個人的になんとなくワクワクしてしまうこの個所、ピンクと白のなでしこで色味をそえよう。
リッチャヴィ族の若者と遊女アンバパーリーとのお釈迦さまをめぐるやりとりです。遊女アンバパーリーは、自分のマンゴー林にお釈迦さまが滞在していることを知って、馬車を仕立ててお釈迦さまにおお目にかかるために出かけます。お目にかかってお食事のお布施を申し出でます。お釈迦さまは沈黙で応えられます。
そして帰り道、リッチャヴィ族の若者たちに出会うのです。
それは、こんな感じです。
この中で、リッチャヴィ族のある者たちは、青く、青い色で、青い衣で、青い装身具をつけていました。リッチャヴィ族のある者たちは、黄色であって、黄色い色で、黄色い衣をつけ、黄色い装身具をつけていました。リッチャヴィ族のある者たちは、赤く、赤い色で、赤い衣をつけ、赤い装身具をつけていました。リッチャヴィ族のある者たちは、白く、白い色で、白い衣をつけ、白い装身具をつけていました。(『大般涅槃経』16.12)
リッチャヴィ族は、名門の貴族の出であり、それら出身の若者たちがお釈迦さまに会うために馬車を連ねて出かけてくるところでした。そこにアンバパーリーの一行が通りかかり、お釈迦さまのところに行くと知って、いやがらせに車軸と車軸、車輪と車輪をぶつけて押し戻しました。
そこで、リッチャヴィ族の若者たちが尋ねると「尊師はすでにわたしの招待を受けられた」と答えるくだりがあります。お金を払うからその招待を譲れと若者たちはいいますが、アンバパーリーはことわります。
何が好きかというと、引用の個所のように肌の色に合わせて衣装の色がそろっていて、そして着飾っていることです。バラモン教やヒンドゥー教の華やかな世界を、とくにヴェーサリーの都会の生活を、思わせます。それと同時に、インドが多民族の国家であることを示す表現にもなっていて、多くの人々が行き交う都市の雑然とした喧噪を示すかのようです。中村博士は後代の挿入ではないかと疑っておられますが、そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。。
何が好きかというと、貴族と遊女の言い争いのようなものが繰り広げられていて、お釈迦さまそっちのけで言い争っているからです。「食事の布施を譲れ」という貴族の若者たちに、アンバパーリーは「ヴェーサーリーの税収をもらってもいやです」と拒否しています。l
それで、リッチャヴィの貴族の若者たちは、「小娘に負けた」と悔しがるのです。
カーストもあり、人種の違いもあり、富の分配も偏っているのだけど、なぜか、お釈迦さまの解脱の話をみんなが聞こうとするところに、何とも言えない面白さを感じます。人々の生き方の指針となる悟りの世界を、人々はほのぼのと見つめているかのようです。
インドの「何でもあり」の哲学的な構造が、現実の生活空間に息づいているところに、何とも言えない穏やかさを見ます。
だから、この経典の、アンバパーリーとリッチャヴィ族との、このやりとりにも、なんとなく幸せ感が漂うような気がするのです。
大乗だなあ、って感じでしょうか。
コメント
先生、こんにちは。
貴族の若者たちの衣装の色それぞれに、ちょうど終わったところのオリンピックの五輪を思い浮かべました。
多種な民族を色で表すのは昔からされてきたものなのですね。
貴族の衣装なので質感も高級なのだろうな、とか想像すると楽しくなります。
ところで、馬車をぶつけた側はアンバパーリーの乗る馬車ですか?
彼女が乗る馬車が貴族の若者が乗る馬車にぶつけられたのではなくて?
ここどちらなのかわかりませんでした^^;
ブッダの滞在期間が限られているのを知っているのもあり、我先になってるところなのかな。
彼らの争いについては、争うとは愚かだみたいな書き方はされてはいないのですか?
それともやはり先生が書かれているように、微笑ましい光景のような描かれ方がされてるのでしょうか?
すみません。アンバパーリーの馬車は、ぶつけられたほうですね。
赤い実さま おはようございます。
> アンバパーリーの馬車は、ぶつけられたほうですね。
岩波文庫の『ブッダ最後の旅』の五七ページの終わりには、アンバパーリーがリッチャヴィ族の若者達の馬車に「軸と軸、輪と輪、軛と軛を衝突させた」となっています。ぶつけた方みたいです。
> 彼らの争いについては、争うとは愚かだみたいな書き方はされてはいないのですか?
