ウパニシャッドの思想は、簡単に言うと
[梵我一如である]
と、それこそ昔からいわれて来た。しかし、不思議なことに、梵(ブラフマン)と我(アートマン)が一如(一つである)とは、ウパニシャッド文献を見てもどこにも書いていないのです。ただ、しかし、読んでいると、心の中に、宇宙の原理であるブラフマンは、最高のアートマンとひとつなんだなあ、という思いがわき上がってくるのです。
アートマンというのは「自己」と訳されたりするもので、自分自身を作っている根底に置かれる本質という意味合いのことばなのです。
この思想は、非常に長い歴史があり、インドに生まれインドで育まれてきたものなのです。それは、インドがインダス文明の頃からヨーガ(精神集中)やディヤーナ(禅定)をもっていたからだろうと思っています。
そういう中から、ウパニシャッドの思想は生まれてきたのです。それは、インドに哲学の目を育て、多くの哲人たちを生み出してきたと言えるでしょう。
ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤは、ウパニシャッドの二大哲人です。彼らを知らないものは、インド哲学のもぐりであるといわれても仕方ない程重要で、しかも、哲学的に高度な問題を扱っているのです。
なのに、インド哲学の研究者以外にはほとんど知られていないのです。なぜだろう、なぜかしら?
それは、インドの哲学が特殊だからと言えるかもしれない。いや、そうではない。「我(自我意識)」に偏った現代の哲学の風潮こそ異常なのだと言えるかもしれないのです。
なぜなら、哲学の流れが、「有」ということに偏りすぎているからなのです。「有」は「我(わたし)」を呼び起こすのです。それを、後の時代になると「自我意識(アハンカーラ)」と呼んだりもするのです。
こうして、『おれが・おれが』の哲学が蔓延していくことになります。
そして、怖いのは、そうでない考え、つまり、「常識」ではない考え方を思いつかなくなってしまうことです。「常識ではない考え方」とは、非常識のことではありません。非常識は、否定辞を頭につけたことばであり、思いつくでしょう?あなた自身は常識ある人間だとしても、この世にない考え方ではありません。非常識なヤツは、やっぱりこの世にいて、常識と対立する考え方を示しているからです。
ですから、「常識ではない考え方」というのがどういうものなのか、探りを入れることすらできないのです。そういう中で、ブッダは、無我を説くのです。どんなことを考えればいいの?どういう思想なの??
ひとたび自己に目覚めると自己なしではいられず寝ても覚めても自己を追い求めるようになるのがふつうだからです。「自分」という意識は常にはり付いてあなたの思考を縛るけど、あなたはだんだんそれを忘れてくるのです。無我?何それ?
「無我(アナートマン)」は、「アートマンでない」という考え方なのですが、これがどういうものなのか意外とわからないのです。一切がアートマンから成っているとき、「アートマンではない」もの、って、何をどう考えりゃいいの。自己がないってこと?それとも、自己でないってこと?
インドでもまた、自己は探究の中心でした。自己を求め続け、哲学のテーマにしてしまったのです。ここで、じつは、新しい世界が広がったのです。ウッダーラカの「自己」は、ブッダを経由してサーンキヤの思想を生み出して行きますが、その軌跡はあまりはっきりとはしていないのです。
それに、ウッダーラカに対抗したのは、実はインドでは見えてこないのですが、ブッダなのです。
ブッダの思想を受けて逆説的にヨーガ学派が興り、そこに哲学的な解決策を求めてサーンキヤが興ってきたのです。一見すると、対立する思想の影響を受けて、その学派が発展していくという構造をもっているように見えるのです。
そのように書いてある概説書はないと思います。しかし、わたしの見たところではそうなのです。
なぜ、全く、わたしの見たとおりに書いてある概説書はないのだろう、と思いました。
不思議で仕方ありませんでしたが、漸くわかりました。ブッダのせいなのです。
無我を打ち立て、無我の生き方を身につけたブッダの思想は、ほとんどの人を煙に巻いてわからなくしてしまっているのです。みんな、アーラヤ(愛着)を楽しんでいるからです。
無常・苦・空・無我を説いたといわれるブッダ。その思想はやがて、大乗仏教を生んで、常・楽・我・浄という如来の姿を示し始めます。
一見すると、ヒンドゥー教やバラモン教のブラフマン・アートマン思想に近づいたかのようですが、ほんとにブッダの法は大乗で変容してしまったのでしょうか。
ちょっとまった!
その前に、ほんとにブッダの説いた法は何だったのかをみてみないとなりません。
「あらゆる現象は変化する」ってのが諸行無常でしょ。「変化しない」ってのが、常住なんだから、ブッダを常住とすると、ブッダだけ特別扱いすることになって、おかしくない? ああ、大丈夫。わたしたちの知ってるブッダは悟りを開いて涅槃に入ってるから変化しないの。でも、それ以外は全部変化する。ちなみにブッダのことも、わたしたちと同じだと思うと諸行無常ですよね。お腹痛くなったり死んじゃったりしますもの。ちゃんと年取っていくし。
じゃあ、ブッダは、何でもありで、無常でもあり常でもある、というのはどうだろう。あるときは常住で、あるときは無常。身体(色)としては無常だが、精神としては常住ってのはどう。
いいかもしれない。。でも、そうなると、バラモン教などが説く「不滅のアートマン」や「ブラフマン」とどこかかぶってしまいそう。思想的に見分けがつかなくなる。ショーシャンクさまのいうとおり、バラモン教やヒンドゥー教の影響を受けて、それと似たような思想へと鞍替えをしただけ、ということになりそうだけど、それでいいのだろうか。
ブッダの教えの一つは「争わない」ということ。時に無常、時に常住を説くとき、たいてい反対する立場では意見の違いから争いが起きる。そこで打ち出されてくるのが「空」。これは、「一切智」の特徴として出てくる。つまり、無常と常住の二つで否定と肯定の全体が示され、その意味で「一切」といわれる。
え、「一切智」ってそんなものだったの? そうですよ、ある人々はアートマンの常住を説き、ある人々は諸行無常を説く。無常と常住で見解の対立を招く、この拮抗する立場の間で争わないとすれば、どうすればよいのか。それは、いろいろ考え方はあるとは思いますが、確実なのは、自分の意見を引っ込める、ということだろう。。せっかく説いたのにぃ、引っ込めるんですか。
そうです!
自分の見解を捨てるんです。諸行無常をすてちゃうん?そうそう、捨てちゃえ。捨てて、代わりに、大日如来は常楽我浄と説くんだ、ヒンドゥー教の神々と同じに合わせて説くんだよ。
そうなるとどうなるの?
空の思想が生きてくる。空性とは見解から出離することである、と『中論頌』13.8にあったよね。
見解から出て、相手にあわせて、「君とこも常楽我浄なの。僕らも大日如来はそうなのさ」っていってしまうんだ。
絶対的な意味をもっていた常住なる不滅のアートマンは、どこかに行ってしまう。常楽我浄によって言えることは、涅槃は常住で如来は安楽、執着を離れた仏陀の我は何ものにも汚されず自由である。
え?それで?
「それで?」って何よ。それでいいじゃん。ブッダも成りたってるし、ウパニシャッドも成りたつんだから。つまり、無常・苦・空・無我も成りたってるし、常楽我浄も成りたてば、文句ないでしょ。
「そういうもん?」
そう、そういうもんですよ。
それでね、気がついたかどうか分からないけど、見解捨ててるブッダね、彼の姿をじっと見ていると、もしかすると、このブッダの姿が空ってことなんかなあ、って思えてくる。無我ってことなんかなあ、って思えてくる。ブッダの身体を見ていると、無常で、その慈悲の心を見ると、常で我で浄に見える。みんなに理解されないブッダは、苦にも見えるけど、寂静の涅槃で楽にも見える。
無我をそのまま体現して沈黙するブッダは、人々の心にさまざまな思いをわきあがらせる。
ウパニシャッドの思想の影響を受けたんだ、と見る人もいる。
無我の思想は、他を押しのけて普遍絶対である、と見る人もいる。
お釈迦さまに会いた~い、とひたすら望む人もいる。
大乗仏教になったら変節してブッダの思想は失われた、と見る人もいる。
それぞれの心にそれぞれ思いがわきあがる。。これこそが、煩悩あるわれわれが見る無我の法なのです。
コメント
石飛先生、おはようございます。
私が『大乗中期以降に常楽我浄を打ち出したのはバラモン教(ヒンドゥー教)に近づいた』と書いたことを、多くの人は、大乗中期以降への非難、貶しと捉えたでしょう。
しかし、私はその人たちと立脚点が全く違うのです。
仏教者は、バラモン教(ヒンドゥー教)を嫌っているというか憎んでいるに近い感情を持っています。
バラモン教との共通点を指摘されるととても嫌がります。
キリスト教との共通点を指摘されたら嬉々とするのに、です。
キリスト教は全肯定するのに、バラモン教は全否定するのが仏教者です。
解脱した後、存続するものがあるかないかについて無記だったのが仏陀です。
本体があるかないかについて無記だったのですが、仏教者は本体=アートマン=我と捉えて、仏教はバラモン教の全否定であり、無我を旗印とするとしました。
しかし、仏陀が言ったのは、
『無常で苦であるものを、わたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいだろうか。』ということです。
無常で苦であるものは私ではない、と言ったのが仏陀です。
解脱した後、何もない、無に帰すだけ、というのは虚無思想です。
部派仏教は、ひたすら煩悩の滅のみを目的とし灰身滅智を究極としました。
そのような部派に対し、『そんなものは仏陀の真意ではない。もっと大いなるものがあるのだ』と反発して興ったのが大乗仏教だと考えています。
大乗中期になって常楽我浄を打ち出したのは、唯物や虚無に走りすぎた仏教の揺り戻しだと思っています。
別に貶しているのではありません。
もともと私は、仏陀がヴェーダ宗教を全否定しているとは思ってもないからです。
ショーシャンクさま、
> キリスト教は全肯定するのに、バラモン教は全否定するのが仏教者です。
この自称仏教者は、なんかちょっと前までの植民地主義的洗脳を体現してるかんじですね。
こういう考え方をする仏教徒はおそらく日本の廃仏毀釈時に真宗をプロテスタント化した清沢満之系の方々だけでしょう。
それも方便としてはありですが、今、それを仏教というのはちょっとニッチ過ぎですね。
そういう仏教徒としか出会えなかったのは残念ですね。
せめて「日本仏教者の一部」と言い換えた方が実情に合致すると思います。
もっともショーシャンクさまの採っている歴史的批判的方法もルネサンスに由来するプロテスタントの方法です。仏教はそういう方法は採りません。
歴史的批判的方法で文献を分析すると、いわゆる苦行者文学のようにブッダがウパニシャッドの影響を受けたといわれますが、ただ用いられていた言葉づかいを用いただけと見るのが仏教的だと思います。そういう意味では影響を受けたと言ってもいいでしょう。つまり、言葉遣いや仏教徒の生活習慣などで、それまでの習慣を取り入れているだけです。それは仏教が各国の言葉づかいを用いるのと同じことです。
また、常識に立てば大乗は創作されたものと考えられますが、そうではなく感得されたものと思います。これはチベットや中国、日本を見れば私には明らかだと思います。
これはデカルトのような常識に立つ歴史的批判的方法では分からない、分かりやすい象徴的な例だと考えます。もっと本質的な縁起とか空などは、常識に立つと何故分からないかは、この例で伝わらなければ私の能力ではショーシャンクさまに説明できないでしょう。
Oさん、ありがとうございます。
大乗仏教が感得されたものであることは全面的に賛同いたします。
私は法華経は、仏陀の悟りを知りたくて仏塔(舎利塔)で瞑想していた比丘(サンガ内の)が感得した真理を書いていると思っています。
また、大乗仏教で強調される、縁起や空の思想は理解できます。
華厳経の縁起や空の思想は実は好きです。
ただ、仏陀が言った縁起とは、十二縁起のことだというのが私の考えです。
特に、龍樹以降は縁起による空の思想が仏教の根本思想となったことは承知しています。
承知したうえで、仏陀が言った『縁起』とは『空』とはどういう意味かを知りたかったのです。
後世の教えから仏陀を見るのではなく、仏陀から辿っていきたいのです。
そうしないと、なぜ大乗仏教が興ったのかの真実が見えてこないと思ったのです。
いまに至るまで、スマナサーラを代表とする部派仏教は、大乗仏教は非仏説としていますし、法華経も般若心経も意味がないか間違いと断言しています。
大乗仏教の側は、原始仏典だって後世にできたもので仏陀の直説とは言えないなどと貶したりしています。
私はこういう状況はうんざりなのです。
原始仏典は仏陀の真意を知る上で貴重ですし、それを踏まえた上で、なぜ大乗仏教が興ったのかを洞察していくことが、これからの仏教にとって極めて重要だと思っています。
もちろん、私が思っているだけです。
思うのは自由ですから(笑)
Oさんが、仏教(原始仏教も大乗仏教も)には、ウパニシャッドなどのヴェーダ宗教の影響が(表面的な言葉や用語以外)全くないと思われるのはどうしてでしょうか。
私は仏陀はヴェーダの土壌の上に立ってると思っていますし、大乗仏教にバラモン教の影響がないというのはあり得ません。
行為を因として輪廻転生が起きると最初に言ったのはヤージュニャヴァルキヤです。
護摩はバラモン教のホーマ(homa)のことですし、仏陀は火の儀式はしてはならないと言っています。
そ、そうなんですね?ということは、、、護摩を焚く仏教関係者の中の人は、
前世が昆虫で、その前がバラモン教の人ということになります。
「私な仏教」では。
護摩を焚く人は、
なぜ、前世が昆虫なのですか?(笑)
えーーーとでしゅね、、、前世が「人間と接する機会のあった」動物だった場合は、人間社会の
中で、前世動物だった感覚で生きます。例)ぎんた中の人猫だから教室コワイ、、、
で、前世昆虫だった場合、脳の大きさ違いすぎ&人間の言葉とか聞いたことないので、前世の
記憶は呼び戻されず、「前回人間だった時」の行動様式を取ろうとします。なので、動物火は
扱わないので、前世が昆虫の人が「火の儀式」をする人なんです。自然界に生息する比率は
そのまま、人間の「中の人」の比率と一緒なので、中の人が昆虫の人間は一番沢山います。
養老孟司は当然昆虫。前世人間だった時賢かったんでしょう。人間から人間にはならない。
ダライラマだけ例外なんでしょう。何かワザがあるのでしょうか?
なるほど。
前世、飛んで護摩の火に入って死んだ昆虫が
今世では護摩を焚く人となったのかと思いました(笑)
はっっ!!!にゃるほど!!!!そ、それは考えてなかった!!それでいいんだと思います!!
火に飛び込んで、「人間の都合で死んでしまった虫」が今世で護摩を焚く人になったんでしょう!
ありがとうございます~~
ショーシャンクさま、
そのような自称仏教者は清沢満之の末流であることは了解していただけたことと思います。
大乗仏教が感得されたものであることは全面的に賛同していただけるなら、
大乗経は法身の等流であるということも賛同していただけますか?
だとしたら、歴史的批判的仏教研究があまり意味がないと理解していただけると思います。なぜなら、歴史的批判的研究 ーポストモダン以降多少変わってきましたが、仏教学での主流ー は見えるまま、知覚されるまま実在するという常識に立ち、先行文献の影響下に後の文献が必ず作成されるという前提に立っているからです。
法身の等流である法を感得したのが大乗経典だと考えるなら、後に述べるように言い習わし、言葉遣いは感得した時代のものを用いるという意味で影響はありますが、内容的に制約がないのは後に見るヴェーダと釈尊の関係と同じになるからです。
そうでなく、常識に立つともはや仏教的に意味をなさなくなると思ってます。なぜなら、実在論に立つと縁起ではなくなり、五蘊など現れを実在と捉え、苦が解消しなくなるからです。
ウパニシャッドなどのヴェーダ宗教の本質的影響がないと考える理由は、釈尊が体得したものは涅槃、寂滅や無戯論と説かれるからです。それらはさらに表現できないと説かれますが、寂滅や無戯論であればヴェーダの影響はないでしょう。有ったら非寂滅、有戯論になるからです。
教えは、寂滅や無戯論である涅槃に導くため教化対象に合わせて、当時の用語、言い習わしを用いて説かれたと信じるからです。
大乗で言えば、勝義に至るには世俗の言葉を用いた教えが必要ということになります。
ここでヤージュニャヴァルキヤでしたか、ウパニシャッドの五火二道説と輪廻について考えましょう。ウパニシャッドの行者たちも釈尊も単なる思弁哲学者ではないということが重要だと考えます。行体験を言い表したのが五火二道説や輪廻ということになると考えます。そして、サンサーラという言葉は仏教が初出である可能性が高いと聞いています。文献学ではテクストの関係を見て、思想史とかを提示するので影響を云々しますが、私は釈尊の悟り、体験が重要で言葉は合わせて説かれただけと考えます。
これは相手の言い習わしを用いているからで、もし、釈尊の教化対象がセム系の言い習わしを用いていたなら、それを使っていたと思います。だから、仏教は各地の言い習わしに合わせて言葉遣い、風習を変えるのだと考えます。
なのでホーマは護摩です。それだけでなく密教はインドの諸宗教から色々採ってきています。それはチベットではチベットの宗教、中国では中国の宗教、日本では日本の宗教から色々採ってきます。それは方便であり、重要なのは般若・空性だと考えています。これは何人かの先生も同じことを仰っております。
仏教と違ってプロテスタント的文献学はカトリック伝承が信じられない、あるいは信じたくないので、またルネサンス的流行もあってテクストに依って源泉、オリジナルを探求する方法が採られたんだと思います。これは神の言葉の実在を根本とするセム系宗教だから、そうなるんだと思います。
しかし、仏教はそうではありません。法はテクストではないからです。聖者から教えられ体得したものが、また聖者となり、サンガとなり法を伝承することになります。仏教文献学を担った方々は基本的にキリスト教的文献学を応用して仏教を研究しているので、ここらへんが倒錯しています。最初は現地で僧などに聞いていたのですが、段々聞かなくなり、現在はまたそこらへんを反省する方がちょっとづつ増えてきた印象があります。
以上のような方法的問題の根本は仏教の場合は根本的認識誤り、無明を治すために治った聖者から教えを受ける、治すために道を歩むことになるので、常識という無明に依ってテクストに依って文献学をやってもあまり意味がないということです。つまり、根本的無明に依って判断しているからです。これはエム先生が「縁起というのは、こだわりを持つところから始まるので、まず間違ったところから出発するという道筋を得ないとだめなんですよねえ」と同じことかと思います。
単純にいうなら、いわゆるコモンセンスという意味の常識が無明で、我々は狂ってるという認識から仏教の道は始まると言えるのではないかということです。
具体的には、最近までマインドフルネス、念のようなものすら体得してないから、仏教から本質的に有意義なことが引き出されず、ただの歴史物語や思想哲学的知識しか導き出されてこなかったことは、仏教文献学があまり有効でないことを証明してないでしょうか?
信じがたいかもしれませんので、方便として文献学的に説きますね。
ヴェーダ宗教の本質的影響がないと考える理由は、上に書いたように教えが仮設で縁起だからです。
根拠は『勝義空性経』が端的で、これは『中論』24-18 に説かれる縁起、仮設の根拠と考えられます。
中観、唯識、有部、経量部などで根拠として沢山引用されています。以下で原典と和訳が見られます。dharmasaṃketa は「法の仮託」と訳されています。これが仮設です。つまり、「これあらばこれあり、これなくばこれなし」が仮設だと言っています。それは正に縁起、此縁性ですね。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050299517579653376
もし、テーラワーダが認めていないので根拠にならないと仰るのでしたら、パーリでも、もちろん仮設は説かれますよ。
> 大乗仏教の側は、原始仏典だって後世にできたもので仏陀の直説とは言えない
これは文献学でパーリ三蔵が、翻訳の還元訳で最古形態が保存されているとは言えないという意味でなく、大乗仏教で上のように説くという意味ですか?
