グラジオラスが一つ咲いた。水引草も周りを彩る。ほとんど雑草だらけでなんの彩りもないところに花が咲くのはうれしい。
さて、タイトルにあるように『般若心経』なんですけど、わたしは、この経典を最初に観た時、仰天しました。わたしには、この『般若心経』は、「空」の論理構造を明らかにする論理学書だったから、最後のマントラ「掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」を見て、腰が抜けそうだったのです。
な、なにぃ!
ですよ、ほんと。
マントラ文献と称する学者の人もいます。
ずうっと長いこと考えていたけど、自分の中で結論を出しました。
般若経典類のエッセンスと名づけられてもいいような重要な論理を示しています。その名も「空」。空は、これまで、誰一人として口に出したことがなかった論理なのです。
誰も気づいてこなかった論理なのです。そして、それは「有(ある)」の存在論哲学とは、実は相いれないのです。それは「無い」とも違います。無いのではありません。
有るようには見えるのです。それなのに無いをイメージさせる「空」という名称が使われたのです。
「空」とは一言で言ったらなんでしょうか??
一言で言えば、「こだわらないこと」を結晶のようにして、取り出したものなのです。
すごい論理なのです。
なぜなら、「空」には智慧がみっちり詰まっているからなのです。
「般若心経」という経典は、「あるのでもなくないのでもない」というなんだかわからないものを、示す理屈であって、「こだわらないこと」を特徴とする論理を示しているのです。
こんなわけのわからないものを珍重するなんてどうかしてます。
だけど、みんなを救うのです。ことばを使う人すべてを救うのです。
そうなら大事なものでしょう。
さあ、こだわることなく、でも示す人には大事な論理「空」を、人々がこだわることなくでも思わず使ってしまう、そんな論理を示すにはどうしたらいいんだ??
智慧を使え!智慧を使ってみんなを救え!
そうだ!
誰でも、自然と唱えてしまうマントラ(真言)にしてしまおう。
わけがわからなくても大丈夫。どうせ誰もわからない。わけわかんないのが経典なんだから、これでよい!
でも、唱えれば、自然となんとなく幸せ(楽)がやって来る、
それに、誰一人傷つけることがない、ッと断言できる。
だって、だって、「くう」 なんですもん。「中身が空っぽ」なんだから、誰をきずつけるの?
幸せ(楽)を呼ぶのは「般若心経」
諸仏が讃えるマントラ、真言、大明呪、大神咒。
このなぞ、わかる? わたし、わかった。。でも、いわないでおくね。
唱えるマントラ。。幸せになる。。ならない人はならない。。あるように見えても空なんですから。
コメント
親戚の真言宗でのお葬式で般若心経を聞いたのが、私にとっていちばん最近に聞いた生の般若心経だったかな。
と言ってもだいぶ前です。
その時は何も考えず聞いてましたが、こだわりなく成仏してほしいというのが込められているのかな。
それとは別に、生きている私たちもこだわりがないと苦しくない、というのは確かですね。
いろんな方のコメントを拝見したいなぁ。
なので今回は私はこれで失礼します。
台風がそれてくれそうでよかった(^o^)
失礼します。
最後の呪は、「思量の起こらないところに直に行って、見てみよう!」と励ましている感じが私はします。
梵音をいかしつつ、やや和風にして、右に世尊の句を置いてみました。
梵音 和風 世尊の句 出典
掲帝掲帝 ゴー(GO)、 ゴー ⇒奮い立ち、激流を渡れ。 『法句』25
般羅掲帝 とっぱらってゴー ⇒想念をことごとく焼き尽くして行け。 『法句』31
般羅僧掲帝 晴らすぞゴーゴー ⇒何かを得ようとするはからいを捨てよ。『経集』1021
菩提僧莎訶 うォ凄ィマジかー ⇒ことばで説き得ないものに達し、目の当たりに体得する。これが洲にほかならない。『法句』218、『経集』1053・1094
失礼しました。
