「大乗」はなぜ大きな乗り物なのか

上座仏教の月間誌『パティパダー』8月号の巻頭法話は「知識は人間の命運を握る」です。副題に「知の汚染を取り除きましょう」と書いてあります。現代の智慧者スマナサーラ長老は、「ブッダの教えは完全オリジナル」とうたっています。

わたしには、スマ長老の言っている意味がほぼ全部わかると思います。

わたしもまた、「ブッダの教えは完全オリジナル」と知って、そう言うからです。

ではスマ長老とわたしの違いは何だろう、ってずっと思ってて、その答えを見つけました。

巻頭法話の中にありました。最初の部分を引用しますね。

ある宗教者や文化人について、「この人はブッダと同じことを言っているのでは?」と質問されることが時々あります。そう質問したい気持はわかりますが、私としては「ブッダと同じといえる人はいません」と答えるほかないのです。というのは、まず真理に照らし合わせてみると、二人目のブッダ(正等覚者)は現れないからです。(『パティパダー』B.E.2568/A.D.2024、8月号巻頭法話の冒頭)

このことばを聞いて、わたしは「大乗」なんだなあ、とすごく実感しました。

正等覚者は、何人もいると思っているからです。スマ長老は「真理に照らし合わせてみると」とおっしゃっていますが、わたしは「真理」の訳語は使わないです。この原語はダンマだと思います。ダンマは「法」と訳すのみです。

上座仏教では、無常・苦・無我を 「説き」 ます。「空」は「説き」ません。空は知っていますが、説かないのです。禅定の中で会得するものだからです。

大乗仏教では、無常・苦・空・無我を、「説く」 のです。智慧のスマ長老は、これまでブッダしか法を自在に説いていないことをご存じなので、このようにダンマに「真理」の訳語を与えるのでしょう。

ところが、日本では、大乗が花開いたのです。中国や朝鮮からもたらされた仏教は、聖徳太子によって「一に曰(いわ)く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ」つまり「争うな」という教えとして抜き出されました。「和をもって…」は仏法だと思います。

でも、そういう風に言う人、いないよね。これは絶対そうだと思う。わたし的には仏法からきていることばです。聖徳太子、すごいわ、って思ってます。法然上人も親鸞聖人も、そこに気づいて讃えていると思うけど。

凡夫の真理は、聖者の真理。だけど、凡夫は凡夫で、聖者は聖者。両者を共にみて、凡夫を置き去りにしないところに大乗があります。そして、そこに「空」もあるのです。

そして、また、凡夫は凡夫であることを忘れないのです。往相廻向と還相廻向を心にかけて信に向かうのは、凡夫ゆえなのです。「往って」そして「還る」のは、凡夫的バランスなのです。

弥陀の智願海水に

他力の信水いりぬれば

真実報土のならひにて

煩悩菩提一味なり   (『正像末浄土和讃』)

コメント

  1.  春間 則廣  より:

        まずは これのみ

    > わたしもまた、「ブッダの教えは完全オリジナル」と知って、そう言う

       あなた の 教え(語ること) も 完全 であり オリジナル
         と  わたし は
       “完全” と “オリジナル”( 独創 ) とを 知る

        知って このように 述べる
      ( 知らずとも   完全であり  オリジナル である )

         そのような仕組み に  起きる 人の営み
       それを知り( ブッダ )  牟尼 は  「 平等 」 と 知る

       誰であろうと (認識を起こすとき) それは 完全である
     (  知るまでは 知らない 
         知らぬこと は 知るまで は 存在を隠している・ない  )
       あるもの すべて を 誰であろうと 知っている

       「 平等 」 とは そこに起きている
      ( 誰にでも オリジナルとして 存在している )
         同じモノ は 二つとない
      
        諸仏 とて この構造 を 離れることはない

      ただし  「 空 」 は 普遍であり 同じモノ として
                        どこにでも
       「 平等 」  を  離れて・遠離して 存在する 