起こったことが淡々と書かれていて、特に「けんかをうってはいけない」とか、書かれていませんね。
遊女といえば身分的には非常に低いですが、当時の王侯・貴族の寵愛を受けていて、彼女によってヴェーサーリーは栄えたといわれる程であったと伝えられます。「ヴェーサーリーの半分」といわれたとどこかで読んだのですが、どこだったか忘れてしまいました。
実質的に富を握ったものは強いということでしょうか?
リッチャヴィ族の名門の子弟であっても、彼女には太刀打ちできなかったということなのかなあ、って思っています。
こんな風に、「けんかをしてはいけません」とか書かれていないのも、仏典の特徴かもしれません。あるがままに記述されている、ということなのかなと思っています。
先生、返信ありがとうございます。
>岩波文庫の『ブッダ最後の旅』の五七ページの終わりには、アンバパーリーがリッチャヴィ族の若者達の馬車に「軸と軸、輪と輪、軛と軛を衝突させた」となっています。ぶつけた方みたいです。
そうなんですね。馬車を操縦する人がしてしまったこととは言え、彼女がもしリッチャヴィ族の若者達にぶつけてしまったことを一言も謝らなかったのなら、彼らもまずそこでおもしろくない気持ちになったのかも、と思いました。
ここ、わからないですけど・・謝ったのかもしれないですから。
リッチャヴィ族の若者達にしても、自分たちは身分が高いのだし遊女より自分たちのほうがブッダをもてなすにふさわしいだろう、という驕りはあったのでしょうね。
>> 彼らの争いについては、争うとは愚かだみたいな書き方はされてはいないのですか?
>起こったことが淡々と書かれていて、特に「けんかをうってはいけない」とか、書かれていませんね。
そうなんですね。出来事が淡々と描写されているところなのですね。
>遊女といえば身分的には非常に低いですが、当時の王侯・貴族の寵愛を受けていて、彼女によってヴェーサーリーは栄えたといわれる程であったと伝えられます。「ヴェーサーリーの半分」といわれたとどこかで読んだのですが、どこだったか忘れてしまいました。
>実質的に富を握ったものは強いということでしょうか?
>リッチャヴィ族の名門の子弟であっても、彼女には太刀打ちできなかったということなのかなあ、って思っています。
都市では貨幣経済が進んでいて、富をもつ者の力が強くなっていた時期なのかな、と思いました。
>こんな風に、「けんかをしてはいけません」とか書かれていないのも、仏典の特徴かもしれません。あるがままに記述されている、ということなのかなと思っています。
スッタニパータでしたか・・、年配になった男性が若い女性の肉体に惹かれるのは愚かなことだ、みたいな記述があったと思うのですが、その感覚からいうと争うのも愚かだとされそうですが、ここではそういう書き方はないということですね。
だとすると・・、ブッダのお話を聞く前は皆、愚かだし苦悩していて、だからこそもてなしてゆっくりとお話を聞きたいという思いが描かれていて、それゆえに争いを諫めるような書き方もされていないのかな。
最初は皆凡夫なんだよ、みたいな。先生が「大乗的」と書かれているのもそういう意味なのかなと思いました。
アンバパーリーも、美貌が年々衰えていくだろうことは感じていたでしょうし、無常を怖く感じていた、それこそ普通の女性たち以上に、と想像できます。
礼儀正しく優しい赤い実さま
> 彼女がもしリッチャヴィ族の若者達にぶつけてしまったことを一言も謝らなかったのなら、彼らもまずそこでおもしろくない気持ちになったのかも、と思いました。
彼女はわざとぶつけて相手の馬車を押し戻したみたいですよ。
赤い実さまから質問を受けて、だんだん自分でも明らかになってくるのですが、最初に彼女がリッチャヴィ族の若者たちを阻止しようとしたのは、尊師のところに行っても、「明日の食事はもう私がお布施の約束をしたから無駄ですよ」と告げるためだったような気がします。