近侍郎さま おお!なんかすばらしい!勇ましい感じがしますね。勇気が自然とわいてくる感じです。
個人的には、
> とっぱらってゴー ⇒想念をことごとく焼き尽くして行け。 『法句』31
この句に勇気をもらいます。
「法句経」31の繋がりで、龍樹の『方便心論』から一つ、こんなんありました。つながってるような気がします。
三・三・二【涅槃なしについての反論二(論者B)】
又諸業報不可毀滅故有涅槃、所以者何、譬如大火焚燒山林故火是滅因、今此業報是何滅因而得滅耶。
又、業の報いは毀滅することがないのであるから、涅槃はある。どうしてか。例えば、大火が山林を焼き尽くしてしまうから、火は又これを滅する原因でもある。今この業の報いは何を滅の原因として滅を得るのだろうか。もし涅槃を獲得すれば、たちまち散り滅してしまうだろう。
mani先生 『方便心論』の句を教えて頂き、ありがとうございます。
> 今この業の報いは何を滅の原因として滅を得るのだろうか。
「何」にあたるものは、頭燃を救う明の炎でしょうか。
不動明の炎のレベルが「弱」の私は、業悩の強火に炙られてすっかり黒焦げです。
が、「以毒為薬」智度論の句を見つけたので、関連する蛇経1を考えてみました。
毒に縁りて薬あり、業悩の炎に縁りて不動明の炎あり、
この世に縁りてかの世あり、ともに捨て去る、という感じです。
「ともに捨て去る」は『般若心経』の「無~」のことかもと思いました。
ありがとうございました。
近侍郎さま こんばんは から おはようございます。
>この世に縁りてかの世あり、ともに捨て去る、という感じです。
>「ともに捨て去る」は『般若心経』の「無~」のことかもと思いました。
ふうむ、なるほど、なっとく です。
「無~」のことかも、とおっしゃっておられることもなっとくなっとく。
下のコメントですが、
>掲帝掲帝 息の出入れ
ここに注目!実際、ハタ・ヨーガで、あるんですよ。プーラカ、レーチャカということばが。『ヨーガ・スートラ』にも載っています。だから、
>般羅僧掲帝 腹ごとおそうじ
が、効いてるなあ、って思いました。ちなみに、ハタ・ヨーガはちょっと違う道を行くのですが、ハタ・ヨーガはそのことを知っててやってるな、って思います。
ブッダを超えてるつもりかな、って思ったりしますが、残念なことに。。。
近侍郎さまのストレートな解釈があたっていると思います。
再び失礼します。前作の和風発声は中学男子っぽかったので、改めてみました。
梵音 和風 大意
掲帝掲帝 ゴートゥ ゴートゥ ⇒ゴートゥ ボーディートラベル。
般羅掲帝 はーらー(腹)ゴートゥ ⇒腹(覆蔵)の大掃除を決心します。
般羅僧掲帝 はらそー(腹掃)ゴートゥ ⇒覆蔵の根にある潜勢力を整えます。
菩提僧莎訶 菩提 そば(側)かー ⇒菩提は側か……心にお任せします。
これなら梵音との違いを周りに気づかれずに、大声での吟唱が可能です。
「ゴートゥ」を「強盗」としても、捨棄を説く世尊の教えに叶うと思われます。
都々逸風にしたら、以下の真ん中の列になりました。
掲帝掲帝 息の出入れ ⇒具体的な修行のこと。
般羅掲帝 腹ごとやって ⇒「~ごと」に梵音が漂います。
般羅僧掲帝 腹ごとおそうじ
菩提僧莎訶 ボーティー知るかーっ ⇒『心経』の大意より「か」は反語。
失礼いたしました。
*
いろんな方 は コメント しにくいだろうな 、、、、
管理人エム 様 は ( 既に )
「 識 」 を
まとめているはず
> その時は何も考えず聞いてましたが、
考えていること に 気を(気が) 付けなかった
( 考えていなかった わけではない )
( その時は )聞いていない( 自聞 しなかった ) ということ
( 今 聞くと )
> こだわりなく成仏してほしいというのが込められているのかな。
こだわりをなくし て
( 成仏の道 を あ ゆ む )
( そこに ) あゆみたい という 願い
ささえられている という 確信 を 得る
ということ ( と 信じること )
・
*
まだまだ ですね 、、、、
> このなぞ、わかる?