            くう や く は 奴の おもひ こと

    • mani より:

      >  ( 知らずとも   完全であり  オリジナル である )

      わたしも、まずは これのみ。
      文脈壊すからなぁ、春間さまは。

      知らずに語るのは、「完全であり オリジナルである」とは言わないのです。

      その意味では、スマ長老とは少し違っています。

      スマ長老は、ブッダは真理を知っている という立場だと思います。
      わたしは、ブッダは法と非法を知っているし、「知らない」ということも知っていて、そう言う、という立場です。つまり、ブッダは、一切智者なのです、という立場です。

      春間さまの立場は?

  2.  春間 則廣  より:

    > 文脈壊すからなぁ、xxxxは。

       脈 に  留まっていてはいけない
      分脈 が  あなたに還る ( 空手還郷 )

      脈 には  順 が あるけれど
      脈 の 生まれ出る  ところ( 立場 ・ 攸厝 )
         を 知るとき  
       すべてにおいて(攸厝)  供養 を 知る ( 「 平等 」 )

    > xxxxの立場は?

        立つところ  を  知らず ( 不知 攸 厝 )
        止觀 妙門    頂戴供養

        あなたは どうですか  ?
        法體    何如    xx推常擬

    > スマ長老は、ブッダは真理を知っている という立場

       知るまでは 知っているところに 留まざるを得ず

      知らないこと  とは  知っている範囲で 満足せざるを得ないこと

     満足 とは  「 慢 」 に発し 足下 を 観ざる時に 発する様

      スマヌサーラ  は  budda ではないけれど
       ブッダ のごとく   ふるまい  ブッダのごとく 崇められていて
         その “立場”   に      安住している

       知りもせず ありもしないこと  を  日々  語っている( 虚言を吐く )

           言葉 とは  モノ である ( 実体 を もつ )

      このように モノ で 表さざるを得ないけれど (中論頌)

          モノ に 意味がない  という意味  は
                意味を知らぬ(不知)  攸(ところ) に 
          自らの心 を  据え置いて   安住する( 厝 )故
             その様 を    言葉に発するときに 起きる 攸厝 

    > わたしは、ブッダは法と非法を知っているし、「知らない」ということも知っていて、そう言う、という立場です。つまり、ブッダは、一切智者なのです、という立場です。

        あなたの いるところ  を わたしは 足下に観る( 「 脚下照顧 」 )
        わたしも     そこに立つ けれど  ( 立場 )
      ( “わたし” は   “常に” 「 禅 」 に 立っている )

    >  その意味では、スマ長老とは少し違っています。

       意味 を 建てるとき   意味を受ける“人” が 立ち上がり
         差異  が 起きる
      授者 と 受者 とが 起き  授受( 順序 ) が 生れ出る

       深く 掘り下げれば 掘り下げるほど   深いという意味を知る

        深淵なる  真理の穴    ( その 穴 は 「 空 」 である )

        穴に住む という 意味 に  住む ( 住まざるをえず )
          み猿いわ猿 きかず    という   いみを 聞く
     
           フキョフライ       ( 「 不虚 不来 」 )
         ( 猿 モノ  を 追わず  狂う モノ に スマ 猿 )

               龍樹  と    共に生きる

        (  「 魔 」 が 起きる  ところ・間・真  )

  3.  春間 則廣  より:

    > 知っているところに 留まざるを得ず

     
      知っている   猿になり

      そこに     留まらサル を  得ず

      去って後に   猿(“ わたし ” は )  前を知る 

          前を知って  振り向く  と    前を見ている

      このようなこと  を あたりまえのこと  と 呼び

        『中論頌』 とは  ありもしない あたりまえのこと

          を 「 頌 」 として   受者 に 授ける

       承けて知る  受けるということ  の  軽重

       「 授 」 という  意味  を みずからに承ける

    • mani(管理人エム) より:

      >    『中論頌』 とは  ありもしない あたりまえのこと

      >       を 「 頌 」 として   受者 に 授ける

      言語を使う際の注意書きですね。

      「ありもしない あたりまえのこと」とは、縁起に従うなら仮設によるしかない ということですね。
      言語を持たないと、表す手立てが見つからないから。
      その上で、その表現を否定する。

      こうすることで、ようやく 「言語表現できる」道が開ける ということか。。

      有にも近寄らず 無にも近寄らない 道 を行く ブッダ。

      その道は認識の道。

      •  春間 則廣  より:

        >   道 を行く ブッダ。

            「 道 」  とは      「 真理 」 の 言い換え
           道 といい イウ という  
             言われ を知らずとも 言われることなき  「 道 」 を 歩む
             「 道 」  は  一つしかなく
             誰でも  その  道 を歩む     その人の姿(色) に
                      ( 常不軽菩薩  は 手をあわせている )
             誰であろうと (その人の基盤である)  「 道 」 を 歩む
             歩むけれど  立つ処  を   トウコト は 少なく
           ( 多い・少ない という )     「 量 」 「 見 」 は 難離

             「 平等 」 に 甘んじて  飴(甘露) に 甘える

             アムリタ  とは  “A” MURTA
                     と  否定の冠 を  「 果・仮 」 ぶる

        >  その道は認識の道。

           「 人 」 とは 認識の塊り( 「 色・識 」 ) を いう言葉
               いわざる 内 は  いうこと無し
               為したこと  を  “あからさま” に 言う
             言ったことを為しているのではなく  為したこと を カタル
             仮たる ことのは で  “あきらか” という 明かりにたよる

             認識の道  は 一つの道( 「 真理 」 )

           誰であろうと 一つの道を歩み   道 は すべて繋がっている
            繋がっていない  ところ(攸) は
                       「 道 」 とは 呼ばない
            道ではないところ  に   厝(すえる)
                       「 道 」 は 険しく 見える( 「 見 」 )

             了見 をもってして  「 道 」 を 量る ( 故 不知攸厝 )

            常不軽 ( 常に軽んじる ・ 不軽 に 住む ) ゆえに
                 かるんじる所 が    生じ( 「 生 」 )
            住む 故に  重き  という   「 荷 」 を 負う

           誰であろうと 一つの道にあり カルンじよう と 思んじようと
               その一つの道 に ある故に
             道の外をしる ( 了・量 見を離れる )
                菩薩 は  いつも手をあわせている
             ( 併せた手 )  そこに 右と左 は  存在しない

              「 無 」 に     近寄ることは できない
               夢中 において  寄らば切る
                       ( 起きて知る ムチュウ という意味 )

            「 遠近 」 とは 身近に起きている  トオキ オモイ  
               いかに近寄ろうと  拠る 穴    は  深き

            ことのは  とは  事 の 端  に 起きている  「 識 」 
              「 派 」 を 掴んで      「 本体 」 を 振り回す

           誰も知らない ( 知っている者は遠ざかる )  遠離 の 道
                    (  遠離  一切 ・ 顛倒夢想 )
           知るという   「 智 」 に 外れる  菩薩の住むところ
         (  「 智 」 にある者 ・ 仏陀  は  黙して 語らず  )
            ボダ ハシャ マカ ハラジャ ハラミタ   カリダ ソタラン
            不図 派捨  摩訶 般若   波羅蜜   心中 「 経 」 あり

           イワザル  を  言う   ( 失 智人 断りたまえまくのみ ハラミタ )

            わたしは知らない

          知るということ は あなたに起きる道

        • mani より:

          > 知るということ は あなたに起きる道

          知るということはわたしに起きる。
          知ると知らぬとを知るので、一切を知る道にある。

          これは見解からの出離である とブッダは語る。

          >   わたしは知らない

          春間さまは、知らないという立場。

          •  春間 則廣  より:

               < わからぬ  とも    もんだい と せず >

               ( わかれば もんだい に むきあうこと となる )