だとしたら、どこらへんで説かれているのでしょうか?
大乗仏教徒にもテーラワーダにも「これは私のものであり、これは私である」と考えて、色々言い争う方もおられるでしょう。そういった方と言い争ってもしかたないと思います。
私は大乗仏教徒で多くの聖者に出会うことができました、またテーラワーダでも少なくとも一人は聖者と思われる方に出会うことができました。道はそれぞれですので、自分に会った道、縁のあった道を歩めばいいと思ってます。
以上は出来の悪い大乗信者の所見ですので、あくまでご参考に
長文失礼
oさん、ありがとうございます。
>>大乗仏教が感得されたものであることは全面的に賛同していただけるなら、
大乗経は法身の等流であるということも賛同していただけますか?
大乗仏典がそれぞれ悟りに基づいて書かれたとは認識しています。
大乗仏教運動は同時多発的に起こっていますので、そうでないものもあったと思いますが、歴史の淘汰を受けていますので、いま残っている大乗仏典はどれも悟りによって書かれているものでしょう。
ただ、書いている人は同じではないため、悟りの高低はあるように思えます。
法身の等流というのは等流身しか思い浮かばないので、経典には使わないように思えます。
>>だとしたら、歴史的批判的仏教研究があまり意味がないと理解していただけると思います。
一気にここに飛ぶのが謎ですし、言葉による決めつけがあるように思えます。
歴史的批判的仏教研究と言うのが具体的にどのようなものを指しているのかが分かりません。
原始仏典を読んでいくことにそのような拒否的な反応を示されるのは、違和感を感じます。
原始仏典によって仏陀が何を言ったのかを知りたいと思うのが意味がないとは思えませんが。
>>なぜなら、歴史的批判的研究 ーポストモダン以降多少変わってきましたが、仏教学での主流ー は見えるまま、知覚されるまま実在するという常識に立ち、先行文献の影響下に後の文献が必ず作成されるという前提に立っているからです。
『見えるまま知覚されるままに実在するという常識に立ち』とは具体的にはどのようなことを指していますか。
『先行文献の影響下に後の文献が必ず作成されるという前提』というのは、どういうことでしょう。
大乗仏典は原始仏典の影響を受け、大乗中期仏典は大乗初期仏典の影響を受けている、と言う意味でしょうか。
>>しかし、仏教はそうではありません。法はテクストではないからです。聖者から教えられ体得したものが、また聖者となり、サンガとなり法を伝承することになります。
仏陀は自らを島とし、法を島とせよ、と言いました。人によってはならないとも言いました。
法とは仏陀が説いた理法のことです。
仏陀が説いた理法とは何かをまず知ろうとすることがなぜいけないかが私にはわかりません。
やみくもに、どこかの宗派に尋ねて行って、そこの宗派の長老に聞いたら仏陀の理法を教えていただけるのでしょうか。
日本仏教のどの宗派もそこの宗祖が絶対で、釈尊の言葉などほとんど眼中にないように思えます。
一般大衆向けの講演や説法の時だけに、釈尊のエピソードを話のネタにすることはあったとしても、自分の弟子に対するときは、宗祖の教えだろうと思います。
仏教史には天才たちが多く登場します。
龍樹もそうでしょうし、日本仏教の空海、道元、法然、親鸞、日蓮などもそうでしょう。
そのような宗祖の教えを受け継ぐのは素晴らしいと思いますし、そのような宗祖を通して仏教の真髄を悟得するのは素晴らしいことだと思っています。
しかし、私は、仏陀が本当はどのようなことをどのような意味で言ったのかを知りたいという欲望が強いですし、それを受け継いでいるはずの部派仏教のどこに反発を感じて大乗仏教が興ってきたのかを知りたいのです。
相当な不満がなければ、あれほどの攻撃的な言葉で小乗を非難しないでしょう。
そんなこと調べても意味がない、と言われるのは自由です。
ただ、私はそれを知りたいと言うだけです。
ショーシャンクさま、oさま こんばんは。
> 仏教者は、バラモン教(ヒンドゥー教)を嫌っているというか憎んでいるに近い感情を持っています。
> バラモン教との共通点を指摘されるととても嫌がります。
それは、たぶん仏教者が未熟だからでしょう。そういう対立の構図を超えようとして、ブッダは縁起と空を説いたと思います。
0さま、コメントありがとうございます。
わたしも、ショーシャンクさまの疑問を考えてみて、うまく大乗に行けた人はブッダの法を受け取っていると思いました。
「争わない」というブッダの教えを実行すると、大乗が得られます。部派はそこまで相手に合わせないので、分裂して行きます。
ブッダ自身がウパニシャッドの影響を受けた、というのは、つまり、そう見えるのは、「無我」という法のせいだ、として、書いたのが「常楽我浄」のこのエッセーです。
ショーシャンクさま、「五比丘」という経典に
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
とあります。https://manikana.net/canon/anattalakkhana.html
ちょっとわかりにくいのですが、<これは、わたしのものである><これは、わたしである(わたしは、これである)>について、説かれたのがショーシャンクさまの疑問「ブッダはウパニシャッドの影響w受けている」という部分の意味です。
そこで終わらず、ブッダは、さらに<これは、わたしの本体(自己、attan)である>を説くのです。こうして、ブッダは、ウパニシャッドを超えていることを示しているのです。
たぶん、説明が足りないと思いますが、一応、「ブッダはウパニシャッドを超えている」ということについての根拠とさせていただきます。
ウパニシャッドの思想は、ショーシャンクさまが考えておられるように、非常に強力です。
しかし、それをも乗り越えるブッダがいます。最初の二つの法は、人無我といわれます。最後の<これは、わたしの本体(自己、attan)である>は、法無我といわれます。
大乗は、龍樹のおかげもあって、ここまで受け取りました。
「
石飛先生、おはようございます。
先生が挙げられている『五比丘』は、
色受想行識という五蘊が非我であることを説いた経典です。
色・受・想・行・識のどれもが無常であり苦である、
無常であり苦であるものをわたし、わたしのもの、わたしの本体と見ていいだろうか(見てはいけない)、と説かれています。
あくまでも五蘊非我ということです。
無常というのは、生じたものは滅するということです。
生じたものは滅するが故に苦なのです。
生じたもの、苦であるものはわたしの本体ではない、と説かれています。
ここで、仏陀は、わたしの本体などというものは無いと説いているのではありません。
仏陀は、我(わたし)(わたしの本体)があるかないかについては無記でした。
相応部経典の無記相応にこうあります。
『我はあるのか?我はないのか?』と問われた仏陀は、
『我があると説いたら常住論者と同じになる。我がないと説いたら断滅論者と同じになる』と言って無記としたのです。
つまり、仏陀が説いたのは非我であり、無我ではないことがわかります。
それを、わたしの本体(アートマン)が無いと説いたのが仏教だ、
わたしの本体(アートマン)があると説いたのがバラモン教だ、
と単純に決めつけ、
仏教はバラモン教の全否定だとしてきたのです。
仏陀の『無記』の意味を『無』としてしまったのです。
仏陀ははっきりと『不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離を常に語るべきであろう』と言っています。
仏陀が説いたのは、生じたものからの出離です。
五蘊はわたしではないと見極めることです。
仏陀とバラモン教との違いは解脱へのアプローチの仕方です。
バラモン教はまず本体(アートマン)を想定して、解脱してアートマンに到達することを目指します。
苦行をするのもアートマンに付着するものを消滅させてアートマンそのものに達しようとするアプローチです。
仏陀は、苦であることと苦の原因を洞察して、苦の消滅を目指しました。
苦の滅の後に何かあるかないかについては無記としました。
まずは、矢を抜け、ということです。
ショーシャンクさま おはようございます。
> つまり、仏陀が説いたのは非我であり、無我ではないことがわかります。
あら、その考え方のことを言っているのです。
「○○はアートマンではない(非我)」と説いたのであって、「アートマンはない(無我)」とは説かなかった、という意見そのもののことを言っています。
それを瞑想で得たのでしょうか?
仏教を概説する人たちに振り回されるなあ、と思います。
「無我(アナッタン)」は、「アートマンがない」ということだけではありません。「アートマンではない(非我)」ということも含んでいるのです。
ですから、ショーシャンクさまの考えは、どこかで知識として得た意見なのだと理解します。
アナッタンは「無我」と訳されますが、「アートマンがない」という意味をもつだけではないのです。それに、ブッダは、アナッタンを説いているのです。
「五比丘」の経典にも、4のところで
「比丘たちよ、じつに、色は自己ならざるものであるから、色は病のために壊れる。」
とあります。「アートマンがない」だけでなく「色はアートマンではない」と訳しても成り立つことがわかるでしょう。
アナッタンを三通りに解釈して、そのどれによっても、説明できるとしているのです。
ショーシャンクさま アナッタン(アートマンならざるもの)の意味を、今一度お確かめ下さい。
経典だけから読んで下さい。わたしには、ixtlanさまを思い出す経典です。
スマ長老は、無我・非我論争を一瞥して、どっちも同じという意味のことをおっしゃっていたように思います。
無我・非我論争は、アートマンを捨てられない人たちがブッダに仮託して、自分たちに都合のよいように解釈したものだと思っています。
「一切はアートマンである」と考えたい人たちですね。でも、執着や煩悩は、どちらかというと否定したいという人たちです。
その考えは、難しいことを示しています。三種類のアートマンが捨てられねばならないのです。
石飛先生。
私は別に無我非我論争をしたいわけではありません。
『五比丘』は、五蘊は無常であり苦であり自己でないものだから厭離せよ、という教えです。
ですから、その中の
『わたしである』『わたしのものである』を否定したから人無我、
『わたしの本体である』を否定したから法無我として、
さらに、言葉や言説や見解を捨離せよということまで読み込むのは行きすぎだと思います。
それはわたしには、大乗仏教の考えを投影しているように思えます。
私ももともと大乗仏教しか知らなかったのですが、仏陀が本当に言おうとしたことを知りたいと思って、すべての知識を白紙にして、経典だけを読もうとしています。
大乗仏教や後世の解釈から仏陀の言葉を見るのではなく、白紙で見るようにしています。
エム先生、
> 「争わない」というブッダの教えを実行すると、大乗が得られます。部派はそこまで相手に合わせないので、分裂して行きます。
なるほどです。
大乗も宗派的な方と超宗派的な方がおられます。
oさま こんにちは。
> 大乗も宗派的な方と超宗派的な方がおられます。
了解です。
どちらでも、それなりに善く、「個性」として解釈できるのかもしれませんね。
わたし自身、ずいぶん仏教の広がりが見えてきたと思います。大乗や密教の広がりを論理としてつかんでいますよ。
エム先生、
それはそれは随喜いたします。
私はというと自分の至らなさ、師や法友の素晴らしさに感動、随喜してばかりです。
旧統一教会の人「日本はエバの国」
ぎんた「ふ、ふ~~ん旧統一教会の人(←ほとけ)がそんな自信たっぷりに言うんだから、エバの国は
決定として、おれ、エバよく知らないしな、、、エバがどんな人か、ちょっとこれから考えてみるわー
もしかしたら、旧統一教会の人の思ってるエバと違う鴨だけど、そこはこちらの(実感)に任せて
ほしいにゃ!ちょっと待っててね~」と思って生活しているけれど、まだ特に情報が寄ってきませんが?
という状況。。。読みたい本も降ってこにゃい。。。
近いかにゃ?
ぎんたさん。
私が学生のときは、新興宗教の勧誘活動が凄かったですよ。
普通のサークルの勧誘のふりをするからタチ悪いんです。
英会話のサークルだと言うので行ってみたらモルモン教や統一教会が偽装しているサークルだったとか、よくありました。
腹立って一々論破しまくって帰りました。
どの新興宗教団体も極端にくだらないことを教義としていますが、中でも統一教会は酷かったですね。
エバとは、アダムとイブのイブのことらしいです。
日本がエバ(イブ)の国というのは、アダムに禁断の果実を勧めた悪い女エバのような悪い国ということらしいです。
ちなみに、アダムは韓国のことだとか(笑)
最初、笑わせようとしてるのかな、と思いました(笑)
よくわからないのは、旧統一教会てキリスト教の新興宗教なんですよね?なのにイブのことを悪く
いうのがなんでだろう?なんだろう?家父長制みたいな感じなのかな?自民党は旧統一教会と仲良し
なんだとすると、「異次元の少子化対策」って「合同結婚式」みたいな感じなのかとちょっと
怖いなーーーてか、かなり怖いなーーーと思って。。。ぎんたネガティブだから。。。でもきっと、
「異次元の少子化対策」って「少子化を強く推し進める」てことなの?とかとか一生懸命考えて、
答えはいつかわかるのかなー?と思いながら生活しています。日本人の中の人は何人なんでしょう?
とか。。。ぎんたの中の人は猫なので何人とかないんですけれど。
> 「異次元の少子化対策」って「合同結婚式」みたいな感じなのかとちょっと
怖いなーーーてか、かなり怖いなーーーと思って。。。
そりゃ、怖いよーーー。
> 日本人の中の人は何人なんでしょう?
ええっと、わたしが思いますのに、日本人は、わりと仏教が合ってるみたいに見えるので、縄文人系統じゃないかと。。アイヌ系統の人もいるかも。
自然(科学)と共に生きるタイプな感じです。
これは、その心がっ、ってことです。
そういうの、好きです。。でも、為政者に利用されやすいという難点もあるな、と。
*
> 「あらゆる現象は変化する」ってのが諸行無常でしょ。
現象 ではない 涅槃 「 寂滅 」
現象 が ない 「 寂滅 」
変化 が ない 「 寂滅 」 ( ないモノ は 変化しようがない )
ないモノ は ない( 存在しない )
存在しないモノ に 「 論 」 は 成り立たない → 「 無記 」
存在しないモノ という 存在 ??
( まあ ゆっくり 存在を 楽しんでください )
> 「変化しない」ってのが、常住なんだから、ブッダを常住とすると、ブッダだけ特別扱いすることになって、おかしくない?
悟りを 得た と 悟りを 得ていない
( 得る という 観点で見ると 差異がある )
何を得たか が 得ていない者にとって “なにもない”
ないから 得た者はいない
→ 「 悟り 」 は 論には乗らない( 得ていない者同士 の 同士討ち )
> ああ、大丈夫。わたしたちの知ってるブッダは悟りを開いて涅槃に入ってるから変化しないの。でも、それ以外は全部変化する。
変化する から 「 悟り 」 うる
「 悟り 」 を 得る と そこから 変化 しない
( 変化するならば 寂滅 ではない )
「 寂滅 」 には “ 庭にある 雑草 の 芽も種も ない ”
かように 知るのではあるが
( 「 かくのごとくなりといえども 」 )
“ あなたと共にある 世界 = 「 世間 」 に於いて ”
花 を結ぶ 草 は 揀択 の 上で咲く
( 「 花は愛惜に散り草は棄嫌におふるのみなり 」 )
> ちなみにブッダのことも、わたしたちと同じだと思うと諸行無常ですよね。お腹痛くなったり死んじゃったりしますもの。ちゃんと年取っていくし。
わたしたち が 悟っていれば( 悟りを得ているのであれば )
おなかの痛み も 「 死 」 も ( 諸行 ) 「 無常 」
年取ることもなく ( 「 永遠 」 )
死ぬこと もない ( 不死 → 「 不生 」 )
「 生 」 に とらわれる 「 世間 」 の 性( 逆さ性 )
生・死 に 差が“ある” ( 囚われ が 生 そのもの )
「 至道無難 」 唯 そこに起きている 差異を “ きらう ” のみ
老い に 囚われ 「 不生 」 を 手放す
いくら 「 論 」 じようと 世間に於いて 「 悟り 」 は ない
・
ショーシャンクさま
> ですから、その中の
> 『わたしである』『わたしのものである』を否定したから人無我、
> 『わたしの本体である』を否定したから法無我として、
> さらに、言葉や言説や見解を捨離せよということまで読み込むのは行きすぎだ> と思います。
確かに説明が不足していますが、それならなおのこと、検討してみて欲しいのです。
> 『五比丘』は、五蘊は無常であり苦であり自己でないものだから厭離せよ、という教えです。
ixtlanさまが昔この問題を取り上げて「色は無常であり苦である」というのは分かるけど、「自己ではないもの」というのが納得できない、「自己だろ」もしくは「自己のものだろ」と言っておられました。どう思われますか。ここは納得されているんでしょうか。「自分の身体は自己ではない、自己のものではない」でいいですか?
五蘊一々について「自己ではない自己のものではない」と言っているのに、ショーシャンクさまは、ブッダは何を「説いたのかということを知りたいのですか。矛盾してませんか?」
つまり「無我」は、ブッダが本気で説いたものとは考えていないと言うことでしょうか。
石飛先生。
色はわたしではない、受はわたしではない、想はわたしではない、行はわたしではない、識はわたしではない、と言っているのであって、
ここでは我があるかないかについては何も言っていないのです。
五蘊はわたしの本体ではないということで、本体があるとかないとかを説かないのが仏陀です。
人無我法無我とは本体がないということだと思いますので、それまで読み込むと違ってくると思います。
ショーシャンクさま わたしの意図がまぁったく伝わっていません。
ショーシャンクさまのおっしゃりたいことはわかりますが、人無我法無我もぐだぐだです。
> 人無我法無我とは本体がないということだと思いますので、
わたしの言うことを無視して、勝手に非難を押しつけるということは、ショーシャンクさまのこだわりはこの辺にありそうですね。いつも理性的な対応なのに、ふしぎなことだと思っていますよ。
>ここでは我があるかないかについては何も言っていないのです。
>五蘊はわたしの本体ではないということで、本体があるとかないとかを説かないのが仏陀です。
ショーシャンクさま、気を取り直して再度挑戦(笑)
ある意味、正解をおっしゃっているようなのですが、我が有るか無いかは説かなかった、というのは、実はわたしが口を酸っぱくして述べてきたことでもあります。
何度となく繰り返してるんですけど、気づいていませんか。
ブッダは形而上学を語らない、という言い方で。
仮設ということなら、アートマンでも何でもどんどん語っています。
「アートマンならざるもの」という言い方で何を意味しているのか、多くの人は分からないのです、と、わたしは述べたのですが、やはりその通りになりましたね。
ブルータス、おまえもか..
石飛先生。
正直に言いますと、私には、先生や他の人たちが、龍樹を投影して仏陀を読んでいるように思えるのです。
または、部派仏教や大乗仏教などの後世の理論によって。
根本分裂によって部派仏教に分かれる前の原始仏教は極めて単純で分かりやすく理法が活きていたと思っています。
『生じるものは滅する』という理法が基となっていて、多くの人が悟ることができました。
原始仏典は後世の理論をさしはさまずにそのまま読むべきだと考えています。
人無我法無我というのは、部派や大乗になってからの理論です。仏陀はそんなことは言っていません。
ただ、五蘊はわたしではないと言っているだけですから、そのまま受けとればいいと思います。
五蘊を厭離するように説いているのですから。
そこに後世の理論は必要ないです。
見解からの出離、言説や言葉からの出離を龍樹は説いたかもしれませんが、仏陀は正見解を基とする八正道を根本としましたし、正しい言葉の正語も八正道です。
龍樹を極めて、言葉を仮設としさかんに言葉からの出離を説く春間さんや芳和さんの言動を見ていますし。
ショーシャンクさま こんばんは。
実は、ショーシャンクさまのお気持ちはよく分かります。
> 正直に言いますと、私には、先生や他の人たちが、龍樹を投影して仏陀を読んでいるように思えるのです。
わたしも、最初はそう思ったのです。ブッダが何を説いたのか知りたいと思ってパーリ仏典を読んでいきました。今ではいろいろ言われていますが、当時はもっとも古い経典をそのまま残したものと一応考えられていたからです。
まあ、それで良いのだと思っています。
つまり、ブッダだけを見て読んでいったのです。
結論から申しあげますと、その結果、今の理解にたどりついたのです。
ショーシャンクさまが何をどう考えたのかは書いてあることから察することができます。
わたしは、ブッダの法話から、龍樹を抜いても、今の理解に到達したと言えるのです。
わたしは、龍樹の『中論頌』を自分も又かけるのかどうか、という観点で、読んでいます。
ブッダに論理学を見たのは、このわたしです。他の誰でもありません。そしてその学問体系が成りたつように、ブッダは説いています。
龍樹は何をブッダに見たのでしょうか?