わかるわけ ないでしょっ !
> わたし、わかった。。でも、いわないでおくね。
いっても わかりません !
( どんなに 懇切丁寧に 言おうと 分からぬことです )
わかる人 であれば、 言わなくとも わかる !
( わたしのように そっけなく言おうと
わかる・わかっている 人だけ にしか 分からぬことです )
わかっていること に 照らし合わせて
わかる は 起きる
> 幸せになる。。
なる !
> ならない人はならない。
ならない人 が なるのです
( ならない から 幸せなるように なるのです )
幸せな人 には 幸せはやって来ない
( 幸せな人 は “さいわい” 分け与える )
このようなこと を 「 空 」 という
・
> いっても わかりません !
> ( どんなに 懇切丁寧に 言おうと 分からぬことです )
そうかぁ。。わからぬか。。
まあ、自分が自分でもわからないところがあるのに、ましてや他人のことはわからない。。
> わかる人 であれば、 言わなくとも わかる !
> ( わたしのように そっけなく言おうと
> わかる・わかっている 人だけ にしか 分からぬことです )
世阿弥だったか、誰だったかのことば、「中よりはじめて上に行き下に留まる」という意味がわかったのです。
なんとお釈迦さまが発症の地だったのか、まちがえた、「発祥の地」だったのか。。
まあ、なんでもいいわね、わかったんだから。でも、しばらくすると、何でそう思ったかわからなくなりそうです。。なさけな!
*
> 世阿弥だったか、誰だったかのことば、
「中よりはじめて上に行き下に留まる」
誰の言葉か は 知らぬけれども ( あなたのことば )
その 中 から はじめて 上に乗る “頭” を ワッテ
その下 に ある 「 足下 」 を 知悉する
どこまで いこうと いつも 「 足下 」 の 上にいる
( 下に 留まる ということを 「 分 」 する )
> でも、しばらくすると、何でそう思ったかわからなくなりそうです。。
肯定的 に 考えれば(量すれば )
行ないに移る時 「 理 」 は “邪魔になる”
考える前に “前に一歩” ( 考えた末 一歩 では 機を逃す )
ただし 前・後( 善悪 ) の 量 を 否定してはいない
「 坐して 」 黙して 後・ノチ に( 前ニシテ )
自らに 語りかける
( 前にいる 自らに ウシロを知って 黙す )
思っていること・思ったこと は “ 大事ではない ”
( その “よう” を・に 知ること が 大事のこと )
知って 量する ところを 離れる
> なさけな!
“ 理詰め ” で 行くと “なさけ” は “ 冷えていく(cool) ”
( “なさけ” を 理に載せて “料・量” に かけ 「アルタ」 と知る )
“ わかっていること ” が なんであるか を
分かること も 「 量 」 であり
ハカリ に かけて 前後 の 料 を 比較する
> > ( どんなに 懇切丁寧に 言おうと 分からぬことです )
コンナ に 懇切丁寧 に いおうと ( イオウ の いうこと は )
わかり難きこと
( 行ない に あること だから 掃除をしていても わかる )
周利槃特 習 理 判 毒
https://www.otera-no-jikan.com/article/5297
「 中 」 より はじめて 上 を知り
「 下 」 にある 「 塵 」 の 意味を知り
あえて 下に留まる( 世を捨てず )
けふはここまで あすをしらず きのふ を いましる
( 仮 不 しる いまのこと 「 空 」 )
・
エム先生、こんにちは。
>なんとお釈迦さまが発症の地だったのか、まちがえた、「発祥の地」だったのか。。
まあ、なんでもいいわね、わかったんだから。でも、しばらくすると、何でそう思ったかわからなくなりそうです。。なさけな!
