咲いてる花がこれくらいしかないので、写真も、こんなもんです。また百日草かい、っていわないで。
いや、それより、「また龍樹かい」って言われそうです。
おっしゃるとおり、またまた龍樹の話題です。むかし、「ヴァスバンドゥ二人説」ってのがあった。
ヴァスバンドゥという仏教で有名な人がいるけど、いくつかの作品で知られているその人はじつは同名異人だろうという説です。龍樹の作品とされているものは数多いので、今は『中論』だけが、龍樹作ということになっている。誰か、別の人が書いたものを、龍樹の名前にしてなんでもかんでも取り込んで行ったのだろう、ということです。
学界全体がそういうことになっていて、そのように決まっています。
でも、巷では、誰もそんなことは言わない。世間の人は、ブッダに手を合わせるように、龍樹にも手を合わせています。龍樹と聞いたら、それは龍樹であると、みんな、思っています。
つまり、学者だけが疑っている、という構図なのです。世間は誰もついてこないのです。
龍樹の評価については、二つに分かれていることになるのですが、それがまかり通っているのが、この世なのです。
私は不思議でした。世間はなぜ学者の言うことを信用しないんだろう。自分も学者だったので、解明したことは、価値のあることだと思ってました。。世間の人は、なぜ、仏教のことについてだけ、反対するんだろう、って。!
ようやくわかってきました。自家撞着の構造というものが!
インドは昔からこの構造のことをよく知っていたので、ヨーガ・ディヤーナを編み出したのです。
つまり、自分自身を変えることによってしか知り得ないことがある、ってことを。
恐ろしい構図です。
見えるとおりにある、と誰もが思っているときに、「見えるとおりとは限らない」ということが、どんなに衝撃かははかりしれません。肯定されていたものが否定される時の衝撃を、みな味わうのです。
ですが、それもたちまち慣れてきます。衝撃は慣れることにより日常へと変化します。「SNSでいわれることはあてにならない」とわかると、そこにしがみついてしまいます。そして、「SNSはあてにならない」とだけ、つまり、インプットされたものだけ、それを信じます。
わたしたちは、こうなのです。学者であろうと、ふつうの人であろうと、自分自身でものを考えると言う習慣が行われてこなかったのが、この世の中だと思っています。
そこにチャレンジしてきたのが、ブッダであり、龍樹なのです。つまり、もう一度いうと、
自分自身を変えることによってしか知り得ないことがある
ということです。
わたしは、望んだわけではないけれど、自分を変えることによって知ってきたことがあります。
その意味で、龍樹は、わたしの仲間です、っと、思います。真実とか真理とかがあると思って、それを求めてなんでもやりました。いいことも悪いことも。だけど、結局、善いことに行きついたのです。
だから、龍樹は善いことを強調するのです。
あれ!こんなことを言うつもりじゃなかった。
龍樹は、自分を変えることによって、ブッダの無我の思想をゲットした、と言いたかった、のです。だから、ブッダと同じように扱われて、お参りされるのです。
無我がわかるのは、本当に!名前のない庶民です。その他大勢になってはじめて、無我に気づくのです。なんか、どこかへんだって?
変じゃないよ。自己であるのでもなく自己でないのでもない、という道を行くのが「無我」の道だからね。
名前があり自己のある人には気づけないのです。
自分自身を変えることによってしか知り得ないことがある
「自己」を持つ人々には、「自己ならざるもの」の思想は、自分を変えないかぎりわからない。。のです。
わたしの分かったことは以上です。
自分自身を変えることによってしか知り得ないことがある
一つのことを知るために人生を費やしました。。ま、どうせ、輪廻の身はひまなんだけど、さ。
コメント
*
> 「自己」を持つ人々には、「自己ならざるもの」の思想は、自分を変えないかぎりわからない。。のです。
“ わかる ” ということは わからないこと に 依拠しています
わからないこと が わからない 限り
わからないこと は わかること には 変りません
わからないこと は わからないことである という
“ 決まっている 事実 ”
事実 が 決まらない という 「 真理 」
「 真理 」 を 知るとき 事実 は 変ると知る
( 事実 とは 言い換えると “ 実体 ” に 他ならない )
“ 事実 を 曲げて知る ” = まっすぐな事実
( 曲がると知ること は 曲がらないのだろうか ?)
「 真理 」 を知ると 曲がるものは 「 真理 」 ではないと知る
知る ということ は 実体を知るということ
実体 とは 必要に応じて 現れ出る 現象
知る ということ は 知る必要がある時にだけ 現れ出る
( あらわれ なければ 知る対象 とは ならない )
必要 は 発明( 明を発する ) の 母 である
( 母 である 必要 が 「 明 」 を 発する )
父 という 「 神 」 の 必要性 ( 神と共に生きる 「 我 」 )
「 我 」 と 共 に 生きている 「 人 」
「 神 」 と 「 我 」 との 違いはどこに ?