わたしは、彼はブッダに方便ということを見たのだと思います。彼は『スッタニパータ』を素材にして、そこから、ブッダの法を引き出しました。わたしもまた『スッタニパータ』の「二種の随観経」、第4章、第5章に基づいて、大乗への流れを見届けています。
ブッダは「アートマンがない」とは説かなかった、とおっしゃるのは、そのとおりです。無記を貫いた、というのもいいでしょう。問題は、そこから何を読み取るかなのです。説かなかったと強く思い、相手に欠陥を一方的に押しつけるのは、ただショーシャンクさまのこだわりを示すだけなのです。
*
> ******************
「五比丘」の経典にも、4のところで
https://manikana.net/canon/anattalakkhana.html
「比丘たちよ、じつに、色は自己ならざるものであるから、色は病のために壊れる。」
とあります。「アートマンがない」だけでなく「色はアートマンではない」と訳しても成り立つことがわかるでしょう。
アナッタンを三通りに解釈して、そのどれによっても、説明できるとしているのです。
> ******************
( 解釈するとき 解釈できない が 起きて ある )
> ******************
22.
比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、色において厭離する。感受において厭離する。表象において厭離する。志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。厭離するものは、貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。
滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。為したのは、為すべきことであり、さらに、この(輪廻の)状態にいたることはない、と知るのである。」
> ******************
何故 比丘たち に 教えを説くのか ?
説かれなければならない 厭離できていない からである
何故 聖なる弟子 と 説かれるのか
聖 ( ということ ) が 成り立ってはいない からである
「 聖 」 の 対極 に あるからであり
その 対極 の 対極 に あるからである
> この説明が説かれている最中に、
ここが 重要 です ( 説かれなくとも、解かれ尽くされた )
> 五人の比丘たちは、執着なく、煩悩より心が解脱した
説かれたことにより 解脱したのではなく
説かれていること
( を了解するという 煩悩 ) から 解脱したのです
教えを捨てた から 解脱した
教えを捨てる とき 解脱できている
共にある 釈迦 ・ 四 比丘 は
聖なる弟子(如来) と 共にある と
( ということを ) 知った のです
六比丘( 六 菩薩 ) ! が そのとき 解脱したのです
( 尊師 は そのときに 解脱したのです )
解脱した 聖者 が 説いている のではなく
解脱 が 起きた時 説 く意味 ! は 途中で
( 「 無 」 ! と ) 成就 した のです
解脱していない者 が 解脱 を 説いている
( 解脱した者 は その途中 で 教えを捨てた )
菩薩 は( あなたが 「 到彼岸 」 するまで )
成就 しない
あなたが 「 到彼岸 」 する
そこにおいて 菩薩は成就している
「 汝持仏語、 為未来世 一切大衆 欲脱苦者
説是観地法
若観是地者 除八十億劫
生死之罪 捨身他世 必生浄国 心得無疑
作是観者 名為正観 若他観者 名為邪観 」
「汝仏語を持ちて、未来世の一切大衆の、苦を脱れんと欲わん者のために、この観地の法を説け。
もしこの地を観ずる者は、八十億劫の生死の罪を除かん。
身を捨てて他世に必ず浄国に生ずべし。心に疑いなきことを得よ。
この観を作すをば、名づけて正観とす、もし他観するをば名づけて邪観とす。」
わたしは なにごと も 説かない
あなたが とくこと を きくのみ ( 観音 )
・
春間さん!
>六比丘( 六 菩薩 ) ! が そのとき 解脱したのです
( 尊師 は そのときに 解脱したのです )
すごいねーー、そこにいたかのように分るんだねーー!!でさ、教えて欲しいんだけど、
なんでお釈迦様は最初に「その5人に」語ることにしたのかな?2019年に近所のお寺で仏教講座
行った時、講師の人が、「なんで最初にこの5人に語ることにしたんだろうと思って、、、」と
呟いてて。(え?フツーに考えれば?他の人から話していって、その内世間でお釈迦様が評判
になっちゃった場合、もの凄い疎外感に苛まれちゃって悪いこと考え出しそうだから、自分が
目の届かないところで、悪感情抱えた人間生み出したら自分の身が危ないからじゃない?)
と、ぎんたは考えたんだけれど、春間さんのヨミはどんな感じですかーーーー???
>その内世間でお釈迦様が評判になっちゃった場合
これを、自分で考えちゃうあたりが、ぎんたからしたらもう、ギャグでしかなくってw
かといって、それを考えて行動しないわけにはいかないわけで。。。謙遜しないんかーーい
と、突っ込みを入れたくなるんだけれども、正しく思惟するとどうしてもこうなる、みたいなの
本当に可笑しい!『神と黒蟹県』の神と同じくらいおもしろい~~
*
管理人エム 様
、ここは 返信つけにくい !
祗んちゃん ( 祇園ちゃん )
> なんでお釈迦様は最初に「その5人に」語ることにしたのかな?
君に 語るのは 的違いだから わたしに ご比丘を仮て 語る
五比丘 は 共に ( 菩薩の前 ) 修行をしていたから
菩薩として なら 語るにふさわしい ( と 知る )
そのように 深い修行を重ねていたにもかかわらず
( ブッダ が 直接説くのであっても )
直ぐには その 転法輪 を 受けとめることが出来なかった
< 『ウィキペディア(Wikipedia)』 を 参照してください >
初転法輪ja.wikipedia.org/wiki/初転法輪#伝道の旅へ
説法は一回だけではなく、
五比丘らが悟りに達するまで何度も行われ、一週間続いた
最初に コンニャク が ヨルカを得て
釈迦牟尼 は 喜んで 「 コンニャクが煮えた 」 と 言った
煮ても焼いても 食えない モノ を コンニャクとして 知った
釈迦による五比丘への教導は比丘が3人ずつ順に托鉢を行い6人が食する合宿式に続けられ、3か月かけてワッパ、バッディヤ、マハーナーマン、アッサジの4名にも次々と法眼が生じ預流果となった
銀ちゃん
ここで 聞いて 理解して 托鉢しつつ
修行 の 完成へと 向かえるかな ?
・
えええええーーーーーーーっっっっっ!!そうなのーーー?じゃあなんで、そんなwikiですぐ
わかることを疑問に思っていたのだろう?あの時の仏教講座の講師(←ほとけ)は。なぞ
あと、ぎんたは「ひらがなぎんた」ですよ。あと、猫は托鉢も修行もしないの。今はひたすらに
いなばに注目してるの。
>他の人から話していって、その内世間でお釈迦様が評判になっちゃった場合、もの凄い疎外感に
苛まれちゃって悪いこと考え出しそうだから、自分が目の届かないところで、悪感情抱えた人間
生み出したら自分の身が危ないから
これをね、講義が終わった後で講師の人に言いに行ったわけですよ。これ以外無いと思って。
(なんか自信たっぷりだったのその時)でも、すんでのところで(は!!いけない、これは
地雷だ!!)と気づいて言わなかった!!!だって、大学で仏教教えているなんて人を前に
もの凄い自信たっぷりにこうじゃないか~なんて断定して話したら、内心気分悪いでしょ?
表面的にはにこやかに聞いてくれたとしても、内心では疲れるなーーこの人耐えろ自分!て
感じでしょ?(あの危険な団体その他で身に染みている)今まで散々やらかしまくってさすがに
学習したんですよ!!で、お釈迦様がどうしてこんなこと言ったか?なんて答え合わせしようの
ないことは「自分が納得する答え=心が救われる答え」を自分で考えるしかなくて、考えついたの全部正解!!じゃない?だから、結局「あの、先生娘さんいるって仰ってたじゃないですか?
(中高生の)なら、娘さんにきいてみたらいいと思う。なにか即答してくれるかもしれませんよ?」って言っておいた。可愛い娘が言った答えなら、きっと大賛成したくなるんじゃないかなと思って。で、それを次回の講義の後に聞かせて貰おうと思って。だって現役高校生ちゃんの意見だよ?未来ぽいべ?なのに、最終講義の日都合悪くて行けなかったの。残念ーーー今も心残り。
是非次回の地球で回答を聞きたい!と思ってしまうほどだ。
*
> 人無我法無我とは本体がないということだと思います
********** Wiki で 済ます 手軽さ
Wiki https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91
「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている
しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[28]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][28]。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][28]。これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された
**********
> 本体がないということだと思います
“ 本体がない ” と “ 思う ” 本体がある
何故 “本体がないという 本体がある” のか
という “疑問 を 起こす のが 本体” なのです
本体 は 本体の 中で(胴中 で) 堂々巡り
思うこと は 本体に発する !
「 真理 」 とは 思い巡らして 辿り着く処 には ない !
( じゃー 一体 の 体 )
どこにあるか と 身体が起こす 主体 の 思い で
世間(ローカ・loka-dhaatu)を 彷徨う
( 「 世間 」 に於いての ) 自己肯定 が したいだけです
金儲け の 商売やら 株価の上下 に 一喜一憂
喜び も 憂い も ! 「 世間 」の中 の 出 来 事
( その出来事を起こしている 自己 の中で )
喜び を 取り上げて その上に 仏教の加護の喜び を
( 都合よく “真” だと ) 乗せて 喜びたい
そう信じている 信ずる者 は その“真” の中で
“(笑)”の端 を つかんで
いつも “さわがしく” ワラッテイル
( ソウイウモノ ニ ワタシ ハ ナリタイ )
なりたい 体 を 運んで なりたい自己 を 築き上げる
どうぞ ご自由に ( ドウゾク ヲ ク ニ マキコム )
自由に 法 を 語り尽くす ホオ― 相 デスカ
( 法相宗 とは ソウいう ところではない → 瑜伽行唯識 )
宗に囚われ 修 を 忘れる ( 瑜伽 を 軽んじる )
・
> ********** Wiki で 済ます 手軽さ
まあね、手軽で便利なwikiですから。。
わかってはいたことなんだけど、出てくるとショックですね。
こだわりが「ある」と繰り返しが「起こる」
繰り返しは輪廻、とじ目がない廻る輪
こだわりが「ある」と視点(見)という起点が「生じる」
「ワレが」納得がいかない、ならば、「ワレが」繰り返す問いが起こる
廻る限りにおいて、(我執という)輪が「ある」
輪廻は再帰表現に起こる
I did it by myself.
行為者が行為を行う限りにおいて、我は「ある」
ゆえに、諸行無常を受け入れるならば(その次に)、インドでもインド以外の地でも、四方、六方、八方、どの方向にあっても世間において諸法無我が成り立つ
と、「ワレ思う」のであった(是に方向という矢が生じたことで輪が閉じた=排他性)
ショーシャンクさま、
前の箇所でも下の引用箇所でも返信できないので、ナンダカンダさますいません、ここに返信します。
> 正直に言いますと、私には、先生や他の人たちが、龍樹を投影して仏陀を読んでいるように思えるのです。
> または、部派仏教や大乗仏教などの後世の理論によって。
なるほどそうでしょうね。同様に私から見るとショーシャンクさまは文献学で仏教に接しているように見えます。例えば、オルデンベルクとか中村元先生あたりです。
現在文献学で最も権威あるように見えるウィーン学派の祖・フラウワルナーは、以下のようにサンスカーラを「意志の発動 Willensregungen」といいかんじで訳すように視野広く言語分析は緻密ですが、縁起理解は思弁的あるいは観念的で非常に残念なものに私には見えます。話題の<これは、わたしの本体(自己、attan)である>も引用されてます。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677476902144
私には今でもアルハットを結構だしているというビルマと、チベット系の仏教が現在学ぶべき価値のある仏教だと思います。私には結果を出してる方が信じられますし、文献学者と伝統行者を結構出会いましたが、圧倒的に伝統行者を信じます。ショーシャンクさまのような優秀な方に是非そういう方向で学んでいただきたいと思っております。
これ以上話してもしょうがないと思いますので以下だけ指摘して終わります。
自洲法洲や四依は確かに「法に依れ人に依るな」というように説かれますが、
そこで言う法はテキスト、文献でなく他者から聞いた法です。
ここが重要でしょう。そして法を伝えるのはサンガ、法を体得した聖者です。
だから、仏法僧の三宝に帰依するのが仏教なのでしょう。
なので、『倶舎論ヤショーミトラ註』ad 2-55に引用される次の伝承句を紹介します。
二因と二縁は正見を起こさせます。二とは何かというなら、他の音と内省
この伝承句は MN 1-294, AN 2-87 に音韻変化した同形で見られます。
漢訳では長阿含(大正1巻50頁)中阿含(大正1巻791頁) 雑阿含(大正2巻149頁)に見られます。
以上から、諸派のアーガマ・ニカーヤに起源が確認できる釈説と言えるでしょう。
「他の音」は『大智度論』では次のように「從他聞法」と言い換えられています。
T1509_.25.0094a04: 如佛説二因二縁
T1509_.25.0094a05: 能生正見。一從他聞法。二内自如法思惟
T1509_.25.0094a06: 福徳事故。能生善心利根智慧故。能如法
T1509_.25.0094a07: 思惟。以是故知從佛得度。
より『摂大乗論』I.45で次のように説かれます。
「一切種子識が雜染因であるなら、その対治である出世間心の種子はどうしてできるのですか?」出世間心は未経験です。それゆえ、その熏習はありません。
「熏習が無いなら種子は何から生じるか述べなければならない」というなら、清浄法界の等流(清浄法界から流出した法界に等しい法)を聞く熏習の種子から、それは生じます。
これは中国日本では「聞熏習」と言われて、結構重視されているようです。
ですから、聞かないと仏教はあまり意味がないとされてきました。これは釈尊以来の伝統です。文献学では当然テクスト中心で、こういった部分が全く重視されないのです。
ショーシャンクさまが活きた仏教に出会えることを祈っております。たとえ今生でなくても。
oさんこんにちは!活きた仏教、伝統行者の仏教とは具体的にどのようなものですか?10歳くらいの子供に教える感じで説明して頂けると助かります。
ぎんた様、
悟り解脱などです。では、ある人が悟り解脱を体現していると何が判断するのかが問題になりますね。それを判断するのがサンガ、聖者の集団です。
サンガについての伝統的説明は水野弘元『仏教要語の基礎知識』旧版で 107頁をご覧ください。
なのでアルハットなど高い境地に達した方のもとには人が集まります。チベットではラルン寺という所が有名で何度も中共に弾圧されましたが、それでも人が集まってきました。日本でも教えがあり、日本人でも何人か長年教えを受けた方がいます。ビルマでもタイでも集まるという意味で同様だと聞いています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%83%A7%E9%99%A2
因みに恐らくチベット社会はダライラマ猊下がなくなった時、大混乱になり国際社会からも否定的に見られるような状態に陥るかもしれません。ビルマも同様に大変な状況にありますが、そういった政治的問題と法の伝承は直接は関係ないと言っておきます。
例えば、現代のチベット高僧で中共が侵略した混乱期に収容所に入れられた方が、その後、活躍されて教えを広めたり、お寺を立てたりされたりしました。その方が、収容所にいた頃が一番法に集中できたいい時期だったというようなことを仰られていたと伺ったことがあります。
高い境地の方にとって政治的状況はあまり関係なく、予想されるような混乱期を迎えても優れた方はいるだろうということです。
そんなかんじで私は信じております。
返信して頂きありがとうございます!!!!
その集団にいると、「悟り解脱」した時、他のメンバーが太鼓判を押してくれるんですね?
で、「合格~」みたいになった人のうち一人だけ(人格者?)が「法を伝承」するというシステム
なんですね?間違ってたらご指摘ください。
>収容所に入れられた方が、その後、活躍されて教えを広めたり
とのことですが、日本の一般人のぎんたのとこまで、その教えは届いていないようです。
フツーーーに暮らしている私にもその存在が届くとこまで更に教えを広めて頂けたら
とても助かります。。。
Oさん、ありがとうございます。
ビルマかチベットですね。
今世で行けるかどうかわかりませんが、心に留めておきます。
今世では私は悟りはおろか死後の善趣も難しいと自覚しています。
悪趣のような気がしますので、なるべく蜘蛛は踏まないように気を付けています。
貴重なアドバイスありがとうございました。
oさま「聞熏習」のご教示ありがとうございます。
インドのことばで言おうとすれば、まさに気分は「シュルティ」ですね。
これは、実は、感じます。真宗の門徒さんたちにお話するとき、感じ入ると自然に念仏が起こるのです。「聞く」という文化が染み渡っているなあ、と思います。
それと、何を喋っても、聞くべきことを話しているときは、誰かが聞いてくれている、ということを!
だから、講師役は、怖いですよ。即座に「つまらん」という反応が来るから。
ハートに直結するのが耳だ!と思っています。
インド伝統の学習方法でもあります。
*
> 龍樹を極めて、言葉を仮設としさかんに言葉からの出離を説く春間さんや芳和さんの言動を見ていますし。
味噌 と 何とか ? は、
見ようによっては ( 自己の見解 を 疑わぬ時には )
同じように見えても いたしかたない
同じ仕組み が 、 修行 としての 「 仏教 」 と
“ 言葉の上での( 形而上 の)仏教 ” と の違いにも言える
> > 「争わない」というブッダの教えを実行すると、大乗が得られます。
得て欲しいものです
荒ぶる心で 書き込んでいるように 見受けられました 、、、、
> 人無我法無我というのは、部派や大乗になってからの理論です。仏陀はそんなことは言っていません。
ただ、五蘊はわたしではないと言っているだけですから、そのまま受けとればいいと思います。
五蘊を厭離するように説いているのですから。
そこに後世の理論は必要ないです。
etc 、、、、、
「 法 」 は 先ず 自己の “ 足元 ” に起きる
「 法 」 の 姿には 色んな側面 がある
悪法 も 法なり
どのような 「 法 」 の上で 生きていますか ?
・
>どのような 「 法 」 の上で 生きていますか ?
ますます、ブッダ論理を確信してきました。
「消える魔球」ってのがあったけど、「消える法」は文句なしです。
寂滅する。。
> わたしは なにごと も 説かない
> あなたが とくこと を きくのみ ( 観音 )
それは、みんな知っています。
一番知りたいのは、「なぜ?! そうなのに書くのか」ということだと思います。
ふつうは「書く」という行いは、煩悩の行いとされているから。
*
書くこと に ついて “ 廻る ” カクコト しるや
> それは、みんな知っています。
皆 知ること の 中にある “ しらぬこと ”
知らぬ と知る その中( 中身 ) は 意下にある ?
書く ということ
“ かく ” ということ は 慧 欠く であり つつ
“ 思い ” 描く こと
“ きく ” ということ
“ きく ” ということ は ヨ ミトり ・ ヨ ミトル こと
( 解く こと を 徳と ) 看取り ミミ より 身に摂る こと
描いている のは あなた ? ( それ共 ) ナーガ ?
