ゴールデンセージというハーブらしい。セージを植えようと思っていました。「ゴールデン」がついてたけど、これでもいいかと思って買いました。1年以上この庭に住みついてまだ枯れてません。
去年、家の中で冬場を越したローズマリーは、庭に戻したら枯れてきました。もう、ダメかもわかりません。草や木は難しいね。いったん枯れると,もう生えてきません。そうかと思うと、雑草はどこにでも生えてきます。たぶん、土地との相性がいいんだろうね。タンポポとか、クローバーとか、スギナとか。
雑草でも、栄枯盛衰がある。アカザは雑草だけど、最近見かけなくなった。ノラ人参も見ないな。昔シロツメクサがどこにでもあったけど、それがアカツメクサにとってかわられて、それも減ってきている。
庭の木や草も、道端の雑草も、それなりに生き残るのはたいへんです。
生きる
生まれてきて、生きていき、それから、死ぬ。
地球にいる80億の人々は、生きて、満足して死ねるのだろうか。
死ぬべき存在であることが苦しみである、と多くの人が思っている。
その中で、ブッダだけが、苦の滅を説いたのである。
苦しみは終わらせることができるンだよ、と説くブッダは、生き物の宝です。確かに終わらせることができる、と、私でもわかります。
自分が変われば、世界は変わる。
涅槃寂静は、苦しみの終わりです。ふつうは逆にいうだろう。苦しみの終わりは涅槃寂静です、って。
でも、これでいい。煩悩のないところは静寂なのです。そこには苦しみはないのです。
コメント
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> 雑草でも、栄枯盛衰がある。アカザは雑草だけど、最近見かけなくなった。ノラ人参も見ないな。昔シロツメクサがどこにでもあったけど、それがアカツメクサにとってかわられて、それも減ってきている。
雑そう を 「 草 」 と 総称する
「 くさは おふる 」 愛惜 は 残る
残るモノ が ある限り 「 生 」 も 輪廻する
> 庭の木や草も、道端の雑草も、それなりに生き残るのはたいへんです。
> 生きる
> 生まれてきて、生きていき、それから、死ぬ。
そのヨウ な 様 を 「 生 」 と なづく
「 報仏恩 」 を望むを 「 徳 」 と よぶ
徳を得ること は トクベツ な ことではない
八十億 に分ける 一つの 「 生 」
> 地球にいる80億の人々は、生きて、満足して死ねるのだろうか。
満足 ナシ でも 死ねる
為している そこが 終われば ひとときの 寂滅
> 苦しみは終わらせることができるンだよ、と説くブッダは、生き物の宝です。確かに終わらせることができる、と、私でもわかります。
終わっていない “ わたしの世界 ”
( これを読み これを 「 不知攸厝 」 )
あなたという 「 ホウタイ 」 は 以下に巻かれているか 、、、、
巻きつつ 「組んず解れつ」 輪廻する 「 世間 」
> 自分が変われば、世界は変わる。
世界 は 変っていても
( 思い起こす ) 小さな世界 が 種を結んでいる
> 涅槃寂静は、苦しみの終わりです。ふつうは逆にいうだろう。苦しみの終わりは涅槃寂静です、って。
> でも、これでいい。
“ これ ” が どれに なるかは “だれ” が 決める ?
これこれ これで いいのですか ?
これしか 他になければ 「 唯我 は ドク存 」 している
> 煩悩のないところは静寂なのです。そこには苦しみはないのです。
そこは 静寂 であっても ここが そうではない
ソウイウ ところに 思いを馳せた あなたのブログを 読む
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終わらない 「 苦 」るしみ に
「 道場 」 復活 を 願う
そのとき そのとき の それぞれの
“ おもい ” の “ 丈 ” を 記す
丈に長短あり
といえども それだけ という 個の タケ
このたけ に かけるたけしか 手綱はない
繋がる 綱 に てをかける
「 道 」 を もとめつ みつめつ 一つ
ひとつひとつ に ふたつめの みつめ かた
その 「 場 」 を もとめつ
ながめつ たのみつ
よりつ ところ に おもいをかさねつ
・
春間さま
>「 道場 」 復活 を 願う
創作意欲は,みなさんにあって、わたしにはない、ということかな。
いつも何を書いたら善いだろうと悩んでいますが、他の方々は悩まないみたいで。
じつのところ書きたいことはたくさんあるけど、書いてもみなさんの興味とは違いそうだと思って、書くのをやめてしまいます。
春間さまが掲示板を作るっていうのはどうですか?
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> いつも何を書いたら善いだろうと悩んでいますが、
何を書いたら善いだろうか という 悩みを書けば “善い”
> 他の方々は悩まないみたいで。
悩み を 悩まずに書ける のを
眺める 悩み
を 書いている
ということを 認識から欠いている
“ カイテイル ” という カクコト への 悩み
ということ は カケテイル ( は カカレテイナイ )
↓ ↓
この 関係性 を 読み取るかどうか
↓ ↓
心の複層 を 平面上に表わす 難しさ
> じつのところ書きたいことはたくさんあるけど、書いてもみなさんの興味とは違いそうだと思って、書くのをやめてしまいます。
↓
そのような あなたの興味の起こし方( やめ方 ) に
( ここを訪れる ) ( R0M も 含めて )
興味を持って 眺め 反応しているのです
> 春間さまが掲示板を作るっていうのはどうですか?
もう 作ってはある けれど ( 寂滅の )
だれも おとづれない 音もせづ 墓場のごとく 悟得 なし
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> ソウイウ ところに 思いを馳せた あなたのブログを 読む
けっこう、わたしも、くるしんでますよね。
そう思うけど、ほんとにくるしいのかどうかは、自分でもわからないのです。
デーヴァダッタに思いっきり踏まれて命が尽きたゴータマの前身である猿の菩薩のことを考えて、かれは、デーヴァダッタを恨まなかったなあ、って幸せな気持になります。
『ジャータカ』はなぐさめられるお話がいっぱい。。
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> > ソウイウ ところに 思いを馳せた あなたのブログを 読む
> けっこう、わたしも、くるしんでますよね。
くるしんでいるとき には くるしんでいる とは 思わないもの
確認したい のは くるしんではいない という 事実
> そう思うけど、ほんとにくるしいのかどうかは、自分でもわからないのです。
あなたは “素” の ママ で 良い
「 論理 」 に 走る も よいけれど
「 真理 」 を 歩んでいる の を 忘れてはいけない
ハシル 馳せる 「 真理 」 ?
ゴータマ のこと を 考えるだけで
「 人 」 は 苦しみから遠ざかれる
( その為に 瞿曇 は 共に歩んでいるのだから )
ともにあゆむ ともとしてあゆむ
もっとも大事なこと は “ とも と とも に あること ”
ともは こころに 歩みを進めてくる
ともの こころに 歩みを踏み入れる
ともにある とは
共の心に ( それぞれに ) 生きているということ
いきる ということ は こころを馳せる ということ
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