記憶冷めやらぬうちに、是非とも本に書いて下さいませ。宜しくお願いします。。
えび天サンバさま こんばんは。
>記憶冷めやらぬうちに、是非とも本に書いて下さいませ。宜しくお願いします。。
わたしのことだからすぐ忘れるだろうとおもいましたね。。あたり。おいおい!
それでも、まだおぼえているんですが、一つ気づいたことがあります。
今まで文献学といって、資料の扱いなど歴史的な見地から研究されることが多かったのですが、今回、ブッダのやり方を貫くと歴史的研究にはならないのです。論理学的、つまり演繹的なアプローチになってしまうのです。
等と言ってないで、サッサと本を書きなさい。
これまでの研究が思想史研究だったのに対して、論理学的に見て演繹的な真理としてブッダ論理がある、という立場になります。
エム先生、こんばんは。
>これまでの研究が思想史研究だったのに対して、論理学的に見て演繹的な真理としてブッダ論理がある、という立場になります。
こういう立場で本が書ける人はエム先生しかいません。という訳で、できの悪い押しかけ弟子の為にも、サッサと書いて下さいませ。( ´艸`)
>できの悪い押しかけ弟子の為にも、サッサと書いて下さいませ。( ´艸`)
えび天さまおはよう!
手間暇かかっててごめんなさいね。
7章まで書いたところで、ちょっと中断してました。
全面的に入れ換えるかな、って思ったりしています。
方針変わりそう。。「サッサと書け」ってお尻たたいてくださいね。
うーーん、困った、困った、って言ってるところです。
エム先生、おはようございます。
>うーーん、困った、困った、って言ってるところです。
いいですねぇ、全面的に入れ替えて下さい。後で後悔致しませんように。
松本清張バリのヤツをお願い致します。( ´艸`)
エビテンサンバさま おはようございます。
>いいですねぇ、全面的に入れ替えて下さい。後で後悔致しませんように。
ああ、こういう意見をいただくと抗しきれません。。
クールにかまえれば、言語論なんだよなあ、って思ってるところです。
カエルは仏教至上主義ではないので
全ての衆生が解脱するのは願いませんな。
人それぞれ、如来がいい人は如来に
菩薩がいい人は菩薩に
仙人がいい人は仙人に
芸能人がいい人は芸能人に
スポーツ選手がいい人はスポーツ選手に
価値や個性は多様であっていいのではないかと
それを前提に
生きとし生けるものが幸せでありますように
それらどんな人にも共通するのがブッダの教え。
ほんとにどうしてわかったのだろうと、不思議です。
あらゆる生き物は、苦しみから逃れようとする、ってどうしてわかったんだろう。
すべての苦しみから逃れる手段を教えるのが、ブッダの法。
生きとし生けるものが幸せでありますように、
ってか、
生きとし生けるものが苦しみから逃れますように。
*
> 価値や個性は多様であっていいのではないかと
それが 一様 だと 分かりませんか ?
多様であって よい とする
一つの考え方 に 差別があるのは 当然である
という 一つの意様( 考え方 )
> それを前提に
前提 が 一つの考え方 を 許容している
それに対して
>> それらどんな人にも共通するのがブッダの教え。
教え は 一つ です
( 多様性 を 許してはいない )
共通する “ 一つだけ ” の 「 真理 」
「 平等 」 に 発する ( 縁起する不平等 は ない )
( 不平等 あって はじめて 平等 は 起きる けれど 、、、、 )
「 真理 」 とは 「 縁起 」 であって
「 縁起 」 とは 一つだけで起きている
その こと に 縁って
支え合う 一つの 出来事 を 支えている
( 「 禅那正思惟 」 )
出来事 とは 「 縁起 」 の 「 理 」 によって
ささえられて起きている “ 一つの理 ”
( 出来事 とは 実ではなく 理でしかない )
真 ・ 虚 の 一つであるけれど
人( 衆 ) は 虚 を 真だとする( 虚実に迷う )
>> すべての苦しみから逃れる手段を教えるのが、ブッダの法。
「 法 」 とは 「 理 」 である ともいえる
理に迷う ゆえに
( 「 痛狂は酔わざるを笑い 酷睡は覚者を嘲る 」 )
「 苦 」 を 甘受している
逃れる手段はない と 教える ブッダ
「 生 」 を 甘受する ゆえに
「 苦 」 が 生起する を 甘受する
「 生 」 って なんであるか を 知っていますか ?