供 に 起きている 「 同行 」 二人
> ふつうは「書く」という行いは、
普通 のこと は 不通 の こと でありつつ
あまねく(遍) つう( とおりわたり ) ずる こと
であり つつ 痛 み 入る こと
「 苦 」 を かんずる 人 は その痛みに痛み入る
仏国 に 生まれる にもかかわらず
「 世間 」 ・ 背(の羽) を ミズ ( 敗 を 「 見 」 とする )
設我得仏 十方衆生 至心信楽
( 設 我 得 仏十方衆生・至心信楽 )
欲生我国 乃至十念 若 不生 者 不取正覚
かくも 正ナル 欠くこと を 描く
かかれしこと を 観じ 看る 人 は 至心信楽
“わたし” とは 我
であり つつ トラワレの人( 我我 と言う 人 )
われわれ の 意 が 「 同行 」 荷って イナイ
> 煩悩の行いとされているから。
人々( 我我 ) は
菩提 が 梵 能 ( 煩悩 ) と 知ろうとしない
行いを為す 人 に 二人 「 同行 」
“ ひとり ” でに 彼の国 に 生まれる と 思い
為す
( 二人して ・ 二人で に )
一人の手 に 二つある 手( 手だて )
諸手 ( あらゆる 手だて ) を “ 挙げて ”
一つ国 に 生まれ出る 手 は 一つ
ひとつ の 「 願 」 を 十八( と は ) に おもう
「 即 菩提 」
おもいもしないこと は 思うこと 不可 ? ?
( 不可能 なること とは なんぞや ? )
( 逸れ・ソレ が 分かれば 可能 ではないかな ? )
・
*
「 とは 」 とは 永久のこと
とわず といえども とわぬとも ある こと
と 言えども
こたえしこと とは おもいよらず
・
> こたえしこと とは おもいよらず
ふつうは、こういうのは、答えてない、っていうと思うけど(笑)
バーヒヤがブッダのことばを受け取った時を思います。
確かに、受け取ったんだなあと。。
「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」
https://manikana.net/canon/bahiya.html
祇んちゃま
> 「その5人に」語ることにしたのかな?
ふつつかながら、春間ちゃまに代わってわたくしめがお答えを考えてみますた。
>他の人から話していって、その内世間でお釈迦様が評判になっちゃった場合、
>もの凄い疎外感に
>苛まれちゃって悪いこと考え出しそうだから、自分が目の届かないところで、
>悪感情抱えた人間
>生み出したら自分の身が危ないから
それでいいと思います。そうだと思います。
五比丘は、心がきれいできよらかだったんだって。疎外感に悩まされないようにあらかじめ、もっと前からお釈迦さまを捨てていますだ。
苦行をやめたお釈迦さまを「ゴータマは贅沢になった」と言って避けてるから、最初からお釈迦さまはオシャカにされて捨てられてます。
だから、お釈迦さまは「ほんとに覚ったんだってば」と言って、「きいてくだはい」と頼み込んでいます。五比丘は、それに対して、「けっ!贅沢になったくせにぃ」とか言って、取りつくしまもありません。
最後に、「お願い!ぼくが今まで嘘を言ったことがあったかあ!?」って訴えて、ようやく、五比丘は「はっ」とするんです。
そこでようやく五比丘に信が起きて「尊師よ」と答えるのです。
なんかさ、お釈迦さんって、かわいそうだよね。
おごそか風に「さとりました」と言って、小出しで偉そうなことをちょびちょび喋れば、みんな、コロッとだまされるのにぃ、って思うけど、そうはならないところがお釈迦さま。
祇んちゃまの言ってることは、「そのとおりだ!」っていうところをもつので、あたっていると思うのです。
>おごそか風に「さとりました」と言って、小出しで偉そうなことをちょびちょび喋れば、みんな、コロッとだまされるのにぃ、って思うけど、そうはならないところがお釈迦さま
そういう人を前に見かけて(あれはちょっとなー)とか思ったのかな?あれはちょっとなーの人が
いなければ、自分がそこに滑り込んでいたはずだから、その人には感謝ですねぇ
>なんかさ、お釈迦さんって、かわいそうだよね
ぎんたもそう思います。「生け贄はダメ!ゼッタイ」とか言っといて、最期純陀きゅんが生け贄みたい
なっちゃって、、、、。もう、あれですね、これからは「生け贄」ではなく「死に贄」?な感じで、
全部どんどんお釈迦様のせいにしていったらよいと思います。かわいちょ
ぎんたさま こんばんは。
>そういう人を前に見かけて(あれはちょっとなー)とか思ったのかな?あれはちょっとなーの人が
>いなければ、自分がそこに滑り込んでいたはずだから、その人には感謝ですねぇ
ここ読んで思ったんだけど、ちょっと違うかなあ、という気がします。インドの聖者って、「嘘をつかない」という原則があって、絶対嘘をつかないんだよね。
わたしたちは嘘をつくので、世間じゃこういう風にいうんだというのを守って喋るけど、お釈迦さんクラスになるとみたまま感じたままをそのまま喋るので、世間とちがってきてしまいます。
インドの伝統になってます。
これ、ぎんたさまの求めるものじゃない?
あーそうなんですねー。ぎんたの場合は「嘘をつかない」ではなくて、「嘘つけない」です。
記憶力が残念なので、自分のついた嘘を覚えてられないです。嘘を突き通すことが出来ないです。
あとで矛盾が出過ぎて手に負えなくなると思います。あと、猫ですから動物として正しくない
情報は扱えないです。生物は正しくない情報をもとにしては動けないと思います。
「不自然」なことは出来ないと思います。だから、人間て「予想つかない面白さ」があります。
個人も日本も世界も「不自然」なことをしたらしただけの自然な結果が待っていると思います。
> 「嘘つけない」です。
それです!それ、悟り!どんなときにも、ほんとのことしか言えないなら、それ悟りです。
あ、でも、ついた嘘を忘れてるだけならちがうかも。。
『ウパニシャッド』に出てくる人は、嘘がつけないので、知らないことをあたかも知ってるようには言えないのです。だから、当時の最高の真実が語られてます。
ふしぎな哲学書です。こんなのを、お釈迦さまは勉強したんだなあ、って思うとふしぎでおもしろいです。
お城にいる王さまも、なんとなく嘘がつけなくなってきてます。
そういう時に書かれることは、王さまは何を考えたかじゃなくて、何をしたのか、ということだけが書かれてます。
それだっ!って、わたしは思います。
一般の人は、何をどう思ったかじゃなくて、何を、どう、したのか、というところに真実がある、って。、
でも、もし自分が忍びで、何か命を受けて動いている場合なんて、素性とか隠さないといけないし、
信条とかも悟られないようにしないといけないから、嘘つけなかったら致命的ですねぇ。
ぎんたなんて、2020年5月から外ではマスクしてなくて、信条丸わかりだから相当に残念さん。
優秀な忍びならば、今も風邪や花粉症じゃなくても外でマスクしてると思う。←これに気づいたとき
あぁぁ、残念だなぁと思いました。優秀な人の「嘘も方便」に憧れがあります。
> もし自分が忍びで
忍びをとるか、聖者をとるかでしょうねぇ。お釈迦さまの場合、忍びじゃなくて王さまやってたけど、結局、王さまできなかった。
> 優秀な人の「嘘も方便」に憧れがあります。、
優秀な人(?)の「嘘も方便」は、どうして成りたつかというと、
1.そもそも悪いことを考えない心によっている
2.慈悲の心によっている
この二つだろうと思います。これはお釈迦さんの場合だけどね。
そういえば、ジャイナ教のお坊さんは、口に虫が飛び込まないように、マスクをしてるんだって。殺生戒を守るためだそうです。
猫はうそつけない、ってほんとだね。
マスク、、、では、ジャイナ教の方は、目に虫が入ったらどうするんだろう?そっから先は
サングラスでもするのだろうか??ぎんた今月馬事公苑行った時、目に虫入りましたよ。。。
ぎゅーーーって目をつぶったので虫は死んじゃったと思います。よりによって、なんでこんな
小さい目に飛び込んでくるかな?と可哀想になりましたが、これで来世人間に生まれるなら
安いもんかもしれません。この子のためにも善き日本、世界を作らないといけません。みんな
それぞれ前世で人間の犠牲になって、今回人間になったんだから、絶対楽しい人生にしないと。
人間同士殺し合うなんて愚の骨頂です。折角の「ご褒美人生」なのに!
前世で何があったか確認したくなるとは思いますけど、兎に角楽しくなるように頑張らないと
いけません。頑張る力なんてないよ、という場合は「頑張るとか無理!!!!!と言い張るを
鋭意継続。。。
> 目に虫が入ったらどうするんだろう?
目か。。難題だ! 真面目な人ならサングラスとか眼鏡とかするかもね。
人間に生まれるのがいいのか悪いのかわからんけど、「生まれた場所で咲きなさい」ってことですかね。解脱をめざすなら、人間に生まれなくちゃならないけど。、
*
> 「生まれた場所で咲きなさい」ってこと
「 咲いた場所 」 で 滅しなさい
「生まれた場所」 で 滅しなさい
* 「示された場所」 で 滅しなさい
* 「 示した場所 」 で 滅しなさい
示す・示される のは “あなた” であり
話 宅しこと とは 語られる ことなきこと
> 解脱をめざすなら、人間に生まれなくちゃならない
と 人の頭 で 人並み の こと を 考える
考えること は 行ないである ( 「行」 であり 「 業 」 )
「五劫の擦り切れ」 まで 続く 寿命 を 「 業 」 ですごす
滅した者 には 「 業 」 は なく
「 業 」 にある者 は 「 業 」 を 知ることはない
である のであれば
「 業 」 は 「 劫 」 の 何処に 起きているのか 、、、、
「 時節の長短は 大水小水を點し 天月の廣狹を辨取すべし 」
「 身心に法いまだ參飽せざるには 法すでにたれりとおぼゆ 」
「業」 中 に 「喝」 を 叫び 「勝」 を 求める
「 法もし身心に充足すれば ひとかたはたらずとおぼゆるなり 」
「 ただわがまなこのおよぶところ しばらくまろにみゆる 」
「 塵中格外 おほく樣子を帶せりといへども
參學眼力のおよぶばかり を 見取會取するなり 」
「 かくのごとくなりといへども
花は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり 」
「 悟に大迷なるは衆生なり
さらに悟上に得悟する漢あり
迷中又迷の漢あり 」
( 得悟する漢 命 中 に 非ず )
仏 は 佛なり と 迷すること なし
佛 は 悟 を 名すること なし
「 灰はのち 薪はさき と 見取すべからず 」
「 佛の まさしく佛なる とき は
自己は佛なりと覺知することをもちゐず 」
水と月とのごとくに 覚知する 見ずのこと に あらず
身 いづるところ 「 見 」 いづるところ
ひろく多きなるひかり ではあるが “ 尺寸の 「身」 ” にやどり
満月も全天も くさの露にもやどり “ 一滴の水 ” にもやどる
ところとしていたらずといふことなき道理 を やどす
・
*
> 優秀な人の「嘘も方便」に憧れがあります
( 何らかの分野の )スター に 憧れる
「 理 」 界 であろうと 芸能界 であろうと
そこに スター が 必要性 に沿って ある
( ある といえば その理 に沿って ある・ない )
優秀 という時 比較されて初めて起きる “ 大小 ・ 優劣 ”
あなたが込める 優秀 の 意味
( 意味を決める あなた は どのように 劣っているのか ? )
優秀な( 劣った ) 頭で 考え て 決める
Su.796 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 ) 179p. ~
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
797
かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798
ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
「 聖者 」 に 等しい 人 は 「 世間 」 には 存在しない
( ただし 、 “ あなたの “ 見解 ” に於いては 存在する )
あなたの 見聞きし、考えること は 「 世間 」 の 常識に沿う
* “世間において偏見をかまえる ことのない” 人 を
「 出世間 」 の 人 と呼ぶ
802
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
* この世( 「 世間 」 )において
妄想分別に拠る人 を “世間の人” と呼ぶ
803
かれらは、妄想分別をなすことなく、
(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
* “ このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。 ”
彼岸 に 到達して そこに 「 安住 」 する
( 彼岸 には 存在していない・住してはいない )
* 妄想 を もってして
他人の優劣を量る ケイリョウ( 計量・軽量・軽慮 ) の 人
妄想ではない と 妄想を積む
・
この『スッタニパータ』で語られていることは、大乗ですね。798は、とくに大乗っぽいなあ、って思います。
部派と大乗の差はここかな。
部派は、七仏通誡偈にとどまるから。お釈迦様を超えていけない。。
>部派は、七仏通誡偈にとどまるから。お釈迦様を超えていけない。。
阿羅漢は、ちがうんだけどね。阿羅漢は、お釈迦様(阿羅漢のひとり)を気にしないから。
ということは、区別の心を持っているうちは「真実には、阿羅漢ではない」ともいえるのかな。
エム先生、おはようございます(^ ^)
理念としては、
「部派は、マハーカッサパ長老の利他心の継承」という考え方もできるかな?と思いました。
お釈迦さまも阿羅漢にこの法を伝導しなさいとおっしゃってましたしね
☆彡
大乗仏教は、ブッダの利他心の継承、かな?とも、これを書きながら思いました。
肩こりおつかれさまですm(_ _)m
肩こりに効く可能性があればいいなと、なかやまきんに君という方の「世界で一番ラクな筋トレ」というYouTube動画のアドレスを貼らせてください。
10分の動画ですが、エム先生には筋トレする時間は無いだろうと、10分あれば『中論』について考えていたいだろうと思っていますが、1%の可能性あれば貼りたいなと貼らせていただきます。
もちろん無理に視聴&運動しないでくださいね♪
きんに君の動画↓
https://youtu.be/hge3fr50o0o?si=JPSNg8tZ6bDLPAkf
*
> 区別の心を持っているうちは
区別=分別=弁別
分別の心 で 弁別する ( わけへだてる・分け隔てる )
分ける 自己 が ある内 は
分ける心 で 自己は (陀己から) 分けられる
( 裁くな 裁く根拠 で 裁かれる ・ マタイ 7 ― 1~2 )
“見ず” = ミズカラ ( みてはいない 自己の殻 )
ということからの 根拠 が 眼の中の 丸太・梁 です
> 「真実には、阿羅漢ではない」ともいえるのかな。
*********
1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
*********
偽善者 の 為 の 言葉たち
偽善者 は 梁・丸太 を 用いて
自ら の 立場 を 補強する
偽善者 は ハリ を 用いて 自ら を 指してイル
( ハリノムシロ は 梁 で 支えられている )
自ら とは 自己のことであり 自己 を “わたし” とも呼ぶ
読む 自己 と 読まれる 自己 とは ベンベツ される
( 「 自己 」 は 一つである にも かかわらず )
自己・一個 は 一つ である
と 弁別する
“ 区別 ” する
自・他 という 自己に起きている 二個 の 根拠
この根拠 が 見ず から 離れるとき
みずから 離れて この世 を 出離 できる
********* ( 白隠 ごわさん ・ 誤 話 算 )
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
( ミズ を 知らずして 己はおらず 多情の内 に 仏 を いう )
衆生近きをしらずして 遠く求むるはかなさよ
( 迷い 多く 即近をしらず はかなき 「 生 」 を 求める )
たとへ は 水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
( 譬えている のは “見ず” して 見ず に 渇き が あるということ )
( ミズ が あってこそ の 弁別の渇きであり 水 は 即近 に ある )
*********
阿羅漢 が 存在している
と 自己の「 分別 」 で 想う・慮う・迷う
其処 に 起されている 存在・阿羅漢
自己 とは 思うから 存在している のではなく
おもわないところ にも 存在している
おもわないところ を おもい に さそう
さそわれて さまよう 自己 という 産物( 「 生 」 )
おもわず すわりこむ 坐 が 止観 の 場
( おもってもみない 坐にある 見ず という 只管 )
半眼 とは 判 「 願 」 の為の 慈眼
いうべきを いうか いわざるを いうか 慈眼 に 伏すのみ
*********
我れ今讃述す 哀悲を垂れたまえ
如来の説法は 一字に五乗の義を含み 一念の三蔵の法を説く
何に況んや 一部一品 何ぞ匱しく 何ぞ無からん
言うまじきを之を言えらん失 智人 断りたまえまくのみ
*********
こうして 弁別する 「 我 」 を
知人 は 「 分別 」 する
・
はぁ、、、「優秀」は特に何も考えずに書いたんですけれど、、、そうでしゅね~
いろんな人の言っていることが理解出来る!!が優秀かなぁ?なので、ぎんたは春間さんの文章
あんまし分らなくて、でも春間さんはぎんたの文章理解出来るから、春間さんが優秀と思う。
漢詩とか哲学書とか広範囲の人の文章わかるほうがより優秀じゃね?だーーーかーーーーーらーーー
春間てめー早く世界をなんとかしろ、ぼけ、地球上のなるべく多くの人間がワンちゃん猫ちゃん他
様々な動物たちと暮らせるようにすんだよ(もちろんそうしたくない人はそうしなくていい)
一部の富裕層だけが猫飼えるとかじゃ困んだよ、こっちは。さっさとやれ早くやれぼけ
pipitさま おひさ。
>「部派は、マハーカッサパ長老の利他心の継承」という考え方もできるかな?と思いました。
そうかぁ、たしかにたしかに! お釈迦さまが般涅槃したとき、カッサパ長老は、「仏恩を報ずべし」とぎりぎり間に合って悟りを開いたアーナンダ長老に告げています。そうですねぇ。
>きんに君の動画↓
真似してやってみたら、ずいぶん楽です。ありがと!
これで肩こり解消をはかるぞ、っと。
> 「 咲いた場所 」 で 滅しなさい
仏教の理解を示していますね、春間さま。
ただ、仏教の理解は示すけれど、仏教の教えを受けとっているのだろうか、という思いが自然と浮かんできます。
どうなん?
諸法無我は、難しい教えです。受けとりましたか?
このように書いたのは、仏教以外の外道を勉強しているからです。ヒンドゥー教系統の思想をもつ人々は、仏教を勉強してその方策(やり方)を真似たのです。
真似たがゆえに、仏教に近くなりました。だけど諸法無我だけは受けとれなかったのです。
春間さまはどうですか?
*
> 諸法無我は、難しい教えです。受けとりましたか?
“ 難しい教え ” を
簡単に “ 教え として ”
“教え”て “欲しい” のですか ?
“ 教え ” ではない “ところ” に
HIGH 「 理 」 たい(欲しい) のですか ?
「 理 」 は “ 教 エル モノ ”
自己の 正眼 ( 正法眼 ) で 得る= 看取る もの
病 を 看病 するもの
受取っているモノ が 観得ない のであれば
聞いて分かる道理 は ( 当てはめる )根拠にない
見えないもの でも 聞けばわかる と
観得ない目で 探す ( 芽は出ない )
( そのようなこと を ) お芽出“たい” という
ちょっと 言葉はきついけれど
聞いて分かるのであれば
これらの言葉に “ 芽 ” を 向けなさい
「看取する」 と いう 言葉を聞く
( 耳から身に沁みさせる )
「 言葉 とは “身の働き” の 指針でしかない 」
この言葉の 指すところに向かって歩む のを
“ 「 身 」 ” なさい( 為 ) →「 行 」 ( じる・しる )
> 春間さまはどうですか?
