わかりやすい話のはずですが。。

兵庫県知事のパワハラ問題は世間的には大きく取り上げられています。兵庫県知事は百条委員会で、問われて「道義的責任とは何かわからない」と答え、「法的責任については(わかるし)裁判になっても耐えられる」と考えているようでした。

道義的責任は、ブッダの教えとしては、「倫理」と言い換えられ、法的責任は「論理」と言い換えられると思います。。

論理は強いけど倫理に弱い知事。しかも、論理は、一般的な法律の意味での、「裁判沙汰に耐えられる論理」ということです、無条件の「論理」ではありません。

ブッダの場合すごいのは、倫理も論理もどちらも完璧な構造をもっていることです。道義的責任も完璧だし、法的責任もしっかりとフォローできていることです。完全性を確保して成りたつ理論体系なのです。

**ここから、兵庫県知事を離れてブッダ問題**

ブッダの理論は4つのテーゼを持つ理論からなっています。

一つ、諸行無常。生じたものは必ず滅する、という理論です。

一つ、一切皆苦。生きとし生けるものにとって一切は苦しみである、という理論です。

一つ、一切皆空。一切はことごとく空である、という理論です。

一つ、諸法無我。すべてのことば(法)は無我(自己ならざるもの)である、という理論です。

これらの理論に依って生まれてくる世界をわたしたちの世界としました。

こうしておけば、苦しみから逃れたいと願うなら、逃れることができるのです。

諸行無常から、「縁起」がでてくる。4つの式からなる関数(≒ことばの世界)として表せる。

諸法無我は、我の否定ですが、理論としては、肯定できたり否定できたりするあらゆることを想定する必要があります。肯定できるものと否定できるもの、そして、それら全体を否定する、というのが、第4番目の選択肢でしょう。この「第4番目」というのを説明します。Aを命題とします。1.A、2.Aでない、3.AとAでない、4.「AとAでない」のではない、です。1~4を、まとめると四句分別といいます。第4番目は、4の「AとAでない」のではない、のことです。

1と2はわかります。3もある程度わかります。A、と、Aでない、とは「一切」を作ります。で、4番目は何?

3で作った「一切」を否定するのです。つまり、3は「一切」だから、「一切」を否定すると、一切以外のものが他にもでてくるってこと??

4では、それは「ない」って、ブッダは考えています。3は、「『一切』(すなわち、AとAでない)は空である」です。が、4では「『一切(AとAでない)』は空なのではない」となるはずですが、ブッダは、そういう考えを使わないのです。

一切は一切なのです。わたしたち凡夫が使っているんですもん。だから「空でない(不空)」という考え方は採らないのです。

そこで、どうするか?

「空なるものは、一切ではない」と考えたのです。「A」と「Aでない」は、わたしたちが使う文なのです。わたしたちが使わないことはないのだから、ブッダだけ「一切」から飛び出てしまうのです。

そこは、ブッダの至った道の結末です。「一切」からも離れて、「一切」に近づくことのない道です。それは安らぎの境地涅槃です。だから、「一切」から出離する、といわれる境地は、寂滅の境地なのです。もはや、ことば(法)で語られることはないのです。

だから、涅槃はこれら一切世界から出て寂静の境地にいたったことを示します。

ブッダは、この世界に戻って来て、「A」と「Aでない」の「一切世界(煩悩世界)」を相手にしているのです。すなわち、「一切皆空」の世界です。

この、ブッダの態度は何?これこそ、拝みたくなるブッダさまさま。

「一切皆空」が倫理世界なのです。「Aである」か「Aでない」しかない片方世界が、阿修羅世界(争いのある世界)でしょう。それは生き物たちのこだわりを示しているので、我(自己)の世界または煩悩の世界とも言い換えられます。煩悩の世界にありながら、それを超えて、空の世界に身を置く生き方を中道と呼んでいます。それは倫理に満ちた’善き人’たちの住む世界なのです。

「A」か「Aでない」しかない片方世界 と 「A」と「Aでない」を合わせた両方世界を「我(自己)」の世界と名づけよう。そうするとブッダがこの世界に戻って来てことばを使うと、我の否定、無我を示すのです。煩悩の世界と覚りの世界の二重の世界。ここははっきり分かれるので、「顛倒(てんどう)」と呼ばれます。

そこで、難しいけど、ブッダが仮にこの世にもどってきて、ことばを使うなら、無我ということばの使い方になるのです。

自分(我)を持たずにブッダはことばを使っているのです。

これがどんな感じになるのか、味わってみたい。。ってずっと思ってました。

最近、ちょっとだけ一瞬感覚つかめたかな、と思うようになりました。ブッダの方が「一切」から飛び出して、空の世界をわたしたちに残しておいてくれたのです。

一切世界の中に論理の串を貫き、倫理の網で覆いをかけたブッダ。

道義的責任もわかってそれを守り、法的責任も逸脱することはない。。こんな世界に住んでみたい。

コメント

  1. 近侍郎 より:

    mani先生 
    こんばんは。
    今回のお話をうかがい、関連しそうな感じのする世尊のことばが、二つ見つかりました。
    見当外れでしたら、どうかお許し下さい。

    一つは、マニカナHPの「心にしみる原始仏典」『蛇経』の6~13です。特に6・9の、

    6 (こうだから有である、無である)という有無の考えを超えて
    9 「この一切のものは虚妄(ヴィタタ)である」と、世間について知って、
      行き過ぎることもなく戻ることもない

