
ミニバラが咲きました。小さくて地面にはり付いていますが、薔薇はバラなのです。漢字で書くと難しい字ですね。
ブッダがいかに論理的であったかを知れば知るほど驚いてしまう。
西洋論理を学んでみたけれど、まあ、論理的だ。。パラドックスが山のように出てくるので嫌になるけど、その点、ブッダは、パラドックスにいくことをはなく、それを証智して組み立てている。
だから、仮設(仮説)として立てるのです。言語を用いると、パラドックスが生じることをあらかじめ知った上で、それでも言語を使わなければ理論化できないから、むりやり言語化しています。
その体系は「苦の体系」なのです。人間をはじめとする生き物が、苦しみを生じてそれを滅していく道筋を体系化したのです。
それは、悟りの現場で明らかになります。十二支縁起というのが、その体系化です。ブッダは何度も確かめて、完全に苦が消えることを証明してから発表したのです。
一個の生き物が苦を生じる過程と苦を滅する過程を「縁起」というあり方によって量ることにしたのです。個人のあり方が基本です。
たとえば、ゴータマ個人の苦しみはどうやって生じ、そして滅していくのか。そもそも苦しみにはどんなものがあるのか。
すべて洗い出したのがゴータマです。生死から来る苦しみ。生存から来る苦しみ。渇愛・取著から来る苦しみ。認識・判断から来る苦しみ。心のモヤモヤした苦しみ。感受から来る苦しみ。無明・行から来る苦しみ。十二支のどこからでも吹き出す苦しみ。。ゴータマの弟子の龍樹が、十二支縁起のどこからでも苦しみがでてくることを明らかにしました。
公理は何だろう。定理は何だろう。
公理は、「空(からっぽ)」だろう。
定理は、いくつもあるけど、一つ目は「生じたものは必ず滅する」というきまり。二つ目は「一切はみな苦である」というきまり。「一切は空である」というきまり。「諸法(諸々のことば)は無我である」というきまり。
これらによって成りたつ世界をつくりあげて、ブッダは自らの体系の中に入ったのです。
こうして、ブッダ論理によるブッダの理論体系は完成し、数理論理学の体系にふれることなく存立することになったのです。そこには善悪があり、苦しみの滅がある。。
ブッダの寂滅の世界は完成していて、壊れることがない。智慧に満ちた世界です。菩薩たち、声聞たちが、集う世界です。
コメント
*
> 「生じたものは必ず滅する」
生じたモノ とは 一切のモノである
生じたモノ とは 認識の対象 である
一切のモノ は 認識されて 認識者の向きあうモノ となる
> 「一切はみな苦である」
「 苦 」 というモノ の は 認識されなくても 存在する
存在があるゆえに 向きあうことが 可能となる
存在 を 認識できる のは 向きあっている面 だけである
存在が 正方体である と 仮定すれば
向きあう面 は 囲む面の 六分の一 でしかなく
向きを変えても 同じである
ただし 曖昧な記憶の中では 向きを変える前の面 が
向きあう面の中に ( 平面的に )存在している
向きあっている面 以外の面 は 向きあわない限り 曖昧である
向きあっている面 だけで 立体化できると 顛倒する
( 全ての=一切の 三次元 は 二次元において 認識される ±±±± )
四次元も 同様ではあるが 三次元的に認識すると 矛盾 が 生ずる
「 縁起 」 とは その矛盾 を 指す
> 「一切は空である」
> 「諸法(諸々のことば)は無我である」
諸法 とは 一切 (のこと) である
諸法 は 空である ・ 空 は 無我 である ・ 苦 は 空である
一切は生じたものであり ( 必ず ) 滅するモノである
( 必ず という意味 は 必ず 滅しないものを 示唆している )
遠離顛倒夢想 遠離 「 一切・かならず 」 顛倒夢想
( これを付加せざるをえなかった 漢訳者 )
そのゆえに 般若波羅蜜多 は 経の形をなす
> ブッダの寂滅の世界は完成していて、壊れることがない。
「 寂滅 」 とは 壊れ果てていて
それに対する認識 は 滅している としか 言い表せない
それ以上 動かすことが出来ない故に そのままで 完成している
壊れたモノ は 壊すことが出来ないが
そこに認識を 建てれば 倒れるまでは 認識が起こされている
認識 とは 寂滅に起こすより 方法がないけれど
起こした認識 で 倒れる認識 を
倒れるまで 認識する ことは 認識上可能である
「 生 」を起こすと 倒れるまで 認識は 起きている
倒れるところ は 一点 であるけれど
点 には 実体はなく
「 意 」 地 が あるのみ
そこを 一 と名付けようと
シュウ( 十 ・ 充 ・ 衆 ) としようと
点 には 占める面(四面) を 見出せない
・
>生じたモノ とは 一切のモノである
これは言葉遊びになっている。一切をめぐっての記号論理学。
何があるのかを確かめるのはあなたである。
自分のサイト作ってやったらどうですか。
ここは あなたのサイトですか ?
