ショーシャンクさま、「現成公案」の中に「風性常住」について書いたくだりがあります。
それの解釈をめぐって、わたしの理解を示しますね。
麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」
師いはく、
「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」
と。僧いはく、
「いかならんかこれ無処不周底の道理」
ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
「現成公案」
これをわたしはどう理解したかというと、「現成公案」の全体は、ブッダ理解の四大に沿って語られています。つまり、地水火風の四大と、それを働かす空間「虚空」の一つですね。これは、原始仏典に説かれるブッダの理解と同じだと思います。
「風性常住」と「無処不周」は、世間の理解をブッダ論理学に書き換える作業を示し、宝徹禅師は、ブッダ理解の通りであることが分かります。
なぜなら、ブッダの公式では
<これ>があるとき <これ>がある
<これ>がないとき <これ>がない
という二本の式で示されることになっているからです。風性常住は、上の式で表されます。
つまり、<扇を扇ぐこと>があるとき <風が起こること>がある
と、このように書くことができます。
無処不周は、下の式が働きます。
つまり、<扇を扇ぐこと>がないとき <風が起こること>がない
ということです。
風の性は常住だというのは、こういうことなんだよ、と、宝徹禅師は僧に教えていると受けとりました。
ブッダの論理は、基本的に二つの式からなっているのです。肯定と否定です。否定の式を加えると、ブッダ論理を表すことができるようになるのです。風性常住しか念頭になかった僧侶は、宝徹禅師から「無処不周」の道理を学んだのです。
風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
だから、秋には大地は穀物で満たされ、川からは沢山の魚が取れるんだよ、と語っています。
風性常住を機械のように「風の類いはいつでも吹いている」ということではないのです。縁起と言うことを知らぬ僧に、「仏教のイロハを教えてる」の図と受けとめています。
道元はブッダ論理を手に入れているのです!
コメント
石飛先生、ありがとうございます。
そういうご解釈だったのですね。
それで、前に、私が『人間本来仏なのに何故修行しなくてはならないのか?という探求をし続けた道元にとって風性常住の公案は感慨深いものだったでしょう』と書いたときに、『何をピントのずれたこと言ってるんだ?』みたいな反応だったのですね(笑)
私の解釈は全く違います。
特に『無処不周』の解釈は正反対で、『無処不周だからこうやって扇をただただ扇いでいる』というように捉えます。
この『現成公案』はすべての喩えが有機的に繋がっています。
風性常住の公案の直前に、魚と水、鳥と空の喩えがあります。
魚=鳥=扇=修行
水=空=風性=悟り=仏性
です。
風性常住とは仏性常住の喩えです。
『風性常住なら扇は使うべからず』というのは、『仏性常住で本来悟っているのであるから修行はする必要はない』という天台本覚思想を代表とする誤った見解を指しています。
『扇を使わないで風を聞け』というのは、『修行などせず仏性を信じたらよい』という考えのことです。
『無処不周』とは、法華経で言えば、如来秘密神通之力が霊鷲山だけではなく余の諸々の住処に在って働いている様です。
あまねく働いているのです。
ゆえに、ただただ扇を使うのです。
道元で言えば、只管打坐です。
『無処不周』はその前の、月と水の喩えと言ってもいいと思います。
すべてのところに月が映っている様です。
『大地を黄金となし、長江を蘇酪となす』は、法華経で言えば、仏国土に一変させる如来の働きのことでしょう。
仏性常住なるがゆえに、仏道者がおこす風は、大地を黄金とし長江を蘇酪となすのでしょう。
私はこのように解釈しています。
*
> 『風性常住なら扇は使うべからず』というのは、『仏性常住で本来悟っているのであるから修行はする必要はない』という天台本覚思想を代表とする誤った見解を指しています。
誤った見解 で 誤った見解 を サス
> 『扇を使わないで風を聞け』というのは、『修行などせず仏性を信じたらよい』という考えのことです。
常住なれば あふぎをつかふ べからず
常住なれば 師 あふぎをつかふ ちなみなり
常住 に いたらずといふ ことなき 道理 を しらず
>> 修証一等は、そのまま生きることにつながっています。
生きている限り、公案が現成してくる、そこを参究していくのが曹洞宗の立場である、って感じかな。
>> だから、言語を離れてますね。
曹洞宗のお坊さんは現場主義だと思います。
自分の目で見て、それを理解するという姿勢を学びます。
学ぶ人 も ある ( 学ぶ人 は 「 縁起 」 に あり )
>> 自分では「現成公案」は、道元の言っていることを理解したと思っています。
>> 自分の目と耳を使え、って道元は言ってます。
眼(目) と 耳 とを使して 口を閉じて 聞く 問
“ 音 を 観る ” → キク → 聞香
端坐 しなさい
> 仏道者の悟りの働きがこの世界を荘厳する、と捉えられます。
荘厳 を 壮語 する
( 大小 の 正眼正語 ・ 小眼 せおう 口 )
見る眼がモノ を 言う ( 口ほどにもない )
見ぬ こと を 見た かの如く 言う
黄金 白金 蘇酪 甘露 持ちて 観じる 重比しる
捉える のは 捉え方( の問題 ) であって
捉え方 は 「 空 」 におきる ( 「 縁起 」 する )
問題 は 「 縁起 」 に ・ して ↑ 起きている
起きている こと が ↑ 起きていない
起こし方 に 問題が ある けれど
あるかないか は
「 縁起 」 に “ ある ” ( ないかな ? )
「 中道 」 を 知らぬと 「 偏 」に「 中道 」が ある
ということを 知らぬこととなる
「 偏 」 を知れば 「 中道 」 が そこから 見える
偏 に ない 筈・道理 が 端 に ある
ただひたすら に たんざ する
「 中道 」 を 見る者は 「 縁起 」 を見る
「 縁起 」 を 見る者は 「 我 」 を見るを見る
「 我 」 を 観る者は 「 仏 」 を 見る
「 我 」 こそ 「 仏 」 ナリ と “ 得 智 ”
「 縁起 」 を 示しつ 「 我 」 の ナリ に 入る
止観 の 打坐 ・ 端 坐 ・ 立坐
ぶつぶつ 言っているのを 聞くでもなく 聞かぬでもない
ひたすら 「 仏 」 に 入る
あふぎ を あふぐ
いづこ に 福 風 か
佛法の 證験 正見 なる正傳の活路
・
パソコンを立ち上げて、先生ご質問の箇所が見つかりましたので掲載します。
↓↓↓
> たとえば、ショ-シャンクさまは、無記ということに注目されていますが、そうなら、ブッダは「世界は永遠である」ということにも「世界は永遠でない」ということにも、無記であったとご存知でしょう。
>
> 「永遠」とは「常住」、「永遠でない」は「無常」と置き換えられるのではないか、と思う人が出てきてもおかしいことはありません。
>
> 「世界は永遠でない」を「世界は無常である」と解釈すれば、ブッダの説いたことにはならないでしょうか。
> なぜ無記なのでしょう。どう思われますか。ここは、どう思うかお聞きしてみましょう。
これは、私がマニカナに初めて投稿した頃、ある方が私に質問されたので、それに答えたものがあります。
↓
マ-ルキヤプッタが抱いた10の疑問とは、その当時のインドにおいて盛んに議論されていた哲学的、形而上学的な難題でした。
インド人は、特に古代においては高度に哲学的であり、そのような哲学的な議論が盛んだったのです。
その10の哲学的難題とは
1.世界は永遠であるのか(時間的無限論)
2.世界は永遠でないのか(時間的有限論)
3.世界は無限であるのか(空間的無限論)
4.世界は無限でないのか(空間的有限論)
5.生命と身体は同一か (霊肉同一論)
6.生命と身体は別個か (霊肉相異論)
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
つまり、時間と空間についての哲学的な議論と霊魂と肉体についての形而上学的な議論なのです。
ですから、
世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
という哲学的な議論と
仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。
相応部経典22・97に
爪の上に土をのせて語る場面があります。
弟子が『この世の物象にて常恒永住にして変易しないものがありますか』と聞くと
仏陀は『比丘よ、この世には、常恒永住にして変易しないものは、少しもない』と言って
爪の上に土をのせて
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのである。』
と示しました。
そして
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのであるが故に、私の教えるところに従って苦を滅することができるのである。』
と言われたのです。
マ-ルキヤプッタの質問とは
『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。
原文では
sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
asassato loko 世間(世界)は恒久(永久)でないか
この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
この世界に終わりがあるかどうか、です。
仏陀の言う
sabbe samkhara anicca
すべての形成されたものは無常である
というのは、生ずる性質を持つものは滅する性質を持つ、ということであることは初期経典にあり、最初期はこの一言を聞いただけで解脱した人がかなりいたことが記されています。
人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。
このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。
※※※※※
これに対しての先生の反応は
『まあ、いいとしましょう』ではなくて
『一応の答えをいただいたので、これはこれで終わりにしましょう』でした(笑)
思っていたのより一段下でした(笑)
ショーシャンクさま ありがとうございます。
> 『一応の答えをいただいたので、これはこれで終わりにしましょう』でした(笑)
> 思っていたのより一段下でした(笑)
あれま!(笑)
自分で考えてみようと思って、終わりにしたのかな。。自分でもなぞです。
ショーシャンクさまは、ブッダが空を説いたと思いますか?
