
今年はよくピーマンが採れました。今も採れています。これから先もしばらく採れるかな?
過去と現在と未来の時制にわたって語っていますね。この三つをまとめて「三世」と仏教では呼んでいます。三つの時制に分けて語る、という仕方で語ることは仏教では必要なことです。
三世については、おいといて、次に「聞法」の話題を。
法を聞くのが「聞法」。誰でも、そのくらいわかるよと言うかもしれないけど、これが意外と深い意味をもっている。ブッダの理論だからなのです。
ちなみに、インド哲学全体は「法」ということばをどう使うかを知っているのです。ブッダが教えたからです。2500年かけて学んできているのです。
「法」というのは、インド哲学では、その人の理論体系全体を指して、そう言うのです。
その人の?
そうです。誰か理論体系を作った人の、その人の「理論体系」を、「法」と名づけたのです。だから、ブッダは、ブッダの体系では一切智者なのです。ブッダは理論体系をもっていて、それを明らかにするからです。法の体系といってもよいでしょう。
そのことばの使い方を示したのが、龍樹の『方便心論』(論法の書)なのです。
それは、龍樹論法ではなくて、ブッダの論法だから、わたしは「ブッダ論理学」と名づけたのです。龍樹は、ブッダのお弟子さんなのです。「まるごとのお弟子」と名づけます。
ブッダが「一切智者」であるということは、自分自身がその体系の中に入ってしまって、そこで内側からその理論体系を閉じている、ということなのです。
だから、ブッダが一切智者であることは否定されないのです。だから、ブッダ世界ではブッダは万能の神さまと同じなので、「神仏を拝む」ということばが生まれたのだと思ってます。
だから!
本題です。
聞法とは、それぞれの法の体系を聴くことなのです。「さて、これより法の探究がある」といって、それぞれの理論家は法をスッタ(スートラ)(経)の形式で語るのです。
ミーマーンサー学派は、『ミーマーンサー・スートラ』を語ります。
ヴァイシェーシカ学派は、『ヴァイシェーシカ・スートラ』を語ります。
ブッダにこのようなやり方を教わったので、インドの哲学は体系の整備に余念がないのです。
ブッダは、法を語って涅槃に入りました。だから、みな、法を聞くのです。
木の葉のざわめき、自然の変化、生き物たちの活動、それらの中に、「法を聞く」という行いもあるのです。龍樹の『中論頌』は、ブッダの法体系を聞くための解説書なのです。
なので、ブッダは天人師(神々と人の教師)といわれています。
コメント
不去不来 の パピーマン
*
細い茎 に 大きな果実を結ぶと
果実 は 根元の 地 ・ “ 知 ” に 落ちる
パピーマン は 空 中 に なって いる
> 今年はよくピーマンが採れました。今も採れています。これから先もしばらく採れるかな?