身分は高い相手でも、年若い若造たちであるし、自分はなんたって天下のアンバパーリーなんですからね、という気持ちもあったような気がします(ヴェーサーリーはわたしでもってる、みたいな。。)
それに、お釈迦さまは、アンバパーリーの園林に滞在しているのですし、ね。
そして、リッチャヴィの若者たちは「どうしてそんなことをするのだ」とは、問うものの、あまり強くは返せないようです。
指をはじいて(失敗した時の仕草)「小娘に負けた」と言ったのも、精一杯の強がりだったのかもしれません。
都市の経済が発展していく様子と、そこで実質的に力を得ていった人々のありさまと、それを支える精神的な支柱となったブッダの教団の様子が描かれているような気がします。
現代でも、一方ではイスラエルのガザ侵攻がありロシアとウクライナの争いがあり、またその一方で、パリ五輪が開かれ人々がスポーツに酔いしれるさまは、ある意味、似たところがあるかもしれませんね。
> アンバパーリーも、美貌が年々衰えていくだろうことは感じていたでしょうし、無常を怖く感じていた、それこそ普通の女性たち以上に、と想像できます。
社会制度のひずみや矛盾を背負って生きて行かねばならない一人の女性として、お釈迦さまは大きな救いであったのでしょうね。
『テーリーガーター』という経典に、アンバパーリー尼の詩が載っています。正直に自分の容貌の衰えを歌う姿に涙しますね。
[昔は]わたしの毛髪は漆黒で、蜜蜂の色に似ていて、毛の尖端は縮れていました。しかし、今は老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました。真理を語るかた[ブッダ]のことばに誤りはありません。
こんな調子で20ばかり詩が続きます。
赤い実さま、おはよう!おかげさまで、なんだかどんどんイメージがわいてきます。
> スッタニパータでしたか・・、年配になった男性が
これは「なまぐさ」という経典ではないでしょうか。比丘になった人向けに書かれたのかもしれません。ゴータマ・ブッダではなく、カッサパ・ブッダが説いた経典とされています。
> だとすると・・、ブッダのお話を聞く前は皆、愚かだし苦悩していて、だからこそもてなしてゆっくりとお話を聞きたいという思いが描かれていて、それゆえに争いを諫めるような書き方もされていないのかな。
『大般涅槃経』の書き方は、ちょっとそんな感じのところがありますね。凡夫にやさしい、といいますか、愚かであるのをそのまま承認して、その上でできそうな事をちょっぴり書いてみるような、そんな教え方だなあと思うときがあります。
お坊さんのありがたい説法をみなさんが聞いている、みたいなところです。
かつて、高田派の浄土真宗の講演をした時、わたしはそこでお話ししたのですが、聞く人々はいわば凡夫を自認する人々なのです。凡夫を自認する人々の怖さを感じましたよ。すごくへりくだって聞いてくれるのですが、「ちょっとでも間違えたら許さないからね」みたいな感覚を持ちました。ビビりながらお話ししてました。
みなさん、ハートで聞くので、話す方はほんと怖いですよ。通りいっぺんのことだと「とおりいっぺんですね」って思われるし、わかりやすくお話できなければならないし、いやぁ、お釈迦さまってたいへんなんだなあ、って思いました。くわばらくわばら。
*
こんなこと は 大事ではなく、 問題にすべきではないか も 、、、、
( 潜む 問題は 別のことです )
> リッチャヴィの貴族の若者たちは、「小娘に負けた」と悔しがる
遊女アンバパーリー は 子娘ですか ?
小娘が 稼ぎ出し
菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を
所有し、 寄進するほどになる でしょうか ?
いずれにしても、 その美貌と聡明さで、
莫大な富を 得ていたことは分かります
https://sujaata.net/terakoya/post-1698/
・
> 遊女アンバパーリー は 子娘ですか ?