いちおー答えをもらって終わりにする気だろ、って、思っていたら、ビミョーにあたりです。
ですが、道元とブッダについては、ピッタリ重なっているので、「現成公案」の解釈はわたしのをお勧めですね(笑)
空、寂滅、見解からの出離、縁起、その他すべてがつながって理解できるので、道元は梅の一枝を受けて嗣法したと思います。道元は、空の大家なんだなと思います。
道元の説くような、こんな仏教もあるんだなあ、と感慨深いです。また日本には親鸞はいるし、空海もいる。。ということで、仏教の賑わう地に生まれてラッキーだったわい、って思っております。
石飛先生。
》》ブッダが空を説いたと思いますか?
仏陀は、『生じたものは必ず滅する。そのようなはかないものだ』という意味でのみ『空』という言葉を使ったと思っています。
そして、『すでに生じているのだから「無」ということはできない。必ず滅するものだから「有」ということはできない』という意味で、無とも言えない有とも言えない『空』を使ったことはあるかもしれないです。
しかし、縁起だから空ということは仏陀は説かなかったと思っています。
》》「現成公案」の解釈はわたしのをお勧めですね(笑)
そうですか。私は私の解釈がお勧めです(笑)
先生の解釈だと、扇、風、風性はそれぞれ何の喩えなのでしょうか?
私は「現成公案」は、本証妙修、修証一等を説いたものと思っています。
薪と灰の喩えも、先と後を否定しています。
鎌倉仏教がどれも因果俱時にこだわっているのは、その哲学的基盤が本覚思想にあるからだと思います。それぞれの宗祖が最終的には天台本覚思想の退廃を超克していきましたが、因果同時の強調は本覚思想が哲学的基盤だからだと思います。
ショーシャンクさま こんばんは。
> 縁起だから空ということは仏陀は説かなかった
そうですか。わたしは、逆に、縁起だから空と説いた、と思っています。
> 先生の解釈だと、扇、風、風性はそれぞれ何の喩えなのでしょうか?
喩えなのではなくて、感覚器官の対象です。四大といいました。
地水火風の四大を、どのように捉えて見ていくか、ということですね。
だから仏法の説明になるのです。
火のところは、龍樹からもってきていますね。『中論頌』に基づいていると思います。
五番目が「虚空」で、それはわたしたちの住む空間を表しています。ブッダの分類を使用してます。
色(物質世界)をどう見るかをまず説いていると思います。そして、色は空間を占めるので。其の空間を虚空として捉え、地水火風空としたわけです。五大としたわけではなく、あくまで、四大と虚空の分類ですね。ブッダの解釈をそのまま嗣いでいます。
自然界をどう見ていくのか、風性常住は、言語がどのようなものであれ、それにとらわれることなく公案が現成してくると思って、自然界で起こることを見ていきなさい、ということでしょう。
この身の生きていく世界(空間)をどのように捉えるか、自身で観察して知っていきなさい、と言っていると思います。
パーリ仏典にあたるものもよく得ています。漢訳から得たのでしょうけど、自分の目で見て、その自覚を忘れていくのが仏教だと知っています。
只管打坐は、わたしは春間さまに習いました。「ただ座ることだ」と聞いて、そこから道元に入りました。
修証一等は、そのまま生きることにつながっています。
生きている限り、公案が現成してくる、そこを参究していくのが曹洞宗の立場である、って感じかな。
だから、言語を離れてますね。曹洞宗のお坊さんは現場主義だと思います。自分の目で見て、それを理解するという姿勢を学びます。
自分では「現成公案」は、道元の言っていることを理解したと思っています。
自分の目と耳を使え、って道元は言ってます。
石飛先生、おはようございます。
》》わたしは逆に、縁起だから空を説いたと思っています
仏陀のどの言葉からそのように思われていますか?
原始仏典にあたりましたが、仏陀が『縁起だから空』と説いているところは見つかりませんでした。
》》喩えなのではなくて、感覚器官の対象です。
風性が仏性、悟りの喩え、風が仏性の働きという喩えと捉えるからこそ
仏家の風が大地を黄金とし長江を蘇酪とする、を
仏道者の悟りの働きがこの世界を荘厳する、と捉えられます。
もし、『風』が喩えでないなら、『仏家の風』とは何ですか?
扇で扇いでおこした風のことでしょうか。
その現象世界の風がどのように大地を黄金とし長江を蘇酪とするのでしょうか?
