あっという間の牡丹かな

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牡丹が咲きました。毎年、沢山の花をつけるので、ありがたく思っていなかったけど、他の場所では牡丹が咲いているのを見ても一つか二つが多いので、大群で咲く牡丹を愛でることにしました。

あっという間に咲いてあっという間に散ってしまいます。

「花は盛りに月は隅なきをのみ見る」ものだと思っていたわたしです。だいたい、花が咲いて始めてその植物の名前が分かるという、情けないわたしでもあります。

だから、鈴蘭もあげておきます。

自分自身がたそがれて来たせいか、仏法に対する考えも変わってきました。花は盛りじゃないところにも眼が行き始めてきました。遅いですか?

仕方ないす。花は盛りをめざすものだし、人は隅なきをめざすもの。源氏も平家も権勢を誇り、消えていきました。

わたしも、消えていく方に興味が移りつつあります。つまり、生滅でいえば、生ではなくて滅の方です。滅することのありがたみをしみじみ味わっています。

朽ちていくことの安心感みたいなものを感じているのです。それと同時に、変わらないものもまた見ています。変わらない生き物の生活。。かわらない日常。。かわっていく日常。。

こうして数千年、数万年が、「あっという間」に経つのです。

永遠に続くものは恐ろしい、のです。放射能汚染は消えないおそろしさですね。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

    *

     かわらぬ  日常
    >  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
     かわっていく日常。。
      こうして数千年、数万年が、「あっという間」に経つのです。
      永遠に続くものは恐ろしい、のです。
              放射能汚染は消えないおそろしさですね。
    >  ・・・・・・・・・・・・・・・・・

       恐ろしい と “ 思う ” ( 「 意 」 ・ 「 識 」 に あっての )
           おろし さ
        (  どこか ・ いづこ  とは しれず  )
         汚染されて   はじめて 成立する 恐ろしさ
      おそろしさ  を   支配の為に 使う  おそろしさ
        おそろしいこと を おそろしいと 知る  「 智 」 
      おそろしくはない  と    知る  「 智 」 ・ 智慧
        (  おそろしさ を   知ること は   楽しい   )
        ( おそろしくはない    おそろしさ  )
       そのように 楽しむ姿   は  知らぬ人にとって 
               おそろしく  なんかい   である
          わかるために    よみかえす よせるおそろしさ
              難解 も イカイ も  解の一つ
           (  難易 に とらわれ    難に踏み込む )
          読み解いた 位階   が  成就 の 戒
            “ おつむ ” に 乗せるのが “階” ではない
         足元 に 起きている   「 難 」
                     「 至道無難唯嫌揀択 」
        おそろ 示唆  を  智る のは  「 揀択 」 に あらず
     

        おそろしく おそろしい が  続く 、、、、
                       (  永遠 に   ? )        
      おそろしいかな ?    つづくかな 、、、、

  2. 赤い実 より:

    こんにちは。
    先生のお庭にはいったい何種類のお花が?
    宿根草をうちにも増やしたいな。

    ところでアリッタ比丘なのですが。
    出家者用の戒律の存在意義をもしかしたら理解してなかったのかな、と想像しました。
    解脱することに特化した集団に入ったのだし、人々の信頼をえないと托鉢もいただけない。。
    実際、出家者の戒律が厳格だったのはなぜだったのかわからないのですが考えてみました。

    現代のお坊さんの中で欲望に忠実な人はいるでしょうけど、施す側が抜群に賢くなってきてるので淘汰されてるし、ますますそうなりそう。
    心配しなくてもそれでいいと思うのです。
    良いものなら形を変えつつ残るんだろうなぁ。
    親戚のお葬式とかでいろんなお坊さんを見るとそんなふうに。

    • mani より:

      赤い実さま 今日は。 

      >先生のお庭にはいったい何種類のお花が?

      大半雑草ですねん。咲いたときだけ写真撮るのでたくさんあるように見えるのかも。

      >心配しなくてもそれでいいと思うのです。

      わたしも何かそんな気がします。お坊さんも人間だし、わたしたち法話を聞く側も人間です。
      聞法というのは、相互にはたらき合いますね。聞く側も話す側も鍛えられます。

  3.  春間 則廣  より:

    > 解脱することに特化した集団に入ったのだし、人々の信頼をえないと托鉢もいただけない。。

            解脱することに特化した集団に入った ら 、 

      人々 は   中にいる人のそれ( 解脱することの特化 )を
      判別しがたい

             外から 塀の内 は 見通し難い

       托鉢 を することは出来るが、 それを 托鉢 とは 呼べない

         いただき 食し  煩悩をそこに生産する  こと が できる
       ( 奪い取り 食し  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ )

        あらゆる “ 得るもの ” を  「 食 」( 托鉢 ) と 呼べる
               (  「 四食 」 を 托鉢 とする )
       ( そのようにして 得たモノ  は “ アルタ ”  ではない )
      

       あなたが どこにいるかで  見通せる範囲 は 決まってしまう
      ( 人は 見通せる範囲  である 「 世間 」 に 縛られる  )
      (  そのような縛られ方 を  「 瑜伽 」  とは  呼ばない )

         現代のお坊さん(坊主頭だけとは限らない) でも 塀の中の人もいる
        ( 「 ヨーガ・瑜伽行 」  に  )
          一度入ってごらん   よく観得る ように 成るかもしれない

        ( 意味がわかるかな ? )

            塀の外 に いるのは  あなただけ  かな ?

    •  春間 則廣  より:

         華を盛りに愛でるのは 人の常

                        常に “執われる ” 人の常

        仕方ないですか ?
        しか あるべき ( 仕方“nice” )  と
                   カシ を 愛でる ( ナイス ル ) ?

      > 花は盛りをめざすものだし、

          華は落ちて  実(種) を 結ぶ
             どこに  華(アデスガタ) が アル のでしょうか

      > 人は隅なきをめざすもの。源氏も平家も権勢を誇り、消えていきました。

         源氏も平家も  消えてはいません
          源氏の末裔 を 名乗って 将軍は権威を着る
          平家 の 末 は 皇統 として 残っている(消えてはいない)
             桓武・文徳・光孝 

            何をもってして “消える” と 名づくか 、、、、

      > 滅することのありがたみをしみじみ味わっています

          しみじみ あじわう  あじ 感 ・ 阿字 「 観 」 

      > 変わらない生き物の生活。。かわらない日常。。かわっていく日常。。

         生き物 は 変らず 消滅していく
                   ゆえに  「 生 」 ・ 盛  と 名づく

         変らぬ日常 の 変わりゆくところに こだわって 生きる

          変らぬ  「 生 」 に トラワレテイル 人のせい
               有情 が すべて 執われているわけではなく
         すべての有情 に    執われる  人の 「 性 」 

          そのサガ は すべてを覆っている  のでしょうか 、、、、 

        わたしは 消えないところに

              “ トラワレ ” を 観ている 、、、、