これは悔しがっていることをしめす表現だと思います。
注釈にもありますが、「アンバカー」と表現されていて、ことばの終わりに「カー」と付くと「小さいもの」をしめすのだそうで、太刀打ちできない若者達はせめて、ことばだけでも優位に立とうとしたのではないかと思います。
書きたかったのは、引用のことばです。青と黄色と赤と白の四色のことと、ヒンドゥー教の神の図像です。描かれるヴィシュヌやシヴァが青黒く描かれていることがよくありますが、土着の、原住民出身であることを示しているのかなあ、とか思っています。
日本でも、赤鬼とか青鬼とか出てくるでしょう?経典にも、青蓮華、赤蓮華、白蓮華は出てきますね。ルーパ(色)は大事だと思います。
*
> 「小さいもの」をしめすのだそうで、
小者 という意味で 使ったのです ね
> 太刀打ちできない
経済力 と 権力 では 動かないこともある
> 若者達はせめて、ことばだけでも優位に立とうとした
「 特別の栄誉 」 とは
動かない という 「 処 」 に 建つこと
> ことばだけでも優位に立とうとした
なるほど 言葉には 動く言葉 と
動かない “こと”ば トガ ある
>> 馬車で行けるところまで乗って行った。それからかれらは馬車から降り、歩いて世尊のもとへ行った
かの 女 も 「 王族青年 」 も 自らの足 で
「 尊 」 の 元 へ たどりつく
「三十三天の神々とはリッチャヴィー族の者たちのよう」
だと 見せた ( 彩る 「 色 」 である )
神々であろうと 動かすことができない “こと” があり
“実体” とは 動くコト(言葉・トガ) である
> 経典にも、青蓮華、赤蓮華、白蓮華は出てきますね。ルーパ(色)は大事だと思います
その 色(ルーパ) とは “だいじのこと” であり
“大事にしては いけない” と( 比丘 達に ) 告げている
“ 「 白蓮華 」 の 大切さ ” を 色で顕している
「 経 」 とは “ 誰に対して 何の為 ” に
“文字とされている” のか
“文字には立たないこと” を ことば に するのか
「 常不軽 」 は 菩薩たち に “手をあわせる”
「 大乗 」 とは
このような 「 処 」 に 経つ( ケイ を 引く )
( 乗っている )
わかっても “よし”
わからずとも 考えるヨシ は いつかは 束なる(建つ)
分る人 に かたり ( 観せ ・ 観世 svara ) 聞かせ
分からぬ人 は ルーパ(ローカ・色) を 見る
分からぬ人 は
わかる人たち(衆) に 仮タル を 「語る」
・
*
> ワクワクしてしまうこの個所、ピンクと白のなでしこで色味をそえよう。
ピンク の なでしこ の
「 中心 」 を 為す
(示す・占めている) 「白」
・
> 「 中心 」 を 為す
> (示す・占めている) 「白」
人中の分陀利華か。。
どんななでしこ人も中心は白いともみえます。
なるほどなぁ
*
ワカル 必要はない
> どんななでしこ人も
PINK を 見て (老)いる なでしこ人
( PINKの 撫子 は ? あなたの得ている 白 を観る )
( PINK を見ていては 観得るもの も 得られない )
茎 も 葉 も 緑 である由縁 を 観る ( 大日 )
観る人 は 得る人 ではあるが
ひとつひとつの細胞 は すべてのゲノムを 内に持つ
細胞 は 世理集まって 一つのゲノム を 生きる(もち続ける)
ヨリ 沿って 一つではあるが
目 は目を観る ことはなく 耳を聞くこともない かのごとく
誰か が 分ろうと 否であろうと あるものはある
という 理(世) は 変ることはない
どこか から なぜか 変っていく ( ゲノム )
> 中心は白いともみえます。
白いところ の 中心 を 観る
中心 とは 各花 に 一つづつ あるけれど
ある ということ は 一つしかない
ひとつ(づつ) を もっている者 は もつ由縁 を
尋ねることなく 保ち続けている
( 尋ねるもの は 往く道 を 巡ると知る )
しるまいと ( しろうと )
ある もの は あることになったときから
( 時を離れて ) ありつづける
あるもの は ある ( ゆえん は ふよう の ごとく )
( 時は巡り 芙蓉のPINK を 見る )
しろうと しるまいと 芙蓉 は “ うつ くし く ” たつ
( 茎で立つ と 見るけれど 「根」 で 立っている )
根元を見ようと 根は見えない
( 茎を見れば 華 は ビ・鬱「 苦 」しく 開いている )
「 根 」 は 見ても 美しくはない(観るもの は 観える)
> なるほどなぁ
「 なるほど に こうべを垂れぬ 否保 かな 」
垂れるところ に 上下 が 起きる
上を向いて つばを吐く 、、、、
・
> 上を向いて つばを吐く 、、、、
自分の顔にかかります。
*
( いくら 書こうと 欠いている 自意識 )
その 「 識 」 で 「 識 」 を さま酔う
“ 自分 ” は
>> 上を向いて つばを吐く 、、、、
上 って どっちに あるのだろうか ?