ショーシャンクさま おはようございます。
> 原始仏典にあたりましたが、仏陀が『縁起だから空』と説いているところは見つかりませんでした。
「縁起だから空」と直接説いているところは、わたしも見つかりませんが、論理的には推論されると思います。ちょっとここは略します。『中論頌』で明らかにするかもしれません。
> 喩えなのではなくて、感覚器官の対象です。
と書いたのですが、厳密に言えば全部が喩えと言ってもいいな、と思います。喩えで無いものはない、というところでしょうか。
> 風性が仏性、悟りの喩え、風が仏性の働きという喩えと捉えるからこそ
> 仏家の風が大地を黄金とし長江を蘇酪とする、を
> 仏道者の悟りの働きがこの世界を荘厳する、と捉えられます。
まあ、そうとも言えるんですけど、ふつうに縁起を語っただけともとれます。縁起を身につけることが悟りですから、確かにおっしゃるとおりなんですが。。
「それがふつうの人にはなぜできないか」を問題にした方がいいかもしれません。
「仏家の風」は、仏家のみならずだれにでも吹く風です。ですが「風が吹く」というと、思考や概念にとらわれるわれわれはすぐに「風の性質を見極めよう」とか、「風の本質は何か」などという思索に走りがちだということも言えるでしょう。
そこで僧が風性常住なのになぜ扇を使って扇ぐのかと尋ねることになります。ここにこだわりが見えますか。「風の性質は常住だ」ということばにとらわれているサマが示されています。観念の所産を諭して、宝徹禅師は仰ぐという行いに縁って風が起こることを示すのです。行いを修めるまでもなく、暑ければ誰でもそうするでしょう。季節の巡りを風の動きで感じる人々は種を植えて植物を育て秋に実りを得ます。誰でも「仏家の風」を知っているのです。知らないのは、風性常住と観念に頼る観念思考の人たちだけなのです。
だから、突き詰めるとどこまでも言語がなくなっていきます。扇を使うのも喩えなら、仏家の風も喩えです。こだわらないと言語が消えていきます。何かを表現しようと思うと困るので一時的に仮設して語ります。ですので「不立文字」なのです。論理は言語を通して観じとられていくのだと思います。
石飛先生、ありがとうございます。
私は、宝徹禅師に質問した僧は悟っていると思います。
何もかもわかって質問しているように思えます。
宝徹禅師をつついて、本物かニセモノか確かめているように思えるのです。
暑いときに扇で扇ぎ風を起こして涼んでいるのを見て、
『風性常住なのになぜ扇を使う?』というような質問は出てきません。
ごく普通で当たり前の行為だからです。
答えに窮する質問をして、宝徹禅師の力量を試したのでしょう。
宝徹禅師は、『無処不周』をただただ扇を使う働きで示しました。
そこで、僧はスッと礼拝します。
両者が見事だと思います。
この僧の質問に、宝徹禅師が目を白黒させて長々説明したり、『その質問の意図はなんだ?』と逆に質問したり、答えに詰まったりごまかしたりしたら、ニセモノと判断したでしょう。
僧は、宝徹禅師の巧まざる働きを見て礼拝したのでしょう。
ショーシャンクさま こんばんは。
> 質問した僧は悟っていると思います。
そうですか!なんか、読みが深いですね。わたしは、そのまま何も考えずに読んでました。
なるほど、確かに礼拝してますものね。そう言われると、そんな気がしてきました。
・
> 宝徹禅師に質問した僧は悟っていると思います。
“ あなたの考える 悟り ” が そこにある
> 何もかもわかって質問しているように思えます。
“何もかも” を 規定している “何もかもわかっている” あなた
( あなたが分かっている 分かり方 は
あなたの分かり方 が 支える
その分かり方 で 他 を 確かめる )
片手で 藁 をつかみ
もう一方の手 で 確実に
その藁 の 端をつかみ
決して溺れない と 確信する
> 宝徹禅師をつついて、本物かニセモノか確かめているように思えるのです。
ニセモノ が 本物 を 確かめる
これは 実況映画 ではない
故実 に 対しての ( 宗門 の ) 記録です
悟っている者 に対して 「 僧 」 とは 呼ばない
「 禅師 」 とは 基本的に
( 修行を経て ) 悟り を 得た法師 への 敬称です
( 永平寺の貫首は、代々 禅師号が 朝廷より下賜されている )
ただし
あなたが どのように感じるかは
あなたの理解(の程度)に 沿います
あなたの 個人的見解 ですから
( どのように感じようとも ) あなたの思うまま
・
*
そのような心で 接すると( 接していると )
そう思えてくる
礼拝する
・
*
「 世間 」 の 理解 は 「 顛倒 」 している
( 仏家の風は あふぐ に 吹く )
> *************
人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。
このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。
> *************
> 人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
死んだ人に 出会ったことがありますか ?
普通 出会うことが出来るのは 生きている人 です
死んだことがある人 も いません
いるのは 生きている人です
ただし 死ぬ という意味を 限定すれば
その限定に沿って あるない が 起きて来ます
( 生きる を 顛倒すれば 生きるとは 顛倒するという意味 )
ブッダ は 「 永遠 」 を 説き 永遠の生 を 説いています
また 「 不生 」 を 説きます
( 生死 を 顛倒する人に対して 「 不生 」 を 説きます )
「 顛倒 」 していない人 は いませんから 「 不生 」 真理です
( わたしがどのように存在しているか を あなたが決めます )
( あなたの世界 では あなた決めるように わたしの生がある )
顛倒している人 に 対して 「 死 」 を 示します
( 顛倒していると ) 「 顛倒 」 した 意味しか そこにはありません
「 死 」 を 顛倒する人 に 「 死 」 の意味を説き
「 永遠 」 の 「 生 」 を 説く ( 「 輪廻 」 を 説く )
永遠の生 に ない人 は 一人としていない
有限の生 に於いて( 「 世間 」 に 於いて ) 迷う(顛倒する)
( 「 生 」 は どこに生じますか )
生じないモノ は 滅しない
“ 「 世間 」 に 生ずるモノ は 滅する ”
「 世間 」 には 「 真理 」 は 生じない
生じないモノ は 滅することはない
「 顛倒 」 が 「 世間 」 に 起きて
「 世間 」 を 規定している
顛倒 するところ に 起きているのは 「 顛倒 」
( あるない を 顛倒する = 理解する )
> 風性は常住なるがゆゑに、 仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、
大地 は 黄金 かな ?
> 長河の蘇酪を参熟せり。
長江 の 水 は 参熟して 蘇酪 と なるかな ?
( 渭水・淮水 のこと を 言わぬ わけもある )
「 世間 」 に 於いて 常住なるは 「 顛倒 」
「 無処不周 」 師 あふぎをつかふのみなり
・
*
< 旧 マニカナ 道場 2016.3.23 ~ >
[No.13499] 解脱の実際のイメージ 投稿者:ixtlan 《URL》 投稿日:2016/03/23(Wed) 20:29:59
> ブッダは、苦しみのない究極の状態をいろいろに表現しているので、そのうちのどれかを目指して、人は精進して行くのだと思います。
>
> 軛をはずして安楽になった状態だ、とか、寂静になった状態だ、とか、欲望がなくなって求めることがなくなった状態だとか、生死を超えて解脱した状態だとか、さまざまに説かれています。
安楽とか寂静とか無欲というのは、生としてもイメージできます。しかし「生死を超えた」というのは一体どういう状態なのか。
シュレーディンガーの猫みたいな状態なのか。それは冗談として、解脱というものから感情を排除するという傾向性は、ごく一般にあるような気がします。つまりなんとなく感情すら邪魔じゃないのか、というふうに解脱が見られている。
ですが、そうなると生きていると言えるんだろうか。そして、それは当初思っていたほど理想的でもないのかな、と思ったりしますね。
★ [No.13500] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/03/24(Thu) 09:44:56
> 安楽とか寂静とか無欲というのは、生としてもイメージできます。しかし「生死を超えた」というのは一体どういう状態なのか。
それがわかったときは、解脱しているときかもしれないですね。
一番わかりにくいのが 生存(有) → 生まれること(生) の因果かもしれません。
渇愛があるとき、取著がある。取著があるとき、生存がある。生存があるとき、生まれることがある。
そして、
渇愛がなくなれば、取著がなくなる。取著がないとき、生存はない。生存がないとき、生まれることはない。
わたしたちは、欲にしばられているので、それがなくなるとき、というのが、そもそも考えることができない、ということかもしれないです。
実際、わたしも、「生存」というのが一番わからなかったです。
今回『スッタニパータ』を訳して、ようやくピンと来ました。
お釈迦さんの直説だと思って読むと、すごく通りがいいです。生存を中心に話が書いてあって、「ああ、そういうことか」と、一番もやもやしたところが氷解しました。
(関係ないけど、部派の仏教というのが、仏法の一つの見方なんだなと感慨深いです。)
身体が壊れる前に渇愛を滅しているのが、寂静だ、とも説かれますが、身体は保って、渇愛を滅するというのが、至難のワザで、これができたら、ほんと、あとはどうでもいいや、って感じですよね。
欲が薄くなってくるだけで、生存へと向かわないという感じが、わかってくる気がします。
> シュレーディンガーの猫みたいな状態なのか。それは冗談として、解脱というものから感情を排除するという傾向性は、ごく一般にあるような気がします。つまりなんとなく感情すら邪魔じゃないのか、というふうに解脱が見られている。
>
> ですが、そうなると生きていると言えるんだろうか。そして、それは当初思っていたほど理想的でもないのかな、と思ったりしますね。
感情を排除しているわけではないことは、お釈迦さんを見ているとわかります。
もっとも人間らしい理想の人間像が、お釈迦さんってことになるかと。
感情にとらわれない、というそこが見えると、解脱ということも、納得できてくるのかなと思います。
★ [No.13501] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/24(Thu) 10:44:07
> 渇愛がなくなれば、取著がなくなる。取著がないとき、
目的は、認識によって、 いかようにも
(煩悩の起きるにしたがって、煩悩に対して)
都合よく 解釈されるということが
「無明」 の意味です
(取著すべき)
生存 を 取り上げることがない
取り上げなければ、問題が起きるところがないから 生存の問題は起きようがない
( 起こす人に対して、 生存は あるか ないか という問題が起きる )
( 起こすと、あたかも 爆流のごとく 、 あるかの如き認識の仕方が起きる )
起こして起きたものは起きていると認識される
( 生存に対して問題を起こすのではなく、問題を起こすことに対して、起きる )
> 生存はない。生存がないとき、生まれることはない。
有ると言って、理由を起こせば
起きた理由によって、 自我 “は” ある
( 理由は いかなるときにも 自我に対して起きる )
> わたしたちは、欲にしばられているので、それがなくなるとき、というのが、そもそも考えることができない、ということかもしれないです。
わたし も、わたしたちに入れていただいているのは 恐“淑” の 限り です
( ま 、 わたしが存在しないというのが 仏教の根本ですが 、、、、 )
身を “縮めて” 思いを 為しなさい
連れのことを心配する前に
自分のことを尽くしなさい
> 実際、わたしも、「生存」というのが一番わからなかったです。
わたしが分からなかったことでも
あなたは分かる
( “ あなたが分かっていないことでも、わたしは分かっている ” )
> 今回『スッタニパータ』を訳して、ようやくピンと来ました。
ピンからキリまで と区切っても
ピン は キリ と 同じ意味 を 起こしている
> お釈迦さんの直説だと思って読むと、すごく通りがいいです。生存を中心に話が書いてあって、「ああ、そういうことか」と、一番もやもやしたところが氷解しました。
どんな道でも通ることはかなう
それが道である限り、通ったことが前提になっていて、
通れることが必須である
> (関係ないけど、部派の仏教というのが、仏法の一つの見方なんだなと感慨深いです。)
部派の仏教という のは 、仏法の一つの見方
一つが起きる時、必ず 二つは起きている
それが 一人いる時 二人(親鸞が)いる
二人いる(同行二人の)時 ブッダがいる という 意味
> 身体が壊れる前に渇愛ているのが、寂静だ、とも説かれますが、身体は保って、渇愛を滅するというのが、至難のワザで、これができたら、ほんと、あとはどうでもいいや、って感じですよね。
何がどうできているか を 知ってから、
それでいいかどうか を 判断したらどうですか ?