今 考えていることです ( 今 起されて起きていること )
> 過去と現在と未来の時制にわたって語っていますね。この三つをまとめて「三世」と仏教では呼んでいます。
語っていること と 「 三世 」 との 間に 齟齬があります
語ることができない 未来( 「 仏教 」 ) に
過去 と 未来 とが 入ります
過ぎ去った と 顛倒する ・ いまだ来てはいない と 顛倒する
「 認識 」 は “ 常に ” 未来 を “ 顛倒して ” 語る
過去の姿 を いま顛倒する ( 定まりし 今 )
正しい( しかし 誤った ) 「 認識 」 が やってくる
、、、、 未来から
来ても いないモノ が 「 未来 」
今 来ているモノ が 「 今 」
過去のこと は 「 今 」 に 認識されている
今の出来事 となる 「 認識 」 は 今起きている
( 「 去 」 なる 来てはいないモノ )
正しく 「 分別 」 できるまでは “ 未来 ” のこと
『中論頌』 ( ? ) は “ そこ ・ 今 ” を 指す
「 不去不来 」 の 「 八不 」
“ uktamg gamyamanagatagataih ” 「 余如二去来答 」
呼び名 は “ 自由 ” に 発し
「 自 」 は 「 顛倒 」 に 発する(由)
自在に語ることを得る 在 という 財なる 「 認識 」
しからば イカ に 語るかを イジョウ に 述べる
以下 余白 ( すべて 意 ・ 「定」 の 判断 )
・
> 語っていること と 「 三世 」 との 間に 齟齬があります
> 語ることができない 未来( 「 仏教 」 ) に
> 過去 と 未来 とが 入ります
わたしも最初はそう思いました。未来は語ることができない、と。でも、覚りに到達したとき、ゴータマは過去世を見ていき、生きとし生けるものの未来世を見ていき、現在世に於いて解脱します。
さとりを説明するのには、いろいろな方法があると知ります。
現在だけを用いるのは、「空」のやり方かもしれません。
> わたしも最初はそう思いました
今はそう思いません。
最初は誤り、後に正す
正すまでは、誤りを知らぬハルマ
知らず を 、 通す 路 (つ うろ)
正すまでは ショウチ なし
みんなおんなじだと過つ
あなた は 別 ( 隔たり に ある )
> 最初は誤り、後に正す
そう読んだのですね。春間さまと違うこと書いてると思うんだけど。
「未来は語ることができない」と最初に思ったのです。
自分の未来のことを考えたから。
ブッダもそう考えてるみたいだった。
そこで、未来は、天眼通になる。他の生き物たちの行き先を知っていく行為になるのです。まあ、「生き物たちは今のままだとして」、という条件がついているんでしょう。
しかし、現在において、気づくものは気づくのです。
*
> > 最初は誤り、後に正す
> そう読んだのですね。春間さまと違うこと書いてると思うんだけど。
違うこと が (誤っている こと・解釈 が) 書かれている と 思った
> 「未来は語ることができない」と最初に思ったのです。
最初 は 語ることはできない と 思った
後に それは 誤りであると 知った( 正した )
> 覚りに到達したとき、ゴータマは過去世を見ていき、生きとし生けるものの未来世を見ていき、現在世に於いて解脱します。
到達している 「 今 」
( 「 今 」 という 覚り を 見ている )
過去生・有情の未来性 を 現在生 として 「 今 見ている 」
( 「 三世 」 とは 現在生 に “のみ” 起されていること )
( 過去も 今も 未来も 「 今 」 には ない → 無量寿・アミターユス )
「 今 」 ( に ) 生きている Buddha
( 無量である故 として 起している 「 今 」 の 「 生 」 )
現在 という 「 今 」 は 存在していない
( 現・険 とは “ 幻惑 ” に 過ぎない )
気づいている者 は 気づいている故に 気づきを 起さない
「 不去不来 」
そこ も ここ も そこ以外・ここ以外 も 「 不生 」
> さとりを説明するのには、いろいろな方法があると知ります。
一つだけしかない “ 正解 ” を いろんな角度から眺める
( 一つしかない から すべて 正解 )
いろんな方法がある と 異論 を となえる
( その方法を 正しいとしない のは 不正解 で ある )
そこ も ここ も そこ以外・ここ以外 も 不生 という 「 生 」
であれば! 正しさ とは 不正解 となる
ではなければ 誤り とは 正解があってこそ 起きていること
正解( 八不 ) を 懐いて
