あっという間の13日。月日は流れていきますね。
4月の頭に肺炎を起こして以来、息子の調子が今ひとつで、なかなか元気が出てきません。わたしも肩こりが酷くなったりとか、同じようにぱっとしません。
蛇喩経も訳し終わるのに手間取っていて、すぐしみじみとしてしまいます。なにこの「しみじみ」って?
しみじみというのはね、考えちゃう、ってことだよ。それと同時に『ハタヨーガ・プラディーピカー』も併せて読んでいるんだけど、こちらも考えちゃうね。
『スッタニパータ』と『ハタヨーガ・プラディーピカー』が、違和感なく並ぶのが、インドの哲学だなあと思う。
「アートマン(我)」とキーワードを入れると、皆、つながっていくんだ。。『スッタニパータ』に潜んでいる「無我」の思想も「我」を意識してる、って事だからね。勿論、『蛇喩経』ともつながっていって、現代人として生きてるわたしに強い影響を及ぼしてる。
ところで、oさまに『勝義空性経』のことを尋ねられていると思うんだけど、自分の中ではまだ答えが見つかっていないのです。見つけているかもしれないけど、潜在意識の中に潜んでいます。
あと、ブッダの教えを取り込んでるヒンドゥー教の姿も見ています。インド哲学おそるべし、って思っているところ。
哲学そのものが輪廻してるのを見ています。でも、輪廻してるようだけれども、涅槃を目指しているのも見えているのです。何を言っているのかわからん、って?
いいのだ。わかる人にはわかるのだから。
インドの哲学は正統・異端を問わずに学ばなければいけない、つまり、全部だよ!
みんな!
仏教だけ学べばいいんじゃないんだ、ありとあらゆることを学ぶべし!!!
コメント
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> 『スッタニパータ』と『ハタヨーガ・プラディーピカー』が、違和感なく並ぶのが、インドの哲学だなあと思う。
違和感 の ない あなたの 考え方( 哲学 構成 )
考え方 に対して ( わたしが )違和感を持つわけではない
『スッタニパータ』と『ハタヨーガ・プラディーピカー』とを 読む
のは あなた ( あなたの読み方 )
自分の考え方 に 違和感を持たない ( 自己確立 )
自然にあれば( 自分に素直 ) 内部に “異” は起きず
「 意 」 は 詰め込まれた 「 識 」 に 左右され難い
インド哲学 が 違和感なく並ぶ あなたの 「 意 」
たとえ インド人であろうと ( 伝統の中で生まれようと )
その伝統 は 「 識 」 に 支配されている
「 識 」 なる “ 「 薫習 」 でしかない ”
> 「アートマン(我)」とキーワードを入れると、皆、つながっていくんだ
“つながっている” というのであれば 繋がり方 を問わねばならない
( 自己を問うよりも ) 他を見れば 自己心中にあるものが見えてくる
( 批判されるべき “他” ではなく )
他 は 自己認識の 側面でしかない
“ > 皆、つながっていくんだ ” というところ を 掘り下げる
> 自分の中ではまだ答えが見つかっていないのです。見つけているかもしれないけど、潜在意識の中に潜んでいます。
このように 記されているところ を
自分なりに
“ 我が身のこと として ”
読んでみたこと 聞いた言葉 ( ミタ ! 「 色 」 として )
重ねて !
記 して ミル !
( この場合 ) 為されるべき ↓
コ―テイション マーク は 肯定 “しよう” マーク(記)
重ねて 「 識 」 を 顕し
「 識 」 の “重なり” を “ミル” こと 可能( 「 果 」 )
→ 「 願不能 東西 今思 」
東西 という 「 識 」 において 離れて位置するところを
一つ場所に置く ( 「与」 )
我が金襴 とは 深き縁 において 綱がある(つながる)
「 及 」 室山 とも 繋がる ( 読む において )
読んでいる のは 記す者 と “ 金襴 と 読む者 ”
誰の目にも 光る( 波うつ )ゆえ に とどく
音 も 光 も 電波( デンパン ) も
寄せる波の 悟得 伝搬 して いく
波 であり 思想 である とも 知ることが 可能
( 「 願 」 不能 かも 、、、、 )
> 仏教だけ学べばいいんじゃないんだ、
ありとあらゆることを学ぶべし!!!
!!!
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インドの哲学は正統・異端を問わずに学ばなければいけない、つまり、全部だよ!
みんな!
仏教だけ学べばいいんじゃないんだ、ありとあらゆることを学ぶべし!!!
賛成!
あら、嬉しや、桂先生が賛成してくれた!
インドは不思議です。いつもそう思う。
> 仏教だけ学べばいいんじゃないんだ、
正統と異端に対する考え方が、不思議としかいいようがない。
ヒンドゥー教は、仏教を本家本元の仏教より徹底して学ぶ。
また、お釈迦様はウパニシャッドの思想にチョー詳しい。
冗談じゃなくて、ことばの真の意味で「ヴェーダの達人」なのです。
だから、バラモン達に対抗できたのです。
これが伝統になっているのが、インド思想なのです。
そして、また、自分の立場を失わない。。
仏教をやっているとレッテルを貼っているのがおかしなくらいです。
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> バラモン達に対抗できたのです。
> これが伝統になっているのが、インド思想なのです。
インドの思想 を 継承する あなた
伝統 とは 電灯 ではない
真下にいる者 を 照らす ともしび
共にある( 与 ) ということを 失わない “ あかり ”
「 共建 与 」
ブッダ(達) によって 照らされる 「 真理 」
> そして、また、自分の立場を失わない。。
失わない のは(理由は) “ あかり ” が
足下を照らし出しているから
> 仏教をやっているとレッテルを貼っているのがおかしなくらいです。
この場合 “レッテル” の 意味 は レッテルを張る者 には
理解しがたい ( 見るのは レッテルの文字 だけ 、、、、 )
> ことばの真の意味で「ヴェーダの達人」
真の意味 を しる → 真の 「 理 」 をしる → 達人
( 「ヴェーダ」 とは 「知識」 のこと 達した人 が ↑ )
「 真 」 を しる 意味 が 「ヴェーダの達人」 と 表される
( これは 「真人」( 道教 ) の 概念 とは 意味を異にする )
SN 1-5
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 神々との対話 」 40p. )
聡明な叡智ある人 は 世間における名称を知って、
言語表現だけのものとして
そのような 表現をしてもよい
> 自分の立場を失わない
* 226p 「 念仏者は無碍の一道 」
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