すべて知ったうえで、法蔵は 無明の道に入っています
どうでもよければ
先途 に 先度 するという意味が起きません
後先がないから、 後 で 寂滅する
みんな一緒でなければ 「平等」 の大地で寂滅しない
死んだら寂滅なら 死なずとも、死があるところは寂滅しています
どこに 死があるか シ ッテ イマスカ
あなたの(わたしの死)ここにある
ここにあるから、死を取り上げる
> 欲が薄くなってくるだけで、生存へと向かわないという感じが、わかってくる気がします。
そりゃ 単なる 気のセイだ !
> 感情を排除しているわけではないことは、お釈迦さんを見ているとわかります。
感情って、お釈迦さんにある ということ(が信じられているということ)を 初めて知った
> もっとも人間らしい理想の人間像が、お釈迦さんってことになるかと。
お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
ブッダは 理想像ではなく
理想とする目標 でも ありません
ブッダが人なら あなたも人
釈迦牟尼が説く 「平等」 が 本当なら
そこに寸分の違いもない
そう云う“ところ”に 引きずりおろしていませんか ?
崇める 根拠 が 、平等の智 に 起きる
( 漢字語源 298p 漢字源 467p )
釈迦牟尼から 真っ直ぐ 滴々 と 連なっているけれど
上下があるようで、 「平等」 です
すでにあるという意味が、 “如来蔵” です
ないモノは生まれ出ません( 信仰という種がなければ 智は 生まれ育ちません )
人の生を受くるは難し
今ここに ウク ( 浮ついて、根がない )
という読み方、聞き方も 起きる時があります
> 感情にとらわれない、というそこが見えると、解脱ということも、納得できてくるのかなと思います。
アラユルコトヲ カンジョウ ニ イレズ “ヨク” ミ キキ シ
ソシテ ワスレズ
( 虚空蔵求聞持 )
よく見なさい という意味ではありません
欲 を 見るのです
( そう読み取りたくない欲を知るには 我 というものを 見 我の言葉を聞き その上で、
するという 行いが するのではなく “如来に”使われる 使徒 という意味です )
・
★ [No.13502] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/03/25(Fri) 07:29:51
> > もっとも人間らしい理想の人間像が、お釈迦さんってことになるかと。
>
> お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
> ブッダは 理想像ではなく
> 理想とする目標 でも ありません
そうお。
> ブッダが人なら あなたも人
> 釈迦牟尼が説く 「平等」 が 本当なら
> そこに寸分の違いもない
そこに「平等」を使ったのですね。
>
> そう云う“ところ”に 引きずりおろしていませんか ?
不平等の意識で読んじゃダメですよ。
> 崇める 根拠 が 、平等の智 に 起きる
> ( 漢字語源 298p 漢字源 467p )
>
> 釈迦牟尼から 真っ直ぐ 滴々 と 連なっているけれど
> 上下があるようで、 「平等」 です
そうだと読まなければ。。。
> すでにあるという意味が、 “如来蔵” です
> ないモノは生まれ出ません( 信仰という種がなければ 智は 生まれ育ちません )
気をつけないとね。「すでにある」という意味を言うとき、こだわらないように言わないと。そう受けとめられるような可能性を残さないと。文脈が大事になってきます。
> 人の生を受くるは難し
> 今ここに ウク ( 浮ついて、根がない )
>
> という読み方、聞き方も 起きる時があります
そう読んだのは、その人の読み方です。
どのようにでも読めるから、本を出します。
あらゆる読みの中から、一つの読みを提示する。
8万4千の中の一つ。
すべての人は、8万4千の法門の一つに預かることが可能です。
★ [No.13503] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/25(Fri) 08:56:08
> > > もっとも人間らしい理想の人間像が、お釈迦さんってことになるかと。
> > お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
> > ブッダは 理想像ではなく
> > 理想とする目標 でも ありません
> そうお。
そう お 盲 なら そう言う 根拠を示して欲しい
誰 が 妄 でも 、、、、
釈迦の恥 ( って 存在できる理があるかな ? )
> > ブッダが人なら あなたも人
> > 釈迦牟尼が説く 「平等」 が 本当なら
> > そこに寸分の違いもない
> そこに「平等」を使ったのですね。
どこに使われていても、寂滅に通じるのでなければ
使う意味がない
> > そう云う“ところ”に 引きずりおろしていませんか ?
釈迦 も人 わたしも人
同じ人なら 恥も外聞もある
( あるのは“わたし” あなたには わたしと“同じもの” は ない )
自他不二 とは “あなた”と“わたし”がいる ときに成り立つ
けれど
そこには 、 自他という 分別 の 根拠が存在できない
存在できないという “わたし” は いる
それが要る
それがなければ、他がない
“ コギトエルゴスム ” ( コリャ タダシイカナ ? )
読み方によって、正否が変わるのであれば、
( 読み方によって ) 正しくない
どっちも正しければ、読み方を言うのはおかしくないかい ?