こうです よ ( 効 立 悪し かな ? )
・
私が最近特に思うのは、宗教や哲学が本当に人間の役に立っているのだろうか、ということです。
哲学は人間を幸福にすることが目的の学問だと聞いたことがあります。
しかし、現実には逆です。
哲学をしたためにかえって偏屈になる人は多いです。
哲学が人間を幸福にする学問であれば、大学の哲学科を出た人が一番幸せのはずですが、実際はそうではありません。
社会に適応できなかったりなかには自殺する人もいます。
宗教もそうです。
諸法無我だと言うのは簡単ですが、
『無我だ』『無我だ』と言い回っている人は皆、強固な自我を持っています。
春間さんは、私がここに来るまでは、
盛んに、ロータリークラブだとか、どんなすごい人を知っているか、とか
読書量の多さ、蔵書の数の多さなどを、しょっちゅうアピールしていました。
他の人よりずっと自慢が多かったです。
同じく龍樹を基にしている芳和さんも、自分の読書量や修行などをアピールしていました。
これのどこが『無我』なんだろう、と思うことばかりです。
つまり、宗教、仏教が、更なる自我を形成する材料になっているに過ぎないのです。
マウントを取るための道具となっているのです。
ネットだけではなく、現実社会でも、宗教や哲学をしている人の方が、
複雑で強固な自我を構築しているような気がしています。
*
> ********
私が最近特に思うのは、宗教や哲学が本当に人間の役に立っているのだろうか、ということです。
哲学は人間を幸福にすることが目的の学問だと聞いたことがあります。
しかし、現実には逆です。
哲学をしたためにかえって偏屈になる人は多いです。
哲学が人間を幸福にする学問であれば、大学の哲学科を出た人が一番幸せのはずですが、実際はそうではありません。
社会に適応できなかったりなかには自殺する人もいます。
宗教もそうです。
諸法無我だと言うのは簡単ですが、
『無我だ』『無我だ』と言い回っている人は皆、強固な自我を持っています。
> ********
それが 君の見ている世界です
( 物事 は 欲望に沿って 展開していく )
そのように見たいから そのように見る
そのように見ている と “ みえない ”
( 自分の見方 に 気付けない )
> ネットだけではなく、現実社会でも、宗教や哲学をしている人の方が、
複雑で強固な自我を構築しているような気がしています。
そうではない人 の そうではない点 に
君が 気づくことが出来ないだけ
気付きたくないから 気付こうとしない
= 気付こうとしないから 気付けない
自分の モノの見方 が 正しい と ( 思う )とき
( 誤っている 自分の 正しいことを ) 疑えない
・
春間さんの視点は、自分を洞察することなしに、他者に向いているのです。
私は、身体でもなく、感覚でもなく、思考でもなく、ましてや、経歴でもなく、財産でもなく、学歴でもなく、人脈でもなく、読書量でもなく、蔵書の数でもない、と見極めた人が、それらを自慢するでしょうか。
見極めるまでにいかなくても、それらを気をつけて進んでいる人が自慢をするでしょうか。
自分の中の、そのようなドロドロした我塊に気がつかない、全く洞察できていない人が、自慢をし、わざわざ仏教のサイトでマウントを取ろうとするのです。
少しでも、仏陀の理法に気をつけようとする人は、そのような自慢したくてたまらない衝動に気づいているでしょう。
自分の衝動に気づけない人がさかんに自慢するのです。
読書量や蔵書の自慢なんて馬鹿馬鹿しい限りです。
ショーシャンク様
誰かが「諸法無我」について体得したいと思って格闘している、というお話ですね。
私もまだそれが、どういう教えなのかがよく分かりません。しかしエム先生は、仏教と外道(仏教以外の思想家)との対比において、それ(仏教すなわち諸法無我)がどう受け止められたかということを探求しておいでです。私達はそれによって、「諸法無我」がいかなるものかのイメージをおぼろげながら得ることができますが、諸法無我を受け取れば、多分、想像ですが、それを得たいと思って格闘している人々とは言動が(当然ながら)違うのではないか、と推測します。
えび天サンバさん、ありがとうございます。
石飛先生は、真摯に探求されていて、とても尊敬しています。
ただ、『無我』『無我』と言い回っている春間さんや芳和さんを見るたびに
仏教がこの人たちに何をもたらしたんだろう、と思ってしまいます。
読書量や自分の修行、自分が悟っていることを誇ることばかりで、
その視点は常に他人に向いています。
他人が(自分に比べて)修行できていない、悟っていない、をアピールし続けていて
自分の承認欲求を満たそうとしているばかりです。
そのどこが『無我』なのか、仏教を全くしていない人より自我をこじらせているようにしか見えません。
一言で言えば、ちゃんちゃらおかしいのです。
地獄掲示板にいた四人組、どの人もここで学ぶ気は全くなくて、
自分が教えてやるという自我に凝り固まっていた四人でした。
龍樹、浄土真宗、キリスト教と、それぞれ違いましたが、
この人たちを見ると、宗教は本当に人間の役に立っているのだろうか、と思ってしまったのです。
えび天サンバさんは、あのような狂乱ぶりを見て、そうは思わなかったですか?
ショーシャンクさま おはようございます。
> ネットだけではなく、現実社会でも、宗教や哲学をしている人の方が、
> 複雑で強固な自我を構築しているような気がしています。
耳が痛いおことばです。
芳和さまと春間さまは一緒にはならないかと思いますが、現象的には、そのように見えるのはおっしゃるとおりです。
ストレートに、春間さまの言動を本人の心のあらわれと取ると書いてあるものと合わなくなります。わたしは、最初にショーシャンクさまと同じように受けとめて「ずいぶん俗っぽい人だなあ」とおかしくなりました。
そのうち、なんか書いてあることと行動が合っていないことに気づきました。そのギャップを探りつつこんにちに至っているのですが、内面的には俗の部分を持ちながら、仏教で矯正して今日に至っているのかもしれません。違うかもしれませんけど。
たとえば、わたしの持っている俗の部分にあてて書き込みをすると、わたしを批判しているようにわたしは感じます。それが「無我の行為」ということなのかなあと思ったりしますが、よくは分かりません。菩薩の行為ということなのだろうと見ていますが、相手には伝わらず非難ばかり浴びることになって、「これでいいんか?!」と思ったりもします。
人というのは、何かいつも「これがわたしの常識だ」というものを持ちたいのだと思います。心が支えられる柱になるものを持ちたいと願っているのですが、そう思ってやっていると自分が苦しくなってきます。たまには、違う意見も言ってみたくなります。違う意見を言ってみると、自分に批判が来て「やっぱりダメだわ、元にもどろ」となって、人間なかなか変われません。
わたしは、自分で自分を壊そうとすることが「無我の行い」ではないかと思っています。「繰り返すな」がわたしのモットーなのです。
でも、「繰り返すな」にもこだわらないようにするので、繰り返しているように見えることもあるかも、です。
ショーシャンクさまは、春間さまの対抗馬のような位置にいるのかな、ってちょっと思ったりします。
今のところ、仏教の法に満足しています。完璧だと思っています。これは決してなくならず、人々を癒やし続けるだろうと思っています。
その中に、春間さまもいるし、ショーシャンクさまもいるし、ミチオ君や芳和さまもいるし、メッターさまもクリスチャンとしているのでしょう。
仏教を忘れたら、人類は確実に滅亡します。滅亡も含めて、ブッダ世界ではあるのですが、人間は滅亡を恐れますね。
とりとめなく書いてしまいました。
龍樹についてのエピソードの数々は、そのとおりではないとわたしは思いますが、そのとおりと思う人も多い、ということは分かります。これが、かれの諸法無我の実践なんでしょう。
わたしは、龍樹はお釈迦さまと同じことを言ってるしやっていると思っています。
*
* **********
ただ、仏教の理解は示すけれど、仏教の教えを受けとっているのだろうか、という思いが自然と浮かんできます。
どうなん?
諸法無我は、難しい教えです。受けとりましたか?
このように書いたのは、仏教以外の外道を勉強しているからです。ヒンドゥー教系統の思想をもつ人々は、仏教を勉強してその方策(やり方)を真似たのです。
真似たがゆえに、仏教に近くなりました。だけど諸法無我だけは受けとれなかったのです。
春間さまはどうですか?
* **********
芳和さまと春間さまは一緒にはならないかと思いますが、現象的には、そのように見えるのはおっしゃるとおりです。
ストレートに、春間さまの言動を本人の心のあらわれと取ると書いてあるものと合わなくなります。わたしは、最初にショーシャンクさまと同じように受けとめて「ずいぶん俗っぽい人だなあ」とおかしくなりました。
そのうち、なんか書いてあることと行動が合っていないことに気づきました。そのギャップを探りつつこんにちに至っているのですが、内面的には俗の部分を持ちながら、仏教で矯正して今日に至っているのかもしれません。違うかもしれませんけど。
たとえば、わたしの持っている俗の部分にあてて書き込みをすると、わたしを批判しているようにわたしは感じます。それが「無我の行為」ということなのかなあと思ったりしますが、よくは分かりません。菩薩の行為ということなのだろうと見ていますが、相手には伝わらず非難ばかり浴びることになって、「これでいいんか?!」と思ったりもします。
人というのは、何かいつも「これがわたしの常識だ」というものを持ちたいのだと思います。心が支えられる柱になるものを持ちたいと願っているのですが、そう思ってやっていると自分が苦しくなってきます。たまには、違う意見も言ってみたくなります。違う意見を言ってみると、自分に批判が来て「やっぱりダメだわ、元にもどろ」となって、人間なかなか変われません。
わたしは、自分で自分を壊そうとすることが「無我の行い」ではないかと思っています。「繰り返すな」がわたしのモットーなのです。
でも、「繰り返すな」にもこだわらないようにするので、繰り返しているように見えることもあるかも、です。
ショーシャンクさまは、春間さまの対抗馬のような位置にいるのかな、ってちょっと思ったりします。
今のところ、仏教の法に満足しています。完璧だと思っています。これは決してなくならず、人々を癒やし続けるだろうと思っています。
その中に、春間さまもいるし、ショーシャンクさまもいるし、ミチオ君や芳和さまもいるし、メッターさまもクリスチャンとしているのでしょう。
仏教を忘れたら、人類は確実に滅亡します。滅亡も含めて、ブッダ世界ではあるのですが、人間は滅亡を恐れますね。
とりとめなく書いてしまいました。
龍樹についてのエピソードの数々は、そのとおりではないとわたしは思いますが、そのとおりと思う人も多い、ということは分かります。これが、かれの諸法無我の実践なんでしょう。
わたしは、龍樹はお釈迦さまと同じことを言ってるしやっていると思っています。
* **********
4.24 6:30
順をたがえて 取り上げると “ 逆 ” に なるのでしょうか ?
> 仏教を忘れたら、人類は確実に滅亡します。滅亡も含めて、ブッダ世界ではあるのですが、人間は滅亡を恐れますね。
忘れる 対象である 「 仏教 」 が そこにあれば
“ 人類のうちの一人 ” である 忘れようとしている人 は
“ 人類のうちの一人 ” である 者 に
忘れられる( 滅する )こと は ない
人類 は 一人ではなく 衆 となって “この世” に ある
(多)衆 は 一人 を 支え 一人 は 衆 を 支えている
> その中に、春間さまもいるし、ショーシャンクさまもいるし、ミチオ君や芳和さまもいるし、メッターさまもクリスチャンとしているのでしょう。
あなたもいるけれど 眺めるあなた と
眺められる あなた とが いるけれど
書き記すのは いつも 眺める(ている)あなた
読み “気”に記するのは 眺めている あなた
眺める と 眺めている との 間に
どのような差異 が あるのか 、、、、
いつも 犀の角( 才の持つ角 ) を
指すモノ( 眺めている者 )だと 勘違いすると
指されている 「 己 」 は 存在を隠している
( 「 己 ― 」 言う者 は 「 己 」 に囚われることはない )
“ 他己 と 自己 とを 分ける ” その自己 を 分ける
分けるソレ が 「 他 」 でありつつ 「 己 」 です
「 自己 」 を 見失う ということは
他己 ばかり 気 に 記し↓
その気・量り方 という 気 に 囚われているということ
記している 己・“わたし” は
どこに存在している のでしょうか ?
この世( 己・“わたし” ) を 問う あなた に 問う
( あなたは “わたし” が 問うてはいない と 思い 問う )
> ストレートに、春間さまの言動を本人の心のあらわれと取ると書いてあるものと合わなくなります。わたしは、最初にショーシャンクさまと同じように受けとめて「ずいぶん俗っぽい人だなあ」とおかしくなりました。
> そのうち、なんか書いてあることと行動が合っていないことに気づきました。
あっていない部分 を 自己の裁量 で 裁く
> そのギャップを探りつつこんにちに至っているのですが、
> 内面的には俗の部分を持ちながら、仏教で矯正して今日に至っているのかもしれません。違うかもしれませんけど
矯正 していれば 矯正できている道 に あり
いつも 矯正できている個(他己) と
矯正している個(自己) とが 共に道を歩んでいる
( 違いがあるのにも関わらず ) ( 咎・真違い なく )
一つとなって “間”違い( 即近・遥か遠く )なく 道を歩んでいる
このようなこと を “ ことばあそび ” と “ 問う ” 己
( いづこ で 問うのか と 問う
此処 は 何処 だろうか ? )
このように 内面で 問う のか 外面に問う のかを 問う
“ ストレート にとる ” あなたに カーブを投げてみる
( とれるか とれないか を 問うてはいなくて “ 投 ” )
このように “喩” に 水を差すと
見ず に 目が行ってしまう のは
いたしかたないこと ではあるが
いたすこと は いたさないこと と 共にある
いたしがたきこと には
いたしかたないこと と 思うこと が 含まれて“ある”
( 記すこと を 気にしている ことを 記すこと難し )
「 ずいぶん俗っぽい人だ 」 というところの
「 俗 」 に 属す “わたし” を 見ている 陀己
( タコ足配線 という 足 を 食べる と
“ 本体 ” へといたる 食べる本体 が “絡み合う蛇” )
“本体” が ある と “本体” は 見えない
この喩に( このように ) 記すと
帰すところ を 逆に問われる
( 順逆 は どこにおいても 成り立つこと
だから いつでも 逆に問うことはできる )
逆に問う者 は 逆ではないと 思って 問う
( 順逆 は どこに於いても成り立つから 迷惑 な こととなる )
以上 とりとめもなく 逆について とりまとめる
・
石飛先生。
宗教のほとんどは、更に自我を強めるだけになっているのではないかと思うようになりました。
『無我』と言い回っている人が自慢ばかりするのは何故か。
『神』を信仰している人が戦争や虐殺をしまくっているのは何故か。
『繰り返すな』はその通りでしょう。
グルジェフは、『人間は機械だ』と言いました。
延々と同じ反応を繰り返していますね。
缶コーヒーのボタンを押せば決まった缶コーヒーが出てくるように。
地獄掲示板の四人も同じ反応を延々と繰り返していました。
私もそうです。
今まで同じ反応をしない、機械でない人を見たことがありません。
記憶とその反応の思考があるかぎり『繰り返さない』は無理なのではないかとは思います。
私は、『何ものにも依存しない』を目標としています。
どのような人間関係にも依存しない、
どのようなものにも依存しない、とは思っています。
タバコは若いときにやめていますし、
少し前、2ヶ月アルコールを一滴も飲まないと決めて実行しましたが
何の苦しみもありませんでした。
どのようなものもどのようなことも『これをしなければ苦しい』というものは一切ないですね。
ネットも自分のブログでさえいつやめても一向に構わないですし。
宗教もすべて手放すことはできます。
ただ、自分の記憶を自分だと同一視しているうちは、自由とは程遠いとは思っています。
> あなたもいるけれど 眺めるあなた と
> 眺められる あなた とが いるけれど
> 書き記すのは いつも 眺める(ている)あなた
> 読み “気”に記するのは 眺めている あなた
分けて考えないこともできます。
分けるとサーンキヤになりそう。。この発想が、いつも「唯識だなあ」、って思うところ。
*
> > 読み “気”に記するのは 眺めている あなた
> 分けて考えないこともできます。
考える・考えない という ところを 記してはいない
「 聞く 」 という 声聞 の 「 聞 」 のことを言っています
幼児期 は 聞く こと は 読むこと と 結びつかない
文字に触れるに つけ 聞く = 読む となっていく
但し 聞く が 読む と 知るとき 聞くことの大切さ が
身に沁みてくる 、、、、
聞いて 判断しない ということは
みずからの語る言葉 の場合 “ 逆 ” となる
判断しつつ 出る口 を 絞る 、、、、
多く語ったから 多く伝わるわけではなく
多く語っていても 多く伝えたい ということではない こともある
語るに落ちる とは 量の問題ではなく
「 量 ・ 量り方 」 の 問題である
( 聞いている ということ は 語っている ということ
だ と 気付けないことが 多い・殆ど )
ただし 聞く=記す と 知る人 は 気付かないこと が ない
> (?) 。。。。 この発想が、いつも「唯識だなあ」、って思うところ。
(?) この発想 が 「 唯識 」 です
この発想 とは
( 分けてはいない )発想 なのですか ?
・
*
話しは 少し 変ります
あなたは 「 仏教 」 にたいして
あなたなりの理解 を 構築している ( 構築された仏教思想 )
それが あなたの理解する 「 空 」
概念 です ( 「 行 」 でもあるかな ? )
( 少なくとも ) 「 瑜伽行 」 ということは 憚られる かな ?
森政弘 が “ 不気味の谷 ” と 名付けることがある
https://robogaku.jp/history/integration/I-1970-1.html
一直線 に 読むと 「 仏教 」 とは 思い難くなる
気味が悪い とは 小さく扱いたくなる という意味
( 近づくモノ を 遠ざけて 見たくはなくなる こと )
読む ということ は 書く ということとなる
( 読めるようになる時 成り立つこと → 大人化 )
書いたこと を “ 読む ” → 正遍知・明行足
調御 大人( 大丈夫 )
チョウゴ の意味 を 概念化する オトナ
丈夫 は 大人 で ダイジョウブ ?
概念を捨て去る 隣の意味をしる → 眼を開いて 横を見る
( 半眼 とは 横を見ること であると 知らぬ 判官 )
半眼 にして おでこの先に光る
犀の角の 先 が 示すところ を 見る
遊 我 の 一こま
・
ショーシャンク様
>えび天サンバさんは、あのような狂乱ぶりを見て、そうは思わなかったですか?
求道中の人が錯乱しているように見えるというのは致し方のないことで、傷に塩を塗ったり、火に油を注いだりせずに、そっとしておけばよいのではないでしょうか。エム先生の所に来て探求していれば、何か得る所もあるでしょう。何か言いに来るだけ、ということもありますが、それなら一層、スルーしておけばよいかと。
ショーシャンクさま 率直なお言葉ありがとうございます。
> ただ、自分の記憶を自分だと同一視しているうちは、自由とは程遠いとは思っています。
自己を変えようとなさっていることはよくわかります。
「無我」の感覚というのが、少しわかりつつあります。
わたしは、昔、春間さまの書いたものをまともに読んで苦しくて仕方なくなったことがあります。そのときから、苦しくない道を模索してきました。
苦しみを滅する道は、聞いただけでも大半苦しみがなくなることが経験されます。ブッダの言うとおりです。苦しくなるようなら、どこか間違っているのです。そう思っています。
自分の記憶は自分のものですが、それは執着にもつながっているかもしれません。
ただ、記憶ではなくて、想起されるもの、これは大事にしたいと思います。ふっと思い起こされるものは、それを手がかりにしたいと思っています。
その意味で、龍樹は先生ですね。かれの体験したことはブッダが同じく体験しています。同じ体験ではないけど、体験的に重なるのです。ブッダと龍樹は通じ合っていると思います。
素直に信をもつところが、そっくりです。
ショーシャンクさま おはようございます。
>私は、『何ものにも依存しない』を目標としています。
>どのような人間関係にも依存しない、
>どのようなものにも依存しない、とは思っています。
わたしの「繰り返さないこと」と少し似ていますね。
でも。。最初から「何ものにも依存しない」とすれば、生きていくのが難しくはないでしょうか。
わたしは、自分で同じ過ちを何度も体験して、繰り返すのはやめようと思ったのですが、「繰り返す」というのは、安易な道だと知ったからです。ちょっと意識を向けるだけで、繰り返すことを回避出来ることを知りました。
漫然と勉強するとか、漫然と生活するようなことを指しています。
ショーシャンクさまは「何ものにも依存しない」ということを具体的にどのように気をつけているのか知りたいと思いました。たばこに依存しない、特定の思想に依存しない。。というのは分かったのですが、何もないと、ショーシャンクさま自身のアイデンティティ-もなくなりはしないでしょうか。
宗教も手放せる、というのはよいとして、最後に何か残らないでしょうか。自分自身はどうですか?