・
先生、こんにちは。
自分自身を変えることによってしか知り得ないことがある。
という言葉。
とても納得です。
私もそうでしたが、自分のこう思うに固執してしまうと見たいようにしか見えなくなりますね。
先生にもとても迷惑をおかけしてしまった以前の件も、自分のなかのいろいろな間違いを見れるようになりました。
そうなるまでにたくさんの方に迷惑をかけてきてしまいました。
彼女にも自分の見解が間違いだったことを告げ謝りました。
世の中の各種の論争も、主張しすぎ批判しすぎから不幸を呼んでるように思えます。
過度は良くないですね。
赤い実さま こんばんは。
>とても納得です。
お、ありがとうございます。この種の難しさは独特ですね。
意味は、「なるほど」とわかっても、実感を伴って語る言葉が見つからないような感じが在ります。
赤い実さま、反応いいなあ。それだけご苦労されてるんでしょうね。
世の中の人々も気づいていけるといいのになあ、って思います。
>過度は良くないですね。
ほんとにね!
> “ わかる ” ということは わからないこと に 依拠しています
この書き方にいつも引っかかっていましたが、ようやく、新しい読みを使うことができました。
わたし的には、「わからないのが本当なのだ」という龍樹の言葉をあげてみたいと思います。
>「 神 」 と 「 我 」 との 違いはどこに ?
違いはない、といったら、どうなるの?
わからないのが本当なのだから。(完全に自家撞着しているもよう。。)
> 「 神 」 と 「 我 」 との 違いはどこに ?
「 我 」 は 肉(体)に依存している
依存しているけれど 肉 とは 違う 存在
いくらにくもうとも 組んでほぐれない 肉と我
豚肉 と 牛肉 と 鶏肉 と 人肉の 値段(価値)の差
肉に 価値を見いだす 肉よりなる 「 我 」
今 は 酉 が 一番安い ( 猿の次 犬の前 )
「 意 」 の 下 で 「 前 」 に 位置する
>「 意 」 の 下 で 「 前 」 に 位置する
尊師は言いました。「多様な思いの名称に関して、根本にある『考えたあと、わたしはいる』という一切を破壊するとよいでしょう。自己のうちにある渇愛は、どんなものでも、それらを調御することを、常に気づきをもって学ぶとよいでしょう。(『スッタニパータ』916)
「前」にあるものは破壊せよ、と尊師は教えているようです。
> 「前」にあるものは破壊せよ、と尊師は教えているようです。
「前」にあるものは 肉よりなる 「 我 」 です
肉よりなる 「 我 」 を 支配している 「 意 」
「 意 」 は 「 破壊せよ 」 という ことば を
「 意 」 の 下 で 聞く
「 意 」 をもってして 「 意 」 ではない言葉を聞く
「 それらを調御することを、常に気づきをもって学ぶ 」 という
ことば は 常に「 意 」により “ 気づき ”となり
目標とされる ( 目標とする 「 意 」 )
学び、 実践しようとする 「 意 」 を 捨てる
( 学ばずに実践している と 知る )
学ぶこと は 捨て去られるべきこと
( 知ること を 捨てると 知らぬことが 起きる )
知らぬこと は 知ろうとしてはいけない
知らぬ人 は 学ぶこと とは 何であるかを知らぬ
知らぬこと を いくら積んでも どのようになるかは
分らぬこと であり
分る必要 は 決して起きない
周利槃特(チューラパンタカ) が 掃除するのは 「 意 」
「 意 」 は いくら掃いても 掃くといういう塵をそこに置く
掃いて捨てるほどの 「 意 」
を 拾う 「 意 」
************************(岩波より)
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
************************
拾っている “内” 掃いて綺麗にしている “内” は
外面 である
内の内なる 内 を 捨て去る
捨てる を 捨て去る
内外 を 捨てる
“ 前後 ” を 捨てて 後 を 知る( 前を知る )
前に進んできた 「 我 」 を 知る
知る前にしていたこと とは 知った後に 知ること(すること)
( このこと を 「 意 」 は 解釈する )
前後 を 決めている・解する 「 我 」 を 捨て去る
( “ 前後 ” とは 「 縁起 」 に 起きているに過ぎない )
前 を 捨てるには 後ろに立つ必要がある
後ろから前を持ち 捨て去る
そこに 前 が 起き 捨てる 後が起きている
前後 を どのように捨てる かを 拾うことはできない
拾う 「 我 」 を ( 「 瞑想 」 で ) 捨て去る
「 瞑想 」 を もってして もっている 「 我 」 を 知る
( 行住坐臥 = 読む すべて を 「 禅 」 に おこす )
読まずに知る 読んでいること