ブッダは 理念 で あり
人ではありません ( ブッダ は シンネン です )
モウ ネン アケマシテ オメデトサン 元旦
小説の中でなら
司馬 のように 煩悩にまみれる 空海に存在を与えうる
> 不平等の意識で読んじゃダメですよ。
「平等」 の意味を教えてください
駄目なことをする わたしに 駄目なことがある という根拠を
根拠正しく 「平等」 の 意味 を たがえる 余地なく
知らしめてください
( 言うだけ無駄かな ? こういう ことをいう 人? に対しては 、、、、 )
ワタシャヒトデナシ 、、、、
> > 崇める 根拠 が 、平等の智 に 起きる
> > ( 漢字語源 298p 漢字源 467p )
> >
> > 釈迦牟尼から 真っ直ぐ 滴々 と 連なっているけれど
> > 上下があるようで、 「平等」 です
> そうだと読まなければ。。。
それは 「 釈迦牟尼は こう言っていて これが 直説 です 」 と 言うのと同じです
どっちも正しければ、すべて正しい
すべて正しいことを 別の表現で言うと 「平等」 と なる
分け方が正しい
思い方が正しい ( 思いがすべて無明に発する という 思いは 無明に発しているけれど 、、、、 )
どう読んでも それは一つの読み方
という時には
“ 一つ ” という意味を 確定しなければならない
確定していて、動かし 難く(= 動かず) 恒常であり 自性を持つ
そうだと言えるとき 一つ が 成り立つ
( コギトエルゴスム そう思うのは 一人 だけじゃない → 一人において そう思っていると顛倒する )
思っているのではなく、
思っていると 与えられているのです
> > すでにあるという意味が、 “如来蔵” です
> > ないモノは生まれ出ません( 信仰という種がなければ 智は 生まれ育ちません )
そこにまっすぐにつながっている 、、、、
> 気をつけないとね。「すでにある」という意味を言うとき、こだわらないように言わないと。そう受けとめられるような可能性を残さないと。文脈が大事になってきます。
大事を言うなら 小事に拘ってはいけない
という 小事は 大事かい ?
> > 人の生を受くるは難し
> > 今ここに ウク ( 浮ついて、根がない )
> > という読み方、聞き方も 起きる時があります
> そう読んだのは、その人の読み方です。
君の読み方じゃないの ?
> どのようにでも読めるから、本を出します。
違いがないモノに対して、どのように読んでも、違いは起きないかな ?
( 読み方によって、その人の読み方が起きても、そこにおいても正しければ、 それは正しい )
“わたし” の 提示は 正しくないかな ?
> あらゆる読みの中から、一つの読みを提示する。
“ 一つ ” て いくつ が 必要 ?
( わたしだけじゃ 一つじゃない あなたがいなければ “ 一つ ” を言えない )
> 8万4千の中の一つ。
だったら、一つしかないのじゃないの ?
他に幾つあろうと 一つの解釈を取り上げる
ということが
正しいことに思い当たる という意味です
あれも正しい、 これも正しい という時
アレ と コレ とは ぴったり重ならなければ
( どちら側から言っても 違いがある → 真違って いる → 正しくない )
“ 違っていても 人は人 ”
( 「平等」 」 を 確立できていないモノが 「平等」 を いう )
( 人でなし が 人なみのことを言う )
( 人並み とは 同じように顛倒する という意味ではありません )
( 人として 翳障に遮られることなく “人の生”を全うする という意味で 人 です )
( 遮られているかどうかは モノノミカタ ? )
無明に発していなければ、明にあり メイノママニヒトノセイヲハコブ
象の足と耳と尾が 寸分の違いもなく ぴったり概念において重なる時
そのどこをとっても 象です
そういう見方もある と そういう見方 を 否定できるのは
正否を正しく知る時です
正否を知らず(知っているというのは別にして)
正否を判断できますか ( それも正しい ? )
> すべての人は、8万4千の法門の一つに預かることが可能です
二つの真理が存在して
それが
読み方の違いで 一つ のこと を 言っている とするのなら
一つのこと を 言いなさい
象は足ではない 考える葦 でもない
けれど
象は足である
葦は わたしとなって考える 象である
般若経典を 読みなさい
大智度論は そこを説いている
( そういうよ見方もあり そう読むものもいる ワタシャ違うけれど あなたを否定するわけではない )
( そりゃ 一つの否定に過ぎない 、、、、 和漢ネーダロナ 、、、、 )
・
★ [No.13505] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/03/26(Sat) 07:39:35
> > > お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
> > > ブッダは 理想像ではなく
> > > 理想とする目標 でも ありません
>
> > そうお。
>
> そう お 盲 なら そう言う 根拠を示して欲しい
> 誰 が 妄 でも 、、、、
法を見るものは,わたしを見る、ということばがあります。
わたしを見るものは法を見るということばもあります。
> 釈迦の恥 ( って 存在できる理があるかな ? )
ない
> > > ブッダが人なら あなたも人
> > > 釈迦牟尼が説く 「平等」 が 本当なら
> > > そこに寸分の違いもない
>
> > そこに「平等」を使ったのですね。
>
> どこに使われていても、寂滅に通じるのでなければ
> 使う意味がない
そう思う。
> > > そう云う“ところ”に 引きずりおろしていませんか ?
> 釈迦 も人 わたしも人
> 同じ人なら 恥も外聞もある
> ( あるのは“わたし” あなたには わたしと“同じもの” は ない )
> 自他不二 とは “あなた”と“わたし”がいる ときに成り立つ
> けれど
> そこには 、 自他という 分別 の 根拠が存在できない
語るには、必ず時間が入ります。順序があって話が進んでいきます。
最初から、寂滅だけを語ることはできません。
わたしが話したので、春間さまは、そこにコメントをつけられる。
わたしの語りがなければ、コメントしようがないのです。
> 釈迦 も人 わたしも人
> 同じ人なら 恥も外聞もある
と、コメント(?)できます。
コメントしたのか、きっかけにしたのか、それはわかりません。
ちがう語りもできたはずだ、と見ているわたしがいます。
★ [No.13506] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/26(Sat) 09:16:37
> > そう お 盲 なら そう言う 根拠を示して欲しい
わたしの 盲性 を 言っているのです
> > 誰 が 妄 でも 、、、、
わたしにある盲を見る
> 法を見るものは,わたしを見る、ということばがあります。
> わたしを見るものは法を見るということばもあります。
ねえねえ
ヨーク見て 眼鏡をかけて ~ ♪♪
という CMソングが名古屋地域ではよく流れています
わたし を見て欲しい けれど
わたしに実体がありますか ?
わたしは、(今のあなたにとっての)あなたの認識どうりに 実体化されるしかない
> ということばがあります。
なにがどうあるか を “あります” と 省略しているのに気付いているはずです
ことばがあれば 真理がある
真理は、真理にも 真理らしきモノにも 真理ではないモノにも
真理性を備える
真理は実体です 恒常不変です
あらゆるものを貫き、あらゆるもの自体であり あらゆる(ものの)部分でもあります
“あらゆるものは流転する” という 真理は どう流転しますか ?
認識も流転するから 流転の上で 同じが成り立つ (?)
> > 釈迦の恥 ( って 存在できる理があるかな ? )
> ない
と言っても、作り出している とき 作ったものはある
あなたの恥は わたしの恥(によって、根拠をもって、認識される)
これは、あらゆるところに流転していきます 、、、、、 (?)
ないと言えば、作り出しては い“ない” かな ?
> > どこに使われていても、寂滅に通じるのでなければ
> > 使う意味がない
> そう思う。
思いにある内なら
( 解り易く法律的に言えば ) 思っていないのとの 差はない ( から 無罪です )
行いにある時、 思っていようと 思いもせずとも (正しく・疑いようもなく) ある
モノがある のではなく ある という 思いに 心を馳せるのです
どうあるかが起きて、あるという意味が起きる
放かっておいて (あなたのことではなく、わたしのことにする)他人事とすれば
あるという意味は あなた事 ではない
自分に関わりがなければ、あってもなくても関わりがない
あなたの 「平等」 が 寂滅のすべてであり つつ 一部であれば
すべてである 「平等」 の (私という自我の)使い方 ということが起きますか ?
右にあって、同時に左にある と知る時
知ったものを ブッダ と 呼んでもよい
ブッダの言葉はブッダが語る
仏陀が同時の 左右を 順に いったからと言って
順序 がありますか ?
