思っていることをそのまま書いたらどうなるだろう、とやってみたけど、
ものすごくわかりにくいですね。
ブッダの理屈を追っていると、瞬間に、思考が飛んでしまう。
実際は、かなり書き直しているんだけど、書けば書くほど、余計、わからなくなるような感じです。
諸行無常、一切皆苦、一切皆空、諸法無我のブッダ理論の説明なんだけど、どう繋がっていくのかよくわからん、自分でも。
思いついたときは、わかってた。
どう広がっていくのかもわかってました。
でも、書き始めたら、わからんようになっていきました。
突然ですが、龍樹は、龍樹作といわれる全部の作品を彼一人で書きましたね。
たぶん、わかりにくくなるので、テーマごとに分けたんだろうと思います。
龍樹は、ブッダ論理を得ています。『方便心論』は、ブッダ理論から論法だけ抜き出したモノです。
余計なことを書かずに、これで終わろう。たぶん、それが最善かも。
コメント
>龍樹は、龍樹作といわれる全部の作品を彼一人で書きましたね。
破綻がないですからね。
高等批評よろしくアレも龍樹じゃない、コレも龍樹じゃないという先生はそもそも仏教の教えの理解も甘い人が多い気がします。
pocketさま 最近、自分でも壮大な人体実験のような気がしてきました。
自分を変えないとわからないことがある、と書いた以上、自分を変えてどうなるかを見るという実験かな、って思っています。
適時発信すると、ネット上で証明されないかな、って思ったりしてますが。。
「空であるのは一切である」には、自分で驚きました。
スルッと出てきた。今までわからんで、本、かいてたんだなあ、と思いましたよ。
誰が書いたかは どうでもよい
問題 は 釈迦牟尼に発し 、 龍樹に発するかどうか ということ
誰に発するかは どうでもよい
あなたに発するかどうか ということ
日出処より 書を 日没する処に致す
つつがなきや
エム先生こんにちは。
兵庫県の県知事は県職員の天下り権益を縮小したので、恨みを買ったようですね。やり方も性急で、もっと穏やかにはできなかったのでしょう。
人の心というのはいつも変化の途上にあって、およそ人々に語るというのは並大抵のことではないのだなあ、という印象を受けました。体系に納めるとなると、ほとんど不可能に近い難事に見えます。文学とかなら、何とかなるかもですね。しかしながら、今回も勇猛なる先生のお話、ありがとうございます。
えび天さま おひさです。
>県職員の天下り権益を縮小したので、恨みを買ったようですね。
何か、この知事さん、役職にある県職員の人だけではなくすべての県職員の人から恨みを買うようにふるまってるような気がします。パワハラの言動を見ると、県職員の人も有権者だってこと忘れてるのかな、って思ったり。
苦しみの多い職場です。
>パワハラの言動を見ると、県職員の人も有権者だってこと忘れてるのかな、って思ったり。
権力者になると、豹変してしまうということがあるようですね。国会議員でも、当選する前と後では、別人になる、という話をよく聞きます。権力を握ってもおかしくならない人は、相当志が高い、人格者なのかな、と思います。
えび天サンバさま
>権力者になると、豹変してしまうということがあるようですね。
ほんとねえ。。気をつけよう。。今さら、権力者にはなれないか(笑)
自我のおそろしさですよね。
>体系に納めるとなると、ほとんど不可能に近い難事に見えます。
ですよね。
諸行無常、一切皆苦、一切皆空、諸法無我を4つのテーゼとして取り上げましたが、この他にも体系を組み立てる方法はあります。
とりあえず、諸行無常と一切皆苦を素直な比丘たちに教えて、阿羅漢を作り、あと、一切皆空、諸法無我で小うるさい菩薩たちの道を整備する、って方針だったのかなあ、なんて思ったりしてます。
最終的な理論のキモは、諸法無我にあるのかな、なんて気がしてます。
ここで、はじめて、聖者が出現しますから。
ブッダ、スゲエですぅ。煩悩ある者たちに、煩悩に満ちたことばを使って聖者に向かわせる、って、凄くね。
>小うるさい菩薩たち
(笑)、同時に四つは認識できないんで、その都度、状況に合わせて順番にやっていく、という感じでしょうか。ただの感想ですみません、エム先生の次の本が楽しみだなあ。
難しい話はマニカナ先生が全部持ってってくれるので
毒箭経と慈経だけでいいや(笑)
塵芥なくなれ塵芥なくなれ!
> 毒箭経と慈経だけでいいや(笑)
カエルさま それって、サーリプッタの道じゃない?
どうしても‘智慧ガエルの道’を歩むようになってるみたいだ。。
マニカナ先生、こんばんは
自由思想家、六師外道という文脈なり補助線の中で釈尊や弟子を考えると
サンジャヤやジャイナとに関係性に注目しています。
ジャイナ教は釈尊の後ですよね。サンジャヤは釈尊の前。
ジャイナ教は実践論は微妙ですが、教理は面白いなあと。
わりと釈尊やサーリプッタから継受しているのかも。
> わりと釈尊やサーリプッタから継受しているのかも。
カエルさま あたってると思う。。
此のホームページのタイトルだけど、manikanaの書も、ブッダの解説書ではあるんです。
ニヤーヤだから、アートマンは認めるんだけど、其の一点認めて、後はブッダに倣っていかに整合性を確保していくか、そこに命をかけています。
似ても似つかないような展開ですが、ブッダを手本にしているんです。
*
そのあたりの 大まかなことが知りたければ、
阿部慈円 「 原典で読む 原始仏教の世界 」 東京書籍
269p ~ 原始仏教とジャイナ教 を 読むとよい
ついでに 中村元選集10 「 思想の自由とジャイナ教 」
思考 とは 物質であり アルタである
アルタ を 捨てる
・
春間さん、こんばんは
どうもありがとうございます。読んでみます。
*
ダンマパダ 314
悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。(中村元訳)
何もしない という していること
悔やむことは ないのか ?