この質問 で わからなければ 、、、、
生じたもの に とらわれている
えび天サンバさま、春間さま、おはようございます。
突然、思いついて書こうと思ったのです。
「ブッダは論理学を残した」ということを!
ブッダの体系にいる人は、争わずに問題を解決する方法を模索しなければならない。争ってばかりいる人々の中で「争わない」という姿勢を示すために、
論理的な仕組みを書いておこうと思いつきました。
単に論理的なだけではない、倫理的でもあるやり方を明らかにしなければならない、と思っています。
そのための布石なのです。
マニカナ先生、こんばんわ
>公理は何だろう。定理は何だろう。
>公理は、「空(からっぽ)」だろう。
あるようでもなし
ないようでもある
地上から見たら雲の上はわからない
さらには空の向こうはもっとわからない
対話者の内在的論理がわかるし
その論理を利用して矛盾をあぶり出すのが
得意なのはシッダッタ王子とソクラテス先生
論理体系はあるようでもなし
ないようてもある
> あるようでもなし
> ないようでもある
まあ、そうかもしれないね。
あると思う人にはあって、ないと思う人にはないのかもしれないな。
ソクラテスとシッダッタ王子は向いてる方向が違うよね。
無知を避ける方向に向かうのがソクラテス。
無知を慈しむ方向に向かうのがシッダッタ。
*
無知の知 という 知 を 知っている ソクラテス
知 ということ の 限界を知らぬ(設けぬ)
ある ということ に ある 存在性
ない ということ は ない と 決める 約束
しらないこと は “ ない ” (しらない)
“ 知る まで は しらない ”
ある としる “ ある(という)こと ”
しっている ところまで は “ だれでも しっている ”
しらないところ は しらない( “ない” )
“ない” こと を しることはない
あれば しることは できる ( ある )
“ 知る まで は しらない(ない) ”
内容 を 云々できない “ ない ” (しらない)
“ あるよう ” とは 知っていることの 内容
“ ないよう ” とは 「内容」 ・ ないさま を いう
内容 が あって初めて 出会い が 始まった
> あるようでもなし
> ないようでもある
と 曖昧さを 知らずに 使う
> あると思う人にはあって、ないと思う人にはないのかもしれないな。
“ かもしれない な ” と
深く 定まっていること を 示す
無知を避ける 無知 を 「 智 」 において しる
“ 避ける者” を
慈しむ ( 避けずに 「智」と向かいあう )
自他 の 境目 が ないとしる → 「 智 」
だれであろうと おしなべて( 「 平等 」 に )
知っていること は “ある”
人 は “ しっている ということ ” において
「 平等 」
ないことは ない という 言語上の約束( あるとする )
あるかもしれない という ないことの言い替え
それらの約束 は > ないようでもある
> あるようでもなし
> ないようでもある
論理的 “ ままごと ” でしかない ことも “ ある ”
> あると思う人にはあって、ないと思う人にはない
しらないこと に 言及するとき “ かもしれない ” と
後置 する “ あいまいさ ”
あいまいさ を 避けるため に 論理 は 積み上げられてきた
積み上げてきても 崩すのは 難しくはない( 簡単である )
崩すことが難しい という 論理 は
崩すのは 簡単 か どうか という 論理的問題
“ いつくしむ ” という言葉 に 使用上の制限 は ない
( だれでも “ 好き勝手 ” に ↓
使うことが出来 意味を置くことができる )
そのような 言語的 限界性 を
知った上 で 使う
( しらぬ という ことのなかに ある ムゲン )
人には 夫々の向きあい方 が ある けれど
夫々にある という 向きあい方 は 一つである
その 人の集う( ヒトツ ノ ミチ ) を 歩む
あゆむ 阿 を 結びつつ 吽 にいたる 道を歩む
しるひと に ある 「 智 」
( ないもの が 知られる ということはない )
・
*
> ここは あなたのサイトですか ?