            > >   わたしは知らない

            >    春間さまは、知らないという立場。

              これ(我)を読む   彼を読む

               彼我 を 読む ( アレ ? コレ を 読む )

               知る や 知らぬ を 読む( 憶測する )

                *  是 を読む ”わたし”

               ”わたし” とは  是を読む   “あなた” ( でもある )
              ( あなた は 自我 のこと を  わたし と 呼ぶ・言う )
             
                わたし は 彼我 の 仮 を   あなた と 呼ぶ

                いくら わたしが知ろうと  、、、、
                 “わたし” という “本体”  は
                             彼 方  に  存在するのみ

              本体を ( 幸いにも ) 掴み損ねた  あなた
             ( 本体がない という  意味において 存・得失 は “同一”である )

                “立場” という  モノ(実体) は
                 立場  に    縁って起きる

            (  “同一”  という   「 平等 」 を 世間で考える    )
            (  「  平等 」 の   起きる起源 は 既に明かしている )
              

                あなたが知っている  ということ  を 

                      問題として 提起し

                    ( “あなた” 方  に 問う )

  4.  春間 則廣  より:

    > スマ長老は、ブッダは真理を知っている という立場だと思います。

        “知っている真理”     と
      ( ブッダのそれ とを )        照らし合わせて
      ( ブッダは みずから?の知る真理 を )知っている と知る

        ブッダ は スマさん と おなじところに辿りついた 、、、、

    > わたしは、ブッダは法と非法を知っているし、「知らない」ということも知っていて、そう言う、という立場です。つまり、ブッダは、一切智者なのです、という立場です。

     わたし・あなた  も 同じ構造で  知ってそう言う と 知る  立場
       ( この場合  このわたし は その立場を  遠慮 する )

       わたしは  知りもしないこと   を
               知っている事    に   当てはめない

        ブッダ が 一切智者であるか どうか は  

               あなたの “判断” で 量られる

        中国 の 三千年の 文化の積み重ね は ( 隋書 607 )
           それを受け継ぐ者 の 文化 である

        「 日のいづる処 の 天子 」 は それを背に負い
        「 日の没する処 の 天子 」 に
               “ つつがなしや ” と    問いかける 

            スマサナーラ   よ       “ つつがなしや ” 

         没するまで は 没することに気付かない
               没し往くもの

    • mani(管理人エム) より:

      >   わたしは  知りもしないこと   を
      >           知っている事    に   当てはめない

      なるほど。「知らない」と知るのは、知ってることを一度反省することだと思っています。
      法と非法とを知る、のは難しいです。

      そんなことを言えば、ただブッダのことばの受け売りにすぎないかもしれませんが、それでもなお、知らないことを知るのは大事だと思っています。
      ことばの世界はパラドックスにあふれた世界ですから。

      •  春間 則廣  より:

        * 

        >  「知らない」と知るのは、知ってることを一度反省することだと思っています。

           知らない と   知る  とは
            知ろうとする    「 識 」 の 働き を言う
            ( けれども 人は 「 識 」 に 振り回される )

           「 反省 」 という   言葉      は
           日本(と 中国?) に於いては 「 三省 」 に 由来する
             「 吾 日 三省  吾    身・信 」
          「 為人謀而不忠乎 与朋友而交不信乎 伝不習乎 」

             中 を 心 に 量りて  言を為し  ボウ( 黙・脈 ) と するも
               脈 を 戒する ( 中 とは  自在 に 働きて為すこと )
             中 とは 道を行く に  通 ずる

        > 法と非法とを知る、のは難しいです。

            難しい  ということ  は  道の中心に立つ  という
              意 を 表している

           中 ということ は  陽の出る  に  通 づる( 用とする )
                         日没   とは   天子の 生末
          「 有朋自遠方来 」     学而時習之 不亦説乎
           ( 亦 とは 脈に通じ  時に之を習する  )

           このように 連ねても(脈)  「 人 不知 而 不慍 」
               (  山形有朋   とは   ここに由来する  )

  5. Pocket より:

    >この原語はダンマだと思います。ダンマは「法」と訳すのみです。

    サッチャではないでしょうね。サッチャなら「長老はサッチャを知っているのですか?」と訊かれてしまいます。
    在家に自分の境地を語ることはできないはずです。

    >禅定の中で会得するものだからです。

    『清浄道論』もそうですが、観察するものであって、語りに用いるものではないですね。
    上座部に空用はナイ?