悔やむことなし ・ 何もしない
善いことをしない ということを 悔やまない ?
善悪 とは 覚りにある者の 行ないに ある
善いことを しない → 悪 ?
しないから 悪 もせず 善もせず
悔やむことも せず
悔やむこと は な い → 知らぬから ない
ないこと を すること は できない
知らぬ 存ぜぬ で まかり通る ( 曲がり徹る )
どのように 曲がっているか は 知らぬ
あなたの 解する “サトリ” とは
そのようなところ に とはに( 遠くに )ある
遠くにある ゆえ に ヨク ・ 観えない
19
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。─牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。(中村元訳)
20
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。 (中村元訳)
19
意味深き経文(みおしえ)をいくそたび口に誦(ず)すとも
身にもしこれを行わず 心、放逸(おこたり)にふけらば 沙門(ひじり)とよばん
そのあたえはあらず まこと、むなしく 他人の牛をかぞうるかの牧牛者(うしかい)にたとうべし (友松圓諦訳)
20
経文(みおしえ)を口にそらんずるまこと少分(わずか)なりとも
身に行うこと法(のり)にかない 貪(むさぼり)と怒(いかり)と癡(おろかさ)とをすて 智慧は正しく 心よくほどけとき この世にも著せず かの世にも執せざるもの
彼こそ沙門(ひじり)の列(みち)に入らん (友松圓諦訳)
・
*
わたしの家 へ 訪ねてきた 紀野一義 は
友松円諦 のもとで 真理運動 部長 を していた
わたしは 友松円諦 の 全著作を 所蔵していて
すべて 読み通している
書棚に それ等は 並んでおり 彼はそれを見た
自分と 同じ書が 多くある と 告げた
そして
わたしに、 友松円諦 は 計算高い人だと 告げた
https://mokurenbunko.stores.jp/items/65b67a5575716e01a9cda902
自分は どのように 計算しているか は
自分では 計算できないもの
人 は 他人の姿を カリテ 自分を映しみる
あなたは “わたし” を どう見るかな ?
・
*
浄飯(王) の 基本(身体)の上 の アーリア の 思想
中華( 漢文明 ) を 倭(和)の身体 で 紐解く
「 倭(和) を もって 貴し とする 」
これが 「 日のいづる国 の 天子 」 の 意味
日の没する国 とは 随である 鮮卑族(モンゴル) が
受け継ごうとした
江南 で 発達した シナ( 蓁 ) の 文明
江南 とは 紀元前13000年 より 水稲耕作 の 地
水稲 → 白米 → “ 王 ” の 思想
水稲耕作 の 道筋を 逆にたどり( 元へと戻り )
その 生きる基盤にのっとた(則した)
「 心 」 ( 活きた言語表現で表される ) を
「 仏 」 と 尊ぶ ( シンブツ ・芯 仏 ・ 信 仏 )
『中論頌』 ( 般若波羅蜜多心経 ? )
業と煩悩は分別(価値判断)から(起こる)。それら(価値判断)は、多様性をもつ言語から(起こる)。しかし、多様性をもつ言語は、空性において滅せられる
業と煩悩とは、概念的思惟より生じる。諸々の概念的思惟は、言語的多元性(戯論)より生じる。しかし、言語的多元性は空性において滅する」 [訳桂紹隆]訳
通常言語 は シンタイ において 滅される
深 諦 は 滅するところに 坐して 起きる
・
> あなたは “わたし” を どう見るかな ?
そういえば、計算”低い”人というのは、いるの?
関係ないけど、計算高いカメムシ、っているんだろうか?
さいきん、カメムシがきになります。
今年も雪虫の季節になりますね。
この仕様にしてからもう1年になるのか・・
*
> そういえば、計算”低い”人というのは、いるの?
いる と 仮定すれば、
“ あなた ” が 入る
いない と 規定すれば
“ わたし ” は こぼれる
高低 は 人の尺度 ・ ひていこうていもしゃくどにおうずる
人により 尺度 は いかよう にも 変ええて 変る
あるひとはたかいとよび またあるひとはひくいとよぶ
百縁の価値 と 同じである
イチエン を 大切にする人でも
百円 に 無頓着なことがある
人 は 演ずる ところに拠って 役割を決める
そりゃない と
エーン と泣いても 致し方ない面もある
ほうえんにおうずうつわのみず
> いる と 仮定すれば、
>
> “ あなた ” が 入る
>
> いない と 規定すれば
>
> “ わたし ” は こぼれる
唯仏与仏!( ・`ω・´)
> 人 は 演ずる ところに拠って 役割を決める
春間さまはさしずめシビュラの巫女(巫男?)でしょうか
なんだか私にはそのように見えるのです