あなたが 書き込めば あなたのサイト です
書き込まなくとも ( 見て )読んでいれば “ あなたのモノ ”
“滅してはいない” あなた の “(生起させて持す)アルタ”
読んで 理解出なくて (理解できないことを)
放置する のも あなたに起きている “アルタ”
理解できるように (少し詳しく) 書くのは
わたしのアルタではない
理解すること は あなたのアルタ とは ならない
もし わたしが理解できないままで 書いているのであれば
カイテイル(欠く)こと が わたしのアルタ である
( わたしにとって 残念なこと ) 何を握っているかを 不知
そうであっても ( 誰にとっても ) 「 不知 攸厝 」
知る ということは 相互 に成り立つこと
( 相互 とは ) 相誤 であり
語 は 聞いて知るところ ( 聞 攸厝 ) に 起きる
誤 で在っても たしなめるトコロを知らず 「 不知 攸厝 」
窘める のは 何処に生じている “ アルタ ” なのか
こんなこと を 一々 考えていては “ ことはすすまない ” ?
という 進んでいく (つまれていく)行・アルタ
読む人・読める人 は 必ず現れる
という “ 誤認 ”
ひふみよ 異無 名や ココヲトウ
問う 限り に おいては
問う者には 答えは用意されている
コタエル には 応えるところ を 要す(ヨウス を 観る)
そうではあっても 誰の瀬にも 「 不知 攸厝 」である
独り知る だけでは 問い は 起きず
ふたり 知るところ に 起きる “ 問い ”
( 解いて 起きる 自他の コタエカタ )
「 唯我独尊 」 とは 自他を独尊させている こと
観る 我 と 被我( 観られている 我 ) とが
“ 存 ” (という攸厝) において 尊ばれる
そういうこと を 非我 とも 呼び
伝統的 には ( 「 仏教 」 では )
「 無 」 とも 「 無我 」 とも 呼ぶ
あっちへいけ と こっちで言ってみる 「 行 」
あっち こっち は あっちこっち する( 業である )
読まなくて 当然 ( 当然の世で 陶酔する 然 )
( 陶冶 しようとしているのではなく 陶 を 鬱 のみ )
わかるまでは わからない という わからないこと
訳があって 分けることをせず
分からぬままに放置する( 「 不知 攸厝 」 )
ここは “わたし”の ブログ
ということが成りたつ “あなた”のブログ
ここは あなたの軍隊 でありつつ あなたのサイト
・
*
>生じたモノ とは 一切のモノである
> > これは言葉遊びになっている。
言葉遊びにしかならない 君の認識
> 一切のモノ は 認識されて 認識者の向きあうモノ となる
ここを “ おろそか ” にするから
君の書き込み は ”おろか さ ”から 離れられない
> 向きあっている面 以外の面 は 向きあわない限り 曖昧である
曖昧 という語 を きみの向きあい方 で 解釈するとき
語彙 は 曖昧になるけれど、
君には、 君の向きあい方から 離れることが出来ぬ 故に
明確なる 語彙 が 君の認識の基盤となっている
わたしには、その曖昧さが 見えるけれど
君は 君の向きあいかたから 離れない(愛) 故に
みずからを 愛おしむことから 離れられない
ゆえに 、 君の わたしへの解釈 は
“ 必ず ”
不動(不滅)のものとならざるを得ない
> 一切は生じたものであり ( 必ず ) 滅するモノである
> ( 必ず という意味 は 必ず 滅しないものを 示唆している )
縋眼 で 見ずに 直ぐ眼 で 見ること 肝要
( 直 眼 とは 直心 の 肝 直心是道場 )
**********
あなた は いつも 直心 である
その直心 “さ” から 開いた 「 道場 」
復活 を 望むわけです
