかるのか、って?
それはね、龍樹も一切智者だからだよ。それは、「空」と深くかかわっているから。
「一切」に問題があるんだ。「一切は有る」とか「一切は無い」とかに、近づかない道を行くブッダ。その彼が、「一切智」って言ったのは、どっかオカシイよね。。オカシクない?
そう言えば、「オカシイ」のと「オカシクない」のとを合わせると、これもまた「一切」に言及してると言える、ってことになる。でも、それじゃ二択になっちゃう。
有るにも近づかず、無いにも近づかない道、中の道を通って、寂滅へと到達したブッダ。
わかりそうでわからない道だ。。中道、それは空でないとオカシイ、それは、からっぽになるはずだから、そして、それは、善の道でもあるはずだ。
二択がなりたつところに三択をもって来るなら三択目は空(からっぽ)でなければ理屈に合わないから。。なるほど!


コメント
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> ウソでしょ、って感じですが、この地球自体が「ウソでしょ」段階に突入しているのでやむを得ません
あなたは 地球 の 一部であり
その一部 は
あなたの意識 の ( “一部” である )
この “ 思い ” を フォーカス すること に よって
あたかも “ あなたの意識の全部 ” である
かのごとく 認識される
この地球 とは この “ 思い ” でしかなく
象の鼻 は まさしく 象であり 象の一部 なのです
獅子の牙 は 獲物を殺すのに “も” 使われるが
牙 は 牙だけで殺している という “ 思い ”
に “囚われ” 牙 が 獅子である という 「 認識 」
で 獅子 を 規定し その規定 で
( 獅子を ) 主体化する
( 主体化された ) 認識の中 の 嵐 は
( コップの中の嵐 は ) コップの外の 嵐 へと
波及していく
> 龍樹が書いたとされている書は、全部龍樹が書いたってことなんだ。どうして、それがわかるのか、って?
それはね、龍樹も一切智者だからだよ。それは、「空」と深くかかわっているから。
龍樹が書いたとされる書 は 全部 龍樹から波及している
龍樹 は その一部 であり 同時“的” に
その全部 である 「 智 」 そのもの だから
コップ という 外壁 で 「 真理 」 を 覆うことはできない
“ 同時 ” という “ 知 ” は
一時に起きて 一時に留まり
異時 を “ 同時 ” とは思わない ”
異・同 は 「 縁起 」 に 起きて 遷りゆく
「 三世 」 は 今においてしか 認識されることはない
「 中道 」 とは 今の道 ・ 足下の今時
( コンジに囚われて 起きる )
「 三世 」 という 三択 は 成り立たない
ある・ない を 起す 二択 は 似た 「 苦 」 にすぎない
過去・未来 が あることによって 今時 が ある わけではない
しかし
「 今 」 は 過去と未来 の “ 狭間 ” に 起されている
狭い ・ 広大である という “ 思い ” は
“ 執着すれば ”
いとも簡単に 広い・狭い を 転換し 広がる意識 と する
「 認識 」 の 虜となって 今に囚われる
・
> 「 認識 」 の 虜となって 今に囚われる
おっしゃるとおりだと思います。
その考えに 全部 賛成です。
そして、その上で 「楞伽経では、ブッダは龍樹の出現を予告している」と親鸞は捉えています、という考えにも囚われています。
今に囚われる からね。
*
わたしの記述していること は
『中論頌』 6-8 以降に 展開されています
闇の中に 無知 は 存在しない
無知 は 「 智慧 」 を 覆うのであるから
覆う知 に 「 智慧 」 は 存在しない
闇の中の どこに 「 燈 」 の 存在する場所があろうか
闇 を用いて 「 智慧 」 を 示し出すことができようか
今 存在している “ 「 智 」 ・ 燈 ” に
過去・未来 の 存在場所は ない
なんとなれば 未来とは 今を過ぎ去り
過去とは 今を離れること であるゆえに
今ある 「 智 」 には 「 三世 」 は 存在しない
ゆえ に ブッダ は
「 無量 」 と される
「 無量 」 を 「 量 」 で 量り知ることができようか
ブッダ とは ありてある存在 タタター
ネーティー を 重ねる その狭間に 量 は 起きている
あき は はざまに しのびより
くちびる さむし けふのそら
あきつしま あきのあつまる しま しま に
けふも ふきぬく しのぶ 仮 世
・
>ブッダ とは ありてある存在 タタター
タタターより「ありてある存在」に目がいきます。
どうして「存在」というのですか?