    のところは、四句分別の、3から4への変化にかかわるように思われました。
    また、末尾の「こちらの岸(この世)とあちらの岸(かの世)をともに捨てる」も、
    3から4への変化のことを言っている感じがします。

    二つめは、『ダンマパダ』183七仏通誡偈の、「莫作」と「自浄其意」です。
    「莫作」「浄」は、四句の4への変化を表しているかもしれない、と思われました。
    すると、『浄名経』にいう「そのとき、浄名居士は、黙然としてことばがなかった」
    というのも、4への変化、あるいは四句からも離れるあたりを示しているかも、
    と思いました。
    私にとってまことに貴重な気付きです。ありがとうございます。

    • mani より:

      近侍郎さま、いいですねぇ。

      「蛇経」もよく、七仏通誡偈も、まことに適切と思います。
      最後は「これが諸仏の教えである」とあって、部派と大乗の二つをまとめているようだと思いました。

      • 近侍郎 より:

        mani先生 こんばんは。
        四句の4から3への戻りや、「空」に関連して、気付きがありました。見当外れがありましら、どうかお許し下さい。。
        ①「行き過ぎることもなく戻ることもない…こちらの岸(この世)とあちらの岸(かの世)をともに捨てる」(蛇経)の意味するところは、「4に行き去ることはないし、3に再びとらわれることもない。4から3に戻りながらも、3にも4にも不住(とらわれない・とどまらない)」という感じかと思いました。
        ②4へ行った世尊が「3に戻って衆生のために働く」決意をしたのが「耳ある者に甘露の門は開かれた。信仰を捨て去れ。」(律大品Ⅰ,5,12)であり、これ以来、世尊の大きな船が動き出し、そして、世尊に「すべての絆より脱した比丘たちよ、遍歴せよ、…世間に対する慈しみのために」と告げられ多くの比丘たちが3へ戻っていった時、今につながる大乗の船団の活躍が始まったと思いました。「信仰を捨て去る」は、道の始まりにも、途中にも(おそらく到達の時にも)使える、解放を示す句だと思われます。
        ③『心経』の「色即是空」は、4からみた3の様子であり、「空即是色」は、3に戻って見える、甦るような様子を表しているかもしれないと思いました。
        ④四句の4からみた3「一切皆空」の意味を、世尊は『経集』5、9~13、1119、『法句経』170等で繰り返し述べているのに、『法句経』277~279の三相に加えて「一切皆空」を並べて述べなかったのは何故だろうかと思い、理由を三つ考えました。
        理由一…「空」の語を世尊は、3にも、4にも用いるから。→3の意味「世界を空なりと観ぜよ」(経集1119)。4の意味「解脱の境地は空にして無相」(法句経92・93)。
        理由二…「一切皆空」は、「諸行無常」から派生し、「諸法無我」とも重なるから。
        理由三…人々が「空」を、形相・虚無としてとらえたり、概念化したりする可能性があるので、世尊は「空」を強調したり多用したりせず、「泡沫」や「陽炎」等の比喩を用いたり、「無一物」「無所得」「無相」等の語を用いたりしたのではないか、と思いました。
        また、龍樹と「空」をめぐって論争した有部がカニシカ王の後の頃に編んだという『ウダーナヴァルガ』12:7に、「一切皆空」が三相と並んでいるのは、興味深く思われました。二世紀後半には、有部においても「一切皆空」という表現がブッダの四テーゼの一つになっていたのでしょうか。

        今回の四句分別のお話は、自ら行じて確かめることの道しるべとなり、経典という縦糸に交差し、信を確かなものにする、横糸のようなものと感じられます。まことにありがとうございます。

        • mani(管理人) より:

          >今回の四句分別のお話は、自ら行じて確かめることの道しるべとなり、経典という縦糸に交差し、信を確かなものにする、横糸のようなものと感じられます。

          近侍郎さま おはようございます。縦糸が論理なら横糸は倫理でしょうか。
          ブッダが語る「善き人」とは誰なんだろうとずっと思ってきましたが、近侍郎さまのお話を伺って、何となくわかる感じがしました。

          この世の中で誰もがいい人だなあと思うような人のことなんだなと思った次第です。

          善き人に満ちた世界を実現したいものです。。

  2.  春間 則廣  より:

    *

    > ブッダが語る「善き人」

       だれか(誰でも良いけれど)
           そこに入る人 は  いますか ?

      わたしの知っている 人  が 入っているのであれば
                         ( 是非 とも )
          おしえてほしい  と    望みます

         内外 を 見る  内外の外の人

         善き人  が  一人でもいれば

         善き事  が この世にあることになります

       あとは あること  について  商量を巡らすこと無く
            そのまま  受け入れることが 肝要

        問題 は  “ そのまま ” を 受け入れること が
               できるかどうか
            (  タター ガタ   が   いるかどうか )

               ta ta  多難       ・・・・・・

  3.  春間 則廣  より:


         
       道義的責任 を   わかって 行動できる人   に
       法的責任  の      逸脱はない

       “ 逸脱のない ”    ということ  を 
        逸脱しないように    気を付けて欲しい

      法的責任   は   “ 法のありよう ”  によって 規定される

        「 法 」  を    逸脱しない者はいない
      ( あるようにあって tata  逸脱することがない taような 法 )

       「 道義 」  という  「 道 」 の 意味を 逸脱する

        「 道 」 は   道であって 道にはあらず

                          ミチ ではない

          道子 の 歩む   ミチ  が  道であり

             それ以外の道   を  道子は歩み得ず

         いうまでもなく

            “わたし”   は   “その” 道  の外にある