( それ・その 法 を 知る者 を ブッダ と 呼ぶ )
知る者 とは モノ に すぎない
( “もの” とは ) 出来事 であり 「 法 」 であるけれど
衆生 は 「 法 」 を 実体 だと “ 思い込んでいる ”
( ブッダ を 起きている 実体 だと 顛倒する )
起きている実態 とは 「 実体 」 である 自分自身
( 自分で 自分を支える ゆえに 揺れ動く )
必要のない 合掌 をする 常 不敬 菩薩
> 生きとし生けるものが苦しみから逃れますように
“ 苦しみ の 外 ” から はじめて見える・知る 苦しみ
苦しみ を 実体化する
「 生 」 ・ 衆生(多くの生のすがた)
あなた も わたし も
衆生 という 「 生 」 を 生きている
( “生きている” という 「 理 」 をしる あなた )
・
願わぬ人も解脱する
したくなくともする
したいことをする けれども
何がしたいか を テンドウする
していること の 意味をテンドウする
その意味 を しる 必要はない
必要のない 合掌をする 常 不敬 菩薩
何が必要かを決める あなた
。
伝統的には般若心経は香象大師法蔵のものと釈提婆の注釈でかなり本格的に注釈されていると思いました。
どうして『般若心経は間違い?』の時に日本のお坊さん(=仏教学者)たちがこれを持ち出さなかったのか不思議なくらいです。
>それは「無い」とも違います。無いのではありません。
>一言で言えば、「こだわらないこと」を結晶のようにして、取り出したものなのです。
縁起を、阿羅漢の解脱の方に向かわせず、すべてに無執着で、淡々と菩提資糧を積み上げるために、消極的に説いたのが「空」だと思えてきました。
縁起と空は裏表ですね。
>「こだわらないこと」を特徴とする論理を示しているのです。
本当にそうだと思います。
>「中身が空っぽ」なんだから、誰をきずつけるの?
>諸仏が讃えるマントラ、真言、大明呪、大神咒。
空っぽで誰にも勝たず、誰を害することもなく、ただ人々を利するマントラ。
私も般若心経が何となく分かってきた気がしますよ。PL様に追いつけたかな。
ぎゃーてーぎゃーてはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわか!
*
世界は一つ です ( その中身の )
一つ一つ が 「 利 」 を “のぞみ”
その欲望 に沿って 「 理 」 を “ 開きます”
一つ は
“ 人 の 苦しみを除ければ
人である自分 の 苦しみ も 除かれる ”
あるいは 自分のいる世界 を “自分の外に据えて”
“ 他人事 は 自分事ではない ↓
故 自分の利 さえ 得られれば良い
と “ 世間 を 覗く ”
「 般若 」 とは 文字に過ぎず
それを解釈する 人の利 に 沿う
・
*
上記の文章 が すんなり 胎に落ち
「 理解」 できるのであれば
上記 は あらためて述べるようなことではなく
「 あたり まえ のこと 」
『中論頌』 は 当たり前のこと を 後ろから覗き
その理解 を 正当( まさにまえ ) とする人に
開かれる ことば
おでこ という 前頭葉 の 働き(当ること) を
前頭葉 の 後ろから見れば 何かの 後 に すぎない
理解する・しない 前・後 は 「 縁起 」 におきる
・
> 空っぽで誰にも勝たず、誰を害することもなく、ただ人々を利するマントラ。
pocketさま こんばんは。
誰にも勝たない、ってところがいいですよね。もちろん害することはない。
害することがないから、人々を利するだけ。
こういう「善さ」に気づける自分でありたい。
> 害することがないから、人々を利するだけ。
人 一人 を 利する(害を除く)
人々 の こと には 一人が気付くこと
ヒトゴト に 気をとられることなく
