スマホで撮った写真ですが、少しぼやけた感じですね。まあいいか。今年も咲いたということで、少し安心できます。
つぼみは、濃いオレンジで、咲くと黄色で、枯れるとオレンジがかった黄色、という3種類が確認できますね。
今年は、すでに暑いので去年より早く咲いたと思います。
オレガノケントビューティーもピンクになって来ました。これは去年バサッと剪定したら枯れてしまったのだけれど、今年は元気に育って良かった。このピンクが、花なんだろうか。。よくわかりません。
奥の方にちょっと見えてる紫はパンジーです。
時(カーラ)は、万物の元。死に神をも意味する。龍樹が世界の根元を紹介してあげているものの一つです。一切の天地の好醜は、みな時からきている。眼には見えず音にもきこえないけれど、果実となって結果を得て、時のあることを知るのである。なぜなら結果を見るとき原因を知るからである。
だから、時という法はあるのだと知るのです。過去・現在・未来の相を知るから、時はあるのだと知るのです。
ということなんだけど、そうなら、と龍樹はいうのです。
そうなら未来世は現在世になることはないだろう。過去世が未来世になることもない。だから、過去・現在・未来の相を時に当てはめることは不可能だ、形而上学的な意味が付随してしまう。こういうわけで、「時(カーラ)」は、実有であるといわれることになるのです。
だから、ブッダはカーラを使わず、「サマヤ」ということばを使う。
「時」という「もの」は有るのだ、という意識が人の心にはり付いて消えていかない。
仏教で「実有」とか「実在」とかいわれる場合、実質的にそう思う心がいつまでも消えずに残っている場合をいうのです。だから、「実有」「実在」は、そういう見解というより、執着する心そのものを指していうことが多いのです。
有るものだから、人は時に追いかけられる人間を心に描いて、苦しくなる。
一方、サマヤは「エーカン サマヤン」などと使われ、「ある時」という具合に時間をただ示すのである。なんとなく、話しが始まるぞ、という雰囲気が出てくることばになっているだけである。
「ある時…」と「『時』という法」とでは、なんかちがうなとわかるでしょう。
この違いを区別したのがブッダなのです。ブッダはカーラを使わずサマヤを使う。『大智度論』から話題をひっぱってみました。
コメント
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> 『大智度論』から話題をひっぱってみました。
話題 は 大知度論 に “あるかもしれない”
けれど
あなたの 「 心 」 に 話題 は ある(「実有」・「実在」)
> 実質的にそう思う心がいつまでも消えずに残っている
私の心 に 実在する あなたの話題
それがある けれど
それに 追いかけ られる ことはなく
それを 追いかけ る が ごとし
( あたかも それに 執着 するがごとく )
わたしの心 に それは はり付いているのだろうか ?
過去・現在・未来の相を時に当てはめることは 可能である
ただ 形而上学的意味 を 付加 すれば よい
( 「 心 」 に 実有 を 浮かべて流せば よい )
流れて逝くモノ を 追いかけても
その岸(追う立場) は 浜辺から 先に行くことはない
後は( その今 ) は 「 大海 」 に 入るしかない
逝く 生きる は 「 心 」 の 実有 が ごとし
> これは去年バサッと剪定したら枯れてしまったのだけれど、
後 は( 去念は ) 枯れて 逝く が ごとし( あとさき の こと )
> 今年は元気に育って良かった。
今 ( 今念 は )元気な姿 を わたしの心に “移す”
あなたに ふれながら 龍樹 に 心を落とす
・
> あなたに ふれながら 龍樹 に 心を落とす
どうやったら、わたしが龍樹にふれたように、みんなが龍樹に触れられるかをいつも考えてます。
わたしが感動したように心にしみたように味わったように味わえるかを考えながら説明を試みているつもりです。
龍樹が冷血動物のようにいわれ無慈悲で非難を繰り返す冷酷な人間のように見られたりするのはなぜだろうと思っています。
龍樹はあたたかい!
>龍樹が冷血動物のようにいわれ無慈悲で非難を繰り返す冷酷な人間のように見られたりするのはなぜだろうと思っています。
>龍樹はあたたかい!
ヴィトゲンシュタインが論理実証主義者とは違うことを論証した星川啓慈先生の『宗教者ウィトゲンシュタイン』(法蔵館文庫)のような本が出て欲しいですね。
ヴィトゲンシュタインは語りえない神や善悪について「沈黙」したけど、日記には「書いて」ましたしね!
『宗教者ナーガールジュナ』を誰か書いてくれないかしら。スマナサーラ長老が書いたらインパクトがあると思いますです。
というか『大智度論』の解説書を、西洋のチベット仏教系の比丘尼が書いて下さったらいいなあというのが本音で……(ラモット仏訳も、その英訳もあることだし)
というか、というか、頭が抜群に切れるけど熱血漢な龍樹くんを女性漫画家がマンガにしてくれたらいいなと。
それが一番効果あると思いうのです。
有髪でイケメンのナーガールジュナ!
