息子にもらったプレゼントだけど、今年の干支、辰を模して龍になってます。かっこいいね。
龍樹にかこつけるんでしょ、って、あたりです。
ナーガ(龍)は、ブッダの別名でもあります。
『スッタニパータ』第4章「八偈品」845. (第九経第11偈)
世間でひとり遊行している人が離れているものを、執り上げて語ることのないようにするのが、龍(ナーガ)なのです。茎に棘のある蓮が水の中に生じて、水にも泥にもけがされないように、同じように、聖者は、寂静を説いて貪らず、欲にも、世間にもけがされないのです。
菩薩の道を行くものたち、偉大な菩薩たちは、「龍(ナーガ)」の文字を一字もらっていることが多い。
ナーガセーナ、ナーガールジュナ、ディグナーガ
ナーガセーナのように、部派に属すとされている者もいれば、ナーガールジュナのように、大乗の創始者とされている者もいる。また、仏教論理学で有名なのが、ディグナーガ。
これらの聖者たちの特徴は、「寂静を説く」という点であり、自己の内面である「欲」にも、自己の外面に位置する「世間」にも汚されない、という点です。
「寂静を説く」の「説く」に、特に意味があります。。親父ギャグになってま。。
彼らはことばで語るのです、寂静を! すなわち、涅槃を!
語る根拠となる理論は「空(からっぽ)」の論理。
だから、争わないし、対立はしない。
ことばで語っているのに「争わない」なんてコトできるの?と思ったあなた。。
それはね、見解を捨てるのさ、自分の意見や思いを捨ててかかるんだ、わかる?
わからんよね。。 わからんよなあ。。 とにかく、それが 空(からっぽ) なんだ。
それを語っても、それは、ただの負け犬だろ、って心の中で思うだろ。。
ちゃうねん!論理とされると、からっぽはからっぽでも、立派に理論となるからね。
空が論理ということになると、逆転のぉ、あべこべのぉ、理屈がつくのさ。
みんなは、何かピンとこないので、恐れ敬い、軽視できないんだ。。
ブッダは、空の担い手、菩薩たちを引きつれて世間を行く。世間に染まらず一人孤高をたもつ。。
だけど、ゾロゾロ菩薩たちが群をなす。。でも、菩薩ひとりはひとりなのさ。
世間の中で困っている者がいるところにはどこでも出かける。
そして、世間に染まらない。。アンパンマンなんだよ
菩薩たちは、いろんな智慧で生き物たちを救うんだ。
それも、空の論理が効いている。だから、空の智慧といわれるんだよ。
助けてもらっても気にしなくていいのさ。。しょせん、からっぽなんだから。
からっぽの効用、からっぽのありがたさ、「空」は気にしない善さがある。
だから、空は無我でなくちゃいけないのさ。。
否定から入るとわかりやすいね、空って。
コメント
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> 「寂静を説く」の「説く」に、特に意味があります。。
「 説く 」 の 「 トク 」 (に) 意味があります
( 常とは )別な意味 を 大切にするのであれば 「 特別 」
紐解けば 「 解く 」
徳を求むる と 同じ意味であれば 得る
得て その後 前後を捨てて、 無量 「 寿 」 に 入る
“ ほとけ ”
> 親父ギャグになってま。。
オヤジ ギャグ から 離れようとしない
“ おなじ ギャグ ”
みな同じ ということ を よく知らなければ 、、、、
前 に 起きたこと と 起きていること
後に知る “ 前 ” の こと
今知る 今の前 に 起きたことの “ 本当の ” 意味
本当の意味 は どこにもない と 説く 「 仏教 」
教え とは 説くこと であり
説くこと とは 聞いていること( 聞いてわがものとすること )
“ わがもの ” とは 心におきた “物質・物 ” に過ぎず
それ を 「 仏教 」 は ( = 牟尼 は ) 「 財 」 と呼ぶ
「 アルタ 」 を 心に積み増して 「 重き荷を背負うが如し 」
“ 得 ” の 川 を 渡ると知る 「 長け 千代 」
得 の “ 多寡 ” を知り “ タン チョウ ” を 知る
このようなこと を “ 親爺 ギャグ ” と していた “ 過去 ”
“ 現在 ” と “ 未来 ”
「 今 」 は 違っているかもしれない 、、、、
けれども そこにあり、 ここにいたろうと いつも 「 今 」
いまだ 至らぬところ を いつも 今 知るしかない
> だから、争わないし、対立はしない。
争っている のだろうか 、、、、
別 ではなく 「 同時 」 に 起きていても “ 異字 ” の 意味
意味 を 知る者 を
忌み嫌う者 ( いみきらう という いみをしらず )
知らぬ という意味 は “ からっぽ ” という意味
( そのようなこと は 「 空 」 である )
> からっぽの効用、からっぽのありがたさ、「空」は気にしない善さがある。
有難き 逢うに難き あるという 存在 の 「 空性 」
ありさえすれば 気にしようと 、 気にせずとも
かたきこと が 「 易行 」 として “ある”
( なに を “ 信じている ” ということを 知る要はない )
「 信 」 とは 思い迷うこと “無きところ” に 起き
疑うこと無き 日常 という 「 つね 」 に 起きている
「 津 」 とは つどうところ
「 ね 」 とは 見えないところにあって ササ エル “ 存在 ”
「 存在 」 とは あるということ に ささ 得られている
“ さ しょう ” さ に ある “ 得ている アルタ ”
サ タ を 待たずに エ タ を 恵 学 ( 描く ・ 得 仮 苦 )
まことに 「 恵 」 とは 得るものに ささえられていて
「 慧 」 であること を 忘れられている
> 否定から入るとわかりやすいね、空って。
何を “ 否定している ” かが わかる “ 仮名 ” ?