不生 を “一つのこと” として 取り出す
一つしかない 空( そら )
地( “ 知 ” ) が 二つめとして 目に入ってしまう
地平線 を 眺めている 、、、、
現在 とは 地平線であり
誰の周り にも ある ( にもかかわらず )
雲 を見たり 建物( 建造物 ) を見たり 、、、、、
( 雲 も 建造物 だと 思いもしない )
建てている “ 思い ” に 隠れる 地平( 地と空 )
誤り ということ を 知らない 誤っているハルマ
先にも 後にも 正しようがない 正しいと思っているハルマ
今に生きている ゆえ に 「 有情 」 と 呼ばれ
「 有 」 という 今 を 常 に 眼前にしている
気づく者 が いくらいようと
気づいてはいない ハルマ
そのハルマ を “ ハルマ以外 ” が “ のぞき込む ”
( 気づいている 賢造ブツ で 見ている )
今日 は 「 仏滅 」 やも 、、、、、
・
*
これが 存在していようと ・ いまいと
気付いている者 が あなたであろうと ・ なかろうと
“あなた” という 「呼称」 は あなたに呼びかけられる
“わたし” は “あなた” の 一員であり
“ 一因 ” なのだから ( 多 因 と知る 位置 )
これを読む人は ( わたしも読む人 ) “あなた” である
あなたに語っている けれど
“わたし”に語っている
とは 思いも寄らぬ
寄って欲しく は ない 重いゆえに
わたし は ヨイ に マ 加勢 ている
( 「 苦しいかな、痛いかな 狂酔の人 」 )
何れの時にか マハ毘盧遮那 の 光 を 見ん
其の解毒に随って薬を得ること 即 別 なり
・
のつ!寝てたんだけど寝返り打ってたら学校に着いてた
ドゥルルルルルルル、、、、、
春間さん、相変わらず言ってることがわからない!!!!
今、頭の中が鹿せんべいでぎっしりだから余計にわからない!!!!
とりあえず、鹿せんべいの代用品として、大好きな南部せんべい(厚焼きピーナツ煎餅)を
食べている。もう、最終回なんてさびしい。。。
学校←誤
マニカナ←正
先生、プライベートに一区切りついたらまたお邪魔しますー
ぎんたん、おこんばんは。
>先生、プライベートに一区切りついたらまたお邪魔しますー
まってまあす。。
南部せんべい見て、思い出すことにしよう。
*
> 覚りに到達したとき、ゴータマは過去世を見ていき、生きとし生けるものの未来世を見ていき、現在世に於いて解脱します。
“覚りに到達したとき” = 「 未来 」
は 「 今 」 に ( 既に ) 来ている ?
“ 現在世に於いて解脱します ” 誰の ?
「 解脱するとき 解脱したと分かる 」
= 解脱した時 に 解脱した と 分る
= 「 三世 」 は 今にある
>> 正しく 「 分別 」 できるまでは “ 未来 ” のこと
正しくない と 言っているのではなく
正しいこと を 言っている “わたし”
( 正しくない と 聞く 正しさにある “あなた” )
法を聞く ゆえに 法を語り 法を伝える
( 正しくないハルマ から 正しさを聞く・知る “あなた” )
正しい こと=ことのは 端 と “中” と 根(本)
茎 から 葉生する 「 実 」 を 支える
「 實 」 は “ 知 ” に 落ちる
ジ っ と 落ちたままでいる
上下 ガ ある 故は 「 我 」 が “中” に ある
上中下 という 「 定 」 ・ ジャーナ ・ 「 常 」 「 今 」
「 無常 」 である にも かかわらず 留まっている
「 悪 」 に かかわらない 「 善 」
「 善 」 があるところ には 「 悪 」 は ない
( あかり は 明るい のではなく 暗くないところ には 闇はない )
→ 明るければ 病(ヤミ)がないのに あかりを見ることはない
ヤミ とは 難である
( ナン てことなく と くる 実 を 手中 に する )
いくら 言葉 に しようとも 聞かれなければ 聞くこと は なし
明るい 故に ヤミ ハ ナシ
病 難 止み 難 難 て こと は な し
( 病んでもいない のに やめる こと は な し )
遊んでいる のです ( ハナシ こと は あそび )
( 幽 と 遊 とは 言 う 幻 の 中に起きる )
現有 という 「 有 」
ママ ごと( 真似事 ) を している 儘 (の中) の 「 我 」
ママ は ほとんど 痴呆の如し ( 妖怪 誤 カイ 護 解 )
ママ事 に 明けて暮れる 日没 の ときをながめる
エン シュアー に のぞみをかける
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