> 自分の顔にかかります。
自分 って どこに いるのだろうか ?
顔 って どこに 向いているのだろうか ?
「 自分 」 という 「 分 」 は 自分のモノ だろうか ?
“ かかる ” ところの 「顔」 ( って なんだろうか ? )
「 こうべを垂れぬ 否保 」
肯定もせず 否定もしない ただ 否 を 保つ
( 上下 の 「 識 」 を 保つ )
「 厚顔 」 という 薄 「情」 ( うすい い ・ 無知 )
( 顔厚忸怩 )
“わたし” は 「 自 」意識 を 自分と “呼ぶ”
“あなた” は “その” 自意識 を 「 他 」 と 呼ぶ
“あなた” の 自意識 は 「 他 」 を 外に “見ている”
( “あなた” って 誰のこと ? )
その 自意識 以外 に 「 識 」 は ありますか ?
( 「 識 」 とは 自己心中 に 一つだけある )
)
“ 中心 ということ は ひとつのこと “
自分の顔 に ついている ( 自らの中から生まれ出た )
“ つば ” を “ かみしめる ”
( 「 他 」 に 起きている “ できごと ” )
・
*
***********
>社会制度のひずみや矛盾を背負って生きて行かねばならない一人の女性として、お釈迦さまは大きな救いであったのでしょうね。
『テーリーガーター』という経典に、アンバパーリー尼の詩が載っています。正直に自分の容貌の衰えを歌う姿に涙しますね。
>[昔は]わたしの毛髪は漆黒で、蜜蜂の色に似ていて、毛の尖端は縮れていました。しかし、今は老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました。真理を語るかた[ブッダ]のことばに誤りはありません。
>こんな調子で20ばかり詩が続きます。
***********
ブッダ入滅前の最後の旅で、彼女はブッダと出会えてよかったです。
少し調べたのですが、彼女は出家し弟子となり阿羅漢になったのですね。
維摩 コンダンニャ の 話を聞いて 出家する
「 旗(高慢)を殺す者となり、
まさしく、旗(知慧)によって、大いなる旗(悪魔)を倒した 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・ ( ハタ 迷惑 な はなし )
自分の顔 に ついている ( 自らの中から生まれ出た )
“ つば ” を “ かみしめる ”
( 「 他 」 に 起きている “ できごと ” )
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・
*
*************
三密門とは、いわゆる如来内証智の境界なり
等覚十地も室に入ること能わず
いかに況んや二乗凡夫をや、誰か堂に昇ることを得ん
*************
それ如來の説法は 必ず文字による
文字の所在は六塵その体なり
六塵の本は法仏の三密すなはちこれなり
平等の三密は法界に遍じて常恒なり
*************
・
先生、おはようございます。
返信タブが出てこなかったのでこちらに。
>彼女はわざとぶつけて相手の馬車を押し戻したみたいですよ。
赤い実さまから質問を受けて、だんだん自分でも明らかになってくるのですが、最初に彼女がリッチャヴィ族の若者たちを阻止しようとしたのは、尊師のところに行っても、「明日の食事はもう私がお布施の約束をしたから無駄ですよ」と告げるためだったような気がします。
そうなんですね。
大人気のブッダを皆がおもてなししてお話を聞きたいと思うなかでの衝突、言い換えれば皆、真剣で本気だった、それだけ切羽詰まる思いがあったのでしょうね。
若者たちはもしかしたらブッダと議論してみたかったのかな、とか想像します。
>社会制度のひずみや矛盾を背負って生きて行かねばならない一人の女性として、お釈迦さまは大きな救いであったのでしょうね。
『テーリーガーター』という経典に、アンバパーリー尼の詩が載っています。正直に自分の容貌の衰えを歌う姿に涙しますね。
>[昔は]わたしの毛髪は漆黒で、蜜蜂の色に似ていて、毛の尖端は縮れていました。しかし、今は老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました。真理を語るかた[ブッダ]のことばに誤りはありません。