タタターは 「存在」じゃないのに。。
*
> タタターは 「存在」じゃないのに。。
存在しているモノ を 言語 で 表します
言語 は 存在 であり “ モノ ” です
存在してはいないモノ を 言語であらわすと
存在していないモノ と なります
本当 も 嘘もない 本当 は 本当でしょうか ?
嘘 で 答えてみてください
・
> 言語 は 存在 であり “ モノ ” です
確かに、そうですね。そのため、空とみるのですが。。
第13章にまとめられると思ってます。
龍樹のブッダ解釈だと思います。
*
そのため ( それゆえに )
> ・・・・ 空とみるのですが。。
> 第13章にまとめられると思ってます。
まとめること も できるでしょう
どのような理由により
「 空 」 なるものが ( 「 空 」 ということ が )
存在できる理由があろうか
「摂大乗論」 は 阿頼耶識 について
( 応知依止 勝相品 ) 巻5 T31-185c
「此本識以意識及依止識,為見識以眼等識及一切法,為相識」
「 意識 及 依止 識 」 依止 として 取り扱う
( 「依止」 とは 方向をもって 止まる という 意味 )
止まるのは 足 であり 指先に方向をもつ
( 「 識 」 とは
心に目印を立て印象づける 藤堂明保 漢字語源辞典 84p )
巻5 T31-117a
「 是 聞薫習生 随在 一 依止 処 此中共果報識倶生 」
このようなこと は 「解深密経」 に 説かれている
瑜伽行 ( 「 唯識 」 )の 根本経典 )
そのような処を踏まえて 親鸞 は 「 歎異抄 24 」 で
「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、 「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、 もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、 すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。 わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」
と 述べているのである
・
https://www.youtube.com/watch?v=-Zky38VClzw
シッダッタ王子も龍樹も親鸞もいない
廓然として空や雲のように自然体がいいですにゃー
シッダッタ王子って誰?ネパールの王子様?
> シッダッタ王子って誰?ネパールの王子様?
仏教だと、そうなっちゃうなあ。。
これが正しいあり方なのか。。も?。。ね!
仏教ってなに?
だれかが通った小径があるにゃー
カエルから野良猫にジョブチェンジしてとぼとぼと独り歩く
エサをもらっても感謝もせずとっとと立ち去る
> エサをもらっても感謝もせずとっとと立ち去る
うちの猫といっしょや~。
ノラじゃないんだけど、ね。
mani先生 おはようございます。
先生の言われる「空をつかう」とはどういうことかと思い、経集を見たところ、
「無所有を観て気づきをそなえ、依りどころなしをもって、激流を渡れ。」(1070)という句がありました。私は未だこの句を消化できていませんが、空・中・無~などの語になることがみなこの句に盛られているように思われ、全部のせ麺を前にしたように気合いが入りました。
また、『彼岸道品』の句をもとに、有部と般若系の祖師方がスリ合わせをしたら、「空」など表現の力点にちがいはあれど、おおもと(世尊の教説)の解釈にちがいは起きないのではないかと思われました。
もしかしたら、祖師方は、おおもとにちがいはないと承知のうえ、賑わいづくりなどのためにプロレスをしたのかも、と思いました。もしそうであっても、両者からみた景色が対照されることで景色がいっそうくっきりするので、それはそれで、後世の者にはありがたいと思いました。
近侍郎さま 「どことなくわかっていたことなんだけど…」と前置きしたくなるようなコメント、めっちゃありがとうございます。
「彼岸道品」の1070の偈は、わたしの訳だと、こんなです。
、
尊師は言いました。「ウパシーヴァよ、無所有を観察しながら、気づきをもって、『何もない』というところに依止して、暴流を渡りなさい。諸々の欲望を捨てて、諸々の語りから離れ、渇愛の滅尽を、昼夜に観察しなさい」
祖師方、プロレスしてますねえ。。してると思いますっ!