玄奘三蔵は少女漫画家の作品があったりするし、チベット仏教も蔵西(くらにし)先生がマンガにしてくれてるし……
> ヴィトゲンシュタインが論理実証主義者とは違うことを論証した星川啓慈先生の『宗教者ウィトゲンシュタイン』(法蔵館文庫)のような本が出て欲しいですね。
『哲学探究』のヴィトゲンシュタインは、明らかに論理実証主義を乗りこえたと分かるけど、pocketさま、正信偈に説かれる龍樹はどのように解釈されますか。
こちらも明らかに親鸞聖人は宗教者龍樹をみていると思うんだけど。
歓喜地を証することは何を意味しているのか、ってことについてはどうでしょう?
>正信偈に説かれる龍樹はどのように解釈されますか。
そうですね。親鸞上人がどうして法然上人や弁長上人のように『観経疏』ではなく、
中観を学んだ曇鸞師に重きを置き、『浄土論註』の縁起による相続を説いた大事な部分を『教行信証』に引き込んでいるのか。
そこを考えると、親鸞上人の龍樹菩薩像は、宗教的というより、やや知的、慧の方面に寄っていると解釈できますね。
有無の見解を破するんですもんね。
親鸞上人にとっての龍樹菩薩は宗教者であり、しかもそこに留まらない縁起の智慧の菩薩だったのかもしれませんね。
「信心は智慧なり」みたいなことも言っていますね。ここが歓喜地に関わってくるのかなぁ?
そこらへんを(近代教学に阿ってではなく)明瞭に解き明かした人は誰もいないと思います。
浄土真宗のお坊さんはこんなにいっぱい居るのだから、誰か手を出してもいいと思うのですが、
お坊さんが仏教を信じていない時代では難しいかもですね。。。
*
> 浄土真宗のお坊さんはこんなにいっぱい居るのだから、誰か手を出してもいいと思うのですが、
浄土真宗に限りません
他宗でも同じです
真宗にも 理に入る人は (多くはないけれど) います
曽我量深 とか 安田理深とか 上田義文とか
> お坊さんが仏教を信じていない時代では難しいかもですね。。。
信じること( 信を持つこと ) と
理を知ること( 理に入ること ) とは
言葉は違へども 同じことを言います
信を持つ人 は 理を語らなくとも 行ないで 語ります
理に入る人 は 入り方 を 言葉 二 モシテ 語ります
全く 同じこと を 二つの面 で 語ります
行いを顛倒する者 を お坊さん とも 呼ぶ
・
> お坊さんが仏教を信じていない時代では難しいかもですね。。。
そうか。。「やっぱり」って、出てくるなあ。
わたしは、親鸞聖人は「聖人」であって、ブッダ論理に到達した解明者だと思っています。
そういうことを「信じている」のではなく、知っているのです。
親鸞聖人は、聖「人」でもあるのです。庶民からでた人は、人であることを忘れないんだなと思います。
龍樹は「歓喜地を証した」のですが、歓喜地を証したということは、菩薩地を明らかにしたということだと思っているのです。無上士を目指す菩薩と位置づけています、親鸞聖人も。
日本人だから浄土真宗を生んだのかなぁ、ッテ感心しています。
pocketさま 思い出したけど、スマ長老の場合は、龍樹については書けないと思います。
なぜかと言えば、テーラワーダは、大乗などで如来の十号と呼んでいるものを如来の九徳と説明しているからです。大事なもの一つ足りないのです。それがテーラワーダと大乗・密教の差ということになるのかなあ、って思ってます。
エム先生
>スマ長老の場合は、龍樹については書けないと思います。
そうです、そうです。書けないです。
『大智度論』も読んでないと思います。『中論』を書いた人としてのナーガールジュナですね、スマ長老にとっては。
でもスマナサーラ長老が龍樹菩薩に何か書くとね……世の中をかき回して……
誰かが書いてくれると思うんですよね。
PS. テーラワーダではブッダはanuttaraH(無上士)ではないですしね。tathaagataH(如来)とも呼ばないですね。
大乗では釈尊は阿羅漢(arahatta)ではなく「応供」ですしね。
> ……世の中をかき回して……
そっち狙ってたんですか(笑)
「無上士」は大事だと思います。ここから諸仏が出てきます。
大乗との違いですよね。
テーラワーダを守るようにしながら、すそ野をどこまでも広げる大乗。。って思ってます。
自分では、道元は自分の中にも一部あってついていけるけど、親鸞は未知の世界だと思って惹かれます。
*
( “テーラワーダ” ではないけれど )
ティック・ナット・ハン(達) は このような活動もしている
https://www.youtube.com/watch?v=W0T5tfOmCWc
( 日本語版字幕付き )
8:00 からだけでも 意味はある
< 不生不滅 と 「 縁起 」 >
人生に疲れている事 を 知らぬ人 には
関係ないと感じられること に 対して
心を 深めてみる( 縁起を求めてみる ) 一助
続いての これも ( もしかして ) あなたにとって 善いかも
https://www.youtube.com/watch?v=hw1ms8AF8qM
