今回は写真はありません。自分で無意識に書いていたのだけれど、大乗仏教のいちばん大事な思想は「争うな」ということだと、ショーシャンクさまに答えていました。
答えてから気がついた!そうなんだ、って。
思想としてもっている、というところが、自分でも「新しい点だ」と思います。
考えてみればあたりまえなのです。『ブッダと龍樹の論理学』の中で、ゲーデルに触れた時点で、当然出てくるべきだったのです。
ゲーデルの不完全性定理は20世紀に入って証明されたけど、ゲーデルは実在論者だったのです。
ところが、お釈迦さまは違う。仮に「縁起論者」と名づけておこう。縁起は、かりそめに説いたもので、わたしたちの煩悩に合わせて、わかるように仮に名づけた「仮設」なのです。仮に立てたものだから、話し終わると、ちゃんと消えてしまうようにできているのです。すごいよね。目が点になります。
何度も書いて出してるけど、何の反応もないのです。たぶん、みんな、詳しくは分からないのだろう。だけど、お釈迦さまが、そうだということは、誰でもわかることなのです。だから、反論が起こらないのだと思っています。
ブッダは「争わない」という思想をもって、人々と対話したのです。考えてみればわかることです。苦しみは、多くは、ことばが元凶になっているのですから。
とくに現代人の悩みや苦しみは、大半、ことばの形をとっています。身体の不調は、お医者さんが治してくれるけど、心の不調は、ブッダが治してくれるということになっています。ブッダは医王(医者の王さま)といわれるけど、もっともなのです。
単に治すだけではなく、自分で治すように仕向けてくれるのです。何で自分で治すかって?
それはね、苦しみを根本から取り除くためです。自分で作り出しているのが,苦しみだからなのです。
苦を完全に滅すするために、自分でやらなきゃいけないのです。自分?
無我じゃなかったっけ?
そのとおり、「諸法無我(諸々のことばは自分ならざるものである)」という思想をもって、苦しみを脱するのです。
具体的には、「中道」という道を通って、苦しみをなくすんだよ。
お釈迦さまのことが、わかるようで分からないのは、みんな「自分」をもって、そこに苦しんでるからだということなんです。わかってもなくならないのが、自分です。
龍樹はね、ブッダの説くことばから、人間の悩みが大半ことばから来ると気づいて「空」を説きました。
だから、「龍樹はことばを解体した」といわれる、と思う。
解体してから「組み立てた」ということも言えるけど、そこは誰も語っていません。『中論』の後半は、この「組み立て」に関わるところだろうと思っています。そこで私も難儀してます。
お釈迦さまは、やっぱり、仏さまです、ブッダです。世尊です。バガヴァットです。阿羅漢です。正等覚者です。善逝です、世間解です、天人師です、調御丈夫です、書き忘れたけど、明行足です。
そして無上士(この上がないもの)なのです。
そして、そういう仏が如来として現れるのです。
みんなが必要とするかたちを執って現れるのです。
あら、ただの讃仏になっちゃったわ。
誉めるつもりはなかったけど、誉めるしかない現状を、憂えてます。
仏さまの智慧を活用して、争いの世界に平和をもたらせ!
コメント
ヴィマラキールティ居士の沈黙は、智慧の文殊菩薩をも驚嘆させましたよね。もしかしたら、ヴィマラキールティ居士は龍樹菩薩と親友だったのかも。舎利弗長老と目連長老のように!
言葉(戯論)は苦しみのもとですね。
行者肌のヴィマラキールティ居士と
学者肌の龍樹菩薩みたいな。
僕も弟と、ある事で口論になり苦を経験しました。まさに修羅道なり!
戯論を断てる龍樹菩薩に礼拝したてまつる🙏
パレスチナ🇵🇸が早く平和になりますように。
pocketさま おはようございます。
今こそ、大乗!だなと、前から思ってます。ほんとにパレスチナに平和がもたらされますように。
ブッダの智慧を全部取り込んで龍樹がいるんだなと思います。智慧の舎利弗に合わせて智慧の龍樹か。。
なるほど、ヴィマラキールティを合わせてみたのですね
こんなことも思います。
歓喜地を証して阿弥陀仏にすがった龍樹菩薩。。これも、本当だと思う。
その場合、親鸞と道元が、「空」で重なるか。
※
どのように
争わずに 平和をもたらすか
争って、平和を希求するイスラエル
それに対して、争うアラブ
争っていてはいけないと
論 争 する
争いはなくならず
.
*
>> 争っていてはいけないと
>> 論 争 する
論争せずに 「 瞑想 」 する
>> 争いはなくならず
争い は 己の世界( 自意識 ) に 起きる
「 瞑想 」 ( 瞑想者 ) の どこに 争いがあるのか
“なくすことが出来ない” のは 「 他 」 という 「 虚 」
あなた が 「 他 」 である限り
「 自 」 の 制御 は 及ばない( 場合もある )
( 及ぶ場合 に のみ 特化していても 大丈夫 ? )
「 他 」 を 起こす人がいる限り
ソノ“タ” は ( 完全には ) 制御できない
( 不完全なことをもって “完全に” 満足終了 できますか )
→ 決して なくならない
Su.462
「 ・・・・・・・・・ 問え 火は実にあらゆる薪から生ずる ・・・・ 」
たとえ 少しでも “火種が残れば”
薪 は “ 大きな ” 役(厄)目 に移る
たった一つ の ( 「 他 」 を 起こさない ) 方法
「 法 」 の 姿 “ タタター ”
空しく 坐す
「 瞑想 」 における 「 ともしび 」
( その火種 は 寂滅の火種 )
争い は 寂滅せず 火種を残す 、、、、
・
> 争い は 寂滅せず 火種を残す 、、、、
龍樹を知ると、「争うこと」の意味を知ります。
端からみると、けんかしているように見えても争っていないことがあります。
端からみると、和やかに会話しているように見えても争っていることもあります。
「争う」というのは煩悩だけで終始することをいうのだと思っています。
ブッダが争わないのは、完璧な理論をもっているからです。
自己の体系内で完璧な理論をもっているなら、怖いものはない。
※
自己は怖くはない
怖いのは ないところにある他己
他は 自にある こともあり、
自は 他に無い こともある
そこに起きている ヤミ
ヤミナン 止みなん
闇に イルコト イデルコト
い出て 病みなき 他己 を 見ん
みん な で あゆむ 夢の中
。
シッダッタ王子の敬称は牟尼が一番しっくりくる
無言なら争うことはそもそもない
> 仏さまの智慧を活用して、争いの世界に平和をもたらせ!
活用 は 何処に起こせばよいのでしょう
智慧ある人 は 活用の場所 と 活用の仕方 を 示す
その示す姿 を 「 仏 」 と △ に ”むすぶ ”
タターガタ と 呼ぶこともある ( 只管 打 坐 )
異論があろうとも 先ずは “ 坐って ” 心を打つ
打って 鎮める
寂滅してはいない 世間の心