    >日本では、大乗が花開いたのです。中国や朝鮮からもたらされた仏教は、聖徳太子によって「一に曰(いわ)く、和をもって貴しとし

    日本だけでなく、チベットもそうなんじゃないかなと思います。
    仏教が宗教の中心に来るとそうなるのでしょうね。超宗派リメー運動とか、統合に向かうのかと。

    そういえば、日蓮宗の四箇格言も、近代では、
    「仏を念ずれば間(ひま)なく、天魔禅(しずか)なり。言(げん)真(まこと)なれば国亡す、国の賊律(おさ)まる」と読むようです。ビックリ!

    >凡夫を置き去りにしないところに大乗があります。

    法然上人と親鸞聖人の浄土教は、殆ど密教ではないかと思うほどですが(口伝、師匠が大事なところが)、日本仏教は結局密教に行き着いたのではないかと思います。

    >煩悩菩提一味なり

    親鸞聖人の証道歌ですね
    なまんだぶー(-人-)

    • mani(管理人エム) より:

      > サッチャではないでしょうね。

      違うんじゃないかな、理論的に。ブッダは、サッチャは使わないです。

      コメントが光ってますね。

      >日本だけでなく、チベットもそうなんじゃないかなと思います。

      そうですねぇ、そうだと思います。ただ、わたしは、自分の領域ではないので答えられなかったですが。

      >>煩悩菩提一味なり
      >親鸞聖人の証道歌ですね

      ここ読むといつもウパニシャッドを思い出してしまいます。「大河も大海に至ると名前を失って一味になるように」というところです。

      •  春間 則廣  より:

        > 法然上人と親鸞聖人の浄土教は、殆ど密教ではないかと思うほどですが

           両人とも 「 密教 」 に
             “触れている”  ・  「 行 」 を為している

        >     (口伝、師匠が大事なところが)、

          “ 伝わるところ ” には  「 仏教 」 は 伝わる
              大事       は  口伝でもなく、師匠でもない
          直に伝わる  ということは  牟尼と共に立つ ということ
           「 共建 法幢 」  釈迦と共に立ち 法をハタメカ セル
           
            其処(それ) が まっすぐに伝わる(伝える) という意味
              大事  とは     「 法 」 である

        > 日本仏教は結局密教に行き着いたのではないかと思います。

          “日本仏教” など ありませんが、日本に 於いて、
            伝わっている 「 仏教 」  を  そう呼ぶのであれば
              日本には   中国仏教  が  “ 生きている ”

           トコロ で  行き着いた先に在る あなた   の 
                   「 密教 」 って 何ですか ?
          ( できることなら できている言葉 で 語って欲しい )

         どのように 密教( 「 仏教 」 ) を 形づくっていますか ?

            南無 するところ  は  ドコ ですか ?

             ア ミタ  ということ を MITA していませんか ?

           ブッダ の 仏 たる “由縁”  を  知っていますか ?
                      「 共建法幢 」                 
            ( ブッダ は 何処にいるのか という意味 )

        >> 大河も
            ( 小河 も )
        >> 大海に至ると名前を失って 一味になるように   

            大海 とい 法名 を  得る ( 共に建つ )

        •  春間 則廣  より:

          >  大海 とい 法名 を  得る ( 共に建つ )

           ( 仏法は )大海 という 法名 を  得る
           ( 得る者 の 得たところに )   ( 共に建つ )