mani先生 1070の先生の訳文を教えて下さり、ありがとうございます。
1070の偈に教えが凝縮していると思い、特に「無所有」「何もない」の注釈を、その後、探しましたところ、スマナサーラ長老のご説明を図書館で見つけました。
「『無所有』とは、実体として何もない『無』ということ。『空』です。
『何もない』というのは、『一切有』に対して『一切無』というのとはちがって、有・無の極論を避けた中正的な真理の発見です。(『彼岸道品Ⅱ』p.99)」とあり、
長老も「空」の語をつかわれるのだなと思いつつ、「中正的な真理」が「中道」のことだとすると、1070の偈の長老のご説明は、中論24章18に半分ぐらい重なると思いました。ブッダの言葉を間にはさむと、上座部と般若系の解釈はおおむね重なるでしょうか。
mani先生がおっしゃる、
>有るにも近づかず、無いにも近づかない道、中の道を通って、寂滅へと到達したブッダ
が述べた1070の偈。この一偈を消化すべく、反芻と咀嚼の必要を感じます。
近侍郎さま、おはようございます。
ウパシーヴァに語るブッダ。ブッダのことばは現象そのものですね。
無所有処定をウパシーヴァにブッダは「語って」教えています。つまり、仮設することだ、って。一方、声聞乗を行く人々には、無所有処定は禅定のやり方として教えていますね。「行って」教えていると言えるかもしれません。
『般若心経』の「空の中には何もない」といっしょだと思います。
ブッダによって、分け隔てなく等しく「空」が教えられていると思います。
>長老も「空」の語をつかわれるのだなと思いつつ、
長老は少し変わられたかもしれませんね。龍樹を評価し直してくれるとうれしいんだけど。。
近侍郎さま、エム先生こんばんわ。
>『無所有』とは、実体として何もない『無』ということ。『空』です。
ここ、スッタニパータの注釈書を見る限り、
Natthīti nissāyāti taṃ ‘‘natthi kiñcī’’ti pavattasamāpattiṃ ārammaṇaṃ katvā.
“「無い」と依止して、というこれは「何であれ、無い」と転起した三昧を所縁として〔観察するという意味である〕。”と書いてあって、長老の独自解釈なんじゃないかと思います。
空の「く」の字もありません。
龍樹や大乗をあれだけ批判するのに、こういう時だけ、「実体がなく空である」というの解釈を取ってくるのは、どうかな、と。
>長老は少し変わられたかもしれませんね。
長老が『般若心経』について説法してる法話(3年前の)をYouTubeでみました。あいかわらず、の毒舌で安心したやら、脱力したやら。
スマ長老は、一貫性(consistency)がない(と長老が判断した)ものが嫌いみたいですね。漢訳の「色即是空」という表現も「色は空である」ではなく、「色とはすなわち空性とイコールである」みたいなニュアンスを感じるから間違ってる風のことを言ってました。
ミャンマー人はアビダルマにこだわりますが、
スリランカ人はスッタ(経典)にこだわりますね。
https://www.youtube.com/watch?v=0BAdaE7YKEM
何だか、私でさえ『般若心経』や『法華経』の肩を持ちたくなるこの頃です。
pocketさま、ありがとうございます!
なるほどお!と分かったことがたくさんありました。
>>『無所有』とは、実体として何もない『無』ということ。『空』です。
>ここ、スッタニパータの注釈書を見る限り、
>Natthīti nissāyāti taṃ ‘‘natthi kiñcī’’ti pavattasamāpattiṃ ārammaṇaṃ katvā.
>“「無い」と依止して、というこれは「何であれ、無い」と転起した三昧を所縁として〔観察するという意味である〕。”と書いてあって、長老の独自解釈なんじゃないかと思います。
いや、これは『空』でよいと思います。空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処は、いずれも「空」にかかわるところだと思います。
それより、pavattaの語に注目しました。これ、龍樹も使ってるんですよね。こんなところにあったのか、って感じです。
ウパシーヴァには、ブッダは、無所有処定を教えていたんですね。
全部、ブッダから来てますね。ニヤーヤのオリジナルかと思っていたものも,みなブッダから来ている、ということがわかりました。。わかります、って言った方がいいのかな。
>「色とはすなわち空性とイコールである」みたいなニュアンスを感じるから間違ってる風のことを言ってました。
これは、わたしが言ったものです。色とは空性とイコールである、っていったのはわたしです、『「空」の発見』の中で。ちゃんと答えてくれてたんだ!、って感じです。話せば長くなるけど、短く言うと、短くなります。
pocketさま。。
>何だか、私でさえ『般若心経』や『法華経』の肩を持ちたくなるこの頃です。
実質的に、わたしの言いたいことは伝わっている、ってところなのかも。。
ふうん、そうなのか。。これが、無我なのか、もろにひとりごとです。。