ここは あなたが開いた ( ある意味 ) 「 道場 」 ではあるが
おちゃらけ姫 が 以前 していたように
引用して 「 今 」 に することが ほとんど無理
わたしには 直心 は ない
ゆえに “ 必ず ” わたしのブログは 破綻する( 滅する )
滅するモノを愛おしむ 「 願 」
( 「 世間 」 という 瀬 で 「 願 」 を 読む )
・
*
< 訂正 >
> 縋眼 で 見ずに 直ぐ眼 で 見ること 肝要
( 直 眼 とは 直心 の 肝 直心是道場 )
縋目 X → 眇 目 ( すがめ ・ やぶにらみ め )〇
・
先生こんにちは。
関東で昨日は36℃、北海道はいかがですか。
理論と実践できるものの二本立てになっていて、十二支縁起のように実践するものが理論に裏付けられているので、実践すると苦を滅することができますよ、ということなのですよね。
うーん。。まずい、はまらないでおこうと例えば気づいたら気持ち引っ張っられないようにしようとか、私の場合極めて浅いところでだけど実践してます。
(腹八分目とか^^;)
ありがたいですね。
赤い実さま こんにちは。
36℃ですか!! 暑いですね。今日は,昼から冷えてきて16℃ですって。
>私の場合極めて浅いところでだけど実践してます。
偉いです!わたしも善く考えます。たとえば、災害避難の時(まだ未経験だけど)も、ひどくなる前に避難するとか。。縁起ですかね。腹八分目もいいですね。
「はまらないようにしよう」というのも大事ですよね。
わたしが好きなのは,牛の群が川を渡る話しです。まず、若い力のある雄牛が川を泳いでわたって、見本を示す。次に子連れのお母さん牛が川を泳いで渡って、子どもが後に続いていく。この順序で無事に川をわたり終えました、というお話しです。
こういうのも縁起なんですね。、
やはり北海道は涼しいのですね~。
見本を示した若い雄牛も成長前は教えてもらう側の子どもだったのですものね。
自然界に順序ありで上手くいってるのだなと。
縁起ですね。
間違えました。
理論ではなく論理。
*
> 見本を示した若い雄牛も成長前は教えてもらう側の子どもだったのですもの
自分の好き勝手なところで 物事を切り取れば
好きなように 結論付けられる
「 七仏 通誡 偈 」
過去千仏 があり 賢劫の千仏 がある
そのどれも が 子であり つつ 同時に 仏である
順序があって 過去 現在がある のではなく
認知するところにのみ 前後(順序)が起きる
・
*
ゆえに 常不軽菩薩 は
あなたがた すべては かならず 仏となる お方であると
“ こころ に ” 手をあわせる
・
*
読む だけで スませば
読まぬまま 済ませている のと
澄まし て(た 顔で) いる
ということでの 違いはない
顔 の認識 は すまし顔(の認識) で 為されている
いや 読みながら 考えている と思おうと
ながら読み になっていること を 担っている
背負っている 「 空 」 へと 羽ばたく
二つの世界を認識させる 羽 は たたまれた まま
ママ にならぬ 認識の世界 ? ( ワガママ な 認識 )
書き込め ば
認識 は 自己認識 の 世界 から 羽ばたいている
( どう・どのように 羽ばたいているかは 何れ分別 できる )
混沌とした “曖昧な”
シコウの世界 から ジッコウノセカイ へと 、、、、
読まぬ も 実行
読んで すまし顔 も 実行
おぼつかなくとも 考えて 書く も 実行
実行 という 「 行 」 において
釈迦牟尼 は ソコ を 明確にする 論理的思考
を 「 行 」 とする
実行 という 「 行 」 の 優劣 を 牟尼は示さぬ
「 無智 亦 無得 以 無所得 」
・
> 読む だけで スませば
> 読まぬまま 済ませている のと
> 澄まし て(た 顔で) いる
> ということでの 違いはない