、
石飛先生、おはようございます。
アイデンティティは最終的には要らないですね。
もちろん、生活する上での道具ではあります。
生きてるうちは必要です。
家も土地も私名義であった場合、名前のアイデンティティをなくしてしまったら
誰に占有されても対抗できなくなります。
生まれたことなどないと悟っても、公的な書類には生年月日の記載が必要です。
アイデンティティは道具としては必要なのです。
依存することと楽しむことは全く違います。
酒を楽しむことができるのは、酒に依存しないからです。
酒を一年間全く飲まなくても少しも苦しくないのが依存してないということです。
世に依存症は多いことです。
アルコール依存症、薬物依存症、セックス依存症、ネット依存症、ゲーム依存症、ギャンブル依存症、どれも悲惨です。
対人関係で言うと、特定の誰かに依存するとストーカーになります。
何の苦もなく長期間離れることができれば、それは依存ではありません。
アイデンティティはただの道具です。
最終的には、そこに住することがなくなることが理想です。
『応無所住 而生其心』は大乗仏教の言葉では一番仏陀の理法に近いかもしれないと思っています。
ショーシャンクさま こんばんは。
>何の苦もなく長期間離れることができれば、それは依存ではありません。
「縁って起こる」ということから考えると、確かに依存ではないかもしれません。
でも、価値という点からいくと、「無我」というのは、自分自身で価値をさだめてそれを求める生き方というのとも違います。
わたしの目から見ますと、ショーシャンクさまは「善き社会人たろう」とされている世俗的な生き方を良しとされる方です。いわゆる、のめり込まない生き方を良しとされる方ですね。
無我とはちょっと違うようだなと思います。「無我」は、のめり込んだように見える生き方もできるのです。価値の基準が「ほどほど」ではないのです。
春間さまのように、「自我の強い(?)」生き方も可能なのです。無我だからです。(春間さまが無我かどうかはちょっと置いておきます)
「○○はわたしではない、わたしのものではない、わたしの本質ではない」という読みが正しいのだと思っているとき、無我(自己ならざるもの)ではありません。
こだわっているからです。「でない」といったのであって、「(自己)がない」とは言ってない、と思うとき、無我ではありません。決まった意見の、楽な方を、選択しています。自分にとっての「楽な方」ということです。
わたしの考える「無我」は、絶えず、いわゆる「自己と向き合う」生き方をしないと、無我にはいけない、と思っています。
では、純真な子どものように「無垢な生き方」がいいんじゃないか、と思っても、元々無垢で無我となると、路傍の石同然の生き方になりそうです。「それも、ちょっとな。。」となると、なかなか難しいのです。
お釈迦さまは何を説いたのだろう、ってことになってきます。
それを求めて、2600年間苦闘してきたのが、仏教の歴史だと思っています。
>「(自己)がない」とは言ってない、と思うとき、無我ではありません。決まった意見の、楽な方を、選択しています。自分にとっての「楽な方」ということです。
つまり、お釈迦さまの言い方を根拠としているのです。
お釈迦さまの教え(と思うもの)によって、それを根拠(=権威)として、自分の意見を表明しているからです。
向こう岸に渡ったら、筏は捨てねばなりません。あっちにもこっちにも法がはり巡らされていて、あっちこっちでひっかかります。
石飛先生。
筏を捨てるのは、向こう岸に渡ったときです。
激流をわたっている間は、筏は手放してはいけないのです。
先生は、激流を渡ってるときも筏を解体しろというようなことを言われているのです。
*
> 自分にとっての「楽な方」ということです
「 苦 」 を 知って
それを “ 選び取らない ” ということです
「 苦 」 とは 「 縁起 」 に 起きて
起きていること は ( 人々と ) 共にある ということです
一人(だけ) で 「 苦 」 を 克服せざるを得ないけれど
一人(だけ) に 起因する 「 苦 」 は 「 世間 」 にないのです
そして とても大切なこと は
「 苦 」 は ( 起こしている ) その一人 に 起きて !
その一人 に 起因している ということです
そして ( 「 仏教 」 でいう )
「 楽 」 とは
一人に起きて 一人(だけ)の認識にある世間 に於いては
存在がない( あったとしても 意味がない ) のです
例えば
わたしが 「 楽 」 を 享受していようと
そう“言う”こと は 「 世間 」 では 通用しないのです
( 「 世間 」 において それは 「 分別 」 できないのです )
言っても 分かられませんが 見られること は 適います
煌びやかに 荘厳されている 身体 は “ うつくしく ” あります
そのような “表現” は 見て 分かるようなこと なのです
( 煌びやかな 荘厳 は ) 世間に起こされる 世間の基準です
美しさ とは 支える 見にくさ( “ミガタキ” こと )に
“ 縁っておきています ” ( 縁起の理 ) ↓
( その み難さ・みにくさ とは 荘厳 が あってはじめて 起きます )
“表現”すること は 簡単ではなく 「 分別 」 は さらに 難きことです
財をつくして 買って 贖えることではないのです
一人 では 価値は決まりませんが
二人並べば 比較 が 起こし得ます
( 同じ 「 人 」 なのに 優劣 が 起こされます )
「 平等 」 に並んでいるのに “不平等” が 起きています
「 わたしは起こしてはいない 」 と言おうと
起こしていること は
( 他によって ) 起されていること でもある のです
路傍 に 石があろうと
その イシ を 認識するまでは ( 認識する主体 において )
存在 が 知られることはありません
( どのような イシ ・ ガン であろうと )
その存在 の “きらびやかさ” は
(認識する主体)自己 と 比較できない時には
世間に於いて 認められることはありません
( 単 なる 自己満足 してなら
そういう自己たちの間では 認め “合い” が 起きます )
そういう “ 合い ” を 「 仏教 」 では 「 愛 」 とよび
( ナザレのイエス は ) 「 愛 」 ・ “ LOVE ” とも します
> お釈迦さまは何を説いたのだろう、ってことになってきます。
> それを求めて、2600年間苦闘してきたのが、仏教の歴史だと思っています。
そういうこと が 一人に起きて 縁起の理に渡ることによって
( 「 世間 」 に ) 行き亘って いきます
一人 ということ は 二人がいて その片方に起きること です
( 「 仏教 」 が 起きている と知る 「 仏教 」 を 知る者 )
一人 で 歩む道 に “ 「 同行 」 二人 ”
ニンジャ ハットトリック ( 惨禍あって 荷が 知られる )
( 惨禍 は 他に縁らず その他 に よって 起きている 、、、、 )
簡単なようで ミガタキ ミガカレタ コト
・
*
損 財 は 牟 尼・に かかわり
いくら ? という
句 等 に かかわり
イクラ 起こそうと 蔵の みつる ことなし
クラキ 「 ク 」 は 明るき 「 道 」 に 起きる由なし
手元を 照らしても 手先 は 明るくならず 、、、、
その手 で 真さぐる 真沙 起きず
・
*
> 「 平等 」 に並んでいるのに “不平等” が 起きています
Su.799 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 180p~ )
「 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、
世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、
他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか
考えてはならない。 」
Su.798
ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
等しい・等しくない とは “不平等” に 起きています
「 平等 」 とは 世間において は“ もっと欲しい ”
という “ 欲 ” に おこされて 根拠とされます
・
石飛先生、おはようございます。
》》自分の記憶は自分のものですが
》》自身のアイデンティティもなくなりはしないでしょうか
》》諸法無我の諸法とは諸々のことば、ということです
先生のこれらのお言葉で、私が考える仏陀の理法とは違うことがわかりました。
仏陀の理法からすると、何故、自分の記憶が自分のものなどと言えるでしょうか。
それは、世間一般の迷妄の見方です。
なくなっては困る自身のアイデンティティとは何ですか?
本当に自己と向き合い、自分の心を洞察したら、アイデンティティというものは幻想に過ぎないことがわかるはずです。
先生も春間さんも芳和さんも、龍樹を基とされていることがよくわかりました。
諸法無我の諸法を諸々のことばとするのは、そういうことでしょう。
仏陀のどの言葉からもそうはなりません。
言葉を解体する、見解を解体する、というのが仏教だとしているように思えます。
そこが最初からの結論部分なのではないでしょうか。
春間さんが、投稿する人に絡んでいく作業を延々とし続けるのは、
言葉を解体する、見解を解体するという龍樹を実践しているということなのだとわかりました。
それで、石飛先生もそれを評価しているということですね。
よくわかりました。
*
> 先生も春間さんも芳和さんも、
“ 一緒 にする ”
一緒である という 自己認識
一緒に処理して 一緒ではないこと を 覆う
( このやり“口” は 「 世間 」 では “うまく” 働くことが多い )
( 手品師 の よく使う 技法 です )
> 龍樹を基とされていることがよくわかりました。
ここは もうちょっと 複雑
龍樹 に 則ている か “乗っ取って” 使おうとしている のか
生きざまに表わす ということか 道具化 するのか
誰 が どこに 入る のかは
葉の隙間から 出でる 揺れる風
( ただ ウチ あほぐ ・ 内 阿保愚 技 )
「 ときに師 あふぎ を つかふ のみなり 」
僧礼拝す。 ( 師家参禅・問答 の折の 作法 )
・
石飛先生とは一緒にされたいけど、
芳和さんとは一緒にされたくない、ということですね。
一緒ですよ。
春間さん、芳和さん、ミチオ君、メッターさんの四人組は
視点がいつも他者に向いているということで一緒です。
マニカナで学ぼうとしたり、自分の心を洞察したりすることがなく
いつも心が他者に向いています。
読書自慢、蔵書自慢、修行自慢、悟り自慢、それに春間さんは人脈自慢が酷かったですが。
自慢というのは、他者に向けて認めてほしい一心の行為です。
春間さんの文章で先生は苦しくなった時期があるらしいですが
私は苦しくなることはなく、馬鹿馬鹿しいと感じているだけです。
誰も望んでいないのに、せっせと何やってるんだろう、この人は?
というのがずっと疑問でした。
やっとわかりました。
春間さんは、誰かが投稿するたびに、その投稿の言葉を解体し、見解を解体しようとしていたんですね。
そして、自分の言葉も解体したもんだから、誰にもわからない日本語になってしまったというわけです。
何かスッキリと納得できました。
春間さんの中では、龍樹を実践していたのですね(笑)
ショーシャンクさま おはようございます。
ここにも、コメントしてみます。
>春間さんの中では、龍樹を実践していたのですね(笑)
それはないと思います。それ「だけ」はない、といった方がいいかな(笑)。
唯識に強いんだなとは思いますが。
わたしは、ショーシャンクさまの内面を見るため、春間さまは試しているような気がしてなりません。
そして、時々、本音を漏らすのです。
掴まれたかな、と思うと、アレコレはぐらかすということもするので、だいたい、真面目な人はわけがわからなくなります。
仏教の法にとって大事なことは、「他のためになることがどんなに多くあろうとも、自己のためということを忘れてはいけない。自己のためということをよく知って、善きこと(サット)のために邁進しなさい。」(『ダンマパダ』166)
この法は、思いの外大切ではなかろうかと思ったりもします。
*
> 自己のためということを忘れてはいけない。自己のためということをよく知って、善きこと(サット)のために邁進しなさい。
自を支えているのは 「 他 」 です
言い換えると 自 とは
自を反映する 「 他 」に ホカ(他)なりません
だから 言い換えれば 自 というものはなく 他を見れば
自己は反映されている → 自己とは 他である
このような 認識上の事に対して
「 自他不二 」 という言葉が あてられています
他の為になることで、 自の為にならないことは ありません
言い換えると
自己の為になる( と思う )こと で 他の利と 反すること
は 自己の為(利) に なるという
幻想( 迷誤・ 「 顛倒 」 ) に 過ぎません
利 という 言葉は 「 空 」 です
自他に共通する 意味( 利 と 「 理 」 ) を 持つ場合のみ
「 空 」 ではなく あるべき姿 を 表わす言葉となります
わたしの どこに 他に反する 自己的利の追及 あるのか
( あなたが どこにそれを感じるのか ) お知らせください
それは 必ず “ 他の利 ” となります
( わたしは それを 他の利 と すること が できます )
もし できない と 考えるのであれば
出来るように 導いてください
わたしに デキマス カ ?
・
*
認識 判断
認識するために 積み重ねてきた “読解” による 判断
最初から 判段に誤りがなければ 積み重ねたモノ を
「 薫習 」 とは 呼ぶことはない
「 知識 」 とは 教え込まれた こと ( それも 獲得 ではあるが )
「 薫習 」 という 積み重ねにしか過ぎない
この判断 には 誤りはない と “ 聖者 は 考えない ”
聖者 には 誤りはない
故に( 誤り が ) ある・ない が ない
無い袖 は 振られることはない
ライト という 皆が正しいこと ( 右手づかい ) はない
闇が そこになければ ライト は 照らす ところを 知らない
話しは 飛躍するけれど そこに 強い・弱い は ない
誤り という 確実なこと ( 正しい という 確かなこと )
それは 「 世間 」 に 起きることであり
「 世間 」 に 囚われる者に 与えられし 正しきこと
誤っている ということは 正しいこと
正しいこと を 誤っている と 言い表す
( 何の為に そのように 正?・ 否 を 言うのか ?? )
誤っている から 正しいこと が 成り立つのです
誤っている と 言っているのではなく ( そのように聞こえるのみ )
正しいことを そこに告げていても 誤っている者には
誤っている という “ ことば ” が 聞こえるのみ
自分の聞くこと が ( 耳に響くこと だけが )
語られている ( 聞いている ) 言葉です
聞かなければ ( 聞こえなければ )
言われている とは “ 思い知らず”
まさに 『中論頌』 で 述べられていること とは
聞くこと 少なき者 に対する 「 中道 」 のこと
> *******
そして、時々、本音を漏らすのです。
掴まれたかな、と思うと、アレコレはぐらかすということもするので、
だいたい、 真面目な人はわけがわからなくなります。
( おおよそ、 不真面目な人 なら 分かるときもあるかな ? )
> *******
いつも 本音 です ( 本当・嘘 は 聞く人の判断によります )
はぐらかすようなことなど 一度たりとしたことはありません
真面目・不真面目 という “ 魔事 ”
「 止観 」 において それが 取り上げられて 厳しく 追求されている
( 「厳しさ」 とは 不真面目なモノ が 疎かにして 親しむ “優しい言葉” )
あなたに 戦う言葉 を 教える
戦い が あるところに 「 ジナ 」 が 起きる
マタイ 10:34-42 JA1955
「 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 」
わたしは あなた方に 平和をもたらすのではなく 戦いを 教える
家にあって 天国 を 望むことは 難しい
ゆえに
聖者 を
沙門( シュラマナ・ヴィリヤなる 出家者 とも 呼ぶ
・
> 「 止観 」
『 摩訶止観 』 のことです
「 恵 止観 妙門 頂戴供養 不知攸厝 」
棄 礼 伏 惟 !
*
> ただ、まだまだと思ってなく、すでに悟った気になっている人が多くいることが不思議です。
悟る ・ 悟っていない とは 大仰 な 言葉
知っている・知ってはいない という 両方( 両極 )を
知っている と 顛倒する
尤も あなたの知ってること を 知らないうちは
知っていること に 胡坐をかく
このこと は 引用先の人 にだけ 当てはまるのであろうか ?
これを読む人 すべて に 当てはまる
読みつつ 記述する
記述して もう一度 身に振り返る
“ 我が道 ” という 他に縁って 成り立つ 「 道 」
・
ショーシャンクさま
>なくなっては困る自身のアイデンティティとは何ですか?
誤解されそうだと思いながらかきましたら、「やっぱり」という感じです。
「なくなって困る自身のアイデンティティ」とは、書いていないのですが。
なくすためにアイデンティティを仮にもたねばならないのではないか、と書いたつもりなのです。
また次のことばに、わたしはショーシャンクさまのアイデンティティをみてしまいます。
>本当に自己と向き合い、自分の心を洞察したら、アイデンティティというものは幻想に過ぎないことがわかるはずです。
幻想にすぎないといわれる、そのアイデンティティに縁って、ショーシャンクさまは社会生活を営んでおられます。社会の中で、一定の地位(?)や立場(?)を得て暮らしておいでです。
地獄の掲示板に居た4人組は、幻想に絡めとられているとすれば、石飛というわたしもまた幻想にすぎないでしょう。書き込むショーシャンクさまも、また、幻想かもしれない。
幻想に過ぎないものに寄りかかって生きているように見えるショーシャンクさま。
わたしを龍樹を基盤にしていると決めつけています。
わたしは、ブッダに縁っている、と述べていますのに。それも幻想でしょうか。
自分と違う意見によるものは幻想にすぎないのかな。
石飛先生。
アイデンティティが幻想に過ぎないのは、仏陀の理法を学んだことと自らの心を凝視したところから理解してます。
ただ、長年の薫習がありますので、頑強に残っています。
自己同一化が全くなくなれば解脱でしょう。
そこを目指しますが、まだまだです。
ただ、まだまだと思ってなく、すでに悟った気になっている人が多くいることが不思議です。
それは、全く自分を見たことがないということでしょう。
自己同一化の頑強さがわからない人は悟りすましますね。
アイデンティティは社会生活に必要だとすでに私は書いていますよ。
そこも見えてなくて、簡単に、無我だなんだと言う人が多いのですが、そこは全く問題とされないのですね。
私は悟ってないですし、幻想にまみれていますよ。
一度も悟ってるとか言ったこともありません。
ショーシャンクさま(笑) 大丈夫。
>一度も悟ってるとか言ったこともありません。
言わなくても分かりますから。
>幻想にまみれていますよ。
そこも、ある程度、分かります。
菩薩の場合、涅槃の証を取るかどうかに分かれてきますが、これも察知されるでしょう。
多くの人は、凡夫のままですが、悟りを開いた人を見出して尊敬します。
誰も何も言わなくてもわかるのです、この人(?)は菩薩の道を行くと。
それを仏性と呼んだのだと思います。
また、声聞乗を行く人は敬われます。サンガに属する人々は尊いからです。中には、「どうなの?」という人もいますが、その人も含めて敬われます。
ネット上で悟りを開いたと公言する人については、かまわずにおきたいです。
仏法としてもつべき理法は、諸法無我と諸行無常だろうと思っています。
「無我」「無常」は、もつのが容易ではありません。肯定と否定のうち、否定に属するからです。これを観念としてではなく持つのは、非常に厳しいのです。
絶えず「○○はわたしではない」「わたしのものではない」「わたしの本質ではない」とせねばならないけど、それは難しいことです。
精進していきたいと思っています。
瓦礫 を 投げつける人 にも、 分かりますか ?
あなたは 例外でしょうけれど 、、、、
*
> 私は苦しくなることはなく、馬鹿馬鹿しいと感じているだけ
向き合っているき合っている 自分 に対して
馬鹿馬鹿しいと感じている だけです
> 先生は苦しくなった時期があるらしいです
自分と 向きあい
「 苦 」 を 見る
( 「 苦 」 を 見る ゆえに 「 苦 」 を 知る )
苦と知る → 苦しい と知る ( しかし 苦を苦しむこと なし )
見る(知る)ことのできる 立場 に 立てている
「 楽 」 を 知る
知るゆえ に
その 「 楽 」 を 「 他 」に ふりかえる
「 苦 」を 振り返る ( そこに起きている「 縁起 」 )
↓
「 縁起 」を 見るとき 過去未来 は 今に集結する
「 苦 」を 見すえる 「 苦 」ではない 立ち位置
↓
「 楽 」 と知る 立ち位置
「 苦 」 であっても 「 楽 」 であっても
起きているということについては 「 平等 」
しかし 揀択 せず に 「 楽 」 に 立つ
( 唯 嫌 揀択 ) ( 至道 無難 )
「 至道 無難 唯 嫌 揀択 」
・
春間さん。
もういいですよ。
わかりましたから。
春間さんが、この先千年同じことを続けても、効果ないと思いますよ。
春間さんがやっているのは、龍樹をかじって、
『言葉を解体する、見解を解体する』という『見解』を引っ提げて
他者の言葉尻を壊していっているだけ。
言葉も見解も道具ですよ。
筏です。
道具は壊すものではなく、うまく使うものです。
……………………
諸法道具説??