自分事 である 自分がない ということに 気づく
縦に読む
こんな夢を見た
映画を観ないのに日本映画論を熱く語るカエル
知らない女性につっこまれる
なるほどカエルの言ってることは成り立たないな
これは夢だなと
矛盾に気づくと夢は終わる
なんでこんな夢を見たのか
起きているカエルの見解など日本映画論みたいなものかと
もう一段とすべての見解から離れよ
ってことかなぁゲロ
>その欲望 に沿って
諸々の一者は、そのチャンダ(志欲)とプラニダーナ(誓願)に従って、利を追い求めます。
そこに2つの道が分かれることが分かる。
空に於いて、「 般若 」 とは文字に過ぎず、また文字に過ぎざることもありません。
一切の戯論分別を離れていて極無戯論です。」
「 あたり まえ のこと 」と「 未曾有の、しらなかった こと 」
その筋道の分かれ道を知らない人は戯論に絡め取られて死没して生まれることを繰り返すでしょう。
「前頭葉」という想念にとらわれて晩夏に春の訪れを知らず、立秋に冬の終わりを知らない。
あなたは言葉の旅人。
> 「前頭葉」という想念
という 「 想念 」 に とらわれている
とは しらず
旅人 よ 往くところを知らず
・
*
> 「 あたり まえ のこと 」と「 未曾有の、しらなかった こと 」
その筋道の分かれ道を知らない人は戯論に絡め取られて死没して生まれることを繰り返すでしょう。
そのように 知っている あなた
しっているあなた を Buddha と よぶ
・
*
> そのように 知っている あなた
知る ということを 知らぬ
( そのように知る ) あなた
> しっているあなた を Buddha と よぶ
知らないあなた も Buddhaである
( Buddhaと なるべくして 生きる )
知る・知らぬ は ただ ただ 「 縁起 」 に 起きるのみ
「 縁起 」 を 知らぬ人 ↓
( そのように知る ) あなた を Buddha と 呼ぶ
どれだけ知っているか は ただ 「 縁起 」 に起きること
起きていることの意味 を 知る必要のない あなた
わたしは 凡夫 として その意味を 追おう
( 凡夫 の 何たるか を 知る 追う わたし )
凡夫 は 凡夫故 に
凡夫の意味 を 追う ( 故を追う )
龍樹 には 龍樹の働き があり
わたしは あなたに 呼びかけつつ
あなたを追う
彼の働き を わたしが追う 要はない
ただ ただ あなたの働きを追う
あなた は あなたのことを わたし と呼び
呼ばれた わたしの応える声 の
意味を追わない
ことば は ことばであるとき
言葉 以外 の 姿を見せない
・
*
読んでも読まなくとも
其の姿 ( 「 法 」 ) は 変らない
読む姿 を 見ない
読まない姿( 読めないと 顛倒する )
読む気がない ということを 読めない とも
読むまでもない( 読む価値がない ) とも いう
さて それでは 読まれもしないモノ を 置く意味 は 如何に ?
読む為である
( かかれるときに 一度読み 、 読むときに 一度聞く )
繰り返し 繰り返す “ 読み ” ・ 「 聞 」
聞くということ は 語るということ
語られた言葉 を 受け継ぐために 聞くこと
受け継ぐべき言葉 を 内なる 「 理 」 から 受取る
( 決して 外には非ず すべて 心中の 事 である )
↓
龍樹 は 内なる佛陀 に 稽首する
↓ ↓
「 法 」 とは 手の届く “まわり” に 起きている
「 内 」 という “事” は あなたの “まわり” のこと
↓
読みもしないこと 繰り返し 読む 喜び
・
> 読む気がない ということを 読めない とも
> 読むまでもない( 読む価値がない ) とも いう
読んだんですけど。。
「読む」と「読まない」の話題だから、読者はおもしろくないんじゃないかな?