なんか圧迫感のある書き込みだなあ、って思う。
返信要求されてるのかな、って思ってしまうけど、たぶん違うだろう。
論理学者ブッダを讃えているにちがいない。
無味乾燥とした論理砂漠にも、生き物の営みを見つめるブッダ。
論理の慈雨を降らすのはブッダ。
世の中は論理にしたがう、ところがある。
論理にはしたがわねばダメだ。でも、その上で倫理的であらねば論理は生きてこない。
*
> なんか圧迫感のある書き込みだなあ、って思う。
そう指摘されて 、 ( はじめて )考えると
そのように 読める
圧迫すれば 押し出されるモノ( 押し出すこと ) が
起きるわけでもない ( と わかる )
押してダメなら 引くのも 一理
( ひきこもること が できるのであれば も 一理 )
ん ―― ん
( もう ひとくふう できる かも )
表現において 圧迫を取り除く ソフト 化
> 返信要求されてるのかな、って思ってしまうけど、たぶん違うだろう。
欲求( 不満 ) は スマン と 言わざるを得ない かな ?
いずれにしても
返信 が あり とりあえずは “ 不達 ” ではなく
ヒト 津( あつまる ) 意味を見出し 引き出しを開けてみる
返信は あれば アッタ ! で( なけれども 泣かず とばす )
意味は 同じかも 、、、、 顔を変えることは 難しい
あなたの 返信の仕方 で ROM は 目を開く( こともある )
( 開き方 を 導き出す にも 表情 一考 の 意味はある )
> 論理にはしたがわねばダメだ。でも、その上で倫理的であらねば論理は生きてこない。
したがう 下に(為)した さき の 論理か否か を 考える
必要性 上を向く 、、、、、
“ 倫理的であらねば ” ということは 論理以前に起こすこと
いきるさま に つねにしたがう ダメ か ヨキ か
そこに起きているのは 二者択一 の 論理ではなく
生きるか 死してあるのか という 問い
ひし ひっし と みにしみる
あなたからの しずかな といかけ
論理 に 従っている か という 倫理的 生きざま
論理学者 を 讃える
( どのように 読むか で 讃え方 が 変るわけではない )
・
*
『 風信帖 』 を よむ と
空海 は まだ 『 摩訶止観 』 を 手にしたことがなかった
と わかる
手にして 掌中のモノ と したことがわかる
「 不知攸厝 」 ( 止観妙門頂戴供養 )
『 性霊集 』 を よむ
窟観 の合間に インドの書 を 読み 妙門 を 開いて
ふみこむさま を よむ
「 窟観余暇 時学 印度之文
茶湯坐来 乍 閲三震旦之書 」 『献梵字并雑文表』
どのような “書” であろうと
アヴィダンマ に “ むきあう ” 諸 である
< 参考 >
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15497/KJ00005097616.pdf
頁 12 献梵字并雑文表一首
・
*
“あなた” に 問いかける
> 手にして 掌中のモノ と したことがわかる
> 「 不知攸厝 」
手の内( 掌中 ) の モノ とは
“握りこんだモノ“ という 意味 を 握りこまぬ
手の内 とは 心の内 という意味
「 心 」 とは どこにあるか が 定まってはいない
ゆえに 「 不知攸厝 」
このようにして ( カクノゴトク 考察を為し )
「 心 」 を 掌中とする
( カクノゴトク が イカナルゴトキ かを 知らず ! )
知らず といえども
知っていること で 認識は成り立っている
知っていること が ない人はいない
( いくら否定しようと その否定 は 厳然とした 認識 )
「 無知の知 」 とは このような 構造的基盤 に 建つ
ソクラテス は ブッダ の上に 立っているのかな ?