「 空性 」 に ささえられて もちいられる ケ・気・仮 なること
アナタ に 支えられて コナタ に 起きている
カナタ に ある 「 信 」 と いわれていること
“あなた” が いなければ “わたし” は 存在の基盤を失う
ねっこ の ない うきよ に ただよう
・
>本当の意味 は どこにもない と 説く 「 仏教 」
そういう読みも、ありますね。
だけど、ブッダはこう言ってます。
『スッタニパータ』884.
「実際、一つであるのが真理であって、第二のものはありません。(それを)了解しているならば、了解しながら言い争うこともないでしょうが、かれらは、それぞれに真理を叫んでいるのです。それ故に、沙門たちは一つのことを語ることはないのです。」
これもいろんな読み方ができるなあと思います。こだわらない仏教。
*
> そういう読みも、ありますね。
> だけど、ブッダはこう言ってます
そういう読み は ありません
と、 ブッダはこう言っています
> 「実際、一つであるのが真理であって、第二のものはありません。(それを)了解しているならば、了解しながら言い争うこともないでしょうが、かれらは、それぞれに真理を叫んでいるのです。それ故に、沙門たちは一つのことを語ることはないのです。」
> これもいろんな読み方ができるなあと思います。こだわらない仏教。
これは 他を排する ひとつの “ 読み方 ” です
> 沙門たちは一つのことを語ることはない
一つしかない 「 真理 」 を たった一つの方法で語る
人々 は “ いろんな方法 ” で 聞く
“あなた” は “ あなたなりの方法 ” で 聞く
“わたし” は わたしなりの方法 で 聞く
いろんな方法 で 聞く のではなく
自分なりの方法 で 聞く
( あなたは 自分の声 を 聞くのではなく
誰の声 を 聞いているのかな ? )
そこに起きている 自分とブッダ
そこに起きている 諸仏
ブッダ は ブッダ の 声を聞いて言う
“ わたしはブッダ である と 知る ”
という ( 量を超える ) 越え を 聞く
聞く自分 が ある 限り( においては )
> > 本当の意味 は どこにもない と 説く 「 仏教 」
>> アナタ に 支えられて コナタ に 起きている
>> “わたし” は 存在の基盤を失う
> こだわらない仏教。
こだわるから “ こだわらない が 起きる ”
( こだわり が 起きている とは 思いも よらない )
“ よる ” ということ は “ あさ ” に 拠る
あさ 計さ に
縁って起きている とは 思いも馳せず
ヨッテ 深き読み を 捨てている
( いや これ は 深い と 信じる )
信じる ということ を 深く読むと
浅い意味 が 浮き上がってくる
いや 浅い読みではない という
もう一つの “心理” or 「 真理 」
こういう読み方 は ありますか ?
( どういう読み方 かは あなたが 読んで決める )
“ 決め方 ” は ない という 決め方 も
たった一つの決め方
あなたは ここに 本当の意味を見出すことができますか ?
そこ に 起きている 「 真理 」 と
個々に 起きている “ 心理 ”
ここは “わたし”の 心理 なのです
あなたに 「 真理 」 が あるかぎり
わたしの心理 は 「 真理 」 ではない
“わたし” って だれ が そう呼ぶのかな ?
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