言葉も見解も道具ですよ。
筏です。
なるほど、言葉も見解も道具――全ての事物は私の道具――諸法道具説ですか。
世界は私の道具として有る――利便性が高くていいですね。
しかし仏陀は、『ダンマパダ』278で、「一切の事物は我ならざるものである」と
諸法非我(無我)を説いた。396では「無一物」を説く。
言葉を換えれば「すべてのものは我がものに非ず」――道具は我がものではない。
仏陀の諸法非我説と激しく対立しますが、「諸法道具説」が「仏陀の真意」という
見解なのでしょうか?
それそれとして、錆びついて使い物にならない道具は、解体して新たに作り作り直
すという新たな見解もあります。
日々選択しながら生きていますが、正しき見解(正見)を選択したいですね。
*
> 道具は壊すものではなく、うまく使うものです。
うまく使えている と “思い込む”
あなたの使いかた のよう に “わたし” は 川を下りません
( “わたし” は 思い込むという 筏 を 捨てている )
あなた には “わたし” を みる
機縁 が 訪れてはいない
「 わたしを見る者 は 法を見る 」
( “わたし” という 存在 は 誰の心にも 住んでいる )
見えるモノ ( すべて を ) 「 色 」 と 名付ける
「 色 」 に 囚われ 「 識 」 に 迷う
あなたは 自意識過剰 です
“わたし” が 書き込む のは
“ あなたの為 だけではない ” のです
( あなたも 同じではあるけれど
あなたはそれを
正しく 「 識 」 に 上げることが出来てはいない )
迷っている者 は 迷っていること を 知ろうとしない
迷いを 知るとき 迷いを晴らす道にある 者 として
迷うことなき道を歩む
この続き具合 を 迷わずに
読むことが出来れば ( 聞く 縁覚 が あるのであれば )
迷うことなき道にある
( 色々な聞き方を試し見て 人津 である ことを知る )
*******
> 言葉も見解も道具ですよ。
> 筏です。
筏 を 背負って 道を歩む
のは
捨てることが出来ない あなたではないですか ?
> 筏を捨てるのは、向こう岸に渡ったときです。
> 激流をわたっている間は、筏は手放してはいけないのです。
激流 の 中で 言葉にカマかける あなた ( 吾 かま まま )
( 向こう岸についたと思っているのですか ? )
> 言葉も見解も道具です
道具に しっかりと つかまっている あなた
( 道具に 絡めとられている あなた )
手放なさければ
どこにあろうと ( 「 生 」 に ある限り )
筏( 舟 ) は 肩に食い込む
*******
「 人 舟にのりてゆくに
めをめぐらして岸をみれば きしのうつるとあやまる 」
・
春間さん。
私が前にあなたを『自意識過剰』と書いたのがよほどこたえたようですね。
私にその言葉を頻繁に使うようになりました。
わかりやすすぎ。
私にレスしないでほしい、春間さんのレスは全く要らないので、と何度も言ってきましたが
その都度、あなたは『あなたに対してレスしているのではなく、見ている人にレスしてる』と言っていましたね。
それが自意識過剰というのです。
私は誰かにレスするとき、その人に対してのみを考えています。
その人にレスしていながら、他の人が見ることを考えるのは、その人に失礼だと思っています。
それに誰も読んでないですから心配しないでいいですよ。
》》あなたにはわたしを見る機縁が訪れていない
はいはい。
もう、いい加減、師匠ごっこ、導師ごっこ、は止めませんか?
導師ごっこしたいなら、他の人としてくださいな。
*
> 私が前にあなたを『自意識過剰』と書いたのがよほどこたえたようですね。
そのように考える あなた に
自意識過剰 が あると 分かりませんか ?
わたしには なんにも こたえるようなことはない
( あなたは 過剰に こたえて 欲しがる )
“ ごっこ ” に したい のは あなたであって
“ ごっこ ” としてしか 理解 出来ない のが あなた
そのように しか 受取れない のは 止むを得ない
( あなたの 認識力 に 起因することであるから )
あなたは わたしの書き込みを 読んでいる
読んでいるけれど 理解できない
( といういことで 読んではいない )
わたしの書き込み が 誰を対象としているか
ということは
あなたが 決めることではないけれど
あなたが 決めることができる
( ただし その決めようは あなたの握りしめること )
どのように書き記す かは あなたの勝手
その勝手 は 通すけれど あなたは勝手を通さない
あなた が 評価されたいのは 分かります
しかし 望む評価 と 承ける評価 とは 階梯が違う
* 問題は あなたに 読解力 が 不足している ということ
・
やはり自意識過剰ですね。
私は、ここの誰に評価されたいと思ったことは一度もありません。
仏教や宗教でマウント取ったり、仏教の知識をひけらかしたり
仏教や宗教で承認欲求を満たそうと思ったことなどないですね。
現実生活で、私が仏教に興味を持っていることを知っている人はごく少数です。
普段、仏教の話題などすることはないですね。
周辺に仏教に興味ある人もいないですし。
現世の契約関係などにかかりっきりです。
ただ、マニカナは優良な仏教サイトだと思ったので
発展繁栄してほしいとは思っていました。
初めて閲覧した時は、春間さんの投稿が7割以上埋め尽くしていました。
他の人の投稿がほとんどなく閑散状態でした。
一人の人が寡占している状態は異常だと思って、
盛り上げるために投稿を始めたのです。
そして、いろいろな話題で盛り上がることはできたと思います。
私が投稿するといろいろな人がレスをつけてくれますから。
私はここで評価されたいとか石飛先生や他の人に評価されたいとか
仏教や宗教で自己重要感を上げたいとか思ったことはないですね。
現実の経営的な様々な難題をどう交渉して攻略するか、そちらの方が面白くて夢中です。
将棋やチェスのように面白い。
この書面を送ると相手はどう出てくるか、とか。
現実の難題を解決したときの達成感が自己重要感の源になっているかもしれませんが、仏教や宗教で承認欲求を満たそうなんて思わないですし、おぞましいだけです。
*
> **********
現実の経営的な様々な難題をどう交渉して攻略するか、そちらの方が面白くて夢中です。
将棋やチェスのように面白い。
この書面を送ると相手はどう出てくるか、とか。
現実の難題を解決したときの達成感が自己重要感の源になっているかもしれませんが、仏教や宗教で承認欲求を満たそうなんて思わないですし、おぞましいだけです。
> **********
> そちらの方が面白くて夢中です。
こちらの方 は あまり夢中ではない
( 多寡の問題ではない という 問題 は )
たかが “ 多少 ” の 興味
の 問題 というところの 問題
園問題 は 一人の “ 人の生きざまに関する ” 問題
将棋やチェスのようには おもしろくはないだろうけれど
腹を立てて 相手を “罵る・欠点をさす” という 問題を含む
一人の人 に 当てはまる “事実” は
すべての人 に 当てはまる “事実” ではなければ
それは 事実 ではなく 虚実 なのです
もし、 わたしに当てはまる 事実 が 真実であれば
その真実 は あなたに始まり すべての人に 当てはまる
そのように 「 世間 」 で 起きることを
見抜いて
自から他に 伝えることの重要さを知る のが 「 佛陀 」 です
( 諸仏 ~の 諸菩薩 です )
わたしが 自意識過剰 で
> 宗教でマウント取ったり、仏教の知識をひけらかしたり
> 仏教や宗教で承認欲求を満たそうと 思
と 思っている と 指摘される “ 人間 ” である なら
その指摘 は
わたし以外 の 他に承認されなくとも 事実 と なりますか ?
そこに あなたの指摘に対する
“承認欲求” は ありませんか ?
“ 承認欲求を満たそうと思ったこと ” に 対して
否定的 な 「 他 」 が わたし以外に 起きるとき
あなたは その否定を 受け入れることはできますか ?
( 受け入れて 自己 の 立ち位置・足下 を
見直す気 は ありますか ? )
( 少なくとも 管理人エム 様 の指摘に対して どうですか ? )
今までの 自分の投稿 を
「 ヨクハナク イツモ シズカニ “ ホホエミナガラ ” 」
読んで見てください
( 「 法華経 」 が 身に沁みてきます 、、、、 )
自分 とは 「 他 」 に 支えられて 初めて 起きます
( 自他とはニ ではなく )
他を支えて はじめて 一”個” が 起きます
このようなこと を よく 読み よく知り 良く行なえば
道を歩むことができる
その歩みに 今 ついている( ? )
と 知ってください
・
春間さん。
他者にばかり目を向けないで、自分の心を見たらどうですか。
なぜ、これまであれほど自慢してきたのか?
その衝動は自分の心のどこから生まれているのか?
四六時中、他者のレスに反応をする繰り返しを何故してしまうのか?
*
“ 専念 ” 続ける “ 一念 ” の 三千世界
> 菩薩の場合、涅槃の証を取るかどうかに分かれてきますが、これも察知されるでしょう。
「 菩薩 」 は ワカレマセン
涅槃の証 を 取る・得る のは 誰か ?
「 経 」 に “明らかに” 示されています
「 汝 當 作佛 」
(多くの人=少なくない人) “ 衆 = 愚 ” は
そこに(手に)保つ “ 知 ・ 愚 ” で 量ります( 商量する )
> 多くの人は、凡夫のままですが、悟りを開いた人を見出して尊敬します。
そのまま で その 「 認識 」 で “ 悟りを開いた人 ” を
“ 量ります ”
その 認識の積み上げ で 量って + “しります”
見出して 見出した裁量の上 で 尊敬します
その尊敬する人 の 下に 尊敬しない人 が 起きます
賢治 は 何故 尊敬されないことを
目指したのでしょうか ?
> 誰も何も言わなくてもわかるのです、この人(?)は菩薩の道を行くと。
尊敬されず 杖木 で 打ち 瓦石 で (投げつけ)擲
「 衆人 或 以 杖木瓦石 而 打擲 之 」
何も言わずにではなく
「 瞋恚心不淨者 惡口罵詈言 」
瞋恚 心不淨 を もって(手にして)
惡口罵詈 と 言う ( 口にする )
「 汝當作佛 」
「 仏性 」 とは ( 「 慧 」 をえて )
“ 見出す人に具わる ” 言 「 行 」 です
“ 見 仏 ” の 人 は 「 信 」 を 見出す人
そこに 山川草木 が あって、 そこに 「 仏性 」 を 知ると
“ 悉有 仏性 ” と 知ることとなります
「 僧伽 」 に属する
( 「 僧伽 」 という語 が 「 誤 」 ならぬ“時” の 住人 )
( 住む「 処 」 ・ 住処 は 諸仏国 であり
諸仏 に 連なる 衆 を 見る )
仏法僧 が 法にある仏 であり そこに起きる 「 僧伽 」
だれが どこに住んでいるか を “ 知 ” で 知る
( 「 信 」 で 知る ) ( 死んで知る サンガ )
そのような ありさま を 「 法 」 と しる( 明かす )
ネット上 で あたかも悟り のごとく 口走る “ 愚 ”
わたし は 愚かなる者になりたい 、、、、
( 愚かなる 心を シズメテ )
わたしの本質 を あなたは 正しき心で
分け隔てる
・
> ネット上 で あたかも悟り のごとく 口走る “ 愚 ”
> わたし は 愚かなる者になりたい 、、、、
> ( 愚かなる 心を シズメテ )
そんなことはどうでもよいように見えます。
他人からどう見えるかは他人にお任せすればよいような。。
ただ自分がどうありたいかが問題です。
アリッタ比丘はありたい思いをそのままストレートに出してしまった。
彼は愚かなのか愚かでないのか、蛇の喩えはお釈迦様により告げられた。
アリッタ比丘は嘘がつけなかったんだなと思う。さすが比丘だな、と。。
アリッタ比丘 は ブッダと共にあるサンガ の 比丘
( わたしは そのサンガ の 比丘 ですか ? )
そうであり、 そうではない と あなたが決める
そうであるのであれば、わたしは 嘘をつけないし、つかない
嘘をつけなかった比丘 が 下に置かれ、
上に乗っている ( そこにはいない ) 比丘
( ビクシュではない種の・取の 存在 )
「 見取 」 は どこに あるのでしょうか ?
位置(存在の場所)の 上下 には 「 心 」 は 位置しない
「 心 」 の 上に 見出される “ 上下 ”
( 化城 の 城壁 に 取り付く )
「 隨命 躋攀 彼嶺 限以少 願 不能 東西 」
( 東西 南北 という 上下 に
少 「 願 」 によりて 躋攀 能わず )
( 多い少ない に ある 心の動きにて不能 )
このようにある “自分” に 問題はある 、、、、
あれば 、 ありたい ありたくない という 思いがある
思い は “あふぎをつかふ ” 風の上に乗る
( 無處不周底 )
慮知にしられんずるとならふことなかれ
密有かならずしも現成にあらず 見成これ何必なり
・
*
> ただ自分がどうありたいかが問題です。
>> ネット上 で あたかも悟り のごとく 口走る “ 愚 ”
“ 愚 ” が「 他 」にある と いう 起こす・起きている 自愚
その愚を見つめている ( 愚 とする 世間の愚 )
( 見つめる自己 が あるうちは 自他がある )
( 自他のない “ 事・コト ” を 自の判断の基準とする )
どうなるかではなく、 こうである(行為)
こうありたい という意味
どうありたいか は こうである(行為) 以外にない と知る
ありたい という “ 欲 ” で 判断しない
こうある ということの 道の続き に こうありたかった がある
どうありたいか ということ は “ 考えない ”
( 最澄の「願文」 は 「 願 」 ではない )
わたしの願( こうありたい ? ) が 「 願 」 であるのなら
それは わたしの “ねがうこと” ではなく
法蔵 の とわ の 「 願 」 です
>> わたし は 愚かなる者になりたい 、、、、
( 愚かなる 心を シズメテ )
これは 賢治の願 であり 法蔵の 「 願 」
( 賢治 は 「 なりたい 対象 」 を 設定している )
わたしの心が 鎮まるとき 世界 は 鎮まっている
世界が鎮まるまで
鎮まることのない( ように 見えてしまう )“ 鎮まる世界・仏国 ”
仏国 が “ ある ” のであれば
生死 を 越えている 「 人の生 」 → 「 他 」 の 生
自分が どう生きているか ということを映す 世間の生
ただ 見る ( 唯嫌 ではなく 唯見 ・ 有見 ではなく 止観 )
そこに起きる 行為 を 観つつ 見る( 「 行 」 を 観る )
批判の心 は ないかもしれない けれど 判ずるこころ を みる
どうありたいか ではなく どうあるか
↓
( ないモノ を 判ずることは無益
ある という こと とは 「 道 」 のこと )
抽象 に対して 受ける 杖木瓦礫 打擲
チュウショウ と 執るわけではないけれど 、、、、
“ 記述 という 抽象 ” にたいして 批判的なる 記述
・
*
> 見つめる自己 が あるうちは 自他がある
> 自他のない “ 事・コト ” を 自の判断の基準とする
> ありたい という “ 欲 ” で 判断しない
> こうある ということ の ↓
> 道の続き に こうありたかった がある
> どうありたいか ということ は “ 考えない ”
( 最澄の「願文」 は 「 願 」 ではない )
http://yuyusangai.com/sougya/ganmon.html
> 仏国 が “ ある ” のであれば
> 生死 を 越えている
> 「 人の生 」 → 「 他 」 の 生
・
筏の喩えについて、一言したい。
ショーシャンクさまは、あきれてしまったかもしれませんが、筏の喩えは、法なのです。
「比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。
あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。」
「渡るために説かれた法」というところにご注目ください。
>激流をわたっている間は、筏は手放してはいけないのです。
ところで、ショーシャンクさまは、激流を渡っているのですか?