ブッダには順序はない ( 至道無難唯嫌揀択 )
あれとこれとを、 順に並べて 近い遠い を言う時 順が起きます
ブッダには物差しはないけれど
人は あたかも
“ ブッダに ( あるはずのない 物差しを使うように )物差しを使わせる ことによって ”
ブッダ と なっているのを顛倒する (顛倒しているという真理を 持つ真理性)
物差し の 目盛の 1.2.3 には 位置の違いはあるけれど
順があるのではない (順に沿って 認識するのを 自我の認識だと認めないだけです)
物差しが存在する世界と、その世界を作り出す世界とは
一部と部分 という 真理 の 法 (に沿って)
存在しています
>
> > > > そう云う“ところ”に 引きずりおろしていませんか ?
> > 釈迦 も人 わたしも人
> > 同じ人なら 恥も外聞もある
> > ( あるのは“わたし” あなたには わたしと“同じもの” は ない )
> > 自他不二 とは “あなた”と“わたし”がいる ときに成り立つ
> > けれど
> > そこには 、 自他という 分別 の 根拠が存在できない
> 語るには、必ず時間が入ります。順序があって話が進んでいきます。
順序を置いて(認識の基盤として)話を進めている と 言う言い方に変えることができますか ?
> 最初から、寂滅だけを語ることはできません。
語る大地は 寂滅の地
そこから移動することはかなわない
寂滅して 「平等」 です
一部と全部は どこにおいても切り離せない
順を追って言うから 順があるのなら
永遠は 順に起きてきますか ?
( 最初がなくて=本体を持たず 帰するところを持たぬ = 自己がない
それを 「永遠」 と あらわします )
> わたしが話したので、春間さまは、そこにコメントをつけられる。
> わたしの語りがなければ、コメントしようがないのです。
わたしの語りかけ とは あなたのモノで あなたに発していますか ?
あなたの話は あなたに発しているのですか と 聞いているのです
あなたの話 あなたの語り は 社会に発し
その社会をつくっているのは “わたし” です
あなたの話の立つ大地は 「平等」 ですか ?
( ここまで 哲学的 だと ついてくるのに 無理がありますか ? )
> > 釈迦 も人 わたしも人
> > 同じ人なら 恥も外聞もある
> と、コメント(?)できます。
> コメントしたのか、きっかけにしたのか、それはわかりません。
分かりなさい
続くところを読み取れば、釈迦が人なら
わたしは釈迦であると言っているのが分かります
わたしが 釈迦性 を 持っていようと
あなたの持つ認識にある 釈迦性 と たがっていれば
釈迦せい の いみは 「 空 」 です
> ちがう語りもできたはずだ、と見ているわたしがいます。
わたしはいつも 同じことを 同じ話用(語り) で 語っています
同じということは、同じに流転しなければ 同じにならない
自立して 自性をもって 言葉を解釈すると
真理が(万物は)流転する
・
★ [No.13507] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/03/27(Sun) 02:22:26
> > > そう お 盲 なら そう言う 根拠を示して欲しい
>
> わたしの 盲性 を 言っているのです
ブッダを説かない仏教はない、と思います。
ブッダを知るために仏教がある とも言えます。
ブッダから、法が生まれなければ、ブッダの教えはないです。
> わたし を見て欲しい けれど
> わたしに実体がありますか ?
>
> わたしは、(今のあなたにとっての)あなたの認識どうりに 実体化されるしかない
ぜんぜん実体化はしていないです。
> > > 釈迦の恥 ( って 存在できる理があるかな ? )
> > ない
>
> と言っても、作り出している とき 作ったものはある
>
> あなたの恥は わたしの恥(によって、根拠をもって、認識される)
> これは、あらゆるところに流転していきます 、、、、、 (?)
>
> ないと言えば、作り出しては い“ない” かな ?
作ろうとどうしようと、釈迦の恥はない。
> あなたの 「平等」 が 寂滅のすべてであり つつ 一部であれば
> すべてである 「平等」 の (私という自我の)使い方 ということが起きますか ?
起きます。
>
> ブッダには物差しはないけれど
> 人は あたかも
> “ ブッダに ( あるはずのない 物差しを使うように )物差しを使わせる ことによって ”
> ブッダ と なっているのを顛倒する (顛倒しているという真理を 持つ真理性)
>
> 物差し の 目盛の 1.2.3 には 位置の違いはあるけれど
> 順があるのではない (順に沿って 認識するのを 自我の認識だと認めないだけです)
>
> 物差しが存在する世界と、その世界を作り出す世界とは
> 一部と部分 という 真理 の 法 (に沿って)
> 存在しています
ブッダはものさしです。
> わたしの語りかけ とは あなたのモノで あなたに発していますか ?
> あなたの話は あなたに発しているのですか と 聞いているのです
そうです。
> あなたの話 あなたの語り は 社会に発し
> その社会をつくっているのは “わたし” です
そういう社会に生きるとき “わたし” ということもあるのかもしれません。
>
> あなたの話の立つ大地は 「平等」 ですか ?
平等ですよ。
> 分かりなさい
> 続くところを読み取れば、釈迦が人なら
> わたしは釈迦であると言っているのが分かります
言って釈迦になれるなら、釈迦は理想像にはならないので、そうだとわかります。
>
> わたしが 釈迦性 を 持っていようと
> あなたの持つ認識にある 釈迦性 と たがっていれば
> 釈迦せい の いみは 「 空 」 です
釈迦性の問題ではなくて、釈迦の行いの問題だと思います。
如来蔵というのも、行いがなければないからです。
> > ちがう語りもできたはずだ、と見ているわたしがいます。
>
> わたしはいつも 同じことを 同じ話用(語り) で 語っています
>
> 同じということは、同じに流転しなければ 同じにならない
それはそうかもしれません。
そういう意味では、春間さまらしいとも言えるのかも。
わたしは、ちがうことを考えるに至っている、ということかな。
★ [No.13508] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/27(Sun) 09:47:20
> > > もっとも人間らしい理想の人間像が、お釈迦さんってことになるかと。
> > お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
> > ブッダは 理想像ではなく
> > 理想とする目標 でも ありません
> > > > お釈迦さんは 釈迦牟尼仏陀 の 単なる略です
> > > > ブッダは 理想像ではなく
> > > > 理想とする目標 でも ありません
> >
> > > そうお。
*********
> > > > そう お 盲 なら そう言う 根拠を示して欲しい
> > わたしの 盲性 を 言っているのです
> ブッダを説かない仏教はない、と思います。
ブッダは自分自身を説かない 如来です
仏教は ブッダにあり
説かれる(受動の身 のみ の) ものは 菩薩 です
> ブッダを知るために仏教がある とも言えます。
ブッダは モノであるけれど
理念ソノモノ(如実如来)であり、
人間の根拠(理念)です
理念はすでに人にあり
人は理念で自らを 作り上げている と、
知っていきます( 行きます・生きます)
→
自分を あるところから あるとするところに置いて、
あるように、 “順を追うがごとく”
認識という乗り物に “ マハー ”乗せていきます
そこには 何でも乗っている
( 乗せている という風に知ることもかなう )
( 乗せることができるという捉え方でも 真と“違い” ではない )
( そこに 人としての 間 を 置いても 真とは たがわない )
> ブッダから、法が生まれなければ、ブッダの教えはないです。
法を生むのは 顛倒です
無明のないところに 法はない
無明が法を起こす それが 「 縁起 」 の 起きようです
真理を得たモノから 真理を得ようとする理念に あるとするものが
法を存在させる (生起させる)
すでにあるモノ である と ブッダ が 言っている
( 如来が出ようと出まいと 法は存在する )
「 子を産んだのは わたしです 」 と言うことの 非縁起性 を 言ったところで
「 そういう見方もある (私は別の見方をとるから、それは取り上げない = (間)違いである) 」 と “否定” する
否定するべき間違いがなければ 正しいことと言わざるを得ない
正しいことが 流転する二つの立場を見る立場から 両方正しいと 言われることもありうるが、
そういう人は、
必ず、 別の見方の方を取り上げて、その場所 に 認識の立場を置く
「 わたしはこう見る 」 という 立場に とどまらない
( → 二つの見方を持っている )
> > わたし を見て欲しい けれど
> > わたしに実体がありますか ?