( しるため に 読んでいると 知る )
読まずに知っている と 思う 酔う心・ようじん
ヨウジン ヨウジン 要・酔う と 知る
・
mani先生 「自分自身が変わる」と自動詞にして「自分自身が変わることによってしか知り得ないことがある。」と読んだら、気付きが三つありました。
1『蛇経』が効く
「自分自身が変わることによってしか知り得ないこと」について、『蛇経』は譬えを用いて懇切に説いていると感じました。『心経』が唱えやすく一望できる地図のようだとすると、『蛇経』は五根のツボにピタリと効き、五力を引き出す針灸マッサージや温泉のようです。『蛇経』は、『心経』の「空」「無~」にあたることも述べているように思いました。
2「信」の意味
「自分自身が変わることによってしか知り得ないこと」は「信」から始まると思いました。
「信」は、教説に沿って自ら行じ「なるほどそうだったか!」と独り腑に落ちることだと思います。車両感覚自体を授けられない車の免許の教官のように、世尊は教説を説き、そばにいて見守ることしかできない。修行者が「信」をベースに「自分自身が変わることによってしか知り得ないこと」に習熟し、ついには「信を捨て去る・解き放つ(mutta)」に至るべし(経集1146)と世尊は励ましているように思いました。「mutta」の意味を調べたところ…
3「信を捨て去る」
muttaの意味に「①脱した,解脱した,放出の.②小便,尿.」とありました。そして、①を②で象徴しているような問答を見つけました。こんなのです。(『趙州録』315)
問い 差し迫った処(一大事)を、どうか教えて下さい。 急切処 請師道
答え 小便は小さな事ではあるが、自分自身でせねばならん。尿是小事 須是老僧自去始得
この答えは「自分自身が変わることによってしか知り得ない」と言っていると思います。
この答えにかかわる世尊の言葉として、こんなのが見つかりました。
「浄いのも浄くないのも各自のこと。人は他人を浄めることはできない」(法句経165)
「ことばで説き得ないものに達しようとする志をおこす人は」 (法句経218)
「汝らは自ら努めよ。もろもろの如来は教えを説くだけである。」 (法句経276)
「伝承によるのではなくて、いま目の当たりに体得する」 (経集1053)
「信を捨て去れ・解き放て」 (経集1146)
世尊の教説に沿って行じ「信」に基づき祖師方が言った、冷暖自知・不立文字・教外別伝・直指人心・無依・逢仏殺仏は、上の世尊のことばと同じことを言っていると思います。
そして、「信を捨て去る・解き放つ」とは、自分自身が変わることによってしか知り得ないこと=信(体得)の連鎖のよって体現がなされ、師の教説(筏)にも己の境涯(洲)にも、こだわらない(無~)、というような感じでしょうか。
今回の句によって、いろいろな気付きがありました。ありがとうございます。
近侍郎さま こんばんは。
自動詞にしたのですね。なるほどなあ。行者のタイプかもしれませんね。
>『蛇経』は五根のツボにピタリと効き、五力を引き出す針灸マッサージや温泉のようです。
うまいなあ。『蛇経』がどんなものかがよくわかります。1ならず、2や3の説明もうますぎです。ほんとにかゆいところに手の届くよう。
>もろもろの如来は教えを説くだけである
これも大事かな。如来の道しるべがないと、糸の切れた凧みたいになっちまうから。
mani先生
>自動詞にしたのですね。
「貪る」「憎む」「愛する」等は一応は他動詞だけど、主体的意思により足の指をピクピク「動かす」のとは違って、心は勝手に「動く」ばかりだと、ある時ふと思いました。
ドゥッカは勝手に「生じる」し、追いかけ消そうとすると一層盛んになっていく感じです。
それで定に入る時は、「身をととのえ」「息をととのえる」ため、他動詞として身と息を「動かす」けれど、「心をととのえる」のは心に任せ、心が「ととのう」のをお待ちしています。
「彼は…智慧を得ようとはからいをする人ではない。」経集1091
「正しく向けられた心がしてくれる。」 法句経43
「心が統一されたら、豊かな智慧が生じる。」 法句経282
と世尊は言っておられ、どうも、智慧は「得る」というより「生じる」ようです。
はかどらなくても、お差支え無く、他動詞として行えることは行って、あとは心にお任せ。
というわけで、己の変化は、自動詞「変わる」の方がしっくりくる感じがしています。
近侍郎さま こんばんは。
>心は勝手に「動く」ばかりだと、ある時ふと思いました。
なるほど!直接動かすのは難しいですよね。身をととのえ、息をととのえることで次第に心がととのうのをお待ちするのですね。
>どうも、智慧は「得る」というより「生じる」ようです。
智慧に満ちたご意見ですね。すばらしい。禅定に行く道を知っておられる。
間接的に制御していく方法を知って、実践していることがわかります。