>こんな調子で20ばかり詩が続きます。
ブッダ入滅前の最後の旅で、彼女はブッダと出会えてよかったです。
少し調べたのですが、彼女は出家し弟子となり阿羅漢になったのですね。
赤い実さま、おはようございます。
時々返信タブがないときがありますね。何回も返信したからかなあ、等と考えています。あたっているかどうかはわかりませんが。。
> 大人気のブッダを皆がおもてなししてお話を聞きたいと思うなかでの衝突、言い換えれば皆、真剣で本気だった、それだけ切羽詰まる思いがあったのでしょうね。
赤い実さまはまじめだなぁ。でも、確かに、そうかもしれません。
インターネットもなく、娯楽の少ない時代、ありがたいお話が聞けるとなるとこぞって出かけたのかもしれませんね。
わたしは、二十年くらい前になりますが、スマ長老のお話をみなさんが飛びつくように聞いていた頃を思い出します。「怒らないこと」というメッセージに、ブッダの教えって、こんなだったのかぁ、って新鮮な思いでみなさん見つめていたと思います。
それからマインドフルネスとか言われはじめて、坐禅や瞑想が流行ってきたような気がします、現代人の苦しみにも対応するブッダの教えはすごいなって思ってます。
>わたしは、二十年くらい前になりますが、スマ長老のお話をみなさんが飛びつくように聞いていた頃を思い出します。「怒らないこと」というメッセージに、ブッダの教えって、こんなだったのかぁ、って新鮮な思いでみなさん見つめていたと思います。
>それからマインドフルネスとか言われはじめて、坐禅や瞑想が流行ってきたような気がします、現代人の苦しみにも対応するブッダの教えはすごいなって思ってます。
苦しみの根本にあるものは、ブッダの時代も現代も、人間である以上変わらないのでしょうね。
赤い実さま、
> 苦しみの根本にあるものは、ブッダの時代も現代も、人間である以上変わらないのでしょうね。
そうですねえ。ブッダは、ことば(見解)から来る苦しみにも注目していると思います。
現代においても、ことばにまつわる苦しみに多くの人は悩まされていますね。
先生、おはようございます。
>> スッタニパータでしたか・・、年配になった男性が
>これは「なまぐさ」という経典ではないでしょうか。比丘になった人向けに書かれたのかもしれません。ゴータマ・ブッダではなく、カッサパ・ブッダが説いた経典とされています。
最初から具体的にあげなかったので紛らわしくなってしまいすみませんでした。
私が思い浮かべたのは、スッタニパータの
110 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女について嫉妬から夜も眠れない、──これは破滅への門である。」 でした。
この他にも、ここでは破滅に向かう人はどのような行為をする人かについてブッダが語っています。
>> だとすると・・、ブッダのお話を聞く前は皆、愚かだし苦悩していて、だからこそもてなしてゆっくりとお話を聞きたいという思いが描かれていて、それゆえに争いを諫めるような書き方もされていないのかな。
>『大般涅槃経』の書き方は、ちょっとそんな感じのところがありますね。凡夫にやさしい、といいますか、愚かであるのをそのまま承認して、その上でできそうな事をちょっぴり書いてみるような、そんな教え方だなあと思うときがあります。
>お坊さんのありがたい説法をみなさんが聞いている、みたいなところです。
そうなんですね。
>かつて、高田派の浄土真宗の講演をした時、わたしはそこでお話ししたのですが、聞く人々はいわば凡夫を自認する人々なのです。凡夫を自認する人々の怖さを感じましたよ。すごくへりくだって聞いてくれるのですが、「ちょっとでも間違えたら許さないからね」みたいな感覚を持ちました。ビビりながらお話ししてました。
>みなさん、ハートで聞くので、話す方はほんと怖いですよ。通りいっぺんのことだと「とおりいっぺんですね」って思われるし、わかりやすくお話できなければならないし、いやぁ、お釈迦さまってたいへんなんだなあ、って思いました。くわばらくわばら。
いろんな意味でものすごく期待されてしまうと、圧力に感じてしまう部分もありそうですものね。
それだけ先生のお話をたのしみに皆さまされていたというのがわかります。