> > わたしは、(今のあなたにとっての)あなたの認識どうりに 実体化されるしかない
> ぜんぜん実体化はしていないです。
という認識は
認識どうりに実体化されずに、どうやって、像( わたしの色 )を結びますか
わたしの色は あなたにあって、 あなたの
虚像かな ?
( わたしの識は わたしの場所で わたしを わたしと ショウコ してるかな ? )
世間にあるから、わたしという色 は 虚仮かな ?
認識とは 実体を伴うことです
実体のない認識は 像を結ぶところを
カイ( 壊す・トク )シツ(失う・基とする・実)する
> > > > 釈迦の恥 ( って 存在できる理があるかな ? )
> > > ない
あることに対して、ないがおきる
> > と言っても、作り出している とき 作ったものはある
> > あなたの恥は わたしの恥(によって、根拠をもって、認識される)
> > これは、あらゆるところに流転していきます 、、、、、 (?)
> > ないと言えば、作り出しては い“ない” かな ?
> 作ろうとどうしようと、釈迦の恥はない。
ないと言ったらない といえるのなら
あると言ったら ある (ないということの仕組みはそこにある)
ブッダ が 無明 に 起きる 行 の
その因縁 に 起きる 認識であれば
なんでも起きる
釈迦の恥がないとしよう
君の恥は あるかな ?
あれば、それは きみの アルタ じゃないかな ?
すでに我はない ナンゾコヤアラン ( 子・虚仮の虚 が あるかな ? )
> > あなたの 「平等」 が 寂滅のすべてであり つつ 一部であれば
> > すべてである 「平等」 の (私という自我の)使い方 ということが起きますか ?
> 起きます。
誰に起きるのかな ?
真理を知る者は 真理に沿って ある・ない を 語る
聖者は ある と言えるし ないとも言え そのどちらにも 縁起が起きない
縁起は無明に起き 「平等」 は 寂滅の地にある
> > ブッダには物差しはないけれど
> > 人は あたかも
> > “ ブッダに ( あるはずのない 物差しを使うように )物差しを使わせる ことによって ”
> > ブッダ と なっているのを顛倒する (顛倒しているという真理を 持つ真理性)
> >
> > 物差し の 目盛の 1.2.3 には 位置の違いはあるけれど
> > 順があるのではない (順に沿って 認識するのを 自我の認識だと認めないだけです)
> >
> > 物差しが存在する世界と、その世界を作り出す世界とは
> > 一部と部分 という 真理 の 法 (に沿って)
> > 存在しています
> ブッダはものさしです。
ぶっだ を ものさし“化”しても
化 は 認識であり
認識は いかようにでも流転するけれど
流転してもその認識にあるから、流転しているとは(ブッダ以外には)認識できない
ものさしは 提示できるけれど
ブッダ は タターガタ です
我を見るときに 如実がある
“我”を見ない(=我を見る) モノ は ブッダ以外 には いない
( 同じ = 等しい 「我」だから 混乱は 迷誤 = 無明 に起きる )
ブッダ は 理念であるけれど モノ(タタター) です
> > わたしの語りかけ とは あなたのモノで あなたに発していますか ?
> > あなたの話は あなたに発しているのですか と 聞いているのです
> そうです。
あなたという存在 を 規定して、
それが
あなた の すべて であり、なおかつ一部 で あるのなら
あなたは あなたのモノで
あなたは 「 正理 」 として あなたを言う
( どのようにして総て かを ものさしで示してください )
幽玄 で 無限 を 量る しかない 、、、、 ユウゲンジッコウ
行わなければ、顕れ出ない モノ が “ ある ”
> > あなたの話 あなたの語り は 社会に発し
> > その社会をつくっているのは “わたし” です
> そういう社会に生きるとき “わたし” ということもあるのかもしれません。
そういう社会 とは どういう社会 か
ケンショウ させてください
あなた という ““わたし”” は わたしの 関心事です
> > あなたの話の立つ大地は 「平等」 ですか ?
> 平等ですよ。
立ったり座ったり が 並列されて、
そのどちらも認められるとき
立つ と 坐るには 高低差があります ( 量りで知る → 知るほかはない )
立つことと 坐ることとが、
その意味において、すべて等しいとき 「平等」 にある と いいます
同じであるとも言います
差がないとも言います
法華経には
法雲は そのものの 欲する(真実必要とする)ところに沿って 「平等」 に 潤いを与える
と 説き
菩薩が その地にまだ至らない“とき”は これを 説いてはならない
とも 説いて そう聞いて 聞いたように行いを為す 菩薩もいます
( そうではない菩薩も その行い 性= 仕組み を 保つ )
説かれていないから
説いた意味は 顛倒の乗り物(我というわたしの認識)に乗せられる
「平等」 に 法の 果 を 受ける
> 言って釈迦になれるなら、釈迦は理想像にはならないので、そうだとわかります。
言って ならなきゃ 言う意味はない
という意味は
言えばなれる という意味です
( 意味 が なければ 話は 別の階梯 です )
成れる ということに 日常的に 慣れる と なっている事に気が付きにくい
> > わたしが 釈迦性 を 持っていようと
> > あなたの持つ認識にある 釈迦性 と たがっていれば
> > 釈迦せい の いみは 「 空 」 です
> 釈迦性の問題ではなくて、釈迦の行いの問題だと思います。
> 如来蔵というのも、行いがなければないからです。
問題は 行いとして起きて いなければ 問題にならない
アッタリマエ の 前に テキタイ する
行いなどない とき が
仮にあっても 如来 はある
あるから蔵せる
蔵すモノを ソウゾウ という 器に乗せる
乗せるという 行いが 無明において 行であり識であると 並列する
(順に言ってもすべて 同所に=同時に ある)
釈迦― ブッダー如来 は 分かるという構造にあるときに すでに蔵されている
行いは 無明(識)になければ 如来 そのものです
> > > ちがう語りもできたはずだ、と見ているわたしがいます。
> > わたしはいつも 同じことを 同じ話用(語り) で 語っています
> > 同じということは、同じに流転しなければ 同じにならない
> それはそうかもしれません。
そうではないかもしれません
両方成り立って、どちらを選んでも、偏によると “知るなら”
知らないことに 「 わたしは知らない 」 ということまでも含めて
言及しないのが ブッダの示すこと(ブッダから受けること)です
> そういう意味では、春間さまらしいとも言えるのかも。
“らしい” と いうことは わたしの実像を言っていること “らしい”
> わたしは、ちがうことを考えるに至っている、ということかな。
この文体は
(解釈によって)
違うことを考えている
違うかどうか(今ここの場所では)判別できない
間違っている(顛倒にある)
他によって 間違っている(顛倒にある) とされる
等々
の 意味を持たされている
そういうことを わたしは 感情にイレズニ わたしという立場の外に わたしを置いて
わたしはわたしによって常に見つめられていると知って
見つめられる存在の 「平等」 性を 明かしている
・
★ [No.13509] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/03/29(Tue) 18:26:08
>
> > ブッダを説かない仏教はない、と思います。
>
> ブッダは自分自身を説かない 如来です
> 仏教は ブッダにあり
> 説かれる(受動の身 のみ の) ものは 菩薩 です
菩薩は、もっとブッダを説かなきゃダメだ、と思う。
もっとたくさん菩薩が出てほしいわ。
> > > わたし を見て欲しい けれど
> > > わたしに実体がありますか ?
> > > わたしは、(今のあなたにとっての)あなたの認識どうりに 実体化されるしかない
>
> > ぜんぜん実体化はしていないです。
>
> という認識は
> 認識どうりに実体化されずに、どうやって、像( わたしの色 )を結びますか
> わたしの色は あなたにあって、 あなたの
> 虚像かな ?
> ( わたしの識は わたしの場所で わたしを わたしと ショウコ してるかな ? )
春間さま、春間さまは、わたしがいてもいてなくても春間さまだとすぐわかるのです。
はなまるです。
虚像を結びたくても、実体化したくても、はるまいろです。ながれるいろは、無常の春の間に間に、はなまるはるま。。なに、いってんでしょ。
>
> 世間にあるから、わたしという色 は 虚仮かな ?