Thich Nhat Hanh Foundation
ダートマス大学 で このような催しがあったと 知らなかった
( “翻訳できなく” とも、見るだけでも 価値はある )
https://youtu.be/-uRM0g9D2F4
願わくば、 彼ら 全米でも
最も優秀な部類に入る 人達にとって
“ 誤った キリスト教教学 ” から
抜け出る一助 に なれば 、、、、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%A4%A7%E5%AD%A6
他のアイビー・リーグの大学と比較すると、以下の点がダートマス大学の特徴とされる。
大学生(学士課程)約4,400人、大学院生(修士・博士課程)約2,100人
U.S.News&World Reportによる2021年のランキングでは、学士課程(大学生)の分野で全米13位の評価を得た
学部教育の分野ではU.S.News&World Reportにおいて2009から2013まで5年連続で1位を獲得した[8]
上記の特徴を持ちながら、研究大学としても高い評価を得ている[9]
en:Forbesによる全米650の大学ランキングでは総合、研究大学としてともに10位を獲得した[10]
医学部のGeisel School of Medicine at Dartmouthは、全米4番目に古い歴史を持つ伝統校である(1797年)
ティク・ナット・ハンは、有無二辺の中道、と言っても、不生不滅の中道について語っているけど、概念的な思考を排除せよ、と言っているだけのように聞こえます。
ブッダの説明と同じ論調ではあるのですが、聞いているたくさんの人は、これで納得できたのだろうか?
古代インドのアートマン論者たちは、もっとしたたかだという気がします。
*
> ブッダの説明と同じ論調ではあるのですが、聞いているたくさんの人は、これで納得できたのだろうか?
雰囲気的 には 納得しているでしょう
> 概念的な思考を排除せよ、と言っているだけのように聞こえます。
禅宗 からの出発 です
たくさんの人 は 決して 納得しない・できない
( ゆえに ひとりにおきる )
Buddha の 「 真理 」
分かっている人のみ にある 納得
あなたの経験上
聞いている人 で “ わかった人 ” が
出現したことがありますか ?
納得して分かる のではなく
分かっている から 納得できる
( そこには 順序があるようで 順はない )
分かるときには Buddha に 還って わかるもの
「 空手還郷 」
・
*
ここから 何を受け止める(承け止める)かは
あなたの 生きざま 次第
『動物のひみつ』(アシュリー・ウォード著、夏目大訳)
https://diamond.jp/articles/-/341159
この本を 紹介する ある人 は
以下のように読む
「 どの動物も共通の祖先から生まれた親戚なのだなということである。もちろん、種ごとに大きな違いはあるのだけれど、本質的な部分に違いはない。人間もそこに含まれる。著者も文中で言っている通り、人間と動物の違いは量的なものでしかなく、質的なものではないということだ。 四十億年の時を超えて生き延び、今、生きているのだから、方向はそれぞれに違えど皆、必要にして十分な進化を遂げてきたのである。その意味で等価だ。どの生物も違う歴史をたどればまったく違ったものになっただろう。いずれも偶然の産物である。
皆、生き延びて子孫を残す、という目的は共通なのに、置かれた環境、経てきた歴史の違いにより私たち人間とどれほど違った、どれほど驚異的な生態の動物が生まれたのか、本書はそれを教えてくれる。 」
これらのこと は 牟尼が 伝えている 「 平等 」 と
どのように “ 関りを持つか ”
“関り” という 人間的恣意 は “思いの方向 ” に 向かって
その 足跡を残していく
ある人 は 振り返って ( < 三省 > 論語・学而 )
我が身・わが足跡 に 目を向けること も できる
遠く わが行く末 に 目を向けること も 出来得る
牟尼 は どのようにして 向けた目から
今 ! “思惟” を 受けとめているのか
その思惟 を わたしたちの目 は
どのように 「 色 」 として 受けとめるのか
承け止める 目 は 歩む足の上に つくりあげられる
歩む足 は 目の向く方向に 歩みを進める
歩みを見つめる目 を ( だれしもが 「 平等 」 に )
もっているけれど
どのように使うか ということ を 見つめる目
が あるという目 を もつ 価値観から は
誰も持ってはいない( 牟尼など存在しない ) という
正否 という 「 縁起 」 が 起きていく
存在しようと その存在を いかに活かすか は
目 の 存在性 に 関わる 事象 である
見つめる目 は 「 平等 」 に 存在する
“ 不平等 ” という 価値観 は
“ 存在性 ” を 見つめる目 を “ 覆い隠す ”
・