読む人は、「何が書いてあるんだろう」と思って読む。
読まない人は、「たいしたことではない」と思って読まない。
読む人は読むし、読まない人は読まない、という話題だと、わたしのやってることだと思って読まなくなる。。
空の書き込みだな、と思います。
空だけじゃ、ダメなんだ 無因論、無作業論、虚無論に行ってしまう印象です。
ブッダは、仮設しても説いたのです。それで、ブッダは世界を超える存在になりました。
空は、空であること以上に、智慧として現れないとみんな読まない。。
「世尊(バガヴァット)」という呼び名は、空を超えて実りがあるからみんなブッダを世尊と呼んで拝むのだと思います。
*
読んでも分からない 読むという意味
> 「読む」と「読まない」の話題だから、
(故を) 「 読まない 」 という 話題です
「 読む 」 という 話題 について
「 読まない 」 ということを 穿ちます
読みたいように読む
ということを 防げない ・ 防がない( 同じ意味 )
内にやってくる 問題( 敵 )です
敵 は 心中 の 無視 ( シシ ハ ウゴメク )
> 読者はおもしろくないんじゃないかな?
あなたが 読者 である ゆえに ある・ない は
心中に 起きていること
( おもしろくない じゃ ないかな ? 獅子の子 ? )
> ・・わたしのやってることだと思って読まなくなる。。
わたし 以外 に 読むひとがいなくなる
ということ は わたし には 起きてはいない
あなた という わたし が 読まない けれども 、、、、
( 読まない人は )
読むひと は 一人でよい( 一人に起きること )
二人いるとき に 一人 は 起さざるを得ない
( そのようなこと は 一人に起きざるを得ないこと )
あなたの 縦横 に 親鸞が起きる
縦横 を 左右に回すと 左右 となる ときもある
タテという作利 は 横に広がる ・・・・・
> 空の書き込みだな、と思います。
読んでも読まなくても 事理 は 変るわけではない
( ただし 自利 は 増減する )
利 という 「 理 」 は 二つあるように見えるけれど
( 増減することなき 一つのこと )
自他 が 起される時 一つ は 二つめ に支えられれる
( 目 は 二つで 一つを 見る )
一つ を 二つの法面 で 見ても 二つ は 起きてはいない
「 空 」 という意味 を 虚しさに 入れる 、、、、
> 無因論、無作業論、虚無論に行ってしまう印象です。
行っている ところで 印象 を つかみ取る
行ってはいない ところに いる という 印象
> ブッダは、仮設しても説いたのです。それで、ブッダは世界を超える存在になりました。
仮設 ( の 場所 ) は 存在していますか ?
仮設する そこ は 存在していますか ?
存在するところ で これを読む故に
↓存在しない ということ が 存在しなくなる
存在するモノ は ある ということ を 離れない
だれが 『中論頌』 を 読むことができますか ?
( だれも が 読まずとも 読んだことを享受できる )
あるモノ は “ある” ゆえに 故を問わない
故 を 問う ということ を 問うている
( そのようなこと を “真ん中” として 再度読む )
> 智慧として現れないとみんな読まない。。
みんな 自分の知恵 で これを読む
ということ を 離れることができない
“ わたしの チエ ” を 使うしかない
“ 読まない ” という 意味 を 読まずに使う
実り というものは 収穫 に 縁る
( 縁って 起きている 実りのない こと )
> 空を超えて実りがあるからみんなブッダを世尊と呼んで拝むのだと思います。
拝まれる ときに 拝む人 が 地についている
という意味 ↓ に起きる 「 空 」
を 地に頭をつけて しみじみと 拝む( 手をあわせる )
“わたし” が ”わたし”・“あなた” 自身 を 拝む
自身 というところに 起きている 他 ・ 真
シンブツ は 物のすがた で 知るしかない
↓
想念 という モノ は モノ を 離れない
離れて 拝む ( 問う 駄 を 離れる )
拝まれる ことがない 拝むことのない “人”
・