四季折々の世間において、常に、春間です。コケちゃう意見ですみません。
それにしても、桜の季節がやって来てますね、世間では。
> 認識とは 実体を伴うことです
> 実体のない認識は 像を結ぶところを
> カイ( 壊す・トク )シツ(失う・基とする・実)する
実際に、像を結んでいるのかどうか、わかりません。
認識しても、実体ではないことはたくさんあります。
残るものが何かを知らせてくれる。
それはことばにならない。
★ [No.13510] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/29(Tue) 21:53:57
> 実際に、像を結んでいるのかどうか、わかりません。
“わからない” ということ は(が) 結実した 思惟のごとく 迷誤される(する)
何がどうあるかが 理に乗らないときに
そういう構造を “わからない” と 片付けます
“わからない” と “わかる” けれど、
“わからない” ことは 何かは 決まっていない( “わからない” )
像は結ばれているけれど、
それを(自我である我は)見ないということを “わからない” と 言い換える
思考であろうと 真理であれば 実体がある
真理は実体として思考できるが、
無明に起きる時、 「 識 」 となる
唯識とは 無明にあるということを
無明にあるままに 唯一“化” できる ということ
( この場合の“化”は 思い ではない )
> 認識しても、実体ではないことはたくさんあります。
認識が実体と同じ なら 「 正理 」 と 呼び得る
たくさんあろうと、
いつも 正対するところは 一つ
一つに正対できて、一つに対処ができれば、
それを “出来る” という
できないこと は 出来ることの前 には ない
( 出来ることを する → 出来る )
あれはできるけれど、これはできない ということは
よく言われるが、 出来ることを確保したいという“欲”に過ぎない
欲から 起きること に “実現” はない
( その時の 出来ることも有る ということは 虚仮に起きる )
物事が、単一のこととして、独立自性を持つならば
一つできるが、もう一つはできないということも有り得る
世界がつながっているのなら
法蔵の先度は 存在する意味があるけれど、
( 後先がないから、後でも同時となる )
独立するなら、小乗に 理がある
認識を どう規定するかで、
さとり と 迷誤を 隔てる か 同質 ““ 化 ”” する 、、、、
> 残るものが何かを知らせてくれる。
> それはことばにならない。
ことばで知る事はかなうけれど
ことばで悟ることはできない
悟りは言葉で表わされるが
言葉に悟りがあるのではない
自分の 状態 = あり様 があって、あり様に対する言葉が 根っこを持つ
(その根っこは 洲にあったり 世間にあったり 、、、、 )
言葉 が なくても
(あなたのように) “洲に” 根っこを持つ ことは 出来る
世間にある言葉は 虚しい( 「空」だ )が、
「根っこがある」 と “言うこと” が 必須なわけではない
言わなくても どこにでも(どちらにでも ) ある
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★ [No.13504] Re: 解脱の実際のイメージ 投稿者: 春間 則廣 投稿日:2016/03/25(Fri) 09:55:30
こういうことは 「弁顕密二経論」 に “顕されている”
何がどう“表わされている”かを 知る者は こう表わされていると知る
( 何を表しているかを知っているものが どう表わされるかを知る )
“ 何 = 理 ” を 知らなければ
表わされていること = 名称 を 受けるのみ
(真) 理 を 知る由にないモノを 無明のモノと呼ぶ
嫌密 に 一仏の所説 ( 宗論はどっちが“勝っても・負けても”自らの恥 )
( 顕密 共にあろうと、 顕のみに 蜜がある )
( こういう表現方法は、般若経典を知る者が知って 知ったように使う )
最澄は、だったら 法華 を とる と言うけれど、
そこに 揀択 という 妄念があるのを見逃している
法華経をとることが 正しければ、 密教をとりなさい !
分かる者には、分かるべきことが存在している
その存在に照らし合わせて、存在を言語に表出させる
表わし方があるのではなく、顕されるものがある
( 表わし方を 本体 と 呼ぶけれど、 その理を知る者は 本体にあらず )
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「不立文字」の開眼おめでとうございます!
翻訳者として経典の「表面」を立てて、一字一句を大切にされる石飛先生が、
表面だけでなく、文字立てしないところの「深さ」を自覚されたことを、
非常に嬉しく思います。
道元や親鸞のものにせよ、不立文字という「深読み」を承認されずに、
よくお叱りを被ったものですが、啐啄同時ともうしましょうか、
自らお気づきなられたことを心よりお祝申し上げます。
敬愛する山本玄峰老師は、「不立文字とは、文字を聞いて、はじめてその意味を
解するのではない。事実を先につかんでから言句を味わうことだ」と言われて
いました。
「禅経験から言語文字を味わえ」「坐ってから読め」と深読みされます。
ですから、『正法眼蔵』の意味を理解するよりも「ただ味わう」ことに心がけ
ています。―――只管読書。
また、空は無限界であるからして、言語を理解する側が言語の限界にとらわれ
ないなら、言語は無限のはたらきをする。
そして、自然のたたずまいも、さまざまな出来事もみな真理や真実を告げてい
る言語であると深読みすることができる。
それは、只管打座という禅定修行のただ中で証されるようです。
禅定の実践の只中で……。
表面言語を立て拘束され、言語からの自由を失っているショーンシャンク様にも、
「不立文字」の開眼を祈るばかりです。
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魚・鳥は、修行の生活をする自己
鳥にとって向かい風は上昇気流となるからマニカナは有り難い。
童子に帰り一発初菩提心を百千万発。『正法眼蔵』「現成公案」巻を初心に
帰り再読する機会を得たことに感謝だ。
「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへ
どもそらのきわなし、しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみずと
りをはなれず」
魚と鳥とは「修行の生活をしている自己」のことじゃないか。
水・鳥は、「自然の摂理」という仏(神)じゃないか。
私は、今ここの修行の生活の途上で、仏という自然の摂理との共に在る
ことを証明して行くことができる。
そんな修行の生活なら歓びに満ちているじゃないか。
その、水・鳥という自然の摂理には際がないという。
永遠の修行、永遠ある八正道、永遠なる六波羅蜜。
永遠なる菩薩行とは、歓びの只中に在った。
歓喜の修行なくして、悟りも仏性も仏も無い。
祇管打座・修証一等とはそういうことだった。
一発初菩提心を百千万発する。修証のまたかくの如し。
春間さん。
8年前のマニカナ道場の投稿を大量に貼り付けているのには何の意味があるのですか?
風性常住の公案というテーマと関係ない過去ログを大量に貼っています。
それは、春間さんが石飛先生から『はなまる』と褒められた箇所だからですね?
それを見せたいために、テーマと関係ない過去ログを大量に貼り付けているのですね。
春間さん、
自分が承認欲求の塊になっているのが見えませんか?
他人に『仏道は行だ、修行だ、おこないだ、生き様だ。』と説教する前に、自分の心を洞察して、自分が承認欲求に踊らされていることを気づくべきです。
このような生き様を見て、共感する人はいないでしょう。
芳和さん。
芳和さんと春間さんは、いつも石飛先生に上から目線で教えてやるというスタイルですが、
『啐啄同時』はさすがに酷すぎないですか。
『啐啄同時』の意味を本当に知っていますか?
本当の意味を知らないか、知っているとすれば石飛先生に無礼きわまりないですよ。
芳和さんと春間さんは、まずは自らの承認欲求の枯渇に気づいてから悟ったふりをしてください。
承認欲求に振り回されている二人が、いくら『俺は悟ってる』と言っても、悟りとは程遠いと思います。
*
あなたには、 そういう意味があるだけ
あなたの世界で起きる あなたの解釈( 判断・分別・理解 )
そのように解釈する世界 で
あなたは 「 生 」を 楽しむ ( 苦しむ )
その 「 生 」・ 「 世間 」 で
好きなように 生きて行けるかな ?
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またあ(笑)
図星のくせに(笑)