アイデンティティは幻想にすぎないと知っているのに、まだ渡っていないとおっしゃるのですか。
それに、渡るその人は自分で筏を作るのですよ。木や草や枝や葉を集めて筏を作るのです。
石飛先生。
自分で筏を作るのではありません。
仏陀は自分で筏を作ったでしょう。
私たちは、仏陀の理法が残されているのですから、
仏陀の理法を筏とするのです。
アイデンティティは幻想に過ぎないですが、長年の薫習によって
とんでもなく頑強ですよ。
ネットで悟ったふりしている者はすべてニセモノです。
私はそう思っています。
私は悟ってないと何度も言ってきました。
*
> 私は悟ってないと何度も言ってきました。
悟っていない者 が
悟りについて 悟っている・悟っていない と いう
どのように 悟りについて 言おうと
ありもしないこと( 知らないこと ) に ついて
ある ない を 言うことはできるが
それによって 存在が起きる(「 有 」)
ということには ならない
・
・
はいはい。
春間さんは自分で悟ってると思っているのですから
それでいいではないですか。
自分は悟ってると静かに思っていればいいだけです。
ネットでアピールする必要はないでしょう。
ショーシャンクさま こんばんは。
>自分で筏を作るのではありません。
筏の喩えでは、草木を集め自分で作ることになっていますが。
わたしの読みでは、中部22経「蛇喩経」の中で、アリッタという比丘がブッダの教えを誤って解釈しても妨げにはならない、と自分で受け取ったと述べて、ブッダに戒められています。
もし、ブッダの教えを受け取るなら、正確に言われたとおりにやらねば逆に妨げになるのではないかと思います。
そうではなく、もし、自分で筏を作るなら、渡った後に筏を捨てねばならないでしょう。
いずれにしても、使わないのに持っていては妨げになるのは間違いありません。
ちなみに、ブッダは、何も持たず、筏抜きで渡ったのです。
https://manikana.net/canon/devata.html
エム先生、ショーシャンクさま、みなさま、おはようございます(^O^)
>中部22経「蛇喩経」<
エム先生の『心にしみる原始仏典』には載ってなかったので(いつもすご-くお世話になっています。m(_ _)m)、『SuttaCentral』というサイトに載っている、「関西パーリ語実習会」様の日本語訳を見てみました。
『22. 蛇の喩えの経』
https://suttacentral.net/mn22/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false
すごーい‼️
パラーっとしか流し読みできてないのですが、実践的に役立ちそうな気がしたので、今日仕事なので(><)帰ってからゆっくり読みたいなと思いました。
それではお仕事行ってきまーす
_(┐「ε:)_
pipitさま おはようございます。
お仕事がんばってくださいませ。
わたしも「蛇喩経」を見ようとして、自分のサイトにないのに気づきました。
ちゃんと訳してなかったんだあ、って、思って、今きちんと訳をつけているところです。
盛りだくさんの内容だと思っています。そのうち載せますね。
エム先生さま(なぜか先生のコメント欄に返信ボタンがなかったので、ここにコメントします。)
>ちゃんと訳してなかったんだあ、って、思って、今きちんと訳をつけているところです。<
せんせい〜、くれぐれも無理しないでください
😭
ご自愛もどうかお願いします〜
😭
石飛先生、おはようございます。
正確に『蛇喩経』を理解するためには、アリッタがどのような悪しき見解を持ってどのように他者に接したのかが重要になると思います。
『蛇喩経』の教えを説かれた背景ですね。
アリッタは、女性に触れる在家でも悟っているのだから女性に触れることは悟りへの妨げにはならないという主張をします。
後世の日本仏教の主張とそっくりですね。
また、経典を学ぶにしても、
1、そこに示されている法の意味を慧によって考察する者
2、他者の説を非難するために法を学ぶ者
この2つの者がいると説きます。
他者に絡み非難しマウントを取るために経典を学ぶ者を蛇の腹や尾を掴む者と言っています。
慧によって経典の意味を考察する者は蛇の頭を掴む者です。
仏教は、向こう岸に着くことを目的としています。
そのための筏です。
先生は、向こう岸に着くことが目的ではなく
まるで筏を捨てることが目的になっているように見えます。
筏や法を言葉や見解と捉えて、
その言葉や見解を捨て去ることが目標のように見えるのです。
強力に龍樹を投影して仏陀を解釈しているように見えるのです。
私は後世の考えを持って仏陀を解釈することはしないと決めて
自分の中の仏教知識を白紙にしたのです。
> 仏教は、向こう岸に着くことを目的としています。
> そのための筏です。
> 先生は、向こう岸に着くことが目的ではなく
> まるで筏を捨てることが目的になっているように見えます。
ブッダの法を誤って解釈しても障害にはならないと理解したアリッタは比丘です。一方、筏の喩えに出てくる人は、菩薩でしょう。自分で筏を組み立てるからです。
向こう岸に着くために捨てるのです。あなたのものではないものは捨てなさい、と教えられています。
アリッタには、妨げとなる法は妨げとなると教えます。そこで、五蘊の一々について無我と見ることが教えられます。捨てる教えが説かれるのです。あなたのものでないものは捨てなさい
一方、その辺の木切れや草で編んだ筏は向こう岸に着いたら捨ておかれます。
アリッタは、蛇の腹や尾を掴む者です。
他者に絡み非難するために法を学び、慧によって考察することがなく誤って法を解釈してます。
ただ、慧によって考察した正しい法であっても、筏ですから、向こう岸に着いたら捨てなさい、と仏陀は言っています。
ましてや、非法であればなおさらです。
しかし、向こう岸に着くまでは、激流を渡らなければいけないのですから、筏は必要なのです。
向こう岸に着くまでの激流のなかにいる者に対して、『筏を捨てろ』というのはその人を溺れさせることになります。
言葉や見解が悪いわけではありません。
道具であり、筏なのです。
エム先生、こんばんは。
(エム先生)
>向こう岸に着くために捨てるのです。あなたのものではないものは捨てなさい、と教えられています。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、大いなる水域を見るとします——危惧を有し恐怖を有する此岸を、平安にして恐怖なき彼岸を。しかしながら、彼に、渡し舟は存在しません——あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。彼に、このような〔思いが〕存します。『これは、まさに、大いなる水域である。危惧を有し恐怖を有する此岸であり、平安にして恐怖なき彼岸である。しかしながら、わたしに、渡し舟は存在しない——あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。それなら、さあ、わたしは、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡るのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ります。超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。それなら、さあ、わたしは、この筏を、あるいは、頭に載せて、あるいは、肩に掲げて、欲するところに立ち去るのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、このように為すなら、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。<
【まさに、その人は、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ります。超え渡り彼岸に至った、その人に、】
とあるので、筏を捨てる順番は、越え渡ってからのように、上記の日訳では読めると今のpipitは思いました。
空を飛べれば筏は要らないのかもしれませんね😊🚀
わー、最初をおかしく投稿してしまいましたm(_ _)m
⭐️(間違えて投稿したもの)
(エム先生)
>向こう岸に着くために捨てるのです。あなたのものではないものは捨てなさい、と教えられています。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、大いなる水域を見るとします
⭐️(今回訂正後の投稿)
(エム先生)
>向こう岸に着くために捨てるのです。あなたのものではないものは捨てなさい、と教えられています。<
※以下が、関西パーリ語実習会さまが日訳された経典の翻訳文です。
『世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、大いなる水域を見るとします・・・』
https://suttacentral.net/mn22/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false
m(_ _)m
要は、『蛇喩経』における『筏』が何を喩えたものか、ということです。
私は『筏』とは、仏陀が説かれた理法だと思っています。
自分で木切れや草で筏を組み立てるというのは、
自分なりに仏陀が説かれた理法を理解しようとすることです。
筏に依拠して、手や足で努め励む、というのは、
仏陀が説かれた理法を心に保持し、それを見失わないように精進するということです。
もちろん、その筏とて、五蘊非我ですから、
わたしでも、わたしのものでも、わたしの本体でもありません。
向こう岸に渡ったら捨てるべきものです。
ショーシャンクさま おはようございます。
>筏や法を言葉や見解と捉えて、
>その言葉や見解を捨て去ることが目標のように見えるのです。
>強力に龍樹を投影して仏陀を解釈しているように見えるのです。
ショーシャンクさまにはそう「見える」だろうなとは思っています。
肯定と否定の表現が、世の中にはあります。
苦とは、肯定だけ、あるいは否定だけがあって、両方ともにあることが認められていないとき、人は苦を感じるのです。
常楽我浄も、仏教が無我しか説かないと苦を招く、と見て説かれたのかもしれません。
こう書くとショーシャンクさまは誤解しそうだなとは思いますが、誤解されることを恐れては何も書けないので、恐れず書きましょう。
龍樹は、理としては「無我(自己ならざるもの)」が本当なのだ、あなたが道理に背いて「我はある」とするので、わたしは否定するのだ、としています。
ブッダと同じことをいっていると理解していますが、それが分かるでしょうか?
……………………………………………………………
『パーリ語経典』第一原因論――ゴールは過去にある
『パーリ語経典』の研究ご苦労様です。
インド思想においては、ゴールは既に『ヴェーダ聖典』が作れた過去にあり、
「聖典解釈」の歴史のように思われます。
因中有果説と申しましょうか、マニカナもその傾向を受けついており、
言語実在論者らしく、『パーリ語経典』が因であり果も含まれている。
いわば、『パーリ語経典』第一原因論、『パーリ語経典』流出論になって
いるように思われます。
それに比べ、西洋哲学は「ゴールは議論の先にある」と弁証法的に発展
してきたように思われます。個人的には「ゴールは今に在る」と自覚し
ていますが…。
『パーリ語経典』研究の目的が何であるかは知りませんが、真直ぐご精進
されれば社会に役立つものが生れるかも知れません。
真直ぐにご精進されんことをお祈りいたします。
自己の探求に勤しむ者より。
…………………………
エム先生の教えの筏を捨てて――遊行の旅へ
「筏のたとえ」を目にした、『中部経典』にあるという。
和尚さんに聞いてみよう。
…………………
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、
こだわりの心から開放されるために、”筏のたとえ”を説こう。
ある時、道行く旅人が大河に出会った。
こちらの岸は危険であり、向こうの岸は安全である。しかし、船も橋もない。
そこで、旅人は考えた。
「大きな河だ。でも、船も橋もない。
葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡るしかない。」
そこで、旅人は、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡った。
次に、旅人は考えた。
「この筏は大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。
この筏は捨てるには惜しい。担いで道を歩いて行こう。」
さあ、この人は、適切な行動を取ったと言えるであろうか?
弟子たちは「いいえ」と言った。
仏陀は続けた。
では、どうするのが適切か考えてみよう。
「この筏は大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。
だが、この先は不要である。この筏を岸辺に置いて道を歩いていこう。」
このような判断こそ、適切な判断である。
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、
こだわりの心から開放されるために、私は”筏のたとえ”を説いた。
どうか修行者たちよ、このたとえの意味をよく理解せよ。
正しい教えですら捨て去るべき時がある。
誤った教えであれば、なおさら捨て去らねばならない。
(パーリ語「中部経典」寛照意訳)
……………………
『般若心経』の無苦集滅道(仏教も無し)だ。
悟りの岸辺に付いたら、仏の教えも捨てて、独り止観生活に入るとこと
だと和尚は説く。
しかし、仏の教えによって渡り切ったらの話だ。
渡り切ったら「仏さま、教えの筏を有難うございました」と敬礼して捨て、
独り遊行の旅に出る。
いわば、頓悟漸修――悟りの後の、日々新たな修行生活だ。
それは、マニカナ学校の生徒さん、
エム先生の教えを捨てて、独り仏道を行くということだ。
学校を卒業して、社会に飛び立とうではないか。
教えから道へ――エム先生にも教師を手離して欲しいものだと思う。
遊行の旅をする童子の戯言であるが……。
筏が選択できずに、可哀想に、迷い狂っている方のいるが……。
あら、経典翻訳文をちゃんと読んだら、
【超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。】
という箇所がありました。
>わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、<
筏に乗ってるだけではだめなんだなぁ(^◇^;)
手で、足で、勤め励み、かぁ
(ーー;)….
pipitさま
>筏に乗ってるだけではだめなんだなぁ(^◇^;)
>手で、足で、勤め励み、かぁ
そうなんですよ。自分で作った筏だから、その辺のもので間に合わせてるから、自分の手足をもフル活用しなくちゃいけない。。
ってことは、「諸法は無我とは言えない」とも言えるのです。
菩薩に告げられた教えと声聞に告げられた教えを、どのようにドッキングさせるか、ここに智慧がいるのです。
考えていくと、「使う時だけ法に依ればいいや」というアリッタのような考えではうまくいかないことがわかってきます。
それに、菩薩の場合ですが、自分の手足を駆使して渡る時、実は諸法無我の実践になっているのだ、ということも分かります。
使っていないとき、法は捨てているのです。
使う時だけ、その法の実践になるのですが、五蘊は<わたしではない><わたしのものではない><わたしの本質ではない>と知っているだけではダメで、実践しなくちゃ、何の意味もないのです。執っておくための法でははないからです。
>使っていないとき、法は捨てているのです。
紛らわしかった。。混乱しそうですよね。
言い換えます。
法を実践するとは、喩えとしては、普段から「欲望は骨の鎖のようだ」「欲望は屠殺場のようだ」「欲望は火坑のようだ」として実践していなければ、いざ、「今、五蘊非我を使え」っていう筏を操るときに、力を発揮できない、ということだと思います。
声聞にも菩薩にも、等しく教えは説かれているのだけれど、その説き方にブッダの工夫があるのです。
法を実践するのは、難しいのだと思います。
*
> >筏に乗ってるだけではだめなんだなぁ(^◇^;)
のっている “だけ” では ヒーナ
( ヒーナ にも 「 瞑想 」 は あるけれど 、、、、
やはり 乗っているだけ )
乗せる為(?) には “ 活動 ”
命のほとばしり が 必要
手足 を 動かす モノ は “意思”ではなく「 願 」
「 願 」 を 持つ のは 「 菩薩 」
そのようなことは (小としての)アーガマ からは 見出し難し
( ある意味 そこに トッカ した のが
「 大乗 」 ・ 「 法華 」 です )
「 菩薩 」 ・ 菩提薩埵 ・ bodhisattova の意味 は
般若波羅蜜多・波羅蜜 の なかに ある
般若 であり 「 到彼岸 」 と 重ねられる こと
>手で、足で、勤め励み、かぁ
「 手 」 を 探り 「 足 」 で 歩み
( 「 托鉢 」 を 知り
自己への 生産性を 捨てる )
勤み励む ・ 「 精進 」 「 ヴィリヤ 」
( viriya とは 「 瞑想 」を含む「 行 」です )
「 瞑想 」 を 手にして 「 道 」 を 歩む
それが “ 「 到 」 彼岸 ”
( 渡る 為なる 悲 「願」 ・ 彼岸 )
( ヒガン が どこにあるかを知る
→ 「 波羅蜜 」 )
このようにして 歩み を 見出す 、、、、
( 見出している アナタ の “言 ” )
「 顕 現 ] であるところの
「 瞑想 」 から けっして “出でる” こと なき ガン
眼に 微笑みをもって 「 瞑想 」 する 、、、、
・
*
逃避 ガン
「 到彼岸 」 ・ 問う 悲願
・
*
このような 講演 を する人 でも
https://news.yahoo.co.jp/articles/4a7ed409bfe0b3c1beca298bb48fe24087fbf4fc?page=1
「 華は 愛惜に散り 草 は キケン に おふる 」
「 治水 」 という 自己制御
→ ( 洪水の意味 )
・
春間さん、おはようございます。
> >筏に乗ってるだけではだめなんだなぁ(^◇^;)
> のっている “だけ” では ヒーナ <
のっているだけでOKなのが浄土真宗なのでは?
*
>> > のっている “だけ” では ヒーナ <
> のっているだけでOKなのが浄土真宗なのでは?
何かを 手に持って( 「 信 」 を もって )
「 信 」 が 理解できなければ ( 心に 浮かばなければ )
「 真 」 である 激流を渡る筏 を 掴んで( シカリとつかまって )
そういう意味で “ のっているだけ ” であるのなら
辛抱 して( 言おうと )も “ 信 望 ” にあると言えます
浄土真宗 は 寺に通うだけ で OK ですか ?
( 親鸞 の サンガ は 「 信 」 中 に 起きて いる )
浄土 心中 の 「 信 」 の 手持ち かた 、、、、
仏法の大事 なる 因縁の法幢を 共に打ち建て
望 憚ることなく( 不 憚 ) 煩勞蹔 ( わずらわず )
あなたの抱く(手にしている・住している) 高き山 より
この ( 低き地 ) に 降り赴して ください(所望)
この “ 境地 ・ 此のところ ” “ 望む所 ” です
< 『 風信帖 』 第一帖 >
“ 信 望 ” にある 所 に 法幢 を 建てて 目安とする
ま 、 傍目 には 心は見えず 自分は 乗っているだけ
( そのように 見える ヒーナ )
・
向こう側につくためには捨てるのです、と先生が書かれてるのは、筏を捨てるって話ではなくて、
五蘊を自分だと思う考えを捨てて彼岸に行くということと私は読みました。
ブッダは筏なしで渡れたとは書かれてますね。
菩薩は自分で作った筏で渡ると。
ブッダ以外について渡るに筏不要とは先生も思ってらっしゃらないと私は理解してますがどうなんだろう?
これ、スルーいただいて大丈夫ですよ~。
赤い実さま おはようございます。
>五蘊を自分だと思う考えを捨てて彼岸に行くということと私は読みました。
あ、そうです、そうです。
>ブッダ以外について渡るに筏不要とは先生も思ってらっしゃらないと私は理解してますがどうなんだろう?
わたしも、ブッダの真似ができるかなと考えてみましたが、濁流の中でもみくちゃになって意識をはっきりさせようというのは無理です。。考えなくても分かるけど(笑)
だから、普段から気をつけて「自分のものでないものは捨てよう」としていないといけないんだなあと思っています。
いざというとき、力がでないですものね。
石飛先生、おはようございます。
>ブッダの法を誤って解釈しても障害にはならないと理解したアリッタは比丘です。
>一方、筏の喩えに出てくる人は、菩薩でしょう。自分で筏を組み立てるからです。
>向こう岸に着くために捨てるのです。
あなたのものではないものは捨てなさい、と教えられています。
>アリッタには、妨げとなる法は妨げとなると教えます。
>そこで、五蘊の一々について無我と見ることが教えられます。
>捨てる教えが説かれるのです。あなたのものでないものは捨てなさい
>一方、その辺の木切れや草で編んだ筏は向こう岸に着いたら捨ておかれます。
>肯定と否定の表現が、世の中にはあります。
>苦とは、肯定だけ、あるいは否定だけがあって、
両方ともにあることが認められていないとき、人は苦を感じるのです。
>常楽我浄も、仏教が無我しか説かないと苦を招く、と見て説かれたのかもしれません。
>そうなんですよ。自分で作った筏だから、その辺のもので間に合わせてるから、
自分の手足をもフル活用しなくちゃいけない。。
>ってことは、「諸法は無我とは言えない」とも言えるのです。
>菩薩に告げられた教えと声聞に告げられた教えを、どのようにドッキングさせるか、
ここに智慧がいるのです。
>考えていくと、「使う時だけ法に依ればいいや」というアリッタのような考えでは
うまくいかないことがわかってきます。
>それに、菩薩の場合ですが、自分の手足を駆使して渡る時、
実は諸法無我の実践になっているのだ、ということも分かります。
>法を実践するとは、喩えとしては、
普段から「欲望は骨の鎖のようだ」「欲望は屠殺場のようだ」
「欲望は火坑のようだ」として実践していなければ、
いざ、「今、五蘊非我を使え」っていう筏を操るときに、
力を発揮できない、ということだと思います。
>声聞にも菩薩にも、等しく教えは説かれているのだけれど、
その説き方にブッダの工夫があるのです。
>使っていないとき、法は捨てているのです。
使う時だけ、その法の実践になるのですが、
五蘊は<わたしではない><わたしのものではない><わたしの本質ではない>
と知っているだけではダメで、実践しなくちゃ、何の意味もないのです。
執っておくための法でははないからです。
アリッタは激流を見ていないのです。激流が見えていないのです。
激流とは何か、激流の怖ろしさとは何かが全く分かっていないのです。
ただの喩えだと思っている。
だから、「欲望は屠殺場のようだ」「欲望は火坑のようだ」という仏陀の言葉も実感できないのです。
アリッタは、女性に触れる在家でも悟っているのだから女性に触れることは悟りへの妨げにはならないという主張をします。
これは後世の日本仏教そのままですね。
煩悩は彼岸に渡る妨げにはならないとされています。
後世の教えを投影して仏陀を読み込んでしまっては、仏陀が本当に言おうとしたことが見えてこないと思っています。
激流の怖ろしさがわからないのです。
私も大乗仏教しか知らなかったとき、仏陀がいう『激流』とか『万力』とかがさっぱりわかりませんでした。
何を大げさな、と思っていました。
欲望は火坑だって?そんな危険のはずないでしょ、と思っていました。
しかし、仏陀を辿っていくと、いままさに激流にあり、飲み込まれていっている様が本当にわかった時、激流の怖ろしさが分かったのです。
大乗仏教をかじって安易に悟ったつもりになっていることがいかに馬鹿馬鹿しいか、本当にわかったのです。
一瞬一瞬、自分がいともたやすく依存して自己同化して巻き込まれていっている様を見たのです。
>苦とは、肯定だけ、あるいは否定だけがあって、
>両方ともにあることが認められていないとき、人は苦を感じるのです。
そのような観念的なことで人は苦に落ちているのではありません。
まさしく、見るもの聞くものに執着し巻き込まれ依存して苦しむのです。
いともたやすくアイデンティティに住してしまうのです。
そして何かに自己同化した時、強烈な承認欲求が起こり自慢が始まります。
そのようなことのすべてを洞察した時、自分がほんの少しも悟っていないことがわかるのです。
ですから、ネットで悟ったと自慢している人はすべてニセモノだと断言できるのです。
それは自分が見えていないだけなのです。
>ブッダの法を誤って解釈しても障害にはならないと理解したアリッタは比丘です。
>一方、筏の喩えに出てくる人は、菩薩でしょう。自分で筏を組み立てるからです。
あまりにも大乗の考えを原始仏典に投影しているように思えます。
>普段から「欲望は骨の鎖のようだ」「欲望は屠殺場のようだ」
> 「欲望は火坑のようだ」として実践していなければ、
> いざ、「今、五蘊非我を使え」っていう筏を操るときに、
> 力を発揮できない、ということだと思います。
激流を見、欲望は火坑のようだと本当に見たときには、依存から離れていくものです。
依存から離れるとは、欲望の対象からどんなに長期間離れても全く苦しくないということです。
しかし、見るもの聞くものに巻き込まれていく激流は常に流れているのです。
いざというときとか、いざでないときなどないのです。
常に仏陀の理法を心に保持していることが筏なのだと思います。
> 常に仏陀の理法を心に保持していることが筏なのだと思います。
ショーシャンクさま こんばんは。
ブッダの理法を、欲と苦の関係で捉えているのですね。
激流を知ったとおっしゃるショーシャンクさま、体験があるようですね。体験は大事ですが、体験だけではちょっと足りないかな、と思います。体験を一度忘れて身につくまで待たなくてはなりませんので。
わたしが仏教を好きなのは、どんなとらえ方をしても、それなりに効果があるところです。
この世のすべての生き物を対象にして、仏教は成り立っています。
ショーシャンクさまに仏教の成果があったということは、すばらしいことだと思います。
わたしは、ショーシャンクさまだけではなくすべての生き物に成果があることを見ています。
そこを探っているのです。
ただ仏教を学ぶ目的が違うのだと思いますね。
一切衆生を救うブッダの法に興味があるのです。