*********
問いかける ( 呼びかける ) 対象となる “あなた”
あなた とは あなたたち という意味を含み
眼前 に 存在する あなた
( 眼がどこにあるか 知っていますか ? )
仏教をかじったことがある ( のであれば 分かるはずだが )
あなた の ( 彼方・カナタ・アナタ ) にある
眼( 「 色 」 ・ 眼識 を含む ) は どこにありますか ?
“あなた” には これを読む人 すべてが あてはまる
わたしも ( あなたも ) これを読むけれど
読んでいるあなた( の 自分自身・わたし ) を
あなた は 意識したことがない
意識する とは ヴィジュニャー という意味
( 仏教では 「 分別 」 と 呼ぶ )
あなたは あなたの分別 を 「 分別 」 できていますか ?
ここが 「 仏教 」 を しる 要( 基盤 ) です
それを 「 禅 」 では 「 脚下照顧 」 とも 呼びます
“わたし” は いつも ここに立っている
( “わたし” とは “あなた” と言う意味 と 寸分違わない )
そこを
「 仏教 」 では 「 自他不二 」 とも いう
・
>あなたは あなたの分別 を 「 分別 」 できていますか ?
分別できていますよ。
自分を分別するように、他者も分別します。
そして、それを無化することも出来ます。
生じたモノは滅するならいであり、五蘊は苦であり、一切は空であり、、諸法は武雅であるとしている世界観の中にいます。
諸法は武雅であるとしている → 諸法は無我であるとしている
*
> *************
あなた とは あなたたち という意味を含み
眼前 に 存在する あなた
> *************
あなた に 語っているけれど
あなた は ブログ を通じて ここにいる
> 五蘊は苦であり、一切は空であり、、
諸法は武雅であるとしている世界観の中
“わたし” は 何処にいるのでしょうか ?
“わたし” とは わたしたち の意 でもあり
“あなた” という “ ソウイ ” にも ある
何処が 相違 していて 総合としての
“わたし”(達) の いるところに あなたの総意 は
達しているのでしょうか ?
> *************
( 眼がどこにあるか 知っていますか ? )
仏教をかじったことがある ( のであれば 分かるはずだが )
あなた の ( 彼方・カナタ・アナタ ) にある
眼( 「 色 」 ・ 眼識 を含む ) は どこにありますか ?
> *************
此処に起きている 眼識 で 意識 を テキスト化しています
“ 一切は空 ” という “言葉” は テキストではない
けれど “わたし” は 単なる テキスト として 知るのみ
わたしの 眼( 「 色 」 ・ 眼識 を含む ) は ここにいる
> 諸法は無我であるとしている世界 「 観 」
わたしに その 「 分別 」 を
“わたし” に 合うように 観みくだいて ください
・
マニカナ先生、おはようございます。
投稿の場所がおかしかったですね。
あると思っている人にはなく
ないと思っている人にはある
天邪鬼もあるかな
ソクラテス先生はもっと深いかも
弟子はシッダッタ王子の方が素晴らしいかな
ま、弟子、孫弟子は科学的手法に行ったから
方向性が違うか
仏教も当時の科学技術の担い手になったから
さすがブッダですね。
> ま、弟子、孫弟子は科学的手法に行ったから
> 方向性が違うか
カエルさま こんばんは。
科学的手法は、言い換えれば、縁起 ということではないでしょうか。
方向性もいいんじゃないかな。
仏教は、心を扱えるのが特徴的かもしれないです。
マニカナ先生、おはようございます
科学的手法とは因果関係論ですね
仏教もかなり酷似しているので
中国なら南宋、朝鮮なら高麗の時代が
一番繁栄しました。
東南アジアがなぜ繁栄しないのは疑問ですね
仏教も迷信に近い輪廻論と縁起論が流行すると
そこまでですね。